号 98
ページ 81‑114
発行年 1990‑12‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024091/
目次 はじめに
第一章劉師培スパイ説の検討︵a︶スパイ説発生の経緯
︵
b︶
変節説の由来︵
c︶﹁
章炳購与劉師培及何震-ll-五封﹂
及び﹁
劉師培致黄興一m3﹂
︵d︶朝日新聞記事﹁
毒茶事件の真相﹂
第二章劉師培・章
一
9願不和説の検討第三章変節間題の再検討
︵
a︶第一
次一一
用国時変節説と最終・
S国後変節説︵b︶両説の検討︵c︶結論 おわりに 劉師培変節間題の再検討八
'
冒田
田
昇
劉 師 培 変 節 間 題 の 再 検 討
はじめに '
劉師培
︵ 一
八八四年-一
九一
九年︶
は︑
在日期︵ 一
九〇七年二月-一
九〇八年一〇月乃至十一
月︶
前後において︑排満民族革命から無政府主義
︑
更に変節・
反革命へ
と激しい思想的転変を経るが︑
その伝統思想を基盤とするュ一
一
1クな無政府主義の受容と変節との落差故に︑かえって注日を引いてきた︒
筆者は︑最終的には劉の在日期における思想的転変の要因を解明し︑清末における無政府主義受容の思想史的意義を考察したいと考︵ l︶えるが︑とりあえずその前提的作業として︑まず近稿においては︑幸徳ら日本人無政府主義者と章炳麟
・
劉師培
・
張継ら中国同盟会内部の反孫文派との交流過程を実証的にあとづけ︑従来必ずしも明瞭ではなかった劉らの無政府主義活動の頭末を明らかにした︒と
︿
に︑
彼等が孫文の三民主義・
武装蜂起路線に対抗すべく︑直接行動論に依拠して組織した
﹁
社会主義講習会︵
斉民社︶﹂
立連のげ掲独帝反帯族民迫圧被ジたまて︑ァァを︑も組織した
﹁
亜洲和親会﹂
も︑直接的には︑赤旗事件︵
一九〇八年六月︶
を契機として成立した桂内閣の社会主義取締まりの強化によって︑挫折を余儀なくされたことを指摘した
︒
次いで本稿では
︑
こうした表向きの無政府主義活動とは別に︑その表要で繰り広げられた彼等の水面下での動向
︑
即ち章炳麟・
劉師培による資金めあての清朝当局者・
端方へ
の工作︑同工作失敗後の章と劉との不和・
軋漢︑所謂る
﹁
民報社毒茶事件﹂
の発生︑劉のスパイ活動の露見等々︑醜聞と策略にっ っ
まれた反孫文派内部 東北学院大学論集人間・
言語・情報第9 8
号
八
劉師培変節間題の再検討
八
の自壊現象︑
っ
まり収斂するところの劉の変節間題に焦点をあて︑
その事実関係を再検証しておきたい︒というのは
︑
この間題は︑
劉の在日期における無政府主義思想の本質に関わり︑
また清末思想史における無政府主義受容の評価にも決定的に関わる重要性をも
っ
ため︑
古くは馮自由﹁
記劉光漢変節始末﹂ ︵﹁
革命逸史﹂
第二集所収
︶
を始め︑多くの回想記に触れられ︑また多くの研究が取り上げてもきたが︑しかしその実態︑
即ち劉の変節の時期︑要因
︑
背景等々となると︑
最も基本的な事実関係を含め︑
甚々暖味で︑
依然として謎にっ っ
まれた部分が多いからである
︒
例えば︑
詳しくは本文で述べ
るように︑
劉の変節時期ひとっ
をとってみても︑それを第
一
次帰国時︵ 一
九〇七年冬-翌八年春︶
とするものと︑最終帰国後︵ 一
九〇八年秋︶
とするものと︑
二つの有力な見解があり
︑
そのいずれに依るかで︑劉の在日期後半の活動に対する評価も微 :妙に異なってくるのである
︒
ところで︑近年
︑
楊天石は一
連の研究︵
後述︶
において︑
い︿
つかの重要な新資料を発掘し︑
劉の変節間題をめくっても比較的詳しい検討を行い
︑
筆者も被益される点が多かった︒小論ではこうした楊氏の成果をふまえ
っ っ ︑
筆者自身の検索した日本側の関連資料の分析と従来資料の再検討を通じ︑
反孫文派内部の自己崩壊過程を実証的により詳細にあとづけ︑劉らの水面下での実相に可能な限り追つてみたい
︑
と思う︒
そして︑
こうした本稿の課題に︑近稿で明らかにした劉らの表向きの無政府主義活動の顛末経緯を重ね合わせ︑彼等の実践
活動の実態を表要トータルにおいて捉えることによって
︑
劉師培在日期の思想的転変の要因・
動機・
背景等を-
3-
東北学院大学論集人間
・
言語・
簡報第9 8
号八四
実践的側面から明らかにし︑思想評価のより着実な基礎を得たいと思う︒かくて
︑
清末無政府主義受容の歴史的意義を思想的側面から本格的に間うための基礎的準備作業としたい︒.
第
一
章割師培ス
パイ説の検討︵ a ︶ ス
パイ説発生の経緯劉師培は
︑ 一
九〇八年九月乃至十月の日本政府による機関紙﹁
衡報﹂
発禁処分を機に︑同年十月下旬から十︵2︶一
月上旬ころに帰国したようだが︑この最終帰国に到るまでは︑
劉師培スパイ説が表だって唱えられることはなかったかに見える︒恐らく劉スパイ説は
︑
少なくともゎ
が国においては︑一
九〇八年十一
月末日に起きた所︵3︶'謂る﹁
民封社毒茶事件﹂
を直接的契機にして公然化した︑ 'と思われる︒
この事件自体は︑日本当局の追究にもかかわらず
︑
犯人を特定できずに終つたが︑当時の日本の新間各紙が盛んに書きたてているように︑犯人は劉の妻何震の従弟で︑清朝側に買収されたという汪公権と目された
︒
この事件の渦中で︑
事件背後の人物として劉に疑惑の目が向けられる︒
そして
︑
多くの研究が依拠している前掲馮自由﹁
記劉光漢変節始末﹂
等々によれば︑一
九〇九年夏︑江浙両省の同志の蜂起計画を
︑
劉師培が両江総督端方に密告し︑
同計画は失敗︑
張恭が逮捕された︑という︒ っ
まりこの事件で劉のスパイ活動が露見したわけである
︒
しかし︑右の馮自由の記述には︑
・事実誤認ないし混乱があ一
割師培変節問題の再検討八 五
︵4︶︵5︶・る︒というのは︑呂月屏の回想や呉稚一
一 一 一
・の記述からすると︑張恭は︑一
九〇八年十一
月の西太后︑光緒帝の死 去に乗じた所調る﹁
安慶起義﹂ ︵
1 1月
1 9
日起義︑翌
2 0
日失敗
︶
前後に逮捕されたものらしく︑﹁
申報﹂
の記事︵
1︵6︶908年 1 2
月1 8
日
︶
も基本的にそれを要付けている︒そして︑パリ在住のアナキストで
︑
盟友関係にあった呉稚暉は︑一
九〇八年々末からのこうした劉スパイ説に対し︑なぉ使重な態度を崩さなかったようだが︑
一
九〇九年一
至一一新直方端に道報一
間の時当に一 一
認︑
よ︑のりり :総督転任に際し︑劉師培が
﹁
端方之幕中﹂
に入り︑北洋へ
随行したことを確認︑この時点で劉の変節をいわば公的に認めた
︵
劉氏之跳漕已明明白白︶
︒︑即ち
︑
劉の中国でのスパイ活動は︑従来の説より早まり︑ 一
九〇八年々末ごろに露見したものと思われ︑時期的に帰国直後の日本での民報社毒茶事件
︵
1 1月3 0
日
︶
とほぼ重なりっ っ
︑劉スパイ説が公然化し始めたと︑考えられる︒そして
︑
翌一
九〇九年七月に至り︑端方の幕客となることで︑劉の変節は天下に晒された恰好となる︒
︵
b︶
変節説の由来ここでは︑右に検討した劉師培スパイ説の更なる淵源
・
由来を明らかにしておく︒この間題と密接に関わっているのが章炳麟である︒後述するように︑章はかねて印度行きの宿志を抱き︑
一
九〇七年冬から翌春にかけ︑劉師培
・
何震夫婦に依頼して︑資金援助を両江総督端方に申し出たと思われる︒この仲介役が︑或いは劉・
何-
5-
夫婦の対端方工作の嚆矢であったろう
︒
この間の事情は︑
後述するような経緯を伴いながらも︑
基本的には伏せられ続けていたが
︑ 一
九一
〇年に至り︑
同盟会内部の決定的な分裂を背景に︑
暴露された︒
即ち民報経費問題
︑
陶成章の東南アジァにおける資金募集問題を巡つて︑
孫文との確執を更に深めた章炳麟は︑
光復会の再建を画策し
︵
1910年2月︑
同会総部成立︶
︑結局同盟会は組織的に分裂するが︑
この過程で孫文へ
のあからさ︵7︶︵8︶まな人身攻撃が行われ︑一
九〇九年秋︑陶成章が﹁
孫文罪状﹂
を︑
章炳購が﹁
偽民報検挙状﹂
を公表した︒
これに対し孫文は︑呉稚暉と図り
︑
パリ在住中国人アナキストの機関誌﹁
新世紀﹂
を通じ反撃に出た︒
即ち﹁
新世紀﹂
第一 一
七号︵
l910年1月2 2
日
︶
所収︑﹁
党人﹂
において︑ 一
九〇七年冬から翌八年春にかけ︑章一
一m
麟 '一
が劉師培・
何震にあてた︑対端方工作依頼に関わる五通の書簡︵
何震の注が付せられている︶
を公表し︑更にこれと前後して︑劉が
一
九〇八年秋の帰国直後に︑黄興らにあてた︑
章の対端方工作の内幕を暴露した書簡︵9︶をも発表した︒
実は
︑
この﹁
章炳一
願与劉光漢及何震書五封﹂
は︑本来写真に撮られ︑﹁
劉師培致黄興書﹂
に添えられて︑一
九〇八年十月から十
一
月の劉の最終帰国後に︑ 一
括して黄興らに送附されたものであった︒
しかし︑黄興らは︑一
︵l0︶笑に付してとりあゎ
なかったとされ︑
その結果︑
同盟会の分裂が決定的となる一
九一
〇年までの二年間︑
この両種書翰は︑日の日を見ず︑黙殺されていたことになる
︒
東北学院大学論集人間・
言語・情報第9 8号八 六
劉師培変節間題の再検討
八 七
︵ c ︶ ﹁
章期-f
与劉師培及何理
書五封﹂
及び﹁ 望
増致黄興書﹂
まず
一
九〇七年末から翌春にかけてのものと思われる章の劉・
何夫婦あて五書輸であるが︑それらは全て断片的︑簡略であり︑各書輸に付せられた何震の注を通じ︑背景及びその意味を︑概略了解しえる程度のもので︵
︒
九〇藤は︑一
帰年七章冬時一
翌春炳ば︑
劉婦夫何主内容国要約すれけたに︑依かにかをたのそあらしるる・
︶1 l頼し︑はじめは張之洞に
︑
次いで端方に運動し︑革命活動からの撤退を条件に︑資金援助を受け印度に赴いて僧になろうとした︑というものである
︒
次に劉の黄興らあて書簡は
︑
劉自らが︑
章の対張之洞・
端方工作の経緯︑
劉の関与のしかたを︑
比較的詳しく暴露したものである
︒
恐らく︑
劉自身は︑
この黄興らにあてた書輸の信般性を襲付ける証拠として︑
章の劉・
何夫婦あて五書翰の写真を添えたものと思われる
︒
-総じて︑
劉・
何夫婦の意図が︑章スパイ説の立証による︑章の権威失墜にあることは
︑
明白である︒
次にこの両種書翰に決定的に関わる日本側の資料
︑
即ち朝日新聞の記事を紹介し︑この両種書翰の内包する問題を改めて考えてみたい︒
l
l
d︶
朝日新間記事︑﹁
毒英事件の真相﹂
︵明治4 1
年
︵ 1年︶908
1 2月
1 7日︑
1 8
日︶以下に︑朝日記事
﹁
毒茶事件の真相﹂
のうち︑前掲両種書翰と関連する部分を︑
長文になるが抜粋する︒この記事は︑当事者の周辺にいた
﹁
日本社会党員の某氏﹂
の談話とされ︑
中国革命同盟会内部の排満民族主義者-
7-
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第9 8号八 八
と無政府主義者との対立を︑両派の抗争経緯の分析を通じ︑適確に浮彫りにしている点で傑出しており︑事件
後
︑
日本の新聞が興味本位に書きたてた許多の記事とは︑質的に明らかに一
線を画す︒さて︑その関連部分に一
一・6-︑
'▲章炳麟の売込連動去年春張継等が排満主義に満足せずして党内動揺せし頃にも民報主筆たる章炳購は
張
・
劉との交際浅からず︑其後小石川・
飯田町に転じて後も章は劉等と同居して民報へ
は劉の寓より通動し居たりしが︑種々革命に関する意見の相違より次第に感情齟齬し行き本年に至りて全く相別一る.︑一に至れり︑然
るに彼等の分裂の近因として章の名
一
管の為めには尤も哀しむべき流説ありたり︑其は章が支那政府に対して一種の売込運動を為せりとの事なり
︑
予は章の如き志士学者が斯ることあるべしとは信ぜざれども当時之に関係せし同志より親しく聞知せし所にて其を打消すだけの反證なきを残念に思ふなり︑去年四五月頃章も亦
孫逸仙
︑
黄興等の政策行為に対して不平を抱き彼等を排せんとして成らず遂に印度に行きて僧とならんと決心したることあり
︵
彼は仏教に精通せる学者なり︶ ︵
未完︶
︹以上︑十七日記事 ︺
▲章炳麟と端方当時何震女史の親戚にて長崎領事を動むる某は張之洞の女婚なるより何震をして彼れに運
動せしめ彼れょり張之洞に請うて二万円を支出せしめんことを謀りたり
︑
事果して成就せば章は直に印度に行て僧となり以後
一
切革命のことを筆にせずとの条件にて何は所用ありて帰国の途次之を図らんと諾したり︑然るに何が長崎に至りし時は某は既に帰国の途に就き何上海に着し見れば某は更に北京に上京の後なり
き︑左れど何は名門の出にて多くの貴紳に
一
費緑を有するより章は更に南京総督端方に向つて運動せんことを託せしに︑端方は之を承諾せしかども女子を対手にては不可なれば男子来りて直接に談判すぺし且つ二万円
は
一
時に支出し難し先づ五千円を交付し残余は新嘉坡領事の手に保管し年賦にして渡すべしとの返事なりし より︑
章は更に何の夫なる劉に至つて談判してくれと頼みしも劉は之を肯ぜず︵
劉若し南京に行かば直に死刑に処せらるべし
︶
︑加ふるに年賦支払ひのこと面白からねばとて計画全く失敗せり '▲章の奸手段然るに章は此談判の失敗が全く劉と何とが十分に章の為めに尽力せざりし為めなりと疑ひ或
は端方より既に多少の金額を受領して着腹せしにはあらずやと邪推して劉夫妻と衝突し分離するに至れり︑
章と劉夫妻との衝突は延いて又劉の親戚なる汪との衝突となり章は神戸なる日華新報に汪の私行に関する人
身攻準の投書を為せしとありて両者の疾視は甚しかりしといふ︑是等のこと事実なりとせば今回毒茶事件に
関して汪が下手人として告訴され且政府の探償てふ悪名を着せられし因由を想像するに足るぺし
︹以上︑十八日記事 ︺
とある
︒
.-
g-
劃師培変節問題の再検討
八 九
この記事全体の主旨は︑もとより当時盛んに喧伝された汪公権狂人説︑及び汪公権
・
劉師培らの清朝スパイ説を否定することにあるが︑この過程で︑宋教仁
・
黄興よりより激しく章炳麟が批判の矢面に立たされ︑
特に引用した
﹁
章炳麟と端方﹂ ﹁
章の奸手段﹂
において︑
前引﹁
章炳麟与劉師培及何震書五封﹂
と﹁
劉師培致黄興書﹂
とほぼ同様の論点から︑章スパイ説が展開されていることは︑注日に値する
︒
前引両種書翰と内容的に酷似し︑
また社会的影響という点でも大差ないと思われる資料が
︑
前引書翰の公開を遡るほぼ二年前︑
毒茶事件直後の混乱した状況下で
︑
日本の新聞を通じ︑
満天下に公開されていたからである︒
とするなら︑前引両種書翰とこの新聞記事との関係を︑改めて考察する必要が生じてくる︒事実関係を捨象
し
︑
両者の関係を論理的に考察すれば︑
以下のような仮説が成立する︒
前引両種書翰が
︑
③=1 1
月
3 0
日の毒茶事件以前に送付された場合︑⑥=同事件以後
︑
1 2月日の朝日記1 71
・ 8
事以前に送付された場合︑
@
=朝日記事以後に送付された場合︒
③の場合
︒
劉の主意は︑章炳一
期攻撃にある︒︵ 0
の場合︒
劉の主意は︑章攻一照︐ を通して︑白己のスパイ説を否定すること︑っ
まり自己弁護にある︒
そして︑⑧⑥いずれの場合にせよ
︑
朝日記事は︑
黄興らの黙殺に対する対抗措置として︑
実質的に書翰内容を意図的に漏らしたに等しい︒その主旨は︑自己弁護にある
︒ ゥ
の場合︒劉の黄興あて書翰は
︑
朝日記事の ″追認にあたり︑
章の劉・
何あて書翰の写真は︑
その追認を 東北学院大学論集人間・言語・情報第98号九
〇
証明する″証拠
"
の提出にも等しく︑
主意はもとより自己弁護にある︒
以上は
︑
仮説に過ぎ 9が︑
前引両種書翰は恐らく一
九〇八年中に送付されたものと考えられる為︑@
の可能性は比較的少ないだろう
︒
黄興らは
︑
実は︑
朝日の記事をも黙殺したといえる︒
何故なら︑黄興が劉より送付された前引両種書輸を黙殺する限り
︑
朝日記事は︑対立関係にある劉・
何らのシンパナイザーたる日本社会党員の口から出た根拠なき噂として
︑
事件後日本各紙の紙面を賑わせた多ォの興味半分の記事の中に︑
埋没し去ることを知つていたからである︒そして二年を経て
︑
章炳麟と孫文との亀裂が決定的となり︑
人身攻撃・
泥試合の段階に至つて︑
前引︵l2︶両種書翰は︑反章キャンべIンの切り札1
鉄証1
として︑
最もタイムリーに活用され︑かくて朝日記事も
ょ
うやく追認されることとなる︒
・.- n -
第二章劉師培
・ 一
一一
一一 一
一m 藤
不和説の検討ここで目を転じ
︑
従来多くの回想︑
研究が言及する劉・
章の不和間題を改めて取上げてみたい︒
諸種の回想等によれば
︑
およそ一
九〇八年春頃に︑
両者の間に角逐が生じ︑その結果︑章は劉一家との同居をやめ︑
民報︵13︶社にもどったとされる︒
その原因は︑
いくっ
か指摘されるが︑
やはり時期的にみて︑前引朝日記事にも言うように
︑
対端方工作の不調が大きな部分を占めたであろう︒
また無政府主義を巡つての思想上の対立があり︑更劉師培変節間題の再検討
九
に章が劉の妻何震とその従弟汪公権との関係を知り︑それを劉に告げたことが︑章と劉及びその家族の間に大︵
鐵す快
︒
要波紋投章回な因か愉んでたの不和が顕不わにいてなを想た︑きじともるあるこなしらともとっっうl-
︶1 4たと思われる
︒
しかし
︑
ここで前引朝日記事﹁
章の奸手段﹂
の中に﹁
章と劉夫妻との衝突は延いて又劉の親戚なる汪との衝突となり
︑
章は神戸なる日華新報に汪の私行に関する人身攻撃の投書を為せしとありて両者の疾視は甚しかり︵︵
﹁
述︒
関連日注掲間記務外の省に次て保管記録に民題げ︑がに更いたにい﹂
いあこしととるるこ︑ししうとう ︶1 5関
﹁
一一︵
六明五一開治4年秘乙︵
談話号人国清︑収所︶
纂雑係報一
年月︑一 一 ﹂
ノ﹂
1908'12l︶1 61 6
日
︶
が参考となる︒即ち︑
一
︑日華新聞ハ週刊一
シテ神戸一 一
於テ発行ス現一 一
民報と脉絡ヲ通シ民報社維持費ノ不足ハ日華新聞力在留清国人ヲ脅迫シテ獲得シタル金員ヲ以テ補足シ
ー
一
︐︐ ・
︑
一アリー- 一
︑民報社員等ハ本年七月ノ交社会主義者劉光漢 :対シ同居人汪公権
︵
毒薬事件ノ被疑者︶
ト劉ノ妻何震ト表通シタリト某新聞
一一
掲載セルコトァリ︑之レガ為メ劉︑
汪︑
何ノ三名ハ民報社一一
至リ章炳麟及社員一一
詰問ノ末争論ヲ始メ何ト章トハ互
一一
腕力ヲ振ヒ負傷シ汪公権ハ之レニ原因シテ革命党ヲ脱セリー-︵.
︒
︒一
期四汪一 ﹁
に回十善内竹麟︵
者筆︶ 一
の夏一
章炳注気年公あまた想のの権はろとるかごこ︑らもと0o91 1 7︶まずくなっておった
︒ ﹂
とあり︑前引外務省資料を傍証している︒
東北学院大学論集人間・
言語・情報第9 8
号
九
劉師塔変節間題の再検討
九
これら資料を総合すると
︑
外務省資料のいう﹁
日華新聞﹂
及び﹁
某紙﹂
とは︑
朝日記事のいう﹁
日華新報﹂
に相当し
︑
また朝日記事のいう﹁
人身攻撃の投書﹂
とは︑
外務省資料のいう﹁
--同居人汪公権ト劉ノ妻何震ト姦通シタリー :・
﹂
に当たると思われる︒即ち︑ 一
九〇八年夏ごろ︑章炳麟は︑﹁
日華新報﹂
に汪と何震との関係︵18︶を一器くょうな文章を︑
掲載したものと推測される︒
ただし︑その時期に関し︑外務省資料に
﹁
七月之交﹂
というのは︑いささか疑間が残る︒というのは︑同じ外務省保管記録
﹁
各国内政関係雑藥︑支那ノ部︑
革命党関係︑亡命者一
7含ム﹂
所収︑ ﹁
劉光漢ノ行動一一
就テ﹂ ︵
乙秘第七〇
一
号︑
明治帰日三去中
﹁ 一
4 1本六密ニ赴国一
去キルル京年何日︶
本人如妻麗ハ前報月にノ月クヵノ99セシガ:-・
﹂
と見え︑これによれば何震は一
九〇八年六月中から九月三日まで︑
再度一
時帰国していたことに なる︒この記述も必ずしも全面的には信額できまいが︑
少なくとも何震が同年八月前後に一
時帰国していたこ︵l9︶とは
︑
他資料に照らし確実である︒
とすると︑ ﹁
日華新報﹂
記事の発表が︑何震の一
時帰国の前後いずれかであれば
︑
前引資料にいう﹁
腕力ヲ振ヒー-﹂
という事態も起り得たであろう︒また仮りに帰国中の発表とすれば︑その再来日を待つて︑章に抗議したことにもなろうか
︒
しかし︑いずれにせよ重要なことは︑章が日準したと称する不愉快な
︐
噂が︑スキャンダラスに満天下に公表されたことであり︑前引資料は︑いずれも劉・
何夫婦
︑
汪公権らにとって︑この新聞報道がもたらした衝準がいかに深かったかを︑
直接間接に物語つている︒
そしてその結果は
︑
先の対端方工作不調に由り︑
既に不和となっていた章と劉との関係に︑
更に重要な亀裂を生-
13-
東北学院大学論集人間・言語
・
情報第9 8号九 四
じさせたであろうし︑また汪公権もこれを機に革命党を脱退したともされる︒このように︑章炳麟による醜聞
の暴露は︑劉師培︑特に汪公権の変節の要因を考える上で無視し得ぬものがあり︑変節を促した重要な動機と
して充分に注日しておくぺきであろう︒
しかし
︑
ここで右に示した推測にも一
石を投ずる日本側の証言︑
即ちァナキスト坂本清馬の回想を︑
敢て紹介しておく︒
- :・当時
︑
私は熊本で半月刊社会主義新聞﹁
熊本評論﹂
の編集をやっていたが︑東京の同志が文字通り一
紹打尽に投獄されたので︑差入などの要件で︑守田有秋同志を援助するために
︑
七月の中旬急達東京に帰つて来た
︒
そして八月十八日︑﹁
赤旗事件﹂
の裁判の判決の言渡の日まで約一力月︑麹町区飯田町六丁目の劉光漢・
何震夫妻の偶居に食客になっていた
︒
その時︑章炳麟先生も劉居の偶君に同居されていたので︑
先生と毎日同じ食卓で食事を共にし︑たまには馬宗豫君の通訳で話したこともあったが︑これは
一
九〇八年七︑八月の︵2 0︶頃の事である︒また私は
︑
四十一
年七月から八月にかけて約一
力月間︑
劉光漢の寓居に寄食し︑
章炳麟先生と飲食起居を共にし︑汪公権君︑宋鎮東君
︑
某君などにあい︑馬宗豫君は一 一 一
スべラント学習のために毎日出席したのであっ︵2 1
︶たが
︑
蘇一
曼殊︑汪兆銘の両人に会つた記憶がない︒
-・青春只中の最も忘じ難き赤旗事件に
っ
いての記憶である︒
坂本清馬は︑ 一
九〇八年七月六目九州を発ち︑八︵22︶︵2 3
︶日には東京に到着
︑
或いは暫らくの間︑
守田有秋宅に身を寄せていたかも知れ 9が︑その後︑
恐らくはほぼ確︵加︶︵2 5
︶実に劉師培宅に寄宿していた
︒
また蘇一
曼殊に会つた記憶がないというのも或いは正しい︒とすると︑この回想 は︑細部はともかく全体的にはかなり信般性が高いといえる︒ならば︑
繰り返して強調している︑
章炳麟と夏一
月同居したという回想も︑
あながち否定できまい︒となると︑先に検討した﹁
日華新報﹂
記事の発表時期と更に何震の帰国日的の解明が
︑ 一
層の重要性を帯びてくる︒遺憾ながら︑ ﹁
日華新報﹂
掲載日時は︑今のところ特定できぬわけだが︑何震の帰国目的に関しては
︑
外務省資料に﹁
資本 :欠亡ヲ告ヶ
︑
過般金策ノ為帰国シタ︵26︶ルモ其ノ意ヲ得ス︑
去月上旬再ヒ渡来セシカ資金ナキ為天義︐
発行モ目下中止ノ姿ト為リ居レリー-﹂
とあり︑それが劉師培の雑誌発行に関わる金策を主目的にしていたかに見え︑また他の資料によっても︑その金策が必︵
2 7
︶ずしも成功しなかった如くに見える︒
ここで︑次に掲げる汪東
﹁
同盟会和︵
民報︶
片断回憶﹂ ︵
﹃辛亥革命回憶録﹄第6冊所収︶
の﹁
四汪公権的罪悪
﹂
を参照されたい︒ '一
九〇八年︑同盟会内部曽発生過向南北洋告密的事︒--
我暑假回国︑
正値端方大捕党人︒陳陶遺比我後一
班船
︑
剛到上海︑
就被捉去了︒--
而同年秋天︑
民報社発生了毒茶案︑
又是汪公権的主謀︒ :::這時上海有-
15-
劉師培変節間題の再検討
九 五
東北学院大学論集人間・言語・f---報第9 8号
九 六
些同志已経弄明白了端方大捕党人是由于告密︑而告密這件事︑是汪公権︑何震挾持劉申叔︑用劉的名義做的︒
汪東回想の右引用部分は︑これまで注目されなかったょうだが︑焦点となる一九〇八年夏上海の端方による︵
2 8
︶陳陶遺逮捕事件は︑
﹁
申報﹂
記事によって事実として確認できる︒.とすると︑何震は︑今次の帰国においても金策を目あてに
︑
再度端方と何らかの形で接触を持ち︑更にその 取引きとして端方に密告を行つた可能性がでてくる︒
章炳麟も或いは﹁
金策﹂
の一点で︑
劉︑何夫婦と再度危︵2 9
︶い接点を持ちえた︑とも推測される︒その金策の目的が達せられたか否かは︑前引外務省資料による限り︑疑
問となるが︑汪東の回想は︑汪公権
・
何震の主導で端方へ
の密告があり︑既に一
部ではこの事が感知されていた旨︑指摘している︒この密告事件を事実とすれば︑それは︑第
一
次帰国時における対端方工作と最終帰国後のスパイ活動の E路見との中間に位置し︑結節点としての意味を持つこととなるが︑汪公権
・
何震が︑劉を強迫しその名を利用した︑とされているように︑同事件
へ
の関与が少なくとも劉の積極的意志によるものとは︑当時においても見なされていなかったわけであり︑ここでは︑劉の同事件
へ
の関与については︑速断を控えることとしたい
︒
劉師增変節問題の再検討
九七
第三章変節間題の
一 一 一 一 一 一 一
︑討では
︑
劉は︑
いっ
最終的に変節したのか︒
これまでの検討で︑ 一
九〇七年末から八年春にかけての第一
次帰国時に
︑
劉・
何夫婦が章炳購の依頼を受け︑何らかの形で端方ら清朝当局者と接触を持つたことは︑
ほぼ確実と考える
︒
しかしこのことが︑直ちに劉の変節や章のスパイ説を意味するか否かは︑
棋重な吟味が必要と思う︒
というのも
︑
劉の変節時期にっ
いては︑
従来第一
次帰国時とするものと︑一
九〇八年秋の最終帰国時後とするものと
︑
二つの有力な見解があり︑そのいずれに依るかで︑劉の在日期後半の無政府主義思想及び政治活動を︑全くの偽購
・
策略とみなすか︑ともかくも一
応の一
貢性をもったものとみるか︑評価が二分するからである︒
以下に劉の変節間題を︑両説の紹介検討を通して︑改めて考えてみたい︒
E
第一
次帰国時変節説と最終帰国後変節説劉の変節を第
一
次帰国時︵
乃至それ以前︶
とする古い資料には︑例えば前引﹁
章炳麟与劉師培及何震五封﹂
に付せられた
﹁
記者﹂
の按語がある︒即ち︑今第三書則日﹃四弟既不往薄
﹂
是本欲往薄也︒
第五書則日﹁
如或未能︑当面回復︑此則当令六弟任之﹄︒何以以当時劉光漢与何震之 :這赫革命無政府党
︑
可以直往江薄面見端方︒此真不可思議之怪事︒
⁝ :・乃端方独厚于劉何︑任使大開無政府党之講習会︑暢発天義報之革命原理
︑
従而且令続刊衡報︒
今日天日已見︑方知彼国実-
17-
為秘密之償探︒
という︒第
一
次帰国時に︑章炳麟が劉師培に端方との直接交渉を求めたこと︑到
が在日期に活発な無政府主︵︒根すたでパ劉に拠︑た義開展活動イるをでがあこスをともとともきとっ ︶3 0
そして︑一九三四年に至り
︑
第一
次帰国時変節説を有カ
に裏付ける重要な資料が発見される︒即ち︑﹁
劉師培与端方書
﹂
がそれである︒
同書簡は︑内容からみて恐らく一
九〇八年一
月頃執筆されたものと思われ︑事後二十余年を経て
︑ 一
九三四年十一
月二日︑天津﹁
大公報﹂
の﹁
史地周刊﹂
第七期に掲載され︑
次いで翌三十五年一月
﹁
建国月刊﹂
第十二巻四期に転載された︒
それは︑﹁
往日革命之非﹂
を悟つた劉が︑﹁
明公︵
端方のこと︶
之前
﹂
に﹁
自首﹂
し︑ ﹁
明公之
思﹂
に報ゆるべ
く革命派分裂工作の為の﹁
西乱之策十条﹂
を開陳し︑あゎせて﹁
理 '配本 -都﹂
として︑
﹁
頓に往日宗旨之非﹂
を悟つた章炳麟のために︑印度行きの費用一 一
一 0一
出を懇願する︑というものである︒もしこの書翰が真とすれば
︑
劉師培第一
次帰国時変節説は︑不動の証拠を得たかに見える︒事実
︑
近年の研究︑
例えば楊天石・
王学荘﹁
章太炎与端方関係考析﹂ ︵ ﹁
南開大学学報﹂
哲学社会科学版︑1978年6月
︶
は︑
前引﹁
章炳鱗与劉師培及何震書五對﹂
の信酒荏
を一
m一
K付ける恰好の証拠として︑この﹁
劉師 培与端方密﹂
を積極的に活用し︑かっ
劉はこの書輸を通して端方と結託し︑
革命派内部に潜入するスパイになったとする︒
一
方︑
第一
次帰国時変節説に対し︑劉の変節を一
九〇八年秋の最終帰国後とする説がある︒
例えば︑前引外 東北学院大学論集人間・
言語・情報第9 8号九
八
と仮定すると
︑
時間的先後関係に関する限り︑
記載上の矛盾はほとんど見当らない︒劉師培変節問題の再検討
九九
11務省資料
﹁
各国内政関係雑藥﹂
所収︑ ﹁
清国革命党員及其関係者ノ談﹂ ︵
乙秘第九五二号︑
明治4 1年3月2 4
日
︶
の宋教仁談話に︑
日本社会党員ト結托シ居ル馬尊及谷思慎等ハ吾々革命党員ノ行動ヲ密偵スへク内命ラ受ヶ居ルモノ一
一
シテ
︑
彼等ノ首領タル劉光漢ハ南京ノ出身一 一
係り︑昨年秋帰国後南京総督端方一一
買収セラレタルモノ一一
シテ︑端方ノ手ヨリ多額ノ金円ヲ得其内五千円ヲ日本駐在清国公使ノ手ヲ経テ馬尊及谷思慎 :
交付シタル由ナリ:::
とある︒因みに右談話は
︑
毒茶事件を契機に劉スパイ説が表面化して程ない時の記録である︒またはるか後年の回想で記述自体も暖味だが
︑
受華﹁
同盟会時代民報始末期﹂ ︵
﹃幸亥革命﹄二︑中国近代資料護刊所収︶ ﹁
十民報社之毒茶案及変節党員
﹂
にも︑﹁
:-
・而劉申叔夫婦︑以居東京備受党人冷淡︑亦相借通返国門︑
投効於満吏端方︒
-
:・﹂
と見えている︒ ︵ b︶
両説の検討
では両説をいかに見るぺきか
︒
ポイントはやはり﹁
劉師培与端方書﹂
の真偽をいかに判断し︑
第一
次帰国後の劉の活動をいかに評価するかであろう
︒
︵3 l
︶
﹁
劉師培与端方書﹂
の真偽に関しては︑
まず︑ 一
九三五年の時点で︑﹁
偶得抄本﹂
とされる点に︑
いささか不自然さを感じるし
︑
また発見入手の経緯が不明瞭なことも気にかかる︒しかし︑執筆時期を一
九〇七年一
月頃-
19-
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第9 8
号一〇〇
整理すると
︑
同密翰は︑
第三者による後年の偽作の可能性も否定できぬが︑仮に劉本人の真作であるにしても︑
一
九〇七年一
月頃に真実執筆されたものか否か︑
更にその時期に執筆されたにしても︑劉の真意をどの程度に示したものとみるか等々︑検討すぺき点は少なくない︒
そもそも本書輸は︑章炳解の依頼を受け︑劉師培が清朝当局者の端方に資金提供を請うという︑屈折した意
図の下に
一
一買していることを想起すぺきである︒
それ故︑例えば︑章一
一m
購にっ
いて﹁
頓に往日宗旨之非﹂
を悟り︑
﹁
民報宗旨﹂
を改め︑﹁
種族革命﹂
をやめさせようとした︑などと書かれていたにしても︑端方の意を迎えるための曲筆弁明とみれば
︑
さして怪しむには足りないであろう︒ならば事態は︑交渉を依頼された当事者である劉の場合も︑大差あるまい︒交渉の緒に就く
一
方弁として︑﹁
自首﹂
することもありえたであろう︒っ
まり執筆の動機に潜む曲筆の可能性を考慮すると
︑
文面をそのまま鵜呑にはできない︑
と思う︒
'︵ 3 2
︶また
︑
高良佐も同書翰の考証で︑﹁
或是書未発︑洪氏所録実為存稿︑惜未梁考証︑不敢必耳︒ ﹂
というょうに︑真偽間題の他に︑劉が果してこの書翰を端方に提出したか否かに
っ
いても留意する必要がある︒因みに︑前引朝日記事に
﹁
--端方は之を承諾せしかども女子を対手にては不可なれば男子来りて直接に談判すべし--章は更に何の夫なる劉に至つて談判してくれと頼みしも劉は之を肯ぜず
︵
劉若し南京に行かば直に死刑に処せらるべし
︶ -
:︐﹂
とあり︑﹁
劉師培与黄興書﹂
にも︑劉は上海に止り︑卞 :9一 一
昌及び楊文会を仲介にして端方と交渉︵︒
思培﹁
章炳合与符劉的師議内者両何て選書書五及腦封﹂
がいなのては不たかにいいが容に節ていをしる︑しも ︶3 3第三書に
﹁
四弟既不往薄︑
在滬交渉亦善﹂
とあって︑劉が端方の任地南京に行こうとせず︑上海に止まろうとしていたことが
一
親える︒この章の書翰は︑
朝日記事及び劉の黄興あて書簡の弁明を︑
基本的に裏付けている︑
といえる
︒
もとより︑
劉の自己正当化のための事実歪曲の可能性は否定できまいし︑また劉と端方との間に何らかの交渉があったことは確実であろうが︑しかし劉が南京に赴き
︑
端方と直接交渉したか否かはなぉ不明なのであり︑
右の
﹁
劉師培与端方書﹂
も︑
果して端方に提出されたか否かも速断しかねる︒
.︵3 4︶このように﹁
劉師培与端方書﹂
は︑内容的にみても︑また考証的側面からも︑なぉ保留すべき点が多い︒
仮に本書翰を劉の真作としても
︑
それをもって直ちに︑劉の第一
次帰国時における決定的変節と章のスパイ説を要付ける証拠とみることには
︑
躊躇を感ずる︒
.-
21-
さて︑次に事実経過を追つておく
︒
章がインド行きを果さず︑
日本に止つていたこと自体が︑対端方工作失敗の証左に他ならない
︒
またこのことが︑先にも考察した如く︑
劉・
章不和の主因ともなったであろう︒
ところで︑劉は︑先稿で考察したように
︑ 一
九〇八年二月乃至三月の再来日以後︑六月に至るまで︑斉民社の活動を積極的に行つていたが
︑
赤旗事件︵
6月2
2日︶
を契機として成立した桂内関の対社会主義・
無政府主義運動取締まりの徹底した強化により
︑
事実上活動中止を余儀なくされていた︒
また︑機関誌﹁
天義報﹂
は既に三月劉師培変節問題の再検討
0
東北学院大学論集人間
・
言語・
情報第9 8
号
一
〇二で停刊
︑ ﹁
衡報﹂
も発行所を東京に移して発刊した途端︑
十月前後に日本政府により︑
新聞紙条令違反のかどで︑
発禁処分に処せられる︒更に
﹁
民報﹂
も︑発禁処分となる︒ っ
まり︑﹁
民報﹂
発禁に至る在日革命運動の失速状況は︑劉の策略の意志いかんに関わりなく︑
仮にあったとしても︑その思惑をはるかに越えて︑日本政府の意志によってもたらされたと
︑
言うぺきである︒
とすれば︑六月以後の活動の停滞を
︑
劉の策略の結果とみなすぺき直接的理由は︑見当らないことになる︒︵ c ︶
結論では︑劉師培は
︑
いっ
︑何故に︑
どのようにして変節したのか︒最後に︑その要因︑動機等にっ
き改めて筆者なりの見解を述べ︑小論の結びとする
︒
冒頭で述べたように
︑
劉師培の﹁
張恭之獄﹂
への関与︑即ち端方へ
の密告は︑従来の説より一
遡り︑劉最終帰国直後の
一
九〇八年々末にあったと考える︒とすると︑
やはり同事件と時期的に重なる﹁
民報社毒茶事件﹂
及び汪公権犯人説との関係が︑改めて間題となろう︒毒茶事件の犯人自体は特定できずに終り︑
一
部には︑前掲朝日新聞記事に類した同盟会狂言説すら流れる始末であったが︑当時︑圧倒的に有力に唱えられたのは︑やは
汪
︒
民動汪す理告報で頼信的﹁
比較行
説公権の人犯で汪たは公報発を整あ禁よにの事件判﹂
る︑︑とるきりりっ ︶︵3 5日にあたる十
一
月二十六日︑っ
まり﹁
毒茶事件﹂
の四日前︑章炳麟を始めとする同盟会会員の留守を見計つて民報社を訪れたが
︑
汪が立ち去つた後︑
民報社女中の林スェが土瓶の茶を :飲んだところ︑異息を感じ︑
吐気を催した
︒
その後︑汪は︑
十一
月二十八日︑
預けておいた荷物を受取りに馬宗豫方を訪ね︑
十二月一
日︑っ
まり
毒茶事件の翌日︑新橋をたち︑四日
︑
長崎より上海に向け出発した︒ほぼ確認できる汪の足どりは︑
以上である
︒
これだけでは︑三十日当日の民報社における汪の犯行を直接一
i一 一一
付けることはできないが︑
しかし同事件前後の汪の不自然な行動が
︑
同事件との関連を強く第わせることもまた否定できない︒
容疑は濃いが決め手を欠くといったところか
︒
今仮りに汪公権狂人説をとると
︑ 一
九〇八年末︑
中国での劉による﹁
張恭之獄﹂
と日本での汪による﹁
民報社毒茶事件
﹂
とが︑時
間的にほぼ呼応していることが︑
改めて注意を引︿ ︒
この時間的重なりは︑一
体何を意味しているのか
︒
繰り返すが︑
少なくとも我国においては︑
同年十月の﹁
民報﹂
発禁処分にも示されるように︑
日本政府の意志によって
︑
反満革命運動も無政府主義運動も封じ込められていたのであり︑
革命派の動向偵察程度ならとも角︑日本の国内法に抵触してまで︑革命派要人殺害を日論む程の大胆なスパイ活動をとる必然性
は︑相対的に低かったはずである︒ここで次の資料を参照したい
︒
六
︑
汪公権及馬宗豫・
王孝端・
蒲剣等ハ其何故一一
革命党員ヲ殺害セントスルヤノ目的一ハ︑光緒皇帝及西太后ノ崩御二依リ清国ノ政変ヲ来タシ新政府ノ基礎未ダ鞏固ナリト云フヲ得ザルヲ以テ︑此際禍根タルべキ革命
党ノ行動ヲ押へ内地ノ動揺ヲ来サザラシメントシテ
︑
新政府ハ更に道台及総督一一
内訓シテ革命党員ノ物色ニ力メシメ道台及総督ハ之ラ地方ノ新聞一
一
報道セシメテ革命党員ノ懸一
負逮捕ヲ発表シ︑
孫逸仙ヲ三十万円トシ-
23-
劉師培変節問題の再検討
一
〇三黄興ヲ二十万円トシ章
一 9
購其他革命党員ノ重立者皆等差アリテ少ナクモ一
党員ヲ逮捕セパ壱万円以上ヲ給ス ト謂フニァリト云へハ︑之ラ知リタル汪公権及其他ノ徒其懸賞金ヲ得ントシテ之ヲ狙フ一一
至レルナリトハ革︵揚命党員言ル所ナ
-
ノスリ・: 3 6︶汪の行動が
︑
賞金めあてであったか否かは検討を要しようが︑右資料により一
九〇八年十一
月十四日の光緒帝と翌十五日の西太后の死去に伴う︑清国政府のとった対革命派工作の内容が示されていることは︑注目に値
する
︒
その意図が︑引用文中に言うょうに︑光緒帝・
西太后死去後の混乱に乗じょうとする革命派の機先を制し
︑
国内的動揺を最少限に抑えることにあったことは︑自明であろう︒
こうした清朝政府の対応と意図を念頭におくと︑
﹁
張恭之獄﹂
及び﹁
民報社毒茶事件﹂
は︑清朝に買収されるか
︑
ないしは清朝へ
の売り込みを図つた劉と汪とが︑呼応して起こした事件と捉えることができ︑劉師培にとっては︑或いは最初に実行したスパイ活動であったかも知れない
︵
汪公権は︑既に一
九〇八年夏︑
上海における陳陶通逮捕事件に関与した可能性がある
︶
︒逆からいえば︑光緒帝・
西太后死去後の清朝政府の対革命派工作が︑
劉にとっては最初の︑汪にとってはより大胆なスパイ活動に踏み切る直接的な契機であった︑ということにな
る
︒
とすると︑
その変節に至る更なる動機︑
背景︑
経緯とは︑ 一
体何であったのか︒ここで改めて整理しておこうo
既に述ぺたょうに︑劉
・
何夫妻は︑一
九〇七年末の第一
次帰国時︑交渉自体は失敗したものの︑端方と何ら 東北学院大学論集人間・
言語・
情報第9 8
号
かの接触があったことは確実であり
︑
また一
九〇八年夏の何震の帰国時にも︑
再度何らかの形で端方と接触をもった可能性が強い
︒ っ
まり︑
こうした端方との接触が伏線としてあって︑それが光緒帝・
西太后死去後の政情不安を背景に︑劉
︵
注︶
に変節︑
具体的スパイ活動の実行を決断させる︒
そしてこの伏線とからみ合い︑劉らを変節に導いた深い心理的要因
1
動機として︑章炳麟との軋標︑
とくに章による﹁
日華新報﹂
紙上における醜聞の暴露があった
︑
と考える︒
多くの回想が指摘するように︑
何震と汪公権の関係は周知のこととなっており
︑
同盟会会員の嘲笑と冷視の中で︑
劉一
家は孤立し︑憤題をっ
のらせていた︒ 一
方では︑
日本政府の弾圧 により︑ 一
九〇八年六月の赤旗事件以後︑
実践活動は実質的に終息を余銭なくされた︒こうした心理的題屈と実践活動の手詰まり状態の中で
︑
とどめを刺すかのように︑
最後の堡塁であった﹁
衡報﹂
が十月前後に発禁処分に処せられるのである
︒
ことここに至つて︑
劉は最早︑帰国するより手は無かったであろう︒
そして帰国後︑
改めて端方との交渉があり︑とくに光緒帝
・
西太后の死去を契機とする清朝側の新たな革命派対策を背景に︑この時点で
︑
最終的にスパイ活動に踏み切つたのではないか︒即ち
︑
章炳購に対しては︑ ﹁
章一
的麟与劉師培及何震書五封﹂ ﹁
劉師培致黄興書﹂
の両種書翰の公開によって︑
章 の権威失墜を図つて私怨を晴らすとともに︑﹁
民報﹂
停刊後の同盟会に更なるゆさぶりをかけょうとし︑
加えて﹁
民報社毒茶事件﹂
によって同盟会の撹乱を図つた︒他方中国では︑ ﹁
安慶起義﹂
に連動しかねなかった蜂起計-
25-
画の密告によって
︑ ﹁
張恭之獄﹂
を引き起こす︒劉師培変節問題の再検討