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山陰弥生墳丘墓の研究

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山陰弥生墳丘墓の研究

熊本大学社会文化科学研究科 学位論文

藤 田 憲 司

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i 序

山陰弥生文化を象徴し出雲の弥生文化を代表する事象は四隅突出型墳丘墓であろう。方形区画の四 隅の通路部を、貼石や石列で囲って突出部を完成させた墓である。出雲・伯耆・中国山地山間部の三 次盆地を中心に美作地域や播磨地域に広がり、系譜は異なるものの北陸三県にも分布する。定型性の ある弥生時代首長(層)墓では、もっとも広い分布圏をもっている。

1968 年に邑智郡邑南町順庵原 1 号墓が発見されたのち、連鎖反応のように、四隅が突出する墳丘墓 の発見と発掘が続いた。出雲に「古墳時代」前期の方墳が数多いことに関心が寄せられていた背景も あって、四隅が突出した墳丘墓は在地型古墳・四隅突出型方墳とみなされた。山陰の弥生墳丘墓研究 の第 1 歩は、弥生時代の墓ではなく「古墳時代」の墓として始まった。

方形周溝墓以外に定型的な弥生墳墓が知られていなかった頃であり、貼石と石列の区画手法と四隅 が突出する異様な墳形を、山陰最古の前方後方墳松本 1 号墳と同時代の墓と考えたのも無理からぬこ とであった。しかし、明らかに型式差が認められる松本 1 号墳出土土器と四隅突出型墳丘墓出土土器 を一括して布留式と解釈したことが、山陰の弥生墳丘墓研究初期の迷走の一因となった。

その流れに大きな転機を与えたのは、瀬戸内側で弥生墳丘墓と古墳の質的な違いを理論化し前方後 円墳成立の階梯を究明してきた近藤義郎である。近藤は、この種の墳丘墓が「古墳」ではなく山陰地 域の弥生時代の墳丘墓であることを指摘し、山陰の研究動向の転換をせまった。古式土師器とされて きた山陰の土器と瀬戸内・畿内の土器との並行関係を検証し、四隅突出型墳丘墓出土の土器が弥生後 期に属することを明らかにした 1979 年の拙論もその転機の一翼を担ったとささやかに自負している。

いまや旧聞に属するが、研究史的意味あいをこめて第 2 章第1節とした。

弥生時代後期の墳丘墓であることが認知された四隅突出型墳丘墓の研究が、その成立系譜と展開お よびその終焉の究明におもむいたのは自然なことであった。四隅突出型墳丘墓に関心が高まっていた 1970 年代の終わりには、広島県三次盆地で方形貼石区画の四隅に数個の石を並べた三次市宗祐池西遺 跡や庄原市田尻山 1 号墓が発見され、突出部形成の初現形態と考えられた。朝鮮半島北部の蓮舞里 2 号墓や中国漢代の天円地方説に関連づけようとする解釈も示された。

一方、山陰の四隅突出型墳丘墓は後期後葉の西谷墳墓群で最大規模に発達し、その後急速に築造数 と分布範囲が縮小する。出雲がもっとも出雲らしく輝いたときとされる。8 世紀の大和の王権の歴史 観に強い影響を与えた出雲はこの時代であったという。そして、大和の前方後円墳時代(第 1 章第 2 節参照)が始まるとともに全土的に統一墓制が広がり、四隅突出型墳丘墓を築いた出雲は、前方後円 墳、前方後方墳、円墳、方墳の墳形序列のうちの最下位の墳墓しか築けない立場になったという。

こうした論調に、私はいいようのない不安をいだく。四隅突出型墳丘墓の成立も終焉も一系一統論 の解釈である。成立期に関しては、なぜ江の川上流の三次盆地で四隅突出型墳丘墓が成立し、山陰海 岸部に波及するのかという点を不問にした一元論である。山陰の弥生墓制の独自性は四隅突出型墳丘 墓だけではない。四隅突出型墳丘墓は方形貼石墓を母体にして成立する。その方形貼石墓が築かれた 地域には、北部九州の一角以外にはない弥生前期の配石墓がある。四隅突出型墳丘墓成立の背景は弥

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ii 生前期にさかのぼって考える必要がある。

四隅突出型墳丘墓の終焉期に関しては、大和の前方後円墳時代の始まりとともに列島社会はおしな べて大和の王権を中心とする一系一統的な社会になったのかという疑問である。四隅突出型墳丘墓の 終焉は出雲世界の終焉という図式では、出雲だけでなく前方後円墳時代初期の各地の実態を一面的に しか解釈できなくなる。不安の先にあったのは、弥生墳丘墓と古墳の論理で地域ごとの墳丘墓の変遷 を一律に大和勢力からの影響・規制と解釈する姿勢である。

墳丘墓か古墳かという区分は、前方後円墳体制あるいは前方後円墳秩序が前方後円墳時代の始まり から全土的にあったことを前提にして、時代の転換期の墳丘墓を二者択一的に区分する論理である。

墳丘の形態は大和の首長と地域首長との相互承認の結果と論じても、墳形の差を階層差にみたててし まうと、各地の首長墓は大和の王権への従属性でしかとらえられない。その蹉跌を越えなければ、各 地の前方後方墳や出雲の方形墳の主体的な造墓活動をうかがうことはできない。仮説を重い足枷にし ている危惧を第 1 章第 2 節で述べ、前方後円墳の普及が近藤・都出両氏の説くほど速く面的に広がっ ていないことを述べた 2004 年の論考を加筆して第 7 章第 1 節に記した。

本書は、弥生後期に山陰で展開する四隅突出型墳丘墓の個性は、弥生前期から始まる山陰の墓制の うえに形成され前方後円墳時代の方形墓に受け継がれるという視点で論述を進める。

私はかつて、四隅突出型墳丘墓に複数の系譜があるという視点で貼石方形墓の成立と四隅突出型墳 丘墓の系譜を論じた(藤田 2002a)。その後、出雲の沖積地で貼石方形墓と初現期の四隅突出型墳丘 墓が相次いで発見され、私の見通しの正当性が明らかになった。拙論は諸般の事情で前篇しか掲載で きなかったが本書ではそれを全面的に再構成して第 3 章、第 5・6 章の 3 章に分け、事実関係を除いて 再執筆・修正を行った。

第 3 章は山陰の初期配石墓の系譜に焦点をあて、第 4 章は山陰の貼石区画墓と朝鮮半島の区画墓と の系譜関係を論じた。山陰の四隅突出型墳丘墓の源流となる貼石区画墓と方形周溝墓の起源の違いを 明らかにし、四隅突出型墳丘墓が方形周溝墓の傍流でないことを示すためである。

第 5 章で各地の四隅突出型墳丘墓突出部の成立経緯と、完成型四隅突出型墳丘墓は伯耆地区がもっ とも古く、大型四隅突出型墳丘墓の成立も出雲ではなく因幡にあることを指摘し、第 6 章でその展開 を述べる。

四隅突出型墳丘墓が終焉し、前方後円墳時代の出雲の個性的な方形墳丘墓が成立する過程と史的意 義を第 6 章第 3 節と第 7 章第 2 節で論述する。第 7 章第 3 節は山陰集団の自立の背景をなした鉄器の 普及について、2002 年の論考に山陰の事情を加筆した。

弥生墳丘墓の研究は墳丘形態の違いだけでなく、埋葬施設の違いや副葬形態の差、墓上で行われた 祭祀の違いを個別に分類し時期差と地域差ならびに階級社会の成熟度を検証するのが本道であろう。

それらは先行研究にゆだねることにして、地域ごとの個性を見出す視点から、おもに列島西部各地の 動向を視野に入れて出雲を軸とした墳丘墓の推移に焦点をあてる。

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iii

目 次

第 1 章 研究抄史 問題の所在と用語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 第 1 節 研究抄史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 1 端緒

2 1970 年代の動向 3 1980 年代の動向 4 1990 年代の動向 5 これからの研究方向

第 2 節 弥生墳丘墓と古墳 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14 1 はじめに

2 墳丘墓と古墳

3 墳丘墓でも古墳でもない墓 4 都出論理構成の問題点 5 最初期前方後円墳の課題 6 Ⅰ期前方後円墳の大別 7 三角縁神獣鏡と前方後円墳

8 いま一つの課題(前方後円墳時代の提唱)

第 2 章 墳丘墓編年の課題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32 第 1 節 山陰「鍵尾式」の再検討 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32 1 はじめに

2 岡山県南部の編年細分 3 山陰の編年研究の現状 4 山陰と山陽地方の併行関係 5 まとめ

第 2 節 山陰型特殊器台からみた山陰の墳丘墓の編年観 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 60 1 はじめに

2 神原神社古墳出土土器の概要

3 神原神社古墳出土土器の相対的な時期 4 円筒形器台(山陰型特殊器台)の系譜と展開 5 山陰型特殊器台・特殊埴輪の相対的位置と年代観

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iv

第 3 章 山陰弥生墳丘墓の成立と系譜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 71 第 1 節 配石墓と方形区画墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 71

1 弥生時代初期の墳墓 区画墓の分類

2 初期弥生墳墓の地域色 3 山陰の配石墓の系譜

第 2 節 初期区画墓の諸形態(周溝墓と台状墓) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86 1 北部九州の区画墓

2 瀬戸内・畿内の周溝墓 3 山陰の初期区画墓

第 4 章 弥生墳丘墓の系譜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100 第 1 節 朝鮮半島の区画墓(石敷き区画の支石墓と周溝墓) ・・・・・・・・・・・・・ 100

1 敷石区画墓の事例 2 長方形周溝墓の事例 3 もう一つの方形周溝墓

第 2 節 二つの墳丘墓の系譜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 110 1 方(円)形周溝墓の系譜

2 方形貼石墓の系譜

第 5 章 四隅突出型墳丘墓の成立 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 116 第 1 節 方形貼石墓と四隅突出型墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 116

1 四隅突出型墳丘墓の起源諸説 2 貼石区画墓の道

3 もう一つの道の表現

第 2 節 四隅突出型墳丘墓の分類 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 128 1 踏石状石列と突出部

2 四隅突出型墳丘墓の定義 3 墳丘の分類

4 突出部の分類

第 6 章 四隅突出型墳丘墓の展開 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 142 第 1 節 四隅突出型墳丘墓の展開と地域色 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 142 1 江の川流域

2 出雲地域 3 隠岐地域 4 伯耆・因幡地域

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v 5 その他の地域

6 分布にみる地域差

第 2 節 各地の墳丘墓事情 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 158 1 丹後の弥生墳丘墓

2 北部九州と瀬戸内の墳丘墓

第 3 節 四隅突出型墳丘墓の出雲化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 172 1 西桂見から西谷ヘ

2 出雲平野の四隅突出型墳丘墓 3 貼石と突出部の退化

4 四隅突出型墳丘墓の二極化と一元化

第 7 章 四隅突出型墳丘墓世界その後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 180 第 1 節 前方後円墳と前方後方墳 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 180 1 はじめに

2 前方後円墳成立以前の各地の墳丘墓 3 前方後円墳と前方後方墳の分布

4 小結

第 2 節 四隅突出型墳丘墓その後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 189 1 はじめに

2 山陰の前方後円墳時代初期墳丘墓の分布

3 前方後円墳時代初期の長方形墳丘墓の概要と系譜 4 出雲型方形墳の伝承

5 新たな出雲世界

第 3 節 見えざる鉄器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 199 1 畿内中心論の蹉跌

2 鉄器の分布 3 畿内の石器と鉄器 4 無いものと無かったもの

5 山陰の鉄器分布の特徴

終章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 210 結語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 210

文献註 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 215

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vi 挿図目次

図 1 堀部第1遺跡配石墓群 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13 図 2 順庵原1号墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13 図 3 青木4号墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13 図 4 久宝寺遺跡の墳墓群 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29 図 5 前方後円墳形比較図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30 図 6 特殊器台から埴輪への変遷と壷形埴輪の分類 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31 図 7 紀年銘鏡と古式三角縁神獣鏡副葬墳丘墓の分布図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31 図 8 山陽地方の弥生後期土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49 図 9 山陽地方の酒津式~初期土師器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50 図10 山陰Ⅰ・Ⅱ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51 図11 岡山県北部のⅠ・Ⅱ期土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 52 図12 山陰Ⅲ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 53 図13 岡山県北部Ⅲ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 54 図14 岡山県南部のⅢb期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 54 図15 山陰Ⅳ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 55 図16 岡山県北部Ⅳ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 56 図17 山陰Ⅴ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 57 図18 神原神社古墳出土土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58 図19 岡山県北部Ⅴ期の土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58 図20 神原神社古墳出土土器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69 図21 山陰型特殊器台 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 70 図22 初期墳墓関連遺跡分布図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 81 図23 山陰初期配石墓1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 82 図24 堀部第1遺跡配石墓分類図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 83 図25 山陰初期配石墓2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 83 図26 山陰初期墳墓3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 84 図27 九州の初期配石墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 85 図28 韓国の石棺墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 85 図29 各地の初期区画墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 96 図30 山陰の初期貼石区画墓1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 97 図31 山陰の初期貼石区画墓2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 98 図32 山陰の初期貼石区画墓3 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 99 図33 韓国の積石区画墓1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 106 図34 韓国の積石区画墓2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 107 図35 韓国の周溝墓1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 108

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vii

図36 韓国の周溝墓2と黒陶出土支石墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 109 図37 初期四隅突出型墳丘墓と備後の踏石状石列1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 125 図38 備後の踏石状石列2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 126 図39 仁木による隅の貼石構造類似例 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 127 図40 松本による貼石・列石分類案 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 136 図41 突出部分類図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 137 図42 後期前半から中葉の四隅突出型墳丘墓1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 137 図43 後期前半から中葉の四隅突出型墳丘墓2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 138 図44 山陰の貼石墳丘墓の分布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 139 図45 地域別突出部変遷図1・2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 140~141 図46 三次・出雲・松江の四隅突出型墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 154 図47 西谷丘陵の四隅突出型墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 155 図48 出雲東部・伯耆の四隅突出型墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 156 図49 北陸の四隅突出型墳丘墓各種 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 157 図50 丹後の後期前半の墳墓群 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 168 図51 丹後の後期後半の墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 169 図52 丹後後期終末の墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 170 図53 北部九州と吉備の後期後半の墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 171 図54 松本による四隅突出型墳丘墓の階層性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 179 図55 西谷9号墓の突出部の想定イメージ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 179 図56 各地の弥生墳丘墓 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 186 図57 Ⅰ期の前方後円墳と前方後方墳 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 187 図58 Ⅱ期の前方後円墳と前方後方墳 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 188 図59 出雲地域の前方後円墳時代初期の墳丘墓分布 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 196 図60 初期の出雲型方墳1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 197 図61 初期の出雲型方墳2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 198 図62 県別鉄器出土分布図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 208

表目次

表 1 都出(案)の墳丘墓分類表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 28 表 2 中国地方東部弥生後期~前方後円墳時代初期の土器編年対照表 ・・・・・・・ 59 表 3 主要県別鉄器出土一覧表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 207 表 4 器種別石器・鉄器組成一覧表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 208 表 5 器種別鉄器出土量比較 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 208

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第 1 章 研究抄史 問題の所在と用語

第 1 節 研究抄史 1 端緒

山陰地域における弥生墳墓の調査研究は、1953年の山口県下関市土井ヶ浜遺跡の発掘に続く1961年 からの島根県松江市(旧鹿島町)古浦遺跡の発掘に始まる。1960年代後半には出雲市原山遺跡で古浦 遺跡とほぼ同時期の配石墓の調査も行われている。箱式石棺や配石遺構を伴う弥生時代墓と認知され た事例として、北部九州の支石墓や甕棺墓の研究に次ぐ古い歴史をもっている。しかしながら、この2 遺跡例に通ずる弥生時代前期の調査例が乏しかったこともあって、その後の山陰の弥生墳墓研究の進 展に直結することはなかった。

弥生時代前期の墳墓研究は、1990年代後半以降の島根県美郷町(旧邑智町)沖丈遺跡(邑智町教育 委員会 2001)や同飯南町(旧頓原町)板屋Ⅲ遺跡(島根県教育委員会1998)などの発掘例をもとに縄 文時代と弥生時代の埋葬要素を区分した山田康弘(山田2000)、広島県山県郡北広島町(旧大朝町)岡 の段C遺跡など広島県山間部の調査例をもとにした加藤光臣、徳永隆の研究(加藤2000、徳永2000)、

島根県堀部第1遺跡の列状に並ぶ特異な配石墓群(図1、註1)の調査成果(鹿島町教育委員会2005)を もとに朝鮮半島との関わりも視野にいれた徳永隆の考証(徳永2005)まで、長い空白の期間があった。

その一方で、弥生後期から前方後円墳時代にかけての墳墓の研究は、数多くの調査事例のもとにい くつかの曲折を経ながら進められてきた。とりわけ、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる特異な形の墳墓の 存在が注目された。その研究経緯は島根大学考古学研究室が1992年にまとめた『山陰地方における弥 生墳丘墓の研究』と2007年に島根県古代文化センターと島根県埋蔵文化財調査センターがまとめた『四 隅突出型墳丘墓と弥生墓制の研究』に詳しく記されている。この二書を参考にしながら、その研究経 緯と時々の問題点を略記しておきたい。

島根県では原山遺跡の調査に先立つ1960年代半ばころから安来市鍵尾遺跡(山本1965)、同市九重遺 跡・小谷土壙墓(近藤正・内田・東森1966)など、弥生時代後期からいわゆる古墳時代初期ころの墳 墓遺跡の調査が行われ、その関係資料が公にされている。相前後して、安来市造山1号墳(島根県教育 委員会1963)、同3号墳(山本1967)、雲南市(旧三刀屋町)松本1号前方後方墳(山本ほか1965)の調 査内容が明らかにされた時期でもあった。松本1号墳では布留式併行期の小型丸底壷と土器棺に用いら れた平底の大きな土師器壷が出土し、造山1号・3号墳では山陰独特の低脚坏や鼓形器台などが出土し ている。そうした事情も影響したと思われるが、この時期の研究動向は、鍵尾遺跡でふぞろいな石列 がみつかっていたものの、ほかに類例がなかったこともあって墳墓形態の検討にはいたらず、それぞ れの埋葬施設から出土した土器群の編年的な位置づけおよび型式把握が中心となった。

山陰の土師器研究の先達をなした山本清は、山陰の小規模「古墳」出土土器の中にある「5の字」形 口縁(二重口縁・複合口縁)をもつ土器に着目し、松本1号墳出土の土師器との比較から鍵尾遺跡出土 土器(後に鍵尾Ⅰ式=的場式、Ⅱ式に分類される)の一部に類似資料が含まれることから、鍵尾式土 器をもって「高塚古墳」に伴う山陰最古の土師器とし、その前段階にあたる九重遺跡出土土器(後に

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九重3号土壙墓資料に限定される)を弥生終末期の土器とした(山本1965)。

九重式の段階から二重口縁部が発達する山陰の弥生後期土器は、当時の瀬戸内・畿内地域の古式土 師器の指標の一つである二重口縁と対比される要素を少なからず備えていた。さらに弥生土器と古式 土師器の区分の目安にされていた壷や甕の底部丸底化も器種やその大小によって差があり、必ずしも 時期区分の決定的な根拠にならないことがまだわかっていなかった。現在では九重式を弥生終末期、

鍵尾Ⅰ式を最古の土師器とする論者はさすがにいなくなったものの、山本による1960年代の山陰「最 古の土師器」研究は、山陰の考古学史に刻まれるべき研究であろう。しかしながらこの研究基調は、

その後の山陰の弥生土器および土師器の編年的研究と、1968年から1970年代前半にかけて、たて続け に明らかにされた貼石ないし石列をもつ山陰独特の方形基調の墳丘墓の評価と関わって、山陰の弥生 時代の墳丘墓研究の重い足枷となった。

2 1970年代の動向

1968年に発掘された島根県西部の邑智郡邑南町(旧瑞穂町)順庵原1号墓(図2 門脇俊1971)は、

いまでは弥生後期の四隅突出型墳丘墓と周知されているものの、長方形区画の墳端に小さな石を立て 並べた石列をめぐらせ、墳丘斜面に葺石を思わせる貼石を備えている。さらに区画の四隅がそれぞれ 対角線の方向に突出した全く類例のない姿であった。突出部の上面には細長い石材が石棺の蓋石のよ うに並んでいる。長方形区画の墳丘は約10.8×8.3m、高さ約1.2mあり、その中央に箱形石棺2と土壙 墓1計3基の埋葬施設がある。墳丘外にはストーンサークルのような円形の立石列が3基あり、祭祀に用 いられたと思われる甕形土器などが出土している。出土土器は九重式に相当する。

島根県地域ではその後、順庵原1号墓に似た墳丘墓が相次いで発見される。四隅突出型墳丘墓に関係 する調査例を時系列的にみると、順庵原1号墓に続いて、1969年に松江市的場土壙墓(近藤正・前島1972)、

1970年に同市来見遺跡(山本1989a)、1971年に安来市仲仙寺墳墓群(近藤正1972)と江津市波来浜遺 跡(門脇俊1973)、1972年に出雲市西谷1号墓、1973年に安来市安養寺墳墓群(出雲考古学研究会1985)、

1974年に同市宮山Ⅳ号墓(前島ほか1974・松本ほか2003)の発掘調査が行われている。突出部が崩れ ていて形が不明なものもあるが、いずれも石列による墳丘区画をもち、波来浜遺跡と的場土壙墓を除 いて四隅が明瞭に突出している。

仲仙寺墳墓群や宮山墳墓群では、墳丘斜面に貼石をもち墳頂部に大きな掘り方をもつ箱形木棺が数 基設けられている。墳端にも埋葬施設があり、その一部は箱形石棺や石蓋土壙墓である。突出部を含 めた墳丘の裾には、小さな石を立て並べた石列と狭い石敷き帯が一重または二重に丁寧にめぐらされ ている。安来市で発掘された四隅突出型墳丘墓は、いずれも順庵原1号墓に比べ突出部がより発達し、

その先端部が膨らんでいる。墳端の石列配置を比べても順庵原1号墓より型式的に新しいことは明らか で、墳丘墓に伴う土器群も当時は布留式に併行する山陰最古の土師器とされていた鍵尾式の要素を備 えている。墳丘斜面と裾を立石および貼石で覆った弥生時代墳墓は現在でも山陰以外希少な事例であ り、これらをより進んだ段階の墳墓=古墳とみなした思いには斟酌の余地がある。

しかし墳丘の特異性に引きずられたのか、九重式併行である順庵原1号墓出土土器は石見地域最古式 の土師器に位置づけられた。そのことはとりもなおさず、山本編年の妥当性を追認する形となり、四

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隅突出型墳丘墓は松本1号前方後方墳や安来市造山1号方形墳に先行する山陰地域独特の「発生期古墳」

と位置づけられた。近藤正は、山陰の四隅突出型墳丘墓を山陰の方墳として「在地型古墳」、松本1号 墳や造山1号墳を「畿内型古墳」と位置づけ(註2)、それが1970年代を通して山陰の研究者に共有の認 識となったという(田中義1992)。

これら山陰側と瀬戸内側の土器および弥生墳丘墓の編年対比に接点がなかったわけではない。1970 年代はじめには、九重遺跡や的場土壙墓から出土した小型の長頸壷や器台が瀬戸内系の土器であるこ とが指摘されていた。それとともに、西谷4号墓から瀬戸内側の弥生後期墳丘墓の祭祀を象徴する特殊 器台や特殊壷が出土していた(池田1956)ことも注目されている。にもかかわらず、これらの資料は 両地域の墳丘墓の時期を相対化させる対象にされることなく、墓の祭祀に用いる土器の特殊な現象と して例外視された(東森1971、近藤・前島1972)。

瀬戸内側では1960年代後半から1970年代にかけて、岡山大学考古学教室による岡山市都月坂2号墓

(近藤義1986)や総社市立坂墳丘墓(近藤義1996a)、同市伊予部山墳墓群(近藤義1996b)、倉敷市 楯築弥生墳丘墓(近藤義1992)などの発掘調査のほか、倉敷考古館による矢掛町芋岡山墳墓群(間壁 ほか1967)や井原市金敷寺裏山墳丘墓(間壁ほか1968a)、倉敷市女男岩遺跡(間壁ほか1974)、同市 黒宮大塚などの調査(間壁ほか1977)、山陽団地開発に伴って行われた赤磐市(旧山陽町)便木山方形 台状墓(神原1971)の調査が相次いでいる。これらの墳丘墓には、しばしば弧帯文をもつ吉備特有の 大型の器台形土器を伴うことが、倉敷市向木見遺跡(高橋1960・1986)や1963年の三輪山遺跡調査団 による総社市宮山遺跡(高橋ほか1986・1987)の調査を経て注目されていた。

吉備地方の弥生時代墳墓に伴う特異な土器について、近藤義郎・春成秀爾両氏は、立坂型→向木見 型→宮山型→都月型への型式変遷と、特殊器台・特殊壷から円筒埴輪・朝顔形埴輪の成立過程を明ら かにした(近藤・春成1967)。吉備と大和、吉備と出雲を結びつける弥生時代後期後半から「古墳」時 代(以下、次節に記す理由によって古墳時代という呼び方をやめ、前方後円墳時代と呼ぶ。あわせて 古墳という表現も固有名詞として用い、墳丘墓と古墳という対置的な呼び分けをしない)前期の墳丘 墓研究、ひいては前方後円墳の成立事情におよぶ研究分野に大きな足がかりを築いた。

この間、岡山県上東遺跡の調査で、弥生後期土器から初期土師器への型式変化が比較的細かく跡づ けられ(岡山県教育委員会1974)、瀬戸内南部の墳丘墓の立坂型から宮山型にいたる特殊器台の相対的 編年観も基本的なところで固まった。それをもとに1970年代後半に、瀬戸内側の特殊器台を伴う西谷 墳墓群をはじめ、山陰の四隅突出型墳丘墓を「発生期古墳」と位置づける見方やその編年観を疑問視 する見解が発信された(近藤義1977、藤田1979)。

前方後円墳成立過程およびその歴史的意義の研究を進めていた近藤義郎は、四隅突出型墳丘墓につ いて「たしかに裏日本の一部では島根県を中心に四隅突出型という定型化を歩みはじめたが、それも 地域的に限られていて、しかも一時的なあらわれにすぎなかった」弥生時代の墳丘墓と評価した。藤 田は、中国山地部で新たに発掘された資料を媒介させて瀬戸内と山陰の弥生後期から布留式期までの 土器の併行関係のあらましを示し、「汎鍵尾式」あるいは「鍵尾Ⅰ・Ⅱ式」と呼ばれている土器が、的 場式と鍵尾式に区分され、鍵尾式土器が布留式まで下ることはなく、その前段階にあたる酒津式併行 期以前に属することを明らかにした。そのことはとりもなおさず、布留式併行期の山陰型の「発生期

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古墳」と位置づけられてきた多くの四隅突出型墳丘墓は弥生時代後期に属する墳丘墓であり、それま での山陰側研究者の評価を根底から否定することになった。

瀬戸内の弥生墳丘墓は、しばしば墳丘の一角に特殊器台や特殊壷を伴う共通性が認められるものの、

墳丘の形や埋葬施設は墳丘墓ごとに変化に富んでいる。立坂墳丘墓は一部に石列を伴う円形の墳丘を もち、その区画内外に少なくとも10基ある埋葬施設の中には、木槨の周りに小石を積んだ礫囲い木槨 というべき施設もある。ほぼ同時期の黒宮大塚弥生墳丘墓は、長辺約30m、高さ3mを超える長方形区 画の墳丘をもち、墳丘の北よりにある埋葬施設は木蓋をもつ竪穴式石槨である。復元推定墳長約80m の楯築弥生墳丘墓はいびつな楕円形の主丘部の南北に突出部をもち、中心の埋葬施設は木棺木槨墓で ある。楯築弥生墳丘墓と同じ山塊にある女男岩遺跡では割竹形木棺の両端に礫を積んだ粘土槨風の埋 葬施設をもっている。瀬戸内の弥生墳丘墓は、大勢としては方形基調の墳丘墓が多いものの、山陰の 四隅突出型墳丘墓のように規格的な様相は見出しがたい。

そのことも、ある程度類型化できる四隅突出型墳丘墓を、山陰独自の「在地型古墳」と解釈する遠 因になったのかもしれない。山陰の弥生墳丘墓研究の大きな壁は、出土土器による瀬戸内地域や畿内 地域の墳丘墓出土資料との相対的な比較検討する前に、特異な墳墓の様相を山陰地域独特の地域性な いし個性の枠内に収めていたことにあった。この姿勢は、後で触れるように、四隅突出型墳丘墓の年 代観が見直されることになって以降も、少なからず影を落としている。田中義昭は、この間の山陰の 研究事情を「陰陽の地における弥生後期後半から古式土師器にかかる諸型式の併行関係の追及と事実 の客観的な評価の道は、いわば自縄自縛的に閉ざされたというべきであろうか」とし、1980年代の研 究方向として「四隅突出型の墳墓を弥生時代の墳丘墓とし、墳墓そのもののありかたと、それに相即 する弥生土器や「古式土師器」論の再検討は、山陰地方の考古学的研究が当面する焦眉の課題となっ てきた」(田中義1992 16頁)と総括している。

3 1980年代の動向

1980 年代は、山陰の弥生墳丘墓の研究がようやく一つの足枷から解き放たれ、瀬戸内側との相対的 な検討がはじまった時期である。土器編年の研究では、房宗寿雄(房宗 1984・1988)、赤沢秀則(赤 沢 1985)、花谷めぐむ(花谷 1986)らが、地域事情に即した高い精度で再検討を加えた。ようやくに して、山陽側と鳥取県から島根県にわたって地域差をもちながらも相対化できるようになった。その 後も松山智弘(松山 2000・2002)、中川寧(中川 1996・2003)、松井潔(松井 1997)らによって個別 時期の細部案が示され、現在も神原神社古墳出土資料の評価をめぐりながら、畿内を含めた地域関係 を視野に入れた初期土師器の緻密な研究が進められている。

弥生土器の編年観の見直しに伴って墳丘墓の評価も大きく変化した。山陰の弥生墳丘墓研究史に出 雲考古学会の大きな足跡を記しておかねばならない。出雲考古学会会員らによる地道なフィールドワ ークと測量調査によって、出雲市西谷丘陵や安来市荒島地域で四隅突出型墳丘墓の発見例が増え(出 雲考古学研究会1980・1985)、とくに西谷丘陵では大型の4基(のちに出雲市教育委員会の調査によっ て2号墓が3・4・9号墓に匹敵する規模をもつことがわかった)を含む6基の四隅突出型墳丘墓が集中し ていることを明らかにした。「(出雲考古学会)会員らは、最早、四隅突出型の墳墓を何の外連味もな

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く「四隅突出形墳丘墓」と呼称し、それらの年代づけに藤田編年を積極的に活用する。そしてこの種 の墳墓の土器で「藤田編年Ⅴ期(布留式併行期)にまでくだる資料はない」と明言するほどに四隅突 出型墳丘墓の評価が急転換したと田中義昭は振り返っている(田中義1992 124頁)。

さらに1980年代の前半から、島根大学考古学研究室を中心に山陰の四隅突出型墳丘墓と瀬戸内地域 の墳丘墓との相対的関係を究明する目的で、出雲市西谷墳墓群の本格調査と山陰の弥生墳丘墓の総合 的研究が始まる。西谷3号墓の発掘は1983年から10年にわたって行われ、次々と新事実を明らかにした

(渡辺ほか1992、渡辺1997)。中心的な埋葬である第4主体部のまわりでモガリに関連する構造物と考 えられる大きな柱穴があった。また埋葬施設上には250点を上回る土器が集積され、その中に吉備をは じめ広く山陰各地の土器が含まれている。吉備の土器だけで墓壙上の儀礼が行われた楯築弥生墳丘墓 と比べると、埋葬された人の生前の立場や性格の違いがうかがえる。

鳥取県域でも東部で鳥取市糸谷1号墓(中野1979)、同市西桂見墳丘墓(鳥取市教育委員会1981年)、

中部で倉吉市阿弥大寺墳丘墓群(倉吉市教育委員会1981)などの調査が行われ、四隅突出型墳丘墓の 分布範囲が因幡地域まで広がることになった。あわせて、戦前に方墳として報告されていた倉吉市三 度舞大塚や西部の大山町徳楽墳丘墓の出土資料の再検討も進められた。徳楽墳丘墓は、戦前の小林行 雄らによる測量図にも墳丘西側の一隅が突出する可能性が示されていたが(倉光1932、坪井編2003)、

松井潔らの測量調査でも突出部をもつ可能性が表現されている(松井1997)。

山陰側と瀬戸内側を区切る中国山地山間部では、1967・8年に広島県三次市四拾貫小原遺跡や同市岩 脇遺跡(河瀬1979)の調査があったが、その時は注目を集めることなく、1990年代になって再評価さ れることになった(河瀬1996)。実質的に四隅突出型墳丘墓との接点を考える出発になったのは、1977 年以降の三次地方を中心に相次いで行われた調査からである。石列で広範囲に囲われた区画内に箱形 石棺や石蓋土壙など長期間にわたる多数の埋葬施設が重なり合う花園墳墓群(三次市教育委員会 1979・1980a)をはじめ、同市矢谷墳墓群(広島県教育委員会1981)、庄原市田尻山墳墓群(広島県教 育委員会1978)、三次市宗祐池西遺跡(広島県教育委員会1980)など、その後の四隅突出型墳丘墓研究 に大きな影響を与えた調査例が相次いだ。

矢谷MD1号墓は前方後方形の区画の少なくとも四つの隅に突出部をもち、吉備系の特殊器台を伴っ ていた。四隅突出型墳丘墓と前方後方墳の成立および特殊器台・特殊壷を関連づけられる期待感が高 まり、矢谷古墳と呼ばれた。四隅突出型墳丘墓を「発生期古墳」と位置づけていた山陰の研究者に少 なからず影響を与えたと思われる。しかし、四隅突出型墳丘墓から矢谷MD1号を経て前方後方墳が成 立する様子はこの地域でも認めることができない。さらに前方部状の突出部とそれぞれの隅に設けら れた突出部が重複する形になり、通路として発達したはずの突出部の意味がかえって曖昧になる。第6 章で記すように矢谷MD1号墓の前方後方形の墳丘形態は、墓域の拡張痕跡の可能性を考えることが必 要であろう。

一方、宗祐池西遺跡例は長方形区画の東南隅に小さな石が数個並んで据えられており、東北隅が鉤 の手状に短く飛び出している。時期が遅れる田尻山1号墓では、一隅の裾に平石を置き、これに取り付 くように立石列が墳端に据えられている。この2例は四隅の突出がはじまる初現的な姿を示している。

その時期もそれまで山陰海岸側で知られていたどの四隅突出型墳丘墓よりも古く、弥生時代中期後葉

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に属する。四隅突出型墳丘墓の起源を考える大きな手掛かりとなった。

江の川上流域ではさらに1980年代後半、弥生中期末に属する宗祐池西1号墓や田尻山墳墓群と後期後 葉の矢谷墳墓群の間を埋める庄原市佐田谷墳墓群((財)広島県埋蔵文化財センター1987a)、三次市 殿山墳墓群((財)広島県埋蔵文化財センター1987b)、山県郡北広島町(旧千代田町)歳ノ神墳墓群

((財)広島県埋蔵文化財センター1986)などの弥生後期前半の四隅突出型墳丘墓のほか、弥生中期後 葉の墳丘の拡張痕跡をもつ三次市陣山墳墓群(三次市教育委員会1997)が相次いで発見されている。

殿山38号墓や陣山2~5号墓では四隅の一部がわずかに突出しはじめており、四隅の稜線部分にも置き 方の違う石を数個並べている。後期中葉の歳ノ神墳墓群3・4号墓は角張った短い突出部になっている。

その形は矢谷MD1号墓の突出部の形につながるものである。三次盆地周辺ではじめて、弥生中期後葉 から後期末までの突出部の発達過程が明らかになった。この突出部の形状は山陰海岸側の突出部形態 と一致していないが、四隅突出型墳丘墓は三次地域で成立し、山陰海岸部に広がるという四隅突出型 墳丘墓の起源論が主張されるようになった。

前方後円墳の前方部の形成と関係する課題でもあることから、突出部の意味合いもさかんに取りあ げられるようになる。近藤義郎は前方後円墳の前方部の形成を念頭におき、龍野市養久山5号墳や姫路 市西条52号墳などの事例に配慮しながら、埋葬施設がある聖域に入るための通路が発達して山陰独特 の突出部を形成したと説いた(近藤義1983)。さらにその起源と展開に論究し、三次市宗祐池西1号弥 生墳丘墓をあげて「目下の資料では、それは広島県の北部の山地に弥生時代中期後葉に原初的な形を もって出現したらしい。(中略)四隅の突出は短小なもので始まるが、やがて弥生後期を通じて山陰に 拡がるにつれ、しだいに長く、ついには「しゃもじ」状に大きく整備される。それにつれ突出部上に 平たい面を上にして置かれた石も数を増し、あたかも出入りの「踏み石」のように並べられるように なる」と指摘している(近藤義1998 68頁)。

「墳丘墓」と「古墳」の定義の見直しを主張した都出比呂志は、弥生時代の方形周溝墓の隅の途切 れ部あるいは陸橋は埋葬部にいたる通路の役割を担い、その通路に石列などを用いて荘厳化したもの が四隅突出型墳丘墓の突出部になる(都出1979)と説いている。

両氏の解釈は、山陰地域に限らず弥生時代の墳丘墓を築いた地域では、どの集団にも突出部を形成 する思想的背景が備わっていることを見通している。とくに都出の解釈は、四隅突出型墳丘墓におけ る突出部の起源も多元的に成立する可能性をみており、北陸地域で明らかになりつつあった四隅突出 型墳丘墓の成立系譜も視野に入れて、突出部の起源を考えさせるものであった。

四隅突出型墳丘墓の起源に関して山本清は、混迷の1970年代に、四隅突出型墳丘墓を前方後円墳時 代前期の出雲地域の方形墳との深い関わりを見通しながら、貼石や列石構造の類似性から四隅突出型 墳丘墓の起源を大陸に求めようとしていた(山本1975)。氏の着想には、墳丘墓の時期認定に問題を抱 えていたものの大切な姿勢が示されている。つまり、四隅突出型墳丘墓の三次盆地起源論を主張する 論者は、なぜ三次盆地で四隅突出型墳丘墓が成立しその地域勢力が山陰海岸の諸地域にどのように影 響を与えたのか、それほどの文化的政治的求心性が江の川上流域の勢力にあったのか、という素朴な 疑問にまず応える責務がある。その歴史的背景にわたって説明しない限り、この三次盆地起源論は単 に現在判明している墳丘墓の古さを叙述したにすぎない。

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にもかかわらず、石を立て並べあるいは斜面に貼って墳端を区切る墳丘墓の古い事例数の前に、四 隅突出型墳丘墓が三次盆地で成立し山陰海岸部に広がったとする一元論的な考え方が大勢を占めるこ とになった。起源論が一応の決着をみた観が広がるなか、山陰の四隅突出型墳丘墓の研究方向は貼石 と石列の仕様を中心に、突出部および墳丘の形態分類に多くの関心が向かうことになった。とりわけ、

阿弥大寺墳墓群で細長く伸び出した突出部がみつかり、後期末には極端に肥大化することや、仲仙寺 墳墓群や宮山墳墓群の調査で注目された墳端の石列と石敷き帯などの推移が当面の研究課題にあげら れた。

山陰で四隅突出型墳丘墓の事例が周知されはじめた時期に、北陸でも四隅突出型墳丘墓があること が明らかにされた。1972年発見の富山市杉谷4号墓は出雲地域のように墳端を石で囲う姿ではなく、方 形周溝墓のように溝で墳丘を区画し、突出部の先端が極端に膨らんだ四隅突出型墳丘墓である。当初 この墳丘墓も「古墳」と考えられた。さらに1989年から1990年にかけて石川県松任市一塚墳墓群や福 井県清水町小羽山墳墓群でも貼石をもたない四隅突出型墳丘墓が調査されている。四隅突出型墳丘墓 は但馬・丹後を除く日本海岸側に広く分布する弥生時代の墓制といえそうである。北陸の墳墓群では 方形周溝墓あるいは方形台状墓と一緒に墳墓群を形成し、その中で四隅突出型墳丘墓の規模はひとき わ大きな存在である。

4 1990年代の動向

1990年代にはそれまで空白地帯であった伯耆西部地区でも米子市日下弥生1号墓、同市尾高浅山1号 墓など(岩田1997)弥生後期前半の四隅突出型墳丘墓の調査例が加わる。米子市から大山町にまたが る妻木晩田遺跡洞ノ原地区の尾根筋では、四隅突出型墳丘墓を含む18基の方形区画の墳丘墓が調査さ れ、1辺1m余りの、ひとまたぎできる小さな墳丘墓が12基ある。そのうち6基はしっかりと四隅を突出 させている。妻木晩田遺跡では仙谷地区でも後期前半の四隅突出型墳丘墓が数基確認されている(淀 江町教育委員会2000、大山町教育委員会他2000)。2つの地区は尾根筋が違うものの指呼の間にあり、

ほぼ同時期の居住区も近くで確認されている。山陰の四隅突出型墳丘墓で墳墓と関係したであろう居 住域の一部が判明した貴重な例といえる。

倉吉市域では宮内遺跡(鳥取県教育委員会1996)で、突出部の痕跡は不明ながら高い墳丘の斜面に 貼石の形跡をもった長方形墓の調査も行われた。南北に3基並ぶ中心的埋葬施設の一つに、弥生時代で は最大の長さ約90cmの直刀が副葬されていた。この時期の大型武器の副葬は鉄器の副葬が多い北部九 州や山陰海岸側の墳墓でもまれである。また、貼石のない長方形墳丘墓が倉吉市大谷後ロ谷1・2号墓

(倉吉市教育委員会1986)、鳥取市門上谷1・2号墓(平川1988)をはじめ鳥取県中部から東部にかけて 少なからず認められる。

1994年、安来市で従来の四隅突出型墳丘墓の年代よりも少なくとも1段階は新しい塩津山1号墳の調 査が行われた(島根県教育委員会1997)。長辺約25m、高さ2.3m。墳丘斜面に貼石はあるものの墳端 に石列はない。単に地形上の制約とは思えない、一または二方向だけが強調された突出部をもつ墳丘 墓である。中心の埋葬施設は竪穴式礫槨を用い、「特殊器台」を転用したと思われる埋葬施設もある。

「特殊器台」は瀬戸内や畿内地域の特殊器台にみられる突帯や弧帯文がなく、筒部の上位に方形透か

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しをもつ。口縁部と直下のくびれ部に半裁竹管で横S字型の押圧文がめぐらされた山陰型特殊器台と 呼ばれるものである。型式学的には西谷3・4号墓の特殊器台より新しく、神原神社古墳の裾広がりの

「特殊器台」よりも古く位置づけられる。報告書では、これを四隅突出型墳丘墓(=弥生墳丘墓)と するか「古墳」とするか、悩んだ様子が記されている。

1997年に行われた山陰考古学研究集会は新しく発見された鳥取県米子市(旧淀江町)・大山町の妻木 晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓群を加え北陸三県におよぶ84例の集成が行われ、四隅突出型墳丘墓の研 究は、その史的評価と墳丘および突出部の分類が大きな課題になった。

そのうち立石列と石敷きによる墳端の仕様については、出雲平野と安来平野の墳丘墓を軸に多重化 に向かうようすが示されている。この墳端仕様は、松本岩雄が斜面の貼石と墳裾の石列を類型化し、

西谷墳墓群の史跡整備に伴う西谷2号墓や4号墓で二重の立石列と敷石帯が明らかになり、西谷9号墓で は突出部以外で敷石帯三重にめぐらされていることが判明した。出雲地域では、ある時期まで墳端の 立石列がしだいに多重化する(松本2003、坂本2006)ことはまちがいない。

山陰考古学研究集会では突出部の形態変遷について、1.備後三次地域の陣山遺跡2・3号墓→2.同殿 山遺跡38号墓→3.同田尻山1号墓→4.伯耆西部米子市尾高浅山1号墓→5.石見順庵原1号墓→6.安芸北 部広島県千代田町歳ノ神3・4号墓→7.伯耆東部倉吉市阿弥大寺1号墓→8.出雲市西谷3号墓の順に時系 列的に示されている。

レジュメの突出部形態変遷図にしたがうと、弥生中期末から後期初頭の三次盆地地域の短い突出部 から、後期初めの西伯耆尾高浅山1号墓の先端が丸く推定復元されている突出部を経て、その後石見と 安芸山間部の角張った突出部になり、やがて東伯耆阿弥大寺1号墓のように突出部が細長く伸び出した 後に、出雲西谷3号墓の大きな突出部が形成されると主張しているように思われる。研究会に参加して いないので誤解している恐れがあるが、この図は突出部の型式変遷や地域性色を描き出したものには なっていない。

その後、渡辺貞幸は、突出部の貼石(渡辺は貼石状石列ないしステッピングストーンと呼んでいる)

の推移と、四隅の突出部の形と規模が不揃いで一つか二つの突出部が強調されていることが多いこと に着目し、踏み石状石列が四隅すべての突出部に備わっているわけでなく、聖域への進入路は基本的 に一つに限定されていたとみている(渡辺2003)。この想定は四隅突出型墳丘墓のその後を考えるとき に重要な意味をもつ。

前方後方形の墳丘墓を築く地域や前方後円形の墳丘墓を築き始める地域では、聖域にいたる通路=

突出部が墳丘の一部を構成しはじめた段階から一方向かせいぜい二方向であった。兵庫県養久山5号墓 のように突出部が二つ設けられた場合でもその長短・大小がはっきりしており、主たる通路=突出部 はおのずと明らかになっている。四隅突出型墳丘墓の場合も方形周溝墓と同様その初期には四方向か らそれぞれ通路が設けられた可能性があるが、通路もしだいに限定されるのが時代の大きな流れであ ったろう。必要な突出部がしだいに限定されると考えれば、前に記したように、徳楽墳丘墓や塩津山1 号墳を介して、神原神社古墳・大成古墳・造山1・3号墳など前方後円墳時代初期の山陰の長方形墳丘 墓への移行もスムーズに解釈できる。

四隅突出型墳丘墓の消長と絡んで、いま一つ注目しなければならないのが史的評価であろう。これ

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については、前方後円墳時代初期の墳丘墓事情と関連して、古代出雲文化展の図録(島根県教育委員 会・朝日新聞社1997)に記された丹羽野裕・池渕俊一の考え方に代表される。

丹羽野は、弥生中期段階に四隅突出型墳丘墓の重要な要素となる方形の貼石区画墓があることを指 摘し、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の大量の青銅器埋納の行為と大きな墳丘墓築造の開始を関連させて、

集団のまつりから特定個人の墓のまつりに移ったことに、首長の地位をめぐる社会の変化を見出して いる。そして四隅突出型墳丘墓の成立から終焉を、弥生中期末から庄内式期まで3期5段階に分け、西 谷3号墓などの2期の時期に最大化と定型化があり、分布域も北陸地域まで広がることから日本海側の 地域首長の同盟関係があったと想定した。「それからおよそ百年後、畿内政権を中心に前方後円墳とい う共通の墓を造ることで、日本の広い範囲で大きなまとまりをつくった時代=古墳時代が始まる。こ の共通の墓のまつりのさきがけとなったのは、九州でも近畿地方でもなかった。新しい時代を開いた のは、吉備とそして出雲だった」という。その一方で、「迫りくるヤマト」と題して「倭国大乱」の後 西日本地域が一つにまとまりはじめ、「四隅2期の時期にもっとも輝いていた出雲も、統一墓制である 古墳が築造されはじめる直前にいたってヤマトの勢力に屈したのであろうか」として四隅突出型墳丘 墓の消滅ののち古墳時代が到来したとする(丹羽野1997 70・79頁)。

池渕は、出雲の四隅突出型墳丘墓世界に出雲西部(出雲平野側)と出雲東部(安来平野側)の二つ の核があり、弥生時代後期後半は出雲西部が優位であったが、「古墳時代」には継続的に大型方墳を築 いた出雲東部が優位に立ったとし、都出比呂志が提唱した前方後円墳体制論(都出1991)を引用しな がら、出雲地域における弥生墳丘墓から「古墳時代」の方墳世界への変化について二通りの解釈を示 している。その一つは、あくまで池渕の推測・仮説とことわりながら「古墳時代に入り、出雲東部の 荒島の首長は畿内勢力と政治的関係を取り結ぶことによりその命脈を保ったが、畿内政権からかつて の弥生時代の四隅突出型墳丘墓連合体の中心的存在という理由で警戒され、前方後円墳は与えられず 下位の方墳の築造しか認められなかった。そして、その周辺地域の中小首長には逆に方墳よりやや上 位のランクである前方後方墳の築造を認めて優遇し、勢力の均衡をはかった。しかし、出雲第一勢力 である荒島の首長との関係は当地の政治的安定のうえで必要不可欠であったため、他地域の有力首長 と同様の副葬品セットを配布することにより友好関係を保った」というものである。いま一つは、「竪 穴式石槨という新たな埋葬施設を導入し、鏡や大刀などの副葬品の配布を受けることによって、新た に前方後円墳体制を構成する一員になったが、墳形についてはそれまでの四隅突出型墳丘墓の伝統を 受け継いだ方墳を採用し、その独自性を示した(中略)畿内政権も当初は政治的安定を保持するため、

こうしたルーズな関係を容認し、出雲のトップである荒島の首長を優遇する措置をとっていた。しか し、前期後半に外縁地域の首長を取り込んで統治の政治的安定を確立させると、荒島の首長への優遇 措置を停止」すると解釈している(池渕1997 92~93頁)。

正規の論考ではなく、あえて展覧会の図録解説を引用したのは、普及書としてわかりやすく書かれ た両氏の構想に、現在の弥生時代および前方後円墳時代初期の墳丘墓研究がかかえている大きな課題 がうかがわれるからである。両氏の解釈には傾聴すべき点が多々ある。それを踏まえたうえで、その 問題点を考えることがこれからの研究に不可欠と思われる。

丹羽野・池渕両氏は弥生時代から前方後円墳時代前期末までの出雲地域における墳丘墓の実態を多

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面的に分析し、池渕のように前方後円墳時代初頭の出雲世界の独自性を見出しながらも、その解釈に 共通しているのは、出雲地域在来の墳丘墓築造習慣は大和の勢力の統一墓制のまえに一掃された地域 首長という構図である。その解釈は、都出が主張する前方後円墳体制論や近藤義郎が指摘した「地域 的で一時的現象であり、出雲がもっとも出雲らしく輝いたとき」とする四隅突出型墳丘墓の評価に強 く影響されているだけでなく、前方後円墳体制あるいは前方後円墳秩序と呼ぶ墳丘序列による「墓制」

を、必要以上に誇大解釈しているところが見受けられる。

次節で触れるように、こうした着想そのものが、山陰の墳丘墓研究に大きな影を落とし、山陰のこ の時期の墳丘墓築造動態を大和の勢力を中心とする中央勢力に対する地域首長の服属化としてとらえ、

地域の主体性が軽視されているように思われる。あわせて古事記や風土記に特殊化して描かれた出雲 世界を弥生時代の事象に重ねて、前方後円墳時代のはじめに終焉するというイメージ(渡辺2007)が 根強いことも、こうした解釈を生む一因になっているのではなかろうか。

5 これからの研究方向

2007年「四隅突出型墳丘墓と弥生墓制の研究」と題する共同研究の成果(島根県古代文化センター ほか2007)によると四隅突出型墳丘墓と目されるものは97基あり、1997年時の集成(山陰考古学研究 集会1997)からみると10数基増えているが分布域に変化はない。本書は、2004年から2006年にかけて 島根県古代文化センターが行ったテーマ研究の成果をまとめたもので、北部九州や瀬戸内、丹後地域 の研究事例をまじえ、山陰の弥生時代墓の展開について、四隅突出型墳丘墓成立の背景や突出部の構 造、墓壙・木棺などの埋葬施設の規模や形、玉や鉄器などの副葬品の検討、方形区画と埋葬配置など 多様な側面から検討されている。弥生時代前期から中期の墓の様相に北部九州の区画墓を視野に加え ていること、中期の貼石墓に四隅突出型墳丘墓の系譜をたどり、丹後地域の墳墓事情を視野に取り入 れるなど、これからの方向性を示している。

また、地域単位で異なる首長墓の様相から各地の主体性を評価(松井1999)する一方、墳丘墓の周 辺に認められる区画をもたない集団墓の墓壙配置関係から有力家族墓の復元(松井2006)を試みた視 点や、長方形区画の墳丘と墓壙の向きおよび複数墓壙の配置関係などから、中心的埋葬の生成過程を 読みとり集団関係の変化を取りあげた(池渕2007)意欲的な研究も興味深いものがある。

その一方で、四隅突出型墳丘墓の祖形となる貼石墓の成立経緯と、四隅突出型墳丘墓の起源と展開 およびその終焉に関しては、瀬戸内・大和を中心とした前方後円墳の時代の始まりと関わって、いま なお大きな検討課題を残している。

四隅突出型墳丘墓三次盆地起源論の課題は、三次盆地から山陰海岸諸地域への文化伝播の史的背景 を語れないだけでなく、各地の突出部形状が違っている実態に迫ることができない。出雲地域を中心 とする四隅突出型墳丘墓は、弥生中期中葉から後葉にかけて山陰各地に築かれた貼石や石列で区画し た墳丘墓がもとになっていることはほぼ間違いない。この貼石墓は山陰以外の列島内では発見例がな く、丹後地域を含む山陰と三次地域に唐突に現れる。その起源を探ることも、これからの山陰の主体 性を探るための重要な課題である。

四隅突出型墳丘墓の研究史に焦点をあてたため、ここまで取りあげなかったが、四隅突出型墳丘墓

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が分布しない但馬・丹後地域にも、山陰中部地区とほぼ同じく弥生中期中葉から貼石を伴う方形墳丘 墓が築かれている。京都府与謝野町日吉ヶ丘墳丘墓(加悦町教育委員会2005)や同寺岡墳丘墓(野田 川町教育委員会1988)は、整った貼石の手法と長辺が30mを超える大きな区画をもち、その規模は山 陰中部地域の墳丘墓をはるかに凌いでいる。これに続いて弥生中期末ころの京丹後市奈具岡墳丘墓(弥 栄町教育委員会 1986)、同小池墳丘墓(大宮町教育委員会 1984)、舞鶴市志高墳丘墓((財)京都府埋 蔵文化財調査研究センター1989)のほか、2006年に宮津市難波野条里遺跡でも貼石墳丘墓が発見され ており、山陰西部を凌ぐ貼石墳丘墓の大分布地帯になっている。その丹後地域では、弥生後期以降四 隅突出型墳丘墓がないだけでなく、貼石墳丘墓もなくなる。かわって登場するのは、丘陵斜面を階段 状に削り出し、そのテラスを中心に多数の埋葬施設を伴った京丹後市左坂墳墓群(大宮町教育委員会 1994、京都府埋蔵文化財調査研究センター1996)や与謝野町大風呂南墳墓群(岩滝町教育委員会2000)

などである。玉類や鉄器の副葬が著しく、鉄器の保有量が卓越していた北部九州地域にもない特徴で ある。この但馬・丹後地域の弥生墳丘墓事情を抜きにして、山陰の四隅突出型墳丘墓世界の実像に迫 ることはできない。

こうした研究事情を踏まえ、四隅突出型墳丘墓が三次盆地で成立し波及するという一元的な起源論 に対する素朴な疑問から、私は、貼石ないし石列を伴う方形基調の墳丘墓で突出部が形成される過程 の分類を試み、突出部は通路の先端部が開放型で始まり、突出部の発達とともに閉鎖型に変わること、

その通路は踏石状石列を置いてポジティブに通路を表現したものと、踏石状石列を置かず、地山を削 り出しただけのものや両側に貼石ないし石列をめぐらせて通路を示したネガティブな表現になってい る二者があることを指摘し、三次盆地以外の山陰海岸部各地で四隅突出型墳丘墓が成立する条件を備 えていたという多元論的な結論を導いた(藤田2002a)。

その後山陰地域の四隅突出型墳丘墓や貼石墳丘墓が相次いで発掘され、山陰における四隅突出型墳 丘墓分布事情は大きく変化している。2002年、出雲平野のほぼ中央部にある中野美保遺跡で後期後葉 の四隅突出型墳丘墓が標高約4.5mの低地で発掘され、さらにその下層で突出部がない中期中葉の貼石 方形区画墓がみつかった(島根県教育委員会2004)。これまで砂丘上を含め丘陵部でしか発見例のなか った四隅突出型墳丘墓が、出雲平野の沖積低地部でも築かれていることがわかった。さらにその翌年 には、中野美保遺跡の北北東約4㎞にある青木遺跡で4基の四隅突出型墳丘墓を含む12基の貼石墓群が 発掘された(島根県教育委員会2006)。報告書の年代観にしたがうと、貼石墓が築かれた時期は弥生中 期後葉から前方後円墳時代初期まで長期間にわたり、もっとも古い四隅突出型墳丘墓(図3)は中期後 葉にさかのぼる。

2006 年には島根県西部益田市専光寺裏古墳群で人頭大の円礫を並べた区画墓が 2 基発掘されている。

中期後葉に属する可能性が高いこの貼石区画墓は細い尾根筋上に築かれており、山陰海岸部の貼石墓 の分布域が浜田市域からさらに西に広がることになった。また、これまで発見例が少なかった島根半 島側でも松江市沢下遺跡で 2 基の四隅突出型墳丘墓が発掘されている。

韓国でも貼石墓や周溝を伴う区画墓の発掘例が明らかになっている。南海岸の馬山市鎮東遺跡で長 方形と円形の貼石区画墓が発見されている。それぞれ区画内の中心に支石墓を伴い、円形区画墓には 陸橋が取り付いている。晋州玉房8遺跡で、石棺を内部主体とする方形周溝墓と円形周溝墓も発見され

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