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第 5 章 四隅突出型墳丘墓の成立

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第 5 章 四隅突出型墳丘墓の成立

第 1 節 方形貼石墓と四隅突出型墳丘墓 1 四隅突出型墳丘墓の起源諸説

山陰の弥生墳丘墓を象徴するのは四隅突出型墳丘墓である。方形貼石墓より遅れて弥生中期末ころ から現れる。墳丘斜面や裾に貼石や石列を伴い、長方形区画の四隅が対角線の延長方向に突出部をも つ墳丘墓である。弥生後期後半には列島最大級の規模をもつ墳丘墓になる。

四隅突出型墳丘墓の出現経緯に関して、朝鮮半島北部高句麗の積石塚にその源流を求める見解がか ねてからある(山本 1975、前島巳基 1986、全浩天 1989)。鴨緑江流域の蓮舞里 2 号墓は方形の一隅が 円くなっているが貼石によって外縁を区画し、三隅に突出部風の拡張部がある。時期的には紀元前後 ころといわれ、山陰で形成期の四隅突出型墳丘墓が現れるころにちかい。たしかにこれらは、石を用 いた方形区画をもつことや隅に突出傾向のみられる区画があることなど、山陰の貼石による区画墓に 似ていなくもない。区画施設として石を用いる着想の原点に、蓮舞里 2 号墓の影響がなかったとは断 定しえないが、突出部の石の用い方が全く異なるだけでなく、突出部の発達過程も山陰のなかでその 萌芽から最盛期までたどることができる。山陰の四隅突出型墳丘墓を、朝鮮半島南部を飛び越えて高 句麗の積石塚と直接結びつける必然性はない。

伊藤実は三次盆地にある高平A号墓を「朝鮮半島西北部を源流とする北部九州や山陰地方の海岸砂 丘に営まれた配石墓などと同様に、水田稲作の伝来に前後して伝わった大陸系の弥生時代墳墓」(伊藤 2004 115 頁)と位置づけ、そうした背景をもとに「中国漢代の天円地方説「鉤の思想」などの影響 を受けて、死者の大地(世界)としての墳墓に方形の形を採用し、その死者の大地をさらに現実の大 地にしっかりつなぎ留める意図をもって、四隅に張出しをつくってあたかも天と地をつなぎ留める鉤 のように考えた造形が四隅の突出部であると考えることもできる」(伊藤 2004 123 頁)と、三次盆地 で四隅突出型墳丘墓が成立したことを説く。四隅突出型墳丘墓が三次盆地で成立し山陰海岸地帯に広 がったという主張は多いが、先述したように、なぜ三次盆地で始まるのかという問題がつねに置き去 りにされていた。その点、伊藤の主張は三次盆地起源の背景を示した数少ない主張である。しかし四 隅突出型墳丘墓の成立前段階にまず方形貼石墓が成立している。朝鮮半島からの影響を主張するので あれば、貼石墓の出現段階の要素をもってなされるべきで、貼石墓の後に成立する四隅突出型墳丘墓 の系譜を朝鮮半島に求める伊藤の想定はかなり無理があろう。

四隅突出型墳丘墓の系譜を朝鮮半島に求めるのではなく列島内で成立発達したとする研究者は、聖 域への通路が突出部に発達したと説く。やや例外的な見解としては、初期方形貼石墓の隅の石の据え 方に共通要素を見出し隅の養生の関心の強さが三次盆地部で踏石状の石列となり、突出部として発達 するという解釈もあった(河原 1992)。この解釈は隅の置き石の工夫という偶発的な要因から大きな 突出部に発達するという必然性に欠ける。

近藤義郎は突出部の意味について聖なる墓域へ入るための道の施設ととらえ、備後三次地域の宗祐

池西遺跡、田尻山遺跡隅の石の置き方を手がかりに突出部の発達過程を示し(近藤 1985)、四隅突出

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型墳丘墓が三次盆地で成立し、海岸部に広がるとした。さらに近藤は四隅突出型墳丘墓について「島 根県を中心に・・・中略・・・地域的に限られ、一時的な表れに過ぎなかった」(近藤 1977)墳丘墓ととら える。

渡辺貞幸もまた、隅部から突出部に並べるように置かれた石が墳丘斜面部に貼られた石の置き方と 明瞭に異なることに着目し、隅部に置かれた平石を「踏石状石列」(以後その呼称にならう)あるいは ステッピングストーンと呼んで、墓域へ入るための道ととらえている(渡辺 1995)。さらに鳥取県妻 木晩田遺跡洞ノ原地区の四隅突出型墳丘墓の事例などから、四つの突出部の造られ方の違いを指摘し、

開口部をもつ一つの突出部だけが聖なる墓域へ立ち入る通路で、他の三隅は閉じられた形だけの突出 部という(渡辺 2003)。

一方、四隅突出型墳丘墓の突出部は、方形周溝墓の溝がしばしば隅部で途切れて陸橋状を呈した墳 丘内にいたる道(聖域と下界とを結ぶ通路)と同じ思想上にあり、方形周溝墓の隅に設けられた陸橋 の究極的な形態として四隅突出型墳丘墓になったとする見解も早くから示されている(春成 1979、都 出 1979)。

都出比呂志は四隅突出型墳丘墓(都出は四突起墓と呼ぶ)について「この突起部は新しくなるにつ れて発達して長くなり、かつ先端が撥形に開く形式となって前方部の形に限りなく近づく・・・中略・・・

また、方形周溝墓の溝の途切れた陸橋部の付近に土器が供献されることが多い。このことはこの場所 が墳丘中央の埋葬部にいたる墓道であり、かつ死者の葬送における重要な儀式の場であることを示す」

として前方後円墳や前方後方墳の前方部になぞらえ、方形周溝墓の陸橋部付近の「祭祀行為がさらに 丁寧となり、祭祀の場に列石などを施して荘厳化したものが四突起方丘墓(四隅突出型墳丘墓-筆者 注)や二突起円丘墓(岡山県楯築弥生墳丘墓など-筆者注)における突起部になるのではないか。こ うして前方部は墳丘墓における葬送祭祀の場として重要な意義をもった墓道部分が特殊に発達をとげ た祭場と説明できる」(都出 2005 297~300 頁)という。

私もまた、四隅突出型墳丘墓の道の思想は方形周溝墓の陸橋と同じ思想的背景を共有していると考 える。瀬戸内・畿内の方形周溝墓の隅に設けられた溝の途切れ部あるいは通路状施設=陸橋は、その 初現期から規則性が認められる。途切れ部の場所はいくつかあり、基本は方形周溝墓の場合、2~4 ヵ 所かの隅に設けられ、しだいに限定されとなりあう溝を共有する中期後半ころには途切れ部のない周 溝墓も現れる。現状ではこの通路思想の起源を朝鮮半島に求めがたい。鎮東遺跡など出入り口、ある いは道状の施設をもつものが数例あるが、朝鮮半島に根付いていたものかどうか不明である。聖域を 外見的に区画する意識は朝鮮半島から伝わったとしても、聖域に入る道を設ける思想は、むしろ列島 の区画墓形成の中で考え出された可能性が強い。

ただし、方形周溝墓の陸橋の延長線上に四隅突出型墳丘墓の突出部があるとは考えていない。周溝

墓の陸橋には通路を閉鎖して突出部を形成する発想はなく、実際に閉鎖型突出部を形成するのはずっ

と後の庄内式併行期以降である。この通路の敷設に特別な意識を払って荘厳化し、いち早く閉鎖型突

出部を成立させたのは山陰の諸勢力である。瀬戸内の墳丘墓に突出部形成にインパクトを与えたのが

四隅突出型墳丘墓であり、四隅突出型墳丘墓の突出部は前方後円墳や前方後方墳の突出部とまったく

対照的な歩みをする。島根県安来市宮山Ⅳ号四隅突出型墳丘墓段階の撥形に開く突出部が、前方後円

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墳や前方後方墳の「前方部」の形に近づいたのではなく、山陰の四隅突出型墳丘墓の突出部をもとに 瀬戸内・畿内で「前方部」の発想が生まれた。墳丘墓の時系列からみても山陰の突出部が古いことは 否定しがたい。

四隅突出型墳丘墓の起源を探る研究は、四隅突出型墳丘墓の成立地を限定する論理と表裏をなして きた。近藤や渡辺、河原和人(河原 1978)らは四隅突出型墳丘墓が三次盆地で成立し、その後山陰海 岸部に波及したと主張する。方形貼石墓の隅の「配石列」と踏石状石列の区分および四隅突出型墳丘 墓の貼石と立石列の「配石」構造を分析した仁木聡は、山陰海岸部の後期中葉以降の諸要素が後期前 葉に中国地方山間部で出そろい「現時点での資料のあり方をみれば、方形貼石墓から突出部を貼り石 や縁石で囲む明確な四隅突出型墳丘墓への系譜を追う上では、中国山間部の様相が日本海沿岸部の様 相より鮮明な展開が認められる」(仁木 2007)として三次盆地一元論を支持している。ただし、渡辺 は初現期の踏石状石列をもつ出雲市青木 4 号墓の発見によって、 「四隅突出型墳丘墓の発祥地は未解決 である。青木 4 号墓は墳丘墓そのものの土器が分かっていないので類例の追補が必要だが、これが認 められれば、既に中期には同一のコンセプトを持つ墓制が山間部から山陰海岸部にかけての地域に広 がっていたことになる」(渡辺 2007)と起源論に関するそれまでの主張を変えている。

鳥取・島根両地域ではこれまで弥生後期前半に属する墳丘墓の発見例が乏しかったこともあって、

四隅突出型墳丘墓の成立に関して上記のような理解もやむをえなかったと思われる。しかし近年、鳥 取県妻木晩田遺跡洞ノ原地区の墳墓群で 20 数基の四隅突出型墳丘墓が発見されたことによって、北陸 地域を含めた山陰地方の四隅突出型墳丘墓の分布傾向も大きく変わり、四隅突出型墳丘墓の起源地と 目された三次地域に遅れることなく、すでに突出部の発達した墳丘墓が他地域にもみられることが明 らかになっている。三次盆地一元論は見直されるべきであろう(藤田 2002a)。桑原隆博も島根県青 木遺跡 4 号墓を取りあげて四隅突出型墳丘墓の多元的な成立を説いている(桑原 2005)。

私は、山陰の初期四隅突出型墳丘墓の突出部は石列や貼石を用いて方形の区画墓を造った結果、墓 へ入る通路の表現が石の属性ゆえに、周溝墓の通路と違ってはっきりと記されることになり、通路か ら突出部に変わる契機になったと考えている。区画墓における通路の表現は画一的ではなく巨大化す る過程で通路そのものが変質する。

以下、石による区画と通路(突出部)の発達過程を、地域性を視野に入れながらみることにする。

なお、墳端の列石などはその性格にかかわらず、便宜的に石列と表現する。

2 貼石区画墓の道

妹尾周三は、三次地域の四隅突出型墳丘墓の成立について、日本海側に分布する「波来浜墳墓群な どの形態の貼石をもつ(傍点加筆)墓と四隅突出型墳丘墓の分布圏がほぼ重な」る(妹尾ほか 1995)

ことに注目し、「四隅突出型墳丘墓が隅の石と列石によって定義づけられるならば、初現は貼石をもつ

墳丘墓で、成立は田尻山 1 号墓、…中略…殿山 38 号墓や佐田谷 1 号墓はその過渡期」としている。突

出部の形成概念と四隅突出型墳丘墓の定義に私見との違いはあるものの、貼石の区画をもつ墓に四隅

突出型墳丘墓の起源を見出したのは卓見である。四隅突出型墳丘墓に先立つ方形貼石墓に突出部を形

成する萌芽が認められる。

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ところで、初現期の方形貼石墓の隅に貼られた石については、墳丘保護のために行われた貼石方法 との考え方がある。川原和人は、「墳丘や隅を保護するために用いられた隅部の施設が、徐々に前方に 伸びた」として、隅の擁護施設から突出部が形成されたとする(川原 1992)。妹尾や渡辺は、そうし た墳丘保護のための施設であったことを認めつつ、その後墳丘の内と外をつなぐ道として突出部に発 展するとしている(妹尾ほか 1995)。渡辺の見解は、かつて都出比呂志が説いた、方形周溝墓の陸橋 の一類型として四隅突出型墳丘墓が成立するという方形周溝墓起源論に対する対案として示されたも のである。墳丘隅の貼石方法を変えることが稜線部の保護につながるという土木工学的な効果は私に は分からないが、両氏の論理では、方形区画の隅の養生方法が偶発的な事情で聖域内への通路に転じ ることになるのだろうか。

四隅突出型墳丘墓の方形周溝墓起源を説いた都出も、基本的には同じ問題点を抱えている。都出の 解釈も含め、三氏の突出部成立過程の解釈によれば、当初は誰も立ち入ることのない「結界」をめぐ らせた区画墓であったが、のちに「結界」の一部を開けて区画の内と外をつなぐ道を設けるようにな り、それが突出部に発達したということになりそうである。

区画内に通じる道の思想は区画墓成立段階から認められる。そして弥生時代後期から前方後円墳時 代初期にかけて、各地の墳丘墓の通路施設や突出部の推移をみると、初期には低く小さく、区画も不 明確であったものが、やがて巨大化し高い盛土や溝、多重の石列などによって通路そのものが墳丘の 区画と同じように閉ざされる。いいかえれば初期には被葬者につながる現世集団に開かれた通路であ り、墓であったものが、やがて厳密に閉ざされ、特定の時期に特定の人々しか入れない場所、あるい は二度と立ち入らない場所として現世と隔絶される方向に推移している。

方形周溝墓の陸橋は、すでに弥生前期段階から認められる。溝や盛土など区画方法に違いはあって も、死者を葬った区画内に入る通路を方形区画の隅に設ける埋葬習慣の下地が山陰の東部地域にはあ った。単に区画内に足を踏み入れるだけであれば、高低差の少ない周溝墓や低墳丘の貼石墓の場合は どこからでも墳丘内に立ち入ることができる。にもかかわらず通路や陸橋を設けているのは、実質的 な機能よりも精神的な機能が重視され、通路が開放型であることや隅に設けることも方形区画墓を造 るときの条件であった。以下四隅突出型墳丘墓につながる通路状施設の具体例をみていきたい。前章 で概要を記している墳丘墓については、通路施設にかかわる部分について検討する。

山陰中西部沿岸地帯の貼石区画墓

波来浜墳墓群 貼石墳丘墓の最古例に属する波来浜墳墓群A区 2 号墳丘墓およびA区 5 号墓では

三隅を観察できる。あくまでも報告書に記載された図面と写真による判断であるが、5 号墓の北東お

よび南西隅に置かれた 1 個の石が、墳丘斜面に貼られた石の並びや置き方と明らかに異なり、隅の石

がわずかに飛び出している。A区 2 号墓でも同様な隅の石の置き方にアクセントがみられる。仁木聡

もA区 2 号墓のこの 2 カ所の「配石列」に注目し、四隅突出型墳丘墓の踏石状石列につながるとみて

いる(図 39 の 1)。波来浜遺跡の墳墓群については、調査に入る前から乱掘や自然崩壊が進んでいた

ことや、崩れやすい砂丘で検出された遺構の限界を考慮してか、これら貼石区画墓の隅の石について

は具体的な検討があまり行われていなかったように思われる。その慎重さは理解できるが、山間部の

貼石区画墓で隅の石の置き方に注意が払われているいま、波来浜遺跡のこの石の存在を再評価する必

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要があろう。

中野美保 2 号墓 中期中葉までさかのぼる中野美保遺跡 2 号墓(島根県教育委員会 2004)では方 形貼石墓の基部が確認されている。墳丘の貼石は人頭大の厚みのある石を用い、それでもそれぞれの 石の面をそろえるように並べられている。裾部の石は縁取りをしたように並んでみえる部分もある。

南西隅が残っており、仁木聡はその部分に波来浜遺跡でも認められた特異な「配石列」(図 39 の 2)

があることを指摘している(仁木 2007)。

青木 4 号墓 中期中葉の可能性がある青木 4 号墓は、南北長 19mの方形区画の西辺しか確認され ていないが、南北の二隅で広島県宗祐池西 1 号墓と相似形である踏石状石列が確認されている(98 頁 図 31 の 3)。踏石状石列先端の石の二つ分は確実に方形区画の輪郭線から外に飛び出している。山陰 海岸部にも三次盆地でみられる最古段階の踏石状石列をもつ墳丘墓が発見されたことで、四隅突出型 墳丘墓が備後で成立するとしてきた一元的論の根拠は失われた。

友田墳墓群 松江市友田遺跡B地区の 6 基の貼石を伴う長方形墳丘墓は貼石の大半が転落してい ることもあり、コーナー部の詳細をとらえがたいが、しいていえば 1 号墓と 2 号墓の間の北隅で溝の 途切れ部が認められる。これが通路部にあたる可能性もあるが、類例を重ねて判断する必要がある。

友田遺跡では西に接するA地区に後期初頭の四隅突出型墳丘墓がある。部分的にしか判明していない が、北東部隅に踏石状石列をもたない通路施設が認められる(99 頁図 32 の 1)。次にあげる洞ノ原 1 号墓とともに、初期の四隅突出型墳丘墓に属する。

妻木晩田遺跡洞ノ原墳墓群 伯耆地区では弥生中期後葉以前の墳丘墓はまだ明らかでないが、後 期初頭には、妻木晩田遺跡洞ノ原地区の墳墓群のほかに、日野川をさかのぼった尾高浅山で後期初頭 の四隅突出型墳丘墓がある。

妻木晩田遺跡洞ノ原地区墳墓群中最古の 2 号墓は、貼石の方形区画墓である。残存状態がよくない ためか区画を縁どる石列と貼石が部分的に認められる。北東辺および北西辺に石列がなかった可能性 も考えられている。東側の隅に他の貼石と規格の違う大きな石が 1 個据えられている(図 37 の 1)。1 個の石で隅を表現したのか踏石状石列の思想を表現したものか判別しがたいが、隅に何らかの意図が 込められているのであろう。

2 号墓に続く 1 号墓(図 37 の 2)は、6.5×5.4m、高さ 0.4mの四隅突出型墳丘墓である。墳丘の

東側は一辺分だけ溝状に削り込まれ、墳裾に 1~2 段貼石をめぐらせている。四隅の突出部形状は多様

で、南西および北西の二隅はずんぐりとした突出部をしており、隣りあう辺の貼石と同じ並べ方で突

出部先端まで貼石を施している。北東の突出部は先端にやや大きな石を据えてアクセントをつけてい

るようにも受けとれる。南東隅の突出部は二隅の突出部の形状にちかいが、より丁寧に造られ先端が

先細りになっている。北東側突出部は先端部の石列が不明瞭ながら、ほかの三隅の突出部に比べて細

長く造られ、突出部の中軸線沿いに平石が 3 個置かれている。突出部の先端付近に貼石の痕跡はなか

ったようであるが、貼石のない部分は落差 10 ㎝あまりの明瞭な段差が認められる。調査報告書ではそ

の先端部が開放されていたと解釈している。通路は一つという渡辺の主張が説得力をもつ典型例とい

えよう。ただ、南東隅の突出部も先端の貼石がない。突出部先端の貼石が欠落したのかあるいは段差

だけの区画であったのか不明である。ともあれ、洞ノ原 1 号墓は明確な突出部を形成する四隅突出型

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墳丘墓の初出例に属する。

また、1 号墓に続く 7 号墓、8 号墓は、貼石と外縁を区画する石列が離れ 2 段築成のようになって いる(図 37 の 5)。塊石を用いて 2 段に石を並べる手法も板状の石を用いた三次盆地地域と違ってい る。次節で触れる松本岩雄の墳丘分類ⅡA類(松本 2003)に似るが立石列というより貼石列にちかい。

洞ノ原地区の墳墓ではこのほかに小規模な墳丘墓が 11 基あり、明らかに四隅突出型の形状を保つ 墳墓が 7 基ある。その典型的な 11 号墓は 1.55×1.25m、高さ 0.2mを測る。突出部を含む四周に置き 石が施され、南隅の突出部は基部の幅約 0.3m、長さ 0.5mある。区画の縁に人頭大の石を据えると、

区画内は申し訳程度の空間しかない。それでも方形区画の隅はしっかりと石 1~2 個分張出している

(図 37 の 4)。明らかに四隅の突出を意識した配石である。墓壙が確認されているものでは、長軸 0.8 m、短軸 0・4mで、その位置からみて埋葬が終わった後に配石をしている。厳密には墳丘墓と呼ぶべ きではない(渡辺 2007)といわれる所以である。

しかし、単なる墓標石として置かれたものでないことは明らかで、突出部をもたない方形区画も同 じ場所に築かれている。小型の方形区画墓は 4 基あり、6 号墓は 2.16×1.9m、高さ 0.25mを測り、

東と南の隅には隣接する石と大きさや長軸の方向を違えた配石が行われている。これらは基本的に後 期前葉に属する。突出部の有無を時期差でととらえる解釈もある(岩田 2002)。

洗骨や極端な屈葬例がないとされるこの時期の埋葬手法から考えると、この小型の墓壙は子供の埋 葬跡と理解してよいであろう。子供一人用の区画墓を築いていること自体稀有の例と思われるが、子 供の埋葬とはいえ、四隅突出型墳丘墓への強いこだわりを示している。洞ノ原の墳墓群が単に等質的 な家族単位の墳墓の集合ではなく、子供の時から四隅突出型墳丘墓に埋葬されることが決まっていた 階層がすでに形成されていたことを示している。

この地域では引き続いて谷を挟んだ北側の仙谷丘陵の尾根筋にも四隅突出型墳丘墓を含む墳墓群 が形成されている。

因幡地区の新井三嶋谷 1 号墓の詳細については前章を参照いただきたい。通路については、次項で 触れるように貼石がない稜線部やその裾、四辺の斜面の貼石部などが想定されている。

江の川上流域の方形貼石墓

備後北部三次盆地の弥生中期の墳丘墓は、四隅突出型墳丘墓の成立地として注目されており、踏石 状石列があるものも多いので少し詳しくみたい。

宗祐池西 1・2 号墓 三次盆地地域では最古に属する中期後葉の宗祐池西 1 号墓では北東と南東 の二隅で貼石の様子が確認できる(97 頁図 30 の 3)。2 号墓は北側に拡張された痕跡をもつ貼石の長 方形墳丘墓で、拡張前の墳丘であった北東隅の貼石と踏石状石列が一部残っている。渡辺が四隅突出 型墳丘墓の出現期の例にあげている墳丘墓である。踏石状石列と目される 1 号墓北西隅の稜線部の石 は、しいていえば墳丘の貼石よりも小ぶりで平坦面の少ない塊石である。2 号墓の拡張前の隅も突出 指向にあることが認められる。

陣山墳墓群 陣山墳墓群の 5 基の貼石区画墓(98 頁図 31 の 1)はそれぞれ少しずつ異なってお

り、南の 1 号墓から順に築かれたと考えられている。1 号墓は他の墳丘墓の長軸とずれている。2 段築

成の方墳を彷彿させる外観である。内側の区画は貼石、外側の区画は立石列にちかい。南隅は踏石状

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石列と目される石列がある。外側の石列の内側におさまっている。拡張をしたと考えられる 2 号墓は 群中最大の長方形区画で二重の区画施設をもつ。内側の区画は板状の石材を用いた貼石で、形がよく 残っている南西隅は、角を切り落とすように長さの揃った石を数個丁寧に並べて、踏石状石列を形成 している。その下端の石は心もち大きい(図 37 の 6)。この石列の両側に墳丘斜面の貼石が取り付い ている。石列の先端は長方形区画から突出せず、その平面形に収まっている。外側の区画は内側の貼 石よりも小さめの板石を垂直に埋め込んで立石列にしている。いずれもコーナーが崩れて詳細を知る ことができないが、南西隅では内側の踏石状石列の延長線まで立石列が続いている。3 号墓にも貼石 区画の外側に立石列がある。この石列は区画を全周せず、墳丘東側にのみ設けられている。3 号墓は 東辺が西辺より広くなっており、西辺の両隅の踏石状石列は南北辺および東西辺の墳丘裾のラインか ら外に飛び出している。突出部を詳しくみると、墳丘端を画する斜面の貼石外縁部の石は隅の部分で わずかに反り出しているが、突出した石列先端の石を囲うことなくその基部にとりついている(図 37 の 7)。次節で触れるように、私はこの石の用い方を開放型の通路と解釈している。

4 号墓南西隅と 5 号墓北西隅の踏石状石列は、明らかに墳丘斜面の貼石と異なった石の用い方で整 然と並べられ区画の外に飛び出している(図 37 の 8)。4 号墓南西隅の石列先端から少し離れた位置に、

4 個の立石列が配されている。5 号墓南東隅にも同様な石列が認められる(図 37 の 9)。これは踏石状 石列の先端を囲う意図があるようにもみられるが、1 号墓のように 2 段区画の外側の石列の名残のよ うでもある。

1~3 号墓の墳丘貼石裾の外側の立石列は、仁木が中国地方山間部で出そろうとする墳丘貼石構造の 一つである。陣山遺跡での推移をみると、1 号墓から順に時期が下るにしたがって、外側の立石列は 石が小さくなり、3 号墓では一辺だけの小規模なものになっている。4・5 号墓ではさらにごく一部に 認められる。この立石列はしだいに失われていく施設のように見受けられる。

その一方、隅の踏石状石列は突出部を拡大させる方向に推移している。一貫しているのは、突出部 は基本的に踏石状石列だけで構成され、貼石区画の外縁の石列が通路先端をめぐらず、踏石状石列が 方形区画の外にむき出しになっていること、つまり通路が開放されていることである。

殿山 38 号墓 三次市殿山 38 号墓((財)広島県埋蔵文化財センター1987b)では、少し様子が異 なる踏石状石列と墳丘の貼石外縁の石列が認められる。13×6.8mの長方形区画墓である。南西側はか なり削られており、内部主体は 1 基確認されている。南辺で貼石とその下端(墳丘裾)を縁どる石列 が認められる。斜面の貼石より小さい板石を半分地中に埋め込むようにして立て並べている。南東隅 に踏石状石列をもつ。この石列は墳丘斜面の貼石とほぼ同じ大きさの板石を用いている。踏石状石列 の先端にはやや厚みのある板石が用いられ、四角形の角を落とすように平石の広い辺を外に向けて据 えられている(図 38 の 1)。墳丘南斜面下端の石列は踏石状石列先端の石に取り付いているが、踏石 状石列先端の石を囲いこむことなく、石の側辺に取り付いている。

佐田谷墳墓群 田尻山 1 号墓より古い後期初頭とされている庄原市佐田谷(図 38 の 2)((財)広 島県埋蔵文化財センター1987a)1 号墓は、貼石と周溝を併用した墳丘墓である。19×14mの長方形 区画で墳丘の高さ 2.1mあり、この時期では数少ない高墳丘に属する。南北と西の三辺に周溝を伴う。

確認できた三隅はわずかに突出するように削り残されている。北辺に貼石と立石列、東辺の一部に立

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石列がある。その立石列は北東部の突出部付近には確認されていない。突出部上には明確な踏石状石 列は認められない。細い丘陵尾根筋の上に造られているため、石が流失している可能性もあるが、も ともと踏石状石列がなかった可能性も考えておく必要があろう。

三次盆地地域では上記の貼石区画墓に続く墳丘墓は、弥生後期前半の広島県山県郡北広島町(旧千 代田町)歳ノ神墳墓群の四隅突出型墳丘墓である。三次盆地よりさらに西の中国地方山間部、旧国名 でいえば安芸北部に位置する。角張った短い突出部をもち、箱形石棺を内部主体にしている。四隅突 出型墳丘墓が三次盆地で成立し山陰海岸部に波及するという一元論の背景にあるのは、宗祐池西 1 号、

神山墳墓群の突出傾向にある踏石状石列の推移から歳ノ神墳墓群の突出部に連続性と先行性をみてい ることにある。

山陰における四隅突出型墳丘墓の成立は方形貼石墓と不可分の関係にある。山陰中・西部地域の貼 石区画墓の展開をみると中期中葉の山陰海岸部にまず築かれている。その後、島根県西部益田市域や 江の川上流域に築かれ、やや遅れて後期初頭には伯耆・因幡地区にも築かれている。そしてその初期 から方形区画の隅に通路を設ける意識が働いていたと認められ、中期後葉には踏石状石列が隅に設け られる。この踏石状石列の成立と展開は三次盆地の墳丘墓のオリジナリティーのように考えられてい たが、最初期の事例が出雲平野部にもあることが明らかになった。

宗祐池西 1 号墓から田尻山 1 号墓への踏石状石列の推移は、踏石状石列が区画の外に放射状に突出 する過程を示すもので、突出部の発達過程を示すものではない。踏石状石列と歳ノ神墳墓群の突出部 との違いは次節で詳述するが、歳ノ神墳墓群に先行する田尻山 1 号墓や佐田谷 1 号墓の段階には、す でに山陰海岸部の米子市妻木晩田遺跡洞ノ原地区 1 号四隅突出型墳丘墓のような明確な突出部が成立 している。江の川上流域と出雲・伯耆の沿岸部の四隅突出型墳丘墓出現段階の様相を素直にみると、

歳ノ神墳墓群と友田遺跡A区墳丘墓や洞ノ原墳墓群の墳丘墓は、突出部一つをみても異なるタイプで あることは明らかである(藤田 2002a)。江の川上流域の四隅突出型墳丘墓が山陰沿岸部の四隅突出 型墳丘墓の祖形になりそうにない。

3 もう一つの道の表現

方形貼石墓の場合でも、通路が判然としない例があることに注目しなければならない。踏石を用い ない通路で、方形周溝墓はその典型である。四隅の突出部形成について踏石状石列が注目されがちで あるが、山陰の四隅突出型墳丘墓全体をみると、むしろ踏石状石列のない突出部をもつ墳丘墓の方が 主流になっている。しかも、初期にかならず踏石状石列があって、突出部の完成とともにその石列が 失われていくわけではない。

松江市友田A区(松江市教育委員会 1983)にある後期初頭の貼石方形墳丘墓(99 頁図 32 の 1)は、

現存長 10.5mを測る。墳丘が流失している南側を除く斜面に周溝と貼石をもつ。墳丘墓築造以前にあ

った弥生中期中葉以前の木棺直葬の墓壙や木棺を伴う配石ないし積石状の墓壙群の上に貼石墳丘墓が

造られたとされる。周溝は北西隅ではつながっているものの、北東隅で途切れて陸橋部をなす。墳丘

斜面の貼石もまた溝の肩に沿う形で途切れ、陸橋部に貼石や踏石状石列の形跡はみられない。この墳

丘墓では通路であることを示すのに、踏石状石列や貼石を用いず、貼石のないスペースを設けること

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で通路であることを示している。いわば通路のネガティヴな表現形態である。

この墳丘墓について四隅突出型墳丘墓とする説と、否定的な説がある。渡辺は四隅突出型墳丘墓の 編年図に取り入れた肯定派(渡辺 1997)であり、東森市良は否定的(東森 1992)である。北西隅に通 路は設けられていないので、「四隅」に突出部があるとはいいがたいが、少なくとも一隅に明確な通路 状施設を設けている点で、私は形成期の「四隅」突出型墳丘墓とみなしている。

このネガティヴな表現による通路状施設は、弥生後期初頭の岩美町新井三嶋谷 1 号墳丘墓にも可能 性がある。墳丘の貼石は斜面に目地を通しながら貼っているさまは、葺石と呼ぶ方がふさわしい。細 い稜線部には貼石はなく、北と東隅の裾部は見方によっては削り残した突出部のようでもある。

この突出部状の削り出しについては評価が分かれ、通路施設と認めない解釈もある。各辺の斜面中 に複数個所みられる「階段状」の貼石を通路と考えている向きもあるらしい。かりに突出部状の加工 があると認めても、山陰西部の墳丘墓にみられる突出部上の置き石がないことから、四隅突出型墳丘 墓の範疇に含まれないとする見解が大勢を占めているようである。

しかし、各辺に 2 カ所以上の通路を設けるのも通路の意味合いからみて不自然であり、この地域に おける墳墓の系譜から考えて、あまりに無理な解釈である。「階段状」の貼石は作業単位を表したもの と考える方が自然である。また、稜線部における貼石の希薄さは単純に流失しただけとはいえない様 相があり、報告書に示された測量図の等高線や全景写真、現地観察における地山の削り方などからみ て、隅および稜線は墳丘内への通路として強く意識された施設と解される。新井三嶋谷 1 号墓にもネ ガティヴな表現による通路状施設があったと考える余地を残しておきたい。

さらに山陰海岸部だけでなく、中国山地を南に越えた岡山県津山市(旧鏡野町)竹田墳墓群 8 号墓

(近藤義郎 1984)でも似た例をみることができる。美作盆地の西縁にあり、中期末から後期初頭の四 隅突出型墳丘墓である。墳丘と石列の遺存状態が悪いため、十分な復元想定は困難であるが、南西の 一隅は突出部上に置き石のある可能性があるものの、北西隅は石列や貼石のない通路になる可能性が 強い。ほぼ同時期で四隅突出型墳丘墓かどうか評価が分かれている、津山市門の山 1 号墓(近藤義郎 ほか 1952)は突出部上に石のない石列が先端不明瞭な状態で検出されている。いずれも周溝はないも のの、友田A区墳丘墓例にちかい可能性がある。

佐田谷 1 号墓の突出部も先に紹介したように明瞭な踏石状石列は認められない。突出部は短く「コ」

の字型に出っ張っている。

各地の初現期の貼石区画墓には少なくとも 1 本の通路を意識した施設または工夫をしていることが

わかった。その通路にも、二つの表現がある。江の川流域や西伯耆地域の一部にみられる踏石状石列

をもって表現するものと、因幡・出雲地域の墳丘墓の一部にみられるように踏石状石列を用いないで

通路を表現しているものである。貼石の方法や、低墳丘と高墳丘、墓壙規模などにも違いがある。す

でに地域差が生まれている。共通点は、区画内の埋葬数が 1~3 基程度と比較的少ないこと、玉類など

の装飾品を伴う例も少ないことなどである。

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図 37 初期四隅突出型墳丘墓と備後の踏石状石列 1

(1~4:淀江町教育委員会 2000 5:大山町教育委員会ほか 2000 6~9:三次市教育委員会 1997)

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図 38 備後の踏石状石列 2

(1・2:広島県埋蔵文化財調査センター1987a・b 3:広島県教育委員会 1978)

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図 39 仁木による隅の貼石構造類似例(仁木 2007 より)

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第 2 節 四隅突出型墳丘墓の分類 1 踏石状石列と突出部

区画墓の通路の表現は、区画施設によって異なる。溝を掘り残して陸橋にする場合もあれば、溝を 掘った後に盛土して陸橋にした場合もありうる。とりわけ石列や貼石で墓域を画した墓の場合、隅部 の石の置き方一つでそこに特別な注意を集めることができる。溝や盛土で高低差をつけて区画や通路 を示すよりも素材の異なる石を用いた方が、より一層境界線を明確に主張できる。すなわちそこが墓 への入り口であることも強調できる。墓域への通路を敷設する思想と貼石の造墓技術が組み合わさる ことで通路は区画墓の重要な施設として意識される。石による通路の明示、突出部の形成は、石を用 いたがゆえに周溝墓の陸橋とは異なった形に進むことになる。

周溝墓の陸橋の場合、通路の終わりが判然としない。かろうじて周溝外側の肩部を互いに結んだあ たりが通路の終わりと推定される程度である。畿内以東の弥生後期末ころからみられる前方後方形周 溝墓の突出部も初現期には大きな陸橋状になっていて、その先端(通路の一端)に溝はめぐらず、開 放されたままである。やがてこの陸橋状の突出部先端は溝や高い盛土によって区切られる。通路の遮 断は被葬者と集団成員との隔絶性を示すものと考えられており、通路の閉鎖は、陸橋によって外界と つながっていたそれまでの墳丘墓から造墓思想が大きく変質したことを示している。

石で墓域を区画する場合、墳丘斜面裾やその隅に踏石状に置かれた石の通路は、本来外界と繋がっ ているはずなのに、石の終わりが通路の終わりを錯覚させることになり、外界との関係を否応なしに 意識させることになったであろう。ただし、踏石状石列の出現期から石の通路が外部と遮断する意図 をそなえていたわけではない。三次盆地の初期方形貼石墓の場合では、宗祐池西墳墓群の時期から少 なくとも田尻山 1 号墓の時期までは、踏石状石列の先端は貼石や墳裾の石列によって囲われることな く墳丘外に向かってむき出しになっている。通路は開かれたままである。

現代的な状況に置き直すと、踏石施設は舗装の有無にあたる。舗装が施されていなくても道路が途 切れたわけでなく、種々の事情によって道の外観に違いはあっても道は続く。山陰西半地域の貼石区 画墓の場合、隅部の置石の先端は道路舗装の途切れのようなものであり、あくまで通路は続いている。

つまり宗祐池西墳墓群から田尻山 1 号墓までの段階の踏石状石列は、周溝墓の陸橋と同じ造墓思想段 階の通路であり、厳密にいえば突出部といえない。

この通路が外界から閉ざされるのは、貼石あるいは石列によってその先端が囲いこまれたときから であり、通路を遮断する新しい造墓思想を獲得した段階、いいかえれば集団における首長層と一般成 員との関係が新しい局面を迎えはじめてからである。亡き首長が眠る聖なる領域と現世を結ぶ道を閉 ざした段階が突出部の完成を意味する。北部九州だけでなく、瀬戸内・畿内のどの地域の集団よりも いち早く、聖域への通路を閉鎖して一般成員との決定的な隔絶性を墓の形で明らかにした四隅突出型 墳丘墓の質的転換が、その後に山陰を除く各地に築かれた前方後方形墳丘墓や前方後円形墳丘墓の前 方部形成の発想につながったと考えられる。

肝心なことは石の有無によって道の有無をみることではなく、外界に開放された「道」なのか、外

界と遮断された「突出部」なのかを見極めることである。この入り口が四隅とも完全に閉ざされたと

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き、真の四隅突出型墳丘墓の世界が始まる。

現状でその初現例といえるのは、西伯耆地区の弥生後期初頭の四隅突出型墳丘墓である。中国山地 山間部では後述のように海岸部より 1 段階遅れる。妻木晩田遺跡洞ノ原地区 1 号墓は、北東隅は踏石 状石列らしい石が突出部の中ほどにあるだけで、その先端は区画外縁を示す貼石列もない。報告者の いう開放された突出部の可能性がある。置き石が途中で途切れていても、通路入り口が開かれたまま であれば、方形周溝墓の陸橋と意味合いは同じであり、外界とのつながりを残した墓である。とはい え、少なくとも 2 カ所の突出部は貼石列がめぐり、閉じられた通路になっている。通路施設を閉じる 過渡期の様相といえる。

蛇足ながら丹後の方形貼石墓隅の配石と踏石状石列との関係に触れておく。先述した日吉ヶ丘SZ 01 南東隅、志高遺跡 2 号墓東隅、奈具岡 1 号墓南西隅では、細長い板状の貼石が縦長に斜面に貼られ ている。山陰中西部の波来浜遺跡や中野美保遺跡の方形貼石墓などの踏石状石列につながる隅の配石 と関連づけられることがある(仁木 2007=図 39 の 3~5・7)。丹後の貼石墓は墳丘斜面の傾斜が急で、

傾斜角がやや緩やかになる稜線部といえども実際に平石の上に歩を進めることができない。この貼石 は視覚的にも実質的にも方形区画隅の稜線を際立たせる貼石である。波来浜遺跡や中野美保遺跡では、

方形区画の角をとるように横長の石が据えられ、数個の塊石を並べるばあいは 2 列に並べて方形区画 の角がなくなるように配石されている。踏石状石列が残る陣山墳墓群や殿山 38 号墓などの形成期の四 隅突出型墳丘墓でも、四角錐の稜線部を削るようにして細長い面を設けている。厳密にいえば、山陰 西部の方形貼石区画は四角錐ではなく八角錐である。注目を集めた丹後の貼石墓隅の「配石列」は全 く異なった性格のものである。

2 四隅突出型墳丘墓の定義

これまで四隅突出型墳丘墓の成立経緯の議論では、貼石の手法と墳裾部を縁どる石列や石敷きの発 達過程、あるいは四隅に設けられた施設のうち踏石状石列の推移を墳丘区画手法の展開と区別するこ となく、四隅突出型墳丘墓の突出部の発達になぞらえてきた。そこでは開放された通路から閉じられ た通路への転換が墳丘墓にもたらせた質的変化を不問にしたまま、四隅突出型墳丘墓三次盆地起源論 に結びつけられている。

三次盆地地域の踏石状石列をもつ区画墓は弥生後期初頭段階になっても、突出部といえない通路施 設としての石列であって、明確な突出部の成立はむしろ伯耆西部の方が早いことに注目したい。三次 地域の方形区画隅の踏石状石列に突出部形成の指向性があったとしても、山陰海岸部の四隅突出型墳 丘墓の突出部に直接的につながるものではない。

そこで問題になるのが四隅突出型墳丘墓の定義である。山陰を中心に 100 基ちかい事例が明らかに

なっている現段階でもその基準は曖昧である。先述したように松江市友田A地区の墳丘墓や三次盆地

の踏石状石列を伴う墳丘墓についても評価が分かれている。現存していれば山陰最大級であったかも

しれない鳥取市西桂見墳丘墓も異論がある(名越勉 1992a、松井潔 1997)。それは、貼石区画と石列

を伴った四隅の特異な形態ゆえに、墳丘の区画手法の推移と通路表現の変化を峻別することなく、貼

石手法ないし石列の有無および突出の度合いに関心が向けられてきたためであろう。

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その意味では、おもに初現期の区分を意図して、突出部の明確さにかかわらず踏石状石列があるも のを四隅突出型墳丘墓と定義する渡辺貞幸の基準はある種明快である。妻木晩田遺跡洞ノ原地区の超 小型四隅突出型墳丘墓についても「たしかに四隅突出型に配石しているが、墓壙を埋めた上に造られ た墓上施設であって厳密には墳丘墓とはいえない。これも「象徴としての四隅突出型」が成立してい たことを示して」(渡辺 2007)いるという。

しかし山陰の貼石墓の中には踏石状石列のない通路をもつ墳丘墓もある。踏石状石列をもつ中期後 葉の方形貼石墓は中国山地山間部に多いが、次章で触れるようにこの地域の後期初めの突出部を囲っ た四隅突出型墳丘墓は基本的に踏石状石列を失っている可能性が強い。後期の後半には、山陰海岸部 でも踏石状石列をもたない四隅突出型墳丘墓がむしろ主流になる。踏石状石列の有無だけでは「象徴 としての四隅突出型」の基準とすることはできない。

陣山墳墓群のように、踏石状石列が方形区画の外に飛び出してはいてもあくまでも通路であって、

墳丘区画の一部が突出しているわけではない。踏石状石列が突出部に変わる転換点は、開口していた 踏石状石列あるいは通路部が墳丘区画と同じ貼石や石列などの手法で墳丘区画内に取り込まれた段階 である。いいかえれば通路が外界と遮断されることではじめて「突出部」といえる。この閉ざされた 通路=突出部の成立こそ弥生墳丘墓の大きな転機といえよう。瀬戸内・畿内の墳丘墓事例にあてはめ ると、岡山県楯築弥生墳丘墓や奈良県纏向石塚、ホケノ山墳丘墓のように、突出部あるいは前方部が 盛土や溝ないし濠で区画され墳丘の一部を構成する段階にあたる。通路施設から突出部に変貌した段 階が四隅突出型墳丘墓の本来の完成形とみるべきであろう。他地域に先駆けてこのような突出部を築 いた四隅突出型墳丘墓の成立は現状では早く見積もって弥生後期初めの鳥取県妻木晩田遺跡洞ノ原 1 号墓であり、鳥取県尾高浅山墳丘墓に続いて、山間部では三次盆地からさらに西上流の広島県歳ノ神 墳墓群、東の海岸部では鳥取県阿弥大寺墳墓群である。

妻木晩田遺跡洞ノ原 1 号墓のように四隅すべてが閉じきっていないと想定されているものもあるか ら、通路の閉鎖は段階的に進んでいったものと思われる。通路を閉鎖する意図が明確にうかがえるも のは、突出部完成段階に入ったものとして四隅突出型墳丘墓の成立ととらえたい。とはいえ、島根県 青木 4 号墓や広島県陣山墳墓群のように山陰の方形貼石墓の多くは、四隅の突出に連なる通路施設を もつ。この段階の踏み石状石列の有無にかかわらず、四隅に通路を設けることを意図し明確な通路施 設を設けているものは、形成期の四隅突出型墳丘墓とみればよい。

3 墳丘の分類

弥生後期以後、各地に登場する完成形四隅突出型墳丘墓の形は一様でない。山陰海岸部の完成され た四隅突出型墳丘墓には三次盆地地域の四隅突出型墳丘墓にはない要素がいくつも含まれている。両 地域の四隅突出型墳丘墓の大きな違いは、墳丘の区画施設や突出部の形状、墳丘高、埋葬施設などに 認められる。山陰海岸部においても時期によって地域ごとの差、さらには同一地域内での差もうかが えるようになる。

この四隅突出型墳丘墓の分類については、墳丘区画の貼石や石列の有無が突出部の拡大化とともに

注目されてきた。とくに貼石や石列による墳端の整備(以下墳端仕様と呼ぶ)は変化に富み、出雲地

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域では石列と石列の間に敷石を施すものも現れる。松本岩雄は墳丘規模の分類に加え、この区画手法 を貼石と立石列、敷石列の要素に分けて分類し、時期ごとの分布および墳丘規模による墳端仕様の違 いを明らかにした(松本 2003=図 40)。

松本はまず、貼石だけで区画したⅠ類と、貼石に加え貼石裾を立石列で区画したⅡ類に大別し、変 化の多いⅡ類を立石列および敷石のありかたで三細分している。

墳丘斜面に貼石だけを用いたⅠ類は、中期末の広島県宗祐池西 1 号墓、陣山 4・5 号墓、後期初め の鳥取県洞ノ原 1 号墓ほかのあと、終末期まで続き、備後・出雲・伯耆・隠岐に分布する。

ⅡA類は、墳丘斜面の貼石裾に立石列を一列もつもので立石列は貼石裾から少し距離をおいて配置 されるものもある。中期末の広島県陣山 1~3 号墓、殿山 38 号墓に始まり、島根県順庵原 1 号墓、鳥 取県阿弥大寺墳墓群のあと終末期まで続く。備後・石見・出雲・伯耆に分布する。

ⅡB類は墳丘斜面の貼石下端に敷石をし、敷石の外縁に立石列を設けたもので、後期初めの広島県 佐田谷 1 号墓、鳥取県尾高浅山 1 号墓に始まり終末期まで続く。備後・出雲・伯耆に分布する。

ⅡC類は墳丘斜面の貼石下端に敷石と立石列を二重に設けたもので、後期後半の西谷 2~4 号墓、

終末期の宮山 4 号など大型の四隅突出型墳丘墓に限られる。出雲と因幡に分布するが、西谷 4 号墓よ り古い因幡の西桂見墳丘墓は四隅突出型墳丘墓に含めない意見もある。

松本の分類は、Ⅰ類に始まり時期が下るとともに順次ⅡC類まで墳端仕様をより重厚にした四隅突 出型墳丘墓が登場したこと、新たに加わる墳端仕様はより大きな規格の四隅突出型墳丘墓に採用され、

ⅡC類は後期後半の大型四隅突出型墳丘墓に限定されていくことを明らかにし、出雲平野と安来平野 では弥生後期後半から四隅突出型墳丘墓そのものに階層制が顕在化していることを指摘している。ま た、山陰の弥生墳丘墓の形成が地域単位で差があることから、松井潔の指摘(松井 1999)に同調して

「基本的に各地の主体的な選択のもとに弥生墳丘墓が築造された」(松本 2003 166~167 頁)とみて いる。

仁木聡は松本の分類を受けてⅡA類をさらに 3 分類して貼石裾に立石列をもつA-1 類、貼石裾から 少し距離をおいて立石列をもつA-2 類、その立石列が貼石より著しく小さいA-3 類に細分し、A-1 類は山陰海岸部に分布し、A-2 類は山陰海岸部になく三次盆地周辺で確認され、A-3 類は江の川流域 に分布する。ⅡB類も後期前葉以降鳥取県尾高浅山 1 号墓で部分的にみられるが、三次盆地を中心と し、後期後半以降はⅡC類とともに出雲のみに分布するという(仁木 2007 26~27 頁)。仁木の細分 類は、海岸部の四隅突出型墳丘墓に先行するⅡA-2・3 類は中国山間部でより古い事例が認められる というもので、氏の三次盆地起源説の根拠になっている。

さて松本の分類は、墳丘規模と墳丘仕様の重厚さが関連し、四隅突出型墳丘墓そのものにも階層制

が認められることを明らかにした点、弥生墳丘墓の築造に山陰中・西部の隣接した地域社会の中でも

地域ごとの主体性があることを指摘したことなど傾聴すべき点が多い。ただ、地域差がある四隅突出

型墳丘墓の系譜と推移に触れられていない。出雲の東西両平野(出雲平野と安来平野)に二つの大き

な政治勢力の形成を認めるのであれば、両地域の四隅突出型墳丘墓の経緯とその違いをもっと鮮明に

する必要があるのではなかろうか。ともすれば、西谷 3 号墓の大きな四隅突出型墳丘墓の築造時期に

目を奪われてしまうが、山陰の弥生墳丘墓の重要な画期はいち早い突出部の成立にある。

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4 突出部の分類

四隅突出型墳丘墓の特徴は貼石と立石列もさることながら四隅の突出である。そして弥生墳丘墓の 歴史の上で大きな画期は、前章で触れたように貼石や立石列による区画施設の変化ではなく、開かれ た通路が精神的にもみかけ上でも閉じられた通路=突出部への変容であり、弥生後期終末から前方後 円墳時代初頭の各地の墳丘墓にその変化が認められる。

通路から踏石状石列への変化について、墳丘区画の石列の出現を四隅突出型墳丘墓の指標にした妹 尾周三は、貼石墓出現期の波来浜A区 2 号墓から志高 2 号墓、宗祐池西墳墓群を経て、石列を伴い始 める殿山 38 号墓、田尻山 1 号墓までの推移を示した(妹尾ほか 1995)。その後の変遷については、妹 尾は三次地域の四隅突出型墳丘墓が埋葬の方法で出雲地域と異なった展開をするという。踏石状石列 を四隅突出型墳丘墓の基準にしている渡辺貞幸は、確実な踏石状石列の始まる陣山 2・3 号墓から、殿 山 38 号墓、田尻山 1 号墓を経て、尾高浅山 1 号墓、順庵原 1 号墓、歳ノ神 3・4 号墓、阿弥大寺 1~3 号墓、西谷 3 号墓の順にその変化を図示(渡辺 1997)し、その後、尾高浅山 1 号墓と順庵原 1 号墓と の間に妻木晩田洞ノ原 1 号墓をおいている。その後、順庵原 1 号墓を境にして、突出部上に踏石状石 列があるものとないものに分化して、地域性が成立することを指摘している(渡辺 2000)。

四隅突出型墳丘墓の定義や通路の評価には違いがあるようであるが、突出部の変遷過程は両氏とも 宗祐池西墳墓群から田尻山 1 号墓までは基本的に一致している。ここに引用した論旨は、両氏とも四 隅突出型墳丘墓が三次盆地で成立し山陰海岸に波及したという一元論の解釈をしていた当時のもので ある。出雲市青木 4 号墓の発見以後、両氏とも四隅突出型墳丘墓の起源について新見解を表明してい るので、これらの変遷案も見直されているのかもしれないが、渡辺がかつて示した突出部の変遷図式 は、山陰全体の突出部を一体化して年代序列したもので形式的な発展段階の分類ではない。山陰全体 の形成期四隅突出型墳丘墓や完成期四隅突出型墳丘墓の突出部の様相を一系的に並べてしまうと、各 地域の個性と系譜がみえなくなる。

仁木聡が進めた貼石・立石列分類をもとにした「配石構造の伝播」案も同じような限界をかかえて いる。方形区画部分の貼石分類は成功しているが、踏石状石列が「突出部」に進化した段階の「突出 部」形態は、中国山間部と山陰沿岸地域で明らかに違っている。仁木は突出部の変遷を図(仁木 2007 27 頁)に示して、波来浜→陣山→殿山・田尻山→歳ノ神 3 号墓・順庵原への推移と中野美保→青木 4 号→洞ノ原 1 号への推移を示し、歳ノ神 3 号・洞ノ原 1 号から阿弥大寺 1 号の成立を考えている。し かし通路を埋葬領域と同じ貼石や立石列などで囲う「観念」の違いや突出部の形態差や系統差(図 44 参照)を展望できていないように思う。

私はかつて、通路上の踏石状石列の有無(通路施設)、通路=突出部の開放性と閉鎖性(通路思想)、

突出部先端の形状(先端形態)、突出部の長短区分(通路規模)を目安に突出部の分類と変遷を示し、

四隅突出型墳丘墓の多元的系譜と地域色を明らかにしようと試みた(藤田 2002a)。その分類の骨子 は変わっていなが、十分に論理的整理ができないまま発表した。分類基準の序列と通路思想について さらなる区分が必要と考え、その点を補足して分類基準を示す(図 41)。

先に示した分類の表記順は下記と違って第一に通路施設、第二に通路思想を据えていた。墳丘墓の

分類理念としては、通路思想の方が墳丘墓の隔絶性を示す大分類にふさわしいと考えをあらためる。

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通路思想は開放型と閉鎖型に大別していたが、墳丘区画施設との関係があいまいであったことを反省 し、Ⅰ類に亜式を加える。これによってかつて示したⅠ・Ⅱ類の区分を一部変更している。

通路思想

Ⅰ 型 突出部が開放型のもの。突出部先端が墳丘裾を区画した石や盛土、溝などと同じ手法 で明瞭に区画されていないもの。田尻山 1 号墓までの「突出部」は基本的に開放型であ る。前節で記したように、単なる置き石の終点は通路の終点とはいえない。

Ⅱ亜型 貼石や石列など墳丘区画と同じ施設が突出部先端まで完全にめぐっていないものの、

明らかに突出部を形成しているもの。歳ノ神 3・4 号墓、順庵原 1 号墓は突出部の基部付 近で墳端区画の立石列が吸収され、突出部は墳端区画と別の石列あるいは貼石で囲われ ている。先端部が完全に閉鎖されていなくても、通路を閉じる意図が読みとれる一群で ある。

Ⅱ 型 突出部が閉鎖型のもの。突出部先端が墳丘裾を区画した石や盛土、溝などと同じ手法 で明瞭に区画されているもの。

通路施設

X 型 突出部上に置き石があるもの。

Y 型 突出部上に置き石がないもの。

先端形態

A 類 突出部先端が角張って「コ」の字型になるもの。

B 類 突出部が先細りないし先端が円みを帯びたもの。

通路規模

1 類 基部幅:突出長=1:1.3~1.4 以下のもの。歳ノ神 3・4 号墓がこれに属する。

2 類 基部幅:突出長=1:1.4 以上のもの。順庵原 1 号墓を典型とする。

突出部の分類を以上のような要素で行う。先の論考で示した一部の訂正も合わせて以下山陰各地の 四隅突出型墳丘墓の地域色と系譜を検討したい。ちなみに前節でとりあげた成立期四隅突出型墳丘墓 の通路形態を分類すると、青木 4 号墓、宗祐池西墳丘墓、陣山 2 号墓、陣山 3 号墓、殿山 38 号、田尻 山 1 号墓はすべてⅠX型で友田A区墳丘墓、新井三嶋谷 1 号はⅠY型である。わずかに突出傾向にあ る佐田谷 1 号墓はⅠY型A1 類である。

海岸部の妻木晩田遺跡洞ノ原 1 号墓はⅠⅩ型B2 類とⅡ亜YもしくはⅡY型B1 類が同居している。

踏石状石列が認められる 6 号墓はⅡⅩ型B2 類、8 号墓はⅡY型B2 類である。米子市(旧岸本町)尾 高浅山 1 号墓(下高 1994)は開放型か閉鎖型か判断がつかないⅡ亜Ⅹ(?)型のB1 類である。先端 部形状は不明であるが、短い突出部が想定されている。

これに続く後期前半から中葉の四隅突出型墳丘墓も、四隅突出型墳丘墓の発生地と目されてきた江

の川上流域よりも鳥取県に多い。妻木晩田遺跡洞ノ原地区の墳丘墓以外でも洞ノ原の北にある仙谷地

区の丘陵上にも弥生後期前葉~中葉の 7 基の墳丘墓が知られている(大山町教育委員会 2000)。現状

で四隅突出型墳丘墓と考えられているのは 1 号墓と 2 号墓であるが、ほかにも四隅突出型墳丘墓が含

まれている可能性が高い。2 号墓(図 42 の 2)は南北辺と東辺に貼石を伴い、貼石のない西辺には溝

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が掘られている。7.4×7.1m、高さ約 0.5mの低墳丘墓で、南東隅は明瞭な貼石による突出部が残っ ている。突出部基部の幅約 1m、長さ約 1.5mあり、突出部南側辺は列状に石が並び、突出部上は 2~

3 個の踏石状石列が認められる。墳丘内には木棺墓を含む 3 基の墓壙がある。Ⅱ?X型B?2 類の突出 部である。

2 号墓の北側に接する 3 号墓は、東辺と南辺のみに貼石を伴う方形区画の墳丘墓で、12.6×9.7m、

高さ約 0.6mを測る。東側と南側の貼石は南東隅近くでわずかに反り出すように湾曲しているが、隅 部が後世に大きく乱されているため、突出部を形成していたのかどうか不明である。また、東側の貼 石は墳丘内にある 2 基の墓壙の上に設けられている。墳丘内には 22 基の墓壙があり、若干の切り合い があるものの、石による墳丘区画線に平行または直交させて整然と並んでいる。この墳丘墓は四隅突 出型墳丘墓とされていないが、ⅠY型と目される突出部状の張出しが 1 カ所ある。

このほか、日野川水系では 4 基の木棺墓がある米子市日下弥生 1 号墓(岩田 1997)はⅡ亜Y型であ る。先端部形状と通路規模は判断を保留する。

伯耆東部、鳥取県中部倉吉地区には後期前半から中葉の宮内 1・2 号墓、阿弥大寺 1~3 号墓などが 知られている。ほかに、四隅突出型墳丘墓の可能性が指摘されている倉吉市柴栗墳丘墓や周溝をもつ 方形区画墓が数例調査されている。

倉吉市阿弥大寺墳墓群(真田廣幸・森下哲哉 1981)は、弥生後期中葉に属する 3 基の四隅突出型墳 丘墓からなり、立石列と貼石によって墳丘を区画している(図 42 の 1)。全体に削平が著しく、北半 が失われている。1 号墓は 1 辺 13.6m、現存高 1m弱。貼石の傾斜等からみて高墳丘にはならない。

突出部は細長く、基部の幅約 1m、長さ 3.5mを測る。突出部の先端まで立石列をめぐらせ、その頂部 に 1 列の置き石が 12 個以上並べられている。墳頂部に少なくとも 2 基の埋葬があり、中央の埋葬は木 棺を伴う 2 段掘りの大型の墓壙をもち、長軸 3.7mを測る。墳丘区画の立石列が突出部を囲いこみ、

突出部の上には明瞭な踏石状石列が配されている。ⅡX型B2 類の突出部である。

2 号墓・3 号墓は突出部を含め、形状は 1 号墓と相似形であるが、1 号墓よりも小さく東西長 6m強、

現高 0.4m程である。いずれもⅡX型B2 類の突出部をもつ。

湯梨浜町宮内墳丘墓群(鳥取県教育文化財団 1996)では、3 基の溝による区画をもつ墓と明瞭な区 画施設を伴わない墓壙が約 100 基みつかっている。1・2 号墓は四隅突出型墳丘墓、3 号墓は後期後半 の方形周溝墓と考えられている。貼石がなければ 3 号方形周溝墓との区別がむずかしい。1 号墓は上 部と西半が削平されていて、全体形がはっきりしないが、南北長約 17mを測る低墳丘墓である。南北 辺と東辺に周溝が残り、その隅は陸橋状に途切れている。区画内には 6 基の埋葬があり、北側周溝底 とその北側にも 2・3 基の埋葬施設が認められる。墳丘中央にある木棺痕跡を伴う 2 段掘りの第 1 主体 の墓壙は、長軸 4.9m以上あり、鉄剣 1 点と管玉 23 点が出土している。第 1 主体の北にある第 2 主体 からは朝鮮半島製と考えられている長さ 90 ㎝以上の鉄刀が出土し、第 3 主体からは管玉が 13 点出土 している。Ⅱ亜Y型の可能性が強い。宮内 3 号墓は弥生後期後葉に属する。

因幡地域の鳥取市西桂見四隅突出型墳丘墓(鳥取市教育委員会 1981)は湖山池をのぞむ丘陵上にあ

り、壷付の特異な器台形土器が発見されたことなどから注目を集めた(図 44 の 1)。墳丘規模は 40m

以上、高さ約 6mの弥生後期中ごろでは最大規模の四隅突出型墳丘墓である。大規模な土取り工事の

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狭間で発掘調査が行われたため、主体部はおろか墳丘の大半の様相が不明である。大型の墳丘をもつ ものでは最も古い。墳丘裾に貼石と石列が認められているが詳細は明らかでない。等高線図から読む 限りでは、突出部はⅡY型B2 類と考えられる。この墳丘墓の時期については弥生後期前半とする見 解(松井 1999)と後期後半に位置づける見解がある(名越 1992)。渡辺はその編年表の中で西谷 3 号 墓にちかい時期に並べて相対的な時期を示している。出土土器を総合的に判断すると弥生後期中葉段 階、西谷 3 号墓より 1 段階古い時期に位置づけるのが穏当であろう。また先述したように、四隅突出 型墳丘墓とするかどうかも意見が分かれているが、これはまぎれもなく四隅突出型墳丘墓である。つ まり、山陰で最初の大型四隅突出型墳丘墓である。

これに対し三次地域では、突起部ないし未発達の突出部をもつ墳丘墓が弥生後期初頭段階までは比 較的多く知られているが、突出部の発達期である弥生後期前葉から中葉の墳丘墓例は少ない。佐田谷 1 号墓に続く歳ノ神墳墓群(図 43 の 3)((財)広島県埋蔵文化財センター1986)は、三次盆地を流れる 江の川のさらに西方上流域にある。弥生後期前半に属する 2 基の四隅突出型墳丘墓(3・4 号墓)があ り、3 号墓で 3 基以上、4 号墓で 8 基以上の箱形石棺を主とする内部主体がある。

3・4 号墓の貼石は墳丘下端付近の傾斜が裾広がりになり敷石状に貼石されているような部分がある。

松本は敷石を伴うA3 類に含めている。この立石列と貼石は突出部の基部で突出部を囲う石列に吸収 される。突出部をめぐる石列は方形区画部の石列より大きな石が用いられている。4 号墓北東隅の突 出部はひときわ大きな平石一枚を立てて先端を仕切っている。突出部は墳丘と同じ区画施設で囲われ ていないが、通路を閉鎖しようという意図が読みとれる。3・4 号墓に残るそれぞれ二つの突出部上に は、明確な踏石状石列の形跡がみられない。突出部分類Ⅱ亜Y型A1 類である。

四隅突出型墳丘墓発見第 1 号の邑智郡邑南町順庵原 1 号墓(図 44 の 2)(門脇俊 1971)は江の川流 域の四隅突出型墳丘墓では唯一細長い突出部をもつ。長軸 11m弱、短軸 8m程の低墳丘の貼石と立石 列を伴う。墳丘を区画する立石列は小石を用い、突出部の基部近くにその立石列が取り付いて突出部 側縁の石列に吸収される。突出部を縁どる石列は墳丘区画の立石よりもはるかに大きな石を用いてい る。残りのよい東側突出部をみると、突出部外縁の石列と踏石状石列はその配置方法から明らかに区 別されている。突出部先端を閉鎖する意志が認められるが、突出部そのものは墳丘区画と同じ石列で 囲われていない。突出部形状はⅡ亜X型A2 類である。

ほかに、三次市岩脇 1・2 号墓(図 44 の 4)は時期不明ながらⅡY型A1 類がある。三次地域では この後に矢谷墳丘墓が知られている。ⅡY型A1 類である。箱形石棺を内部主体としている。

以上、山陰における突出部発達期の四隅突出型墳丘墓を概観すると、すでにこの時期から地域ごと に一定の共通性をもって、明瞭な地域差が生まれていたことがうかがえる(図 44)。

四隅突出型墳丘墓の発生地と考えられてきた備後三次地域には、弥生後期初頭の佐田谷 1 号墓を加

えても、完成型(閉鎖型)の突出部をもつ墳丘墓はなく、踏石状石列のないⅡ亜Y型A1 類の突出部

をもつ安芸北部の歳ノ神 3・4 号墓はやや時期が下る。三次盆地の下流にあるほぼ同時期の順庵原 1

号墓は長い突出部上に踏石状石列をもつⅡ亜X型A2 類である。江の川中・上流域ではこの時期ころか

ら閉鎖型を志向する突出部が形成され始めたと思われるが、鳥取県海岸部よりも遅れて現れる。しか

も北広島町を含め三次盆地地域で明らかになっている四隅突出型墳丘墓の突出部の先端形状はいずれ

図 37  初期四隅突出型墳丘墓と備後の踏石状石列 1
図 38  備後の踏石状石列 2
図 39  仁木による隅の貼石構造類似例(仁木 2007 より)
図 42  後期前半から中葉の四隅突出型墳丘墓 1(1:田中ほか 1992・仁木 2007  2:大山町ほか 2000)
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参照

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