親驚聖人における弥勤と普賢
山
回
亮
賢
︵大谷大学﹀ 弥勤、普賢の二聖は、親驚聖人の教義並びに信仰生活上に極めて重要視すべき問題を苧んでいると思う。それは一 般に仏弟子、大菩薩として尊敬され、敬慕されている意味に止まらない特別な感銘深いものがあったと思われる。こ の よ う な 意 味 か ら 、 ﹁弥勤の位﹂と﹁普賢の徳﹂についての課題を志向したのであるが、この小論においては、その 背景的な面を探究することにとどめる。 親驚聖人の主著﹃教行信証﹂には﹃大無量寿経﹂を枢軸として、 ﹁浬繋経﹂と﹃華厳経﹂とが最も重要視されてい る。聖人は仏一代の所説の始終を表わすものとして、この二大経典に特別な眼が向けられ、それが﹁大無量寿経﹄を 動かす車の両輪の用を為すものと見られたようである。この中、今は﹁大無量寿経﹄と、 ﹃華厳経﹂との内面的関係 を念頭におき、そこに見られる弥勤と普賢の特殊な役割と意義とを明らかにすることが必要であると思う。そしてこ の二大経典の特質に相応して、それら二聖の役割が各々異った形で示されていることを知らねばならない。 先づ﹁華厳経﹂において見るに、現存の大﹁華厳経﹂は周知の如く、前後二篇から構成され、その前篇には、普賢 親鷲聖人における弥勅と普賢 七 九親驚聖人における弥勅と普賢 八
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を上首とし、それと共に文殊を登場せしめて、大乗古川薩の代表的存在たらしめている。そこでは今問題とする弥勤は 現 わ れ て い な い 。 一応﹃華厳経﹂の根本的精神の面からは、普賢、文殊の二聖を以て代表すれば、それを以て華厳の 意図は充分尽されるように思われる。然るに、後篇﹁入法界品しに至ると、この中で現われて来る菩薩善知識の中 に、普賢、文殊に加うるに、更に弥助が現われている。勿論ここでもこの﹁経﹂の特質からして、特に普賢、文殊が 上首となり、他の多くの善知識の代表であることに変化はない。しかし求道者、善財童子が長い善知識歴訪の旅を終 えて、最後に弥助に会い、重要な指南をうける点が何か特別な意図があるように思われる。殊に弥勅の教説の分量が 極めて多量豊富で、他のどの菩知識に対比しても比較を越えて詳細である。また善知識としての普賢、文殊のそれに 比しても比較にならない程のものがある。 これは一体何を意味するものであろうか。勿論教説の分量のみを以て論ずることは、必らずしも適当とは言い得な ぃ。しかしそのような詳細を尽すことによって教説の強調面をそれによって示さんとしているようでもある。従って このことは、特に注目してよいことと思う。そこには、仏教の伝統として弥助大士は欠くべからざる人格であったこ とが白血円せられ、少くとも仏弟子として、菩薩大士として、活経典においても何らかの重要な役割を果していること であるし、大東経典においても手近かには﹁法華経﹂や﹁維摩経﹂において、その例を見る。こうしたことから経典 の形式的面からも、多分に理由あることであろうが、その上になお弥助登場の要凶が強く内にあったことが察せられ る。勿論この﹁経﹂は前篇でも知られるように、普賢、文殊の二聖を代表として﹁経﹂の始終を貫ぬくことが出来 る。否、根源的には、普賢の中に文殊をも摂して比日間日行を力説することにある。実際、この﹁経﹂は﹁仏華厳経﹂で あり、それ故に普賢行を説く﹁経﹂なのである。しかし普賢行の精神を積極的に説くためには、文殊の般若智を以て 裏づけられねばならない。即ち文殊の大乗空智を離れたものでない。大采菩産道は、文殊の空智を出発とし根底として修習され、成就せしめられるものである。従ってこの﹁経﹂の上首二人については、法蔵が﹁探玄記﹂第十八巻に おいて二問所に明快な解釈を与えている。その第一は、 上首二人が助化の主としての意味を三義を以て説く。 ﹁ 一 に 普賢は法界門に当る。是れは所入なり。 文殊は般若門に当る。 是れ能人の法界を表わすが故に。二に普賢は三昧白 在、文殊は般若自在なり。三に普賢は広大の ι 議、文殊は英一深の義を明す。深広一対の故に上首を標す﹂といい、この 解釈によって、普賢と文殊の特性と両者の不離の関係が鮮やかに教えられる。第二は﹁二位を摂すれば、此の五十五 会は、二主に統収す。初の文殊より後の文殊に至るは是れ文殊の位、般若門に属し、後の普賢の一位は法界門に属 す。般若に非、ざれば以て法界に入ることなし。是の故に善財創めて文殊を見、法界に入るに非ざれば以て般若を顕わ すこと無し、是の故に善財終に普賢を見、是の故に二人を二位に寄せて以て入法界を明す。又、前の文殊は即ち法界 甚深の義、後の普賢は法界広大のム識を顕わす。是の故に二門相影して具徳なり﹂と説明している。これらの勝れた解 説 に よ っ て 、 われらは普賢、文殊の一二聖の内的不離の関係が知らしめられる。普賢行を開顕せんとする﹁華厳経﹂が 文殊の空智によって貫ぬかれている意味が理解出来る。しかしここで法蔵の見解のみに止ることは必しも充分ではな し、
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﹁入法界品﹂の諸善知識は、最後の普賢を除いては、般若門に属するということのみに止っては、諸善知識が法 界門の普賢との本来的な関係が表わしきれない思う。逆に言えば、諸善知識は所得の一法門を語る善知識の意義から して、普賢を背景として現われた一善知識であってよい。その諸善知識がまた文殊の指南によって現われているか ら、それ故にこそ能入所入二門相影といい得るのである。 さて、このように普賢、文殊に統収される五十五位中に、弥勃の出現を如何に見るべきかが問題である。法蔵が同 親驚聖人における弥勅と普賢 i¥親驚聖人における弥勅と普賢 八 じく﹁探玄記﹂第十八巻に五十五位を五相の善知識として分類配当しているが、ここで弥助一人を﹁摂徳成因相﹂と 示し、弥勤が善知識としてここに現われた意味を説いていることは、 一応適当な理解の仕方と言える。前述の如く、 弥鞘善知識の教説の内容は極めて多量豊富であり、法蔵の所謂﹁末会﹂全体の六分の一の分量を占めている。それだ げに何を言わんとするかに戸惑う程であるが、要は求道における善知識の重要性と、発菩提心の功徳無量広大なこと を説くことに尽きるようである。また求道者善財が、最後的に求道の回一顧と反省を必要とすることを教えられる場面 と も 見 ら れ る の で あ る 。 文殊の指南によって行ぜられた善財の善知識歴訪の旅は、今や弥勤によってその正しさが証明され、そこに最後的 には弥勤でなくてはならない教説となったのである。 ﹁弥勃の位是れ摂徳成因相の知識とは、前に既に縁を会して実 相に入り定んで成仏するに堪ゆるが故に、 一生補処成因の義を排ず﹂と﹁探玄記﹂巻第二十にも述べられていること からも、この間の消息を知ること、が出来る。 ﹁菩提心は即ち一切活仏の種子たり。能く一切諸仏の法を生ずるが故 に﹂から始まる二百十八句の長い教説は、すべて発菩提心無尽の功徳を嘆ずるものである。発心功徳は如何に嘆じて もなお尽し得ないものがあろうが、 ﹁ 経 ﹂ 文 に お い て 、 一 善 知 識 か ら 、 かくも多量の言葉を以て嘆ぜられることは、 稀 有 な こ と と 一 百 わ ね ば な ら ぬ 。 繰 り 返 し の よ う に 多 一 己 一 口 を 以 て 説 か ね ば な ら ぬ と こ ろ に 、 発 心 強 調 の 特 別 な 意 義 と 、 こ の﹁経﹄の意図があるようである。﹁良徳成因相﹂という簡潔な一一一口集で言われているが、如何にも弥勅善知識の立場 の 意 義 が 明 ら か に な る 。 成菩提の因は根本的には発心にある。発心なくして持提は成就しない。従って発心の功徳 は、初発の一念において無量である。呪仏の因はこの一念中にあって無量の徳を摂する。そのことを強調するのが弥 勃善知識の使命のようである。 弥勃はこの﹃経﹂では地上の人である。地上化現の人として、来所、生処、住所、巻属等を具体的に説明している
を見る。ここにもこの﹁経﹂に現われた弥勃の特徴を見ることが出来る。それは善財の歴訪に応ずる地上の人として の必要性からとも言えるが、他面、弥勅という仏教的一人格を考察するには、好資料を提供してくれているとも一一一口え る。しかし発心の功徳力説こそここにおける弥勅の本領がある。殊に善財に対して、最初に指南した文殊に帰ること を力説し、文殊に再会せしめる方法をとったことは、発心の重要性をこのような具体的方法を以て示したことにあ る 。 こ の 弥 勤 善 知 識 も 、 一生補処の弥助位のそれであることは最後的に説かれている。主口財への教説の終りに至って ﹁善男子、我れ南方に於いて諸の衆生の所応に随いて、示現して之を化度し、此の命終に於いて兜率天に生る。彼の 諸天安︸化度せんと欲するが為の故に、勝妙の智慧の功徳を顕現して、欲の渇愛を消し、諸行は皆悉く無常にして、天 趣は寿命なるも、盛んなるは必らず衰うるあるを知らしめ、魔珂桁に入れる一生のま口薩は、皆悉く雲集し諸の同行を 教化せんと欲するがための故に、釈迦牟尼尊の化したもう所の蓮華を聞かしめんと欲し、彼の受生を現ずべし。男 子、我れ彼の中に於いて寿終りて下生し、正覚を成ずる時、汝及び文殊師利は倶に我を見るを得ん﹂と。ここに末来 を示し、兜率天へ上生し、更に命終の後、この世界に下生して、正覚を成ずるという一生補処の菩薩としての自己を 示している。しかも、善財と文殊は、共にこの弥勤の会座に会うことを予言しているのである。この﹁経﹂では善財 の善知識として、弥劫は普賢、文殊と共に地上の人として現われているが、最後的には、 一生補処の弥劫たることを 説いているところに弥勤の位の伝統を思わしめるのである。しかしここの善知識としての本領は発菩提心の功徳広大 を強調することにあったと言える。 弥勃と普賢の二聖を問題として、弥勅に関して多くを述べたが、普賢の場合は、この﹁経﹂の全面に顕現している 親驚聖人における弥勅と普賢 l¥
親驚聖人における弥勅と普賢 八白 囚 と言ってよい、それ故に、根本的には普賢大士の一人格中に文殊も弥勤も、他の菩薩もすべて摂収されると言ってよ し、
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﹃入法界品﹄の最後に現われる善知識としての普賢は、善財の最後的帰趣を示すものとしての一善知識として現 われてはいるものの、普賢の行心は全体と言えるのである。従ってこの﹁経﹂の前篇にも到るところに普賢の行心を 強調している。特殊的には、前篇の終りの方に至って﹁普賢菩薩行品﹂や﹁離世間品﹂に特に詳細に説かれている。 詳説される内容を貫ぬくものは、利他の大悲心である。法蔵は﹃探玄記﹂巻第十六に﹁徳は法界に周ねきを普と日 ぃ、用は成善に順ずるを賢と称す﹂と説明しているが、普賢は衆生界に直接的関係にある。特にこのことを具体的に 説くのは﹁離世間品﹂である。そこでは普賢心の十種を説き、第一は救ニ護一切衆生一、第二は代ニ一切衆生一受二切苦 毒一といい、他の十種はこの二に収まると見られる。また次いで十種の願行法を説く中にも、第一に尽ニ末来劫一行ニ菩 薩行一、第二に恭ニ敬供三養末来一切仏一、更に第三に立二一切衆生於普賢菩薩願行一と言って、ここに、所謂﹁供養諸 仏、開化衆生﹂の根本精神を知ることが出来る。即ち限りなく仏に帰依し、尊敬し、未来劫を尽して、衆生化益の大 業に参ずる願行である。かかる大心には前述の如く、文殊も弥勤も共に摂せられると言ってよい。四
﹃大無量寿経﹄においては、来会の対舎衆中に先づ出家の存薩として、普賢、妙徳︵文殊︶の名を見、 次いで﹁慈 氏 支 口 瞳 等 の 此 の 賢 劫 の 中 の 一 切 存 薩 一 五 々 ﹂ と し て 列 名 し て い る を 見 る 。 こ こ に ﹁ 華 厳 経 ﹂ ﹁入法界口巴に見られる善 知識としての普賢、文殊、弥勅の三聖が来会しているのである。ただここでは浄土成仏の普賢、文殊に次いで、弥勃 は此土成仏の菩薩として列名されていることが異なっているとも言える。しかしこれら来会の菩薩衆が﹁皆遵ニ普賢 大 士 之 徳 一 ﹂ と 説 か れ 、 ﹁ 諸 の 菩 薩 の 無 量 の 行 願 を 具 し 、 一切功徳の法に安住せり﹂との嘆徳の文が続いて説かれてを見る。このことは﹁華厳経﹂において、前述の文殊、弥勤、諸菩薩、諸善知識がすべて普賢菩薩の徳に帰し、それ がまた普賢行願の開顕とされることと略々同様な説き方を知らされるのである。 次いでこの﹁大無盈寿経﹂は、 M t 口薩の八相作仏を説き、普賢の徳を八相化益の儀式を以て顕示し、釈尊の一代教を も摂め尽していることを見れば、全く来会の芹薩衆は、普賢の徳の内容の問顕である。更にそこから遊諸仏国、供養 詣仏、開化衆生の大用が続いて説かれ、特に﹁広普寂定にして、深く菩薩の法蔵に入る。仏の華厳三昧を得、 一 切 の 経典を宣腸演説す云々ー﹂とあると見れば、全く﹁華厳経﹂の説く普賢の行心そのものである。そこにこの両経の内面 的な深い関係がうかがわれる。 更にまた四十八願中の第二十二願は、長い言葉の誓顕であるが、そこには、浄土往生の菩薩が必らず一生補処のけ に至ること、更に浄土に住らず、遊諸仏国、供養諸仏、間化衆生を願う存薩は、普賢の徳を修習せしめんことが誓わ れている。親驚聖人が、この願を特に﹁還相廻向之願﹂と名づけられ、この如来の願心に徹せられた領解は真宗教義 上の重大な意味を持つものであるが、今ことでは、前記の﹁皆遵普賢大士之徳﹂とこの願の﹁修習普賢之徳﹂という 二点に着眼しておくことに止める。最も、正意せしめられることは、第二十二願中に、 一生補処の弥勤位と普賢の行徳 とが収められていることである。また﹁大無量寿経﹂下巻﹁悲化段﹂においては、弥勃が阿難に代つての対告者とな り、此の世の群生の代表者となっていることが注意しめられる。特に﹁汝、無数劫より来かた、菩薩行を修し、衆生 を度せんと欲うこと、其れ久しく遠し、汝に従いて道を経て、泥おんに至るひと、称数すべからず。汝及び十方諸天人 民 一 切 の 同 衆 、 永 劫 よ り 己 来 、 五道に展転して、憂旧民勤苦ずること、具さに言うべからず、乃至今位まで生死絶え ず﹂と、ここに世尊は弥鞘の実行と権行とを説かれ、明らかに、弥朝、が一切群生の代表者となっていることを知らさ れる。また﹂汝、今諸天人民、及び後世の人、仏の経語を得て、当に熟ら之を思いて、能く其の中に於いて、心を端 親驚聖人における弥勅と普賢 八 五
親驚聖人における弥勃と普賢 八 六 しくし、行を正しくすべし等﹂の﹁経﹂文を見れば、現在より更に末来世を貫ぬいて、弥勤が群生を荷負しているこ とが明らかである。ここに﹁大無量寿経﹄に現われている弥勤の特徴を知ることが出来る。明らかに大聖としての弥 勤がわれら群生に同じて、説者世尊の教説を聞思している姿を見る。これは﹃華厳経﹂の弥鞘諮問知識とは、自ずから 異った立場の弥勤であるが、これによって、 一は地上にあって発心の功徳強調の善知識、他は対告者として群生に同 じた聞信者の立場とも言うべき菩薩であり、大聖弥勤の存在の大なることを首肯させられる。