道徳教育実践におけるコールバーグ理論適用上の諸問題 菊池龍三郎*本田 和夫 *
1 日本の遊徳教育の問題点
わが国の小中学校における「道徳の時間」を中心とする道徳教育は,道徳的諸価値の内面化を促す過程と してみる立場に立っているといえる。1そして,その方法から「徳目主義」ともいわれている。また,教育を
「顕在的教育(機能)」と「潜在的機能(機能)」に分ける周知の分類の仕方を用いれば,道徳教育つまり道徳 的諸価値の内面化についても顕在的な道徳教育と潜在的な道徳教育とに分けることができる。そして,潜在 的な道徳教育についても,最近r隠れたカリキュラム」(多くの教師が漠然と仮定している集団生活の規律が 道徳的品性を直接向上させるという考え方)という観点から注目されるようになっている。この「隠れたカ
リキュラム」への関心の高まりも.ほとんどの公立学校において共通にみられている現象である。
ところで.道徳教育への期待や関心が益々高まっているにもかかわらず,多くの教師たちは道徳教育に自 信を持っておらず,「道徳の時間」は実際には行事や教科指導の補記にあてる重宝な時間とみなされているこ
とも事実である。その原因は,一つには道徳教育のいわば方法主義,技術主義に求めることができる。
そのことを例えば,高久清吉氏 の「r何か』の問いと切り離され,もっぱらrいかに』の問いだけが提起 されるところに,いわゆるr実践的研究』とよばれているものが持っている大きな弱点がある」という指摘 がそのままあてはまる。つまり,日本の道徳教育においては,「何か」という問いがあまりに軽く扱われすぎ ており,「道徳とは何かj「道徳は教えられるのか」という本質を問うことをなおざりにして,方法や技術だ けを求める教師たちの乱心にも.現在の道徳教育の不振の一因があると考えられる。
道徳教育とは何かという問いは,道徳性とは何かという問いに帰着する。そして,道徳性とは何かという 答えに応じて相異る道徳教育観が構成される。そこで本稿では特に米国の道徳教育の潮流についてスペルカ,
D。Pに基づきながらs藤田昌士氏3の用いた分類によって整理した後,現在日本で実施されている道徳教育の 持つ問題点(本稿では,「徳目主義」と「隠れたカリキュラム」の2つ)について論及したい。
1.Eii本の道徳教育の位置付け一三つの道徳性,三つの道徳教育一
〈1)インカルケーション (価値本位の道徳教育)
道徳性を道徳諸価値についての内面的自覚とみる見地である。それぞれの社会には人々が守るべき規範と しての道徳がある。それらの道徳あるいは道徳的諸価値が内面化された状態,いわば内面化された道徳的諸 価値が道徳性である。かくして道徳教育は道徳的諸価値の内面化を促す過程としてとらえられる。アメリカ においても有力な人格教育(Character Education)が、この見地に基づくものと言える。わが国の小中 学校における「道徳の時間」を中心とする道徳教育も,基本的にはこの見地に基づくものと言える。
*茨城大学教育学部 **茨城大学大学院教育学研究科
② 価値の明確化(能力本位の道徳教育)
道徳性を自主的な価値選択の能力とみる見地である。この見地に特徴的なことはeその能力を構成する要 素についての分析的な把握である◎そして道徳教育は,それらの構成要素に注意を払いつつ,人の自主的な 価値選択の能力の発達を促すものとしてとらえられる。アメリカにおいて有力な「価値の明確化」(Values ClarificatiGn),また,イギリスの学校協議会道徳教育プロジェクトによる「ライフライン計画」(the Lgfeline programme,命綱計画)も,この見地にもとつくものと言えよう。
{3)認知発達的アプローチ(段階発達的な道徳教育)
道徳性を段階的に発達するものとして,発達の相においてとらえるものである。この見地によれば,道徳 教育は道徳性の段階的発達を促すものとしてとらえられる。ピアジェ4による「他律から自律」という段階 説,ブル5による「道徳以前から他律,そして社会律を経て自律へ」という段階説,さらに,コールパーク6 による六段階説などを見いだす。
2.徳目主義
道徳教育の伝統的立場,前節で示した(1)のインカルケーションの立場を方法論的に見たとき,それは多く の場合,「徳目主義」とよばれている。徳目とは,通例,「道徳の細目」を言うもので,例えば今回改訂され た中学校学習指導要領は,四つの視点による22項目の徳目から構成されている。
コールバーグ7は,「子どもを育てる場合には,時として徳目のレッテルを使うことが確かに必要ではあり ますが,徳目袋は,個人が自分の道徳的目標を規定するにはあまり役立ちません。……もしも,チャーリー・
ブラウン(アメリカのTV番組に出てくるキャラクター)と同様に,徳や悪徳によって私たちの道徳的目的 を規定するとすれば,他人の賞や非難によってその目的を規定することになり,すべての人の気に入るよう にしなければならなくなり,最後は腋抜け者で終ってしまうのです。」と指摘している。徳や悪徳(徳目)は,
確かに,慣習的レベルの道徳段階の人間にとっては中心的な意味を持っています。しかし,問題なのは,そ の社会の持つ慣習のワクを破ることが,それが慣習の背反である変態でも,それが慣習の超克である独創で
も,いっしょくたんに禁じてしまうことである。8いずれにしても,慣習以後の自律的,原理的レベルの視 点に立ち,徳目(個別的諸価値)を貫く道徳原則の自覚こそカ㍉現在の道徳においてもっとも必要な態度と いえよう。
3.隠れたカリキュラム
学校経営上の要請と社会システムとしての学校の要請による教師の活動の無意識の形成作用が,子どもた ちを社会に適応させるうえで,隠れた働きをしていると主張する立場は,近年,「隠れたカリキュラム」と呼 はれている。この観点は,フランスのデユルケム9が確立した教育社会学の長く偉大な伝統に由来している。
彼は,権威を受け入れることが子どもの道徳性の発達の要点の一つであると言うだけでなく,知的発達の見 地からすれは1非常に無駄にみえる集団,賞賛,力が,子どもの道徳性の発達の必要条件であると主張した。
わが国においてごく一般的に行われている道徳教育がこの立場に立っていることは,だれも認めることで あろう。それに関して,校則についての議論が盛んである。漠然とした仮定ではある粧多くの教師たちは,
集団生活の規律が道徳的品性を高めると考えている。しかし,この立場には,いくつかの問題点がある。宮
島喬氏Ioは,デユルケムに対する批判としてではあるが,「社会化を,適応すべき社会にふさわしい思想や道
徳を子どもに伝達し,植え付ける,大人から子どもへの働きかけとみるその見解は,価値:の創造や革新の可
能性によりも,既存の維持と伝達にウエイトをおく考え方とみなされてもやむをえない。また,子どもを能 動的な学習主体としてよりも,社会化される者の位置においてとらえるという見方にかたむいているという 印象もぬぐえない。」と指摘している。コールバーグが批判しているのは,まさに,宮島氏の指摘しているこ となのである。彼は,社会化における個人の積極的役割を強調する。周囲の人々の行動を手本として学んだ り,世の中で妥当とざれている価値観を受動的に内面化したりすることによって社会化するのではなく,自 ら学ぶべきものを選択し,価値観をつくりあげていくことによって社会化するのだと主張する。彼はe 道徳性の発達に関して,「判ua jの役割を重視するが,それは社会化に関して,個人の役割を重視する彼の立 場からすれば当然のことである。「隠れたカリキュラム」がこのような問題点を持つのは,倫理相対主義とい
う道徳性の発達の誤った概念から出発しているからであるとコールーバーグは指摘している。「……多くの 社会科学者がそうであるように,二値の相対主義者は,『すべての人々は独自の価値観をもっている』という 考えと,rすべての人々は独自の価値観をもつべきだ』という考えとをしばしば混同している。言葉を変えれ ば価値の相対主義という立場は,事実に関する事柄(すべての人に受け入れられている規準はない)と,価 値に関する事柄(すべての人が受け入れるべき規準はない)との論理的な混同に基づいていることが多い。
すなわち,それは,r自然主義的誤謬忍のrつなのである。」l1
9 コールバーグにおける道徳性の発達段階
1.デユーイとピァジェの場合
コールバーグは,デユーイ(1909年),G・Hミード(1934年), JeMボールドウイン(1916年),ピ ァジェ(1932年)たちと自分の道徳理論に共通する漣の仮説を指して「認知発達的」という言葉を用い た。これらすべての学者は,自己と社会に関する概念の認知・構造的な変化を表わす道徳性の発達段階の存 在を仮定している。また,彼らは,この発達段階は社会的状況の中で「人の立場で考える」一連の様式を表 わしており,したがって,発達の社会環境的決定要因は役割取得の機会だと仮定している。もっと一般的に 言えば,これらの研究者はすべて,自分の知覚した環境を構造的に把握する積極的な子どもを仮定し,した がって,道徳性の段階やその発達は,ものを構造的にとらえる子どもの傾向と,環境の構造的特徴との間の 相互作用を表わしていると仮定している。
そこで,コールバrグが特に影響を受けたデユー一・4とピアジェの発達段階を示した後に,コールバーグ自 身の六段階を示すことにする。
a)デユーイの仮定12
① 前道徳もしくは慣習以前のレベル
生物的,社会的衝動に動機づけられ,その結果が道徳的意味をもつような行動のレベル
② 慣習的な行動のレベル
個人は,自己の集団の基準をほとんど批判的考察を加えることなく受け入れる。
③ 自律的な行動のレベル
目的が善であるかどうかを自分で考えて判断し,無反省的に自己の集団の基準を受け入れることのない
個人によって行為が導かれる。
② ピァジ=の示した道徳性の発達段階13
ピァジェは,認知的段階に関する自分の先行研究に基づいて,実際の面接調査と子どもの観察(マーブル ゲームで遊んでいる)をとおして,子どもの道徳的推録にいくつかの段階を設定する最初の試みをした。
① 前道徳段階:規則に対して義務感のない段階
② 他律的段階:正しさは,規則に杓子定規に従うことであり,義務を力のある者への服従と同一視する段 階……ほぼ4〜8歳
③ 自律的段階:規則に従う目的や結果が考慮され,義務が相互性と交換に基づく段階……ほぼ8〜エ2歳
2.コールバーグの道徳性発達の六段階
ピアジェの研究は12〜13歳頃までの子どもを対象にしている。しかし,人間の道徳性の発達は,その時点 で終わるわけではない。その点で,コールバーグの研究は,人間の道徳判断の究極の段階(少なくともコー ルバーグはそう考えた。)を視野に入れているという点で注目に値する。
コールバーグは,そもそも道徳判断とは人間同士の対立する権利の主張や要求をどう解決するかについて の判断であり,その判断の規範性と普遍性に,道徳判断の道徳判断たるゆえんを見る。このような立場から,
コールバーグはピアジェと同様に,道徳の中心問題は「正義」もしくは「公正」の問題であると考えた。な ぜなら,公正の問題こそ,規範性と普遍性とが要請される性質のものだからである。こうして,彼が人々の 道徳判断を研究する手段に用いた架空のモラルジレンマ(有名なハインツのジレンマもそのひとつである。)
とそれに関する質問は,人々が正しさをどのように考え,権利や義務の問題をどう考えているかを探るため
のものであった◎ゴールバーグは,道徳判断の発達に関するデ=一イとピアジェの研究を受けて,1955年以来20年にわた る研究を通じて,文化圏の違いに関わりなく共通に見いだされるという道徳判断の発達の六段階を提起した。
その六段階の構造とは次のとおりである♂4
① 前慣習的な水準
段階1 罰と服従が中心
段階2 ナイーヴな利己的判断が中心
②慣習的な水準
段階3 「よい子」として振る舞うことが中心 段階4 「法と秩序」が中心
③ 脱慣習的,自律的,または原則的水準 段階5 社会契約的な考え方が中心 段階6 普遍的な道徳原則が中心
コールバーグが,この道徳判断の発達段階論を基礎に,具体的な道徳教育の方策として提出したものが,
次に示すような二つのアプローチである。
A。道徳問題についての討論(moral discusion)
B。「正義の共同体」(just community)
しかし,本稿においては,これらについては取り上げずに論を進めよう。
皿 実践への適用にあたって考慮すべきポイント
1.インドクトリネーションからの自由
{1)コールバーグ理論のもつ問題点
コールバーグが提出したインドクトリネーションから自由であり,倫理相対主義からも自由であるような 道徳教育の建設という課題は,.教育実践の場においできわめて重要な課題といえる。
しかし,コールバーグ理論には明らかな問題点が内包されている。藤田氏15も指摘しているように,コー ルバーグの問題点は,イン狩クトリネーションを批判するあまりに,総じて社会生活の「規則」を子どもに 教えることを軽視していると思われることだ。例えば,第二の「慣習的レベル」を例にとってみると,ここ では,子どもにあれこれの善悪の基準を教え込むような文化あるいは社会の存在が暗黙の前提とされている。
その社会とか文化それ自体,あるいは,そこにおける子どもへの教え込みを否定するならば;「慣習的なレ ベル」すらも成立しないはずである。これは,見方を変えるならば,発達と教育との関係をどう捉えるかと いう原則的な問題につながってくる。
{21発達と教育の関係
この発達と教育の関係について,勝田守一氏16は,次の三つの類型に分類している。
①成熟説:教育は発達の尻についていくと考える。
②経験説 :発達と教育とを完全に同一と考える。
③この二つの説を統一する説:
発達は内的要因の成熟に規定されながら,しかし,それを先廻りする教育的働き掛けによって 促されるのであり,学習者の背伸びを促す教育こそが,発達に規定されながらそれを導くもの だと考える。
上の③の立場は,ヴィゴッキーの立場であるカ㍉同時に勝田氏自身の立場でもある。ヴィゴッキー17は,
ピァジェが①の立場であると厳しく批判しているが,ピアジェに限らず認知発達的アプローチの立場をとる 研究者に等しく向けられた批判と考えてよいであろう。
教育というものをこのようにとらえていくとき,道徳教育におけるインカルケーションの立場をインドク トリネーションとほぼ同義とみなすコールバーグの考え方には,明らかに行き過ぎがあるといえないだろう
か。
ヴィゴッキー18は「教育の本質的特徴は,教育が発達の最近接領域を作り出すという事実,すなわち,い まは子どもにとってまわりの人々との相互関係,友だちとの協同のなかでのみ可能であるが,発達の内面的 過程が進むにつれて,のちには子ども自身の内面的財産となる一連の内面的過程を子どもに生ぜしめ,覚醒 させ,運動させるという事実にあると断言することをははからない。>」と述べている。また,このことについ
て,堀尾輝久氏19はfヴィゴツキー一の主張は,教授竃学習過程を中心に考えてはいるが,しかし.,その主張は,高次精神機能の根本原則としていわれているのであり,従ってその原則は社会性・道徳性の形成過程にも妥 当するものと考えていたといえよう。子どもの言語に関しても,その自己中心的言語は,コミュニケーショ ンの手段から内言(思考の言語)へと転化するその移行現象の一つであり,子どもの道徳性における他律か ら自律への発達の筋道にもこの高次精神機能の一般原則が生きているとみるべきであろう。」と指摘してる。
このことから,集団的・社会的活動としての「慣習的水準」があり,発達の内面的過程が進むにつれて,子
ども自身の内面的財産となる「脱慣習的水準」が生れてくると考えられる。すなわち,「憤習的水準」におけ る「規則」の指導が,この水準を踏み固め,次の水準への発達の内面的過程を促進する要因となると推測さ
れる。
内藤俊史氏20によれは,エ970年代後半になって,コ・一一ルバーグも「正義の共同体」に関する教育実践の経 験を通して,実際の教育においては,道徳判断の内容や行動を問題にせざるを得ないことに気付き,生徒と 教師が規則作成に参加する等の条件を満たす,民主的な共同社会が学校に構成されているという条件のもと で,ある程度の注入教育をせざるを得ないことを認めた。
さて,それでは,インカルケーションがインドクトリネーションに陥らないためには,一すなわち,認 知発達的アブU 一一チにおいてある程度の注入教育を認める場合に,考慮すべき点は何かという意味で一ど んな条件が必要といえるだろうか。まず,原則としては,勝田氏2ユのいうようにインドクトリネーションか らの自由は,「教育の概念を明確に規定することによって,発達と教育とを区別しながら,しかも,その相互 の関係を切り離さず密接なものとしてとらえようとする」ことなのである。
それは,藤田氏22によれは,教育実践への次の二つの具体的な指針として提示される。
①子どもに教えようとする価値内容の恣意性を除き,「規則」から「原則」への価値内容の普遍性の追究
② 子どもの価値の再発見を促すような指導,すなわち自主的な価値選択能力の育成
この二点である。2.日本人の道徳とコールバーグ理論
{1)道徳教育の立場の違い
まず最初に考慮しなければならないことは,道徳教育の立場の違いである。はじめに述べたように日本の 立場は,インカルケーションそして徳目主義の立場である。コールバーグ理論は,認知発達的アブW一チそ
して正義の概念の段階的発達の立場である。社会化についての考えもまったく正反対の立場であり,一方は 子どもを受動的存在としてとらえ,他方は能動的e創造的存在としてとらえる。このこと一つだけとっても,
方法だけをまねしてモラルジレンマを与えれば,道徳性が発達すると安易に考えることは,避けるべきであ
ろうQ② 社会構造の違い
また,日本社会とコールバーグ理論を生み育てたアメリカ・ヨーロッパ社会では,その社会構造に大きな 違いがみられる。よく知られているタテーヨコ,等質一異質による集団類型で区分けすると,日本社会はタ テー等質の社会集団であり,アメリカ・ヨーロッパ社会はヨコー異質の社会集団といえよう。日本の学校の 教員組織もその例外ではない。しかし,タテー等質という組織イメージは,本来子ども一人ひとりの個性に 合った教育を行うことが原則であり前提である教師集議の組織イメージとしては方向が反対ではないか。ま
して問題なのは,教師一子どもの関係についても,きう考える教師が少なくないと思われることだ。
「隠れたカリキュラム」への関心を高め,積極的な意味で道徳的雰囲気を高めようとするならば,ヨコー
等質の社会をまず学校社会に築いていくことが必要である。そのような社会構造の差がどのような要因によ
るのかは,ここでは問題とはしない。だが,日本人の相互に依存し合った人間関係がよしとする見方は,集
団主義的傾向を増幅させ,そして,それがコールバーグ理論が前提にしている人間観や社会観と大きく異っ
ていることは間違いないのないことなのである。
(3)道徳の発達の仕方
さて,コールバーグの弟子であるC。ギリガンは,師の学説を批判して,コールバーグは,道徳の発達の 仕方には,たった一つの筋道しかないように考え,正義に関する道徳を中心に発達段階を立てようしたが,
正義を中心とした道徳は男性のものであって,女性の道徳は思いやり(配慮)と責任の道徳なのだと主張し
た。23
岩佐信道氏24は,rギリガンやライオンズが明らかにしたように,正義の道徳は,個別的,客観的な人間の 見方に対応し,思いやりの道徳は,人間関係の中で相互に依存し合った人間の見方に対応するとすれば,男 性と女性の道徳観にそのような違いがみらればかりでなく,文化の間にも同じような違いのあることが予想 される。例えば個人の権利と契約を重んじるアメリカ社会と,今日なお集団主義的な傾向が強いとされる日 本社会とでは,道徳的な考え方に違いがあるかもしれない。」と指摘している。
日本の文化を「甘え」という言葉で見事にとらえた土居健郎氏25の指摘するように「人情は依存性を歓迎 し,義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会 はかくして甘えの二三した世界であったといって過言ではないのである。」したがって,日本人の道徳は,い わゆる思いやりと責任の道徳がきわめて支配的であるといって間違いないのである。また,このことが先ほ どふれたタテー等質社会ときわめて密接な関連があることは容易に推察できよう。
㈱ モラルジレンマのもつ構造
コールバーグ理論を日本において実践しようとすると,まず一番手近かなのは,モラルジレンマを与える ことであろう。しかし,そのジレンマのもつ構造一一それは,子どもとそのジレンマとの距離といってよい かもしれないが一に注意を向ける必要がある。ピアジェは,子どもの遊び(マーブルゲーム)を観察した り,本当に身近かなモラルジレンマを与えることによって彼の理論を組み立てたが26,コールバーグは,あ えて架空のジレンマ(有名なハィンッのジレンマもそのひとつ)を選んだ。そして,彼の弟子のギリガンは,
実際に生活のなかで体験したジレンマ(例えば妊娠中絶の決定のさいのジレンマ)を用いた97
集団主義的傾向の強い,タテー等質の社会に生活する日本人にとって,同集団で生活する他の人の考えや その人たちとの人間関係が重要な意味をもつ。したがって,ジレンマが日常生活に近づけば近づくほど,そ のジレンマのもつ状況によって麹断が変わりやすくなる。したがって,ジレンマの構造によって,まったく 違った結果がでてくるこどが予想される。その意味でもわれわれは,コールバーグの考え方をそのままH本 の道徳教育実践に導入することには,慎重にならざるを得ないのであり,一方ではそれだけギリガンの主張 に共鳴点を見いだすのである。
つまり,正義の観念を中心とするコールバーグの道徳性の発達段階は,確かに西洋文化圏以外の多くの地 域属各発達段階とその順序性が確認されてはいる。しかし,岩佐氏29が言うように「思いやりの道徳をア
メリカ社会の外で,実際の道徳問題を扱いながら研究することは,まったく今後の課題」なのである。
参考・引用文献
b 藤田 昌士 道徳教育の諸方策とその相互関係(道徳教育国際会議1987.8.24 pp.309〜310)
2)高久 清吉 教育実践の原理 協同出版 pp. 30 昭和63年4月
3)前掲書1) pp.309〜313
4) 」.ピアジェ 児童道徳判断の発達 同文書院 昭和31年10月 5) J。ブル 子供の発達段階と道徳教育 明治図書 1990年4月
6)コー ?一グ道儲のxeと媚耀社・P. 22〜351971
7) コールバーグ 道徳性の発達と道徳教育 広池学園出版部 pp.132〜133 ユ97ユ.
8)佐藤 俊夫編 倫理学のすすめ 筑摩書房 pp.53〜58 9)デュルケム 道徳教育論1。∬。 明治図書 1964年5月
10)宮島 喬 ・・麻生 造艦 道徳教育論入門 明治図書 pp。198 1988年11月 11)前掲書6) pp.9〜10
12)前掲書7) pp。19 13)前掲書4)
14)藤田 昌士 道徳教育一その歴史・現状・課題一 エイデル研究所 pp.128〜129 1987年4月
15)、前掲書14)pp.134〜13516)勝田 守一 能力と発達と学習 国土社 pp。99〜105 エ987年5月
17)ヴィゴッキー 思考と書語(下) 明治図書 pp。58〜72 1989年1月
18)ヴィゴッキー 思考と言語(上) 明治図書 pp.271〜272 1989年1月エ9)堀尾輝久 子どもの発達と教育3(岩波講座) 岩波書店 pp.318〜328 1982年8月 20)内藤 俊史 前掲書6)第5章 コールバーグの道徳性発達理論に基づく道徳教育の実践 新曜社 pp. 224−241
21) 盲閥書16) pp。102
22)前掲書1)
23)Cギリガン もうひとつの声 川島書店 1986年4月
24)岩佐 信道 二つの道徳一正義(公正)と思いやり一(教育心理)
25)土居 健郎 「甘え」の構造 弘文堂 pp.29〜33 1988年n月
26)前掲書4)1〜129
27)前掲書23)pp.190〜226