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中広 : セ ル ジュ ・チェ リ ビ ダッ ケ とカ ルロス ・クライバ ーの病 跡 学 的比較 検 討
セ ル ジ ュ ・ チ ェ リ ビ ダ ッ ケ と
カ ル ロ ス ・ ク ライバ ー の
病 跡
学 的 比 較 検討
中 広 全 延
1 要約
セ ル ジュ ・チェ リ ビ ダッ ケ と カル ロ ス ・クラ イバ ーは、完全主義者である点が共 通 して い る が、異な る点 も多い。 こ こで は、 両 者 を対 比し差 異 を抽出し て、 彼らの病 跡 学 的 考察を前進 さ
せることを試み る。
チェ リビ ダッ ケ は、完全主義ゆ えに通常 をは るか に超 え る練 習 量 をオーケス トラ に要求し た。
さ ら に、彼が練 習 狂になっ た 心理 的側 面と し て、自我に お け る自信の欠 乏 も考 え ら れる。そ の 自信の欠乏に よ る不 全 感は、彼に攻撃性 を発 動 させ た。そ れは、発揮方法 も対象も平 明で あ り、
直 接 的 な 陽性の 攻撃とい える。
ク ライバ ーは、しばしば公演 を正 当 な理 由 な くキ ャ ン セ ルする。彼のキャ ン セル 癖は、完全 主 義に起 因 する退 避行動と 理解で き る。キャ ン セル して、周囲の 期待を裏切り失望さ せること
が、彼の攻撃衝動 を満 足 させ る と解釈される。 こ の 間 接 的 な陰性の攻撃の標 的は、常にク ラ イ
バ ーの内 面に影を落と し ている 大 指 揮 者であっ た父工 一リ ヒ で は ない か と思 わ れ
る。 ま た、自 分が キ ャ ンセル し たこ と を 無視する かの ごとくで あ るの は、否認の心理 が働い て い る た め と考
え られる。
2 はじめに
音楽を合奏し ようとす る と き、奏者の 人数が あ る程 度 以 上 増 え れ ば、全体の演奏 をコ ン トロ ー
ルす る 人が必 要 とな り、指揮者とい う もの が生 まれ たと考え ら れ る。 演 奏の 中心と なっ て全 体 を統率する指揮者が、西 洋の ク ラシッ ク音楽に おい て 、き わめ て重要視される に至っ たことは、 周 知の と お りである。 ク ラ シッ ク音 楽の20世 紀は、作曲よ りも演奏が優 位で あっ たとい われる
が、その 優 位に立っ た演 奏に おい て、指揮者が主 役の ひ と り と なっ た。 オペ ラ におい てすら、
舞台の上の歌手で は なく、ピッ トの なかの指揮者が脚 光 を浴びる傾 向にある。指揮者は、合 奏 を指 揮 す るだけではな く、オーケス トラ の 運 営 を も 指 揮 する場合が多く、善 きにつ け悪 し き に
つ け、力のイメ ージをま とわ りつ けるよう になっ た; ヘ ル ベル ト・フ ォ ン ・カラヤ ン (Herbert
von Karajan)におい て、 あ ら ゆ る意 味で、指 揮 者とい う存 在が頂点に達 したと、私に は 思 われ
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る。
ベ ル リン ・フ ィル の首席打楽器 奏 者 を35年間勤め た ヴェル ナー ・テーリヒ ェ ンは、「音楽家
が指揮者に なっ て、音楽活 動の う ちで最 も責任の重い ポジ シ ョ ンを 引 き受 け よ うとする な らば、
自信を もち、自分の卓 越し た能力に確信を抱い て い な くて どうし よ う。 自己懐疑は こ の職 業に あっ ては 致 命 的だ。」とい っ てい る ω 。指揮者は、とりわけ 「自分で あ る 」ことを要求さ れ、
ま た、そ うあらね ば ならない、き わめ て西洋的な人々 で ある。
私は、前に、セ ル ジュ ・チェ リ ビ ダ ッ ケ (Sergiu Celibidache)c2・s)と カル ロ ス・ク ライバ ー(Carlos
Kleiber>((・5)に、 病跡学的 考 察 を加 えた。 彼 ら は両者ともに、「自分で ある」ことを強く要請さ れる指揮者であ るにもか かわらず 、「自分 と は何か」 を 問 うて い る よ うな人物で あ る。 確 固た
る自 分 を持ち あわせ てい ない 人にとっ て、世 界は危険に満ちて お り、裸の 自分 を防 護 す るた め
の 衣 服を着用し な けれ ば な ら ない。つ ま り外 界の脅威に対し て 、 彼らは、何らか の防衛策を考 案する必要が あ る。あ るい は、相 手に や られる前に、 自 分の ほ うか ら先 制 攻撃 をかける か……
。
チ ェ リ ビ ダ ッ ケとク ライバ ー、どちらも孤高かつ 異端の指揮者で あ り、完全 主 義 者で あ る。
こ こでは、共 通 する点が多い両者を 対比させ ること によ り、 彼ら の差異を明確化しよ う。 その 操作 を とおし て 、彼ら に、私が今まで試み た検 討に加え て、さ ら に別の角 度か ら光 を 当て てみ
たい 。
3 セル ジュ ・ チェ リビダッケ
(1 ) 練習狂
セ ル ジュ ・チ ェ リ ビ ダ ッ ケ (1912− 1996)は、第二次 世 界 大 戦後の一時期、ベ ル リン ・フ ィ
ル の指 揮 者 をし てい たル ーマ ニ ア生まれの音楽家であ る。彼の 生 涯 全 般につ いて は、既 刊の文 献 を参照し てい ただ きたい。
チェ リ ビ ダッ ケは オ ーケス トラ に並 外 れた質量と も に徹底し た リハ ーサル (練 習 ) を要 求 し、
ま たその リハ ーサル 方式 が彼 独 特の個 性 的なもので後に有名になる が、既にベ ル リン ・フ ィ ル
に対し て も そ れ を要求し てい た。その楽 器の ヴィ ル トゥオーソ (名人)とい う定 評の ある楽 団 員のなか に は、チェ リ ビダッ ケの厳しい訓練方式に疑問を呈した り反 発 す る 者 も 出て来た。1950
年ベ ル リン ・フ ィ ルに 入団し たフ ル ート奏 者の オーレ ル ・ニ コ レは、後年インタ ビュ ーに答 え
て次の よ うに言っ てい る。「チェ リビ ダッケ は と て も若かっ た の です。彼は音楽に熱 狂 し、歌い、 踊っ たの です。練 習の 時に彼のところへ 行 き、チェ リ さ ん、どうし て そ うい う風に練習するの
ですか 、時 間の浪費じゃない ですか 、と言っ たの です。 IO回 もオ ーケス ト ラ練習を要求されま すが、四 六時中踊っ たり叫ん だ りし てい るだ けじゃ ないですか、と 」(6)。
伝統的演奏様式に よれ ば、過 去の歴 史の積 み 重 ねとい う土台があるので、その気にな れば、
比 較 的容易に音楽を作ることがで きる。 もし、伝統 的演奏 様 式に よらない の で あれ ば、楽譜の
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音符の み か ら音楽 を構 築 しな け れ ば な らず 、いわ ばゼロ か ら の出発で あ る。 こ の作業は、莫 大 な 肉 体 的かつ 精神 的エ ネル ギーを、具体的に は膨 大な練 習 量 を必要とする であろ う。 チ ェ リビ ダ ッ ケ は、常にすべ ての 曲に おい て こ の作業 を行お うと し ていた と想 像 され るか ら、練 習 狂に な らざるを得な かっ た と思 わ れ る。さら に彼の完全 主義が、これに拍車 をかけた。し か し、通 常 をは るかに超えた練習量 を要求した原 因に は、彼の 心 理的側面も考え られる。
ベ ル リン ・フ ィ ル の メ ン バ ーが全員ド イツ音楽の伝 統 的 演 奏 様 式 を 熟 知 し て い るのは当 然で あ ろ う。 と こ ろ が、チェ リ ビ ダッ ケ は 「異 邦 人 」で あ り、 ドイツ音楽の伝統 的演奏様式 を身に
つ け る機会が なかっ た C3}。 チェ リ ビ ダッ ケはベ ル リン・フ ィル の前に立つ と自分だけ が伝統的 演 奏 様 式 を持っ て いない とい う疎 外 感 をいだき、異常な ほ どの 不安を覚え たの ではない か。ま たベル リ ン ・フ ィ ルに限らず、どんな オーケス トラ でも相手 が名 門や一流になればな る ほど、
その指揮台に立っ て不安 を覚え ない 指 揮 者はいないで あ ろ う。テーリヒ
ェ ンは、「敵地に乗り 込 も うとい う指 揮 者 が、ことにベ ル リン ・フ ィ ルを相手にするば あい 、あ りとあ ら ゆ ること を 考え ない はずが あ ろうか。」と述べ 、かつ てベ ル リン ・フ ィル に客 演 し た指 揮 者たちが示し た
い ろい ろ な態度の具体例につ い て挙 げて い る〔1ト。
チェ リビ ダ ッ ケの場 合は、音楽へ の没入 や熱狂 が その 不安 を忘 れさ せて くれたで あ ろ う。ま た次 項で さら に議論する よ うに 、こ の 不 安 を消去するため強迫的練習 狂と なっ た と思 わ れる。
こ のよ う なチェ リ ビ ダッ ケ に対し て、カラヤ ンはベ ー トーヴェ ンと ブ ラーム ス の交響曲はすべ
て全 く練 習 なし でい つ で もベ ル リン ・フィ ル と演 奏で き る と断 言 してい た。
(2) 自信の欠乏 ク ル ト・シ
ュ ナ イ ダー (Kurt Schneider)(T)は、彼の精 神 病 質 人 格の分 類の なか のひ とつ で あ る自信欠乏精神病質者 を、「自信欠乏者の 内心の 不自由さ と内気さ は、しばしば 外 部に対し て は、あ まり にも 自信たっ ぷ りな、尊 大ともい える態 度や、人 目 をひ く よう な外観に よっ て、
せい い っ ぱい打 ち 消されて い る。つ ま り、決し て見すごし に は さ れ ない そ と力み か えっ て い る ので ある。」と記述し て い る。 そして 、彼 らに はしばしば 「強 迫 過 程が生ずること は古くか ら 知られて い る。」といっ て い る。た だし、 「精神病質者の類型 は診断で は ない」と し、「人 間 全 体に関係させ て み た場合、 もっ と重 要 な 性質をい い表 して い る よ う な 名 称で も、や はり形式的
なもの にすぎず、決し て人間を知る 上 に じゅ うぶ ん なもの と はい え ない 。」 と述べ てい る。「は り紙で もするよ うに はっ き りし た名 称 をつ ける や り方で は、現 実の人間のご く一部分、すなわ ち 特 別 な観 点の下で特に重要な個々の性質しか扱いえ ない」 うえに、「(精神病質者の類型の) 種々の特 性が、人 格 全 般にわたっ ている場合は め っ た に ない こ と は明 ら か であ る。」と して い る。
例 え ば、「自信 欠 乏者はどん な方面で 自信が欠 乏して い るの か。そし て ど ん な種類の強迫 を持
っ ている の か。」 を問 題にすべ きであ るとい うことに なる。
シュ ナ イ ダー流の ア プロ ーチ を試み る と、チ ェ リ ビ ダッ ケは伝 統 的演奏様式を身につ けてい
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