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近代日本農事改良史の研究

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

近代日本農事改良史の研究

西村, 卓

https://doi.org/10.11501/3110956

出版情報:Kyushu University, 1995, 博士(経済学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

州弟アヰ立早 間切ぬ泊二ハ〉布牛ーにふね叫りる一歩色由民の出反車場

wm~岡山ー福岡県老農高原謙次郎の京都府農事巡回についてー 京都府では明治一九年(一八八六)に、はやくも林遠里を招轄し、府下全域を巡回・演説させることにより、遠里改良法の導入を企図した。翌年には、福岡県より彼の門弟を実業教師として一履い入れ、府下五OO力所(明治二一年には一000カ所に増設された)に設置した試験田での指導・伝習に従事させた。明治二一年(一八八八〉には、ふたたび遠里を招聴した。さらに、京都府は、明治二O年(一八八七)に遠里とは別に、府下を巡回・演説させながら、この試験田の監督のために、福岡県よりあらたに一人の老農を招抽付した。御笠郡乙金村の高原謙次郎である。彼は

、こ の巡回・演説の節に見聞した京都府下の農事景況と、とくに山城地方に設置された試験田の状況を、細かな調査項目を定めながら、「京都府農事筆記』として克明に記録した。本章は、この「農事筆記』を素材として、高原の京都府下での活動を明らかにすることが第一の目的であ守令。彼のその後の来し方を追うことによって、当時、遠里農法に代表される老農農法と横井時敬らの学理農法とが並存・競合の関係にあった福岡県において、老農がそれにどのように対処していったかを示すことにもなった。それは、「老農時代」以降の老農たちの身の処し方の一つを象徴するものでもあった。高原謙次郎の略歴および事蹟は、次節で明らかにするが、彼は明治八年(一八七五)六月時点で、居村の乙金村と近隣村の筒井・中両村に、八町九反七畝二六歩の田畑を所有していた手作地主であっ

o彼

については、幕末期から社会的に多岐に

円2v

わたる活動をおこなっていたことから、種々の面からとりあげられてきたが、彼の明治期の勧業篤志家H老農時代の活動を浮き彫りにした研究は、管見のかぎりみられない。その意味からすると、本章のもう一つの意義は、彼のこの面をはじめて正面からとりあげたことにある。 そして、

第一節

高原謙次郎の略歴と事蹟 高原家は、先祖が「水城の関守」であったといわれ、初代平兵衛が慶長期に御笠郡乙金村庄屋役を仰付かつて以降、代々同役を世襲していったという。本家七代和作美清が嫡子の善四郎に乙金村庄屋役を譲ったのちに、後妻とそのあいだに生まれた善七郎とともに隠居家に移り、善七郎九歳のとき、父和作美清の残により、議口七郎が分家をし、初代となるのであ

グ同人が謙次郎の祖父にあたる。

内a守 V

同人およびその子和作美成については、謙次郎の筆になる「履歴書」がある。それによると、善七郎は文化一一年(一八一四)普請方を拝命して以降、同一二年(一八一五)夜須

・御

笠両郡紙方兼帯、文政二年(一八一九)御笠郡観世音寺村庄

105

(3)

屋拝命、同八年(一八二五〉筒井村庄屋に転役、この時点で紙方と普請方も兼務していた。天保四年(一八三三〉二月には大庄屋格を命ぜられ、同年一一月に御笠郡立明寺触大庄屋となる。同九年ご八三八)御笠郡武蔵触大庄屋に転役するが、同一O年(一八三九)の大庄屋の一斉罷免で役を免ぜられた。以降、同一一年(一八四O)下大利村庄屋、同年六月筒井触大庄屋助役、同一二年(一八四一)三月以降筒井触、武蔵触、乙金触、観世音寺触大庄屋を歴任し、慶応二年(一八六六)一二月八O歳にして依願免役となる。謙次郎の父和作美成は、天保一O年(一八三九)六月に筒井村庄屋役に命ぜられ、以降弘化二年(一八四五)まで、中村庄屋、畑詰触普請方兼務、瓦田村庄屋を歴任しザ嘉永六年(一八五三)一一月に普請方を免ぜられ、乙金触大庄屋助役となる。安政二年(一八五五)七月瓦田村庄屋依願免役、同三年(一八五六)四月大庄屋助役を免ぜられ、同年五月に国分村庄屋、文久二年(一八六二)九月には観世音寺触大庄屋助役を命ぜられる。そして、慶応元年(一八六五)五月に五六歳にして病死するのである。その子謙次郎は、母を御笠郡武蔵村松尾与十郎長女とし、天保八年(一八三七)一二月に乙金村で生まれた。以降の彼の略歴及び事蹟を以下に記し冴 グ

高原謙次郎略歴および事蹟天保八年(一八三七)一二月筑前国御笠郡乙金村に生まれる年一月三日生まれ)。御笠郡乙金村庄屋役命ぜられる(満二一歳〉。御笠郡大庄屋拝命(満三三歳)。戸長本務、大庄屋兼務を命ぜられる(同右)。第二四区戸長拝命(満三四歳)。第一三大区戸長拝命(満三五歳〉。第一二大区戸長拝命(同右)。第一二、二ニ大区三等戸長拝命(満三七歳)。第一二、一三大区二等戸長拝命(満三八歳〉。第七大区七小区戸長拝命(同右)。病気依願退職(満三九歳)。第八大区調所一級書記拝命(同右)。福岡県御笠・那珂・席田郡書記に任ぜられる(満四O歳)。農商務省に対し上申(満四三歳)。(明治一四j同一八年まで、那珂・御笠・席回三郡聯合米苗生糸共進会審査長委嘱せらる)。那珂・御笠・席田郡競整会審査長委嘱せらる(満四八歳)。 安政六年明治四年 (一八五九)一一月(一八七一)三月一二月(一八七二)六月(一八七三)二月二月(一八七五)一二月(一八七六)四月

一二月

一月一

一O月 二月

明治五年明治六年

明治八年明治九年

明治一O年(一八七七)

明治一年ご八七/〉

明治一八年(一八八五)一O月

明治一九年(ノ八六) (西暦ノ三八

106

(4)

明治二O年(一八八七〉

明治一二年(一八八ノ)一二月明治二二年(一八八九)三

明治二三年(一八九O)二七

明治二四年(一八九一〉三月一一月

明治二五年(一八九二)四ト】明治二六年(一八九三)五月明治二七年ご八九四)一一月

明治二八年(一八九五)明治二九年(一八九六)明治三五年(一九O二)

明治三ノ年(一九O

明治四年(一九0.ノ〉五

四 守八

月一二月

月 月 月

九州沖縄八県聯合共進会委員委嘱せらる(二月一0日開催、於福岡)。九州沖縄八県聯合共進会において、米種出品、四等賞をうける。郡書記依願免職、任京都府属、叙判任官八等。病気依願免職。福岡県勧業試験場幹事拝命。那珂・御笠・席田三郡米種共進会において、五等賞を・つける(満四九歳〉。

同 糟屋郡尾仲村九郎左衛門その他三名の小伝を選 に頒布。 公衆櫨樹栽培篤志者「高橋善蔵小伝」を選び、 前(満五O歳)。

御笠郡筒井尋常小学校建設につき、金七円寄付↓賞書。那珂郡雑飼隈警察署建設につき、金一円五O銭寄付↓賞書(満五一歳)。県勧業試験場職務勉励につき、金五円賞与。内国勧業博覧会にて米種出品、褒状授与(満五二歳)。県勧業試験場幹事依願免職。那珂・御笠・席田郡書記に任ぜられる(満五三歳)。郡書記依願退職。御笠郡県会議員に選出せらる(満五四歳)。筑紫郡大野村長に選出せらる(満五五歳)。那珂・御笠・席田郡米種共進会にて六等賞を受ける(満五六歳)。

同 大日本農会より有功章贈与せらる 百年祭典を挙行する(満六七歳)。 観世音寺において、岩屋城祉の麓、 編輯する(満六四歳)。 太宰府神社委嘱により「太宰府神社由緒帯 「太宰府各区一覧』を選ぶ。 により、「太宰府史鑑』を編輯する。 一官公一千年祭につき、一官公会長黒田侯爵の委嘱 大野村長満期退職。 前(満五七歳〉。

月 月 月 月

月 月 月 月

』を 月

国岡橋紹運三

(満七O歳)。

107

(5)

大正二年(一九一三)

大正五年(一九一六)

七 月

春に「太宰府史談会」を設立(同会は翌三年三 月に、「福岡史談会」と合併し、「筑紫史談会」

となる)(満七五歳〉。

乙金の自宅にて逝去(享年満七八歳)。

(「事蹟』の内、

明治二二年四月と明治二四年 一O月との記事の聞に以下の記載があるので記

しておく。)

て 簡易にして効益あるを知り、郡内へ誘導す 市して塩水選之田畑に試験する事数十年、 ・選種の方法自家の、囲等土・塩水選畑苗 作に注意し・し浸寒水・歩選種三穂先、稲

る事数十年に及べり。

一、水田を乾田に改良するその効益ある世人の知る所なるも、

これを自家の水田に試験し、

その効益ある事を計算し、郡内に励誘する

事数十年に及べり。

一、農業教師として、郡内の功労者を他県に周旋する事数十人に及べり。一、大字乙金字桑ノ浦に荒れ地あるを買求め、開拓の上、櫨樹を植付け、多少の利益を得るも、櫨実代価下落し、改良を図り、自今筑後田主丸村清水某へ貸渡し、一町七反余の地より各種の樹百を仕立つ。一、山林凡そ一八町歩買求め、樹苗を植付け、追々繁殖を図る。近年伐採多少利益あり。

彼の全生涯を考えた場合、幼年期を除いて大きく四つに区分できる。第I期日村 役人・戸長時代(安政六年j明治一O年頃)、第E期H勧業篤志家時代(明治一一年j明治二四年頃)、第E期川県会議員・村長時代(明治二五年j明治二九年)、

第W期H郷土史家時代(明治三O年j大正五年頃)である。

同区分は、各期ごとの

きわだった特徴を抽出して性格づけをおこなっているので、

それぞれの時期区分の

特徴が重複しているのは当然である。

第I則及び第W期におけるそのおもな活動については、武谷水城や筑紫豊らの研 究(注2参照)が明らかにしてくれるのでここでは触れない。

第E期に関しては、

彼が明治二0年代から同四0年代にかけて種々の「日記」を残してお

り、それがこ

の時期の彼を研究する子断りとなろう

。本節においては、第日期H勧業篤志家時代

について前記の略歴をおぎなう意味で、

京都府農事巡回を相前後する時期の彼につ

いて少し触れておこう。

108

(6)

明治一一年(一八七ノ)いわゆる三新法の成立によって郡制が施行されると彼は満四O歳にして郡書記(勧業主任郡書記〉に任ぜられたc明治一一年は福岡県における勧業行政の大きな画期をなす年で、明治政府による勧業政策転換の画期H明治一四年ご八八一〉の門店商務省の創設に先がけて、勧業掛の設置、勧業大小集会の開設、m一民事通信員制度の設置と、矢継ぎ早に勧業行政機構が形成され、郡村における行政機捕をフルに活用しながら、老農的地方名望家層を勧業行政遂行の担い手として位置づけた年であった。明治一三年(一八八O〉の秋期勧業大集会において、彼は御笠・那珂・席田郡書記として参加し、第一号議案「節倹共約法ヲ施行スル議一、第二号議案一養蚕生徒派出之議」、第五号議案「千歯扱製造之議」、第一一号議案「農学校生徒食費給与 ノ議」の討論で発言してい

o明治一一年(一八七八)の時点では不明であるが、明治二ハ年(一八八三)の「福岡県勧業月報』には、郡区庁通信委員として名を連ね、郡書記を明治二O年(一八八七)依願免職し、京都府属に任ぜられる四月まで、同通信委員であり、明治一八・一九年に県勧業課におこなった通信の控が現存してい

♂それによると、一八年には質問案も含め二一回、一九年には一七回の通信をおこなっている。彼はこの明治一0年代には勧業主任郡書記として、郡勧業行政推進の中核をなしており、略歴にもあるように、共進会や競整会などでは、審査長をも務めている。郡の勧業行政の推進にとどまらず、県下農事改良のための団体結成にも参画した。まず明治一六年(一八八一ニ〉六月に

は、

大日本農会の福岡支会の創立に、小山改蔵、葦津磁夫、横井時敬、林遠里とともに創立委員の一人として参画している。同支会は明治一七年(一八八四)六月および一一月時点で、四三七名の最大会員数を示したが、結果的には明治二二年(一八八九)一月二六日の菓告により閉会してい

るが、

一時的にせよ県下各地の老農を結集したその意義は無視できない。さらに、「筑前各郡農家の名望ある輩を集めて

、 創立大会創立された「筑前農家同業会」の御笠郡代表としてに参加してい

w 法律、交際等一般の務を議するム

として、明治一七年(一八八四)一二月七日に 同業即ち農業家に関する経済、

以上のような実績をもとにして、時あたかも林遠里稲作改良法導入の全国的気運のたかまりのなかで、明治二O(一八八七)年四月に京都府属に任ぜられ、同年五月から七月にかけて府下を農事巡回することになる。同年八月には「病気依願免職」という形で帰福するとすぐに、同年四月に福岡農学校を引き継ぐ形で開設された福岡県勧業試験場の幹事に迎え入れられ、翌年には横井時敬らが主宰する福岡農事協会に加入している。

内叫 』

福岡県勧業試験場の「職制」によれば、「幹事ハ場長ヲ補ケ、庶務ヲ整理ス」るものとして位置付けられ、「職務心得 円

には、「第て場内ノ取締ヲナス事第二、場長不花ノ時代理スル

事 スル事わこのことから。るれてい記さ明るべき職務がさどつかとその」かるように、 試験物品を監第六、♂符認械ノ修理及用品購求ノ件ヲ監査スル事第五、ルボ査 三定額金ノ出、第諸帳簿整頓ス、第四ヲ監査スル事納

109

(7)

同場運営上、幹事が重要な位置を占めていたことがわかるであろう。福岡農事協会員としての彼は、老農としての知識と経験にもとづき、「故高橋善

戸川HM

蔵履歴」、「旧福岡落夫役法」、「抱持立翠ノ拡張ヲ謀リ併テ牛馬ノ蕃息ヲ望ム」の論説を「福岡農事協会雑誌』に燭載している。これらの論説は、老農としての彼の面白を施すものであり、同協会内での彼の役割(同協会にとっての老農的基盤の形成〉を示すものであった。以上、第E期の彼についての略歴と事蹟に肉付けをしてみた。次節では、同期の彼の勧業篤志家H老農としての象徴的な出来事である京都府農事巡回をとりあげた

第二節明治二O年(一八八七)京都府農事巡回について

資料「京都府農事筆記」について高原は、明治四四年(一九一一)七月二八日調査の「高原謙次郎著述目録」のなかに「京都府農事筆記三巻』をあげている。そのなかで、現在みることのできる資

2C

会U

M料は、「京都府巡回筆記一」と「京都府巡回日誌=こである。「=ごと番号を付した「京都府巡回日誌」は、彼の巡回の先々でそのつど書きつづったもので、彼の覚書的色彩が強く、走り書状のものである。それに対して、「一」と番号を付した「京都府巡回筆記」は、体裁が一応整い、目次として

「山城巡回日誌」、②「両丹巡回日誌」、③「麦・菜種改良法」、④「農事巡回参考書」があげられている。しかし、実際の順序は、④③②①と逆になっており、記載自体、加筆・修正・削除がいたるところでみられ、全体は清書の体をなしていない。また、「三」は京都府と印刷された罫紙を使用しており、「一」は福岡県勧業試験場のそれが使われている。以上から判断して、「一」と「=ごとの関係は、高原が巡回中に見問、視察、また思いついたことを「三」に書きとめ、それを素材として、帰福後「一」の形にまとめたということになる。ただし、「一」が清書というにはほど遠いことから、清書本の存在を推察させるが、今のところ発見できないでいる。本章ではおもに「一」により、適宜「三」を利用する形で論を進めたい。

京都府の当時の農事景況(稲作を中心として〉高原は、京都における民事改良(稲作改良)について、「一」所収の④「良事巡回参考書」(以下、「参考書』と略す)で総論的に述べている。まず、京都府下全般の農事および山林の景況が述べられたのち、牛馬耕の奨励と牛馬蕃息の奨励、リ雄淑万法の改良H乾田化の奨励、稲作改良の必要性、宇治製茶の長況、京初府下物産のこと、厩肥利用法H灰屋造作の奨励、良稲品種導入のこと、人糞肥施用法の改良道路辺輸条件の改善、由良川利用法の改善が順を追って述べられている。

2

110

(8)

農事景況、物産、製茶景況、運輸手段の改善などの記述をのぞけば、彼の主張の要点は、乾田化による牛馬耕の導入、良稲品種の導入(ここでは良稲品種の導入、松子交換にとどまり、品積改良については述べられていない)、さらに、肥料作と施肥法の改良をおこない、それらの結合によって京都府下での稲作改良(二毛作の改良・普及も含めて)が可能だということである。それでは、本項では、高原が改良を意図した京都府下の当時の稲作の実態について、稲作生産力の地域的特質、牛馬耕普及の実態、稲品種の特質、肥料作、施肥法について概観しておこう。まず稲作生産力の地域的特質であるが、第511表および第511図をかかげた。稲作反当収量の全府的水準は、第511図によれば、全国的水準以上にあるが、大阪・奈良などの近畿高位生産力府県に比すれば低い。しかし、府下を各郡区別にみた場合、地域的に大きな較差が存在していることがわかる。全府反当を基準とした場合、山城全域がそれを超え、丹波地方が各郡ぱらつきながら、ほぼそれと同一レベルを示し、丹後地方がそれ以下を示す。全国的には

、山

城地方が大阪・奈良と肩をならべ高位生産力地域を形成し、それに丹波地方が続き、丹後地方が全国水準よりもかな

り低く位置していることがわかるであろう。

高原の地元福岡と比較した場合、山城地方は常にそれ以上で、丹波地方は同一水準もしくは少し高い。それに対し、丹後地方は常にそれ以下である。以上要約すれば、府とほぼ同一水準を示す丹波地方をはさみ、南の山城地方が全国的に高位に位置する大阪・奈良と同一水準にあり、北の丹後地方が低レベルに位置するという、歴然とした地域間較差を示しながら、この時期の京都府下の稲作生

産力は構成されていることがわかるであろう。

次に牛馬耕普及の実態についてみてみたい。資料として直接牛馬耕率を示すものがこの時期にはみられないので、牛馬頭数及び二戸当の農用牛馬頭数をみることによってそれにかえたい。第512表をかかげた。まず府下全体の特徴を述べれば、牛馬頭数を比較した場合、牛二八二O二頭、馬一O一二頭で、馬は牛の約四%弱の頭数に過ぎない。農用牛馬頭数をみても、牛が九三・八%を占めるのに対し、馬は六六・五%を占め、牛よりも馬の方が農用としての利用度が低い。農用牛馬の農家所有の状態をみてみると、牛は一OO戸に三二頭の割合に対して、馬は一OO戸に一頭の割合に過ぎない。このことか‘りすれば、四一周用家畜としては、牛が主体で、若干馬が利用されているという状態である。以上全体の特徴をふまえて、牛に限定して地域的(山城・丹波・丹後)にとらえ直すと次のようになる。まず店周二戸当所有頭数が府水準を下回る郡区は、丹後地方の加佐郡を除いては全て山城地方である。綴点・相楽・宇治各郡が、それぞれ0・二三頭、0・一九頭、0・一七頑と少し高いが、他の諸郡区は0・一jO頭と低く、その中でも下京区・紀伊都ではO顕

0

・0・切と短めて低い。 噌EEEA 4』lム TllL

(9)

第町長京都府下各郡区稲作反当収量表

l 郡区 名 lド l (M 14凶叫叫心引叩)1lバ 叫 8邸組81州�)Iド (rv鈴M叩 1 8白 I 口l日ω 叫叫5日刊 )1ド|ド l (M 叫 州叫 (M1口7)1 (M1ゆ峨申引 18邸必釧8ι初i白山山 ; 1

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1川1凶附8

1凶削叫川9ω叫州)l引iパ(M2却幻Oω)(

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(注)

各年『京都府勧業統計報告Jより作成.

M17. 18年;土未見。 。単位;石。

ー111ー1-

(10)

稲作反当収量図

(有)

第5伺

3.0

2.5

全国,京都 大阪

ー内i\\\t

1893 (M2G) J892

(M25) 1891

(M2'1) 1890

(�123) 1889

(M22) 0.5

o 1883 1884 1885 1886 1887

(M16) (M17) (M18) (M19) (M20) (M21)

(注)民加用信文督修f都道府県勝基礎統計』及びお汁表よリ作為。

(11)

第5味京都府下各郡区牛馬頭数表

l

郡区名

I

A

I

B

I ; I

B/A

I

D

I

A

I

B

I .� I

B/A

I

D

上京区 京 区 愛宕部 I!野郡 紀伊郡 乙:!111郡 字治郡 久世郡 認否郡 相楽郡

01 01 0

5171

2891 2沼 4671 2981 169

831 191 64

3121 1591 153 3421 2511 91 1731 1521 21 1. 0051 9601 45 1. 3041 1. 2031 101

32.21 0.08

01 0

55.91 O. 10 63.81 0.09 22.91 0.01 51.

4 q 1 0.07 73.41 0.17 87.91 0.06 95.51 O.お 92.31 0.19

3 40 お6

1 3

1 3 99

一一

南桑田部 北桑田郡 船井郡 何鹿郡

19

勺 記 明

1. 8941 1. 627; 267 4.1201 3,8091 311 3, 1531 3, 0561 97

天田郡 4, 401

加佐郡 2,246

与謝郡 2,315 1,327 竹野郡 1.お5

熊野郡 1. 002

計 平均

1

28,202

4,304 97

2,236 10 2.3111 4

2611,..4田35262 7

1 τ46 0 0

98.81 0.41 329 85.91 0.59 49 92.51 0.51 96 96.91 0.45 47 97.8 0.54 36

98.6 0.28 22 99. 81 O. 391 15 99.8

1佃

1U

160

1 1 26 320 39 74 32 16

3 40 76 1 3

2 73 9 10 22 15 20

67.81 0.06

77.11 0.01 68.11 0.00 44.4 0.00

17 5 77.3 0.00

5 10 33.31 0.00

15 2 部.21 0.01

1 2

fjtf

9 3

716 お6

く注〉 資料『京都府勧業統計報告Jにより, 18部(明治19)年から1890 (明治お)年までのそれぞ れの平均値をとった。

A=総牛馬頭数, B=内農用牛馬頭数 c=内運殿用その他牛馬頭数. D=B/各郡区農家 戸数=1戸当農用牛馬頭数。 但し, 各部区農家戸数ば1888 (明治21)年から1890 (明治23) 年までの3ヶ年平均である。

単位;頭, M。

ー(//-] -

(12)

これに対し、

府水準をうわまわる諸郡は全て丹波

・丹後両地方である。両地方を比較すれば、丹波地方がそのうちでも高く、北桑田郡の0・五九頭を先頭に、南桑 田郡が0・四一一政を示し、ほぼ二戸に一

頭の割合で牛が所有されていることを示し ている。

要するに、

山城地方では腹用として牛は少しみられるに過ぎず、

丹波・丹後両地

方で三分の一から半数程度の農家で農用として牛が飼育されていることを示してい るのである。

この農用としての牛の使用は

、苗代作り、本田耕起(役畜用)、厩肥作(糞畜用) としてみられたであろうが、

耕転用として牛を使役する場合、

いまだ抱持立翠の普

及が みられない段階であったがために、

そこで使用される翠は「専ら「底型』及び 24v

「ノギサキ』と称される長床型」であった。

高原は「参考書』の中で、

京都府下での牛馬耕について次のように述べている。

田畑耕転ノ方法、山城ハ精ナレトモ、両丹ハ粗ナリ。旦両丹ハ牛馬耕少シ様、牛馬耕ノ有効ナル論ヲ侠タス(中略)。管内山城ハ人耕・牛馬耕相半ス。両丹

ノ如キハ、人耕八歩ニシテ、

牛馬耕二歩ナルヘシ

これによれば、

山城地方での牛馬耕率が五O%

、両丹地方が二O%ということになる。

両丹地方では後述のように稲作の肥料として厩肥が多用されていることから考え

合せて、

同地方では厩肥作り用として牛の飼育がみられ、

耕転用としては主には飼育されなかったがために、そ

ういった事実から前述の表現となったのであろう。

山城地方に関しては旧来から牛馬耕の少ない地域とされ、

「京都近傍の村々を見るに、

古来踏鍬を用ひて田地を耕し起すことが習いにて、

更に牛馬耕を試みたるこ

となきもの、如し(間々馬耕を為ものなきにあらざれ共、

自身も之を他人に奨めず、

他人も之を見習はざる姿にて、

該地方一般を評言せバ此の如し)、

今該地方の農民に就て其理由を尋ぬるに、牛馬よりも踏鍬の方、土を起す深きが故に、古来踏鍬の円nM みを使用して牛馬耕を為ざるもの也と云へリ」といわれている。

また、第512表

の農用

牛馬頭数の僅少性か、りしても、

山城地方での牛馬耕の普及率を五O%とする 高原の認識は誤まっていると考えざるを得ない。

次に稲品種についてみてみよう。「

京都府下各郡に於ける明治初年以来米作変遷

円叫》調査』によれば、

明治元年(一八六八)頃には、

丹後地方で三五種、丹波地方で三

四種、

山城地方で=二種の稲品種がみられる。

山城地方では千本が高い分布率を示

し、当

時の山城地方の代表品種とみられる

。それに対して、両丹地方では、特に代

表的といえるものはあらわれていない。

明治三八年(一九O五〉頃までの品種の変遷をみた場合、

山城地方が千本↓播州

lv神力へと明確な二度の大きな交替がみられるのに対し、

両丹地方では、それほど

明確でなく、

明治二二年(一八八O)頃に、

丹後の二郡で比較的速やかな交替がみ

られるが、全体として、代表的と目され、

全般に大きく分布を示す品種はみられな

い。高原の巡回則には

山城地方で千本が代表品種である以外は、

両丹地方で、他

1 1 2

(13)

種類の品種が交錯して栽培されており、

種子交換などが随時おこなわれながらも、

品種統一

化の動きはいまだみられなかっ

.たと考えてよい

ハお》古 河原は同人の著わした

「農業坐右筆記』のなかで、「白玉・満作・今長者・白藤、

上等の稲ナリ。早良白・井尻ホウ・万蔵、中ナリ、小庭・セキトリノ類、下等ナリ」 と記し、「参考書』の中で、「山城二丹トモ、

稲ノ種類甚タ悪シ

(中略)、是ハ稲 ノ良種ヲ求メテ播種スレハ、

改良ノ効ヲ奏スルナリ、

稲ノ種類多キ内、福岡県辺二 唱ル万作坊主・白玉・八ツ倉・暁ナト唱フルモノハ皆良稲ナリ、故一

一此等ノ種子ヲ 求メテ播穏アラン事ヲ望ム」

と記している。高原自身、

この「良品種」の導入は山 域より特に両丹で急務であることには気づいていたようで、

「故ニ此等ノ種子ヲ求 メテ・::・」の前に「二丹辺ニテハ」

が書き加えられながら、

山城への導入も必要と

の認識からか、

抹消されている点からも窺えよう。

高原が

「良品種」としてあげた白玉・白藤・万作・今長者などは、穂重型大粒系

中稲品種で、

西日本における統一品種神力種導入以前

に、

いわゆる「関西市場大粒 内Mm

米時代」を画した品種であった。

彼の立場か=りすれば、

多種類の錯綜した品種から多収穫の穏重型大粒中稲品種へ

の交換は、

いまだ神力種の導入がみられない段階では最良の手立だったのである。

ちなみに、

丹波地方ではこの品種が明治

二O年(一八八七)から明治二五年(一八 九二)頃には、何鹿郡で「万作

」「

白玉」が、船井郡で「白玉」がみられるのであ スuo 次に肥料についてみてみたい

当時の両丹地方では

、山野草・厩肥の施用が多く

みられるが、

前述のように農用牛馬頭数のある程度の水準からみ

てもうなずける点

である。また、山城地方では、

愛宕郡以外は人糞尿が主流で、

このほか粕類(菜種

・棉

・焼酎粕など)、

魚肥(にしん粕)などの金肥が多用されてお

り、明治二O 年(一八八七)前後からは、

石灰も漸増している。

高原は、

「参考書』の中で、

府下での肥料作の改良について、

厩肥利用法の改良 と人糞尿利用法の改良の二点をあげている

。まず前者について次のように述べてい

す匂。

二丹地方株多キ村落アレトモ、

厩肥ヲ作ルノ方法ナシ。

改良セスンハアルヘカ ラス

之レヲ造ルノ方法ハ

、第一灰屋ト云フヲ築キ、土塀ニテ凡長三間・横二 間・高サ一間半家ヲ造リ、

種々ノ肥料ヲ此内ニテ造ル

、筑前辺ニテ灰屋ト唱

フ、

口口口口厩肥ヲ時々積置キ、

秋ニ至リ之レヲ切リ崩シ、

肥土ヲ交セ、肥水

ヲ施シ、

灰屋ニ造リ置、

麦蒔付巳前三度程切リ崩シ、

肥料ヲ施シ、之レヲ小肥

ト唱工、

肥料中ノ第一等トス、

之レヲ麦種ニ交セテ麦種ヲ播種ス、

斯クスルト

キハ、

麦ノ肥料而己ナラス稲作ニモ肥料

トナルナリ、然ルニ山城・二

丹トモ灰 屋ノ設ケアルナシ、

故ニ此

ノ肥料ヲ造ル能ハサルハ、

実ニ遺憾トスル所ナリ

これによれば、

両丹地方では厩肥作りの方法なしと断定しており、

前述の主要な 稲作肥料としての厩肥焔用と矛盾するようである。

しかし、

高原がここでいう厩肥 とは、

堆厩肥(厩肥+肥

+肥水およびその他の肥料の混合による完熟堆肥)のこ

113

(14)

とで、

彼は灰屋造作によるそれの製造と、

その効率的施用の山城地方をも含めての 必要性を主張しているのである。

人糞尿・金肥施用が主流である山城地方では、その主

張は当然なものとしても、

厩肥施用が多いとされる両丹地方では意味を持つのであろうかc

一つ考えられこと

ハ河川V

は、

両丹地方で広くみられた厩肥が、

天田郡で「厩肥(未熟〉」とあるように、

熟した堆厩肥ではないというこ

と、すなわち、

未熟厩肥の直接的施用がおこなわれ ていたのではないかということである。

この点、推測の域をでないが、少なくとも 高原の演説を聴いた当時の両丹地方の農民が、

彼の主張する灰屋造作による完熟推 厩肥の製造に対して消極的であったことを

、次の「参考書』

の記述は窺わせるので

ある。

巡回中此ノ造リ方ヲ演述スルニ、

各所トモ其良法ヲ賛成スレトモ、

灰屋ヲ造ル

ノ手数ヲ厭フノ気味アリ、

此灰屋ヲ造ルハ農家ニテ各自ニ造作スルモノニテ、

手数ヲ要スルモノニ非ス、

此等ハ農事改良第一ノ要点ナルモノト認ム

また、

両丹地方での人糞尿利用法については次のよう

に述べている。

人糞を施用ル福岡県辺ニテハ、

雪隠ヨリ運搬シテ之ヲ糞坪ニ入レ置キ、

時ヲ見

合、

浴水ニ交セ植物ニ施用ス、

今二丹ヲ巡回スルニ、

雪隠ヲ人家ノ門ト口ニ設

ケ、

此ニテ直ニ浴水ヲ混シ施用セリ、

小水ノ如キモ同様ノ手段ナリ、

故ニ臭気

家屋ニ口口、

第一衛生上ニ障害ヲナシ、

第二肥料ノ効能薄シ、

彼是大ナル損失

アレハ、速ニ改良シ、

雪隠ト糞坪トヲ別ニシ、

灰屋ヲ造作シ、一ツニハ衛生ノ

害ヲ免レ、

二ツニハ肥料ノ効用ヲ失スルナキ事、

奨励アラン事ヲ望ム

まず第 一に衛生上、第二に肥効上、雪

隠と糞坪とを別にすることが提

言されてい るのである。

当時の京都府下でもその改良は問題となっており、

明治二四年(一八九一〉一月 の「農工商』第一五号に「農家糞筈の改良」と

題する論説が掲載されている

。そこ

では、

まず農家糞筈の改良上で心得るべき箇条として、

一、

衛生に注意すること、

一一、

廃物利用に注意すること

、三、

運搬の便利に注意することをあげ

、更に改良策

として、て

田畑ごとに糞筈を設けること、

二、大使下の体裁を改め、すべて硬糞 のままで取運ぶようにすること、

三、

屋敷中なるべく隔たった適宜な場所に少し大 きめの糞筈を設け、

そこへ小便も風呂水も厩下もすべての下水を誘導注入させるこ

と、四、

屋敷内の適宜な場所に堆積所を設け、

糞筈のおよはないところを補うこと をあげている。

四の肥料堆積所は、

高原のいう「灰屋」にあたるものであり、

全体

として「参考書』での彼の主張と一致する点

が多い。

京都府下の地域的稲作生産力較差を加味して考えた場合、

人耕を中心とする深耕、

人糞尿及び金肥の多投、

ある程度の統一品種の形成などがみられる山城地方では、

一侃岡県の稲作生産力水準を凌駕し、

全国的高水準地帯を形成していたために、

この 時点(明治二O年前後)での前述の改良法による際立った増収は、

少ないといわざ

るを得ないのこれに対して、

改良法普及可能地域は、

とりあえず、

門店周牛馬頭数の

ある口五度の水準を示しながら、

その耕転利用が少なく、

多品種の播種、肥料作の非

1 1 4

(15)

効率などによって、

稲作生産力の低レベルを示す両丹地方であろう。

これは高原自らも、

また彼を

招聴した京都府の

勧業当局も認識していたようで、

良事巡回の重点が、

両丹地方では、

改良法普及のた

めの演説会に置かれていたのに

対し、

山城地方では、

「京都府巡回筆記一」をみるかきり、

演説会は一度もおこな

わず、

試験田の丹念な視察と記録に置かれていたことにあらわれている。

3 丹 波・丹後両地方の巡回 高原を京都府属として任用し、

農事巡回を担当させようとした府勧業当局の意図

は、彼に、

明治二O年(一八八七)に京都府下で林遠里稲作改良法にもとづき設置 された約五OOカ所の試験田を

視察・指導させ、

さらには演説会での改良法の奨励 により勧業篤志家H老農を鼓舞し、

それによって改良法を点から面へ普及させるこ とにあった。 門知山hu 彼が赴任してからほぼ一カ月後に、

「両丹地方農事実現トシテ巡回命セラレ、

月十日府庁ヲ発シ

」た。以降の日程、巡回経路、

集会人員等については

、第一313 表および第512図にしめした。

彼の丹後

・丹波両地方の巡回を通して、

試験田視察は七カ所に過ぎない。

それに

対して集会(演説会)は、三

四カ所で開催され

、計一四O二

名の聴衆が参集してい

る。

この集会での演説内容については、

「京都府巡回筆記一」では、

舞鶴にて「米 麦改良ノ談話ヲナス」、

さらに

「京都府巡回日誌=こでは「舞鶴町寺ニ而人民ヲ召 集シ、稲作改良、麦、

菜種ノ事ヲ示談ス」とあるだけで、

詳細は不明である。

しか

し前項にみた「参考書』に示された改良法の要点が演説されたことは想像に難くな また、

改良法を技術的にささえるものとして、

改良農具の普及にも意をはらった。

彼は五月二O日に丹波国宮津より福岡県御笠郡の郡役所に対して、

加佐郡分として、

「雁ノ爪」二三挺を京都府庁宛に郵送する事を依頼している(同記事が「京都府巡 回日 誌=ごにみら

れる)。

また、

六月二九日には、

「一、雁ノ爪五丁加佐郡、同

拾五

与謝郡、同一

中郡、同一

丁 熊野郡、同一

丁 竹野郡、右之通、通運 ヨリ配達受取候事」とあり、

さらに、

七月六日には、

「一、型五挺、鋤先トモニ、

一、

雁ノ爪拾丁

一箱ニ入ル。

右熊野郡之分ニ候」とある。

これらの記事からわか るように、

巡回先各郡で演説会ののち、

府下各郡からの要請にもとづき、

改良法普

及のための農具の注文を、

福岡県の彼の出身郡役所におこない、

運送されてきた分 を配布していることがわかる。

要するに、丹波・

丹後両地方での巡回は

、各地での改良法の演説会に

重点を置き 勧業篤志家と懇談、

試験田の視察、

指導、

さらに改良法普及の技術的条件としての 改良農具の配布ということが一体としておこなわれたのである。

山城地方の巡回 一日よりはじまる山城地方の巡回では、

4

両丹地方でのような演説会など

七 月

1 1 5

(16)

第子3表明治20年高原謙次郎丹波・丹後巡回日程表

月日

|

天候

5/10 1雨京都府庁宅一泡同一国部着。

11

1 m 国部f喜 一 福知山→大江山→宮津若.

12

I 同

天間地方良市の実況を視る。

13 I 同 宮津鬼一由良→舞鶴若。

14 \同午後2時焼却において農事篤志者集会。郡長小野新氏に面会。

îs

1

'-J.;;) (市場)村にて符志者集会。

16

1

河守;こて集会。

17

1

同 桑飼上怖こて始。蹴おわり清道村矢原作右衛門試験田を視る. 生立

| し。

18

I

同 由良村にて集会。

19 22 20 21

1 1

1

1

同 惣村Jこて集会p宮津にて 休息加悦村iこ

会。

日ヶ谷村にて集会。

231雨宮:1!iこて休息。

24

I

同 ロ大野村;こて集会。峰山に至る。

| 晴

iこて

会.

村田中

門試

視る。

26

1

同 蒋谷村にて集会。

21

1

f部

役所

て集会。

281雨久美浜;こて集会,奥村三木蔵同訟蔵試験田を視る。

29

1

ff

青野

i

会。

30

1 岡 野中村 - Zf-U。

31

1

雨宮洋一福知山

6/î

I 晴

呼村Jこて悠会 新圧村足達与三右衛門試験回を視る。

2

\

同 宮村 ;こて

集委;

3

1

村iこ

会,

)

11枯

衛門試

田を視る

4

1

郡 御

に出会す。

5

i

雨福知山を発し, 長田村にて集会。 長田村高橋源之助試験田を視る。

6

1

晴綾部iこて集会。

7

1

;

89

1 1

同博迫村iこて集会。

雨八Jこて

会。

�?

I

晴八出 合付完

山家→中村。 I 47

11

1

問中村にて1寝室

12

1 1

同 情爪. ;土符liこ見る所なり。村;こて

和田村太田源問試験田を視る。 充分生長す。 如斯苗田

I

73

13 同 宍人材;こて集会。

14

:

同 悶部泊井部役所にて集会。

|

同午

3

て集会。

15 I雨殿田村;こて集会。

16 向 [�部完→{UJlij岩 街に出部書記熊谷永久氏に面す。午後3時馬路村にて I if!é-_

171

暗 駕 認知発

に面

18

1

比賀志(

)村tこて集会。

19

1

雨 島村;こて集会ι

21

1

晴 島村亮-�ß.岡否。

22

1

同 法賀村Jこて集会。

23

1

佐伯村にて集会。

24

同市来 部役所

にて集会。

|

集会 人員

70(*74) 61 62 40 50 40 150 55 nuワ臼FDnununU52437叩9mFHuny--pbno 円L】句Eム句1.‘E4 2892 ワ】ワLqd円L

29 14 39

35 27 54

1

1

1402(1, 4侃)

(叫

資料「京都府巡回筆記ー」所収「両丹巡回日誌」より作成。不明な点は適宜「京都府巡回日

詑三J ;こより補足した。

本文京尾iこ以下の文章がある。 r本臼(6/24)ニ市両丹州巡回全ク終ル。五月十日ヨリ六月 二十五日(ママ)迄日数回十六日, 集会ケ所三拾四ケ所. 集会人員千四百拾三名(ママ)ナ

リ(後Ytí) J。 集会人員の合計と合わないがそのままとした.

*:ヱ「京都府巡回日誌三」の数値. それ故, 計も( )内はその数値によるものである。

一1/ .)-/ー

(17)

Z-.[Iノー

。蛍w伊豆斗「描出回調RE」当医「1尉掛回調陸橋桜」

八組)

(18)

一度も開催されず、

「京都府巡回筆記一一所収の①「山城国巡回日誌」自体も、

頭より「葛野郡谷口村大田与吉試験回ヲ視ル」とあるように、

視察した試験田を逐

一書きとどめ、

そこ での稲作法を丹念に記録することに終始している。

二尽都府巡

回日誌三ごには、

彼の同地方試験田視察に当つての調査項目として次のものをあげ

ている。

てよい おりち視

こ 彼お察一一一 うの うし

。 巡 「た娯己肥茎籾播牛播月寒撰試 回山試虫来料 ヨ 量種馬種 目 水種験何 経城験ノ注 ノ リ ノ ノ耕迄ノ浸方田村 路国 田事意事何事月欺 日 事 ・ 法何 を巡す ノ 茎 日 人数 土上畝

示回べ 事 ナ ノ カノ 四中歩何 し 日 て ヲ ル 事欺事 欺 ノ 某

た 誌 に 示 ヤ 事何

o L__ わ ス 等

第に た 田

5 も つ

! と て 4 づ以 表き上 よ第 の り 5 項

! 日 彼 4 が の 表記 察作 さ視を録 し成れ たし て 試たい 験 。 る の に け田更わ 景第 で 況 5 は を ! な 概 3 い しに観図が まず試験回の反別であるが、

一町二反歩の紀伊郡伏見村梅野藤次郎試験田

同番号は第51

4表に掲載した試験回の番号である

。以下同じ)を上限に、二畝歩

の綴喜郡内里村長村小左衛門試験田(41)まで幅があり、

個々の担当者にまかせ られていたようである。

品種は、

前述のような統一的とみられるものは、

記述され

ているかぎりみられない。

ただし、

紀伊郡吉祥院村の安田助之丞の試

験田で奥田穂

向ド

一二カ所(2811、

2812、

2813)播種されている。

また、神力種が

(4)で、さらに、

安田助之丞の品種試験として(2815)でみられる。

採種法であるが、

林遠里稲作改良法では穂先三歩選が奨励されており、

改良法に

もとづく未記載の試験田ではそれがおこなわれていたであろう

が、記載のある場合、

通常法(通常法とは穂先五

歩選のことのようである

)が、六カ所(22〉(29) (32)(37)(48)(5

0〉でみられる。

選種法は、

林述里稲作改良法では浸種法としての寒水浸法

・土

囲い法がそれを兼 ねるので特記されていない場合が多いが、

簸による選種が二カ所でみられる。

浸植法はほとんどが寒水浸法

・土囲い法で行なわれている。しかし、注意してみ るとそれ以外の浸極別問を示す試験田が何カ所かみられ

る。

(i)(3)(10) (11)(13〉(i6)(23)(29)(48)などがそれである。

(8、

116

(19)

系5-佳

明治2咋7月高原謙次郎山畑巡回開図表

池辺回目 m!名 l1l当.(;名 反別(鉱)

品 樋

1 1 X.

�野郎

谷口付 3∞

次郎兵iti

2 悔ヶ(lJ付 � ;R � il

3 同 [大北正山大J山:.1!l付ヲl 1字国休之助 ヨ71シ干事

41 Jil 上経織付

井上与一郎

1 15お lrz

5 問 千代原村 長 n� I 12∞ 婦層 5 1 Jil 紀11m! 12�'庁図付 木付五郎右衛門

7 rr H Jf .fll八 85∞

8

徳野維次郎

120∞

9 同 ぷ1J.村 大久保泊O�店街門 101 X. 宇治tII M刷付高田i源右ISi門 2.15 11同 小寝嶋HI山田忠右直1門 t i9m.】'6 四国

12同 石回付

休安次郎

3.18

13問 8 !f It 字u �主右fti門 .5d3029Z3 141 Jil 字軍(Uう111 西村丑之助 12∞ 本Itt

15 'Hz,!1川H

武内太左衛門

15同 池足付上栄字右ltir'

l

uo

17 二尾村

松図係古川 |

181 x; 炭山付;15:谷竹

次郎

30∞

19問 飯田栄次郎 20問 [j :Si 21同 東ff村 It j号 '!.

221 J(, ロ岡村 �, iR

JIi次l!II

23問 制限付山本勇次郎

24問 竹a村|伊東庄太郎 千本 25問 川田村 吉岡忠次郎

25向 上花山村

I�兵太郎|

271 x; 葛ffm!壬C主付

手段取田助之丞

|

奥田信

トー2 röl ヲ7'ホ

1-3 -.j;I,r

ト4 同1 r.ïl 戊り�

-5 応1 神力陥

大同偲

伊! f'il 一本惚

大:.t\1!

-9 信i 労t助偲

;-10 タヲレス陥

!itt・週団法

r貴国期間及び方法 播種目及ぴ量(坪当)

��-. 18慣. x

束中より楠浸し。

�-. iI量百:t. %、1.0(升)

三回廠 )\-、t荒ホ;畳,

3仏0.4(・)

K.. 0.3(φ)

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3聖水if. 0.7(・)

買聖水r受@

}i;- 1岳

){-(凡そ50日間) 3仏0.8(・)

x;-

).(-(22、3日浅す) 3色

バ~ f昔、0.5(・)

i度成より八十八夜まで.

求。

x

3寒4中引上よげり. 清 水没し、

軍中ょっ;r.:れ川凌し。 %、0.8(・)

束中ょっ水浸し。

向上. K 1.5(什

){,-� 3舌

通常 >7-�), J岳、0.4(・)

20日間水没しs 0.5(・)

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寒中ょっ水没し。

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京l号 n逮霊法.

来2号壬(FT)笠谷氏の法.

第3号 取18t寄主せ'It

.関山県安田伶ーより i'iI4号

1115号 l日法.

111 5�'

滋法.賀県大岡村左衛門の必僅

京7号 三1 寄量 る 県 の J 団� 1子事会な に

り .

て-'$買を

高耳S号 大阪府品』事会にて優等の分.

高町9号 兵庫県.

第10号 当 6笠村 前 付tよょ 重与 り

っ収 左f寺 崎

f J E E 門る 1- 、 分

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乙訓5邸.

参照

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