職 孚 と 螢 利 の 問 題
大 泉 行 雄
この主題によつてわたくしが狙ふところは︑言ふまでもなく職時における商業的螢利の課題なのである︒こ
のことは後の機會にも概読す惹やうに︑今日a國民経濟の機構が一鷹は商業経濟として性格づけられてきたも
のであり内螢利の實現過程は廣義にお坐ての商業盟系即ち市場艦系から始めて可能であることを思ふとき︑當
然に理解せられるであらう6
さてわたくしが︑か玉る主題をか瓦げることによつてそこから何か素晴らしい結論とか示唆を︑最後の高調
のために用意しておるのだと期待する人々があるとしたら︑わたくしは豫めその人汝に向つてか玉る期待を一
鷹勉棄してもらふやうに願はねばならない︒
メなぜなれば︑若しこの主題の下に何等か政策的結論を問はれるとすれば︑おそらく今日㊨態勢に臨んでな︑
馨と螢利の問題(大泉),.二三三
二三四
ぴとつの公理乏もいふべきところに何ぴとも朝宗すべきは言謁までもない定とろであり︑わたくしと難も原理
的にはそれを繰り返へすより外に途を知らないからである︒
一國が非常の災憂に際會した場合︑殊に其の國家.的蓮命を賭しての急迫なる事態に直面したときに︑ぴとの
脛濟活動の領域にと壁まらす︑國民生活の全分野について干時の生活がそのまΣに質量と規模とにおいて反覆
せられるとは言はれぬであらう︒國家的要求より必要とせられる分野は極度に強化せられ掻充せられねばなら
ぬと共に︑他面またその限界まで縮減を敢行せられねばならぬ分野もあるであらう︒こ玉に戦争維濟の根本課
題が横たはつてゐる︒
從つて︑かくの如き急迫なる事態において國民生活を指導してゆくものは︑必然の原理である事を第一に理
解せねばならぬ︒そとでは事態の必然性が︑人々の生活態度について必然的な在診かたを命するからである︒
"
そこには寸毫の孤疑も趨巡もあるべきではなく︑國家の最高目的を達成するために規定せられたぴとつの方途
が許される︒こエに必然の原理の至上命法的支配がある︒かムる大乗的な論断をふりかざしてくる限り︑何ぴ
とも職争によつて特殊の利得を牧むべきものでな炉ことは少しの疑も存・在しないところである︒さうして︑こ
れはわれわれの日常生活における明白な常識である︒喝
けれども現實の事態の生起は︑必すしも常識乃至良識に滑ふものでもなく︑叉理性或は合理によつてのみ把
握せられないところに︑問題が形成せられる︒吾々の課題たる螢利と職争について言へば︑職争によつて特殊
の利得を牧むべきではないとの良識が︑絵抄監も大規模に且つ頻繁に裏切られてむる商業領域の情況がその著
︑\しい例誰である︒
わが國においては︑既に早く大正六年に暴利取締令が嚢令せられ︑︑米・澱粉類・鐵類・石炭・綿縣布・染料・
藥品・肥料の八品目について︑費惜みや買占めによる不當利得の牧取を取締る目的であつた︒當時第一次世界
戦争によつてわが國は著しい物債高に苦み︑殊に米債の高縢は米騒動とさへなつた︒法令の嚢布はか玉る肚會
情勢を反映するものであり︑折匹ふれて数次の嚢動をみたのである︒.写
然るに昭和十二年︑今次事攣の勃護と共に︑非常時の物債封策として同年八月三日全文改正せられて穫布せ
られた︒この場合には二十六品目が指定せられ︑後に至つてまた追加せられ︑或は改正張化せられて今日に及
んだのである︒然らば何故に暴利取締令が支那事攣と共に︑旗大強化を飴議なくせられたか︒若しもわれわれ
の所謂︑職争に關℃ての良識乃至理性が経濟活動の全分野に浸透して居り︑経濟活動者が嚴正にかxる良識乃
至理性に指導せられての實践者である限り︑思ふに暴利取締令の強化は問題たり得ないであらう︒
然るにその鑛大張化を必婆とする事態のうちには︑かくせざれば國家の職争目的達成上砂なからぎる障碍と
なるべき素因が含まれてゐるのである︒かxる素因は︑國家の行進を阻止し︑肚會における共同生活を害ふべ
き性質をもつ︒暴利取締令の強化を要求せられる所以である︒
かくの如き法令による規制にならんで︑道義的側面が張調せられる︒維濟論理或は商業道徳などの名の下に
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戦争と螢利の問題(大泉)・二三五
二三六
提唱せられるところが即ちこれである︒論理的要請よりする経濟活動乃至商業活動に封する嚴正なる批判は︑,
︑固よ砂十分に之を取上げて反省の資とせねばならぬであらう︒だが︑論理化の問題については猫左の二瓢が併
せて考へられねばなちぬと思はれる︒
第一は一︑般論理に封して蔭麗別せらるべき経濟論理乃至商業道徳の性質につ匝てであるコわれわれは経濟論理
は一般論理の経濟領域における表現と観るが故に︑論理として本質的に差別を認め得るとは全く考へない︒さ
れば若し,ひとつの肚會において経濟論理に問題するところありとすれば︑それはぴとり経濟生活だけの論理問
題ではなくて︑むしろ國民生活一般についての論理の問題として取上げられねばならぬ︒往々にして人々は経
濟活動殊に商業者︑の行動が︑最も非論理的℃あると非難し︑日常生活における数々の事例を摘食する︒商業者
が國民中特に論理的に低劣であるとは︑果して言ぴ得るであらうか︒これを肯定するのが永き傳統思想であ
り︑今日においても等しく頑固に人々を支配してゐる感情に相違ない︒さうしてこれに樹し冤は︑商業者自身
にも十分なる責任を認めねばならぬのではあるけれども︑他面肚會生活一般の論理的水準が同時に問はれねば
ならぬであらう︒
・第二経濟論翌鶴業道徳の要請は︑畏る護或は敏義として開陳せられるにと罫まる限り︑殆ど實践
的意味をもち得ぬことである︒.こΣに倫理と倫理との不可分離性が取上げられねばならぬ︒維濟倫理の基本命
題は一般人聞生活における倫理的要請に相通ふべきもあであるべきことは︑・ごれを明ちかにした遇ころである
けれどもかくの如き命題が現實生活のうちに指導性をもち得るがためには︑生活自禮のもつ全膣關聯性︑即ち
職能と有機的な結合に在ることを必要とする︒換言すれば︑倫理的要請は教読や観念としてのみでは全く實践
性をもち得るものではなく︑生活そのものの本質的なるものと内面的に結合するところから實践性があらは肌
る︒
これを経濟に移して畠茜へば︑経濟倫理は経濟そのもの﹂本質と分ちがたく結びつくところにその實践性をも
つ︒人間維濟生活に内在する本質的なるものを把握し︑それの健全なる蓮行によつてのみ経濟倫理の要講が生
活のうちに護現せられ且つ醇北せられてゆくのである︒商業短域についても亦これと同檬である︒商業の倫理
性が最もよく高調せしめられるためには︑商業そのもの工本質が先づ明確に把握せられねばならぬ◎か芝る本
質は商業が全髄の経濟現象の上で如何なる位置を與へられるかに懸るものであり︑'こ玉にその職能を見出すの
である︒倫理的要請の充足は結局か玉る職能の健全なる稜現によらねばならぬものであり︑この事實を自覧し
て活動者がその行動を規則するとどろに職分観念が醸成せられる︒從つて生活における倫理の實践過程は︑職
分途行以外に之を求めることは不可能だといはねばならない︒
‑戦争に直面して輕濟活動者として如何に在るべきかの常識乃至良識にりいて︑恐らくは誰一人として疑義を
もたない命題が︑さて日常生活の現實に即して取上げられるときに︑幾多の矛盾と不合理とを籏生してくる現
實はこれを如何に理解ずべぎ廼あらうか︒答は必すしもひとつではないであらう︒法規の不備や機構の鮫隆な
戦孚と管利の問題(大泉)二三七
二三入
どの組織制度の側も責任の一端を問はれるであらう︒だがまた國民の時局認識や國家意識などの精紳的決意の
未熟さも十分に批判せられねばならぬであらう︒そとに暴利取締令の張化や経濟倫理高調の意味もある︒だ
が︑問題は既に経濟倫理の實践性について燭れたやうに︑生活の本質にか瓦はつてこなければならぬとする
.とき︑理論的解明の要求は何故に経濟活動が螢利とかくも離れがたく結合してゐるかを明白にして︑ここから
へ
今日及び將來入の洞察が下される﹄ことを願ふ︒蓋しか製る過程によつてのみ︑何が今日及び將來になほ依然と
して存在理由をもつか︑何が既にその役割を果し了へたか︑さうして何が新らしく加へられねばならぬかが理
解せらる瓦に至るからである︒'.‑︑
こxに至つてわたくしは改めて冒頭の一節を想ぴ起されんことを乞はねばならぬ︒戦争と螢利の課題につい
︑
て︑何等か素暗らしい破天荒の示唆を結論として用意するものではないことをわたくしは述べた︒強ひてか﹂
タくるものを求められれば︑わたくしも亦世の人々と共に法規の嚴正をねがひ︑人心の畳醒を叫ぶより途がない︒
けれどもわたくしがこの一論において意圖するものは︑そのやうな提案的結論でななくて︑かくも根彊き螢利
の性格に關する考察である︒さうして職箏は傳統的に支配性を維持してきた螢利の原則に如何なる影響を與へ
るか︑それによつて経濟組織そのものが如何なる攣貌をうけねばな砂ぬかの問題である︒
一
︑
螢利といふ言葉の意味は必すし竜明確ではない︒われわれはヒれに類似の言葉として牧釜・利潤︒利釜等を
数へることが出來る︒これ等の用語は︑學術語としてまた日常業務上の語として︑それぞれ幾分の意義と語感
とを異にするもの玉やうであるが︑然しそこにはいつれにも共通する因子の存在することが認められる︒それ
は漠然と言つて︑除剰の獲得に外ならぬ︒投下した元本に超過すべき部分の獲得である︒螢利が最も廣義に解
せられる場合には︑すべてかくの如き超過部分の獲得が包括せられるけれども︑用語の感謝としての螢利叉は
殊に螢利主義といはれるときのそれはρ更に道義的批判の色彩をも加へてくるやうに思はれる︒
へ蓋し︑軍純再生産の経螢或は極めて小規模なる経螢に在つても︑その維螢の持績のためには内若干の盤剰の
牧受は絶封的に必要であらう︒け船どもかくの如き絵剰の意味が所謂資本家葡企業としての利潤追求と著しく
性質を異にするものであることは︑十分に注意せられまた愼重に考察せられねばならぬ︒この場合の指導理念
は︑むしろ経螢罷における生活における職業において︑任務捲當者が生活のための報酬を與へられるものと性
質上異らないとみなければならない︒‑
然るに︑螢利追求叉は螢利主義といはれるときには︑か︑る職業的報酬以上のものが意味せられてゐるので
はないか︒その限界を客観的に規定することは殆ど不可能であらうけれども︑基調はむしろ牧釜の大きさのみ
︑戦争と螢利の問題(大泉)︑二三九