西 陣 の 芝 居 を め ぐ る 人 々
│
│ 大 正初 期 の 京都 に お ける 役 者 と観 客
│
船
│越 幹 央
は じ め に 過去
に生 きた 人々 の心 持ち
︑言 わば 喜怒 哀楽 とい うも のを 知り
︑そ れに 共感 する こと で現 在と 過去 とを 結ん でみ た い
︒│
│そ う思 い始 めて から
︑し ばら くが 経つ
︒今 では
︑時 間の 底に 沈ん でし まっ た過 去の 人々 もま た︑ 私達 と同 じ よ うに 豊か な感 情を 持ち
︑毎 日を 暮ら して いた
︒し かし
︑自 らに つい て記 録を 残し て来 なか った 人々 の心 持ち を︑ ど の よう にす れば 知る こと が出 来る のだ ろう か︒ ここ で私 は近 代の 京都 を取 り上 げて
︑芝 居や 活動 写真 の興 行と それ にか かわ る人 々に 目を 向け
︑こ のこ とを 考え て み よう と思 う︒ 場所 は︑ 西陣 であ る︒ 大正 期︑ 五十 万都 市と なっ た京 都で
︑工 業生 産額 の約 四割 を占 めた 主要 産 業 は 西陣 織 で あっ た⑴
︒歴 史 のあ る 織 物 産 地と して
︑京 都経 済を 支え た西 陣の 機業 家数 は約 一万 一千 戸︑ そこ で一 万八 千人 に上 る職 工た ちが 働い てい た︵ 大 正 元 年︶⑵
︒ その た め︑ 西 陣は 新 京 極 と並 ん で 興行 地 区 とし て も 繁 華を 極 め︑ 南 北二 キ ロ メー ト ル︑ 東 西 一キ ロ メ ー
― 485 ―
ト ル ほ どの 矩 形 のな か に︑ 十 数 か所 の 劇 場︑ 寄席
︑活 動 写 真館 が 点 在 した
︵図
︶⑶
︒そ の 賑わ い の 中心 点 は 千 本 中 立 売
︵図 のA
︶で
︑交 差点 の北 東に は最 も賑 やか な一 画﹁ 西陣 京極
﹂が あっ た︒ 歌舞 伎︑ 新派 など の演 劇︑ 浪花 節︑ 落 語 など の諸 芸か ら︑ 玉突 き︑ 大弓
︑空 気銃 とい っ た遊 戯
︑カ フ エー や 牛 肉屋 な ど の 飲食 店
︑さ ら には 待 合 茶 屋ま で
︑ 独 特の 雰囲 気を 醸し 出し てい た⑷
︒ 付近 には 五番 町と いう 遊廓 も形 成さ れ
︑妓 楼 が 建ち 並 ん だ︒ 機業 に 従 事す る 人 々 は この 繁華 街で 遊興 し︑ 興行 にや って 来る 役者 や芸 人は 引き も切 らな かっ た︒ 当時 の新 聞・ 雑誌 を繙 くと
︑西 陣の 繁華 街に つい て数 多く の記 述に 出会 う︒ 本稿 では
︑特 に芝 居や 活動 写真 にま つ わ る テ キス ト を 読み な が ら︑ お よそ 百 年 前の 大 正 初期
︑西 陣 の 芝 居を め ぐ って 生 き た人 々 の 姿 に目 を 凝 ら し て み よ う
︒
一 中 村 千太 郎 一 座│
│ 芝 居の あ り さま 明治
四十 五年
︵一 九一 二︶ 一月 二日
︒西 陣の 劇場 は︑ 正月 休み の人 々で 賑わ いを みせ てい た︒ 中立 売通 大宮 上る の 末 広座 では
︑中 村千 太郎
・花 仙一 座が 興行 を 打っ て い る︒ 一座 は
︑﹁ お へこ
﹂と 称 さ れ た西 陣 職 工た ち の 人気 を 集 め て いて
︑﹁ 大 入 に 付宜 し き 場所 御 坐 なく 候
﹂と 書 い た札 が 木 戸に 下 げ られ る ほ ど の満 杯 ぶ りを 示 し てい た⑸
︒こ の 日 の 演 目 は︑
﹁染 分 手 綱傾 城 三 拍 子
﹂﹁ 名 筆 吃 又 平
﹂﹁ 春 景 色 光 三 門
﹂⑹
で︑ 殊 に﹁ 吃 又﹂ は 千 太 郎 の 十 八 番 の ひ と つ⑺
︑ 手 慣れ た芝 居と いえ た︒ その 興行 のさ なか
︑午 後八 時頃
︑ひ とり の男 が舞 台に 闖入 した
︒役 者は もち ろん
︑お 屠蘇 気分 の観 客た ちも 騒然 と な る
︒﹁ ヘ ン︑ どん な も のぢ や い 俺 も今 日 か らは 俳 優 ぢや
﹂と う そ ぶ く男 は
︑小 長 谷岩 蔵 と いう 四 十 六 歳 の 男⑻
︒ 岩
西陣の芝居をめぐる人々 ― 486 ―
図 西陣の劇場・寄席・活動写真館(大正元年〔1912〕)
― 487 ― 西陣の芝居をめぐる人々
蔵 は︑ した たか 酒を 飲ん だ上
︑末 広座 の楽 屋に 侵入 し︑ 自分 の顔 に白 粉や 紅︑ 眉墨 を塗 って
︑役 者気 取り で舞 台に 上 が った ので ある
︒む ろん
︑す ぐさ ま上 長者 町署 の巡 査に 捕え られ
︑三 日間 の拘 留と なっ た︒ 西陣 の職 工は
︑毎 月一 日と 十五 日が 休み だっ たが
︑正 月の 四日 間や 藪入 り︵ 一月 と盆 に五 日間 ずつ
︶は まと まっ て
と び だ し
休 め る 期間 で あ った
⑼
︒独 身 の 者 など は
﹁籠 の 鳥の 飛 出た や う に
﹂遊 び に 出
︑男 の 職 工 は 酒 食 と 遊 廓 で 散 財 し た⑽
︒ お と な しい 者 や 女工 は
︑新 京 極 や千 本 辺 りで 芝 居 や寄 席 を 観 覧し
︑料 理 屋 で食 事 す るの を
﹁理 想 的 愉快
﹂と し た⑾
︒ 岩 蔵が 所帯 持ち だっ たか どう かは 分か らな いが
︑行 状か らみ て劇 場に は一 人で やっ て来 たら しい
︒彼 もま た︑ 正月 休 み の開 放感 を味 わっ てい た︒ 五年 前の 明治 四十 年︵ 一九
〇七
︶︒ 十 月十 五日 の夜 に千 本座 で観 劇中 だっ た岩 蔵は
︑﹁ 大声 をあ げて 俳優 に対 し演 技 の 批 評 をな し
﹂︑ 警 官の 再 三 の 注意 も 聞 かな か っ た た め 検 束 さ れ て い る⑿
︒そ の 日 は 十 五 日 で︑ 月 に 二 度 の 休 業 日
︒
﹁無 類の 芝居 好﹂⒀
だっ た岩 蔵は
︑芝 居見 物に 来て いた のだ ろう
︒好 きな 酒が 過ぎ て︑ 野次 に及 んだ のか も知 れな い︒ 小長 谷岩 蔵は
︑上 京区 笹屋 町通 大宮 西入 るに 住ん でい たと
︑京 都日 出新 聞︵ 以下
︑日 出新 聞︶ は伝 えて いる
︵図 の 1
︶⒁
︒家 か ら大 宮 通 へ出 れ ば︑ も う 末広 座 の 幟が 遠 く に 立 ち 並 ぶ の が 見 え る
︒三 分 ば か り で 歩 い て 行 け る 距 離 で
︑ 千 本座 や西 陣京 極へ も十 分も あれ ば行 けた
︒岩 蔵が 住ん でい た一 画︵ おそ らく 桝屋 町︶ は︑ 昭和 初期 の資 料だ が﹁ 京 都 市明 細図
﹂︵ 京 都府 立総 合資 料館 蔵︶ によ る と︑ 織 物業 を 営 む家 が 多 い 地域 だ と 分か る
︒岩 蔵 も﹁ 織物 業
﹂だ と 記 事 にあ る︒ 西陣 の機 業の 中心 は糸 屋八 町と 称さ れ︑ その 焦点 は大 宮今 出川
︵図 のB
︶で
︑そ こに 程近 い︒ 岩 蔵は
︑京 都 府 与謝 郡 山 田 村 上 山 田︵ 現・ 与 謝 野 町︶ の 出 身 と い う⒂
︒一 帯 は 近 世 か ら 丹 後 縮 緬 を 産 す る 機 業 地
お ば せ
で
︑山 田村 も隣 接す る加 悦町 や近 在の 村々 とと もに その 一角 を占 め て い た⒃
︒ 小長 谷は こ の 村に 多 い 姓で
︑明 治 期 の 内 国勧 業博 覧会 の受 賞者
︵縮 緬︶ には
︑小 長谷 林二 郎︵ 第三 回
︶や 小 長 谷庄 七
︵第 五 回︶ とい っ た 名が み え る⒄
︒ 盛
西陣の芝居をめぐる人々 ― 488 ―
ん な機 業地 で西 陣と も関 係が 深か った が︑ 縁故 をた どっ たの か︑ 岩蔵 は京 都に 上り
︑織 物業 に従 事し なが ら芝 居見 物 と 酒を 楽し みに して いた ので ある
︒ こ の一 件 が あっ た 翌 週︑ 末広 座 の 舞 台で は
﹁清 水 清 玄
﹂﹁ 岸 姫 松
﹂﹁ お 駒 才 三﹂
﹁ 六 歌 仙﹂ が 上 演 さ れ た︒ こ の 頃
︑ 末 広座 では 週替 りで 演目 が入 れ替 えら れて いた ので ある
︒そ の芝 居は どの よう なも のだ った のか
︑幸 い日 出新 聞の 記 者 がレ ポー トを 残し てい る⒅
︒ 記者 によ れば
︑末 広座 は﹁ 西陣 で比 較的 客筋 が好 いと 云は るゝ
﹂劇 場だ が︑ 大宮 通の 両側 には 藍色 や紅 色の 幟が は た めき
︑﹁ 絵 看板 は例 の悪 ドイ 濃厚 な 色彩 で ゴ テ
!
"
と 描 かれ て
﹂い る
︒入 場 料は 十 二 銭で
︑い わ ゆ る値 安 芝 居︒ 一 月 十日 の夜 はギ ッシ リの 入場 者で あっ た︒ 午後 八時
︑上 演さ れて いる のは
﹁清 水清 玄﹂ 庵室 の場
︒桜 姫に 恋慕 して 清水 寺を 追わ れた 僧・ 清玄 が︑ 再び 出会 っ た 桜姫 に言 い寄 り︑ 最後 は奴 に斬 られ て落 命す ると いう 場面
︒
や つ
見 れば 恋に 贏れ た清 玄が 素肌 に破 れ衣 を纏 ふて 桜姫 に絡 んで 居る
︑清 玄は 誰れ かと 番附 の文 字を 辿る と若 太夫 と
し な だ
こ な し
云 ふ俳 優で 桜姫 が梅 暁で ある から 正に 男女 混合 劇だ
︑然 し其 の清 玄の 桜姫 に綢 繆れ 懸る 身の 態度 たる や自 分も 随 分 多く の演 劇も 見た が是 れほ ど極 端な のは 見た こと がな い︑ 桜姫 が逃 げる
︑夫 れを 追ふ とト ゞ絡 み合 ふて 正に 落 花 狼藉 の有 様を 現出 せん とす る︑ 心あ る者 は密 かに 面を 外け るべ き所 だが 何分 低級 の観 客と て左 うな ると 拍手 喝 采
︑俳 優は これ でも かこ れで もか と云 はぬ 計り に愈 よ発 展し 果て は見 るに 忍び ぬ事 を演 つて 除け る︑ 其処 へ奴 淀
こ
平 がズ カ
!
"
と 花道 から 出て 来て トゞ 清玄 を斬 り付 けた ので 清玄 が倒 れた が再 び起 き上 る顔 を見 ると 斯は 如何 に
い つ ぱ い
こ ゝ
血 糊で 顔充 溢を 染め て凄 惨の 状見 るに 忍び ぬの で愴 惶と して 此座 を逃 げ出 した
― 489 ― 西陣の芝居をめぐる人々
記 者が
﹁是 れ ほ ど極 端 な のは 見 た こ とが な い﹂ と 言う ほ ど︑ 清 玄 が桜 姫 に 絡む 場 面 は濃 密 で 直 接 的 な 芝 居 だ っ た が
︑満 場の 観客 は拍 手喝 采し た︒ 日出 新聞 には
︑こ の年 十二 月か ら西 陣・ 岩神 座に 転 じた 中 村 千太 郎 一 座に つ い て の評 が 載 って い る︒
﹁ 聞く と こ ろ
け んぶ つ
ち やん
お へ こ
に よ る と千 太 郎 以下 何 れ も 此辺 の 観客 の 肌 合を 丁 と 飲 込ん で ゐ て其 手 心 で舞 台 を や﹂ り︑
﹁職 工 党 を 喜 ば せ て ゐ る
﹂ と いう ので ある
⒆
︒こ れを 裏付 ける かの よう に︑ 翌大 正二 年︵ 一九 一 三
︶二 月︑ 新 京極
・夷 谷 座 に出 演 し た千 太 郎 一 座 に対 し
︑同 紙 は﹁ 千 太郎 は 西 陣を 得 意 客と し た だ けに 此 座 へ来 て か らも 大 分 西 陣の 客 を 呼ん で ゐ る﹂ と 記し て⒇
︑ 西 陣に 千太 郎一 座を 贔屓 にす る厚 い客 層が あっ たこ とを うか がわ せる
︒ 中村 千太 郎は
︑﹁ 大 阪俳 優組 合収 入金 調書
﹂︵ 明治 二十 五年 度
︶に よ る と!
︑ 安政 四 年︵ 一 八五 七
︶十 月 二十 五 日 の 生 まれ で︑ この とき 五十 五歳 であ った
︒座 頭を 務め るベ テラ ンで
︑大 正元 年︵ 一九 一二
︶十 一月 には 第二 京極 に新 設 さ れた 女性 演 劇 の 大正 座 に 指導 役 と して 出 勤 し ても い た"
︒ そ の関 連 記 事に
︑﹁ 中 村 千 太郎 は 大 宮末 広 座 で座 頭 を し て 居た 純然 たる 旧役 者﹂ とあ る#
︒ この 芝居 には
︑男 女の 役者 が舞 台に 上が って おり
︑清 玄と 絡み 合う 桜姫 を演 じた 尾上 梅暁 は女 優で あっ た︒ 活動 写 真 で尾 上松 之助 とも 共演 し︑ 後に 別所 ます 江と 名乗 って 映画 女優 と な っ た$
︒ 梅暁 は
︑こ れ 以前
︑夷 谷 座 の女 役 者 一 座 に出 演す るな どし たが
%
︑そ れが 廃れ て男 女混 合劇 に出 るよ うに なっ てい たの であ る︒ つま り︑ この 一座 には
︑ベ テラ ンの 座頭
・中 村千 太郎 と︑ 三桝 稲 丸
︑片 岡 若太 夫
︑中 村 花仙 ら の 男優 陣&
︑そ こ に 経 験豊 富な 女優 の尾 上梅 暁が 加わ って いた
︒こ の頃 すで に新 派は 勃興 し︑ 従来 の歌 舞伎 は﹁ 旧劇
﹂と 称さ れた
︒一 座 も 旧劇 で︑ 女形 もい たが
︑女 優も いる 男女 混成 の芝 居で あっ た︒ さら に︑ 日出 新聞 の記 者は
︑西 陣京 極の 真ん 中に あっ た京 極座 につ い て も 報告 し て いる
︒'
こ の 月︑ 興 行し て い た
西陣の芝居をめぐる人々 ― 490 ―
の は︑ 水澤 国太 郎一 派で あっ た︒ 入場 料 は十 二 銭 均一 で 末 広座 と 同 額 であ る
︵桟 敷 は別
︶︒ 演 目 は︑ 一番 目
﹁九 州 男 児
﹂︑ 二 番目
﹁袖 廼露
﹂︒ 番付 は﹁ 粗末
﹂な もの であ った
︒ 記者 が劇 場に 入っ たと きは
︑﹁ 九 州男 児﹂ の上 演中
︒舞 台 は﹁ 大 文字 楼 の 場で 国 野 の 扮す る 島 津秀 雄 が 眉間 を 徳 利 で 打ち 破ら れて 慷慨 悲憤
︑淋 漓た る鮮 血を 掌へ 受け
﹁男 の面 に⁝
⁝﹂ とか 云つ て意 気込 むと 後を 下座 が受 けて 吟詩 に な る
﹂︒ こ こで も 末 広座 同 様 に 血糊 べ っ たり で 生 々し い
︒芝 居 ぶ りは
﹁何 処 ま でも 甘 い 十年 も 前 の 壮 士 芝 居 の ま ゝ
﹂
こ ゝ ら
こ ん な
お へ こ
う な づ
だ が︑
﹁ 此座 等の 観客 は斯 麼の が大 受で
︑破 れる 様な 喝采
﹂が 湧い たと いう
︒客 は︑
﹁一 見し て織 子と 首肯 ける 輩ば か り
﹂で
︑男 六分 女四 分で あっ た︒ 水 澤一 派 は︑ こ こで 二 年 近く 興 行 を 打っ て い た︒ それ 以 前 は 同じ 西 陣 の福 栄 座 で六 年 間 打 ち続 け て い た と い う か ら#
︑西 陣一 帯で 大変 受け てい たこ とが 分か る︒ 外題 は︑ こち らも 週替 わり だ っ た ので
︑繰 り 返 し訪 れ る 客も 相 当 数 あ った と考 えて よい
︒ 水 澤ら が 長 期興 行 し た福 栄 座 で も︑ 記者 は 観 覧し た$
︒西 陣 と い っ て も 東 南 端 に 当 た る 猪 熊 通 下 長 者 町 上 る に あ る
︒客 は︑ 八分 まで が女 性で あっ た︒ 出し 物は
︑名 古屋 から 来た 岡本 美代 路一 座の 源氏 節芝 居︒ 源氏 節は
︑説 教節 に 新 内節 を混 合し たよ うな 邦楽 だが
︑そ れに 女芝 居を 付属 させ て︑ 名古 屋で 繁盛 した
︒こ の日 の演 目は
﹁当 り星 晴間 の 雲 行﹂
︒
う ちか け
今 舞 台 は何 処 か の裏 庭 ら し く一 人 の 襠裲 姿 の女 が 松 の 根元 に 縛 られ て 居 た︑ 雪 が チ ラ チ ラ
!
"
と 降 る︑ 其 処 へ
や り て
鴇 母 らし い 女 や襠 裲 の 若い 衆 が 出 て其 の 女 を責 め る﹃
⁝⁝ 此 木 村屋 の 薄 雲が 枕 探 し
⁝⁝
﹄と か 云 つ た の が 聞 え た
︑心 行く まで 二人 竹箒 で折 檻し て上 手へ 入る と﹃ 又も さし 込む 持病 の癪
⁝⁝
﹄で 女は 倒れ る︑ 禿が 抜き 足差 し
― 491 ― 西陣の芝居をめぐる人々
や
足 行つ て来 て上 着を 一枚 脱い で其 の気 絶し てる 女に 着せ る︑ 正気 づい た女 と二 人愁 嘆に 暮れ て居 ると 軈が て禿 が 立 去り 又以 前の 男女 が遣 つて 来て 遂に 其の 女を 殺し てチ ヨン と木 の頭
︑
さ なが ら
すゝ り な き
折檻 場で
︑役 者は
﹁女 俳優
﹂だ が︑ 観客 の反 応は
﹁場 内は 宛然 水を 打つ たや う︑ 其処 にも 此処 にも 歔欷 の声 が聞 え る
﹂と いう 様子
︒こ の芝 居も 少し ばか り生 々し く悲 劇的 な趣 きで
︑西 陣の 女性 客に 受け 入れ られ てい たと みえ る︒ そし て︑ 千本 座︒ 映画 監督
・牧 野省 三の 経営 にか かる 劇場 で︑ 千本 通に 面し た一 条下 るに ある
︒こ ちら も演 目は 十 日 で 入 れ替 え だ が︑ 昼夜 二 部 興 行で あ る!
︒ 昼 の部 が
﹁敵 討 肥後 駒 下 駄﹂
︑ 夜の 部 が﹁ 橋 供養 誓 の 文 覚
﹂︑
﹁ 恋 の 緋 鹿
へ こ
子
﹂︑
﹁ 伊達 系図 萩の 一巻
﹂︑ 喜 劇﹁ きの 子の 鬼﹂
︒ 記者 曰 く︑
﹁ 盛り 沢 山 で何 処 ま で もお 織 子向 き に 出来 上 つ て 居る
﹂︒ 入 場料 も︑ 上一 等二 十八 銭︑ 一等 十一 銭︑ 二等 九銭 とい う値 安芝 居で あっ た︒ 出 演は
︑﹁ 横 田 商会 の 活 動写 真 で お 馴染 の 尾 上松 之 助 一座
﹂だ っ た が︑ そ の 演 技 と い え ば︑
﹁ 見 た の は﹃ 恋 の 緋 鹿
さ す
子
﹄の 火見 櫓太 鼓打 の場 だつ たが
︑娘 お七 は総 べて 人形 振り で番 附に は市 太郎 とあ つた
︑遉 が多 年田 舎芝 居の 場数 を 踏 んだ 丈に 誰れ も達 者揃 ひで あつ た﹂ が︑
﹁ 所謂 達者 は達 者だ が悪 達者 と云 ふ﹂ もの だと 記事 は書 く︒ 片岡 市太 郎は
︑ 尾 上松 之助 とと もに 活動 写真 に登 場す る役 者で ある
︒記 者が 見な かっ た昼 の部
﹁敵 討肥 後駒 下駄
﹂は
︑彼 らが 旅回 り で 演じ た得 意の 狂言 で︑ 他に も﹁ 二蓋 笠柳 生実 記﹂ など があ った
︒ 歌舞 伎役 者時 代の 尾上 松之 助に つい ては
︑演 劇評 論家
・三 宅周 太郎 の回 想が ある
︒兵 庫県 加古 川で 育っ た三 宅︵ 明 治 二十 五年 生ま れ︶ は︑ 少年 時代
︑地 元に やっ て来 た松 之助 のフ ァン にな るが
︑京 都の 同志 社中 学校 在学 中︑ 千本 座 で 再び 松之 助の 芝居 を見 る︒ それ は十 五︑ 十六 歳の 頃と いう から
︑明 治四 十年
︵一 九〇 七︶ 頃に なる が︑ 松之 助の 千 本 座出 演は 明治 三十 六年
︵一 九〇 三︶ 二 月に 初 め て確 認 さ れ︑ その 後
︑断 続 的 に出 演 し︵ 旅 興行 も あ っ た︶
︑明 治 四
西陣の芝居をめぐる人々 ― 492 ―
十 二年
︵一 九〇 九︶ 七月 から 座頭 興行 が始 まる
!
︒た だ︑ 三宅 がい つの 興行 を見 たの かは 判然 とし ない
︒ 後︑
私は 中学 は京 都で やつ た︒ と︑ 西陣 の千 本座 と思 ふが
︑小 さい 三流 の小 屋で 尾上 松之 助の 名を 見た
︒私 の 十 五 六 の時 だ ら う︒ なつ か し さ に這 入 つ て見 る と︑ 正 にあ の 松 之 助だ
︒矢 張 り 何か 立 廻 りの 敵 討 物 を や つ て ゐ た
︒が
︑ひ どい 不入 りで
︑恐 しく さび れ た小 屋 だ︒ 少 しは 物 心 のつ い た 私 は︑ もう 一 切 感心 出 来 な かつ た
︒が
︑ 松 之助 も亦 ひど い零 落の 仕方 で︑ そこ では 私の うち の小 屋で 見せ た豪 奢は 一寸 考へ られ なか つた
"
︒ すで
に歌 舞伎 を見 始め てい た中 学生 の三 宅に は︑ 松之 助の 芝居 は見 るに 堪え ない もの であ った
︒松 之助 は︑ 明治 四 十 二年 から 活動 写真 に登 場し スタ ーダ ム を駆 け 上 るが
︑そ の 前 後の 一 座 の 芝居 は
︑記 者 や三 宅 か ら﹁ 悪 達者
﹂﹁ 一 切 感 心出 来な かつ た﹂ と評 され るも ので あっ た︒ 演芸 雑誌 でも
︑西 陣 の 各 座は
﹁場 末
﹂の 劇 場と 表 現 され て い る#
︒ 当 時
︑京 都で 大歌 舞伎 が掛 かる 格の 高い 劇場 は︑ 新京 極の 京都 座と 明治 座︑ 南座 の三 座で あっ た︵ 新京 極・ 歌舞 伎座 は す で に 活動 写 真 館に 転 換︶$
︒ 大 歌舞 伎 と﹁ 場 末﹂ の劇 場 と は︑ 出演 す る 役 者も
︑演 技
︑演 出 も異 な る 別 世 界 と い え た
︒ 西陣 の各 座で は︑ 観客 の感 性に 直接 的に 訴え 掛け
︑感 情を 揺さ ぶっ てい く芝 居︑ また 演出 過多 のし つこ い芝 居が 行 わ れた
︒こ れは
︑職 工を 中心 とし た観 客の 嗜好 を見 極め
︑そ れに 合わ せて 演じ た芝 居で ある
︒観 客も それ に拍 手喝 采 し
︑笑 い︑ 袖を 絞っ た︒ 次節 では
︑さ らに その よう な面 を見 てい こう
︒
― 493 ― 西陣の芝居をめぐる人々
二 石 黒 政之
│
│ ケレ ン の 芸 大正
二年
︵一 九一 三︶ は︑ 正月 から 末広 座で 尾上 松之 助一 座が 人気 を取 って いた が︑ 西陣 京極 の寿 座で は市 川市 鶴 一 座の
﹁千 本桜
﹂な どが 上演 され てい た︒ 寿座 は︑ 三月
︑四 月に は片 岡若 太夫
︵前 年は 中村 千太 郎一 座に 出演 して い た
︶の 一座 が興 行し た︒ 五月 にな って
︑日 出新 聞の 演芸 欄に は次 のよ うな 記 事が 載 っ た︒
﹁西 陣 寿 座は 片 岡 市 之丞 の 一 座に 軽 業 師の 石 黒 政 之 が 加 入し て 前 一番 目
﹁平 仮 名 盛衰 記
﹂切
﹁新 岡 崎猫 化
﹂で 石 黒は こ の 猫 化で 離 れ 業を 見 せ る筈
﹂!
︒ふ だ ん 演 芸 欄 に は余 り取 り上 げら れな い寿 座だ が︑ 今 回は 珍 し く予 告 記 事が 出 た
︒片 岡 市之 正
︵記 事 では
﹁市 之 丞﹂
︶ 一座 に 石 黒 政 之が 加入 して
﹁猫 化で 離れ 業﹂ を見 せる
︑こ れが 注目 され たの であ る︒ 数日 後の 五月 十六 日︑ 寿座 では 今夜 も﹁ 新岡 崎猫 化﹂ が上 演さ れて いた
︒鍋 島や 有馬 と同 じ猫 化も ので ある
︒石 黒 は
︑毎 夜﹁ 化猫 の姿 に扮 して 花道 や舞 台に 吊る しあ る丸 太を 伝ふ 曲芸 を演 じて 観客 を唸 らせ
﹂て いた が︑ この 日は 正 宗 の二 合瓶 を数 本呑 んで 泥酔 状態 で舞 台に 出た
"
︒案 の定
︑花 道の 上の 丸 太 か ら転 落 し︑ 観 劇中 だ っ た織 職
・早 田 久 兵 衛の 妻・ てい
︵五 十一 歳︶ の右 胸部 に腕 をぶ つけ てし まっ た︒ てい は悶 絶し たが
︑医 師に よっ て意 識を 戻し
︑大 事 に は至 らな かっ た︒ しか し︑ 石黒 は上 長者 町署 に連 行さ れ︑ 取り 調べ を受 けた
︒ とこ ろが
︑こ の事 故に もか かわ らず
︑石 黒の 芸は 人気 があ り︑ 同月 末か らは 福栄 座で 彼に よる 同じ 演目 が上 演さ れ て いる
︒こ の前 の四 月中 旬に は︑ 末広 座の 尾上 松之 助一 座で も﹁ 東海 道岡 崎猫
﹂が 上演 され てお り︑ 記録 上は 確認 で き ない もの の︑ 石黒 が出 演し た可 能性 が高 い︒ おそ らく
︑同 じ西 陣の 末広 座︑ 寿座
︑福 栄座 と順 次出 演し てい った の
西陣の芝居をめぐる人々 ― 494 ―
だ ろう
︒ 石 黒政 之 は︑ 新 聞に 予 告 され る の も うな ず け る 著 名 な 軽 業 師 で あ っ た
︒時 事 新 報 に よ る と!
︑ 東 京 生 ま れ の 石 黒 は
︑明 治二 十年 代に 米国 へ渡 って 軽業 を学 んだ
︒彼 の得 意は
︑数 メー トル もあ る長 い丸 太を 足に 履い て歩 き回 る芸 で あ る︒ 屋外 では 二丈 八尺
︵八 メー ト ル余 り
︶︑ 屋 内の 舞 台 でも 一 丈 四︑ 五 尺︵ 四メ ー ト ル余 り
︶の 丸 太を 履 く
︒こ の 独 自の 芸﹁ 丸太 乗り
﹂で 東京 の各 座を はじ め︑ 各地 の舞 台に 出演 した
︒他 にも
︑針 金渡 りや 宙乗 りな どを 得意 にし た と いう
︒転 落事 故を 起こ した
﹁岡 崎猫
﹂は
︑丸 太乗 りで はな く丸 太渡 りで あっ たら しい
︒化 猫だ けに
︑木 を伝 う演 出 だ った のだ ろう
︒ 経歴 を詳 しく 紹介 した 時事 新報 の連 載記 事は
︑石 黒が 東京
・歌 舞伎 座に 出演 した 明治 三十 六年
︵一 九〇 三︶ 四月 に 掲 載 さ れて い る︒ そ の頃 す で に 人気 を 呼 んで い た わけ だ が
︑西 陣・ 寿 座の 出 演 はそ の 十 年後 で あ る︒ 彼 の 芸 が 長 い 間
︑観 客を 驚嘆 させ てい たこ とが 分か る︒ この よう なケ レン の芸 は︑ 石黒 の専 売特 許で はな かっ た︒ 寿座 では
︑大 正五 年︵ 一九 一六
︶五 月︑ 福本 静雄 一座 の 連 鎖劇
︵活 動写 真と 芝居 の混 合劇
︶が 興行 さ れた
︒﹁ 初 午 詣﹂ とい う 演 目で
︑福 本 が 刑 事に 追 わ れる 毒 婦 に扮 し て 客 席 上に 張ら れた 針金 を伝 って 逃げ る演 出で あっ た︒ しか し︑ その 途中
︑針 金を 吊っ てい た縄 が切 れ︑ 福本 は真 っ逆 さ ま に転 落し て女 性客 を気 絶さ せて しま う"
︒ 追わ れた 毒婦 が針 金を 渡る シー ンが
︑客 受け を狙 った 設定 とい えた
︒ また
︑第 二京 極・ 大正 座や 西陣
・岩 神座 でも
︑大 正四 年︵ 一九 一五
︶一 月に は︑ 紀伊 国屋
︵沢 村︶ 源之 丞の
﹁猫 退 治
﹂や
﹁狐 忠 信﹂ の 芝居 が 行 われ た#
︒新 聞 は︑ 源 之丞 を
﹁ケ レ ン師
﹂と 呼 ん でい る$
︒猫 化 も の の﹁ 猫 退 治﹂ は 綱 渡 り的 な芸
︑﹁ 義 経千 本桜
﹂の 狐忠 信は 宙乗 りで は な かっ た ろ うか
︒源 之 丞 は︑ 大 正五 年 八 月の 新 京 極・ 歌舞 伎 座 盆 興 行に も出 演し
︑﹁ 藤 城山 佐竹 古猫
﹂で 綱渡 りを 見せ た︒
― 495 ― 西陣の芝居をめぐる人々
石黒
︑福 本︑ 源之 丞ら の軽 業師 は︑ 各地 を渡 り歩 いて
︑そ の都 度一 座に 加わ りな がら
︑猫 化な ど特 定の 演目 で観 客 の 目を 引い たの であ った
︒服 部幸 雄は
︑近 代に お ける ケ レ ンに つ い て︑
﹁正 当 な 芸 の本 道 か ら外 れ る 異端 の 業 で︑ ま と もな
﹁演 劇﹂ では 観客 に受 けな いた め︑ いわ ゆる
﹁俗 受け
﹂を ねら った 演じ 方で あり
︑小! 芝! 居! のす るい けな いこ と だ と い う軽 蔑
︑差 別 のニ ュ ア ン スが こ め られ て い た﹂! と 的確 に 述 べ てい る
︒し か し︑ 南座 で も︑ 大 正四 年 四 月 上 旬 の
﹁有 馬猫
﹂で
﹁身 軽な 放業
﹂を 見せ る役 者が お り︑
﹁観 客 は 軽業 師 を 臨時 に 傭 入 れた の だ らう と 噂 して 居 る
﹂と い う 新聞 記事 があ る"
︒ その 演技 は﹁ 奥田 社中 の軽 業も 物か わ﹂ で︑ 主演 の早 替 り や 宙乗 り も あっ て
︑松 旭 斎天 勝 一 座 を 思わ す﹁ 奇術 と軽 業︑ 変梃 古な 芝居 が幅 を利 かす こと ゝな つた も の 也﹂ と 慨嘆 さ れ てい る#
︒奥 田 社中 と は
︑大 阪
・ 千日 前の 見世 物興 行師 であ る奥 田弁 次郎 一党 を指 す︒ 観客 を引 き付 ける ケレ ンの 演出 が︑ 大歌 舞伎 の劇 場に まで 波 及 して いた こと が分 かる
︒ 石黒 政之 は歌 舞伎 役者 では なく
︑福 本静 雄も 名前 から して 同様 だろ う︒ ここ には
︑歌 舞伎 役者 だけ で芝 居を する の で はな く︑ 見世 物的 な軽 業師 も招 き入 れて 観客 を喜 ばせ よう とい う柔 軟性 があ る︒ これ は前 節で みた 女優 を交 えた 男 女 混 成 芝居 に つ いて も 同 様 で︑ 男性 の 歌 舞伎 役 者 だけ で 芝 居 する と い うセ オ リ ーか ら
︑い と も たや す く 外 れ て し ま う
︒西 陣の 芝居 には
︑今 日私 達が 考え る型 には まっ た歌 舞伎 像と は異 なる 奔放 さが 感じ 取れ る$
︒ 三
中 村 花仙
│
│ 役者 と 観 客の 距 離 同じ
大正 二年
︵一 九一 三︶ の六 月下 旬︑ 西陣 の末 広座 では
︑尾 上松 之助 を座 頭格 とし て︑ 中村 花仙 らが 加わ った 興 行 が行 われ てい た︒ この とき
︑中 村千 太郎 は岩 神座 や新 京極
・夷 谷座 など に転 じて いた
︒
西陣の芝居をめぐる人々 ― 496 ―
そん な六 月二 十九 日︑ 撚糸 業の 雇人
・社 常次 郎︵ 二十 四歳
︶と 猪飼 松太 郎︵ 二十 一歳
︶が
︑金 に窮 して 主家 の羽 二 重 を 窃 盗︑ 換金 し 逮 捕さ れ る と いう 事 件 が起 こ っ た!
︒ 羽 二 重 は 六 百 円 相 当 と い う 高 価 な 品 で あ っ た︒ 犯 行 の 理 由 は
︑末 広座 に出 演中 の﹁ 花仙 等の 女形 役者 に凝 り 花環 や 金 を入 れ 揚 げ﹂ たた め だ っ たと い う︒ 巡 査の 月 給 が 十六 円
︑ 大 工の 日当 が一 円だ った 時代
"
︑六 百円 と言 えば 法外 な金 額で ある
︒ 翌三 年︵ 一九 一四
︶四 月に も︑ 三十 歳の 女性
・河 那邊 きく
││ 室町 御霊 神社 前下 るの 紋上 絵業 者・ 河那 邊幸 吉の 妻
│
│が
︑末 広座 の中 村花 仙の 楽屋 に上 がり 込ん だと して 警察 から 厳重 注意 され
︑興 行主 も科 料に 処さ れる とい う出 来 事 があ った
#
︒観 客を 舞台 や楽 屋に 上げ る行 為は
︑劇 場興 行場 取締 規則 で禁 じら れて いた ので ある
$
︒ 女性 は言 うに 及ば ず︑ 若い 男性 にま で人 気を 博し た中 村花 仙と は︑ どん な役 者だ った のか
︒花 仙は 本名 を横 木卯 之 助 とい い%
︑ 前出
﹁大 阪俳 優組 合収 入金 調書
﹂に よれ ば︑ 明治 二十 五年 当 時
︑末 等 の第 九 等 俳優 に 過 ぎず
︑尾 上 梅 之 助 を 名 乗っ て い た︒ 六代 目 尾 上 梅幸 の 門 弟と も さ れる が&
︑第 一 等 の 中 村 鴈 治 郎 ら と は 年 収 で 七 十 倍 も の 格 差 が あ る
︒明 治十 三年
︵一 八八
〇︶ 十一 月十 四日 生ま れ'
︑ 下積 みか ら役 者人 生 を 振 り出 し て︑ 大 正二
︑三 年 と いえ ば 三 十 三
︑四 歳で ある
︒女 形と して 十分 美し かっ たこ とは 想像 に難 くな い︒ 西陣 には
︑明 治四 十四 年︵ 一九 一一
︶一 月に 嵐芳 五郎 一座 の一 員と して 寿座 に出 演し たこ とが 確認 され
︑同 年八 月 末 から は延 々と 末広 座に 出勤 し続 けた
︒共 演者 は︑ 中村 千太 郎︑ 尾上 松之 助︑ 實川 百々 之助
︑三 桝源 五郎 など と変 わ る が︑ 大正 三年 十月 上旬 まで は︑ おお むね 連続 的に 出演 して いた と考 えら れる
︒十 月中 旬か ら一 旦出 勤が 途切 れる も の の︑ 大晦 日か ら花 仙は 再び 松之 助と と もに
﹁石 山 軍 記﹂
﹁お 園 六 三﹂ の舞 台 に 上 る︒ 彼の 末 広 座出 演 が 記録 で 確 認 で きる 最後 は︑ 大正 四年
︵一 九一 五︶ 一月 末日 から の﹁ 実録 先代 萩﹂ の舞 台で ある
︒そ れか らし ばら く後 の三 月上 旬 か ら︑ 末広 座で は青 年俳 優一 座が 始ま り︑ 夏に は喜 劇の 瓢々 会が 興行 する など 趣き を変 えて いっ た︒
― 497 ― 西陣の芝居をめぐる人々
この よう に︑ 中村 花仙 は連 続し て三 年に わた って 末広 座に 出勤 し続 けた わけ であ る︒ 共演 する 役者 たち は変 わっ て も
︑花 仙自 身は 西陣 で大 きな 人気 を取 り続 けて い た役 者 で あっ た
︒河 那 邊き く と の 一件 を 報 じた 記 事 に も︑
﹁同 座 に て の花 形と して 西陣 界隈 に持 て囃 さる ゝ中 村花 仙﹂ と記 され てい る︒ 末広 座は
︑大 正六 年︵ 一九 一七
︶三 月に 焼失 す る が!
︑ 彼は この 劇場 のド ル箱 スタ ーの 一人 に違 いな かっ た︒ 当時
︑末 広座 では
︑﹁ 興 行取 締規 則に 頓着 なく 屡々 観客 た る 婦女 子 の 楽屋 に 出 入 りす る を 黙認 す る﹂ 風 潮が あ っ た ら しい
︒そ の夜
︑上 長者 町署 の部 長巡 査た ちが 踏み 込ん だ時
︑中 村花 仙と 一緒 に︑ 河那 邊き くと お付 きの 下女
・菅 沼 ち え︵ 二十 歳︶ が楽 屋に いた
︒き くに 事情 を問 うと
︑夫
・幸 吉も 承知 の上 で花 仙を 訪ね たと 述べ るの だが
︑夫 を呼 ぼ
ど う ぞ
う かと 言う と﹁ 万望 それ 許り は﹂ と謝 罪す るあ りさ まだ った とい う︒ どう やら 家紋 を描 き入 れる 仕事 をし てい る夫 に は 黙っ て︑ たび たび 楽屋 を訪 ねて いた のだ ろう
︒ 役者 に入 れ込 む女 性は
︑き くだ けで はな かっ た︒ 西陣 京極 の京 極座 に出 勤中 の役 者・ 市川 金玉 と﹁ 情を 通じ
﹂た 二 木 はる は︑
﹁ 夫婦 気取 りで 暮ら さん と﹂ した が︑ 金に 困っ て 窃 盗に 及 び︑ 千 本中 立 売 上 るの 呉 服 店で 浴 衣 と白 金 巾 を 購 入し て金 玉に 与え た"
︒ それ が発 覚し て逮 捕さ れ︑ 新聞 沙汰 にな っ た
︒こ の 時︑ はる は 十 八歳
︑金 玉 こ と出 口 金 吉 は 二十 一歳
︒は るは 以前 にも
︑壮 士劇 の役 者・ 円山 仁郎 と情 を通 じ︑ 母の 預金 二百 六十 円を 引き 出そ うと する 直前 に 発 覚し たこ とも あっ た︒ 京都 の他 の興 行街 でも
︑同 様の こと は頻 繁に あっ た︒ 西村 しよ とい う三 十一 歳の 女性 が︑ 新京 極・ 夷谷 座に 出演 す る 實川 延三 郎に 入れ 揚げ
︑義 父の 預金 八百 円を 延三 郎に つぎ 込ん だ︒ 延三 郎の 死後 は活 動弁 士に 興味 を移 した が︑ 金 に 困っ て知 人の 着物 を詐 取す るな どし て逮 捕さ れた
#
︒ 七条 大宮 の宝 座は
﹁男 䑢窟
﹂だ とい う投 書が 新聞 に掲 載さ れた
︒$
投 書 子 が 幕間 に 便 所に 行 く と︑ 五︑ 六人 の 女 性
西陣の芝居をめぐる人々 ― 498 ―
うま の あ し
が や か まし く 話 をし て い る︒ 何 事か と 尋 ねる と
︑小 紅 屋︵ 屋号
︶と い う 馬脚 が 便 所に い る と噂 し 合 っ て い た の で あ る
︒﹁ 馬 脚﹂ だか ら︑ 端役 程度 の駆 け出 し役 者 だ ろう
︒投 書 子 は﹁ 呆れ た
﹂と 切 り 捨て る が︑ 女 性た ち は 興味 津 々 で あ る︒
﹁ 男䑢 窟﹂ と称 され るほ どの 宝座 では
︑こ のよ うな 風景 が日 常茶 飯事 だっ たら しく
︑明 治四 十五 年︵ 一九 一二
︶ の 新聞 には
﹁遠 い記 憶を 辿る と該 座の 俳優 に入 れ揚 げて 遂に 其筋 の厄 介に なつ た女 の二 三な らず ある
﹂こ とが 述べ ら
や くし や
ご け
れ てい る!
︒﹁ 場末 の 芝 居小 屋 な どに て は 所謂 馬 脚 俳優 と 見 物人 側 の 娘寡 婦 さて は 夫 あ る身 の 細 君な ど の 間に 醜 関 係 の 結ば れ﹂ るケ ース もあ ると 報じ る記 事も みら れる
"
︒ これ らは
︑そ れぞ れの 役者 に贔 屓の 客が 付い てい る︑ とい うふ うに もい える
︒も ちろ ん︑ 男性 の役 者が 女性 客を だ ま して 誘惑 する ケー スの 指摘 もあ った が#
︑ その 捉え 方は 一面 的だ ろ う
︒当 時︑ 観 客と 役 者 の距 離 は 存外 に 近 く︑ 俚 諺 にい う﹁ 江戸 の大 関よ り故 郷の 三段 目﹂ の感 覚で
︑地 元に 根付 いた 役者 に 入 れ 込ん で い た姿 が 目 に浮 か ぶ$
︒大 歌 舞 伎に 典型 であ る階 層的 な役 者の 格付 けは 余り 感じ られ ず︑ 自分 たち と同 じ世 界に いる 魅力 的な 役者 に惚 れ込 む︑ た と えそ れが
﹁馬 脚﹂ であ って も︑ とい う形 が見 て取 れる ので ある
︒ 四
尾 上 松之 助
│
│役 者 の 家 京都
で活 動写 真の 撮影 を行 って いた 横田 商会 は︑ 明治 四十 五年
︵一 九一 二︶ 一月
︑御 前通 一条 下る 西側 に︑ 通称
・
ほ っ け んど う
法 華堂 撮影 所を 完成 させ た︒ のち の日 活関 西 撮影 所 で ある
︵図
︶︒ こ こ で撮 影 さ れ た活 動 写 真に よ っ て︑ 日本 最 初 の 映 画ス ター にな った のが 尾上 松之 助で あっ た︒ 松之 助は
︑旅 役者 とし て地 方を 巡業 し︑ 明治 四十 二年
︵一 九〇 九︶ 七 月 か ら 西陣
・千 本 座︑ さ らに は 同・ 末 広 座の 舞 台 で芝 居 を する ロ ー カ ルス タ ー であ っ た︒ 明 治四 十 二 年 十 二 月 以 降
― 499 ― 西陣の芝居をめぐる人々
は
︑そ れ と 並行 し て 活動 写 真 俳 優と し て 銀幕 に 登 場し
︑全 国 に 名 を馳 せ る よう に な る︒ それ で も︑ 末 広 座 へ の 出 演 は
︑大 正四 年︵ 一九 一五
︶一 月ま で続 いた
!
︒ そ んな 松 之 助が 活 動 写真 に 専 念 し始 め た 頃︑ 雑誌
﹁活 動 之 世 界﹂ 大正 五 年 三月 号 に︑ 岡 村美 山 子 と い う 女 性 か ら
﹁尾 上松 之助 を訪 ふ﹂ と題 した 投稿 が載 せら れた
"
︒投 稿は
︑﹁ 北野 天神 行の 電車 の 終 点 を西 へ 一 条御 前 通 西入 る 大 東 町 日活 関西 撮影 所に 行く
﹂と 始ま る︒ 岡山 市に 住む 彼女 は︑ 京都 駅に 降り 立ち
︑京 都電 気鉄 道︵ 京電
︶に 乗っ て終 点 の 北野 に至 った のだ ろう
︒撮 影所 を訪 ねて み ると
︑あ い に く撮 影 の ない 日 だ っ た︒
﹁さ び し い撮 影 場﹂ を 見終 え た 美 山 子は
︑そ のま ま松 之助 の家 を訪 問す るの であ る︒
﹁ 出水 通千 本東 入る の物 静か の町 に着 た頃 は早 家々 の軒 に は 紅の 灯 火 がち ら ち ら に降 り 来 る雪 と 一 しほ 美 し
﹂い 宵 に なっ てい た︒ 門灯 には
﹁音 羽屋
﹂の 文 字︑
﹁中 村 鶴 三﹂ の門 札 が 掛け ら れ て いる
︒下 女 に 来意 を 告 げる と
︑二 階 に 通 され
︑し ばら く待 たさ れた
︒部 屋の 中を 見回 すう ちに
︑階 段を 上っ て松 之助 が現 れ︑ 忙し い日 々の 話│
│月 に七 本 も 撮影 する こと
︑今 度忠 臣蔵 を撮 るの でど こか の城 へ行 くこ とな ど│
│を 語っ てく れる
︒そ して
︑自 分は 今夜 八時 か ら 会が ある ので
︑と 去っ て行 った
︒美 山子 は︑ その あ と夫 人 た ちか ら 面 白い シ ネ マ の話 を 聞 き︑
﹁そ の 夜 優の 家 の 二 階 の温 い布 団の 中に やす んだ
﹂の であ る︒ 誰も が驚 くの は︑ 岡山 から 来た 女性 を松 之助 が自 宅に 泊め たと いう こと だろ う︒ 岡山 は彼 の出 身地 だが
︑親 戚と い っ たふ うで もな い︒ 投書 中に も﹁ 写真 では 顔見 てゐ たけ れど 素顔 の対 面は 今日 が初 めて
﹂と ある
︒面 会中
︑松 之助 が
﹁方 々か ら毎 日会 ひに 来て 下さ る方 が多 くあ りま すけ れど も お 目に か ゝ る事 が 出 来 ない
﹂多 忙 さ を語 っ て いる こ と か ら み て︑ 彼 女が 遠 方 から 来 た 女 性で
︑日 没 頃 だっ た こ とな ど も 勘 案し て
︑家 に 上げ
︑泊 ま る よう に 勧 め た の だ ろ う か
︒も しか する と事 前に 手紙 でも 出し てい たの かも 知れ ない が︑ 松之 助の もと には 全国 から 毎日 何十 通と なく 来信 が
西陣の芝居をめぐる人々 ― 500 ―
あ り!
︑ 到底 覚え ては いら れな い︒ 松之 助の 家は
︑比 較的 しも たや の多 い千 本 出 水東 入 る にあ っ た︵ 図 の2
︶︒ 彼 の 住所 は
︑当 時 雑誌 な ど に紹 介 さ れ て おり
︑誰 もが 知っ てい た︒ この 頃の 活動 写真 ファ ンは
︑美 山子 のよ う に出 演 者 を身 近 に 感じ る 傾 向 が強 か っ た︒
﹁活 動 写 真雑 誌
﹂に Hと い う 男 性か ら﹁ 私が 見た る實 川延 一郎
﹂と いう 投稿 が掲 載さ れた
"
︒詳 細な 延 一 郎 評だ が
︑冒 頭 に﹁ 私は 現 在 京都 に 住 ん で ゐる 丈け に延 一郎 なる 者を 見た 事 も 三四 度 位 では な い﹂ と 述 べて い る︒ Hは 吉 田 町︵ 現・ 左京 区
︶在 住 だ った が
︑ 撮 影 時 の延 一 郎 を見 掛 け た り︑
﹁冬 の 或 る日
︑セ ル の 袴を つ け て マン ト 姿 で帽 子 ま ぶか に 歩 い てゐ る の を 見 受 け た
﹂ こ とも あっ た︒ 實川 延一 郎は
︑も とは 九代 市川 団十 郎に 師事 し︑ 實川 延三 郎と 兄弟 分と なっ た大 歌舞 伎出 身の 役者 で あ る#
︒ 後に 活動 写 真 に転 じ
︑松 之 助 に匹 敵 す る人 気 を 誇っ た
︒明 治 三 年︵ 一八 七
〇︶ 生 まれ と い うか ら$
︑す で に 四 十歳 代半 ばで
︑住 まい は国 技館 など の興 行場 があ る三 条通 千本 東入 るに あっ た%
︒ 松 之助 と と もに 活 動 写真 に 出 演 した 役 者 たち は
︑ど こ に 住ん で い たの だ ろ うか
︒一 座 の﹁ 殿 様 役者
﹂と 言 わ れ&
︑ 松 之 助 と異 な る 持ち 味 の 嵐 橘楽 は
︑千 本 中立 売 か ら 程 近 い 六 軒 町 通 中 立 売 上 る 三 軒 町 西 入 る に 住 ん だ︵ 図 の3
︶'
︒ 橘 楽は
︑大 阪の 役者
・嵐 璃喜 蔵の 子で
︑實 川延 二郎
︵二 代實 川延 若︶ の一 座に 加わ った 後︑ 旅興 行に 出た
︒年 月を 経 て
︑西 陣・ 千本 座の 舞台 に上 り︑ 松之 助と 共演
︒松 之助 の初 の活 動写 真作 品﹁ 碁盤 忠信
源 氏礎
﹂に も出 演し た主 力 役 者で ある
(
︒ 松之 助の 弟と いう 触れ 込み もあ った
︵実 際は 異な る︶ 片岡 市太 郎は
︑女 形と して も人 気が あっ たが
︑今 出川 通七 本 松 下 る 真盛 町 西 入る に 住 ん でい た
︵図 の4
︶)
︒ま た︑ 一 座を 代 表 する 女 形 の 片岡 長 正 は︑ 撮影 所 か ら歩 い て す ぐ の 御 前通 下長 者町 下る 西上 之町 東入 るに 独り 住ま いし てい た︵ 図の 5︶*
︒
― 501 ― 西陣の芝居をめぐる人々
これ らの 住所 は︑ 当時 の活 動写 真雑 誌の 質問 欄で 回答 され てお り︑ 読者 の興 味の あり かが 示さ れて いる
︒ 改め て図 を見 ると
︑千 本中 立売
︵A
︶を 中心 とす る半 径五 百メ ート ル余 りの 範囲 に︑ 撮影 所︑ 役者 の家
︑劇 場が 集 ま って いる
︒そ して
︑そ の周 りに は職 工た ちの 仕事 場と 住ま いが あっ た︒ 狭い エリ アに 演じ る者 と観 る者 とが 共存 す る 環境 は︑ 地元 密着 の贔 屓を 作る
︒右 にあ げた 映画 俳優 たち は︑ 映画 俳優 が全 国区 のス ター
︑高 嶺の 花に なる 以前 の 形 を示 して おり 興味 深い
︒ お
わ り に 大正
四年
︵一 九一 五︶ 春︑ 西陣 の末 広座 では
︑長 く続 いた 中村 花仙 らの 出演 が終 わり
︑青 年俳 優一 座の 興行 が始 ま っ た︒ 五月 に︑ 若い 役者 が女 性と 金に 絡む 刃傷 沙汰 を起 こし た!
他 は大 した 事 件 も なく
︑夏 に は 新京 極 か ら出 張 っ て 来 た喜 劇・ 瓢々 会が 興行 して 人気 を博 した
︒ 年の 暮れ とな り︑
﹁ 活動 写真 雑誌
﹂十 二月 号に
︑京 都 在 住の フ ァ ン・ 末葉 子 か ら︑ 京 都の 動 向 に関 す る 投稿 が 寄 せ ら れた
︒尾 上松 之助 や實 川延 二郎
︑静 間小 次郎 らに まつ わる 気の 利い たエ ピソ ード が綴 られ たあ と︑ こん なこ とが 書 か れて いる
︒ 市川
福枝 と云 ふ役 者︑ 此程 死ん だ花 仙の 男衆 と一 緒に 遊び に来 て︑ かつ て自 分が 巡業 中の 出来 事や 何や かや 話 し て呉 れた 後︑
﹁ 末広 座も 花仙 さん が亡 くな つた ので 大 そ う人 気 が 落ち ま し た が︑ 此度 自 分 が加 入 し たの で や つ と 人気 を盛 り返 す事 が出 来ま した
︒何 分 御評 判 の 程を
⁝⁝
︒﹂ そ れ に間 も な く 一座 は 解 散︑ 中に 梅 之 助は 日 活 に
西陣の芝居をめぐる人々 ― 502 ―
走 るし 其他 はど うな つた 事ぢ やや ら⁝
⁝!
︒ 末広
座に 出演 しな くな った 中村 花仙 は︑ この 年︑ 死ん でい たの であ った
︒何 月の こと なの か︑ 記録 がな いの で分 か ら ない が︑ 話の 主・ 市川 福枝 は五 月十 四日 の公 演か ら末 広座 に加 入し てい る︒ 人気 にも かか わら ず︑ 花仙 が前 年秋 に 出 演を 一時 止め てい たの は病 に侵 され たた めか も知 れな い︒ いず れに せよ
︑三 十歳 代半 ばで の早 すぎ る死 であ った
︒ 管 見で は
︑中 村 花仙 の 訃 報は 新 聞 な どに は 見 当 た ら な い"
︒ も ち ろ ん
︑当 時 で も 役 者 の 訃 報 は 新 聞 掲 載 さ れ て お り
︑同 時 期 にも
﹁嵐 橘 三 郎逝 く
﹂と い っ た 記 事 が 載 せ ら れ て い る#
︒浪 曲 師
・桃 中 軒 雲 右 衛 門 ほ ど の 有 名 人 に な る と
︑﹁ 雲 右 衛門 血 を 吐く
﹂︑
﹁ 雲 右衛 門 全 快﹂ な どと 記 事 にな っ て いる
︒$
花 仙 の 死 が新 聞 記 事で は な く︑ 読 者 の 投 稿 に よっ て伝 えら れる とい うの は︑ 西陣 の芝 居の 位置 を考 える 上で 示唆 的な こと に思 える
︒ 本稿 に引 用し てき た史 料の ほと んど は︑ 西陣 の芝 居を ふだ ん見 てい た人 たち 自身 が書 いた もの では ない
︒そ の多 く は
︑い つも は大 歌舞 伎を 見て いる 人︑ ある いは 新京 極を 中心 に芝 居を 見て いる 人た ちの 言葉 であ る︒ その ため
︑文 章 の 端々 に西 陣へ の侮 蔑感 が表 れて いる
︒殊 に︑ 第一 節で 引用 した 新聞 記事 の多 くは
︑明 治期 の記 者が 得意 とし た探 訪 も のの 一種 とい える
︒西 陣の 芝居 は︑ 演劇 評の 対象 では なく
︑探 訪さ れる べき 対象 とし て彼 らの 目に 映っ てい たの で あ る%
︒ 三宅 周太 郎の 回想 で﹁ 小さ い三 流の 小屋
﹂と 言わ れた のが 西陣 の劇 場で あっ た︒ それ は﹁ 小芝 居﹂ に相 当す るも の で
﹁大 芝居
﹂と は交 流し ない ロー カル な存 在 であ り
︑旅 役 者の 寄 留 地で あ っ た︒
﹁ 泥芝 居
﹂と 賤 称さ れ た 活動 写 真 の 俳 優が 最初 に西 陣か ら生 まれ たの は︑ 当地 の芝 居が 京都 のな かで も格 下に 位置 付け られ てい たか らで ある
︒そ んな 尾 上 松之 助ら が全 国区 のス ター に駆 け上 った のは
︑活 動写 真が 持つ 複製 性の 皮肉 だが
︑ス ター 視し たの は観 客の 側だ け
― 503 ― 西陣の芝居をめぐる人々
で
︑役 者の 世界 では あく まで 格下 のま まで あっ た!
︒ 本稿 では
︑芝 居の 内容 に注 目す ると とも に︑ 些末 と も思 わ れ る舞 台 外 の出 来 事 に も目 を 向 けて き た︒ そ の 理由 は
︑ 舞 台上 の出 来事 も舞 台外 の出 来事 も︑ すべ て同 じ人 々 の同 じ 時 間の な か で起 き て い るこ と だ から で あ る︒ 西 陣で は
︑ 舞 台上 と舞 台外 の距 離や
︑役 者と 観客 の距 離が 近い
︒そ のた め︑ 芝居 とそ の周 辺を 知る こと を積 み重 ねれ ば︑ 人々 の 感 受性 にも 接近 しや すい と思 われ る︒ そこ では
︑過 去が 残し た手 掛か りに どの よう にア プロ ーチ する のか
︑読 解の 方 法 が求 めら れる ので ある
︒ 註
⑴ 京 都 市 編
﹃ 京 都 の 歴 史
﹄ 八
︑ 学 芸 書 林
︑ 一 九 七 五 年
︑ 四
〇 一 頁
⑵
﹃ 西 陣 機 業 概 観
﹄ 京 都 市 立 第 二 商 業 学 校
︑ 一 九 一 五 年
︑ 五
〇
〜 五 三 頁
⑶ 本 図 は
︑﹃ 京 都 府 誌
﹄ 下
︑ 京 都 府
︑ 一 九 二
〇 年
︑﹃ 近 代 歌 舞 伎 年 表 京 都 篇
﹄ 別 巻
︵ 京 都 市 劇 場 史 略 図
︶ 八 木 書 店
︑ 二
〇
〇 五 年
︑ 京 を 語 る 会 ほ か 編
﹃ 西 陣 の 史 跡 思 い 出 の 西 陣 映 画 館
﹄ 京 を 語 る 会
︑ 一 九 九
〇 年
︑ 及 び 当 時 の 新 聞 記 事 を も と に 作 成 し た
︒
⑷
﹁ 京 都 日 出 新 聞
﹂︵ 以 下
﹁ 日 出 新 聞
﹂︶ 大 正 二 年 三 月 十 八 日
〜 二 十 日 付
︑﹁ 華 洛 繁 盛 記
︵ 三
︶〜
︵ 五
︶ 西 陣 京 極 の 発 展
﹂ 等 に よ る
︒
⑸
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 四 日 付
︒ な お
︑ 新 聞 記 事 は 基 本 的 に 総 ル ビ で
︑ 傍 点 等 が 多 数 付 さ れ て い る が
︑ 引 用 に 際 し て は 煩 雑 を 避 け る た め 大 方 を 省 略 し た
︒
⑹ 国 立 劇 場 近 代 歌 舞 伎 年 表 編 纂 室 編
﹃ 近 代 歌 舞 伎 年 表 京 都 篇
﹄ 五
・ 六
︑ 八 木 書 店
︑ 一 九 九 九
・ 二
〇
〇
〇 年
︒ 以 下
︑演 目
・ 演 者 等 に つ い て 特 記 し な い 場 合 は 本 書 の 記 載 に よ る
︒
⑺
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 元 年 十 二 月 十 二 日 付
⑻
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 四 日 付
⑼ 前 掲
﹃ 西 陣 機 業 概 観
﹄ 七
〇 頁
西陣の芝居をめぐる人々 ― 504 ―
⑽
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 四 年 一 月 二 日 付
⑾ 前 掲 紙
⑿
﹁ 大 阪 朝 日 新 聞 京 都 附 録
﹂ 明 治 四 十 年 十 月 十 七 日 付
⒀
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 四 日 付
⒁ 前 掲 紙
⒂ 前 掲 紙
⒃ 与 謝 郡 役 所 編
﹃ 京 都 府 与 謝 郡 誌
﹄ 与 謝 郡 役 所
︑ 一 九 二 三 年
︑ 一
〇 一 九
〜 一
〇 三 七 頁
⒄ 加 悦 町 誌 編 纂 委 員 会 編
﹃ 加 悦 町 史 資 料 編
﹄ 二
︑ 与 謝 野 町 役 場
︑ 二
〇
〇 八 年
︑ 五 六
〇
〜 五 六 三 頁
⒅
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 十 六 日 付
︒ 以 下
︑ こ の 記 事 に よ る
︒
⒆
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 元 年 十 二 月 十 二 日 付
⒇
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 二 年 二 月 十 九 日 付
! 飯 島 満 翻 刻
﹁ 上 方 歌 舞 伎 俳 優 給 金 調
﹂︵
﹁ 歌 舞 伎 研 究 と 批 評
﹂ 二 十 七 号
︑ 二
〇
〇 一 年
︶
"
濱 野 松 風
﹁ 京 都 の 女 優 劇
﹂︵
﹁ 演 芸 画 報
﹂ 大 正 二 年 七 月 号
︶
# 前 掲 誌
$ 田 中 純 一 郎
﹃ 日 本 映 画 発 達 史
﹄
Ⅰ
︑ 中 央 公 論 社
︑ 一 九 五 七 年
︑ 一 三 五 頁
% 濱 野 松 風
﹁ 新 京 極 記
﹂︵
﹁ 演 芸 画 報
﹂ 大 正 二 年 十 一 月 号
︶︑ 前 掲
﹁ 京 都 の 女 優 劇
﹂
&
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 十 六 日 付 '
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 二 十 一 日 付
︒ 以 下
︑ こ の 記 事 に よ る
︒ ( 前 掲 紙 )
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 十 九 日 付
︒ 以 下
︑ こ の 記 事 に よ る
︒
*
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 二 十 日 付
︒ 以 下
︑ こ の 記 事 に よ る
︒ + 大 矢 敦 子
﹁ 尾 上 松 之 助 の 舞 台 と 映 画 の 関 連 性
﹂︵
﹁ア ー ト リ サ ー チ
﹂vol.6
︑ 二
〇
〇 六 年
︶ , 三 宅 周 太 郎
﹁ 役 者 尾 上 松 之 助
﹂︵ 三 宅
﹃ 演 劇 評 話
﹄ 新 潮 社
︑ 一 九 二 八 年
︶ 九 一 頁 -
﹁ 演 芸 画 報
﹂ 明 治 四 十 五 年 二 月 号
︑﹁ 芸 信
﹂ 欄
︵﹁ 京 都
・ あ の 字
﹂︶
― 505 ― 西陣の芝居をめぐる人々
! 前 掲
﹁ 新 京 極 記
﹂︑ 山 本 緑 波
﹁ 関 西 十 二 大 劇 場
﹂︵
﹁ 演 劇 画 報
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 号
︶
"
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 二 年 五 月 十 日 付
#
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 二 年 五 月 十 八 日 付
︒ 以 下
︑ こ の 記 事 に よ る
︒
$
﹁ 時 事 新 報
﹂ 明 治 三 十 六 年 四 月 七 日 付
︑ 九 日 付
︑ 十 二 日 付
︑ 十 七 日 付
︑﹁ 石 黒 政 之 の 経 歴 談
︵ 珍 し き 足 芸
︶﹂
%
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 夕 刊
︑﹁ 大 阪 朝 日 新 聞 京 都 附 録
﹂ 大 正 五 年 五 月 十 九 日 付
&
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 四 年 一 月 一 日 付
︑ 二 月 一 日 付
︑﹁ 大 阪 朝 日 新 聞 京 都 附 録
﹂ 一 月 二 十 六 日 付 '
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 四 年 二 月 一 日 付 ( 服 部 幸 雄
﹃ 歌 舞 伎 の キ ー ワ ー ド
﹄ 岩 波 書 店
︑ 一 九 八 九 年
︑ 一 六 六 頁 )
﹁ 大 阪 朝 日 新 聞 京 都 附 録
﹂ 大 正 四 年 四 月 六 日 付
*
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 四 年 四 月 五 日 付 + 前 掲
﹃ 京 都 府 誌
﹄ 下 に よ る と
︑ 大 正 二 年 に 京 都 市 内 で は
﹁ 軽 業
﹂ 興 行 は 一 度 も 行 わ れ て い な い が
︑ 実 際 に は 芝 居 に 組 み 込 む 形 で 演 じ ら れ て い た わ け で あ る
︒ ,
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 二 年 七 月 一 日 付 - 京 都 府 立 総 合 資 料 館 編
﹃ 京 都 府 統 計 史 料 集
│ 百 年 の 統 計
│
﹄ 四
︑ 京 都 府
︑ 一 九 七 一 年
︑ 二 二 八
〜 二 三 一 頁 .
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 三 年 四 月 十 八 日 付
︒ 以 下
︑ こ の 記 事 に よ る
︒ / 京 都 府 立 総 合 資 料 館 編
﹃ 京 都 府 百 年 の 資 料
﹄ 九
︑ 京 都 府
︑ 一 九 七 二 年 0
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 三 年 四 月 十 八 日 付 1 国 立 劇 場 調 査 記 録 課 編
﹃ 歌 舞 伎 俳 優 名 跡 便 覧 第 四 次 修 訂 版
﹄ 日 本 芸 術 文 化 振 興 会
︑ 二
〇 一 二 年
︑ 一 六 七 頁 2 前 掲
﹁ 上 方 歌 舞 伎 俳 優 給 金 調
﹂ 3
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 六 年 三 月 九 日 付 4
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 大 正 二 年 七 月 八 日 付 5
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 十 日 付
︒ な お
︑ 延 三 郎 は 五 代 目 で
︑ 明 治 四 十 四 年
︵ 一 九
〇 一
︶ 八 月 十 四 日 に 没 し て い る
︒ 6
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 一 年 一 月 二 十 二 日 付
︑﹁ 落 し 文
﹂ 欄
︵﹁ 東 京 よ り 観 客 の 一 人
﹂︶ 7
﹁ 日 出 新 聞
﹂ 明 治 四 十 五 年 一 月 二 十 六 日 付
西陣の芝居をめぐる人々 ― 506 ―