main : 2015/3/2(18:59)
はじめに
現在約 60 億∼70 億の人口を誇る人類だが ,ゲノム DNA 配列に残された遺伝 的多様性から見た人口(長期の有効集団サイズ)は ,たった 1 万人にすぎないこ とがわかっている.この数値は ,実個体数が数十万程度である絶滅危惧種のチ ンパンジーの半分からよくても同数であり,他のほとんどの生物種よりも低い. つまり,遺伝学的に見れば ,人類は絶滅危惧種であるはずのチンパンジーより も脆弱な種ということになってしまう.実際に ,マラリア原虫や HIV など ,人 類で深刻な病原体に対して ,チンパンジーは何らかの抵抗性をもつことが知ら れている.新型インフルエンザや新型肺炎のような感染症(過去には天然痘や 黒死病)が致命的な脅威になり得るのも,1 つには ,人類のこの遺伝的多様性の 低さが一因であるだろう.さらには ,このような小さい有効集団サイズは ,有 限集団での偶然の影響(これを遺伝的浮動と呼ぶ)の作用を大きくし ,本来は 有害で ,集団中で増えることがまれであるはずの疾患遺伝子についても,その 集団頻度を偶然に高めてしまう場合がある.つまり人類は ,その 20 万年前の誕 生時から長い期間にわたる小集団の歴史によって ,常に感染症や遺伝病の脅威 に苦しめられてきたといえる.しかしその一方で ,人類集団は ,特に農業到来 と工業革命以降に爆発的な人口膨張を経験したことも,考古学や歴史学,そし て遺伝学の証拠から明らかである.このような急速な集団膨張により,ヒトゲ ノム中に膨大な量の突然変異が蓄積されたと考えられている.たとえば ,60 億 人の世界人口が直近世代から経験した突然変異事象は粗く見積もって 9600 億で あり,これはヒトゲノム 32 億塩基対のすべての塩基サイトが平均 300 回以上, 世界のどこかで ,突然変異によって変化したことを意味している.これは ,解 剖学的現生人類が過去 20 万年の歴史で経験した突然変異の総数より多いもの だ .もちろん ,これらの突然変異のほとんどは機能をもたないし ,偶然だけにmain : 2015/3/2(18:59) vi はじめに よって即座に集団から失われる.また ,機能をもつとしても,既存のゲノム多 様性のバックグラウンド に埋め込まれた状態であり,独立した効果を検出する ことは困難であるだろう(不可能であるかもしれない).しかしながら ,それら のいくつかは ,これまで観察されたことのない表現型を出現させる可能性があ る.そしてその多くは疾病であると考えられる.さらには ,集団サイズの増大 は ,遺伝的浮動よりは自然淘汰の作用を増大させることも予測されている.こ れらのことは ,今後,人類の健康福祉が過去に経験したことのない大きな脅威 に曝されることを意味しているのかもしれない.ゲノム医学は ,ヒトゲノムの 諸特徴を利用することで ,人類が直面しつつあるこのような問題に正しく対処 し ,持続可能な医療を実現することを期待して創始された新しい学問分野であ り,遺伝統計学は ,特に定量的側面からその根幹を支える.その基礎となる定 量的な遺伝学は ,すでに 1900 年代の初めから ,RA・フィッシャー,S・ライト , JBS・ホールデン ,木村資生やその後継者たちによって ,高度の理論体系とし て完成されていたが ,ここ 20 年間で行われたヒトゲノム解読プロジェクトを はじめとした多くの関連プロジェクトの成果は ,この理論体系の意味するとこ ろについて ,具体的理解をようやく可能にしはじめている.そのようにして垣 間見えるようになったヒトゲノムの定量的な描像は ,ときにきわめて峻厳であ る.ところが ,種々の遺伝的荷重に苦しんでいるのは ,ど うも人類だけではな いようなのだ .他の多くの生物にも,そのような傾向が大なり小なり見られる のは不思議なことだ .しかし ,ただ人間だけが ,目に見えないものを見ようと し ,定量し ,推計し ,深く知ろうとする.それが ,人間の際立って稀有な特徴 に思われる.そのような若い学生たちが ,ひるむことなく,人道的で持続可能 な医療や人類の未来を切り拓くために ,拙著が一助となることを願っている. 本書は ,主に医学系・生命科学系の大学学部生から大学院生・社会人までを 対象にしている.主要部分は ,筆者の 1 人(田宮)が ,実際に山形大学医学部 で学部学生向けに行っていた講義をもとにしており,さらに ,最新の内容とし て ,第 9 章を東北大学の植木が ,第 10 章を統計数理研究所の小森が執筆を担 当した.全章を著者間で相互に査読し ,教科書としての体裁を統一した.また, 理化学研究所の高山順博士,東北大学の佐藤行人博士・小島要博士,株式会社 スタージェン社の成田明博士には全章に目を通していただき,ご指導を賜った.
main : 2015/3/2(18:59) はじめに vii 彼らの卓越した数理論理能力がなければ ,本書は決して書き上げることができ なかった.また,東北大学の牧野悟士博士・峰岸有紀博士,NTT データの鈴木 永久氏には ,専門外の立場から有益な助言・助力を数多く頂戴した.東北大学・ 東北メデ ィカルメガバンク機構の遺伝学勉強会(檀上稲穂博士・西川慧博士主 催)のメンバーや成相直樹博士・河合洋介博士にも原稿にお目通しをいただい た .有益な助言と励ましをくださった編集委員の東北大学・照井伸彦教授なら びに執筆の機会をくださった東北大学・辻一郎教授,そして種々の我儘を聞き いれてくださった編集部にも,この場を借りてお礼を申し上げたい.なお,末 尾に ,この教科書の原稿料はすべて ,著者全員の合意の下で「東日本大震災み やぎこど も育英募金」に寄付されることを申し添えたい. 2015年 2 月 著 者