村 上 春 樹 と い う 作 家 は、 一 九 七 九 年 に『 風 の 歌 を 聴 け 』 でデビューを果たして以来、数多くの作品を生み出してき た。 そ し て 同 時 に、 「 軽 快 な 文 体 と 難 解 な 物 語 」
1と も 評 さ れるその作品群は、 数多く論じられる対象ともなってきた。 その数ある作品の中でも、筆者は本論において、一九八五 年 六 月 に 新 潮 社 よ り 発 表 さ れ た 長 編 小 説『 世 界 の 終 り と ハードボイルド・ワンダーランド』を取り上げて論じてい きたい。
そこではじめに触れておきたいのは、 村上という作家が、 これまでに様々な形で作品内に〈二つの世界〉を描き出し てきたということだ。過去の対談において「僕の物の見方 とか捉え方とかの基本にはいつも〈存在〉と〈不在〉を対 照させていくようなところがあって、それが並列的に並ん だパラレル ・ ワールドに結びついていく傾向があると思う」 「 つ ま り〈 存 在 〉 の 物 語 と 同 時 的 に〈 不 在 〉 の 物 語 が 進 行 し て い く と い う 感 じ 」
2と も 語 っ て い る よ う に、 〈 存 在 〉 と 〈 不 在 〉 と い う 概 念 は、 村 上 作 品 を 考 え て い く う え で 非 常 に重要な観点である。 今回取り上げる本作品の構造も、前述の内容に密接に関 わっている。本作品は、奇数章と偶数章で異なる〈二つの 世界〉 が展開する構造により、 先行研究において 「パラレル ・ ワ ー ル ド 」
3あ る い は「 円 環 構 造 」
4と い う 言 葉 が 多 く 用 い ら れ て 論 じ ら れ て き た。 そ し て 現 在 に 至 る ま で、 〈 二 つ の 世界〉の関係性を読み解こうとする論は後を絶たない。
5そこで筆者は、別の角度から本作品に光を当てて論じる ことで、作品世界を読み解いていきたいと考えた。そのた めに着目したのは、村上が近年発表した『色彩を持たない 多 崎 つ く る と、 彼 の 巡 礼 の 年 』( 文 藝 春 秋 二 〇 一 三 年 四 佐 倉 明 奈 村上春樹『世界の終りとハードボイルド ・ ワンダー ランド』 論 ︱︱
〈ない〉
から 〈ある〉 へ、 〈世界のゆらめき〉 をめぐって
︱︱
月)と『女のいない男たち』 (文藝春秋 二〇一四年四月) である。この二作品のタイトルには、どちらも《否定》の 〈 な い 〉 と い う 言 葉 が 含 ま れ て い る。 筆 者 は、 こ こ に〈 否 定によって立ち上がる物語〉 というものを感じた。そして、 これは「心を持たない」 「失われる」など、多くの〈ない〉 を以て語られる本作品にも関係するテーマであると考えて いる。これを明らかにするために、本論では、この近年発 表 さ れ た 二 作 品 を 補 助 線 に 用 い て 考 察 を 加 え、 〈 な い 〉 を はじめとした《否定》の言葉に着目して論じていきたい。
一
まずは、 本作品の 「世界の終り」 について考えていきたい。 これを論じるうえで挙げたいのが、福永武彦が一九五九年 四 月 に 発 表 し た「 世 界 の 終 り 」( 『 文 学 界 一 三 ・ 四 』 文 化 公 論社)である。本作品のタイトルと同じ「世界の終り」と いう言葉が用いられている福永の作品との関係性は、山田 兼 士 氏 に よ っ て 既 に 指 摘 が な さ れ て い る。
6の描かれ方の差異に着目して論じていきたい。 が 漂 っ て い る。 し か し な が ら、 こ こ で は 二 作 品 の〈 終 り 〉 品と福永の「世界の終り」には共通点も多く、同じ空気感
確か に、 本 作
ま ず は 福 永 の「 世 界 の 終 り 」 に つ い て だ が、 こ こ で は、 精 神 を 病 ん だ 黒 住 多 美 と い う 女 性 の 世 界 が 描 か れ て い る。 多美の世界は、 「特別に赤い」 「空の火事」のような「夕焼」 を目撃する場面より始まる。そして夫である駿太郎を始め とした、 多美の周囲の人間の 「他者の不可察性」
7によって、 〈 自 分 の 作 り だ し た 世 界 〉 と い う〈 個 〉 に 埋 没 し て い く こ とにより〈終り〉という概念が確立されていく。さらには 作品中で、 多美が「みんな世界が今終ることの証拠なのだ」 「 世 界 は 私 と 共 に 終 る の だ 」 と も 語 っ て い る よ う に、 こ の 作品とは、まさに〈終り〉に向って進んでいく物語である と言えよう。 こ れ に 対 し て 本 作 品 の「 世 界 の 終 り 」 は、 「 ハ ー ド ボ イ ルド・ワンダーランド」の中で博士が「私」に「あんたの 意識は世界の終りのなかに生きておるのです」と語ってい るように、あらかじめ〈終り〉が決定された世界だ。つま り〈終り〉を始点として、物語が立ち上がるのである。 しかし「僕」は、影とともに「完全」だと語られる〈終 り 〉 の 世 界 か ら 脱 出 す る 方 法 を 探 る。 は じ め か ら〈 終 り 〉 が決定付けられた世界であるはずなのに、実は世界は〈終 り〉であるとは言い切ることができない。その中で主人公 た ち は、 「 完 全 」 た る こ と の「 不 自 然 さ 」 の 理 由 を 突 き 止 めることによって、 〈終り〉を覆そうとする。
この〈終り〉から、新たな〈可能性〉を感じさせる要因 として着目したいのが、 「世界の終り」で語られる《否定》 の言葉の数々である。なかでも印象的なのは、次に挙げる
大佐の言葉だ。
「 こ こ は 完 全 な 街 な の だ。 完 全 と い う の は 何 も か も が あるということだ。しかしそれを有効に理解できなけ れば、そこには何もない。完全な無だ。 」 (八)
ここで述べられる「完全」にまつわる言葉は、 後に「僕」 の口からも「ここには何もかもがあるし、 何もかもがない」 という形で、幾度となく語られる。本作品において、これ ら の 言 葉 は 重 要 な 意 味 を 持 つ。 「 何 も か も が あ る 」 と「 何 もかもがない」とは、 一見すると〈完全〉と〈無〉という、 正反対のことを述べているようだ。しかしながら村上作品 においては、 これらによって 〈覆されるもの〉 が一概に 〈反 転世界〉となり得るわけではない。これを明らかにするた めに、次は村上作品における〈ある〉と〈ない〉という言 葉について考察を進めていきたい。
二
続いて、 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 について考察を加えていきたい。この作品のタイトルにも 用 い ら れ て い る〈 な い 〉 を 始 め と し た《 否 定 》 の 言 葉 は、 村上作品にどのような効果をもたらすのであろうか。 こ れ を 論 じ て い く た め に、 ま ず は 日 本 語 に お け る「 肯 否 」 と い う 問 題 に 触 れ て お か な け れ ば な ら な い。 『 現 代 日 本 語 文 法 三 』( 日 本 語 記 述 文 法 研 究 会 く ろ し お 出 版 二〇〇七年一一月)において「肯否」とは、次のように記 されている。
事態の成立を表すことを肯定といい、事態の不成立を 表すことを否定という。 (中略) 肯 定 は、 「 な い 」 や「 ま せ ん 」 な ど の つ か な い 無 標 (
unmarked) の 形 で 表 さ れ る。 一 方、 否 定 は 事 態 の 不成立をあえて述べるものであり、肯定に比べて特別 なことなので、 「ない」 「ません」をつけるという有標 (
marked)の形で表される。 (中略) 否定文は、事態の不成立をあえて述べる文なので、何 らかの前提があり、それを否定することに意味がある 場合に用いられるのが普通である。
つ ま り 日 本 語 に お い て《 否 定 》 と は、 「 何 ら か の 前 提 」 を 覆 す も の と し て 用 い ら れ る も の で あ り、 「 肯 定 に 比 べ て 特別なこと」だとされている。
さて、再度タイトルに着目しよう。タイトルの「色彩を 持たない多崎つくる」とは、 「クロ」 「シロ」 「アオ」 「アカ」 という色鮮やかな名前を持つ仲間の中で、自分一人が「色
彩を持たない」という〈欠如〉に悩む主人公のことを示し ている。沼野充義氏は、この「色彩」が「小説の全体を規 定 す る 枠 組 み と も な っ て い る 」 と し た う え で、 「 あ る 人 物 が ど ん な 色 を 持 つ か、 そ れ と も 持 た な い か と い う こ と は、 この小説ではそれぞれの人物のイメージと鮮やかにつなが り、小説全体にとって象徴的な意味を担うことになる」と 指 摘 し て い る。
8こ の 沼 野 氏 の「 色 彩 」 に 関 す る 指 摘 に は 概ね同意であるが、加えて述べておきたいのは、ここでの 「持たない」ということは、 つくるが巡礼をするなかで「色 彩を持った友人」たちによって覆されていくという点だ。
つくるは巡礼の中で、 自身のことを「僕はいつも自分を、 色 彩 と か 個 性 に 欠 け た 空 っ ぽ な 人 間 み た い に 感 じ て き た 」 と語り、とにかく自分が「色彩を持たない」ということに こ だ わ り 続 け る。 さ ら に は「 空 っ ぽ の 容 器。 無 色 の 背 景。 こ れ と い う 欠 点 も な く、 と く に 秀 で た と こ ろ も な い。 」 と も自虐する。つまり、 つくるのなかでは〈色彩〉を「持つ」 か「持たない」かという二元論で、人間としての特徴づけ がなされているのである。
しかし「色彩を持った友人たち」は、これとは異なる評 価をつくるに与えていく。例えば、アオはつくるに対して 「 お ま え は 空 っ ぽ な ん か じ ゃ な い 」 と 言 い、 ア カ は「 お ま えがいちばん精神的にタフだったのかもしれない」 と言う。 この二人はそれぞれに、グループにおけるつくるの役割を 述 べ る。 「 カ ラ フ ル な 自 分 た ち 」 に は 無 か っ た も の が、 つ くるにはあったのだと。 そして巡礼の最後、クロとのやり取りによって、つくる の〈欠如〉は二元論からは逸脱した形で覆されることにな る。クロは、 つくるに対して 「たとえ君が空っぽの容器だっ た と し て も、 そ れ で い い じ ゃ な い 」「 も し そ う だ っ た と し ても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だ」と述べた うえで、次のように続ける。
「君は色彩を欠いてなんかいない。 (中略)君はどこま で も 立 派 な、 カ ラ フ ル な 多 崎 つ く る 君 だ よ。 ( 中 略 ) 君に欠けているものは何もない。自信と勇気を持ちな さい。君に必要なのはそれだけだよ。 」 (一七)
ここで語られる内容に頻出する〈空っぽ〉という言葉に も着目したい。この言葉は先に挙げた 『現代日本語文法三』 において、次のように記される。
「からっぽだ」 「忘れる」 「消える」 「失う」などは、何 かが「ある」状態を基準として、 欠如を表す語である。
ここでも 〈ない〉 と同じように、 〈空っぽ〉 という 《否定》 の語が重要な役割を担っている。 つまり、 つくるは 〈空っぽ〉
であったからこそ「とても素敵な、心を惹かれる容器」に なり得る〈可能性〉を秘めていたのであり、同時に「誰か が思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の 持てる容器」にもなり得る存在であることを、クロの語る 内容が明らかにしている。 〈空っぽ〉 という言葉は 〈空虚さ〉 と同時に、それを〈満たす〉何かがあることをも浮かび上 がらせているのだ。
さらには、 クロの述べる 「カラフル」 という評価について、 「 多 崎 つ く る 」 と い う 名 前 に 着 目 し て 考 察 し た い。 名 字 の 「た」 の部分には、 「多い」 という漢字が当てられている。 「色 彩」が「小説の全体を規定する枠組みともなっている」作 品世界において、 この 「多」 という語から想起されるイメー ジ は〈 多 様 〉〈 多 色 〉 と い う 言 葉 で は な い だ ろ う か。 つ ま り 〈空っぽ〉 な 「容器」 であったがゆえに、 そこに 〈多様〉 〈多 色〉な色彩を受け入れることができるのだという「カラフ ル」の象徴としての「多」という語なのだ。
本 節 の 始 め で 述 べ た よ う に 、《 否 定 》 と は 「 事 態 の 不 成 立 を あ え て 述 べ る 」 た め に 用 い ら れ る も の だ 。 こ こ で の 「 不 成 立 」と は 、つ く る が「 色 彩 を 持 た な い 」と い う こ と で あ っ た 。 し か し 実 は 、 つ く る は 「 色 彩 を 持 た な い 」 か ら こ そ 、 ひ と つ の 色 に 縛 ら れ る こ と な く 、 無 限 の 可 能 性 を 秘 め た 「 カ ラ フ ル 」な 存 在 と な り 得 た の で あ る 。 こ の 作 品 で は「 持 た な い 」 と い う 〈 な い 〉 こ と に 対 し て 、「 君 は 色 彩 を 欠 い て な ん か い な い 」 と い う 《 否 定 》 を 重 ね た こ と に よ り 、 逆 照 射 と い う 形 で そ こ に 〈 あ る 〉 も の が 浮 か び 上 が っ て い る の だ 。
三
次 に 挙 げ た い の は、 『 女 の い な い 男 た ち 』 だ。 こ の 作 品 のまえがきにおいて、村上はヘミングウェイの著作を引き 合いに出したうえで、次のように語っている。
しかし本書の場合はより即物的に、文字どおり「女の いない男たち」なのだ。いろんな事情で女性に去られ てしまった男たち、あるいは去られようとしている男 たち。
筆者が着目したいのは、 「より即物的に、 文字どおり「女 のいない男たち」 なのだ」 という村上の言葉だ。ここで 「即 物的」という言葉が用いられていることによって、タイト ル の「 女 」 と い う の が、 〈 実 体 〉 と し て の《 女 性 》 を 指 し 示していると理解できる。
そ こ で 紹 介 し た い の は、 「 独 立 器 官 」 を 中 心 に、 村 上 作 品に登場する《女性》について論じている斎藤環氏の指摘 だ。
9斎 藤 氏 は「 外 延 量 と は、 加 算 と 記 述 が 可 能 な 量、 内 包 量 と は 加 算 も 記 述 も 困 難 な 量 の こ と 」 で、 「 性 愛 に 換 算
して言えば、セックスの回数や人数が外延量、性愛への固 執や特定の相手への執着の強さが内包量だ」 としたうえで、 次のように述べている。
しかし女は失われる。正確に言えば内包量としての 女は、必然的に損なわれる存在なのだ。どんなに覚悟 を固めてもそれを回避することはできない。なぜなら 喪失をもたらすのは、女に嘘をつかせ男に錯覚をもた らす「独立器官」なのだから。
内包量は他者からもたらされる。誰もそれに抵抗す ることなどできない。従えば罰せられるし、従わなけ れば復讐される。僕たちはみんな「女のいない男」で あることを決して免れないのだ。それが性愛の不条理 であり、倫理でもある。
村上作品における 《女性》 は、 これまでも 〈失われる〉 〈失 われない〉という言葉を用いて多く論じられてきた。確か に、 〈 実 体 〉 と し て の《 女 性 》 は〈 損 な わ れ る 〉 存 在 で あ るかもしれない。だが《女性》は、本当に〈失われる〉と 言い切れるのであろうか。
こ の 点 に つ い て、 『 女 の い な い 男 た ち 』 に は 大 変 興 味 深 い 文 章 が あ る。 斎 藤 氏 の 論 で も 引 用 さ れ て い た、 「 女 の い ない男たち」の中で語られる内容を挙げたい。 そ し て ひ と た び 女 の い な い 男 た ち に な っ て し ま え ば、 そ の 孤 独 の 色 は あ な た の 身 体 に 深 く 染 み 込 ん で い く。 淡 い 色 合 い の 絨 毯 に こ ぼ れ た 赤 ワ イ ン の 染 み の よ う に。あなたがどれほど豊富に家政学の専門知識を持ち 合わせていたとしても、その染みを落とすのはおそろ しく困難な作業になる。時間と共に色は多少褪せるか もしれないが、その染みはおそらくあなたが息を引き 取るまで、そこにあくまで染みとして留まっているだ ろう。それは染みとしての資格を持ち、時には染みと しての公的な発言権さえ持つだろう。あなたはその色 の 緩 や か な 移 ろ い と 共 に、 そ の 多 義 的 な 輪 郭 と 共 に、 生を送っていくしかない。
ここで語られる「赤ワインの染み」に例えられた「孤独 の 色 」 と は、 〈 記 憶 〉 の こ と を 意 味 し て い る の で は な い だ ろうか。時間が過ぎて行く毎に、 〈ある瞬間〉 は〈失われる〉 。 だからこそ、それは「色」という〈記憶〉となって留まる のだ。村上作品において〈自分〉という人間を形作るのは 〈 記 憶 〉 だ と 言 え る。 そ れ ゆ え に、 こ の「 染 み 」 は「 時 に は染みとしての公的な発言権さえ持つ」までの、大きな意 義を持つものとなる。 つまりここで重要なのは、 〈失われる〉 ことによって 〈失われない〉 ということだ。 この作品には 『女
のいない男たち』 というタイトルが付けられていながらも、 実は〈女のいる男たち〉を描き出している。ここに描き出 されているのは、 〈失われる〉ことによって〈失われない〉 存在としての《女性》たちなのだ。
こ れ ま で 述 べ て き た よ う に、 『 色 彩 を 持 た な い 多 崎 つ く ると、彼の巡礼の年』と『女のいない男たち』という二作 品 に お い て は、 《 否 定 》 と い う 逆 照 射 に よ っ て〈 あ る 〉 も のが浮かび上がっている。これは「心を持たない」や「失 われる」といった言葉の頻出する本作品にも、共通してい るのではないだろうか。
四
これまでの内容を踏まえて、ここからは『世界の終りと ハードボイルド・ワンダーランド』における《否定》につ いて論じていきたい。本作品の「世界の終り」の中で、多 く 語 ら れ る《 否 定 》 の〈 な い 〉 と は、 〈 心 〉 に 関 す る も の で あ ろ う。 次 に 挙 げ る の は、 「 僕 」 と 大 佐 が〈 心 〉 に 関 し て話している場面だ。
「 君 は 失 い つ づ け る だ け だ。 彼 女 に は 君 の 言 う よ う に 心というものがない。私にもない。誰にもない」 「 し か し あ な た は 僕 に と て も 親 切 に し て く れ る じ ゃ あ りませんか?僕のことを気づかってくれるし、眠らず に看病もしてくれる。それは心のひとつの表現なので はないのですか?」 「 い や 違 う ね。 親 切 さ と 心 と は ま た べ つ の も の だ。 親 切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば 表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは 違 う。 心 と い う の は も っ と 深 く、 も っ と 強 い も の だ。 そしてもっと矛盾したものだ」
(一六)
こ の 場 面 に つ い て 、 稲 垣 裕 子 氏 は 「「 世 界 の 終 り 」 の 壁 の 街 の 住 人 は 、影 を 持 た な い の と 同 様 、心 を 持 た な い 。 だ が 、 彼 ら は 心 に つ い て 、 多 く の 議 論 を 費 や す 」 と 指 摘 す る 。
いる。 どうすることもできないと、諦めともとれる感情を抱いて りたちかた」ゆえに「仕方がない」ものだとして、それを 論を交わす。だが、結局〈ない〉ということは「世界のな 〈 心 〉 と い う〈 な い 〉 は ず の も の に つ い て、 実 に 多 く の 議 かに、 稲垣氏の述べるように「世界の終り」の住人たちは、
10確
しかし 「僕」 と影とは、 その 「仕方がない」 ことに対して 「わ からない」 という疑問を抱き、 「世界のなりたちかた」 を 「完 全」たらしめる理由を見つけようとする。そして、その理 由が明らかとなった時、影は次のように語る。
「 こ の 街 の 完 全 さ は 心 を 失 く す こ と で 成 立 し て い る ん だ。心を失くすことで、それぞれの存在を永遠にひき のばされた時間の中にはめこんでいるんだ。 」(中略) 「 君 は 俺 に こ の 街 に は 戦 い も 憎 し み も 欲 望 も な い と い っ た。 そ れ は そ れ で 立 派 だ。 ( 中 略 ) し か し 戦 い や 憎しみがないということはつまりその逆のものがない と い う こ と で も あ る。 そ れ は 喜 び で あ り、 至 福 で あ り、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこ そ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なん てものはどこにもない。それが俺の言う自然というこ とさ。 」 (三二)
このように語る影の言葉の中には、 非常に多くの《否定》 が用いられており、 「仕方がない」とされていたことに〈な い〉を重ねて、 世界を覆すための理論を成り立たせている。 例えば「絶望のない至福なんてものはどこにもない」とあ るように、ここでも《否定》という逆照射によって「自然 ということ」を導き出している。
こ れ ま で 指 摘 し て き た よ う に、 〈 な い 〉 と こ ろ に は、 必 ず何かが〈ある〉のだ。作品世界で、何かが〈ない〉と語 られれば語られるほど、それは何かが〈ある〉ことを浮か び上がらせる。 「世界の終り」を脱出する際、 「僕」と影と は次のようなやり取りをする。 「 完 全 さ と い う も の は 必 ず あ ら ゆ る 可 能 性 を 含 ん で い るものなんだ。そういう意味ではここは街とさえもい えない。もっと流動的で総体的なものだ。あらゆる可 能性を提示しながら絶えずその形を変え、そしてその 完全性を維持している。つまりここは決して固定して 完結した世界ではないんだ。動きながら完結している 世界なんだ。だからもし俺が脱出口を望むなら、脱出 口はあるんだよ。君には俺の言っていることがわかる かい?」 「よくわかるよ」と僕は言った。 「僕もそのことに昨日 気づいたばかりだ。ここは可能性の世界だってね。こ こには何もかもがあるし、何もかもがない」
(三八)
ここでも「何もかもがあるし、何もかもがない」という 言葉は語られる。そして実は、この言葉こそが世界を理解 するための答えであったことが明らかとなる。先にも、本 作品は「世界の終り」と名付けられていながら、それが明 確な意味での〈終り〉ではないということを指摘した。し かし、反対に〈終らない〉と言い切ることもできない。
このように、 世界は〈反転〉することによって〈ゆらぎ〉 つつも、 どちらにも 〈終着〉 することはない。そして単に 〈反 転〉 を繰り返して、 世界が廻り廻るのでもない。物語は 〈ゆ
らゆらと揺れる〉ことによって、様々な〈可能性〉を示唆 し続けている。筆者は、これを〈世界のゆらめき〉である と捉え、この〈ゆらめき〉をもたらすものこそ、作中で語 られる《否定》の言葉の数々なのだと考えている。つまり 《否定》によって、物語は再び立ち上がるのだ。
こ れ に 関 連 し て 述 べ た い の は、 〈 森 〉 と い う 場 所 に つ い てだ。作中では 「我々にとっては森は不必要な場所なんだ」 とも語られているが、結果として「僕」は、図書館の女の 子とともに、この〈森〉へ向うこととなる。その理由につ い て「 僕 」 は、 「 自 分 の 勝 手 に 作 り だ し た 人 々 や 世 界 を あ とに放りだして行ってしまうわけにはいかない」からだと 言う。
こ の 結 末 に つ い て、 村 上 は「 自 作 を 語 る 」
に関してはまったく駄目だった」と述べている。 はちゃんと結末が頭に固まっているのだけれど、この小説 に全部がらっと違っていた。普通は最後に辿り着くころに 影が最後にどうなるかという結末のつけ方は書き直すたび く に 最 後 の 部 分 は 五 回 か 六 回 は 書 き 直 し た。 ( 中 略 ) 僕 と の 中 で「 と
11ベイブリッジ・クラブ氏は、この村上の発言を踏まえた うえで「この時、村上春樹が思い悩んでいたことは「壁の 外側に出ることに理の必然があり、壁の内側にとどまらな ければ生のリアリティーを失ってしまう」という全く相反 する思いだった」と指摘する。そして「村上春樹はこの問 題に対して、壁に囲まれた街に住む人たちが、さらにその 中で追放される森という場にとどまるということで答えよ うとした」と言い、その内実を「壁に囲まれた街という否 定形、 さらにその中の人たちが追放される森という否定形、 その〝生の二重否定による肯定性〟によって、壁の内側に いるという否定性から〝脱出〟しながら、なお自分の生き る世界にとどまって責任を果たそうとした」 として、 《否定》 に着目する形で論じている。 さらには、 論の結びで 「この 「い かに内にとどまって、外へ出るか」という問いは、村上春 樹ばかりでなく、現代文学を通底するとても大きな問いだ が、この作品はその難問に真正面から、ぶつかって取り組 んだ村上春樹のたいへんな野心作である」と述べ、本作品 の結末について評価をしている。
12
ここでベイブリッジ氏が述べる「生の二重否定による肯 定性」には、 筆者も概ね同意の立場である。これまで〈森〉 と い う 存 在 は、 「 ユ ー ト ピ ア 」 な ど の 言 説 を 以 て 語 ら れ て き た。
に何かが〈ある〉という〈可能性〉を浮かび上がらせてい ように 「僕」 の下した選択からは、 「何もない」 とされた 〈森〉 の中で、自らの意思を以て〈森〉へ向う決断をする。この らもわかるように、 「僕」 は 「動きながら完結している世界」 ことはたぶんいっぱいあるだろう」と語られていることか とも少しずつ思いだしていく。思いださなくちゃいけない し か し な が ら、 作 品 中 で「 森 の 中 で 古 い 世 界 の こ
13る。つまり 〈森〉 もまた、 《否定》 を以て語られることによっ て、物語に〈可能性〉を浮かび上がらせる場所なのだ。
五
さて、 これまでの考察より明らかになったことの中から、 見逃してはならないのは《否定》と《女性》との密接な関 係性である。今までに挙げた村上作品の中で、主人公とし ての〈男性〉の世界を、 《女性》は〈ない〉などの《否定》 を以て覆している。よって、ここからは本作品に登場する 《女性》に着目して考察を進めていきたい。
まず着目したいのは、 「ハードボイルド ・ ワンダーランド」 に登場するピンクの太った娘と、リファレンスの女の子と い う 二 人 の 女 性 だ。 こ の 二 人 の 女 性 は、 「 デ タ ッ チ メ ン ト のスタイル」
わ れ て い く も の 」、 「 巫 女 的 な 導 く 存 在 」 と い う 言 葉 たちとの関わり合いは、 これまで論じられてきたような 「失 ミットメント〉する姿勢を見せる。これらの「私」と女性
14と指摘される主人公「私」に、 積極的に〈コ
元しきれるものではない。
15に 還
それを示している中で、最も印象的なのは「私」と二人 の女性の別れの場面だ。 「ハードボイルド ・ ワンダーランド」 の 結 末 と し て、 「 私 」 は 自 ら の 意 思 と は 関 係 な く、 否 応 な しに「世界の終り」に向うことになるが、それとは対照的 に、 この二人の女性は自由に未来を選択できる立場にある。 だが、リファレンスの女の子は「私」との最後の会話の中 で「ねえ、私もあなたの限定されたヴィジョンの中に入り こむことはできるかしら?」と言って、 精神的な形で「私」 の世界に入ることを望む。さらには「帰ってきたら電話を くれる?」とも言って、未来を見据えた発言をする。これ と同様にピンクの太った娘も、 「私」がいなくなる直前「あ なたの家に住むことにしたの」と言って、こちらは実質的 な形で主人公に寄り添う旨の発言をしている。 これらの〈コミットメント〉によってもたらされるもの を明らかにするうえで、ピンクの太った娘の述べる非常に 興味深い言葉を挙げたい。
「ねえ」と太った娘が言った。 「怖がらないでね。あな たがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬ までずっとあなたのことを覚えているから。私の心の 中からはあなたは失われないのよ。そのことだけは忘 れないでね」
(三九)
本作品の冒頭で「退化にむすびつくことはすべて禁止さ れ て る の 」 と 語 り、 「 ハ ー ド ボ イ ル ド・ ワ ン ダ ー ラ ン ド 」 の中で常に未来を見据え続けてきた女性が、 この先も 「ずっ と あ な た の こ と を 覚 え て い る 」「 私 の 心 の 中 か ら は あ な た
は失われない」と断言をする。これはピンクの太った娘の 〈決意〉だと言っていい。つまり、 ピンクの太った娘が〈決 意〉 を述べることによって、 「私」 は 〈失われる〉 ことによっ て〈失われない〉存在となるのだ。
こ の〈 決 意 〉 を 述 べ る こ と に よ っ て、 何 か の〈 可 能 性 〉 を感じさせるという、 女性の登場する意義は「世界の終り」 でも同様である。本作品の結末についての考察は、前述し た通りであるため、ここでは図書館の女の子と「僕」の印 象的なやり取りを挙げたい。
第 三 八 章 の 中 で、 「 僕 」 が 図 書 館 の 女 の 子 に「 家 に 帰 っ て や す ん で い れ ば よ か っ た ん だ 」「 君 は こ こ に い る 必 要 は なかったのに」と言う場面がある。これに対して図書館の 女の子は、次のように答える。
「あなたがここにいる限り、私もここにいるの」 「それがきまりなのかい?」 「私が決めたのよ」と彼女は微笑みながら言った。 「そ れにあなたが読んでいたのは私の心なのよ。私が私の 心を置いてどこかに行ってしまうわけにはいかないで しょ?」
このようにして、 図書館の女の子の〈決意〉は語られる。 そ し て こ の 後、 図 書 館 の 女 の 子 は、 「 そ の 心 を よ り 完 全 な か た ち に 作 り あ げ て い く 」 た め に、 「 僕 」 と と も に〈 森 〉 へ〈向う〉ことになる。 「世界の終り」の中で、
図書館の女の子は、 一貫して「心 を持たない」と語られてきた。しかしながら、ここで図書 館の女の子が〈心〉を取り戻すという〈可能性〉が示唆さ れたことにより、 「完全」 だとされた 「世界のなりたちかた」 は覆される。つまり「世界の終り」の中で、図書館の女の 子 と い う《 女 性 》 が「 心 を 持 た な か っ た 」 か ら こ そ、 〈 世 界のゆらめき〉は起こり得たのだ。さらには、その図書館 の女の子の〈心〉が、 まだ〈完全ではない〉という《否定》 の言葉を以て語られることによって、これから再び物語が 立ち上がるのではないかという 〈可能性〉 をも予感させる。 こ れ こ そ が、 《 否 定 》 に よ っ て も た ら さ れ る〈 物 語 の ゆ ら めき〉であり、その〈ゆらめき〉を引き起こすうえで重要 な 役 割 を 担 っ て い る の が、 《 否 定 》 で あ る と 同 時 に、 村 上 作品に登場する《女性》たちであると結論付けたい。
[注]