学習のメカニズム
その他のタイトル The Mechanism of Leaming
著者 冨山 忠三
雑誌名 關西大學商學論集
巻 11
号 1
ページ 19‑41
発行年 1966‑04‑07
URL http://hdl.handle.net/10112/00021532
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大学生活の四カ年を人間化過程︵人間形成の過程︶として有効に推進しようとするならば︑教育を単に受動的な
形で受けとるのでなく積極的に能動的な態度で︑学習の生産工程にのせ︑その効果を納めなくてはならない︒その
生産過程において合理的・能率的な作業を実施するには︑生産諸条件に関する知識技能をもつことが前提条件とな
学生生活のうちで最も多くの時間とエネルギーを費やすのは︑学習生活であろう︒その学習を合理的に能率的に る ︒
メカニズム展開するには︑まず学習の機構を知る必要がある︒比喩的にいえば︑消費者は商品知識や配給組織などに通じなく
ても購入ができる︒しかし合理的な経済的な購入をなすには︑それらに関する基本的な知識をもつことが有益であ
り必要な場合すらある︒それと同様に︑学習者は提供された教育を単に受容し消化するというだけでなく︑しっか
りと人間成長の軌道にのせて運行するためには︑学習について相当の知識をもつことが先決問題となる︒
さて新しく入学された学習者達は︑教育環境の変化に︑当初はとまどいを感ずることが少なくないだろう︒また
三年次生にとっては︑これまで受けてきた講義形態の教育に比して多分に異質のゼミナール︵演習︶教育に対して
学習のメカニズム︵冨山︶
は し
が
学 習 の メ カ
き 一
一
ズ ム
冨山
一 九
忠
20
ばな
らな
い︒
内容としては︑はじめに学習の意義・原理・条件について述べ︑次いで大学教育でおこなわれる教授様式との関
連から学習のあり方とあるべき姿とを検討した︒
右のような意図と内容で形成される小稿は性格的に﹁世に問う種類の教育論﹂ではないが︑この種の︑この程度
の学習論でも教育学を専攻しない限り接近する機会は少ないだろう︒そのように考えてここに発表した次第である︒
功することである︒
I
学習の意議通常﹁学習﹂とは知識・技能を身につける︵習得する︶ことを意味する︒いうまでもなく知識・技能の習得自体は手段であって目的ではない︒目的は︑それを習得することによって︑環境への良識的な適応に成
(1) ﹁学習とは行動に変容をもたらすもの﹂といわれるのは︑この意味においてであって︑学習に
よって環境剌激に対して従前より︑よりよき良識的反応をなすところに学習の意義があるのである︒
なお教育の本質である﹁人間形成﹂という視角からいえば︑学習は単に知識・技能を習得することだけでなく︑
知的反応変化のほかに情緒の反応︵遭遇する事態に対する情緒的変容︶および態度の変容をもたらすものでなけれ
それらの反応過程において︑学習者が適当な指導をえて︑あるいは自ら会得して自己ないし自己所属集団の生活
経験をよりゆたかに︑かつ向上させてゆくところに学習の真の意義を見出すべきである︒教育とは︑そのような方
学 習 の 溝 造
なればとおもい執筆したものにほかならない︒
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
違和感をいだかれるむきもあるだろう︒そのいずれにしても環境変化にともなって学習の態度・計画・方法などに
インフ*メーシ・ンついて考えざるをえないだろう︒情報知を求められるだろう︒本稿は︑そのような要求に︑いくぶんかの参考に ︱
‑ 0
21
しかしここにそのレール論を詳述する余猶はなく︑またその論考の場でもない︒ただレールの存在に認識を喚起
し︑学習の運営を生産的軌道にのせるための基本的問題に触れることは重要であるとおもう︒その意味で次の﹁学
人間化過程としての教育は︑学習者の生理的・心理的法則との結合と︑他方︑人類が蓄積し
てきた文化価値との結合とを限りなくこいねがう中で︑次第に創造的合理的方法のシステムとして発展してきたも
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
①試行錯誤の原理 習の原理﹂と﹁学習の条件﹂について述べてみたいとおもう︒ >︒カ 向に学習者が進行していくのを指導し援助するものでなければならない︒I l
学習の原理
( 2 )
学習とは右のように﹁行動変容﹂を目的とする意図的行為であるが︑教材主義教育の下では︑文
化遺産の伝達を受け︑それを再生産︵よく理解して習得︶する能力と創造生産︵習得した文化を環境に適応させる︶
能力とを養成することによって︑
とこ
ろが
︑
その目的を達成するという方式をとる︒
この学習の目的が所期の志とちがって実現しないケースが少なくない︒そこに問題が発生する︒その
不成功の原因は単純でなく種々の要因の複合体である︒例えば学習者にかかわりのない外的な環境に帰因すること
があろう︒また仮に本人の責任とみなされる場合でも︑必ずしも本人の学習的努力の不足に結びつけることの不当
なこともあろう︒身体的な故障は別としても︑その学習努力が軌道にのらないばかりに︑せっかく真面目に努力を
続けてきたにもかかわらず︑予期の成果を挙げえなかったということもありえよう︒ここで考えさせるのは後の場
合で
ある
︒
( 3 )
学習が不成功におわる過程をメカニカルに考えると︑学習の運行が軌道にのっていないことに起因することが相
当に多いのではなかろうか︒それどころか︑レールの存在・性質さえ知らないというケースがあるのではなかろう
22
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
のである︒したがって教育につらなる学習という生活行動も心理的環境︵われわれの心理に存在する意味の事実︶
において行われるのであるから心理的法則と無関係に成立するものでないことは明らかである︒以下に述べること
も︑主としてこの心理的法則に関連しての思考である︒
学習は最初から効果的な生産軌道にのるとは限らない︒いなむしろ度かさなる試行を繰りかえすうちに次第に適
切にして能率的な方法が案出されていくものである︒したがってその間に試行錯誤を経験するのは必定である︒
問題はその錯誤経験が成功コースにつらなるか否かである︒もちろん成否は本人の努カ・オ能にかかわりのない
運不運に作用されることがないでもない︒しかし運命のいかんにかかわらず生活行動の最終責任者である学習者に
できること︑しなければならないことは自己の錯誤に対する認識的努力である︒錯誤の性質︒程度を測定すること
世間一般では学業成績もって︑その標識とみなしている︒学業成績は︑たしかに学習成果を測定する︱つの基準
となる︒とくに大学教育の通常形態である教科主義教育においては教科の学業成績を学習効果測定の重要な基準と
考えるのに無理はない︒しかし講義式教授法とそれに連系するアチープメント・テスト︵学業成績の結果を数値的
に測定するためのテスト︶の構造を検討するとき︑表出された数値の学力評価としての価値については︑必ずしも
一致した見解があるのではない︒
また公共機関で施行される試験︵商工会議所の簿記や商業英語の等級別資格試験・公認会計士・税理士・教員の
資格試験など︶は学力に対する社会的・客観的測定方法とみなされ︑その試験の合格者は世の評価もそれ相当に高
い︒それでも︑その評価が絶対性をもつとはいわれない︒
ただ問題は︑それらの成績評価と︑その後の学習活動とを如何に結びつけるか︑評価された数値から学習改善の である︒その基準をどこに求めるかが問題ではあるが︒
23
︵学習活動の縮小・減退に傾 そこで自己の錯誤や学力不足を不断に端的に指示し改善へのコースをとらしてくれる環境に︑身をおくことが必
要不可欠となる︒
ゼミナールこれにこたえるものとして大学では教科課程の中に演習を設けている︒経商学部では三年次および四年次のニカ
年にわたってそれがカリキュラムの中に配置してある︒その教育的効果については﹁開発教授法﹂の中で述べよう︒
それに次ぐものは︑学校内外で営まれる各種の学術研究グループにおける研修である︒これらの研修においては︑
自己の思想構造や思考能力が学習者相互間に比較検討され︑自己の学習のあり方が反省される機会にめぐまれる︒
そこでは封鎖的学習︵自己内にとぢた単独学習︶では経験できない試行錯誤の原理を体験できるであろう︒
生物の行動は︑すべて個体と剌激との結合関係において成立する︒すなわち個体はある刺激②条件反射の原理
を受けると︑それに対応して必ず相当の反射的行動を起すのである︒ところで学習は︑生来的︵本能的︶反射行動
ではなく︑意識的意図的な行動である︒例えば学習作業において︑適切な学習方式や習慣を経験の集約として得た
とする︒学習者はそれによって学習の労力と時間の節約ができ︑学習分野を拡大する余猶ができる︒そうなれば︑
その結果が条件となって︑さらに高次の第二反応や第三反応が形成されていく︒このような学習過程は︑
﹁拡大再生産﹂方式ともいうべき成長コースである︒それとは逆に﹁縮小生産形態﹂
く形態︶となって悪循環の途を辿るコースもある︒そのいずれのコースにも条件反射の原理が働いていることを看
取で
るき
︒
問題は剌激の質と量である︒自己の学力に高すぎる刺激は消化不良をきたし︑低くすぎては効果的刺激とならな
い︒量についても同様なことがいえよう︒ここで量とは一回分の量のみでなく一貫性をもつ刺激︵同系列の剌激︶
学習のメカニズム︵冨山︶ 方途と機会を見出しうるかということにある︒
いわば
24
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
の頻数による量についてもいう︒剌激の適量・適質の判定は容易ではない︒低学年では教師がその指導に当るが︑
大学教育では学習者の判断にまかすのが普通である︒
③洞察の原理ここに洞察とは事物または事態の構造・連関を把握し直観的な見透しをつけることをいう︒例え
ば︑ある緊張状態においてこれが解消のため過去の経験や状勢から判断して目的に対する手段の関係に見透しをつ
ける如きその一例である︒
洞察には本質と現象を的確に把握することが必要である︒大学の学習対象となる知識体系は︑多くは個々の項
︵概念︶から形成されており︑その概念は個々の事物・事態の抽象化・一般化によって成立したものである︒した
がって抽象的な思考に習熟しない間は︑その理解が困難な場合も生じよう︒その場合は具体的な対象にもどして
︵具体的な例を考えて︶理解するか︑符号や図式を用いるのも一方法である︒
学習は洞察力を強化し事態の真相を見極めて後︑良識的行動を誘致するのが本筋である︒この原理の適用は︑学
習が高度化するほど重要になり︑﹁問題解決学習﹂ー後述│.では不可欠のものとなる︒
洞察力の育成はどうすか︒視聴覚教育や見学・実習などのような感性的訓練もあるが︑文化系学生には理性的な
論理作業の修練が最も必要である︒
B l
学習の条件学習の条件とは︑端的にいえば︑学習者に内在する成長的生命を発展せしめるための条件である︒
その条件には以下に述べるように数種類がある︒
①動機づけさきにも述べたように︑学習の基本線は学習作業から行動変容を誘致することであるが︑学習の意
欲を発動させ︑学習活動を旺盛にし継続するには﹁動機づけ﹂が必要である︒
﹁動機づけ﹂とは︑ある行動を発動させ︑継続させる心的状態であって︑これを学習に関係づけていえば︑学習を
ニ四
25
自発的に行わしめ︑学習活動を適当にし︑学習活動を効果的にする︑
人間の行動と動機とは力動的な関係があって︑動機の強弱は行動の強弱に影響する︒この理から学習作業を強化
するには強い動機づけが必要となる︒強い動機は強い欲求に依存する︒そのように動機と欲求との因果関係から
動機づけの方法には﹁内的動機づけ﹂と﹁外的動機づけ﹂がある︒前者は内心的に動機づけをするものであって︑
後者は外囲からの剌激を動機づけとするものである︒例えば学習意欲を促進するような環境作りをすることなどで
内心的動機づけには︑まず学習の目的を自覚し目標を設定することである︒そのような自覚的学習態度ができた
状態をレディネス
(r
ea
di
ne
ss
)または﹁心構え﹂
( se t
)
という︒この心構えは条件反応の形成においてデリケートな
影響をおよぽし︑一定の方向を与える︒この方向がその後の学習作業を規定する︑また反応のための条件が不規則
であったり︑変化し易い場合には︑この心構えによるコントロールが必要である︒
右のように動機づけの方法には内的と外的の二種があるが︑実際には相互に関連しあっているので厳密な区別は
動機づけは大学教育の場合︑学生の自主性にまかされているから自ら工夫しなければならない︒例えば﹁今日中
に処理︵読了・書き上げ・問題解決など︶すると目標を定めて心構えをつくるといった短期的なもの︑あるいは資
格認定試験に合格を目指すとか︑各種研究団体において研究発表ないし論文提出をするとかの長期的なものなど色
々な工夫がある筈である︒
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
できないのである︒ あ
る︒ ﹁欲望の分析研究﹂を学習研究で重要視する見解もある︒ いわば心のバネである︒
二五
②興味﹁興味とは環境における剌激と自己の要求との結合状態﹂である︒すなわち自己を取りまく環境からの剌
26
ない
︒
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
二六
激が︑自己のもつ要求と符合する場合︑われわれはそれに興味を覚えるのである︒興味は人間の生活行動に対して
強力な発動力を与える︒それは単なる動機づけよりも行動をより長く持続させる力をもつ︑したがって学習にとっ
興味の作興は︑大学教育では教師の誘導によらず学習者が自ら工夫して興味の振興に当るのが普通である︒
③反復練習一般的にいって学習には反復練習が効果的であり︑また必要である︒特に機械的な学習︵きまりき
ったことを正確に繰返していけば済む作業︶の習性を形成するには︑練習の頻度が重要な作用力をもつ︒
学習作業が知的に高度化すると︑単なる機械的反復ではなくて︑論理的思考作業となる︒従って筋道の立つ思考
の反復練習が学習向上に重要な要素となる︒この種の練磨は三年次および四年次の演習において︑最も活澄化する
が︑研修的グループにおいても集団的訓練の機会をつかむにこと欠がぬであろう︒
練習には上昇と下降の曲線がある︒学習曲練を規定する要因は非常に多い︒すなわち学習者の能カ・学習の種類
作業の困難性や複雑性など色々な相対的関連によって種々に規定される︒そこで学習曲線における高原
(p
la
te
au
)│
練習を積みかさねてもそれ以上に上達しない頂点︵壁︶ーと上昇曲線の模様を注視し︑この現象をふまえて反復練
習に工夫をこらす必要がある︒高原というものは︑課題に対して︱つの固定した態度・観点・方法から立ちむかう
から行きつまるので︑それらの構造を変えることによって新しい展開の可能な場合も少なくないのである︒
④記憶大学における教授法は主として講義式方法である︒したがってこれに対する学習には記憶の必要なこと
はいうまでもない︒記憶は強い刺激・反復練習によって経験の痕跡を残すことから形成され︑維持され︑また強化
される︒その意味で記憶の保持には︑刺激・興味によって学習意欲を旺盛にし︑反復練習して忘却を防がねばなら て好ましい条件とみなされるのである︒
27
ムースな流れを阻害することになる︒
二七
通常︑忘却は記憶直後に生ずるといわれている︒したがって忘失の防止には反復作業を記憶直後に行うことが肝
要である︒また忘却は︑現在の知識が過去のそれと連絡しえない場合に起る現象であるから既得知識と相互関連的
理論的に厳密にいえば︑﹁記憶力の養成は正しい意味の教育ではなく︑教育の否定である﹂と極言する見解もある︒しかし原始的•本能的・模倣から有意的・選択的意識的方向へ展開する人間の知的創造コースにおいて、記憶力に
依存しないで︑それが可能であったか否か︒そのことに想到すれば記憶の存在価値を否定しえないであろう︒しか
し同時に記憶の効用の限界も知っておくべきである︒
⑤学習の転移
用される可能性が多い︒この理を応用すれば学習経験の利用価値を高める工夫が発見されるであろう︒
学習の転移には︑異種の教科の学習間に︑共通性のあることを認識する必要がある︒その本質的連関を認識する 教科の内容には近似性が多い︒そこである教科についての学習経験は︑他の教科の学習作業に転
には︑構成部分の分析をなし特徴を見出すことから着手すればよい︒
⑥不安の除去学習作業は精神活動の︱つである︒精神活動を正常なコースに流すには︑精神衛生的に良好な状
態が必要である︒心の不安定は精神活動にとって障害となる︒それは︑いわば心のさびであるから︑精神活動のス
心の不安定は︑生理的原因にもよるが︑環境の良否に左右されることも多い︒とくに入学当時は新しい教育的環
境に不案内で︑なじめず︑不安定に充ちて動揺されがちな精神状態にある︒そうした精神的不安定は一刻も早く除
去するように努力しなければならない︒
そうした精神的不安定にそなえて︑大抵の大学が﹁学生相談室﹂を設け︑カンセラー︵相談員︶を常置して︑学
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
にくくりつけておく必要がある︒
28
学習
のメ
カー
ーズ
ム︵
冨山
︶ 生の当面している諸問題について︑
よき相談相手となれるように配慮している︒
問題は︑精神安定の必要性のある学生でありながら︑本人が自覚せず︑あるいは相談室に出向くことを踏躇して不安状態をこ
じらすケースである︒この間の事情は︑まことにデリケートであって筆紙につくし難い︒ただこの場合︑友人の友愛が非常に役
立つことが珍らしくない︒大学は学問の府であるが︑同時にまた友情の園でもある︒よき友をもち︑よき友となることは大学時
代の特権であり︑美しい憶い出となるものである︒
注山ここで﹁行動﹂の意味は広く解し︑﹁学習以前には理解できなかったことが︑学習によって理解できるようになったこと﹂またそれによって「積極的•生産的学習態度が形成された」というようなことも含む。
③教材主義教育とは︑教材を基礎にして教育作業を進める教育をいう︒この見解の下では︑教師は教科書︵教材を論理的序
列に盛りこんだもの︶によって指導するのが通例である︒この見解には次のような教育観が基底にある︒
1文化伝達が教育である︒教育の理想像は︑社会人として完成された人間像を想定する︒それへのアプローチとしては︑
先人の思考・経験・情緒・行為形式を継承すること︑換言すれば文化財の継承を意味する︒そこで教育内容を文化財に求
め︑その中から教育目的に適合するものを選定するという形をとる︒この選定されたものが︑いわゆる陶冶材である︒そ
れは論理的諸事実・原理・原則・諸概念によって形成される︒
2精神活動は模倣にはじまる︒教育ほ︑授ける者︵教師︶と授かる者︵被教育者︶との関係において︑模倣を主軸として
行われる︒このような教育観の下では︑記憶の存在と重要性が強調されるのは必然である︒おもうに︑模倣を教育の主軸
にするという見解には問題があるが︑それにもまして︑その結果︑学習が機械的反射的におちいり易いということが重大
な問題となるであろう︒
③厳密に考えると︑学習の成功と失敗とを何によってきめるかは簡単に決定できる問題ではない︒主観的には︑学習者自身
が自己水準によって願望の域まで成績が到達したときに成功と感じ︑要望水準まで達しない場合を失敗と感ずるのである︒
したがって本人の設定する水準が︑客鍛的・社会的水準からみて低いことも︑高いこともありうる︒大学教育においては︑
学業成績を数値的に表示する以外には︑特別の事情がない限り︑学生自身の判定にまかしているので︑自己の成長性が不明
のまま︑いい気になっているおそれがないでもない︒それだけに自己反省がきびしく要求されるのである︒
伯教育的環境とは︑学習者の成長発達を促進するために役立つ一切の周辺の事物および人間をいう︒すなわち学校教育にお
ニ八
29
なかった事情も推察できなくはない︒ いてほ︑教室・諸施設・校庭・運動具はもちろん教科書・図書・教師など︑学校外においては官庁・会社・工場など︑いやしくも学習生活に作用するものは悉く教育環境である︒通常︑常識的に環境とは︑人間の周辺にある自然的・文化的・人間
的環
境を
いう
が︑
人間
の主
体性
から
みて
︑さ
らに
内な
る遺
伝を
も環
境と
みな
す見
解も
ある
︒
ある︒これらの諸方式を実際の授業のなかで︑どのように活用するかによって教育効果にヴァラエティが生じてく
るのである︒
教 授 方 式 と 学 習
二九
教授の方式には講義法・問答法・討議法・開発法・プロジェクト・メソッドなどの諸様式が
ところで大学教育においては﹁教授方式に定型的な様式はない﹂むしろ﹁各教科に即して適切な方法がきめらる
べきである﹂という見解がある︒いかにも各教科のもつ教育の目的・内容および教師・学習者その他の教育的環境
は︑それぞれちがうのだから︑それらの諸要素を考慮せずに単純に形式的に様式を吟味しても意味がないという理
由は理解できる︒またその観点からすべての教科に共通な一定した教授法というものが︑
しかし個別的教授法も性質の共通という視点から考察すると︑別な見方が成立するのである︒すなわち︱つの類
型的な様式として取り上げると︑ヴァラエティに富む教授方式も︑その類型的方式に特有の性質によって一様に規
定され制約される関係を免れえないことが看取できるのである︒そこからその類型方式に対する批判が生れてくる︒
筆者がここに教授の方式を論評するのは︑この立場からであって︑この類型的な教授方式を吟味して︑その中に内
包する特質および弱点を摘出し︑よってもって︑各種教授法に対応する学習のあり方を検討しようとするものであ
学習
のメ
カー
ーズ
ム︵
冨山
︶
I
教授法の様式論これまで余り問題にされ
30
I
講義法︵講義式教授法︶講義法は大学教育において最も一般的な教授方式である︒この方式は通常︑学級単( 1 )
︵2
)
位に一斉授業の形で行われ︑教師が主として教材またはテキストを基本として︑その内容の解釈・説明・講話をな
し︑学習者はそれを追随理解するという形式で成立する︒この様式においては専ら知識の伝達が重視され︑可及的
( 3 )
多量の知識を能率的に注入することが意図される︒したがって注入教育になりがちである︒
①教科内容
る文化体系とによって編成される︒この間の消息に通じないと﹁教科内容が学生の興味や関心に縁遠い﹂とか﹁個
人にとっても社会にとっても実用価値に乏しい﹂とかの批判をすることにもなりかねない︒
興味や関心が学習の条件として教育上重視されることは既述のとおりであるが︑教科の内容を学習者の興味や関
心から規定する素朴的な経験主義教育観は︑文化系の大学教育では育ちにくい︒むしろ個々の興味や関心ではなく
普逼的一般的なそれ、あるいは学習者が将来もつであろうし、もつべき—いつかは役に立つであろうという想定か
らー興味•関心に重点をおいて資料を選定する。その陶冶財を論理的に配列し編成したものが教科書である。その
テキストを基本として教育内容が構成されるのである︒
講義法における教科内容を非現実的であると指摘する見解も少なくない︒しかし非現実性という言葉の意味・内
容は厳密に吟味する必要がある︒もし教科内容を現実の生の形で編成しなければならぬというのであれば︑それは
不可能であり不必要でさえある︒
もともと理論の構成は概念を項として組みたてられるが︑概念は現実を抽象化して普遍的な一般的な形としたも
のにほかならない︒この形成のプロセスを無視して﹁現実遊離﹂と批難しても︑学問成立の文脈においては余り問 る ︒
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
教科内容は主として概念的なもので構成され︑原理や法則的な知識体系と真善美などの価値を求め
1 0
31
教科内容の実用価値に関する批判もある︒この種の批判は︑商業教育の創生時から浴びせかけられたものであっ
て︑今もなお時々むしかえされる批判である︒
おもうに大学教育は必ずしも右から左へすぐ間に合う︵卑近な需要に合致する︶ことを目標とする教育ではない︒
もちろん大学教育は社会の変化にともない出現する諸要請を常に敏感に察知しつつ︑それに適合する知的技術的応
用能力を展開させるものでなければなかない︒しかしそれは直ちに社会の卑近な需要にこたえるということを意味
しない︒真理の探求︑学問の創造的研究と教育とを生命とする大学は当座の実用をこえた永久にわたる社会開花の
一源泉たる点に︑社会とのつながりをみようとするものでなければれらない︒要するに大学教育は真理の探究を通
じて人類に幸福と福祉をもたらすという形で社会的存在価値を認められるのである︒
②教授方式講義式教授法の特徴を要約していえば︑豊富かつ網ら的な知識・技能を統一的に体系的に習得させ
ることである︒また学習の対象とすべきものの本質と現象を究明し︑原理・法則の設定による一般化・抽象化方式
を学びとらせる指導方法である︒したがってこの教授方式は︑学習者の知識の幅と層︵深度︶の拡大強化を能率的
に遂行しうる点では︑他のどの教授法にも優るものといいえよう︒
右のような優秀な特質をもつにもかかわらず︑なぜ批難されるのであろうか︒個々の教授法に対してではなく︑
講義法一般に対しての批難は︑どの点にむけられるのであろうか︒
批判
者は
︑
ているのか︒まずこの視点から吟味してみよう︒
この教授方式を﹁言語主義の教育﹂︑﹁学生不在の教育﹂︑﹁非近代的教育﹂などという︒
いかにも講義法は﹃言葉の枠だけで事物をとらえようとする﹄﹃﹁文字﹂や﹁書物﹂を読むことにより間接的に事
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
題にされないだろう︒
一体この講義は︑批判者にどのように規定され
32
ることにする︒
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
物の知識をえようとする﹄﹃観念的知識の注入に専念する﹄など全く言語主義教育の性格をそのままもっているよう
およそ大学教育におけな学習は具体的な事物を直接経験することより︑概念や知識体系を対象として思考作業を
修練することの方がはるかに多い︒それは学問研究に不可欠の思考過程であって︑もし﹁文字﹂や﹁書物﹂によら
ず﹁観念的知識の伝達﹂の方式をとらずに文化財を統一的に体系的に︑しかも能率的に伝達しようとするならば︑
その方法を得るのに甚だ困難を感じ︑あるいは不可能となるのではなかろうか︒実物教育は農・工学方面では極め
て有効な教育となっているが︑文化系の大学教育では︑それをもって全面的に賄うことはできない︒それを強行す
( 4 )
ることはデールの﹁教授段階説﹂の逆コースをいくことになりかねない︒
次に﹁学生不在の教育﹂という批判を検討してみよう︒
この言葉の意味・内容は発言者によって異なり劃一的な定義は下しえない︒カリカチュリストなら講義という列
車がお客︵学習者︶の考えや気持に頓着せず︑ひたすら自己のペースで独走している図を描くだろう︒ことほど左
様に講師の一方交通的言語活動を諷した言葉かもしれない︒あるいはマス・コミの教育に対する不満を表現した言
葉と受けとれぬこともない。筆者は、これを教授様式から考えて『学生の興味•関心や理解力と結びつかぬ講義』
の意味に一応解しておく︒
さきにも述ぺたように講義式教授法は︑その本来の使命である文化財の伝達作業に専念するので学習者の興味や
関心の作興は他の教授様式例えば開発式教授法に譲る慣行が一般である︒そこでここでは理解力の問題だけに触れ
ところで大学生の知能の発達段階は︑すべての学習者のうちで最高の地位を占め︑別段に教師の手を煩わさなく に
いわ
れる
︒
a a
ても充分に講義を追随理解しうるものと見倣されている︒したがって教授者は学問研究に専念し︑その研究成果を
合理的・能率的伝達方式︵講義法︶にのせて講義をすれば足り︑その後の学習の生産関係は学習者自身の努力にま
つという形態ができたもののようである︒フンボルトの有名な言葉である﹁大学は学生が学ぶことを学ぶ場﹂とい
う文句の中にも︑学生側にこの自主的学習態度を期待する考え方が基底にあるようにおもう︒
しかし右のような教育観が大学教育者のすべてを支配しているというのではない︑とくに銀念論的教育思想が支
配的でない米国においては︑リトルトン︵繹嗅認嗜︶のように︑﹃所定の課題に対して学習の方法・思考の方法を教
えまた自己のもつ全知識と経験を手近の諸問題解決の媒介として利用する方法を教えることが教育上重要である﹄
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卜彰晶﹁会計教育の目的﹂﹁会計﹂第八七巻第二号︵昭和四十年二月︶一四五頁︶と主張する見解のあるこ
とを看過することはできない︒まことに講義式教授法の下でも学習の生産性向上に指導の手をのばす可能性は充分
にあるはずである︒この可能性を生かして個々の教授者の持ち味が出てくるわけである︒印刷物やテープレコーダ
ーが代行できない授業価値が生れてくるのである︒
最後に講義式教授法に対する﹁非近代﹂という批判を検討してみよう︒
﹁近代的教育﹂の提唱する﹁近代性﹂というのは︑学習者の自主性・個性・創造性を伸長する教育を意味する︒そ
れがどのような意味で近代性であるかについては﹁開発式教授法﹂の章で説明する︒
講義法が︑前記の性質を学習者の中に充分に育成する形態をもっていないことは否定できない︒その一方交通的
授業の間に︑学習者の個性や創造性が学習の生産工程にのってくるということは期待できない︒たとい教師が学習
者の個性を知り︑それを伸長することを念願しても︑講義法の本命である文化財伝達の仕事に執念している限り︑
その念願の達成は困難となるであろう︒この点が講義法の最も弱いところであって︑また本法の効用の限界を示す
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
34
する
︒ 学習のメカニズム︵冨山︶
ものでもある︒講義式授業の型をはなれて個人的指導方式を加味せざるをえないのも︑このことの反省からはじま
学習者疎外の教育・人間の類型化・平均化の教育を脱却して︑教育本然の姿にたちかえろうとする試みは︑多く
の人々によって除々に確実にすすめられつつある︒その︱つのあらわれが︑次に述べる開発式教授法である︒
1 11
開発法︵開発式教授法︶
①教育の近代化教育が歴史的・社会的所産であることは︑あらためていうまでもないが︑教授過程における学
習指導の方式が社会的経済的諸条件に規定され制約されていることは案外に見落されがちである︒
近代の市民社会が出現するにおよんで自主的な人間形成の自由が認められ︑社会も環境に対して適切に反応する
能力者を要求するようになった︒そこで教育もこの要求にしたがって︑その能力者養成に適合する教育体制︵教育
の目標・内容・方法などの統一的組識体︶を整えるに至ったのである︒
この教育体制の変化は︑教授過程を変革させる大きな契機となるものであって︑従来の知識増大をひたすら意図
する教育から︑学習者の主体的思考作業を重視し︑思考力養成を意図する教育に展開させる契機となるものであっ
た︒それは知識習得の方法や態度を問題とするようになった︑といっても差支えなかろう︒
開発式教授法は︑学習者の自発的学習活動を重要視し︑その方面の指導を拡大強化すること︑および②開発法
教師と学生とを隔離せず人間関係の反応的変容を向上させることを意図する学習指導法である︒
本法の様式には﹁問答法﹂と﹁討議法﹂がある︒問答法はさらにい教師の問に学習者が回答する形態︑回学習者
の疑問に教師が解答する形態︑り教師と学習者とが相互に質疑応答を交流する形態がある︒討議法については後述 る ︒
︳ 四
35
右のように問答法は︑教師と学習者が︑ともどもに研修の好機をつかめる特徴をもつが︑この研さんを通じて教 う ︒
一 五
問答法における開発性は︑学習者に問題の所在を知らす︵問題意識を喚起する︶ことからはじまる︒問題意識を
喚起することは︑学問研究のスタートであって答弁者ないし出問者を含む学級全学習者の知性を刺激し︑思考の操
業を始動せしめる原動機となるものである︒さらに︑それは学習活動の方向を指示するものともなる︒
提示した問題の性質によって︑別段の説明を要しないものもあるが︑学習者の思考活動が活澄化しない場合には︑
その生産性をたかめるために教師の解説が必要となろう︒あるいは当該問題の問題性を学習者達の既得知識と直面
させて問題取組みの姿勢を整えたり、問題の一般性•特殊性の区別を識別する認識力努力に誘導するなど諸技法を
そのいずれにしても教師の解説・補足的説明・論評は︑講義法において習得した学習者達の知識・技能を確実に
し正確なものとなし補足されて充実したものとなすであろう︒また断片的な知識は︑思想体系の網の目に︑ところ
を得て︑関連的思考や総合的思考活動をおこして︑洞察力︵前掲﹁洞察の原理﹂参照︶の養成に資することになろ
講義法では採用できなった「動機づけ」や「興味•関心」の作興も本法の下では比較的スムースに行うことがで
きる︒そして︱つの問題を解決することによって︑より高次の新しい課題を発見し︑それに取組む意欲と心構えを
形成することができよう︒いわゆる学習の拡大生産方式が緒につくことになる︒
この問答方式を学習評価の視点で吟味することもできる︒すなわち問答方式の実施の間に学習者の理解の適否︑
所持する立場・態度の性質がうかがい知れて︑評価の上ではもちろん学習指導上参考になることが少なくないだろ う ︒
学習 のメ カー ーズ ム︵ 冨山
︶
用いねばならぬ場合もあろう︒
36
学習者相互の研磨によって開発式教育ほ一層その効果をたかめる︒ 学習のメカニズム︵冨山︶
( pr o j ec t m et ho d)
師と学生との間に生ずる人間性の交流に相当の価値を認められるであろう︒
問答法の対話形式が学習者の自由な自主的運営にまかされ︑討論式に進行すると討議法となって新しい意味をも
つようになる︒とくにテーマを学習者全員の共同テーマとし︑
さらにテーマを学習者全員各自が設定し︑自主的研究計画をたて︑資料を蒐集し整理して論文を作成し︑研究発
表に到る一連の仕事を遂行すれば︑
開発学習が開花することになるのである︒
③討議法討議法は︑教育的性格および方式において問答法に類似するが︑
議法では︑学習者相互の討論がその主動性をもち運行を支配する︒
討議法には自由討議・六六討議・︒ハネル・ディスカッションなど種々な様式がある︒そのいずれの方式も︑学習
の動機づけ、興味•関心の作興、言表の修練など学習指導に極めて優秀な方式であるが、とくに思考力の訓練には
次のような長所が認められる︒
一︑自己の見解を論理的にまとめ︑聴手に理解させるために表現の仕方に工夫させる︒そのいずれも深い思考を
要求
する
︒
い︒本法は学習者の言語活動によって形成されるので︑ それを中心として相互討議の形で展開していくと︑
いわゆるプロジェクト・メソッドの形態が出現し︑高度の
その形態が若干異なる︒すなわち討
一︑他論者の中に自論の様相を見出して自説の投影・反響を知ることができる︒また論者達の論理の建て方・進
め方・まとめ方および資料の蒐集と取扱い方などを知って自己の思想構造に示唆を受ける︒
右のような長所のある反面には︑短所もないではない︒すなわち討議法は組識的・体系的知識の伝達には適しな
この活動に活躍する者と︑しない者との間に学習効果に不
一
/
37
さて前述によって思考過程には︑思考の先件︵庄
eg te ce de nt of tho ug ht )
的条件として問題状況のあることと︑
その問題解決のために思考が機動性を発輝することの経路は明らかになった︒ところで思考の機動性は問題解決を
学習のメカニズム︵冨山︶ オメガでなければならない︒
現下の資本主義社会は︑経済機構の旭大・複雑化︑矛盾の激化︑
一 七
均衡をもたらすことが大きい︒したがって討議法だけ単独に使用しないで他種教授法と併用することが必要となる︒
ただ演習の学習においては︑討議段階に到ったときは︑既に予備知識の所有が予想されるので︑直ぐにでも本法が
適用できるのである︒
問題解決法と演習の学習
I
問題解決学習の社会的背景 常住的併存の社会となり︑とくに商業経済社会では過当競争による権謀術策が横行して︑
一致と不一致の
その渦中にある者をして
去就に迷わす事態が次第に多くなりつつある︒そうした商業社会に将来の職業︵生計をたて自己の資性を生かし社 会の運営に参加する場︶を託せんとする学習者達が︑環境適応の知能を養いその活用方式を学びとろうと欲するの は当然であり至当なことである︒したがってそれに適合する指導が大学教育の課業となるべきことは明らかである︒
そのような社会的要請にもとづいて生るべくして生れたのが問題解決学習であって︑
場するのが演習である︒
I I
思考と学習
( 5 )
もともと人間の思考というものは︑思惟者の直面する問題状況に触発されて発動し︑
めざして活動する人間の機能の︱つなのである︒したがって︑
この学習形態を取り入れて登
その解決を
この環境に対する反応を良識的に効果的に遂行する ために周到.慎重・徹底した思考が必要である︒そのような思考の訓練をめざすことが教育課業のアルファであり
38
学習のメカーーズム︵冨山︶
思考活動は問題状況によって一時的な混乱におちいる︒すなわち当該問題に含まれる問題性と︑思惟者の所持す
る在来の思想とが対立ないし矛盾するので思想的秩序が乱だされる︒その場合︑問題をごまかし︑あるいは無視し
て逃避することを論外にすれば︑問題に挑戦して解決に向う認識的努力をするであろう︒問題の分析・経験内容の改善•新秩序へ構想など。そし終局的には、当面の問題性を包摂した弁証法的秩序へ昇華するのが正常コースであ
る︒そのように思考活動は問題に当面して触発され︑乱され︑弁証法的に統一されて秩序を回復するものなのであ
る︒しかしそうして得た小康も︑さらに高次の問題状況に遭遇するにおよんで︑再び同様なコースを辿るのである︒
それが人間の精神活動のメカニズムである︒学習は︑
皿問題解決学習の展開
このような問題解決の思考を軸として展開されねばならない︒
問題解決学習は︑原初的には︑現実の事物・事態との直接的対面によって問題意識を喚
起することからスタートする︒しかし文化系の大学教育においては︑学習の接近圏内を主として抽象的観念的世界
にもつので︑問題意識の誘発には︑それとは異なる方法をとらねばならない︒すなわち各種の資料︵文献・調査・
報告・統計・図表など︶︑既得知識・教師その他の諸見解等に依存しなければならない︒
そのいずれにしても知識の習得が必要であるが︑知識の習得自体で学習が完了するのでは決してない︒知識が情
( 6 )
報知にとどまる限り︑その所持が直ちに学習の生産コースに直結するものと考えることはできない︒血のかよって
いない知識︵自分の思想の中で定着していない︑思想構造の中で脈絡をもたない知識︶は使いものにならない︑環
境適応の良識に参加しないものである︒
真実をいえば︑人間の認識形成の習性において︑情報知は︑ 志向して︑どのような形で展開されるのであろうか︒
それだけにとどまって発展しないというものではな
い︒事実の認識には意味が結合しているはずである︒厳密にいえば︑事実の認識と同時に意味︵観念︶がつく︒い
八
39
そのような人間の認識習性が正常コースをふまないで︑なぜ情報知が発展しないのか︒この停滞から解放するに
は︑どうすればよいか︒これが開発学習の指導で最も配慮を要する項目である︒
筆者
は︑
習においては︑
一 九
この発展コースは問題解決の思考コース以外にはありえないと考える︒すなわち問題の内容分析・鍛念
︵概念や判断︶の形成という系列において︑問題性が高次の次元と広い視野から把握されることによって︑新しい
意味づけができ︑問題に対する洞察力と批判力を生み出すと考える︒それは認識の本質的発展過程に沿うところの 展開方式であり︑さきに述べた弁証法的思考コースでもある︒この思考過程において既得の情報知は︑思想構図に
おいて相互関連的な網の目にしっかり位置づけられ︵脈絡がついて︶︑不確実な知識・一面的・断片的な観念を次第
に明確にし全面的な概念にたかめ︑論理的組識体に構成するプロセスに流すことができるようになるのである︒演
この大仕事は指導教師と演習生との真摯な協同作業にまたねばならない︒
例えば︑﹁仕入業務の管理・統制﹂をゼミの研究分野とする学習において︑学習者︵演習生︶達は︑諸種の仕入技法に関する研
究成果を批握する︒その知識は︑色々な資料から蒐集し︑整理してきた結構な情報にちがいない︒その知識の習得・整理・論文
作成等一連の仕事は︑演習学習の一環として相当な価値を認められる︒しかしそれは問題学習のスクートを切ったというだけで
あって︑それをもって完了したのではない︒それでは講義法における学習︵知識の習得︶からさまで遠ざかるものとはならない︒
そこで仕入技法を経営活動の全体の中に位置でける工夫が必要なのである︒その関係づけは︑学習者それぞれの既得知識の質
量や思考傾向によって異なるが︑自由なコースを択ぺばよい︒Aは経営全体の機構という視点から︑仕入技法を仕入業務組織と
関係
づけ
て進
むで
あろ
う︒
Bは販売管理との関係から仕入技法の適否・優劣の吟味をなし︑さらに経営の全体的活動との結びつ
きを
考え
てい
くだ
ろう
︒
Cほ会計的思考から当該仕入技法の経費からの経済性︑利益計画との関連を考究するであろう︒このよ
学習
のメ
カー
ーズ
ム︵
富山
︶
な意味をもった事実認識というのが実相である︒
40
学習
のメ
カー
ーズ
ム︵
冨山
︶
うな思考過程において︑仕入技法が単なる情報知から問題性をもつようになり︑問題の意味内容の拡大から更に高次の問題意識
が喚起され展開されるという学習の生産コースが生まれてくるのである︒演習学習の真のだいご味は︑そういうところから出て
くるものと思う︒
注山一斉授業とは︑一つの学級で︑同一内容を同じ進度で一斉に学習するように指導する教授方式であって︑今日の学校教育
で最も一般的な授業形態である︒
図教材とは︑い教育目的の要求︑同文化の要求︑り地域社会の要求︑日時代の要求︑紺学習者の心理的要求などにしたがい
数多くの文化財の中から教授すべき材料︵陶冶財︶として選定されたものである︒この教材を論理的に配列したものが教科
書であって教材の集合体から教科の実体ができあがるのである︒
③注入主義の教育は︑人間形成に人間の内部的発展過程よりも外部的な客銀的な環境が作用することを重視し︑外部からの
教えこみ︵注入︶が教育を可能にするという環境説や楽天主義に傾く教育観にもとづくものである︒
凶デール︵米国の教育学学者︶は学習の本質を概念の形成であるとし︑概念の形成には具体的経験を与えることであるとい
う︒そこで具体的経験から半抽象的半具体的経験を経て次第に高度の抽象的経験に到達する過程を十一段に区分して﹁経験
の円
錐形
﹂ (C on oe f e x pe r i en c e )
という図表を作成した︒人間の経験がそのように具体的な直接経験から抽象化・一般化
概念形成に上昇するところに教育過程があると考える︒
固思考は︑生活実践における困難・対立・矛盾をふくむ問題状況に触発されて︑その問題の解決や困難の除去を意図して発
動される人間機能の一つである︒この思考過程において︑思惟者の経験の改造と再統一が実現すれば︑それが思考内容とな
り︑次段の思考活動に活躍することになる︒
なお問題状況は︑現実の事態や事件が︑従来の習慣や思想で打開できないところに発生するのであって︑いわばその事態
・事件が問題的性格︵問題性︶をもっているということである︒
⑥ 情 報 知
︵i比
o r m a
t i o n
) ~、事態・事件に関する消息を伝達する知識である。この情報知は、やがて真の知識となる素材で
あるから︑それ相当の価値は認められるが︑自己の思想構造の中に位置づけられない限り︑充分の効力を発揮することがで
きない︒後からくる情報知によって次第に影がうすくなっていくのである︒この情報知が正常な思考過程をとおって思想の
網の目に脈絡をつけられると真の知識となって思考の発展コースすなわち問題意識の作興・問題内容の吟味・問題性の包摂
四〇
41
学習
のメ
カニ
ズム
︵冨
山︶
四
・高次の統一・思考の包摂力と作用力の強化・次段高次の問題意識の喚起という発展的コースに参加できるようになるので
ある
︒