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日本における明代嘉靖時代史研究の視角

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(1)

日本における明代嘉靖時代史研究の視角

著者 城地 孝

雑誌名 文化學年報

号 67

ページ 115‑132

発行年 2018‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027595

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日本における明代嘉靖時代史研究の視角

著者 城地,孝

雑誌名 文化學年報

号 67

ページ 115‑132

発行年 2018‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027595

(3)

日 本 に お け る 明 代 嘉 靖 時 代 史 研 究 の 視 角

城 地

は じ め に この

十数 年来

︑中 国明 代史 のな かで も嘉 靖時 代︵ 一五 二二

│六 六︶ に注 目し た研 究が 増え てい るよ うで ある

︒こ と 中 文圏 にお いて は︑ 後述 する

﹁大 礼の 議﹂ に関 連す る諸 問題 を主 題と する もの をは じめ とし て︑ もっ ぱら 嘉靖 時代 を と りあ げた 大 著 も 出版 さ れ てい る

︒日 本 の研 究 者 の あい だ で も︑ 一面 に お いて こ れ ら の諸 研 究 に触 発 さ れ なが ら

︑ 独 自の 問題 関心 と視 角と によ って 嘉靖 時代 に関 する 諸問 題を テー マと する 研究 が行 われ るよ うに なっ てき た︒ その 成 果 は︑ たん に嘉 靖と いう 時代 につ いて の新 たな 理解 を示 すの みな らず

︑よ りひ ろく 明代 とい うス パン での 再検 討を 可 能 にす る論 点を ふく むと いう 点か らも

︑注 目に 値す るよ うに 思わ れる

︒こ うし た立 場か ら本 稿で は︑ 特に 嘉靖 時代 を と り あ げた 日 本 語に よ る 主 だっ た 研 究に つ い て︑ その 問 題 関 心の 所 在 や分 析 視 角の 如 何 お よび 成 果 を紹 介 す る と も に

︑い ささ かの 論評 を試 みた い︒

― 115 ―

(4)

一.

﹁ 大 礼の 議

﹂ と礼 制 改 革に 関 す る研 究 嘉

靖時 代 史 とい う と き︑ まず 注 目 さ れる の は﹁ 大 礼の 議

﹂で あ ろ う

︒い わ ゆ る

﹁大 礼 の 議﹂ と は︑ 直 接 に は 世 宗

︵嘉 靖帝

︶の 実父 であ る興 献王 を王 朝の 祭祀

・礼 制上 どの よう に 位 置づ け る かを め ぐ っ て繰 り ひ ろげ ら れ た政 争 を 指 す

︒あ くま で も 父 とし て 祀 ろう と す る世 宗 お よ び帝 意 に 沿う 論 陣 をは っ た 官 僚た ち

││ いわ ゆ る﹁ 議 礼派

﹂│

│と

︑ 世 宗は 先々 代孝 宗︵ 孝治 帝・ 位 一四 八 八│ 一 五〇 五

︶・ 先 代武 宗

︵正 徳 帝・ 位 一五

〇 五│ 二 一︶ とつ づ く 皇帝 の 系 譜 を 継承 した 以上

︑興 献王 は叔 父と して 祀る べき だと する 内閣 首輔 楊廷 和ら いわ ゆる

﹁内 閣派

﹂と の論 争か ら始 まっ た こ の政 争の 影響 は︑ 反対 派を 弾圧 して みず から の意 を押 しと おし た世 宗に よっ て︑ 結果 とし て国 家の 礼制 全般 にわ た る 調整

・改 変に まで およ んだ

︒本 稿で も︑ まず はこ の﹁ 大礼 の議

﹂を はじ めと する 嘉靖 初年 の礼 制改 革に 関す る研 究 成 果か ら述 べて いく こと にし たい

︒ 管 見の か ぎ り︑ 日本 に お ける

﹁大 礼 の 議﹂ の 専論 と し ては

︑中 山 八 郎﹁ 明 の 嘉 靖 朝 の 大 礼 問 題 の 発 端

﹂︵

﹃ 人 文 研 究

﹄八

│九

︑一 九五 七年

︶な らび に﹁ 再び

﹁嘉 靖 朝 の大 礼 問 題の 発 端﹂ に 就 いて

﹂︵

﹃ 清 水博 士 追 悼記 念 明 代 史論 叢

﹄ 大 安

︑一 九 六 二 年

︶が も っ と も は や い

︒﹁ 発 端﹂ の 語 が 示 す よ う に︑ 中 山 氏 が 言 及 す る の は お お む ね 正 徳 十 六 年

︵一 五二 一︶ 中の 事柄 にか ぎら れて おり

︑現 時点 での 水準 に照 らせ ば︑

﹁大 礼﹂ 問題 の基 本的 な経 緯を たど るの みと の 感 は否 めな い︒ しか し︑ 中山 氏み ずか ら﹁ むし ろ経 学的 では なく 歴史 的に 此問 題の 経緯 を考 えた い﹂ と述 べて いる よ う に︑ これ 以後 の諸 研究 が両 派の 主張 を経 学的 に分 析す る方 向に 傾斜 しが ちで ある のに 比し て︑ 中山 氏の 研究 では 正 徳 から 嘉靖 へと 移行 する 時期 の政 治情 勢を 考え る上 で重 要な 切り 口と なる 論点 が示 され てお り︑ そこ に研 究史 上の 意

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義 を認 める こと がで きる

︒ 具体 的な 点と して

︑① 興王 府の あっ た湖 広安 陸︵ 現︑ 湖北 省鍾 祥市

︶か らや って きた 世宗 が入 京す る際

︑皇 位継 承 者 もし くは 皇帝 のい ずれ の資 格で 遇す るか をめ ぐる 世宗 側と 楊廷 和側 との 応酬 につ いて 言及 され てい るこ と︑

②武 宗 崩 御か ら世 宗迎 立に 至る まで の楊 廷和 の対 応が 具体 的に あき らか にさ れて いる こと

︑③ 世宗 が興 献王 を礼 制上 も実 父 と して 処遇 する こと にこ だわ った 一因 とし て︑ 彼の 孝道 につ いて 検討 して いる こと

︑な どは

﹁大 礼の 議﹂ にお ける 論 争 の背 景と なっ た政 治情 勢を 知る 上で 重要 であ ると 考え る︒ また

︑武 宗の 生母 であ った 孝宗 の皇 后張 氏や 世宗 の生 母蒋 氏ら の意 図や 動向 につ いて 考察 され てい るの も重 要で あ る

︒こ の点 に関 連す る研 究と して

︑前 田尚 美﹁ 大礼 の議 にお ける 慈寿 皇太 后の 懿旨 の意 味﹂

︵﹃ 京 都女 子大 学大 学院 文 学 研究 科紀 要︵ 史学 編︶

﹄ 一〇

︑二

〇一 一年

︶も

︑皇 太后 の権 威 が 明の 政 局 にど の よ う な影 響 を およ ぼ し たか と い う 関 心か ら︑ 武宗 崩御 後の 皇帝 不在 期間 に張 氏が 発 した 懿 旨 の意 味 を 考察 し て い る︒

﹁大 礼 の 議﹂ をめ ぐ る 后妃 た ち の 影 響は

︑彼 女た ちを とり まく 新旧 の内 廷勢 力の 動向 とも あわ せて

︑今 後よ り検 討が 深め られ るべ き論 点と 言え よう

︒ この ほか にも 中山 氏は

︑王 守仁 と﹁ 大礼 の議

﹂と の関 係に つい ても 論及 して いる

︒す なわ ち︑ 王守 仁は 大礼 問題 の 是 非に つい て態 度を 明確 にす るこ とは なか った が︑ 父母 との 肉身 の情 愛を 放棄 する こと に強 く反 対す ると とも に︑ 形 式 的な 孝行 や煩 瑣な 孝道 の論 議は 排す べき だと 考え てい た︒ その 点か ら言 えば

︑思 想の 上で は議 礼派 と若 干つ うず る も のを 持っ てい たと 述べ

︑議 礼派 の論 客の なか に王 守仁 に近 い者 がい たこ とも 指摘 して いる

︒ま た程 朱学 を奉 ずる 楊 廷 和と の思 想上 の対 立に 加え て︑ 寧王 朱宸 濠の 征討 時に 王守 仁を 起用 しバ ック アッ プし てい たの が︑ 楊廷 和の 政敵 で あ る 兵 部尚 書 王 瓊で あ っ た こと に も 触れ

︑現 実 政 治の 面 で も 王守 仁 が 内閣 派 と 良好 な 関 係 にな か っ たと も 述 べ て い る

︒こ うし た指 摘は

︑嘉 靖初 年の 政治

・社 会・ 思想 状況 を総 体的 に理 解す るた めの 糸口 にな り得 ると 同時 に︑ その 丁

― 117 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(6)

寧 な実 証に 裏づ けら れた 叙述 から は︑ 中山 氏の 構図 を拙 速に 敷衍 して 議論 する こと に慎 重で なけ れば なら ない こと も 教 えら れる

﹁ 大礼 の議

﹂の 結果

︑世 宗の 抜擢 によ り異 例の 昇進 を果 た し た議 礼 派 が実 権 を 握 り︑ 彼ら を 梃 子と し て 世宗 は 一 連 の 礼制 改革 を進 めて いく

︒こ の礼 制改 革に つい ての 専論 とし てま ず挙 げる べき 研究 に︑ 小島 毅﹁ 嘉靖 の礼 制改 革に つ い て﹂

︵﹃ 東 洋文 化研 究所 紀要

﹄一 一七

︑一 九九 二年

︶が ある

︒こ れに 先立 つ 二 本 の論 考

││

﹁ 郊祀 制 度 の 変遷

﹂︵

﹃ 東 洋 文化 研究 所紀 要﹄ 一〇 八︑ 一九 八九 年︶ と﹁ 正祠 と淫 祠│

│福 建の 地方 志に おけ る記 述と 論理

││

﹂︵

﹃ 東洋 文化 研 究 所紀 要﹄ 一一 四︑ 一九 九一 年︶

│を つう じて

︑小 島氏 は双 方に 共通 する ひと つの 画 期と し て 嘉靖 年 間 に注 目 す る に 至 っ てい た と 述べ て い る が︑ そう し た 認識 を ふ まえ て 本 論 考で は

︑世 宗 を中 心 と する 国 家 祭 祀の 体 系 的 改 革 の う ち

︑① 天地 の祭 礼︑

②社 稷祀

・郊 祀の 配侑 と宗 廟の 制度 に見 られ る祖 霊の 序列

︑③ 孔子 の礼 遇︑

④皇 后が 参加 する 先 蚕

・高 禖の 復活

︑の 四つ の事 例を とり あげ て検 討し てい る︒ 本論 考の 主た る目 的は

︑嘉 靖の 礼制 改革 がも つ歴 史的

・ 思 想的 意味 と︑ その 背後 にあ る動 態を あき らか にす るこ とに ある とさ れて いる が︑ その 所説 は嘉 靖と いう 時代 を総 合 的 に把 握し よう とす る上 で傾 聴に 値す る︒ 小島 氏に よれ ば︑ 天地 の祭 祀を 合祭 から 分祭 に改 めた 郊祀 制度 の改 定︑ ある いは 孔子 をは じめ とす る先 儒の 美称

・ 神 像の 廃止 から は︑ 世宗 が太 祖︵ 洪武 帝・ 位一 三六 八│ 九八

︶の 初制 にか える とい うこ とを 論拠 にし

︑朱 子学 的礼 制 体 系の 確立 を目 指し てい たこ とが うか がえ ると 言う

︒他 方︑ 宗廟 の制 度改 定や 籍田

・先 蚕・ 高禖 の復 活は

︑朱 子学 や 太 祖の 精神 にし たが った わけ では なく

︑経 書に 語ら れて いる 古礼 であ ると いう こと が論 拠と され た︒ これ らは 現象 的 に は朱 子学 的礼 制の 体系 と矛 盾す るこ とが あり

︑時 代の 思潮 から 遊離 した 面も ある

︒し かし 小島 氏は

︑こ れら も本 来 あ るべ き礼 制へ の復 帰を 志す 理念 にも とづ いて 行わ れた もの であ った と述 べて いる

︒そ の上 で︑ 基本 的に 現実 主義 的

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 118 ―

(7)

で あっ た太 祖の 礼制 と比 較し て︑ 世宗 の礼 制改 革は 経書 の解 釈に 忠実 に︑ ある べき 礼の 姿を 復活 させ よう とす る強 い 意 図が あり なが らも

︑実 際に 可能 かど うか とい う慎 重な 配慮 は欠 けて いた と評 し︑ それ こそ が嘉 靖と いう 時代 性に よ る もの だと 説く

︒こ れに つい て小 島氏 は︑

①十 六世 紀前 半の 時代 状況

︑② 世宗 の個 人的 な動 機︑ のふ たつ の方 向か ら 以 下の よう に説 明す る︒ すな わち

︑世 宗の 即位 した 時代 は陽 明学 の浸 透や 出版 の急 増︑ 民衆 文学 の隆 盛な ど思 想・ 文 化 の面 でも さま ざま な現 象が 相互 に影 響し あっ て進 行し

︑ひ とび とが これ まで と違 った もの を求 める 一方

︑過 去を 振 り 返 り︑ 古 きよ き 精 神に か え ろ うと し て いた

︒そ う し た状 況 下 で︑ 傍 系か ら 帝 位を 継 ぎ︑ 大 臣と の 衝 突 を 経 た 世 宗 は

︑帝 国の 秩序 維持 装置 でも ある 礼制 と祭 祀を 経学 上の 正し い姿 にも どす こと で︑ 自身 の帝 位の 正統 性を 天下 に示 そ う とし たの であ る︒ その ため にふ さわ しい のは 創業 者で ある 太祖 の精 神を 引き 継ぐ こと であ り︑ 礼制 改革 の方 向が 古 礼 への 復帰 とい う形 にな った 一因 も世 宗の そう した 動機 にあ る︑ と︒ さ ら に 当 該 論 考 で は

︑礼 制 改 革 と 同 時 期 に 行 わ れ た 淫 祠 排 斥・ 宗 族 形 成 の 動 き に も 言 及 さ れ︑ 三 者 が い ず れ も

﹁礼

﹂と いう 基準 に照 らし て正 しい もの を確 定し

︑普 及 さ せる 運 動 であ っ た と 性格 づ け られ て い る︒ こう し た

﹁儀 礼 原 理主 義﹂ とも 呼ぶ べき 動き は︑ 聖人 の精 神へ の回 帰を めざ した とい う点 で︑ 陽明 学と 裏表 の関 係に あっ た︒ その 意 味 で︑ 嘉靖 の礼 制改 革は 深い とこ ろで 陽明 学と 軌を 一に する 運動 だっ た︑ と小 島氏 は結 論づ けて いる

︒ 当該 論考 の末 尾で 述べ られ てい るよ うに

︑﹁ 従 来の 世 宗 像を 修 正 し︑ 嘉靖 初 期 の 朝廷 で の 議論 が

︑地 域 社会 で 進 ん で いた 現象 や思 潮と つな がっ てい たこ とを 指摘

﹂し たと いう のは

︑そ のま ま本 論稿 の評 価と なろ う︒ 皇帝 とし ての 資 格 と能 力を 天下 に示 した いと いう 個人 的な 動機 が︑ 太祖 や古 礼へ の﹁ 回帰

﹂を 志向 する 方向 へと 世宗 を駆 り立 てて い く とい う議 論は

︑後 述す る筆 者自 身の 議論 にも 少な から ぬ示 唆を 与え るも ので あっ た︒ ひと つ論 点を つけ 加え ると す れ ば︑ そう した 世宗 の姿 勢が

︑官 僚・ 士大 夫の 伝統 的な 価値 観と は必 ずし も相 容れ ない 形で 展開 して いっ た武 宗の 正

― 119 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(8)

徳 年間 の政 治状 況と どの よう な関 係に あっ たの かも 問わ れて よい 問題 であ ると 考え る︒ なお

︑小 島氏 が言 及す る宗 族組 織の 形成

・普 及に つい て︑ 井上 徹氏 は︑ その きっ かけ が嘉 靖十 五年

︵一 五三 六︶ の 礼 部尚 書夏 言の 上奏 にあ ると の見 解を 示し てい る︒ この 説が 最初 に提 起さ れた のは

︑井 上氏 の﹁ 宗族 の形 成と その 構 造

││ 明清 時代 の珠 江デ ルタ を対 象と して

││

﹂︵

﹃ 史林

﹄七 二│ 五︑ 一九 八九 年︶ にお いて であ るが

︑そ の後

﹁夏 言 の 提案

││ 明代 嘉靖 年間 にお ける 家廟 制度 改革

││

﹂︵

﹃ 文経 論叢

﹄三 二│ 三︑ 一九 九七 年︶ のな かで

︑よ り突 っ込 ん だ 検討 がな され てい る

︒ これ によ れば

︑夏 言の 提案 の要 点は

︑① 万民 が誰 で も 始 祖・ 先祖 の 祭 祀を 挙 行 でき る よ う に する こと

︑② 三品 以上 の官 僚に 対し ては

︑そ の官 僚を 始祖 とし て子 孫が 永遠 に祭 祀を 継続 する こと

︑③ 四品 以下 の 官 僚 の 家に は

︑子 孫 が四 世 祭 祀 を挙 行 で きる よ う にす る こ と︑ の 三点 に あ る︒ これ は 祭 祀を 媒 介 と し て 親 族 を 統 制 し

︑宗 族全 体と して 官界 との 関係 を保 とう とす る宗 法主 義の 公認 を迫 るも ので あり

︑十 六世 紀以 降に おけ る宗 族形 成 運 動の 展開 の幕 開け を告 げる もの と位 置づ けら れる

︑と 井上 氏は 言う

︒ 他方

︑礼 学解 釈史 の立 場か ら﹁ 大礼 の議

﹂の 問題 を扱 った 論考 とし ては

︑新 田元 規﹁ 君主 継承 の礼 学的 説明

﹂︵

﹃ 中 国 哲学 研究

﹄二 三︑ 二〇

〇八 年︶ が現 時点 での 日本 にお ける 到達 点に 位置 する と言 える

︒こ の長 大な 論考 で示 され る 論 点 は 多岐 に わ たり

︑紙 幅 の 制 限上 そ の すべ て を 紹介 す る こ とは で き ない が

︑本 稿 では

︑議 礼 派 が 主 張 し た と い う

﹁継 統 不 継 嗣

﹂説 に 注 目 し た い

︒新 田 氏 は ま ず︑ 君 主 を﹁ 継 ぐ 関 係﹂ の う ち に は

﹁君 主 の 職 位 を 引 き 継 ぐ 関 係﹂ と

﹁父 子の 間で の人 格的 な継 承関 係﹂ とが ふく みこ まれ て い るこ と を 確認 す る

︒張 䚶 らの 主 張 は﹁ 世宗 が 傍 統か ら 入 継 し たの は︑ 君位 の継 承を 通じ て正 統の 統脈 を 引き 継 い だの で あ り︑ 本生 父

︵興 献 王︶ と の間 の 人 格的 な 継 承 関係 は

︑ 君 位の 継承 によ って 改変 を蒙 るこ とな しに

︑そ のま まに 保全 され る﹂ すな わち

﹁君 主身 分に とっ ての 継承 とは

︑統 を 継 ぐこ とを 言う ので あっ て︑ 嗣を 継ぐ こと を言 うの では ない

﹂と いう もの であ った

︒こ うし た説 に照 らせ ば︑ 擬制 的

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 120 ―

(9)

父 子関 係を 設定 して 強い て継 嗣に 継承 を媒 介さ せる こと は︑ 天下 の私 物化 と批 判さ れる

︒逆 に継 統に よる 一元 的解 釈 こ そが 君主 の﹁ 公尊 性﹂

│君 主の 地位 それ 自体 がも つ﹁ 尊貴 的性 格

﹂と

﹁公 共 的性 格

﹂を あ わせ た も の│

│に か な う

︒こ のよ うに

﹁継 統の 公﹂ を主 張す る﹁ 継統 不継 嗣﹂ 説は

﹁官 天下

﹂の 理念 につ うず る理 想化 され た公 義主 義を 唱 え るよ うに なる と言 う︒ 本論 考の 随所 で新 田氏 は︑ あく ま で礼 学 解 釈上 の 議 論で あ る こ とに 注 意 をう な が し てお り

︑ 上 述の 議論 につ いて も﹁ 台諫 派の 継承 者た ち︵ 筆者 註

いわ ゆる 内閣 派︶ を打 倒す るた めの 極論 とし て登 場し

﹂た も の と指 摘し ては いる

︒た だ筆 者は

︑張 䚶ら 議礼 派の 主張 の骨 子と され た﹁ 継統 不継 嗣﹂ 説が 行き 着い た先 に君 主継 承 に おけ る﹁ 徹底 した 公尊 性﹂ の主 張が 出て くる とい う論 点は

︑小 島氏 が説 く嘉 靖の 時代 性と もか らめ て議 論で きる 面 が あり

︑注 目す べき もの と考 える

︒ 二.

政 治 制度 改 革 に関 す る 研究

﹁ 大礼 の議

﹂を 発端 とす る制 度改 定の 動き は︑ 礼制 の み にか ぎ ら れた も の で はな か っ た︒ 城井 隆 志﹁ 嘉 靖初 年 の 翰 林 院改 革に つい て﹂

︵﹃ 九 州大 学東 洋史 論集

﹄一 四︑ 一九 八五 年︶ は︑ いわ ば﹁ 大礼 の議

﹂が 官僚 制に およ ぼし た影 響 に つい て検 討し たも ので あり

︑日 本に おい て比 較的 はや い段 階で 礼制 以外 の方 面か ら嘉 靖初 年の 政治 動向 を論 じた も の と位 置づ けら れる

︒城 井氏 によ れば

︑張 䚶・ 桂萼 らの 翰林 院改 革は

︑結 局ご く一 時期 しか 実現 せず に旧 に復 した と は いえ

︑彼 らの 意図 は官 僚人 事に おけ る資 格偏 重主 義の 打破 を狙 った もの であ り︑ 官僚 機構 の硬 直化

・形 骸化 に歯 止 め をか けよ うと する もの であ った

︒資 格偏 重主 義が 内閣 の専 権を 構造 的に 支え てい る点 を解 明し たこ とは 評価 すべ き で ある

︑と され る︒

― 121 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(10)

礼制 とは 異な る方 向か ら嘉 靖時 代に 着目 する とい う点 では

︑二

〇〇

〇年 代に 入っ て発 表さ れた 大石 隆夫 氏に よる 一 連 の論 考も

︑同 様の 方向 性を 持つ もの と位 置づ ける こと がで きる

︒政 策決 定の あり 方と いう 点か ら嘉 靖時 代の 政治 を と りあ げた とい う点 で︑ また とも すれ ば明 初で なけ れば 万暦

︵一 五七 三│ 一六 二〇

︶以 降と いう 明代 政治 史研 究の な か で嘉 靖と いう 時代 に注 目し た点 で︑ 大石 氏の 研究 は研 究史 の上 に大 きな 位置 を占 める

︒ 右の よう な視 点は

︑す でに 大石 氏の

﹁明 代嘉 靖期 の進 士集 団﹂

︵﹃ 人 文論 究﹄ 四七

│四

︑一 九九 八年

︶に 見る こと が で きる

︒こ の論 文で は︑ 嘉靖 三十 五年

︵一 五五 六︶ 科進 士の 官歴 をま とめ た﹃ 嘉靖 丙辰 同年 世講 録﹄ によ って 彼ら の 昇 進経 路を 整理 し︑ 進士 集団 内部 にお いて 常に 熾烈 な昇 進 競争 が 繰 りひ ろ げ られ て い た こと が 述 べら れ る と とも に

︑ そ うし た動 きと 嘉靖 末か ら万 暦は じめ の内 閣政 治と の関 係に つい て考 察す る必 要性 が主 張さ れて いる

︒ そう した 問題 意識 の延 長上 に位 置づ けら れる のが

﹁明 代嘉 靖初 年の 密掲 政治 につ いて

﹂︵

﹃ 人文 論究

﹄五 二│ 二︑ 二

〇二 年︶ であ る︒ 密掲 とは

︑所 定の 上奏 文処 理過 程を 経る こと なく

︑直 接皇 帝の もと にと どけ られ る上 奏文 のこ と で あ る︒ 大 石氏 は

﹁密 掲 が張 䚶 に 大 きな 権 力 を与 え た﹂ と いう 理 解 へ の疑 問 か ら 出 発 し︑ 張 䚶﹃ 諭 対 録﹄ や 楊 一 清

﹃密 諭録

﹄を 史料 とし て︑ 密諭

・密 掲を 介し た張 䚶と 世宗 と の 意志 疎 通 の実 態 を あ きら か に する

︒ま ず 当 該制 度 の 創 設 過程 をあ とづ け︑

﹁ 密諭

・密 掲制 度は 張䚶 の入 閣に とも な っ て創 設 さ れた の で あ り︑ その 最 大 の受 益 者 もま た 彼 で あ った

﹂と の認 識を 示す

︒そ の上 で︑ 当該 制度 の運 用実 態を 三つ の事 例に 即し て検 討し てい る︒ 第一 の事 例と して 王 瓊 の 人 事が

︑第 二 の 事例 と し て 聶能 遷 な る人 物 を めぐ っ て 生 じた 張 䚶 と楊 一 清 との 確 執 が︑ そ れぞ れ と り あ げ ら れ る

︒ふ たつ の事 例か ら大 石氏 は﹁ これ

︵筆 者註

密 諭・ 密掲

︶を 介し て大 学士 が皇 帝に 対し て根 回し を行 う役 割は 期 待 され ず︑ 皇帝 の当 該案 件に 関す る意 向を 周知 さ せる 役 割 がよ り 重 要﹂ であ り

︑﹁ 世 宗 の側 か ら すれ ば 紛 争の 当 事 者 た ちか ら個 別に 釈明 の密 掲が 上が って くる わけ で政 治問 題の 情報 収集 に役 立っ た﹂ と言 う︒ そし て第 三の 事例 にお い

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 122 ―

(11)

︑大 石氏 は密 掲・ 密諭 のな かで しば しば 家庭 内の 問題 がと りあ げら れて いた こと に注 目し

︑こ れを 世宗 と張 䚶と の あ いだ の私 的個 人的 な人 間関 係を 醸成 する もの であ り︑ 皇 帝と の あ いだ に こ うし た 特 別 な紐 帯 を 発生 さ せ た ため に

︑ 密 諭・ 密掲 が特 殊な 効力 を持 つと 認識 され たと の見 解を 示し てい る︒ この よう にし て大 石氏 は﹁ 密掲 が内 閣大 学士 に 大 きな 権力 を与 える こと はな かっ た﹂ と結 論す る 一方

︑世 宗 の 側か ら 見 た当 該 制 度 の意 義 を 強調 し

︑﹁ 積 極的 に 臣 下 と の意 志疎 通を 図り

︑皇 帝と 張䚶 の間 に比 較的 安定 した 君臣 関係 が築 き上 げら れた こと が評 価さ れる べき

﹂だ と述 べ て いる

︒当 該制 度の 創設 が﹁ 主体 的に 政治 に関 わ ろう と す る世 宗 の 政治 姿 勢 を 反映 す る﹂ も ので あ り︑

﹁ 宮中 と 外 廷 の 官僚 機構 の連 絡が 途絶 えが ちで あっ た明 代後 期に おい ては 例外 的に 皇帝 が大 学士 と親 密な 関係 を構 築し 得た

﹂と の 評 価を 与え てい る︒ こう した 議論 は︑ つづ く﹁ 明代 嘉靖 朝の 西苑 再建

﹂︵

﹃ 人文 論究

﹄五 三│ 三︑ 二〇

〇三 年︶ にお いて

︑よ り突 っ込 ん だ 形で 展開 され る︒ 西苑 とは 紫禁 城の 西側

︑現 在の 中南 海に あた るエ リア で︑ 嘉靖 中期 以降

︑世 宗は 紫禁 城に はも ど ら ず︑ もっ ぱら 西苑 に居 住す るよ うに なっ た︒ 先行 研究 では 世宗 の道 教妄 信と それ にと もな う政 務放 棄の 象徴 的事 例 と 理解 され てき た西 苑の 問題 につ いて

︑大 石氏 はま ず西 苑再 整備 の経 緯を たど り︑ その 契機 を世 宗が 推進 した 礼制 改 革 に求 めて いる

︒ま た︑ 西苑 に創 建さ れた 無逸 殿 につ い て︑ そ の命 名 が﹁ 単 に世 宗 が 安 楽に ふ け るこ と を 自 ら戒 め

︑ 農 耕に 親し むこ とを 表明 する 意味 ばか りで なく

︑外 藩か ら出 て帝 位を 継承 した 自分 にも 名君 たり 得る 資格 があ るこ と を 同所 に参 集す る大 臣た ちに 宣揚 する

﹂ね らい によ るも ので あり

︑か つ﹁ 大礼 の議 の正 当性 を宣 揚す ると いう

︑き わ め て政 治的 な役 割を もっ た場 所で もあ った

﹂と 述べ てい る︒ そし て︑ こう した 意図 のも とに 整備 され た西 苑が 政治 的 重 要性 を増 して いっ た要 因と して

︑朝 儀の 形骸 化・ 君臣 間の 連絡 の途 絶│

│大 石氏 はこ れら を当 時の 朝廷 政治 にお け る

﹁構 造的 欠陥

﹂と する

││ を克 服し

︑君 臣間 の連 絡を 復旧 して

︑親 しく 政務 を処 理し よう とい う世 宗の 姿勢 を指 摘

― 123 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(12)

す る︒ その ため に彼 が行 った のが

︑ひ とつ には 密諭

・密 掲制 度で あり

︑い まひ とつ が臣 下の 引見 であ った

︒嘉 靖五 年

︵一 五 二六

︶か ら 同 二十 一 年︵ 一 五 四二

︶ま で の 臣下 引 見 の記 録 で は︑ 西 苑に お け る引 見 が 全 体 の 四 分 の 一 を 占 め

︑ 全 体の 半分 近く が紫 禁城 外で 行わ れて いる が︑ 大石 氏に よれ ば︑ その 理由 は︑ 世宗 が親 任す る大 臣を より 私的 な内 輪 の 間柄 の者 とし て扱 いた いと 考え てお り︑ その ため には 外廷 にあ って 礼儀 作法 に束 縛さ れる 文華 殿よ りも

︑そ うし た 束 縛の ない 行幸 先で 行う 方が 好ま しか った から であ った

︒西 苑は 紫禁 城に 隣接 する にも かか わら ず︑ 外朝

・内 廷の い ず れに も属 さな い特 殊な 場所 であ った

︒そ れゆ え外 朝の よう に礼 儀作 法に 束縛 され る必 要も

︑内 廷の よう に臣 下を 召 し 入れ るこ とを はば かる 必要 もな い︒ この よう に西 苑は 世宗 にと って 朝儀 以外 の機 会に 臣下 と接 触を 保つ ため の恒 久 的 な施 設と して の役 割を 担っ たの であ り︑ 帝の 鶴の 一声 で瞬 時に 重大 な決 定が 下さ れる 皇帝 親政 の舞 台と なっ た︒ さ ら に就 寝中 の世 宗が 宮女 に絞 殺さ れそ う にな っ た 嘉靖 二 十 一年

︵一 五 四 二︶

﹁ 壬寅 宮 変﹂ 以 後︑ 帝は 朝 儀 に臨 御 し な い かわ りに

︑大 臣を 西苑 に召 し入 れ︑ 彼ら をつ うじ て政 治を 統御 する よう にな り︑ それ にと もな って 無逸 殿で 宿直 す る こと は大 臣に とっ ても っと も重 要な 仕事 とな って いく

︒か くし て西 苑を 舞台 とす る内 廷政 治が 成立 した

︑と 大石 氏 は 結論 づけ てい る︒ この ほか にも 大石 氏に は﹁ 明代 の政 策決 定過 程の 変容

││ 文華 殿を 中心 に│

│﹂

︵﹃ 関 西学 院史 学﹄ 三二

︑二

〇〇 五 年

︶が あり

︑明 初か らの 文華 殿の 機能 変化 をつ うじ て明 代政 治を 通観 し︑ 対面

・対 話か ら文 書へ の移 行と いう 政策 決 定 過程 の大 きな 変容 を見 出し てい る︒ その こと を踏 まえ れば

︑一 般に 言わ れる よう に︑ 皇帝 が臣 下を 引見 しな いこ と が ただ ちに 政務 放棄 を意 味す るこ とに はな らず

︑む しろ 題奏 本を つう じて 臣下 の意 見が 直接 皇帝 のも とに とど けら れ る こと によ って

︑臣 下の 発議 を皇 帝が 決裁 する 政治 の枠 組み が継 承さ れた 点が 評価 され るべ きで ある と論 じて いる

︒ 以上

︑大 石氏 の一 連の 論考 につ いて まず 評価 され るべ きは

︑そ れま で一 般的 であ った

﹁世 宗の 政務 放棄 によ り政 治

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 124 ―

(13)

が 混乱

・停 滞し た﹂ とい う理 解を 克服 し︑ むし ろ主 体的 に政 務に とり くも うと する 世宗 の政 治姿 勢を 実証 的に 描き 出 し たこ とで ある

︒こ うし た理 解は

︑こ れ以 降の 研究 でも 踏襲 され る基 本認 識に なっ たと 言え よう

︒ま た︑ 文書 行政 が 成 熟し てい くプ ロセ スを 通観 する 作業 から

︑皇 帝が 臣下 と会 わな いこ とが 必ず しも 政務 放棄 を意 味し ない とい う議 論 を 導い てい るの も重 要で ある

︒こ の点 は︑ 明代 にか ぎら ず中 国の 皇帝 政治 の実 態を 考え る上 で重 要な 切り 口と なる も の であ ると 同時 に︑ 先行 研究 を批 判す る文 脈で 大石 が強 調し た世 宗の 政治 姿勢 をど のよ うに 評価 すべ きか とい う問 題 に もつ なが って いく

︒大 石氏 の立 場は

︑田 澍氏 をは じめ

﹁嘉 靖革 新﹂ を主 張す るの 中国 の論 者と も軌 を一 にす るも の と 言え るの かも しれ ない が︑ 筆者 をふ くめ て次 章で 言及 する 論者 は︑ まさ に大 石氏 が肯 定的 に評 して いる 世宗 の主 体 性

・積 極性 こそ が︑ 政局 混乱 の最 大の 要因 であ った とす る議 論を 展開 して いく ので ある

︒ 三.

最 近 の新 た な 傾向 大石

氏は おも に嘉 靖は じめ の時 期を 対象 とし て︑ 主体 的に 政務 にと りく もう とす る世 宗の 政治 姿勢 を肯 定的 な視 点 か ら描 き出 した が︑ これ とは ほぼ 真逆 の視 点に 立つ もの とし て︑ まず 夫馬 進﹁ 明清 中国 によ る対 朝鮮 外交 の鏡 とし て の 対ベ トナ ム外 交│

│冊 封問 題 と﹁ 問罪 の 師﹂ を 中心 に

││

﹂︵ 紀 平英 作 編

﹃グ ロ ーバ ル 時 代の 人 文 学 対話 と 寛 容 の 知 を 求め て

︵下

︶﹄ 京 都大 学 学 術 出版 会

︑二

〇七 年

︶を と りあ げ よ う

︒ 本 論考 の 主 たる 関 心 は明 清 中 国 に よ る 外 交の 実態 解明 にあ り︑ 対朝 鮮外 交の 対を なす もの とし て対 ベト ナム 外交 にお ける

﹁礼

﹂と

﹁問 罪﹂ との 関係 が論 じ ら れる が︑ その 一節 を割 いて 嘉靖 十五 年︵ 一五 三 六︶ のベ ト ナ ム派 兵 問 題が と り あ げら れ て いる

︒こ の 派 兵 計画 は

︑ そ れま で百 年以 上つ づい てき た明 朝の 不 干渉 政 策 を大 き く 転換 さ せ る もの で あ った が

︑﹃ 実 録﹄ や﹃ 皇明 大 事 記﹄ な

― 125 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(14)

ど 多く の史 書で は︑ 当時

︑礼 部尚 書で あっ た夏 言ら がま ず派 兵論 をと なえ

︑世 宗が これ に傾 いた かの よう に記 され て い る︒ しか し夫 馬氏 は︑ 夏言 の奏 議集 であ る

﹃桂 洲 奏議

﹄巻 十 二 に収 め ら れ る﹁ 皇嗣 誕 生 請詔 諭 安 南朝 鮮 二 国 疏﹂

﹁会 兵部 議征 安南 国疏

﹂の 分析 をつ うじ て︑ 終始 一貫 して 派 兵 を主 導 し てい た の は むし ろ 世 宗の 方 で あり

︑礼 部 と 兵 部 は帝 の意 を酌 んで

﹁問 罪の 師﹂ を送 るよ う上 奏し たと 断じ てい る︒ すな わち

︑十 一月 一日 付で 夏言 が上 奏し た前 者 の 上奏 は︑ 世宗 が皇 子の 誕生 を﹁ 外国 へも 通 知し

︑﹁ 華 夷 をし て 一 体に 知 悉 さ せる

﹂べ き で ある と 口 頭で 命 じ た︵ 皇 上 面諭

︑皇 子初 生︑ 既詔 告天 下︑ 何独 外国 至冊 封日

︑始 遣使 詔諭

︒⁝

⁝便 当使 華夷 一体 知悉

︶﹂ の を受 けて なさ れた

︒ こ れを 受け た夏 言は

﹁安 南国 は二 十数 年朝 貢 を行 わ な かっ た か ら︑ 反逆 し た 罪 は逃 れ が たい

︒法 と し て

!

問 罪の 師

"

を 興す べき であ る︵ 安南 国職 貢不 修︑ 歴二 十余 年︒ 背叛 之罪

︑已 無所 逃︑ 在法 当興 問罪 之師

︶﹂ と 言う 一方

︑﹁ 今回 は 朝 鮮国 王に だけ

︹皇 子誕 生の

︺詔 諭を 下す だけ に止 め︑ 安南 国に は暫 く使 節を 使わ すこ とは やめ よ︵ 合無 今次 止行 詔 諭 朝鮮 国王

︑其 安南 国王 暫免 遣使

︶﹂ と 述べ

︑建 前と して 派 兵 すべ き だ と言 い な が ら︑ 実際 に は 勅使 派 遣 すら や め て お くべ きだ とい う消 極的 な姿 勢を 示し てい た︒ とこ ろが 世宗 は﹁ 礼部 でさ らに 兵部 と対 策を 協議 して 言っ てこ い︒ つ ま らぬ 問題 だと 考え るな

︵還 会同 兵部

︑計 議来 説︒ 勿視 為非 要︶

﹂│

│﹃ 実 録﹄ では

﹁征 討の 事は

︑兵 部と 会同 し︑ 速 か に議 して 以聞 せよ

﹂と 記さ れる

││ と返 答し たの であ り︑ 礼部 と兵 部は これ を受 けた 結果 とし て﹁ 問罪 の師

﹂の 派 遣 を上 奏し たと いう

︒さ らに 夫馬 氏は

︑か つて 明朝 がベ トナ ム出 兵に よっ て手 ひど い目 に遇 った こと を知 って いた は ず の世 宗が 派兵 にこ だわ った 理由 につ いて

︑礼 制改 革に こだ わり

︑朝 鮮と のバ ラン スを とろ うと した から だと の見 解 を 示し てい る︒ 夏言 の上 奏文 の綿 密な 検証 をつ うじ て︑ ベト ナム 派兵 の決 定が 世宗 の恣 意に よっ て主 導さ れ︑ その 動機 が礼 制改 革 へ のこ だわ りと も軌 を一 にす るも ので あっ たこ とを あき らか にし た夫 馬氏 の議 論は

︑世 宗の

﹁親 政﹂ が﹁ 官僚 らの 理

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 126 ―

(15)

性 的な 判断 によ って うま くバ ラン スが とら れ︑ 強硬 策の みが 突出 する こと がセ ーブ され てい た﹂ 状況 をゆ さぶ る消 極 的 な要 因と なっ てい たこ とを 明確 に指 摘し たと いう 点で 大き な意 義を 有す る︒ こう した 世宗 の政 治姿 勢の 位置 づけ に つ いて は︑ 筆者 もま た同 様の 立場 を共 有す るも ので ある

︒ 筆者 の問 題設 定は 以下 のよ うな もの であ る︒ すな わち

︑隆 慶年 間︵ 一五 六七

│七 二︶ にお ける 対外 政策 の大 転換 と し て︑ 福建 漳州 から の出 海交 易の 解禁 と右 翼モ ン ゴル 諸 侯 との 通 交・ 交 易の 実 施 に 転じ た い わゆ る

﹁ア ル タ ン封 貢

﹂ が よく 知ら れて いる

︒で はそ れ以 前の 嘉靖 年間 にな ぜそ うし た転 換が 行わ れず

︑強 硬姿 勢を 基調 とす る対 外政 策が 二 十 年以 上に もわ たっ て堅 持さ れた のか

︑と

︒こ れに つい て筆 者は

︑と くに モン ゴル との 関係 にか かわ るふ たつ の事 件 の 政治 過程 を検 討し

︑そ こか ら嘉 靖政 治史 を特 徴づ ける 政治 の展 開パ ター ンの 抽出 を試 みた

︒ まず

﹁明 嘉靖

﹁復 套﹂ 考﹂

︵﹃ 集 刊東 洋学

﹄九 八︑ 二〇

〇七 年

︶に お い て

︑ 嘉靖 二 十 五年

︵一 五 四 六︶ 末に 提 議 さ れ

︑嘉 靖二 十七 年︵ 一五 四八

︶正 月に 総督 曽銑

・首 輔夏 言の 刑死 とい う結 末に 終わ った オル ドス 回復 計画 をめ ぐる 政 治 過 程 を検 討 し た︒ 黄河 で か こ まれ た と の意 味 で﹁ 河 套﹂ と呼 ば れ る オル ド ス の 失 地 回 復

﹁ 復 套﹂ 計 画 に つ い て

︑ 先 行研 究で は︑ もっ ぱら 首輔 夏言 ある いは この 事件 を機 にラ イバ ル夏 言を おい おと して 権力 を掌 握す る厳 嵩の 動き が 注 目さ れて きた

︒し かし

︑本 稿で の検 討か ら 浮か び あ がっ て き たの は

︑﹁ 中 国﹂ 皇 帝と し て の理 念

・原 則 論を ふ り か ざ して 強引 に計 画を 推進 しな がら

︑突 如と して 態度 をひ るが えし

︑計 画の 全責 任を 曽銑

・夏 言に 転嫁 して いっ た世 宗 の 姿で あっ た︒

﹁ 復套

﹂計 画が 進め られ る過 程で

︑や はり 前 線 でモ ン ゴ ルと 対 峙 し︑ ア ルタ ン の 朝貢 許 可 すら 模 索 し て いた 総督 翁万 達を はじ めと する 官僚 たち は︑ 多く の反 対意 見を 提出 して いた

︒に もか かわ らず

︑彼 らが 実際 上の 見 地 から 政策 論議 の場 で表 明し た提 言が 世宗 を動 かす こと はな かっ た︒ 帝が 計画 中止 を決 断し た直 接の 契機 は︑ 陝西 か ら 伝え られ た﹁ 災異

﹂の 報だ った ので ある

︒こ うし た世 宗の

﹁親 裁﹂ は︑ 結局 のと ころ 官界 をい たず らに 混乱 させ る

― 127 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(16)

も ので しか なく

︑安 定し た君 臣関 係を 築い てい たと 言う にも 程遠 い状 況に あっ たと 結論 づけ た︒ つづ く﹁ 明嘉 靖馬 市考

﹂︵

﹃ 史学 雑誌

﹄一 二〇

│三

︑二

〇一 一 年

︶で は

︑ 嘉 靖三 十 年︵ 一 五五 一

︶の 馬 市を め ぐ る 政 治過 程に おい ても 同様 のパ ター ンが 見出 せ るこ と を 論じ た

︒ア ル タン の

﹁求 貢

﹂を 拒 絶し つ づ ける 明 朝 の 対応 は

︑ 嘉 靖二 十九 年︵ 一五 五〇

︶八 月︑ モン ゴル 軍に 北京 城を 包囲 され ると いう 事件

││ その 干支 をと って

﹁庚 戌之 変﹂ と 称 され る│

│を 引き 起こ した にも かか わら ず︑ アル タン の撤 兵後

︑世 宗は

﹁征 討﹂ の具 体化 を強 く命 ずる

︒官 界の 大 勢 は朝 貢許 可も 視野 に入 れつ つ︑ モン ゴル の軍 事的 圧力 をや わら げ︑ その あい だに 防衛 体制 を固 める とい う方 向に 傾 い てお り︑ 兵力

・財 政の 面か ら言 って も征 討の 実行 は不 可能 であ った

︒し かし

︑世 宗は 中華 皇帝 への 臣従 とい う朝 貢 の 礼制 上の 意義 に固 執し

︑強 硬姿 勢を くず さな かっ た︒ こう した 皇帝 のも とで

︑貿 易公 認を 求め るモ ンゴ ルの 軍事 的 圧 力に 対応 する 方策 とし て浮 上し てき たの が﹁ 馬市

﹂で あっ た︒ その 提案 者で ある 咸寧 侯仇 鸞は

︑大 同の 総兵 官と し て 辺境 の状 況を 知悉 した 人物 であ った が︑ 彼の ねら いは

︑朝 貢の 形式 をと らな い交 易と して の﹁ 馬市

﹂を 公認 する こ と によ って

︑辺 境の 将兵 の懐 に流 れて いる 密貿 易の 経済 的な 利益 を政 府に もと に回 収す るこ とに あっ た︒ 征討 を命 じ た 世宗 の諭 旨を より どこ ろと して

︑官 界で はは げし い反 対論 がま きお こっ たが

︑首 輔厳 嵩や 兵部 左侍 郎史 道は 現場 の 官 僚た ちの 意向 を踏 まえ

︑と きに 世宗 を蚊 帳の 外に 置く よう な対 応も 辞さ ずに 馬市 実施 へと こぎ つけ た︒ 実際 には 馬 市 によ って もモ ンゴ ル側 の需 要を 満た すこ とが でき ずに 辺境 侵犯 が再 開さ れ︑ わず か一 年で 馬市 は全 面禁 絶さ れる こ と にな る︒ しか し︑ その こと もま た官 界で 十分 な共 通認 識が でき ない まま 馬市 開設 に踏 み切 らざ るを 得な かっ たこ と を 示す ので あり

︑現 実を 顧み ずに 理念 をふ りか ざす 世宗 の姿 勢が 強く 印象 づけ られ るの であ る︒ こう して 見て くる と︑

﹁ 北虜 南倭

﹂に 代表 され る嘉 靖後 期 の 対外 問 題 の深 刻 化 は︑ ま さに 世 宗 の強 硬 姿 勢に 起 因 す る 政 策 基調 に よ るも の で あ り︑ 世宗 が こ だわ る 礼 制の 理 念 と それ で は 対処 し よ うの な い 現 実と の せ めぎ あ い の な か

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 128 ―

(17)

︑官 僚た ちが 軟着 陸を 模索 して いく

︑と いう のが 嘉靖 政治 を理 解す る上 での 基本 的な パタ ーン にな る︑ と筆 者は 述 べ た︒ こ うし た 筆 者の 議 論 につ い て は︑ 都 城史 の 立 場か ら 嘉 靖 年間 に お ける 北 京 外城 建 設 の プロ セ ス を検 討 し た 新 宮 学

﹁北 京 外城 の 出 現│

│明 嘉 靖﹁ 重城

﹂建 設 始 末│

│﹂

︵ 同氏 編

﹃近 世 東 ア ジ ア 比 較 都 城 史 の 諸 相﹄ 白 帝 社︑ 二

〇 一 四 年

︑所 収︶ でも 言及 され てい る︒ 新宮 氏に よれ ば︑ 世宗 は都 城プ ラン の理 念に もと づき

︑四 周を とり かこ む﹁ 四周 重 城

﹂の 建設 を求 めて いた

︒外 城を 加え た都 市空 間が 成 立す る 上 で︑ 世宗 の イ ニシ ア チ ブ によ る 影 響は 大 き か った が

︑ 内 閣大 学士 厳嵩 を筆 頭と する 諸官 僚は

︑工 事費 用と 効 果を 計 量 した 上 で︑ よ り現 実 的 な 対応 を 絶 えず 模 索 し てい た

︒ こ うし たプ ロセ スか ら新 宮氏 は︑ 理念 より も経 済・ 社会 的諸 要因 が重 視さ れる 近世 都市 空間 の意 味の 変容 を見 ると と も に︑ 世宗 の原 理主 義的 姿勢 と現 場の 意向 に沿 いつ つ事 態の 軟着 陸を 図る 官僚 たち との せめ ぎあ いの なか で︑ 北京 外 城 は南 面の みの 建設 にと どま った と述 べて いる

︒ この ほか

︑世 宗の 政治 姿勢 とい う点 に関 連す る議 論と して

︑岩 本真 利絵

﹁嘉 靖六 年末 の内 殿儀 礼改 定│

│中 国明 代 に おけ る専 制君 主と 政策 決定 の正 当性

││

﹂︵

﹃ 史林

﹄九 九│ 三︑ 二〇 一六 年︶ があ る︒ 岩本 氏は

︑世 宗を 前近 代中 国 の 専制 君主 の典 型と みな し︑ その 前提 に立 って

︑彼 がい かな る思 考・ 論理 をも って 専制 政治 を行 って いた のか とい う 問 題を 設定 する

︒そ の具 体例 とし て︑ 宮中 内で 歴代 皇帝

・皇 后を 祀る 奉先 殿・ 奉慈 殿・ 崇先 殿に おけ る儀 礼の 改定 プ

ロ セス を検 討し

︑世 宗が

﹁政 策決 定の 正 当性

﹂を 主 張 する た め のよ り ど こ ろと し て の﹁ 公﹂ や﹁ 謀を 詢 う に 僉同 じ

﹂ と いっ た概 念に 言及 して いる

︒た だ︑ 最終 的に 見据 えら れて いる のが 前近 代中 国の 皇帝 専制 政治 とい うか なり 大き な 問 題で あり

︑と もす れば 問題 設定 が茫 漠と して いる との 感は 否め ず︑ そも そも

﹁世 宗は 典型 的な 専制 君主 であ る﹂ と い う前 提に もや や違 和感 を覚 える

︒問 題設 定や 立論 の仕 方︑ 分析 の概 念や 手法 など につ いて

︑深 化の 余地 はな お少 な

― 129 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(18)

く ない よう に思 われ る︒ むす

び に かえ て 以上

︑嘉 靖と いう 時代 の特 徴や イメ ージ を把 握す るの に有 効な 視点 が示 され てい ると 筆者 が考 えた 論考 につ いて 紹 介 して きた

︒本 稿で 紹介 した のは

︑嘉 靖時 代に かか わる 諸問 題を 主た る対 象と した 日文 の論 考に かぎ られ る︒ 国外 の 諸 研究 はも ちろ ん︑ 日文 の研 究で も︑ たと えば 陽明 学に 関す るも の︑ 日明 関係 史・ 明蒙 関係 史に かか わる もの

︑あ る い は土 地制 度や 税役 制度 に関 する もの にも

︑嘉 靖と いう 時代 を考 える 上で 重要 な論 点が 示さ れて いる 論考 は少 なく な い

︒し かし

︑ひ とえ に筆 者の 能力 の限 界か ら割 愛せ ざる を得 なか った

︒ 近年 の中 文圏 にお ける

﹁大 礼の 議﹂ やい わゆ る﹁ 嘉靖 革新

﹂を めぐ る議 論も 意識 して 言え ば︑ 本文 で紹 介し てき た 諸 論考 にお いて も︑ その 出発 点に は嘉 靖時 代に 関す る従 来の 否定 的評 価│

│史 料の 記述 によ る部 分も あれ ば︑ 皇帝

・ 高 級官 僚・

﹁ 封建 王朝

﹂は すべ から く否 定す べき だと す る価 値 観 によ る 部 分 もあ る

││ の再 検 討 とい う 動 機が あ る よ う に見 える

︒こ うし た立 場か ら進 めら れた 作業 をつ うじ て︑ 世宗 ある いは 議礼 派の 主張 に即 した 形で

︑彼 らが 進め た 制 度改 定の 意図 や思 惑が あき らか にさ れて きた

︒さ らに 最近 では

︑そ うし た事 実を 嘉靖 時代 の政 治・ 社会 の全 体的 な 状 況に 照ら して 考え よう とす る方 向性 がよ り明 確 にな っ て きて い る︒ そ の点 に お い て︑ 第三 章 で 紹介 し た 諸 研究 は

︑ そ れま でと は異 なる 段階 に進 んだ もの と言 える であ ろう

︒同 時に それ らの 諸研 究で は︑ 必ず しも 善悪 二元 論の 構図 に 収 斂し ない 形で 議論 が行 われ てい ると いう 点に も注 目し てお きた い︒ この 点は

︑あ るい は日 本の 研究 の特 徴の ひと つ に 数え てよ いよ うに も思 われ る︒

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 130 ―

(19)

以上

︑き わめ て簡 単な がら も日 本に おけ る嘉 靖時 代史 の研 究史 を振 り返 って みて

︑あ らた めて 認識 した のは

︑特 定 の 時代 に焦 点を しぼ って 検討 する 視角 にも 少な から ぬ可 能性 があ ると いう こと であ る︒ 最近 の議 論で は︑ 嘉靖 時代 に お ける 諸々 の現 象の 要因 を世 宗個 人の パー ソナ リテ ィに 過分 に帰 して いる 嫌も ない では ない

︒し かし

︑そ れも 見方 に よ って は︑ 皇帝 の存 在が それ だけ の影 響を 与え る要 因た り得 るこ とを 示し た︑ とい うこ とに もな ろう

︒特 定の 時代 や 王 朝の 範囲 では なく

︑よ り長 期的 なタ イム スパ ンか ら通 時的 な構 造を 見出 すこ との 重要 さは

︑い まも 昔も 変わ らな い け れど も︑ 一方 で︑ たと えば 筆者 がと りく んで きた 政治 史の 分野 では

︑し ばし ば﹁ 狭義 の制 度史 だけ では 中国 政治 は わ から ない

﹂と 言わ れて きた

︒政 治に かぎ らず 経済 や思 想の 動向 を論 ずる 場合 でも

︑具 体的 なア クタ ーや 事象 に対 す る 実証 分析 によ って

︑は じめ て説 得力 ある 議論 が提 示で きる とい うの は共 通し よう

︒特 定の 時代 に着 目す る視 点か ら の 検討 を積 み重 ねる こと で︑ われ われ はよ り立 体的 な明 代史 理解 を得 るこ とが でき るは ずで ある

︒ 註

⑴ と く に

﹁ 大 礼 の 議

﹂ を 中 心 に 嘉 靖 時 代 の 政 治 史 を あ つ か っ た 中 文 の 専 著 と し て

︑ 田 澍

﹃ 嘉 靖 革 新 研 究

﹄︵ 中 国 社 会 科 学 出 版 社

︑ 二

〇 二 年

︶︑ 尤 淑 君

﹃ 名 分 礼 秩 与 皇 権 重 塑

﹄︵ 国 立 政 治 大 学 歴 史 学 系

︑ 二

〇 六 年

︶︑ 胡 吉 勛

﹃! 大 礼 議"

与 明 朝 人 事 変 局

﹄︵ 社 会 科 学 文 献 出 版 社

︑ 二

〇 七 年

︶ な ど を 挙 げ 得 る

⑵ い ず れ も

﹃ 中 山 八 郎 明 清 史 論 集

﹄︵ 汲 古 書 院

︑ 一 九 九 五 年

︶ に 再 録

⑶ い ず れ も

﹃ 中 国 の 宗 族 と 国 家 の 礼 制

│ 宗 法 主 義 の 観 点 か ら の 分 析

﹄︵ 研 文 出 版

︑ 二

〇 年

︶ に 再 録

⑷ な お

︑ 井 上 氏 の こ う し た 議 論 に つ い て は

︑ 小 島 毅 氏

・ 寺 田 浩 明 氏 が 註

⑶ 所 掲 の 井 上 氏 著 書 へ の 書 評 の な か で そ れ ぞ れ 批 判 を 行 っ て い る

︒ 小 島 氏 の 書 評 は

﹃ 歴 史 学 研 究

﹄ 七 四 九

︑ 二

〇 一 年 に

︑ 寺 田 氏 の 書 評 は

﹃ 集 刊 東 洋 学

﹄ 八 五

︑ 二

〇 一 年 に そ れ ぞ れ 掲 載

⑸ 夫 馬 進

﹃ 朝 鮮 燕 行 使 と 朝 鮮 通 信 使

﹄︵ 名 古 屋 大 学 出 版 会

︑ 二

〇 一 五 年

︶ に 補 論 一 と し て 再 録

⑹ 拙 著

﹃ 長 城 と 北 京 の 朝 政

│ 明 代 内 閣 政 治 の 展 開 と 変 容

﹄︵ 京 都 大 学 学 術 出 版 会

︑ 二

〇 一 二 年

︶ 第 一 章 に 再 録

― 131 ― 日本における明代嘉靖時代史研究の視角

(20)

⑺ 前 掲 拙 著

︑ 第 二 章 に 再 録

︻ 附 記

︼ 本 稿 は 二

〇 一 六 年 八 月 に 北 京 で 開 催 さ れ た 第 十 七 届 明 史 国 際 学 術 研 討 会 で 報 告

・ 提 出 し た ペ ー パ ー に 修 訂 を く わ え た も の で あ る

日本における明代嘉靖時代史研究の視角 ― 132 ―

参照

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