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佛教大學大學院研究紀要 06号(19780314) 095並川 孝「説一切有部のダルマ体系についての一考察」

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(2)

九 六 れる。二十三領

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の 根 本 命 題 と は 、 付心ど心所とは互いに離れてはありえず、必らず共にあることにより各々のダルマが生起し、 ゆ心、心所、色、心不相応行の有為法は生、住、異、滅の四有為一向と共に生起し、 国更に、有為法は得と共に生起する。 の三点である。この中、付の命題は相応論として詳細に論じられ、ゅの命題は有為法の時間的経過、即ち剃那滅の 理論どして述べられるが、自の命題は独自の理論どして展開されるこどはなく、ただ法を得るという働きの心不相 応行中の一ダルマとして説示されるに止まる。しかし、二十三領に記されるように、得のダルマの体系における意 義は大きく、有為相と並ぶダルマとして規定されなければならない。有為相をダルマの時間的側面と理解する時、 得は観念論的な因果律としてではないダルマ体系の相互的論理的関係の側面ど解さなければならない。すべての有 為法がダルマとして生起することができるのは、この時間的契機としての有為相と論理的契機としての得の働きに よるもので、有為法である心、心所も当然このニ契機をもってダルマとして生起できるのである。このように考え る時、この二要素によって、すべての有為法のダルマの体系が支えられ、その体系の論理に統一が与えられている ことを知るのである。 そこで、心、心所法を論点として、有為相ど得どを考察することは有部のダルマの体系の基本的構造を明白にす ることに他ならない。本論では、この根本命題に立脚しつつ、有部のダルマ体系の一面を相応論を中心として探ろ うとするものである。 ② ①

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− H V 切 h ι ﹁ ロ − h p l H 0 ・ 有 為 相 に 関 し て 、 有 部 で は 、 生 ︵ 起 ︶ ・ 住 ・ 異 ︵ 老 ︶ ・ 滅 ︵ 無 常 ・ 壊 ︶ の 四 有 為 相 説 が 主 流 を 占 め た が 、 発 智 論 の 異 訳 と さ れ

(3)

る 八 程 度 論 に は 生 ・ 老 ・ 無 常 の 三 有 為 栢 説 が 立 て ら れ て い る 。 尚 、

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包 皆 吾 川 洋 宮 ︶ の 三 有 為 相 説 が み ら れ る 。 得 自 体 は 有 為 法 で あ る が 、 そ の 作 用 が 及 ぼ さ れ る ダ ル マ と し て は 、 す べ て の 有 為 法 と 、 無 為 法 の 摂 滅 ・ 非 訳 滅 と で あ る 。 ③ 本章では主に心所法について論述するが、具体的内容に入る前に先ず心所法の定義について吟味する。 先ず最初に法親足論において行癌が心相応行と心不相応行とに二分された前者で説かれたが、ここでは定義は示 されておらず、品類足論になって初めて ② 払心所法云何、謂若法心相応 ど定義される。更に婆沙論には む若法輿レ心相応、彼法輿レ心一起一住一滅謂一切心所的 ④ 弘間何故名日一心所六答是心所有故 どあり、註釈書類では普光の倶舎論記に、 ① 心 之 所 有 故 名 = 心 所 一 、 応 レ 言 日 一 心 所 有 一 。 4 L U

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が﹁心と相応するもの﹂として、

b

が﹁心が所有するもの﹂というニ 面より定義されていることが判る。又、 ﹁心ど相応するもの﹂という定義から﹁心が所有するもの﹂へと展開して 説 一 切 有 部 の ダ ル マ 体 系 に つ い て の 一 考 察 九 七

(4)

九 /¥ いることも判明する。この両義に基本的な相違があるとはいえないが、心所法に対する考え方がどのように展開し てきたかを知る上でこの区別は必要である。法羅足論の心相応行と他の心所法とが意味的に同じであるとしても訳 語の違いは明白である。玄笑という同一訳者によって訳語が心相応行と心所法とに区別されることは原語の相違を ⑦ 示すことに他ならない。有部論書に限って言えば、心所法という語は玄突によるものであるが、その原語を﹀閃

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・ でみると

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広 州 訪 日 付 m w に相当し、一方、心相応行に当たる原語は直接﹀同

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・には見当たらないが、類似した ものとして、巳

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の用例が見い出される、即ち、心相応行と心所法とは原本におけるの昨窓口 ω ・

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− m日付”は﹁心の﹂という形容詞で、その訳語の心所法も心所有法の意味であるから、共に﹁心に属する、心が所有 ③ する﹂といった意味となり、ここに、心相応行と心所法との区別が認められるのである。法難足論で二分された一 方の心不相応行が後に至る迄、心不相応行公正午

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将 司 ロ Emw ︶として継承されたのに比較しても、心相応行から 心所法への置換は意義のあるものと言えよう。いみじくも、和辻哲郎氏が心所法と心相応行とを別個に定義された ① のも、また違った意味で妥当性をもつであろう D このように考えると、心所法の定義の展開は、法擁足論で﹁心と 相応するもの﹂と考えられたことが、品類足論、婆沙論

a

で﹁心が所有するもの﹂と一体佑されたことを知るので あ る 。 心所法は法葱足論以後詳細に論究され、分類整理される。その分類方法は大別するとニ系列になる。その一は法 ⑬ ⑬ ⑫ 慈足論窓口問、品類足論弁五事品、入阿毘達磨論にみられる分類である。今、法慈足論のそれを記すと、 謂受想思触作意欲勝解、信精進念定義、尋伺放逸不放逸、善根不善根無記根、 一切結縛随眠随煩悩纏、諸所有 智 見 現 観 、

(5)

で、これに従ったのが品類足論弁五事品で、これらに備、悌、軽安、不害、捨、欣、厭、不信、僻怠等を加えたの が入阿毘達磨論であり、これは素朴な形態をとる分類方法である。これに対するのが地法を中心とした分類で、界 ⑬ 身足論に最初に設定されて以来ほとんどの論書に採用される。この分類、を論書によって表示すると次のようになる。 一 大 不 善 地 法 一 小 煩 悩 地 法 一 他 の 分 類 研 一 課 注 目 鶴 一 一 ︶ 一 五 頁 悩 、 五 触 、 五 一 一 一 ③ 小 煩 悩 地 法 紅 一 見 、 五 根 、 五 法 一 一 一 ① 小 煩 悩 地 法

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一 一①不善大地

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写 大 煩 悩 地 法 的 w 一 ④ 大 不 善 地 法

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否小煩悩地法側一不定地法

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一 貧 、 膜 、 疑 、 慢 頗 正 理 論 一 ① 大 地 法

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一 ① 大 煩 悩 地 法

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一宗煩悩地法

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一 貧 、 腰 、 疑 、 慢 表 中 の O 内 は 配 列 順 序 、 ハ 内 は 法 数 を 表 わ す 。 尚 分 類 か ら 除 外 さ れ た 主 な 心 所 法 と は 、 地 法 を 中 心 と し た 分 類 の と こ ろ で 説 示 さ れ な い が 、 他 の と こ ろ で 記 さ れ る も の を い う 。 説一切有部のダルマ体系についての一考察 九 九

(6)

OO 心所法分類の基盤となる地法とは何であるのか O K F 同

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伊豆︶に換言している。心所法の行く場、或いは生起する場が心所法 の地であると解釈されるが、同じ倶舎論釈の普光は ⑬ 地 謂 行 処 、 即 是 心 玉 、 若 此 心 王 是 彼 心 所 所 行 処 、 即 説 一 一 此 心 王 一 、 為 コ 彼 心 所 法 地 一 、 と、地を行処とし、それは心玉に他ならないと註釈する。ここでは﹀閃 Fkr 関戸で明記されなかった心所法の行 ⑫ く場・生起する場を心玉と規定しているが、この立場は順正理論にも示されている o k r 同

σ

・ k r 関戸の説からだけで は 地 H 心玉と決定し難く、それはむしろ単に大地法等の諸地法を各々の心所法の基盤としての場であると考えられ る。この両義は地を狭義に捉えたものと、心所法は心に属するものであるから地法も当然その場が心中にあるとい う広義の解釈に立ったものと言える。ところで、先述した心相応行と心所法の語の転換に関連さして考えると、地 法の出現は心相応行の法麗足論と心所法の品類足論の中聞に成立した界身足論に最初に見い出されるので、この地 法の設定が心相応行から心所法への契機となったものと仮定すれば、地の意義は心所有といった意味合いが強く、 地という心所法の生起する場を心玉と考えることも可能であろう。 これより諸地法の定義をみて、それらの区別を考察する o k r 閃

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︶は三界繋ど不繋、三性、 六識すべてを意味するから、大地法はそれら一切の心中に容在し、大善地法、大煩悩地法、大不善地法は各々、善、 染汚、不善の心に常に字在し、小煩悩地法は限定された|| i 無明、修所断、意識ーーー心とのみ相応するとされる。 これら五地法は内容面から単に並列的にみられるものか、或いは何らかの関係を有したものかを吟味しなければな @ らない。雑阿毘曇心論はその関連を善、不善、無記の三性で区別立てている。それを図示すると、 一 | 善 と な る 。 こ れ を 見 る と 大 地 法 の 善 は 大 善 地 法 の そ れ と 一 致 し 、 同 也 | 寸 不 善 様 に 大 地 法 の 不 善 は 大 不 善 地 法 、 大 煩 悩 地 法 、 小 煩 悩 地 法 と 、 有

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隠没無記 一 覆 無 記 は 大 煩 悩 地 法 、 小 煩 悩 地 法 の 証 、 詔 、 僑 の 三 法 と 対 応 す る ﹁不隠没無記 ことが知れる。大地法があらゆる心に容在するのに対して、他地 法が特定の場合に容在することは大地法が他地法を包摂すること であるから、大地法を基準にして諸地法の関係を図示し直すと次 大 善 大 煩 l悩 大 地 || 隠 不 没 善 無 記 不 善 大 地 不 善 の よ う に な る 。 それ自体の属性を意味する。婆沙論に十大地法の言い換えとして 十大無覆無記地法と記されていることや、大地法の各々の心所法 が善でも不善でもない性格を有していることからも判明する。大地法は界身足論以来順正理論まで一定して継承さ 一

l

不善 | 小 煩 悩 大 地 | 一 l 証・諮−高|﹁境保無記 ﹁他の七法ー!不善 ここで無覆無記を所依とする地法が子しないが、これは大地法 説 一 切 有 部 の ダ ル マ 体 系 に つ い て の 一 考 察

(8)

ー ︵ 善 ︶

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−−大善地法 各々のダルマとその定義は、 作用、思︵

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b m w ︶ 大地法| 一 ! 大 煩 悩 地 法 | ︵ 有 覆 無 記 ︶ l 一 ﹁ 小 煩 悩 地 法 ︵ 誼 ・ 諮 ・ 情 ︶ ー ︵ 無 覆 無 記 ︶ | | これらから、大地法は善、不善といった倫理的色彩の全くない、ただ個体の手続にとって不可欠なダルマの集合と 理解できる。漢訳資料では各々のダルマを定義する際、必ず、於レ縁、於レ境という語が付けられている情それは 知覚、認識に関するダルマを意味することに他ならない。これらは、その作用が受から順次に生起するかどう何は 別として、各々別個に作用することでその任務が遂行されることはない。一対象を知覚するためにはそれらのダル マがすべて作用しなければならないからである。﹀同

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\ と、あらゆる心の利那に総てのダルマが容在するとされることからも察知できる。大善地法やその他の地法が倫理 的統一の内にダルマ各々を並列的に羅列されているが故に、別個に作用してもその任務を果し終えるのに比較する と大きな特色である。倫理的性格のダルマが作用する前段階的作用として大地法が定立されなければならない。ま た、大地法の定義に

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という場を示す副詞が用いられているのに比べて、他地法の場合は

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という時間を表わす副詞が用いられている点も考慮に入れる必要がある。このように見ると心所のダルマ

(9)

@ 体系には大地法群と他の諸地法群との二重構造が認められる。 ところで、不善の中に大不善地法と大小の煩悩地法とが含まれるが、語の上から両者の区別がなされている。婆 @ 沙論は二説を紹介する。 悪 輿 一 一 不 善 一 何 差 別 、 答 悪 謂 有 覆 無 記 、 不 善 謂 諸 不 善 悪謂色無色界及欲界少分染法、不善謂欲界多分染法 有覆無記は大煩悩地法と小煩悩地法の三法、三界の染法とは両煩悩地法であるから、煩悩地法は不善に対して悪と 規定される。不善の概念は悪のそれより一層汚れたものと位置付けられる。 ここで、向はどのように論述されているかをみる o 心についての論究は識身足論に終始する。六識身、四種心、 六種心、十種心、十二心、十五心が記述され、以後の論書では婆沙論が十二心を採用し、新しく二十心を設定し、 倶舎論、順正理論で十二心、ニ十心を説いているに過ぎない。一般に心としての定置を得た六識身を識身足論で考 察するが、それは六観点よりなされている。 @ 補特伽羅との関係について @ 了別作用について @ 四縁との関係について @ 三世の六識身と三世の因縁との関係について @ 三性の六識身と三性の因縁との関係について @ 三世、三性の六識身と結、縛、随眠等との関係及び六議身の起染と離染とについて 付 に ) 国 制 伺 内 説 一 切 有 部 の ダ ル マ 体 系 に つ い て の 一 考 察

O 三

(10)

O 四 同 日

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付は因縁ど一一一性、三世で六識身が述べられるのみで、その内容は究明されていない。付は認識成立における各 々の作用の所依性を論証し、補特伽羅を否定してはいるが、六識身自体には論究していない。唯一口のみに六識身 の作用が見い出される。六識身の了別作用は二面から説かれるが、その一は十二処、十八界の範轄における六識身 各々の認識対象という形式論的記述に対して、他は了別作用を具体的に表現している。 眼 識 唯 能 了 コ 別 青 色 六 不 三 能 了 コ 別 此 是 青 色 一 、 意 識 亦 能 了 コ 別 青 色 一 、 乃 至 未 三 能 了 コ 別 其 名 一 、 子一能了コ別此是青色一、若能了コ別其名一、爾時亦能了コ別青色、亦能了コ別此是青% これは眼識︵例は異なるが他の四識も同様︶と意識の青色に対する了別作用の差異を眺めたものである。眼識の了 別作用を直接知覚、意識を推量と呼称することはともかく、両者共に認識作用が与えられている。その作用を大地 法のダルマの作用と合致させると、眼識は先ず認識成立のための基本的条件として受、思、想、触等のダルマが前 提となるが、悟性的要素としての慧、念、勝解等のダルマは認められない。意識はその基本的要素の他に悟性的要 素としてのダルマも必要とする。要するに、ここに説示される六識の作用は大地法のダルマの作用と重複している。 心所法は心中に杏在する︵

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伊国︶ものであっても相応するものであるから、心と心所法とは全く別個で主 @ 従関係によって成立する。大地法も当然心ではないから、心と同一作用を有することは予盾を来す。心に了別作用 を認めるならば大地法は不必要で、大地法を設定するのならば、心にそのような作用があってはならない。心とは 本来的に心所法の生起する場︵場とした理由は、諸地法の定義の中で

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が用いられてい ることによる︶として考えられることが整合した理論と言えよう。たとえ、心と心所法との差別が微妙なもの ⑩ ︵ ω 回 目

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であっても、このような不整合な説には問題が残る。ただ、識身足論が心所法 理論前の論書であるという点は考慮に入れなければならないであろう。識身足論以後、心やその作用について詳細

(11)

に 論 究 さ れ な い こ と と 、 識 身 足 論 の 後 に 界 身 長 で 大 地 法 理 論 の 設 定 が

3

2

2

2

考え合わす時、、特心所 法の場としてのみ考え、作用を有さないものと定立したのではないかという仮定もここに成り立つであろう。 ⑦ ⑤ ③ ① ① ② ① 大正二六、五 O 一 頁 b 。 大正二六、六九二頁 c 。 大正二七、七八七頁 b 。 大正二七、八 O 頁 b 。 大正四一、七三頁 b o k r ︿ ・ ︼ ν

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少なくども有部論書の玄英訳には次の三点に考慮を要す。

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大部の翻訳が大訳場で行われたが故に、訳語の統一にほ注意が 払われたとしても、必ずしも同一訳者によってなされたものではないことと、玄英訳場における加筆問題について、

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玄 英 訳出年時は原本成立の順序と比較すると、ほぼ逆行している。その訳出年代の順序の大局を示すと、識身足論←顕宗論←倶 舎論・願正理論←入阿毘達磨論←法窺足論・婆沙論←品類足論・発智論←集異門足論・界身足論の如くである。

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玄英訳場 の凡潮として六足論に対する消極的関心が認められる。尚、春日井真也氏﹁玄英三蔵のアピダルマ学の特相﹂印仏研一巻二 号四七八頁 i 参 照 。 真 諦 訳 に ほ 、

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持 m w を心相応法と訳しているところがある。 因に、和辻氏の説を掲げるど、心相応とは﹁心どともに生じ、ともに佳し、どもに滅するという関係にあることを意味する。 受、想、思、触、作意以下、もろもろの煩悩やもろもろの智見は心意識の作用とともに起こりともに滅する作用である。﹂ 心所法とは﹁これらの心理作用は能了たる心意識の作用において所知所了となるどころの心理作用である。﹂和辻著﹁梯教 哲学の最初の展開﹂全集第五巻三八二頁。 大正二六、五 O 一 頁 b 。 大正二六、六九二頁 c 。 大正二八、九八一頁

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九八二頁 a 。 水野弘元著﹁パ l リ梯教を中心とした心識論﹂一ニ一一頁!、勝又俊教著﹁梯教における心識説の研究﹂三六二頁

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の 図 表 を ① ③ ⑬ ⑬ ⑪ ⑮ 説一切有部のダルマ体系についての一考察

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(12)

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(13)

合である。受以後の国列は複雑に異なっている。この配列順序を勝又氏が述べるように、精神現象の成立過程と見倣すなら 意義がある。唯識論書では受ほ五遍行の一に数えられ、その配列順序ば大乗阿昆達磨集論を除き、最初に掲げられていない。 この点が有部論書と大きく異なる。その意味で受の配列煩序が最初であることは、有部の︵素朴︶実在論を想起さすもので あ る 。 勝 又 俊 教 氏 、 前 掲 書 、 四 一 一 一 二 頁 ! 参 照 。 HymAFHHU ・ 出 − J1 ・ の

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氏は心と諸地法の関係を、心を中心とした同心円内にまとめている。﹁この図表はアピダルマの論点を言 い尽すことができず、ただ手引きに過ぎない﹂ど断わってはいるが、根本的に問題がある。思江戸

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・ ℃ − M O O − M V ・ M o m ・ 大正二七、七二四頁 c 。 心・意・識の三語の同異についてみると、婆沙論に二説が紹介される。その一は三語には何の 区別もなく、本質的に同一であるという説で、他は名差別、世差別、施設差別、義差別、業差 別の五種に区別される説である。倶舎論、順正理論ほ前者を受け、雑阿毘暴心論ほ後者の説を 記述する。この中、義差別について吟味すると、下の表によれば、婆沙論の義差別が、他の論 書での心は集起、意は思量、識は了別どの意義に比較して相違している。心︵の目立との語根は − \ 巳 意 ︵

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~I 心|意 l 識

婆 沙 論 | 種 族 | 生 内 | 積 索 雑阿毘曇心論|集起|思量|別知 五事毘婆沙論|採集|依趣|了別 居 品 喜 岡 思 量 ! 了 別

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(14)

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N ω ・ こ の 心 心 所 別 体 説 は 、 他 の 教 理 、 例 え ば 根 見 説 の 成 立 理 由 と も 係 わ り を も っ て 考 え ら れ る の な ら 興 味 深 い 。 心心所別体を採用する説では、心と心所法とが結合することにより初めてダルマ各々の作用が完遂されうるので あるから、そこにはその結合の仕方としての相応論が説かれなければならない。相応論は、いずれの心といずれの 心所法どが相応しうるかという論点ど、相応そのものの意義についての二点より考察される。先、ず前者についてみ ① ② ③ ④ ③ ③ るといに﹂の本格的な相応論は界身足論に始まり、婆沙論、阿毘曇心論、阿毘曇心論経、雑阿毘曇心論、倶舎論、順 正理論に説かれ、順次改善され詳細となる。この改善と詳細とになるということは、主に心の分類に対してなされた ③ ものであり、心所法の方は多少の変化があっても、大凡、地法を中心とした分類で一定している。この心の分類を 界身足論は六識、婆沙論は十二心と六識とし、阿毘曇心論、阿昆曇心論経は欲界を不善、隠没無記、不共無明、善、 不隠没無記に、色界初禅、中間禅、第二禅以上を隠没無記、不共無明、善、不隠没無記にし、雑阿毘曇心論は更に 欲界の不善を貧、腰、慢、疑、邪見、見取、戒取、不共無明に分け、倶舎論、順正理論は欲界を善、不共無明相応、 鈴煩悩相応、有覆無記、無覆無記に、色界以上を善、不共無明相応、徐煩悩相応、無覆無記とする。界身足論は識 身足論で説かれた種々の心分類の中六識身を、婆沙論は十二心を採用し、阿毘曇心論以後は十二心、二十心を改良 した分類に基づいていることが判る。このように相応論は心の範時論の進歩と平行して改善されたのである。この 相応論は界身足論と婆沙論以後とに大別できる。前者は六識各々と大地法、大煩悩地法、小煩悩地法、五煩悩、五 見、五法︵識を除く︶とが常に相応するのか、時によって相応するのかを論じているのに比べ、後者は心に修道階

(15)

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説 一 切 有 部 の ダ ル マ 体 系 に つ い て の 一 考 察 位を取り入れ、心所法との相応において、いかなる心所法 が或る階位において消去するのかしないのかといった点、 即ち悟りへの過程の中で生起しなくなる心所法と生起し続 ける心所法とを論じる。そこで、後者の中で最も基本的な 相応論を唱える婆沙論の説を表示する。この婆沙論の説は 心の分類においては後世の論書より未熟であるが、六識と の相応を述べていないそれらの論書と比べると、界身足論 の説を受け折衷されている点が良い。この表を見ると、先 述した心所法︵地法︶の定義はこの相応論に従ってなされ ていることが判るであろう。 ① 相応の意義については、婆沙論に四事等、五事等等の二 ⑮ 十五種の説が紹介されるが、その中、五事昆婆沙論を除い ⑪ ⑫ ⑬ て五傭平等説が阿昆曇心論経、雑阿毘曇心論、倶舎論、願 正理論に継承される。このように一般的な説である五事平 等説とは、心と心所法とが相応する時、所依︵凶

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(16)

一 一 O 事等故、若一心中二想二受者、非一一相応義一以一二心二想生、歓心法亦爾、 時等者、一利那時生故、 依等者、若心依レ眼生、心法亦爾、 行等者、若心行レ青生、心法亦爾、 因縁等者、若心縁レ色生、彼亦縁レ色、 ⑬ ⑪ と記す。この説は心と心所法一般との相応に際する五条件であるが、意味を吟味すれば二分することができる。即 ち、付門刊と日同門伺とであるが、前者は心と心所法とが相応する際の論理と時間との構造をいうのであるから、それ は心所法一般のダルマに適応されうるが、後者は認識上の問題で必ずしも心所法一般に相当しうるものかは疑わし い。同を例にどると、若し心が青を行相とすれば、それに相応する心所法も必ず青を行相として生ずるわけである が、その心所法が先述した如く認識の作用としての大地法であれば問題はないが、価値性を有した他地法の心所法 の場合は別である。何故なら、価値は認識判断の結果、初めて生じるものであるから、同一行相を知覚しても、そ 価値の相違性の故に必ずしも同一視されえず、青を青と知覚しえない部分があるからである。こう考えると、国同 ⑬ 国は果して心所法一般に適用される相応条件と見倣せるかどうかは不明である。心所のダルマ体系は意味上から二 重性が考察しうるにも拘らず、ただ心所法を羅列し、一面的に相応論で如何なる心と相応するかという点を捉えた ⑬ に止まり、その論究が全く見当たらないのは明かに不備と言わざるを得ない。 ところで、付口は有為法一般における法別であり、ダルマ体系の根本となる条件である。この相応条件を成就さ 付 仁ヰ

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伺 すダルマが心不相応行中に説かれ、付が得、口が有為相であると言える。次章はこの得を中心に考察する。 ①大正二六、六一六頁

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(17)

⑬ ① ③ ⑦ ① ⑤ ① ③ ② 大正二七、二二 O 頁 b

c o 大正二八、八一一頁 a i b 。 大正二八、八三七頁 b i c 。 大正二八、八八一頁 ci 八 八 二 頁 b 。 大 正 二 九 、 二 O 頁 b i c 、 ﹀ ︸ 拘 ず −

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− − 区 ・ 大正二九、三九二頁 ai 三 九 三 頁 a 。 個々の心所法については相応論の進展とともに多くの改善がなされる。 大正二七、八 O 頁 ci 八 一 頁 a 、四事平等説は、五事平等説の物体等︵事等︶を除いた説である。 大正二八、九九四頁 b ﹁同一時分、同一所依、同一行相、同一所縁、同一果、同一等流、同一異熟﹂の七種の義を示すが、 五事平等説の事平等が除かれており、代りに同一果・同一等流・同一異熟が設けられている。 大正二八、八三七頁 a 。 大正二八、八八一頁 a 。 大正二九、二二頁 a 。 大正二九、三九四頁

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︶を掲げ、この所依、所縁、行相に時、事の二種を付加されたもの が五事平等説であるから、この意味でも二分できる。

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︿ . ・ は 五 種 を 各 々 ﹁ 受 等 の 心 所 ﹂ ﹁ 受 ・ 想 ・ 思 の 心 所 ﹂ と 註 釈 し て い る が 、 こ れ は 大 地 法 に 限 定 し た も の で は な く 、 心 所 法 一 般 の 一 例 ど し て 掲 げ ら れ て い る に 過 ぎ な い 。 前 掲 頁 。 但し、心所法が心との相応という機械論的側面にのみ重点が置かれたのは、有部のダルマ体系の主旨が一切現象の究極の要 @ ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ ⑫ ⑪ ⑬ ⑬ 説一切有部のダルマ体系についての一考察

(18)

素 の 設 定 に あ り 、 そ れ は 現 象 一 切 に 対 す る 帯 在 論 的 考 察 に 主 眼 を 置 く こ と に あ っ て 、 認 識 論 的 考 察 は 、 そ の 範 囲 で は な か っ た か ら だ と も 言 え る 。 ① 心不相応行法の設定は、成実論に日く、 ② 有諸論師、習外典故、造阿毘曇、説別有凡夫法等 との如く、仏教外の説の導入にあったとしても、特に得、有為相は独自性のもとに有部のダルマ体系の中で重要且 つ不可欠なダルマとしての位置を占める。 ③ 得は法撞足論で得、住得、事得、処得という語のみが掲げられ、品類足論になると、 得 云 何 、 謂 得 − 一 諸 手 、 依 得 云 何 、 謂 得 一 一 所 依 処 一 、 事 得 云 何 、 謂 得 一 一 諸 施 一 、 処 得 云 何 、 謂 得 一 一 内 外 齢 、 ⑦ と伊義される o この得、依得、事得、処得の列挙法は品類足論弁五事品系統とされる阿昆曇五法行勧薩婆多宗五 事論と、その他では甘露味論に継承されるが、その系統本以外と甘露味論以後では、依得、事得、処得の三は消去 ① される。これは婆沙論に十一一種の所得法が記されて、この三の所依処、諸窺、内外処はその中に含まれるものとし、 重複を避ける意味からも消去されたのである。また、得は初期から同種の術語を有していた。婆沙論に、

如ニ施設論説一、得云何、謂獲成就、獲云何、謂成就、成就云何、謂獲得、得獲成就声、雄レ有レ別而義無レ異 と、施設論のような初期論書より、得と同類の名があったことを示し、そしてその得、獲、成就は同一であると規 ⑮ ⑪ 定する。阿昆曇心論経、雑阿昆曇心論も得と成就とは一義であるとするが、倶舎論では、 一者未レ得巴失今獲、二者得巳不レ失成内 得 有 − 三 種 一 、

(19)

の如く獲︵留ま︶ほ過去と未来のものを霊化する得、成就︵

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ヨ︶は現在十時得ているという得とに区 ⑬ ⑬ 別している。順正理論もこれを受けている。このような得に対して、有為相は八鍵度論の三有為相説以外、生、佳、 異、滅の四有為相説が法薙足論より一定して展開される。この得、有為相が詳細に究明されるのは、婆沙論と倶舎 論、願正理論とである。しかし、その論は非常に煩潰哲学的なものであり、今、その煩を恐れて、その中の基本的 且つ重要な論点にのみ絞って考察を加える。 ⑬ 有為法の生滅はそのダルマ自体の本来的作用でほなく、生、住、異、滅各々の作用により成立するのであると同 ⑪ 様、有為法がそれ自体として現前化するには、ダルマを結合さす得の作用による。パ l リ仏教では、色法や心心所 ⑬ 法を動かすものはそれ自体のダルマであって、他のダルマによって動かされることがないという考え万に比較する 時、得、有為相はダルマ体系の中枢として、その独自性が問われなければならない。 先、す、得はどのような法において帯在するのかと言えば、それは自己の相続内にあって、他の相続においてはな 町ということてある o これは室内足論で説かれる八世法の得とは異なる o @ 云何名レ得、答若於可愛色声香味触、衣服飲食臥具病縁医薬資生什物、諸得別得巴得当得、是名為レ得 こ の 場 合 の 得 ︵ ︼ 凶 ず HMm ︶は自己相続外の諸物を得るということであり、 指すのではない。この自己相続内とは得の及ぼす領域をいうのであるが、それは具体的に三種ある。 得︵

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宮 山 ︶ はこのような自己外のものを 一 有 為 法 得 、 二 択 滅 得 、 三 非 択 滅 得 、 有 為 法 得 、 随 − 一 所 得 法 一 性 類 差 別 、 以 下 有 為 法 能 有 − 一 作 用 一 引 中 自 得 ム 故 、 択 滅 得 、 随 − 一 能 詮 道 一 性 類 差 別 、 以 三 諸 択 滅 自 無 − 一 作 用 一 、 但 由 − 一 道 力 一 求 レ 詮 、 彼 時 引 − 一 彼 得 一 故 、 非 択 滅 得 、 随 コ 自 所 依 一 @ 性 類 差 別 、 以 三 非 択 滅 自 無 − 一 作 用 六 非 − 一 道 所 求 一 @ この中、有為法の他に無為の二法が加えられる理由は、無漏の法を倶なわなければ有情は煩悩の束縛から解放され 説 一 切 有 部 の ダ ル マ 体 系 に つ い て の 一 考 察

(20)

一 一 四 @ ることがないからである。しかし、どの者も虚空を倶なわないから得は虚空に作用できない。これに対して有為相 ︵ ω m w 同 町 ω ︸円吋宮−

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・−︶は語の如く、すべての有為法において評するものである。 得と有為相との両者は一所に説示される場合が多く見受けられるが、これは両者に同一次元で論じられる意義を 有するものがあるからであろう。世親は先ず両者の意味の陵昧さを指摘し、有部を批判する。世親は、 @ 共に生じた得を因とするならば、生、或いは生生は何の作用があるのか、とダルマが生起する因は得と生相のいず @ れになるのか不明瞭であるとの指摘を提起する。それに対して有部は、得は生起の図ではなく、差別の因である、 @ と答える。そして、この差別とは聖者と凡夫とであり、その相違を起すものが得であると言う。このように得は有 為相と共にダルマにダルマの有する働きを起こさせるものであっても、生起とは無関係で、ただ区別する作用と規 定される。得は或るダルマと或るダルマとを和合させる作用であるから、その得きしめられるダルマの相違により、 顕現するものも左右される。故に、得は生起の因ではなく、差別を起す因であるのは当然である。このように、得 ︹ 本 法 と ︺ と有為相とは各々、ダルマに生滅と結合との作用を及ぼすものであるが、その作用及ぴ在り方に相違が見られる。 婆沙論で、有為相は世第一法であるが、得はそれにあらずとし、その理由を、 得 定 非 一 一 世 第 一 法 一 、 得 一 一 聖 果 一 巳 、 順 決 択 分 不 コ 童 超 一 故 : : : 生 等 輿 レ 彼 同 一 果 、 無 レ 後 、 相 興 一 一 所 相 一 未 − 一 嘗 相 離 、 由 レ 此 亦 是 世 第 一 法 、 得 奥 日 一 被 法 一 不 一 一 同 一 果 一 、 @ 或 前 或 後 、 得 興 一 一 所 得 一 有 レ 時 相 離 相 随 行 不 − 一 相 離 一 、 常 和 合 無 レ 前 不 − 一 相 随 行 一 、 性 相 離 不 − 一 和 合 一 、 と説明する。これによれば、得はそれの作用を及ぼすダルマヒ同一果を有さず、互いに随行せず、性相が離れて和 合せず、又、時間的にも、同一利那の時や異剃那の時もあるが故に相離れているとする。有為相の所相における親 和性に比較して、得のそれは弱劣なのである。

(21)

得、有為相は他のダルマを作用せしめるのであるが、両者自体もダルマとして他に動かされるものでなければな らない。婆沙論によると、 @ 以 一 一 一 得 皆 有 一 一 生 住 異 滅 一 、 生 等 復 有 三 得 輿 − 一 得 得 六 彼 得 得 得 復 有 一 一 生 等 六 : : : 法 輿 − 一 生 等 一 同 一 得 得 、 と、得自体に有為相各々があり、有為相各々にも得と得得とがあるとされる。得は生等の作用を受けて生滅すると 同様、得得によって起こるのであり、又、生等の有為相はその作用を及ぼすダルマど和合するために同一の得と得 得が必要なのである。得、有為相は自己以外のダルマに対するだけでなく、 ある。ここで、得得という語が見られるが、これは得を得さしめるものとして設定されたのである。 @ 由 レ 得 故 成 コ 就 彼 法 及 得 得 一 、 由 − 一 得 得 一 故 成 コ 就 得 一 、 一ダルマとして相互に作用し合うので これによると、得によって本法と得得が得られ、得得によって得が得られるとするが、これは、得が得得によって 得られるのならば、得得を得さしめるものとして得得得の設定が必要となるような停まるところのない難点を解消 するための論理である。この論理は煩蹟哲学の所産として無意味なようであるが、ここにはダルマ体系に関する大 @ きな意義を苧んでいるようである。この得、得得と同一の論理は有為相にも見られる。即ち、生生、住住、異異、 滅滅であるが、この論理はダルマ体系の中では、唯、この両者にのみ認められるもので、他には在在しない。この 得灯得得、生灯生生等の設定は、ダルマ体系の論理的終結を意味する。又、ダルマ体系の構造に内包される論理の 始点でもあり究極でもある。この論理を得と有為相との両者に与えられているということは、各々、異なった作用 に分けられていることに他ならない。即ち、時間的要素としての有為相と論理的要素としての得である。この二要 素によってダルマ体系が操作され、支えられている。このように、得得、生生等の設定は、単に煩演で無価値なも のでなく、ダルマ体系を理解する上で、非常に重要な説であると言えよう。 説 一 切 有 部 の ダ ル マ 体 系 に つ い て の 一 考 察 一 一 五

(22)

一 一 六 更に、二要素に分ける立場は一利那の考え方にも見受けられる。 一刻那を定義する時、この得と有為相の両面か らなされているからである。それを示すと次の如くである。 @ 一 刻 那 皆 具 − 一 四 相 一 、 @ 一利那三法倶起、一法、二得、三得得、

国 @ 以 三 得 皆 有 一 一 生 住 異 滅 一 、 生 等 復 有 − 一 得 輿 得 得 六 彼 得 得 得 復 有 − 一 生 等 一 、 : : : : ・ 或 此 諸 法 皆 一 剃 那 倶 生 而 滅 、 付は四有為相、口は得、同は両者について、一刻那の定義を示している。一刻那は時間的推移の最小単位として考 えられ、その時間的な面のみで把握されるのが普通であるが、ここでは、それ以外に、得という論理的な面からも 規定される。ダルマで一切を考察する立場か、りすれば、当然とも言えるが注意を要する点である。但、先述した如 く、得は有為相に比較して、得とその作用を受けるダルマとが同一刻那の時も異利那の時もあるとされたが、その 資料は有為相と作用が及ぼされるダルマとの親近性を強調するためのものであるという点を考慮に入れるならば、 同国で説かれるが如く考えるのが妥当であろう。このように、一利那はダルマによって定められ、且つ、得と有為 相という論理と時間との二側面より考察される。換言すれば、ダルマがダルマとしての作用を現わすための最少の 単位ど考えられているのである。 得がその作用を起す時、その作用を受けるダルマどの聞に、善、不善、無記の三性の統一がある。善、不善、無 @ 記には、各々善、不善、無記の得があって、各々の間にのみ作用が働くのである。善の得に不善のダルマが作用し @ 合うような不整合は認められない。三界繋の場合も同様である。この統一は心心所法が相応する際、得によるダル マ聞の結合における一貫性を意味するものである。このように、ダルマの結合は相応論でも見たように、三性を中 心として統一されていることを知るのである。

(23)

得と有為相の問題は種々の角度から考察し得る多くの内容を有しているのであるが、ここでは、その基本的な一 部のみを取り上げた。ダルマ体系のもと、 得、有為相の理解は、 ダルマの定義を従来からの任持自相︵毛色

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に対して新しい側面を加味するであろう。 H M m w 目 凶 凶 一 円 M H H V開け︶ ① 水野弘元氏﹁心不相応法の概念の発生﹂印仏研 412 、 一 一 一 一 頁

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、同﹁心不相応法について﹂駒沢大学紀要弘、三 O 頁

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、 桜部建氏﹁倶舎論の研究﹂八五頁

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、木村泰賢氏﹁小乗仏教思想論﹂全集五巻二二二頁

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等 参 照 。 大 正 一 二 二 、 二 八 九 頁 c 。 大正二六、五 O O 頁 c 。 大正二六、六九四頁 a 。 大正二八、九九八頁 c 。 大正二八、九九五頁 c 、九九七頁 c 。 大正二八、九七九頁 blc 。 大正二七、七九七頁 a 。 ③ に 同 じ 。 大正二八、八六六 a 。 大正二八、九四三頁 b 。 大正二九、二二頁 a o ﹀

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(24)

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Akb. p. 62 11. 22-23. anasravaidharmail:;i. kal:;i. samanvagatal:i / sarvasattva / Akb. p. 63 11. 1-2. akasena tu nasti kascitsamanvagatal). / tasmadasya nasti praptil). / Akb. p. 63 1. 12 sahajapratihetuka cet / jatiridanirh kiri1kar1 jatijatirva / Akb. p. 63 11. 14-15 kascaivamahotpattihetul). praptiriti / ki 血 tarhi / vyavasthahetul:i / Akb. p. 63 11. 15-16. asatyarh hi praptau laukikam 互 nasanamaryaprthagjananamarya ime prthagjana ime iti na syat vyavasthanam /

4

く同

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1

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\眠 υ ー

1

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眠, no ⑧とよ Jill'. 口。 鰍会程

4

く同

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\眠 υ ー

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1

眠 ω

Akb. p. 76 11. 10-11. 蝋為程

4

く同

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1

・点く Jm(..ci

鰍為程

4

く同

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1

\叫, no ⑧ば Jill'. 戸。 Akb. p. 64 1. 16. kusalakusalavyakrtanarh kusalakusalavyakrtaiva yathakramarh prapti]:i. /毎回割程

111

長く同 υ

Akb. p. 64 11. 18-19.

11<

~同間程 4く同 11 千ミ,.

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⑤⑧⑧⑧@⑧⑧⑧⑮⑧ @⑧⑧⑧@⑧⑧⑧

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担ピ\' 3, ド柑梶山必£ド 3, s{o 。 ~出割程 ⑮

参照

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