理学と仏教を結ぶ井上円了
著者名(日)
森川 滝太郎
雑誌名
井上円了センター年報
号
18
ページ
21-39
発行年
2009-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002788/
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森川滝太郎
morikawa takitaro はじめに 真理探究に心血を注いで国家発展を切望した井上円了博士︵以下、円了と略称︶は、西洋の学問としての哲学 の力を借りて東洋の宗教である仏教の真理性を確認したと云われる。仏教が衰えれば国家の独立が損なわれると の信念に基づき、生涯を通してその再興には精魂を傾けた。 円了は、西洋の学問と東洋の宗教とを哲学という観点から一体的に論ずる中で、哲学に密接に関連する物質的 な理学と精神的な仏教との結び付きをどのように捉えたのであろうか。円了が著わした仏教理論に関連する幾つ かの書物に沿いながら、そのことの集約を試みる。 最初に、この哲学という学問に備わった特質を理解するために、古今東西の哲学に批評を加えて物心という観 点から哲学を分析した﹃哲学要領﹄を取り上げる。哲学に対して理学という学問と仏教という宗教とを円了はど のように位置付けていたのかを明らかにする。 その上で、護国愛理という理念の下に哲学と理学とに軸足を置きながら宗教の教義を分析し、仏教が学問の原 理に符合することを発見したとする﹃仏教活論﹄を取り上げる。その序論ならびに本論において、仏教の真理性 21 理学と仏教を結ぶ井上円了を円了はどのように検証していたのかを明らかにする。 次に、仏教を世界の学問、世界の宗教として研究するには、仏書中に散見される天文地理などの理学に関わる 諸説を研究する必要があるとして纏められた﹃仏教理科﹄を取り上げる。古代の仏教が近代の理学に与えた影響 を円了はどのように評価していたのかを明らかにする。 最後に、仏教を革新して国家の原動力に新勢力を添える案であるとする﹃活仏教﹄を取り上げる。仏教の真理 性を踏まえて、愛国護法という理念を掲げ、理学でいう進化を念頭に置きながら、仏教の革新と国家の繁栄を円 了はどのように描き出していたのかを明らかにする。 これら円了の仏教に関連する代表的な著作について、その中の特徴的な記述あるいは内容を抜粋して以下に列 挙する。円了の記述そのままの引用文には﹁﹂を付けてあり、文中に使用されている主要な語句には一般的な 補足説明を加えてある。 22 」、N学と連携する理学 円了が二八歳の一八八六︵明治一九︶年九月に刊行された﹃哲学要領[前編]﹄︹井上円了選集第一巻八五∼ 一四九頁︺は、古今東西の哲学を時代と地域ごとに解説し、広い視野から批評を加えている。 まず哲学の定義と哲学と理学との関係から説き起こし、哲学は要するに思想の法則、事物の原理を究明する学 問であり、理学の諸規則を統合してその原理原則を論証する学問であるとする。 理学は有形質のものを実験する学問であり、哲学は無形質のものを論究する学問である、というところに根本 的な違いがある。たとえば論理学、心理学、倫理学などは哲学であるが、物理学、化学、生物学などは理学で
あって哲学ではない。 ちなみに、﹁愛智﹂を意味する哲学は、古代ギリシアでは学問一般を意味したが、のちに理学が分化してから は物事の根本原理を取り扱う学問︵略して学︶になったという。当今は哲学を含む人文科学に社会科学と理学と いう自然科学︵単に科学と言えば多くはこの意味︶とを加えたものの全体が学問である。 哲学の歴史を東洋と西洋という地域に分けて論ずる中で、﹁東洋哲学は理論に偏するものと実際に僻するもの のみありて、よくこの二者を結合調和するものなく、かつ事物の実理をもってその関係を証明するものなし。す なわちその実理とは哲学の論拠を構成すべき物理実験の諸学をいうなり。﹂と言う。 東洋哲学に分類されるインド哲学すなわち仏教については、﹁余おもえらく、仏教は一半は理学または哲学に して、一半は宗教なり。すなわち小乗倶舎は理学なり、大乗中、唯識、華厳、天台等は哲学なり。また曰く、聖 道門は哲学にして、浄土門は宗教なり。﹂とある。 ここで、大乗とは紀元前後頃からインドに起こった改革派の仏教を指し、中国や日本などの北方仏教はいずれ もこの大乗の流れを受けている。これに対して小乗とは、衆生の済度というものを忘れ、自己の解脱だけを求め る仏教の立場を大乗の立場から名付けたものである。 一方の西洋哲学は、これを古代と近世に分ける。古代哲学はギリシア哲学であり、このギリシア哲学をヨー ロッパにおいて再興したものが近世哲学に他ならない。ギリシア哲学が立ち消えになってから西洋哲学がその光 を世間に現さなかったのは、およそ一千余年に久しい。十七世紀の中年に至って再び思想界中に近世哲学という 青天白日を見るに至ったという。 その原因としては、印刷術の発明、宗教の改革、理学の進歩などが挙げられる。とくに、十六世紀から十七世 23 理学と仏教を結ぶ井上B了
紀にかけて、コペルニクス、ガリレオ、ケプラーなどが天文学の上に一種の新見を起こした結果、当時の思想が 根底から一変した。 近世哲学がギリシア哲学あるいは東洋哲学に超過する点は、主として哲学の理論が主観の空想を離れて客観の 考証を用いることである。常に主観と客観の両全を期し、思想と実験の契合に主眼を置いて、哲理を一方に偏債 させないところに近世の進歩が見られる。 西洋哲学と東洋哲学とでは性質の単雑と種類の多寡に異同があるが、﹁東洋は一国の思想ことごとく一主義に 雷同するの傾向あり。西洋はこれに反し一思想起これば必ず他の思想の起こるあり。一主義行わるれば必ず他の 主義の行わるるありて、一学派の決して独立独行することなく、一主義の決して諸想を圧伏することなく、諸学 諸説互いにその真偽を争い、その優劣を競うの勢いあり。これ西洋学の進化するゆえん、東洋学の退歩するゆえ んなり。﹂と纏める。 この﹃哲学要領[前編]﹄のあと、円了が二九歳の一八八七︵明治二〇︶年四月に刊行された﹃哲学要領[後 編]﹄︹井上円了選集第一巻一五〇∼二一五頁︺は、哲学内部における物心の捉え方を多面的に分析し、これに説明 を加えている。 まず、物︵物質︶と心︵心性︶の相互関係について論じ、人間の論理思想の発達は物と心の二元から始まり、 唯物に入り唯心に転じて、ふたたび二元に戻るのが常であるとする。ただし、前の二元は物心異体の二元である のに対して、後の二元は物心同体の二元である。 この物と心の本体という概念を﹁理想﹂と名付ける。物心が現象であるのに対して、理想はその実体である。 この理想に物心の差別があるのは、一枚の紙に表裏の差別があることに警えられる。表面からこれを見れば物の 24
理学 ∼ 有形質のものを実験(主として唯物論) 物質変化 → 物理・化学 動植進化 → 生物学 心身関係 → 生理学
廿原理論証
一共
哲学 ∼ 無形質のものを論究(主として唯心論) 思想作用 → 論理・心理・倫理学 究極原理 → 純正哲学 理学と哲学の主要内容と相互関連 図1 全体がすなわち理想であり、裏面からこれを見れば心の全体が すなわち理想である。このことによって物心という二元が同体 であるということの原理が納得できる。 唯物と唯心の歴史については、﹁唯心論のかえって古代に盛 んなりしは、はなはだ怪しむべきに似たワといえども、その論 必ずしも唯物にさきだちて起こるにあらず。釈迦の唯心論を唱 えしは、当時世人一般に唯物あるを知りて心あるを知らざれば なり。﹂と言う。 これを受けて、﹁そもそも近世唯物論の盛んに行わるるに至 りしは、人の論理思想の大いに発達して、百科の理学の世に起 こるによるや疑いをいれず。他論をもってこれをいえば、今日 の唯物論は、物理、化学、生理、生物等の諸学の進歩より生ず るところの結果なり。﹂とある。 さらに、﹁あるいは唯物論は近世始めて起こるというも不可 なることなし。今その理を知らんと欲せば、まず諸学の実験に ついてその結果のいかんを考えざるべからず。生理学について 心身の関係いかんを見、生物学について動植の進化いかんを 知り、物理化学について物質変化のいかんを究めざるべから 25 理学と仏教を結ぶ井上円了ず。﹂とある︵図1参照︶。 ここに触れられている進化という考え方は、生物学の進歩によって得られた結果であり、早くからゲーテ、ラ マルクらがその原理を知っていた。ダーウィンを待って始めてその実証が得られたが、それは人為淘汰を見て自 然淘汰の道理を考え、これを実験に照らしてみてその説が真であることが分かったからである。 そもそも進化論とは、それぞれの生物は、神によって個々に創造されたものではなく、極めて簡単な原始生物 が自然淘汰によって変化してきたものであるという学説である。一八五九年にダーウィンが体系付けてから広く 社会の注目をひき、その後の文化一般に多大の影響を与えた。その前年に生まれた円了も少なからぬ感化を受け ているはずである。 26 二、護国愛理と破邪顕正 円了が二八歳の一八八七︵明治二〇︶年二月に刊行された﹃仏教活論序論﹄︹井上円了選集第三巻三二五∼三九三 頁︺は、仏教の教義が西洋の哲学の原理に符合し、真理であることを発見した経緯を述べた上で、その再興を意 図した対応を論じている。 まず国家と真理という視点から、﹁国家もし成立せず、人類もし現存せざれば、真理ひとり存するも、だれか よくこれを知り、またよくこれを講ぜんや。けだしこれを講ずるは、知者学者を待たざるべからず。知者学者を 生ずるは国家の独立生存を要するなり。故に学者いやしくも真理の講ずべきを知らば、必ずまず国家の独立に向 かって祈らざるべからず。﹂とする。 護国と愛理の二大事が学者の務めるべきところであって、護国は愛理に一歩もその軽重を譲らないとする円了
の考えの原点はここにある。言うまでもなく、護国とは国家を護持することであり、愛理とは真理を愛重するこ とである。 次いで、﹁わが生存するところの世界も、わが占領するところの身体もみな真理より成り、その日夜耳目に現 ずるところのもの、みな真理の影像なり。ああ、余は真理を呼吸して生活するものなり。ああ、余は真理を消化 して生長するものなり。故に余は真理のためにあくまでこの心を尽くし、あくまでこのカを致さんと欲す。これ 余が畢生の大願なり。﹂と言う。 これ程までに思いが込められる真理とは、文字どおり真実の道理のことである。哲学的には、絶対的存在また は実在的事態の客観的妥当性、と表現される。思考の法則に適合するという意味では、判断、推理の正しさに他 ならない。 十数年来刻苦して渇望した真理は、西洋で説かれている哲学中にあることを知ったとしてから、仏教とヤソ教 ︵キリスト教︶の真理性に言及して、﹁哲学界内に真理の名月を発見して更に顧みて他の旧来の緒教を見るに、ヤ ソ教の真理にあらざることいよいよ明らかにして、儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得た り。ひとり仏教に至りてはその説大いに哲理に合するをみる。﹂とある。 実際のところ、仏典を調べ直してみると、ますますその説が真実であることを知るに至る。ヨーロッパが長い 間究明して得たところの真理が、三千年前の東洋にすでに備わっていたことが分かり、手をたたいて喝采したと いう。 このことを踏まえて、﹁仏教はわが国千余年来の宗教にして、重大の関係を百般の事物の上に有するものな り。これを変ずればその勢い他の百般の事物も早晩変ぜざるをえず、百般の事物変ずればわが国これと同時にそ 27 理学と仏教を結ぶ井上円了
学問探求 理学哲学 護 国 国家護持 仏教再興 (破邪顕正) 図2 護国愛理における仏教再興の構図 の独立を失うに至るべし。これ余が国家のために仏教を護持せざるべからず というゆえんなり。﹂と強調する。護国と愛理の交差するところにまさに仏 教がある。︵図2参照︶。 一方、﹁実験の諸学は近世に至りて始めて完全を得たりといえども、思想 の学問は上古すでにインドに完備し、西洋今日の哲学といえども、決してそ の右に出つることあたわず。ただ西洋今日の哲学の長ずるところは、理学の 実験に考えてその論礎を構成するにあるのみ。﹂と指摘する。 こうして、﹁仏教は真如の理体を道本とし、因果の理法を規則とし、これ を宗教の上に応用して安心立命の道を教うるものなり。これ余がしばしば仏 教は哲学の論理に基づき、理学の実験によるものなりというゆえんなり。﹂ となる。 ここで、真如とは万物の本体のことである。仏教ではものの真実のすが た、あるがままの真理をいう。因果というのは、仏教では直接的原因︵因︶ と間接的条件︵縁︶との組み合わせによってさまざまの結果︵果︶を生起す ることをいう。哲学用語の因果律という言葉は、一切のものは原因があって 生起し、原因がなくては何ものも生じないという法則を意味する。 円了は、護国と愛理、学問と宗教の間の関係を論じたこの序論を受けて、 本論においては、﹁破邪顕正﹂という考え方に基づいてヤソ教の非真理性と 28
仏教の真理性を具体的に検証していく。言うまでもないが、破邪とは誤った見解を打ち破ることであり、顕正と は正しい見解を打ち出すことである。 三、理学による正邪判定 円了が二九歳の一八八七︵明治二〇︶年一二月に刊行された﹃仏教活論本論[第一編破邪活論]﹄︹井上円了選 集第四巻二一∼一八五頁︺は、真理ではないにも拘らず、世間が誤ってこれを真理と認めるものを除くとして、 ヤソ教を排斥している。 ダーウィンは人類動植が同じ祖先から進化した原理を発見したが、まだその始祖の起源をつまびらかにする には至っていないとした上で、﹁物に増減生滅なく、力に増減生滅なき以上は、一事として偶然に生ずることな く、一物として偶然に滅することなく、一結果あれば必ずしかるべき原因あり、一原因あればまた必ずその結果 ありて、有を転じて無となし、無を転じて有となすことあたわざるの理に達することを得べし。故に余は物質不 滅、勢力恒存の理法は因果の規則と同一理に帰すものにして、因果の規則はこの理法の実在を示すものなりとす るなり。﹂と言う。 ここで、物質不滅の理法というのは、物質はいろいろ変化してもこれを構成している要素の組み合わせが変わ るだけで、物質の本質とみられるその構成要素自体は不滅である、という法則のことである。化学変化の前後に おける諸物質の質量の総和は不変であるという法則と同じ内容を意味する。十八世紀後半に発見された。 また、勢力恒存の理法というのは、外部からの影響を受けない系においては、その内部でどのような物理的あ るいは化学的変化が起こっても、全体としてのエネルギーは不変である、というエネルギー保存の法則のことで 29 理学と仏教を結ぶ井上円了
ある。無からエネルギーを創造し得ないことを示す理学の根本原理の一つで、十九世紀の中ごろに確立された。 これらの論旨を踏まえて、﹁進化論の定説に従いて、人類は獣類より分化するものと定むるときは、あえて人 類の原始を立てて、これを創造するものを設くるを要せず。もしまた更に進めて、有機は無機より分化するの唯 物論をとるときは、有機を創造するものを殊更に設くるを要せず。﹂とある。 その無機はどのように生じたのかが問題になるが、もしその本体が無始無終であるとするならば、これを創造 するものを立てる必要はない。天神の実在を想定するのは、全く無始無終の原理を知らないことによる。この原 理は、不生不滅の規則から導かれる当然の帰結である。 この無始無終とは始めもなく終ワもないことであるが、仏教では真理の永遠性、または輪廻の無限性を表わ す。また不生不滅とは生じもせず滅しもしないことであるが、仏教では真如実相の存在を意味する。 こうして、﹁人いやしくも天神の妄想を脱せんと欲せば、よろしく世界をもってヤソ教者の談ずるがごとく、 数千年間に成立したるものとなさずして、仏教に談ずるがごとく、無始久遠、幾億万劫の歳月を経過したるもの と想定すべし。かくのごとく想定するときは、たやすく万物の形成は自然の進化に出でたるゆえん、および仏教 の真理を了解することを得るなり。﹂とする。 さらに、﹁実験上無機の規則をもって有機の上に適用することを得るがごときは、またもって有機と無機のそ の体同一なるを知るべく、かつ近年化学の実験上無機元素をとりて有機質の性あるものを造出せりというがごと きは、みなもって有機無機の同一物なるを証するに足る。これを要するに、今日の諸学は自然に万物一体、諸法 一理を証明するの方向に進むものにして、仏教のいわゆる万法一真如の理に合するものなり。﹂とする。 ヤソ教は神がこの世を創造したという神造教であり、対する仏教は因果の理法が万事に貫徹する因縁教であ 30
【宗 教】 ヤソ教(神造教) 仏 教(因縁教)
⇒一
【学問】
理学(物質・実験) 哲 学(思想・論理) 学問に依拠した宗教真理性の検証 図3 る、ということに関連して、﹁人の善悪と禍福との関係はみなこれを因果の理法に帰 して可なり。あえて煩わしく、知るべからざる天神の想像をかりてその理を托するを 要せんや。天神は仮説の空想なり、因果は実験の真理なり。仮説の空想をかりて実験 の真理を排するは、論理を知らざる妄論というより外なし。﹂と言う︵図3参照︶。 円了は、﹁理学も感覚上の実験より成立せるをもって、その真偽全く感覚の事情に 属すということを得るも、その実験大いにヤソ教の実験と異なるところあり。すなわ ちヤソ教はモーゼまたは徒弟のごとき一人一個、一世一時の実験にして、不完全不確 実の感覚によるものなり。理学は衆人数世の実験を重ね、今日目前の感覚によるもの なり。﹂と断定する。ヤソ教と理学のどちらが最も信ずるべきであり、どちらが最も 疑うべきであるかは智者を待たなくても容易に判断できる。 四、仏教は智力的な宗教 円了が三二歳の一八九〇︵明治二三︶年九月に刊行された﹃仏教活論本論[第二編 顕正活論]﹄︹井上円了選集第四巻一八七∼三七一頁︺は、公平無私の哲学上の観点から 仏教を論評し、仏教の教理は、哲理の大磐石の上に立つ真理であるとしている。 まず、﹁今仏教はこれを顕示教とするも普通の顕示教に異なり、これを自然教とす るも普通の自然教に異なるをもって、余はこれを智力的宗教すなわち哲学上の宗教と いうなり。その哲学上の宗教たるゆえんは、その教中の大半は哲理の研究に属すれば 31 理学と仏教を結ぶ井上円了なり。﹂とする。 あるいは、﹁余がいわゆる仏教は今日今時わが国に伝わり、各宗共にこれを認めて仏教となすものをいい、そ の仏教の起源根本となる祖師を釈迦と名付くるなり。しかして余が仏教を称して真理なりというはその説、哲学 の道理に合するによる。﹂とも言う。 これを受けて、﹁すでにして余は仏教を研究して、その教の哲学上の宗教すなわち智力的宗教なることを知 り、その中に論究するところのものをみるに、まさしく純正哲学にして、その宗教はまさしく純正哲学直接の応 用なることを発見せり。これにおいて純正哲学は理論学にして、その直接の応用は、宗教学すなわち智力的宗教 学なることを論定せり。﹂とある。 哲学と理学の関係については、﹁哲学上にて万有万象の実体は不生不滅ならざるべからずと論究するは、物理 学において考定したる勢力恒存の理法、化学において考定したる物質不滅の規則を統合せるにより、かつその実 体の進化を説くがごときは、生物学にて考定したる動植進化の天則を論拠とするによる。これに反して物理、化 学等の実験の法則および推理の方式のごときは、哲学においてこれを考定し、その論理学中に演繹、帰納の二種 あるは、みな諸理学に必須の規則なり。﹂と説く。 ところで、仏教の因果論と哲学、理学の因果論とでは、言葉は同じでも本質的な異同がある。つまり、哲学、 理学は因果の規則を実験以内から進んで人智以外に及ぼすものであるが、対するに仏教は因果の規則を人智以外 から降りて人智以内に及ぼすものである。 また、﹁理学は物質の不生不滅なるをみて、物質は本来不滅なるものとし、更にその不滅なる原因を探らず。 しかるに仏教は物質の不滅なるは、その裏面に不滅なるもの別に存するによるとなす。すなわち真如これなり。 32
/ 1 l l l l l l l k / 【理 学】 t−一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一}一一一一
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\ 因 果 の 規 則 ,..−t−..__.._..._.一一t−tt−t.. 【仏 教】 物質不滅 【哲 学】 勢力恒存 ,一一一一一一∨ 、興進唾唯物畦噸
ネ生不滅 、 無始無終㌧ 、、 A輝的進議
\ ノ N__________________________ノ 図4 万物を真理として貫く因果の規則 この無形的不生不滅の真如が、万有の内部に存するをもって、その外面に現 ずる物質の体も不滅なることを得べしという。﹂とある。 円了は、﹁理学は有形的物質を本とし、仏教は無形的理想を本とするの別 あり。他語にてこれをいえば、理学の進化論は客観的進化論にして、仏教は 主観的進化論なり。かくのごとく表裏相反するゆえんは、その目的および範 囲初めより異なるによるのみ。しかしてその原理に至りては一なり。理学の 原理を実験以外形象以上に応用するときは、必ず仏教のごとき説あるをみる べく、仏教の説を物質の範囲内にとどむるときは、必ず理学の進化論を生ず べし。﹂と総括する︵図4参照︶。 五、古代に息づいた理学 円了が四七歳の一九〇五︵明治三八︶年一二月に刊行された﹃仏教理科﹄ ︹井上円了選集第七巻二九七∼五一八頁︺は、仏教を世界の学問、世界の宗教 として位置付けるのに必要であるとして、仏書中に散見される天文地理など の理学について論じている。 宇宙間に羅列する有形の事物を考究する学問が理学であり、たとえば物理 学、化学、天文学、地理学などがこれに相当する。これらの諸学は西洋近世 において初めて起こったものであって、東洋ではいまだかつて聞かないとい 33 理学と仏教を結ぷ井上円了う。しかし、その学問の起源を尋ねるなら、東西両洋の古代に辿り着く。 大江大河もその水源にさかのぼってみれば、わずかに一杯に足らない源泉が混々として流出することによる。 喬木大樹もその初めて発生したときは、小草よりもなお小さい。人智思想の発育もまたこれに同じである。今日 完備した百科の理学も、古人の空想中に胚胎しなかったものはない。仏書中に散見される古代の天文地理に関す る緒説は、すなわちインドの古説である。これに着目することは東洋人の理学思想の発達の研究に欠かせない。 まず、﹁仏教を一科の学問としてみるときは倶舎学、唯識学、実にその根本たり基礎たり。なかんずく倶舎学 は大小両乗の基礎たり。かつその書中には百科の学問に関係ある諸説を包有し、これをインドの百科全書とみて 不可なきがごとし。すなわち、これを一部の宗教書としてみるべきのみならず、百科の学術書とみて可なり。﹂ と解説する。 続いて、﹁仏教の世界説は無量説なり。山河も無量なり、生類も無量なり、日月も無量なり、天地も無量な り、時間も無量、空間も無量なり。その説の広大なること、想像のよく及ぶところにあらず。今日、理学哲学の 進歩によりて、我人は始めて世界の無量なることを知り、あわせて仏説の虚妄にあらざることを知れり。﹂とあ る。 近世哲学の中興の祖とも呼ばれるカントは、十八世紀中葉に宇宙ガス体論を唱えたが、その後ハーシェルが星 雲説を提唱して以来、学界一般がその説をとるに至った。古代仏教の三輪開闘説というものもその順序はおよそ これと同じである。最初に現成した﹁風輪﹂は気体の意味であるから、高熱のガス体あるいは星雲体に相当す る。次に﹁水輪﹂の液体を生じ、その次に﹁金輪﹂の固体を生じたということも、みな星雲説の定めるところと 同じである。 34
【古代仏教】
星雲説
須弥山
四大所造 極微所成 ブ s / \ / 【学問】\窟じ)
【近代理学】 天文学 地理学 物理学 化 学 図5 古代仏教に登場する理学の根源性 また、﹁アリストテレス氏の天体論は地球を世界の中心となし、コペルニクス 氏の天体論は太陽を世界の中心とし、仏教は須弥山を中心とするの異同あり。故 に須弥説は仏教の天文地理の根本なり。﹂とある。 この須弥というのは妙高と訳される。その山は天地の中央にあって金輪の上に 立ち、日月はその周囲を巡行する。その体は四宝から成り、四面おのおの一色を 有し、形は下は小さく上は大きい方形である。周辺に八山があり、これに須弥を 合わせて九山となるが、その第九の山を鉄囲山という。九山の間におのおの海が あり、その第八海中に四洲があるとされた。 さらに、﹁物質の分析に客観的と主観的あり。客観的分析とは一切の物質すな わち色法を地、水、火、風の四大所造となし、極微所成となすもの、これなり。 そのうち四大所造説は物理学に属する問題にして、極微所成説は化学に属する問 題なりと称して可ならんか。とにかく四大所造と極微所成の両説は、今日の理学 的説明にして、物理化学の元素説といいて可なり。﹂と続く︵図5参照︶。 その上で、﹁引力の発明者たるニュートンのごとき、進化の発明者たるダー ウィンのごときは、小学児童もなおよくその名誉とその功労を称賛してやまざる が、理学の元素説を発明したる四大説や極微説は、その学界に与うる功益はいか に洪大なるにもせよ、だれもこれを問わざるはなんぞや。﹂と問う。 このことはその説が今日すでに陳腐となって学界から廃泄されたことによるの 35 理学と仏教を結ぶ井上円了であろうか。今日の学説がその陳腐視される旧説から産出化成した以上は、これを廃泄物視すべきではない。古 代仏教の四大所造説や極微所成説は父と母のようなものであり、ニュートンの引力説やダーウィンの進化説は子 と孫のようなものである。西洋人の場合との比較において、古代の東洋人における理学思想の発達を研究するこ とは、学術の進歩を助けることにも繋がる、という主張がここにはある。 以上を踏まえて円了は、﹁理学と仏教を較するに、二者その原理一なるも、前者はその理を表面の物質上にと どめ、後者はその理を裏面の理想上に用うるの異同あり。換言すれば、二者共に因果の理法を根拠とするも、甲 は唯物的因果論にして、乙は唯心的因果論なるの別あり。故に唯物論の方面よりこれをみれば、仏教の因果論は 空想妄断のはなはだしきもののごとしといえども、今日唯心論の妄断にあらざる以上は、その因果論も決して妄 断なりとして排斥すべからず。﹂と警告する。 36 六、学問による仏教再興 円了が五四歳の一九一二︵大正元︶年九月に刊行された﹃活仏教﹄︹井上円了選集第四巻三七三∼五三六頁︺は、 仏教を革新して国家の原動力に新しいカを添えようという意欲的な提起を内容としている。 その書名は、﹃仏教活論﹄の序論を著わした当初にあっては、本論の﹁破邪活論﹂、﹁顕正活論﹂に続く第三篇 として﹁護法活論﹂とする予定であったが、時勢が変遷したのでこのように改題したという。 まず、﹁たとえ形骸を俗簑に寄せ、学籍を哲学に置くも、宗教信仰の一段においては、ほとんど先天の約束の ごとく仏教を遵奉して今日に至れり。そもそも哲学は理性の学にして、宗教は信性の法なれば、余は理性上にて は哲学を奉戴すると同時に、信性上にては仏教を崇信するものなり。﹂とある。
さらに、﹁今吾人が諸法の現立をみて、その実相の真如なることを知るは、なんの理によるかを思いきたら ば、因果の理法によることむろんなり。ことに諸法そのものが因果によりて生起せるものなれば、その語中に因 果の理を含むことおのずから瞭然たり。﹂とある。 仏教の経典や解説の書籍は実に汗牛充棟とも言うべく非常に多く、幾万巻あるとも知れないが、一巻片冊とし て因縁、因果を説かないものはない。哲学門において万象万化の起こる由縁を究め、ついに真如の実在を認識す るに至るのも、全く因果の理法に基づく。また宗教門において万法の波間にただよいつつある衆生が、進んで煩 悩を脱して浬磐の彼岸に達するにも、仏陀が大悲心をもって衆生を救済しようとするにも、因果の階段を経由し ないものはない。 理性による学問と信性による宗教の対比では、﹁唯心論の立脚地より建設せる仏教を唯物眼をもってうかがい 知らんとするは、あたかも顕微鏡をもって天体の観察をなさんとするとなんぞ異ならんや。吾人の身心および境 遇は客観的原因によりて成来せりとなすは、実験学の主唱するところにして、その原因を主観に帰するは仏教な り。﹂と言う。 ただし、﹁すべて活物は必ず発達す、草木動物、人類社会みなしかり。活物ならざるものもまた進化す、天 体、地球のごときこれなり。したがって人類社会の特産たる学芸、美術、政治等に至るまで、一として発達進化 せざるはなし。されば仏教なんぞひとり発達せざるの理あらんや。これを往事に徴するに時に従い所に応じて、 漸々次々進化しきたれるを見る。﹂とも言う。 このことを当時の状況に重ねて、﹁仏教いかに雄健なるも、教理いかに深大なるも、社会の現状に応合せざれ ば必ず衰運を招ききたすべし。いわゆる適者生存の通則は宗教の運命の上に応用せられ得るなり。これにおいて 37 理学と仏教を結ぶ井一1:円∫
(仏教進化) 護国愛理 (愛国護法) ノ x / \
蕊〉(ご竺)
理学(唯物) 哲学(理体) 仏教(唯心) 図6 護国愛理と重なる仏教再興の道程 古来、洋の東西を問わず、政治の革新に伴って必ず宗教の革新あるを見る。﹂とす る。 ここにある適者生存とは、外界の状態に最もよく適したものだけが生存繁栄し、 適していないものは淘汰されて衰退滅亡することを意味する。国家および宗教の安 危興廃に意を注ぐ者は、このことに大いに留意しなければならない。 論点がここに到達して、﹁死仏教を革新して、活仏教となすときは、国運を発展 し、人文を振興するにおいて、大いに稗補するところあるは明らかなり。また仏教 の頽勢を回らして、隆運を開くにおいて、莫大なる効果を収むべきは必然なり。故 に余は愛国護法の至情より革新の急務を唱道するに至れり。﹂と円了は締め括る。 愛国とは自分の国を愛することで護国に通じ、護法とは仏法を守護することで愛 理に通ずる。護国愛理と重なる仏教再興という円了の思いが、愛国護法としてここ に大きく結実することになる︵図6参照︶。 おわりに 以上、哲学と理学、理学と仏教の対比に注目しながら、真理探求の決め手を論ず る円了の見解を抽出した。このことを通して、円了思想の中核が護国愛理とそれに 連動する仏教進化論であることを見定めることができた。その根底には、理学と仏 教とが哲学を介して真理の一点において固く結ばれる、という主張がある。 38円了は、哲学的な学問である理学と哲学的な宗教である仏教の共通性を多角的に論ずることによって、有形の ﹁物﹂に関わる理学と無形の﹁心﹂に関わる仏教との広い意味での重なり合いを浮き彫りにした。別な言い方を するなら、物心同体という近代哲学の到達点との一致をここに見出しているとも言えよう。 哲学に裏付けられた理学が学問全体の進化の推進力であることを例示しながら、因果の規則につながる物質不 滅、勢力恒存の法則に依拠して、因果の規則に貫かれた智力的宗教である仏教の真理性を確認し、その歴史と伝 統を踏まえて国家独立を達成する仕組みを提起したのが井上円了博士である、と結論付けられる。 39 理学と仏教を結ぶ井上円了