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劉師培 変節間題の再検討

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(1)

号 98

ページ 81‑114

発行年 1990‑12‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024091/

(2)

一章︵a︶発生の

b

c︶

-ll-

m3

︵d︶

9

章変

a︶

S︵b︶︵c︶

'

劉 師 培 変 節 間 題 の 再 検 討

(3)

はじめに '

劉師培

︵ 一

八八四年-

九年

在日期

︵ 一

九〇七年二月-

九〇八年一〇月乃至十

前後

いて︑排満民族革命から無政府主義

変節

反革命

と激しい思想的転変を経るが

その伝統思想を基盤

とするュ一

1な無政府主義の受容と変節との落差故に︑かえって注日を引いてきた

筆者は︑最終的は劉

の在日期おける思想的転変の要因を解明し︑清末における無政府主義受容の思想史的意義を考察したいと考 lえるが︑とりあえずその前提的作業として︑まず近稿いては︑幸徳ら日本人無政府主義者と章炳麟

劉師

張継ら中国同盟会内部の反孫文派との交流過程を実証的あとづけ︑従来必ずしも明瞭ではなかった劉ら

の無政府主義活動の頭末を明らかにした︒と

︿

彼等が孫文の三民主義

武装蜂起路線対抗すべく︑直接

行動論に依拠して組織した

社会主義講習会

斉民社

︶﹂

立連のげ掲独帝反帯族民迫圧被ジたまて︑ァァを︑も

組織した

亜洲和親会

も︑直接的は︑赤旗事件

一九〇八年六月

を契機として成立した桂内閣の社会主

義取締まりの強化よって︑挫折を余儀なくされたことを指摘した

次いで本稿では

こうした表向きの無政府主義活動とは別︑その表要で繰り広げられた彼等の水面下での

動向

即ち章炳麟

劉師培による資金めあての清朝当局者

端方

の工作︑同工作失敗後の章と劉との不和

軋漢︑所謂る

民報社毒茶事件

の発生︑劉のイ活動の露見等々︑醜聞と策略

っ っ

まれた反孫文派内部

9 8

(4)

題の

の自壊現象︑

まり収斂するところの劉の変節間題焦点をあて

その事実関係を再検証しておきたい︒とい

うのは

この間題は

劉の在日期における無政府主義思想の本質関わり

また清末思想史おける無政府主

義受容の評価にも決定的に関わる重要性をも

ため

古くは馮自由

記劉光漢変節始末

﹂ ︵﹁

革命逸史

第二集

所収

を始め︑多くの回想記に触れられ︑また多くの研究が取り上げてもきたが︑しかしその実態

即ち劉の

変節の時期︑要因

背景等々となると

最も基本的な事実関係を含め

甚々暖味で

依然として謎に

っ っ

まれ

た部分が多いからである

例えば

詳しくは本文で述

るように

劉の変節時期ひと

をとってみても︑それ

を第

次帰国時

︵ 一

九〇七年冬-翌八年春

とするものと︑最終帰国後

︵ 一

九〇八年秋

とするものと

二つ

の有力な見解があり

そのいずれ依るかで︑劉の在日期後半の活動に対する評価も微 :異なってくるので

ある

ところで︑近年

楊天石は

連の研究

後述

おいて

︿

つかの重要な新資料を発掘し

劉の変節間題

をめくっても比較的詳しい検討を行い

筆者も被益される点が多かった︒小論ではこうした楊氏の成果をふま

っ っ ︑

筆者自身の検索した日本側の関連資料の分析と従来資料の再検討を通じ

反孫文派内部の自己崩壊過

程を実証的より詳細にあとづけ︑劉らの水面下での実相可能な限り追てみたい

と思う

そして

こう

した本稿の課題に︑近稿で明らかにした劉らの表向きの無政府主義活動の顛末経緯を重ね合わせ︑彼等の実践

活動の実態を表要ルにおいて捉えることによって

劉師培在日期の思想的転変の要因

動機

背景等を

-

3

-

(5)

9 8

実践的側面から明らかにし︑思想評価のより着実な基礎を得たいと思う︒かくて

清末無政府主義受容の歴史

的意義を思想的側面から本格的間うための基礎的準備作業としたい︒

章割師培

パイ説の検討

︵ a ︶ ス

パイ説発生の経緯

劉師培は

︑ 一

九〇八年九月乃至十月の日本政府よる機関紙

衡報

発禁処分を機︑同年十月下旬から十2

月上旬ころ帰国したようだが︑この最終帰国到るまでは

劉師培イ説が表だって唱えられることは

なかったか見える︒恐らく劉スイ説は

少なくとも

が国おいては︑

九〇八年十

月末日起きた所3'謂る

民封社毒茶事件

を直接的契機にして公然化した︑ 'と思われる

この事件自体は︑日本当局の追究

かかわらず

犯人を特定できずに終たが︑当時の日本の新間各紙が盛んに書きたてているよう︑犯人は劉

の妻何震の従弟で︑清朝側買収されたという汪公権と目された

この事件の渦中で

事件背後の人物として

疑惑の目が向けられる︒

そして

多くの研究が依拠している前掲馮自由

記劉光漢変節始末

等々よれば︑

九〇九年夏︑江浙両

省の同志の蜂起計画を

劉師培が両江総督端方に密告し

同計画は失敗

張恭が逮捕された︑という

︒ っ

まり

この事件で劉のスイ活動が露見したわけである

しかし︑右の馮自由の記述

事実誤認ないし混乱があ

(6)

45る︒というのは︑呂月屏の回想や呉稚

一 一 一

の記述からすると︑張恭は︑

九〇八年十

月の西太后︑光緒帝の死 去に乗じた所調る

安慶起義

﹂ ︵

1 1月

1 9

日起義︑翌

2 0

日失敗

前後逮捕されものらしく︑

申報

の記事

1

6908年 1 2

月1 8

も基本的それを要付けている︒

そして︑在住のアキス

盟友関係あった呉稚暉は︑

九〇八年々末からのこうした劉イ説

対し︑なぉ使重な態度を崩さなかったようだが︑

九〇九年

至一一新直方端道報

間の時当

一 一

よ︑のりり :

総督転任に際し︑劉師培が

端方之幕中

入り︑北洋

随行したことを確認︑の時点で劉の変節をいわば

公的認めた

劉氏之跳漕已明明白白

即ち

劉の中国でのイ活動は︑従来の説より早まり

︑ 一

九〇八年々末ごろ露見したものと思われ︑時

期的帰国直後の日本での民報社毒茶事件

1 1

3 0

とほぼ重なり

っ っ

︑劉スイ説が公然化し始めたと︑考

えられる︒そして

九〇九年七月至り︑端方の幕客となることで︑劉の変節は天下晒された恰好とな

る︒

b

変節説の由来

ここでは︑右に検討した劉師培スイ説の更なる淵源

由来を明らかにしておく︒この間題と密接関わっ

ているのが章炳麟である︒後述するよう︑章はかねて印度行きの宿志を抱き︑

九〇七年冬から翌春かけ︑

劉師培

何震夫婦に依頼して︑資金援助を両江総督端方申し出たと思われる︒の仲介役が︑或いは劉

-

5

-

(7)

夫婦の対端方工作の嚆矢であったろう

この間の事情は

後述するような経緯を伴いながらも

基本的は伏

せられ続けていたが

︑ 一

〇年に至り

同盟会内部の決定的な分裂を背景

暴露された

即ち民報経費問

陶成章の東南ジァおける資金募集問題を巡

孫文との確執を更深めた章炳麟は

光復会の再建

を画策し

1910年2月

同会総部成立

︑結局同盟会は組織的分裂するが

この過程で孫文

のあからさ78まな人身攻撃が行われ︑

九〇九年秋︑陶成章が

孫文罪状

章炳購が

偽民報検挙状

を公表した

これに対し孫文は︑呉稚暉と図り

在住中国人アキスの機関誌

新世紀

を通じ反撃出た

即ち

新世紀

一 一

七号

l910年1月

2 2

所収︑

党人

おいて

︑ 一

九〇七年冬から翌八年春かけ︑章

m

'

が劉師培

何震あてた︑対端方工作依頼に関わる五通の書簡

何震の注が付せられている

を公表し︑更

これと前後して︑劉が

九〇八年秋の帰国直後︑黄興らにあてた

章の対端方工作の内幕を暴露した書簡︵9をも発表した

実は

この

章炳

願与劉光漢及何震書五封

は︑本来写真に撮られ︑

劉師培致黄興書

添えられて︑

〇八年十月から十

月の劉の最終帰国後

︑ 一

括して黄興らに送附されたものであった

しかし︑黄興らは

︑一

l0︶笑付してとりあ

なかったとされ

その結果

同盟会の分裂が決定的となる

〇年までの二年間

この

両種書翰は︑日の日を見ず︑黙殺されていたことになる

9 8

(8)

題の

︵ c ︶ ﹁

章期-

f

与劉師培及何

書五封

及び

﹁ 望

増致黄興書

まず

九〇七年末から翌春にかけてのものと思われる章の劉

何夫婦あて五書輸であるが︑それらは全て断

片的︑簡略であり︑各書輸に付せられた何震の注を通じ︑背景及びその意味を︑概略了解しえる程度のもので︵

九〇藤は︑

帰年七章冬時

翌春炳ば

劉婦夫何主内容国要約すれけたに︑依かにかをたのそあらしるる

1 l

頼し︑はじめは張之洞に

次いで端方に運動し︑革命活動からの撤退を条件︑資金援助を受け印度赴いて

僧になろうとした︑というものである

次に劉の黄興らあて書簡は

劉自らが

章の対張之洞

端方工作の経緯

劉の関与のしかたを

比較的詳し

く暴露したものである

恐らく

劉自身は

この黄興らにあてた書輸の信般性を襲付ける証拠として

章の劉

何夫婦あて五書翰の写真を添えたものと思われる

-総じて

何夫婦の意図が︑章スイ説の立証よる︑章

の権威失墜あることは

明白である

次にこの両種書翰決定的関わる日本側の資料

即ち朝日新聞の記事を紹介し︑この両種書翰の内包する

問題を改めて考えてみたい︒

l

l

d

朝日新間記事︑

毒英事件の真相

︵明治

4 1

︵ 1年︶908

1 2月

1 7日︑

1 8

日︶

以下に︑朝日記事

毒茶事件の真相

のうち︑前掲両種書翰と関連する部分を

長文なるが抜粋する︒

の記事は︑当事者の周辺いた

日本社会党員の某氏

の談話とされ

中国革命同盟会内部の排満民族主義者

-

-

(9)

9 8

と無政府主義者との対立を︑両派の抗争経緯の分析を通じ︑適確浮彫りにしている点で傑出しており︑事件

日本の新聞が興味本位書きたてた許多の記事とは︑質的明らかに

線を画す︒さて︑その関連部分

6-

'

▲章炳麟の売込連動去年春張継等が排満主義に満足せずして党内動揺せし頃も民報主筆たる章炳購は

劉との交際浅からず︑其後小石川

飯田町転じて後も章は劉等と同居して民報

は劉の寓より通動し

居たりしが︑種々革命関する意見の相違より次第感情齟齬し行き本年至りて全く相別至れり︑然

彼等の分裂の近因として章の名

の為めには尤も哀しむべき流説ありたり︑其は章が支那政府対して

一種の売込運動を為せりとの事なり

予は章の如き志士学者が斯ることあるべしとは信ぜざれども当時之

関係せし同志より親しく聞知せし所て其を打消すだけの反證なきを残念なり︑去年四五月頃章も亦

孫逸仙

黄興等の政策行為対して不平を抱き彼等を排せんとして成らず遂印度行きて僧とならんと決

心したることあり

彼は仏教精通せる学者なり

︶ ︵

未完

以上︑十七日記事

▲章炳麟と端方当時何震女史の親戚にて長崎領事を動むる某は張之洞の女婚なるより何震をして彼れ

動せしめ彼れょり張之洞に請うて二万円を支出せしめんことを謀りたり

事果して成就せば章は直印度

(10)

行て僧となり以後

切革命のことを筆せずとの条件て何は所用ありて帰国の途次之を図らんと諾した

り︑然るに何が長崎に至りし時は某は既帰国の途に就き何上海着し見れば某は更北京上京の後なり

き︑左れど何は名門の出て多くの貴紳

緑を有するより章は更南京総督端方向つて運動せんことを

託せし︑端方は之を承諾せしかども女子を対手ては不可なれば男子来りて直接談判すぺし且つ二万円

支出し難し先づ五千円を交付し残余は新嘉坡領事の手保管し年賦して渡すべしとの返事なりし より

章は更何の夫なる劉に至て談判してくれと頼みしも劉は之を肯

劉若し南京行かば直

処せらるべし

︑加年賦支払ひのこと面白からねばとて計画全く失敗せり '

▲章の奸手段然る章は此談判の失敗が全く劉と何とが十分章の為め尽力せざりし為めなりと疑ひ或

は端方より既多少の金額を受領して着腹せしはあらずやと邪推して劉夫妻と衝突し分離する至れり︑

章と劉夫妻との衝突は延いて又劉の親戚なる汪との衝突となり章は神戸なる日華新報汪の私行関する人

身攻準の投書を為せしとありて両者の疾視は甚しかりしといふ︑是等のこと事実なりとせば今回毒茶事件

関して汪が下手人として告訴され且政府の探償て悪名を着せられし因由を想像する足るぺし

以上︑十八日記事

とある

-

g

-

問題

(11)

この記事全体の主旨は︑もとより当時盛ん喧伝された汪公権狂人説︑及び汪公権

劉師培らの清朝ス

説を否定することにあるが︑この過程で︑宋教仁

黄興よりより激しく章炳麟が批判の矢面立たされ

引用した

章炳麟と端方

﹂ ﹁

章の奸手段

において

前引

章炳麟与劉師培及何震書五封

劉師培致黄興書

とほぼ同様の論点から︑章スイ説が展開されていることは︑注日に値する

前引両種書翰と内容的酷似し

また社会的影響という点でも大差ないと思われる資料が

前引書翰の公開を遡るほぼ二年前

毒茶事件直後の

混乱した状況下で

日本の新聞を通じ

満天下に公開されていたからである

とするなら︑前引両種書翰とこの新聞記事との関係を︑改めて考察する必要が生じてくる︒事実関係を捨象

両者の関係を論理的に考察すれば

以下のような仮説が成立する

前引両種書翰が

③=

1 1

3 0

日の毒茶事件以前送付された場合︑⑥=同事件以後

1 2月

日の朝日記1 71

・ 8

事以前に送付された場合︑

@

=朝日記事以後に送付された場合

③の場合

劉の主意は︑章炳

攻撃ある︒

︵ 0

の場合

劉の主意は︑章攻 を通して︑白己のスイ説を否定すること

︑っ

まり自己弁護にある︒

そして︑⑧⑥いずれの場合にせよ

朝日記事は

黄興らの黙殺に対する対抗措置として

実質的書翰内容

を意図的に漏らしたに等しい︒その主旨は︑自己弁護ある

︒ ゥ

の場合︒劉の黄興あて書翰は

朝日記事の ″追認にあたり

章の劉

何あて書翰の写真は

その追認を 語・98

(12)

証明する″証拠

"

の提出も等しく

主意はもとより自己弁護にある

以上は

仮説に過ぎ 9が

前引両種書翰は恐らく

九〇八年中送付されたものと考えられる為︑

@

の可能

性は比較的少ないだろう

黄興らは

実は

朝日の記事をも黙殺したといえる

何故なら︑黄興が劉より送付された前引両種書輸を黙

殺する限り

朝日記事は︑対立関係にある劉

何らのシたる日本社会党員のから出た根拠なき

噂として

事件後日本各紙の紙面を賑わせた多ォの興味半分の記事の中に

埋没し去ることを知ていたから

である︒そして二年を経て

章炳麟と孫文との亀裂が決定的となり

人身攻撃

泥試合の段階に至

前引︵l2両種書翰は︑反章キべIの切り札

1

鉄証

1

として

最もに活用され︑かくて朝日記事

うやく追認されることとなる

- n -

第二章劉師培

・ 一

一 一

m 藤

不和説の検討

ここで目を転じ

従来多くの回想

研究が言及する劉

章の不和間題を改めて取上げてみたい

諸種の回想

よれば

およそ

九〇八年春頃

両者の間に角逐が生じ︑その結果︑章は劉一家との同居をやめ

民報13もどったとされる

その原因は

いく

か指摘されるが

やはり時期的にみて︑前引朝日記事にも言うよ

対端方工作の不調が大きな部分を占めたであろう

また無政府主義を巡ての思想上の対立があり︑更

(13)

に章が劉の妻何震とその従弟汪公権との関係を知り︑それを劉告げたことが︑章と劉及びその家族の間に大

鐵す快

要波紋投章回な因か愉んでたの不和が顕不わいてなを想た︑きじともるあるこなしらともとっっうl

-

1 4

たと思われる

しかし

ここで前引朝日記事

章の奸手段

の中

章と劉夫妻との衝突は延いて又劉の親戚なる汪との衝

突となり

章は神戸なる日華新報に汪の私行関する人身攻撃の投書を為せしとありて両者の疾視は甚しかり︵

関連日注掲間記務外の省次て保管記録民題げ︑が更いた

いあこしととるるこ︑ししうとう 1 5

六明五一治4年秘乙

談話号人国清︑収所

纂雑係報

年月︑

一 一 ﹂

1908'12l1 6

1 6

が参考となる︒即

ち︑

︑日華新聞週刊

シテ神戸

一 一

於テ発行ス現

一 一

民報と脉絡民報社維持費不足日華新聞

留清国人脅迫テ獲得金員以テ補足

一アリー

- 一

︑民報社員等本年七月交社会主義者劉光漢 :

同居人汪公権

毒薬事件被疑者

妻何震

表通某新聞

一一

掲載︑之レ

三名民報社

一一

章炳麟及社員

一一

詰問

末争論

一一

腕力振ヒ負傷汪公権之レ原因テ革命党ー-

期四汪

一 ﹁

回十善内竹麟

者筆

︶ 一

の夏

章炳注気年公あまた想のの権はろとるかごこ︑らもと0o91 1 7

まずくなっておった

︒ ﹂

とあり︑前引外務省資料を傍証している

9 8

(14)

これら資料を総合すると

外務省資料のいう

日華新聞

及び

某紙

とは

朝日記事のいう

日華新報

相当し

また朝日記事のいう

人身攻撃の投書

とは

外務省資料のいう

--同居人汪公権妻何震

姦通ー :・

当たると思われる︒即ち

︑ 一

九〇八年夏ごろ︑章炳麟は︑

日華新報

汪と何震との関係︵18器くょうな文章を

掲載したものと推測される

ただし︑その時期関し︑外務省資料に

七月之交

というのは︑いささか疑間が残る︒というのは︑同じ

外務省保管記録

各国内政関係雑藥︑支那

革命党関係︑亡命者

7

所収

︑ ﹁

劉光漢行動一

就テ

﹂ ︵

秘第七〇

明治

帰日三去中

﹁ 一

4 1本六密赴国

去キ京年何日

本人如妻麗前報月に99

:-

と見え︑これによれば何震は

九〇八年六月中から九月三日まで

再度

時帰国していたこと なる︒この記述も必ずしも全面的には信額できまいが

少なくとも何震が同年八月前後

時帰国していたこ

l9︶とは

他資料に照らし確実である

とすると

︑ ﹁

日華新報

記事の発表が︑何震の

時帰国の前後いずれかであ

れば

前引資料いう

腕力ー-

という事態も起り得たであろう︒また仮り帰国中の発表とすれば︑

その再来日を待て︑章に抗議したこともなろうか

しかし︑いずれにせよ重要なことは︑章が日準したと

称する不愉快な

噂が︑スキスに満天下公表されたことであり︑前引資料は︑いずれも劉

何夫

汪公権らにとって︑この新聞報道がもたらした衝準がいか深かったかを

直接間接に物語ている

してその結果は

先の対端方工作不調に由り

既に不和となっていた章と劉との関係に

更に重要な亀裂を生

-

13

-

(15)

9 8

じさせたであろうし︑また汪公権もこれを機に革命党を脱退したともされる︒このよう︑章炳麟よる醜聞

の暴露は︑劉師培︑特に汪公権の変節の要因を考える上で無視し得ぬものがあり︑変節を促した重要な動機と

して充分に注日しておくぺきであろう︒

しかし

ここで右に示した推測にも

石を投ずる日本側の証言

即ちァキス坂本清馬の回想を

敢て紹

介しておく︒

- :・当時

私は熊本で半月刊社会主義新聞

熊本評論

の編集をやっていたが︑東京の同志が文字通り

打尽投獄されたので︑差入などの要件で︑守田有秋同志を援助するため

七月の中旬急達東京

来た

そして八月十八日︑

赤旗事件

の裁判の判決の言渡の日まで約一月︑麹町区飯田町六丁目の劉光漢

何震夫妻の偶居に食客になっていた

その時︑章炳麟先生も劉居の偶君同居されていたので

先生と毎日

同じ食卓で食事を共し︑たまには馬宗豫君の通訳で話したこともあったが︑これは

九〇八年七︑八月の︵2 0頃の事である︒

また私は

四十

年七月から八月にかけて約

月間

劉光漢の寓居寄食し

章炳麟先生と飲食起居を共

にし︑汪公権君︑宋鎮東君

某君などあい︑馬宗豫君は

一 一 一

スべ学習のために毎日出席したのであっ

(16)

2 1

たが

殊︑汪兆銘の両人た記憶がない

-・

青春只中の最も忘じ難き赤旗事件

いての記憶である

坂本清馬は

︑ 一

九〇八年七月六目九州を発ち︑八︵22

︵2 3

日には東京到着

或いは暫らくの間

守田有秋宅身を寄せていたかも知れ 9が︑その後

恐らくはほぼ確︵

2 5

実に劉師培宅に寄宿していた

また蘇

た記憶がないというのも或いは正しい︒とすると︑この回想 は︑細部はともかく全体的にはかなり信般性が高いといえる︒ならば

繰り返して強調している

章炳麟と夏

月同居したという回想も

あながち否定できまい︒となると︑先検討した

日華新報

記事の発表時期と

更に何震の帰国日的の解明が

︑ 一

層の重要性を帯びてくる︒遺憾ながら

︑ ﹁

日華新報

掲載日時は︑今のところ

特定できぬわけだが︑何震の帰国目的に関しては

外務省資料に

資本 :

欠亡告ヶ

過般金策為帰国26モ其得ス

去月上旬再ヒ渡来資金キ為天義

発行モ目下中止姿居レー-

とあり︑

それが劉師培の雑誌発行に関わる金策を主目的していたかに見え︑また他の資料によっても︑その金策が必

2 7

ずしも成功しなかった如くに見える︒

ここで︑次に掲げる汪東

同盟会和

民報

片断回憶

﹂ ︵

﹃辛亥革命回憶録第6冊所収

四汪公権的

罪悪

を参照されたい︒ '

九〇八年︑同盟会内部曽発生過向南北洋告密的事︒-

-

我暑假回国

正値端方大捕党人︒陳陶遺比我後

班船

剛到上海

就被捉去了︒-

-

而同年秋天

民報社発生了毒茶案

又是汪公権的主謀︒ :::這時上海有

-

15

-

間題

(17)

・f---9 8

些同志已経弄明白了端方大捕党人是由于告密︑而告密這件事︑是汪公権︑何震挾持劉申叔︑用劉的名義做的︒

汪東回想の右引用部分は︑これまで注目されなかったょうだが︑焦点となる一九〇八年夏上海の端方よる

2 8

陳陶遺逮捕事件は︑

申報

記事よって事実として確認できる︒

とすると︑何震は︑今次の帰国においても金策を目あて

再度端方と何らかの形で接触を持ち︑更その 取引きとして端方密告を行た可能性がでてくる

章炳麟も或いは

金策

の一点で

劉︑何夫婦と再度危

2 9

い接点を持ちえた︑とも推測される︒その金策の目的が達せられたか否かは︑前引外務省資料よる限り︑疑

問となるが︑汪東の回想は︑汪公権

何震の主導で端方

の密告があり︑既

部ではこの事が感知されてい

た旨︑指摘している︒この密告事件を事実とすれば︑それは︑第

次帰国時おける対端方工作と最終帰国後

のスイ活動の E見との中間位置し︑結節点としての意味を持つこととなるが︑汪公権

何震が︑劉を強迫

しその名を利用した︑とされているよう︑同事件

の関与が少なくとも劉の積極的意志よるものとは︑当

おいても見なされていなかったわけであり︑ここでは︑劉の同事件

の関与ついては︑速断を控えるこ

ととしたい

(18)

增変

第三章変節間題の

一 一 一 一 一 一 一

では

劉は

最終的変節したのか

これまでの検討で

︑ 一

九〇七年末から八年春かけての第

次帰

国時

何夫婦が章炳購の依頼を受け︑何らかの形で端方ら清朝当局者と接触を持たことは

ほぼ確実

と考える

しかしこのことが︑直ち劉の変節や章のスイ説を意味するか否かは

棋重な吟味が必要と思う

というのも

劉の変節時期に

いては

従来第

次帰国時とするものと︑

九〇八年秋の最終帰国時後とする

ものと

二つの有力な見解があり︑そのいずれに依るかで︑劉の在日期後半の無政府主義思想及び政治活動を︑

全くの偽購

策略とみなすか︑ともかくも

応の

貢性をもったものとみるか︑評価が二分するからである

下に劉の変節間題を︑両説の紹介検討を通して︑改めて考えてみたい︒

E

次帰国時変節説と最終帰国後変節説

劉の変節を第

次帰国時

乃至それ以前

とする古い資料は︑例えば前引

章炳麟与劉師培及何震五封

付せられた

記者

の按語がある︒即ち︑

今第三書則日四弟既不往薄

是本欲往薄也

第五書則日

如或未能︑当面回復︑此則当令六弟任之︒何以

以当時劉光漢与何震之 :這赫革命無政府党

可以直往江薄面見端方︒此真不可思議之怪事

⁝ :・乃端方独厚于

劉何︑任使大開無政府党之講習会︑暢発天義報之革命原理

従而且令続刊衡報

今日天日已見︑方知彼国実

-

17

-

(19)

為秘密之償探︒

という︒第

次帰国時に︑章炳麟が劉師培に端方との直接交渉を求めたこと︑

在日期活発な無政府主

︒根すたで劉に拠︑た義開展活動イるをでがあこスをともとともきとっ 3 0

そして︑一九三四年に至り

次帰国時変節説を有

裏付ける重要な資料が発見される︒即ち︑

劉師培

与端方書

がそれである

同書簡は︑内容からみて恐らく

九〇八年

月頃執筆されたものと思われ︑事後二

十余年を経て

︑ 一

九三四年十

月二日︑天津

大公報

史地周刊

第七期掲載され

次いで翌三十五年

一月

建国月刊

第十二巻四期に転載された

それは︑

往日革命之非

を悟た劉

明公

端方のこと

自首

︑ ﹁

明公

報ゆる

く革命派分裂工作の為の

西乱之策十条

を開陳し︑あゎせて

' -

として︑

頓に往日宗旨之非

を悟た章炳麟のために︑印度行きの費用

一 一

0

出を懇願する︑というものである︒

もしこの書翰が真とすれば

劉師培第

次帰国時変節説は︑不動の証拠を得たか見える︒

事実

近年の研究

例えば楊天石

王学荘

章太炎与端方関係考析

﹂ ︵ ﹁

南開大学学報

哲学社会科学版︑1

978年6月

前引

章炳鱗与劉師培及何震書五對

の信

m

K付ける恰好の証拠として︑この

劉師 培与端方密

を積極的に活用し︑か

劉はこの書輸を通して端方と結託し

革命派内部に潜入するイになっ

たとする︒

次帰国時変節説対し︑劉の変節を

九〇八年秋の最終帰国後とする説がある

例えば︑前引外

9 8

(20)

と仮定すると

時間的先後関係に関する限り

記載上の矛盾はほとんど見当らない︒

11務省資料

各国内政関係雑藥

所収

︑ ﹁

清国革命党員及其関係者

﹂ ︵

乙秘第九五二号

明治4 1年3月

2 4

宋教仁談話

日本社会党員結托シ居ル馬尊及谷思慎等吾々革命党員行動密偵スへ内命受ヶ居

彼等首領ル劉光漢南京出身

一 一

係り︑昨年秋帰国後南京総督端方

一一

買収ルモ

一一

シテ︑端

多額金円得其内五千円日本駐在清国公使経テ馬尊及谷思慎 :

交付:::

とある︒因み右談話は

毒茶事件を契機劉スイ説が表面化して程ない時の記録である︒またはるか後年

の回想で記述自体も暖味だが

受華

同盟会時代民報始末期

﹂ ︵

﹃幸亥革命﹄二︑中国近代資料護刊所収

︶ ﹁

十民

報社之毒茶案及変節党員

にも︑

:

-

・而劉申叔夫婦︑以居東京備受党人冷淡︑亦相借通返国門

投効於満吏端

方︒

-

:・

と見えている

︒ ︵

b

両説の検討

では両説をいかに見るぺきか

ポイはやはり

劉師培与端方書

の真偽をいかに判断し

次帰国後

の劉の活動をいか評価するかであろう

︵3 l

劉師培与端方書

の真偽に関しては

まず

︑ 一

九三五年の時点で︑

偶得抄本

とされる点に

いささか不

自然さを感じるし

また発見入手の経緯が不明瞭なことも気かかる︒しかし︑執筆時期を

九〇七年

月頃

-

19

-

(21)

9 8

整理すると

同密翰は

第三者による後年の偽作の可能性も否定できぬが︑仮に劉本人の真作であるして

も︑

九〇七年

月頃に真実執筆されたものか否か

その時期に執筆されたにしても︑劉の真意をどの程

示したものとみるか等々︑検討すぺき点は少なくない︒

そもそも本書輸は︑章炳解の依頼を受け︑劉師培が清朝当局者の端方資金提供を請うという︑屈折した意

図の下に

買していることを想起すぺきである

それ故︑例えば︑章

m

購に

いて

頓に往日宗旨之非

を悟

り︑

民報宗旨

を改め︑

種族革命

をやめさせようとした︑などと書かれていたしても︑端方の意を迎え

るための曲筆弁明とみれば

さして怪しむには足りないであろう︒ならば事態は︑交渉を依頼された当事者で

ある劉の場合も︑大差あるまい︒交渉の緒に就く

方弁として︑

自首

することもありえたであろう︒

まり

執筆の動機に潜む曲筆の可能性を考慮すると

文面をそのまま鵜呑はできない

と思う

'

︵ 3 2

また

高良佐も同書翰の考証で︑

或是書未発︑洪氏所録実為存稿︑惜未梁考証︑不敢必耳

︒ ﹂

というょうに︑

真偽間題の他︑劉が果してこの書翰を端方提出したか否か

いても留意する必要がある︒因み︑前引

朝日記事に

--端方は之を承諾せしかども女子を対手にては不可なれば男子来りて直接談判すべし--章

は更に何の夫なる劉至つて談判してくれと頼みしも劉は之を肯ぜず

劉若し南京行かば直死刑に処せら

るべし

︶ -

:

とあり︑

劉師培与黄興書

も︑劉は上海止り︑卞 :9

一 一

昌及び楊文会を仲介して端方と交渉

思培

章炳合与符劉的師議内者両何て選書書五及腦封

がいなのては不たかにいいが容節ていをしる︑しも ︶3 3

(22)

第三書に

四弟既不往薄

在滬交渉亦善

とあって︑劉が端方の任地南京行こうとせず︑上海に止まろうと

していたことが

える︒この章の書翰は

朝日記事及び劉の黄興あて書簡の弁明を

基本的に裏付けている

いえる

もとより

劉の自己正当化のための事実歪曲の可能性は否定できまいし︑また劉と端方との間に何らかの交

渉があったことは確実であろうが︑しかし劉が南京赴き

端方と直接交渉したか否かはなぉ不明なのであり

右の

劉師培与端方書

果して端方に提出されたか否かも速断しかねる

3 4︶このよう

劉師培与端方書

は︑内容的みても︑また考証的側面からも︑なぉ保留すべき点が多い

本書翰を劉の真作としても

それをもって直ちに︑劉の第

次帰国時おける決定的変節と章のスイ説を

要付ける証拠とみることには

躊躇を感ずる

-

21

-

さて︑次に事実経過を追ておく

章がイド行きを果さず

日本ていたこと自体が︑対端方工作失

敗の証左に他ならない

またこのことが︑先にも考察した如く

章不和の主因ともなったであろう

とこ

ろで︑劉は︑先稿で考察したように

︑ 一

九〇八年二月乃至三月の再来日以後︑六月に至るまで︑斉民社の活動

を積極的に行ていたが

赤旗事件

6月

2

2日

を契機として成立した桂内関の対社会主義

無政府主義運動

取締まりの徹底した強化により

事実上活動中止を余儀なくされていた

また︑機関誌

天義報

は既に三月

題の

0

(23)

人間

9 8

で停刊

︑ ﹁

衡報

も発行所を東京に移して発刊した途端

十月前後日本政府より

新聞紙条令違反のかどで

発禁処分処せられる︒更

民報

も︑発禁処分となる

︒ っ

まり︑

民報

発禁至る在日革命運動の失速状況は︑劉の策略の意志いかん関わりなく

あったと

しても︑その思惑をはるか越えて︑日本政府の意志よってもたらされたと

言うぺきである

とすれば︑六

月以後の活動の停滞を

劉の策略の結果とみなすぺき直接的理由は︑見当らないことになる︒

︵ c ︶

結論

では︑劉師培は

︑何故

どのようにして変節したのか︒最後︑その要因︑動機等

き改めて筆

者なりの見解を述べ︑小論の結びとする

冒頭で述べたよう

劉師培の

張恭之獄

への関与︑即ち端方

の密告は︑従来の説より

遡り︑劉最終帰

国直後の

九〇八年々末あったと考える︒とすると

やはり同事件と時期的重なる

民報社毒茶事件

び汪公権犯人説との関係が︑改めて間題となろう︒毒茶事件の犯人自体は特定できず終り︑

は︑前掲

朝日新聞記事に類した同盟会狂言説すら流れる始末であったが︑当時︑圧倒的有力唱えられたのは︑やは

民動汪す理告報で頼信的

比較

説公権の人犯で汪たは公報発を整あ禁よの事件判

る︑︑とるきりりっ ︶︵3 5

あたる十

月二十六日︑

まり

毒茶事件

の四日前︑章炳麟を始めとする同盟会会員の留守を見計

民報社を訪れたが

汪が立ち去た後

民報社女中の林スェが土瓶の茶を :飲んだところ︑異息を感じ

吐気を

(24)

催した

その後︑汪は

月二十八日

預けておいた荷物を受取りに馬宗豫方を訪ね

十二月

︑っ

まり

毒茶事件の翌日︑新橋をたち︑四日

長崎より上海向け出発した︒ほぼ確認できる汪の足どりは

以上であ

これだけでは︑三十日当日の民報社における汪の犯行を直接

i

一 一一

付けることはできないが

しかし同事件前

後の汪の不自然な行動が

同事件との関連を強く第わせることもまた否定できない

容疑は濃いが決め手を欠

くといったところか

今仮り汪公権狂人説をとると

︑ 一

九〇八年末

中国での劉による

張恭之獄

と日本での汪よる

民報

社毒茶事件

とが︑

間的ほぼ呼応していることが

改めて注意を引

︿ ︒

この時間的重なりは︑

体何を意

味しているのか

繰り返すが

少なくとも我国においては

同年十月の

民報

発禁処分にも示されるように

日本政府の意志よって

反満革命運動も無政府主義運動も封じ込められていたのであり

革命派の動向偵察

程度ならとも角︑日本の国内法に抵触してまで︑革命派要人殺害を日論む程の大胆なスイ活動をとる必然性

は︑相対的低かったはずである︒ここで次の資料を参照したい

汪公権及馬宗豫

王孝端

蒲剣等其何故

一一

革命党員殺害目的一ハ︑光緒皇帝及西太后

崩御依リ清国政変新政府基礎未鞏固以テ︑此際禍根ルべキ革命

行動押へ内地動揺

新政府更に道台及総督一

内訓テ革命党員物色

道台及総督地方新聞一

報道テ革命党員

逮捕発表

孫逸仙三十万円

-

23

-

(25)

黄興二十万円

一 9

購其他革命党員重立者皆等差テ少クモ

党員逮捕パ壱万円以上給ス ァリ云へ︑之ル汪公権及其他徒其懸賞金テ之

一一

至レ

揚命党員言

-

スリ・: 3 6

汪の行動が

賞金めあてであったか否かは検討を要しようが︑右資料より

九〇八年十

月十四日の光緒

帝と翌十五日の西太后の死去伴う︑清国政府のとった対革命派工作の内容が示されていることは︑注目

する

その意図が︑引用文中言うょうに︑光緒帝

西太后死去後の混乱乗じょうとする革命派の機先を制

国内的動揺を最少限に抑えることにあったことは︑自明であろう

こうした清朝政府の対応と意図を念頭におくと︑

張恭之獄

及び

民報社毒茶事件

は︑清朝に買収される

ないしは清朝

の売り込みを図た劉と汪とが︑呼応して起こした事件と捉えることができ︑劉師培とっ

ては︑或いは最初に実行したスイ活動であったかも知れない

汪公権は︑既に

九〇八年夏

上海における

陳陶通逮捕事件に関与した可能性がある

︒逆からいえば︑光緒帝

西太后死去後の清朝政府の対革命派工作が

劉にとっては最初の︑汪にとってはより大胆なスイ活動に踏み切る直接的な契機であった︑ということ

とすると

その変節に至る更なる動機

背景

経緯とは

︑ 一

体何であったのか︒ここで改めて整理してお

こうo

述ぺたょうに︑劉

何夫妻は︑

九〇七年末の第

次帰国時︑交渉自体は失敗したものの︑端方と何ら 人間

9 8

(26)

かの接触があったことは確実であり

また

九〇八年夏の何震の帰国時にも

再度何らかの形で端方と接触を

もった可能性が強い

︒ っ

まり

こうした端方との接触が伏線としてあって︑それが光緒帝

西太后死去後の政

情不安を背景に︑劉

変節

具体的スイ活動の実行を決断させる

そしてこの伏線とからみ合い︑劉

らを変節導いた深い心理的要因

1

動機として︑章炳麟との軋標

とくよる

日華新報

紙上おけ

る醜聞の暴露があった

と考える

多くの回想が指摘するように

何震と汪公権の関係は周知のこととなって

おり

同盟会会員の嘲笑と冷視の中で

家は孤立し︑憤題を

のらせていた

︒ 一

方では

日本政府の弾圧 により

︑ 一

九〇八年六月の赤旗事件以後

実践活動は実質的に終息を余銭なくされた︒こうした心理的題屈と

実践活動の手詰まり状態の中で

とどめを刺すかのよう

最後の堡塁であった

衡報

が十月前後発禁処

分に処せられるのである

ことここ

劉は最早︑帰国するより手は無かったであろう

そして帰国後

改めて端方との交渉があり︑とく光緒帝

西太后の死去を契機とする清朝側の新たな革命派対策を背景︑こ

の時点で

最終的にスイ活動に踏み切たのではないか︒

即ち

章炳購対しては

︑ ﹁

麟与劉師培及何震書五封

﹂ ﹁

劉師培致黄興書

の両種書翰の公開よって

章 の権威失墜を図て私怨を晴らすとともに︑

民報

停刊後の同盟会に更なるゆさぶりをかけょうとし

加えて

民報社毒茶事件

よって同盟会の撹乱を図た︒他方中国では

︑ ﹁

安慶起義

連動しかねなかった蜂起計

-

25

-

画の密告によって

︑ ﹁

張恭之獄

を引き起こす︒

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