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弥生墳丘墓の系譜

ドキュメント内 山陰弥生墳丘墓の研究 (ページ 108-123)

列島の弥生文化の諸要素に朝鮮半島の稲作文化および金属器文化が深く関与しているように、その 時期に始まる新たな埋葬形態についても朝鮮半島の埋葬習俗が大きく関わっているであろう。実際に 弥生時代前期段階に、北部九州の支石墓や木棺墓、本州西端部山口県土井ヶ浜遺跡の石棺墓、島根県 堀部第 1 遺跡の配石墓、瀬戸内・畿内地域の周溝墓など、縄文時代にはなかった埋葬形態が各地に認 められる。なかでも九州島の一角にのみ分布する支石墓は朝鮮半島の南部地域に由来する墓制であり、

その支石墓の波及と表裏一体となって木棺墓や石棺墓の埋葬形態も伝わってきたと考えられている。

しかし、九州島の支石墓や木棺墓、石棺墓の系譜だけでなく、山陰にみられる配石墓や瀬戸内の周溝 墓の系譜についても、朝鮮半島の支石墓や最近明らかになりつつある区画墓を視野に入れておく必要 がある。そこで、まず、形態的に列島の弥生時代の墓に関わる可能性のあるものを中心に、最近の朝 鮮半島の区画施設を伴う墳墓例を概観する(註 1)。

第 1 節 朝鮮半島の区画墓(石敷き区画の支石墓と周溝墓)

朝鮮半島南部の支石墓は支石の用い方や上石の用い方、墓室が設けられる位置や構造などをもとに、

さまざまな分類法が用いられている。最大公約数的に分けると北方式(卓子式)、南方式(碁盤式)、

蓋石式に分類され、李榮文はこれに地域性を考慮した圍石式(済州式)を加え、石室の位置と構造に よる地上形と地下形に区分している(李榮文 2002)。河仁秀は南方式と蓋石式の区分方法を強調し蓋 石式の埋葬施設の構築面を基準に地上式と地下式に区分する一方、圍石式については地上形蓋石式支 石墓に大分類している(河仁秀 1994)。千葉基次は南方式支石墓と蓋石支石墓を撐石墓と呼び、上石 を載せる支石の有無あるいは明確な支石の有無で二大別している(千葉 2002)。

これら蓋石式支石墓(南方式支石墓)あるいは撐石墓とよばれるもののなかに、しばしば数基以上 群集し、墓壙の周りに石を敷きならべて墓壙面積よりはるかに大きな長方形や円形の区画をもつ独特 の支石墓がある。それらは積石墓あるいは敷石墓と呼ばれている。李榮文分類の蓋石式Ⅱ類、河仁秀 分類の蓋石式地下形、千葉の撐石墓Ⅰ型のなかに石敷の区画施設をもつものが多い。最近の調査で、

敷石区画施設をもつ「支石墓」以外に、細長い周溝墓があることも明らかになっている。

1 敷石区画墓の事例

支石墓や墓壙上およびその周囲に配石を用いる埋葬形態は、韓半島南部地域に普遍的にみられる。

韓国慶尚南道苧浦里E地区の支石墓群(図 34 の 1)や全羅南道麗川月内洞遺跡、同積良洞遺跡、泗川 所谷里遺跡などがあり、墓壙の周囲全体に石敷きをした円形や方形の区画墓がみられる。昌原市徳川 里遺跡では基壇風に石を積んだ大きな長方形区画をもつ支石墓があり、最近では慶尚南道の馬山市鎮 東遺跡や晋州市平居洞遺跡で新たな事例が確認されている。

苧浦里E地区の支石墓(鄭澄元 1987)は、9 基の支石墓と石槨墓が近接して築かれており、そのう ち明確に方形区画を残す支石墓は 5 基あり、もっともよく残っている 5 号支石墓は長辺 8.9m、短辺

5.5mの石敷区画をもっている。区画の外縁にやや大きな石を平積みに据え、中央の石槨のまわりが小 高くなっており、全面に小ぶりの石を敷き詰めている。埋葬施設は長方形の竪穴式石槨(河仁秀は類 似石槨に分類)で、上石で直接石槨の蓋をしている。石槨内から丹塗り磨研土器と磨製石剣、磨製石 鏃、石斧類が出土している。似た構造をもつ敷石区画の支石墓は居昌山浦遺跡でも 20 基余認められる。

山浦遺跡の支石墓は長方形区画の長軸をそろえるようにして 3 列に並んでおり、苧浦里遺跡も支石墓 の数が少ないものの列状に並んでいる。麗川積良洞遺跡の支石墓群も敷石区画をもつ支石墓が長軸を そろえるようにならんでいる。

月内洞遺跡(国立光州博物館ほか 1992)は敷石支石墓が密集しているため個々の区画が不鮮明なと ころがあるが、長方形区画に混じって円弧をなす石列や楕円形の石敷き区画をもつものが認められる。

埋葬施設は石棺または石槨で、一区画で 1 基の埋葬施設をもつものと、4 号墓のように 2.5×2.5mの 区画内に 3 基の埋葬施設をもつものもある。円(楕円)形区画をもつ 1 号墓はこの群の中では大きな 区画スペースをもち、長径が 5mちかくあり埋葬施設は 1 基である。一区画に複数の埋葬施設をもつ 例は同じ麗川市平呂洞支石墓群にもみられる。

支石墓が群集し、しばしば列状配置をとっていることはこれまでにも指摘されているが、長方形区 画をもつ支石墓の並びをみると、その配列が意図的であることが読みとれる。甲元真之は月内洞や平 呂洞などの支石墓群に一区画内の埋葬主体数が異なるものや副葬品の違い、区画をもつ支石墓の周り に区画をもたない支石墓があること、さらに積良洞支石墓群の 4 群構成と単独墓のありかたなどから、

支石墓社会の後半段階に一つの墓地のなかに一人の盟主の墓と複数の下部集団の墓の違いが顕在化す ると指摘している(甲元 1999)。

昌原市徳川里遺跡(李相吉 1993、武末訳 1994)では支石墓 3 基と石棺(槨)墓 12 基、石蓋土壙墓 5 基がみつかっている。分布の中央にある 1 号支石墓は、西側と北側に板石を 5~7 段ほど垂直に積み 上げた区画施設(報告では石築と呼んでいる)をもつ(図 34 の 2)。現存する西辺の長さ 56.2m、北 辺の長さ 17.5mの大きな区画で、その南端と東端は人為的に失われている。石築区画の南端付近に支 石墓があることから、本来の区画はさらに南に延びていたと考えられるが、地形環境から東側と南側 には石築がなかった可能性も考えられている。区画の北西隅はひときわ大きな石が据えられ、その南 側に 3.6mほどは石築がない部分があり、区画内に通じる入口と考えられている。区画内の上面に敷 石があったかどうか不明である。区画の外側は周溝状に低くなっており、石築に沿う幅 1.5mほどは 石敷きのテラスになっている。区画入口周辺とこのテラス上で無文土器が出土している。

区画内の支石墓の埋葬施設は 8×6m、深さ 4.5mの 3 段掘りの大きな墓壙を掘り、竪穴式石槨を設 けている。石槨の石蓋の上にさらに割り石を 1m以上積みあげて板石を敷き並べ、さらに墓壙上面ま で土を充填した後、その上に支石と上石を据えている。従来の支石墓と比べてひときわ重厚な埋葬施 設をそなえている。石槨内から磨製石鏃 22 点、管玉 6 点が出土している。2 号支石墓から丹塗磨研土 器、12 号石棺墓から直口の甕(鉢)、16 号墓からは銅剣と磨製石剣、7 号・11 号から磨製石剣が出土 している。

蔚山校洞里水南遺跡((財)蔚山文化財研究院 2007c)は全体的に削平が進み、石槨の周辺も削ら れていたが、東西長約 9m、南北長さ 4.9mの長方形の石敷きの区画が確認されている。石槨は長方形

区画の西寄りにあり、内法長 1.7m、幅 0.7mで扁平な河原石を北壁は平積みし、残り 3 面の壁は平石 を立て並べている。床面には小礫が敷かれ、赤色磨研の壷が出土している。この区画墓の西側には石 槨の長軸と一致する方向で、幅 3.2mほどの通路状の石敷き部が直線的に 20mほど続いている。この 通路状の部分について、報告では墓を造る際の作業通路の見方を残しつつも、地層形成の観点からも ともとの地形条件にも配慮して慎重な解釈をしている。

鎮東遺跡(慶南発展研究院歴史文化センター2005)では石敷きの長方形と円形の区画をもつ支石墓 や石棺墓が集中している。長辺 25m、短辺 11.5mの大きな長方形区画墓(E群 1 号墓=図 33 の 2)

は、区画の中心から西に寄った位置に巨石があり、大邱辰泉洞遺跡の立石(図 34 の 4)との関連が注 目されている。円形区画墓(A群 1 号墓=図 33 の 1)は、直径約 20m、現存する高さ 0.9mで積石塚 と報じられている。区画外縁基部に据えられた石は他の貼石(葺石)と置き方が違い立石列のように 並び、そこから扁平な石を墳丘の傾斜面に沿って貼石をしている。西南側を中心に部分的に周溝がめ ぐり、周溝の南側に陸橋状の高まりが設けられている。現地説明会資料ではこの陸橋部を出入口、ま たは祭壇と表現している。区画内の石棺墓から磨製石剣、周溝から赤色磨研土器が出土している。時 期の詳細な検討は正報告書を待つことにしたい。

円形区画をもつ支石墓例をもう少しみておくと、泗川所谷里遺跡の長方形区画の支石墓に接して築 かれている 2 基は区画の外縁に立石列をもち、石槨との間は平石を敷き詰めている(図 33 の 3)。務 安のソンドリ支石墓では平石で外縁を丁寧に縁取り、平石を立てて組んだ幅広の石槨(石棺)との間 に平石を敷き詰めている。また、長興のマチョン支石墓では石槨の外縁よりやや大きい範囲に石列を 円形にめぐらせているが、石列と石槨の間には石を敷いていない。

2 長方形周溝墓の事例

積石あるいは敷石による区画墓以外に、最近は溝で区画する周溝墓も確認されている。江原道洪 川・哲亭遺跡(江原文化財研究所 2007)は漢江の上流にある河岸段丘上の遺跡で、9 基の「周溝石棺 墓」が確認されている。長方形区画の周溝を基本とし大小様々の規模がある。小さい周溝墓で長辺 6 m、短辺 5m、細長いものでは長辺 43m、短辺 4m(A5-2 号墓)を最長に、長さ 20mを超える周溝 区画が 5 基ある。周溝による区画は基本的に途切れることなく全周している。周溝内の埋葬施設は小 さいものでは 1 基を基本としているようであるが、A5-2 号墓は 2 基の埋葬施設が確認されており、

位置関係から 3 基あった可能性も考えられている(図 35 の 1)。埋葬数にかかわらず、埋葬施設の長 軸は周溝の長軸と並行している。石棺は、人頭大の河原石を組み合わせ石敷きの床面をもつもので、

A4-1 号墓から玉が、A5-2 号墓の 2 基の石棺から磨製石鏃が出土している。この遺跡では同じ調査地 内から区画施設を伴わない支石墓も確認されており、周溝墓の石棺の 2 倍もある丁寧に石積みされた 石棺(石槨)をもち、磨製石鏃が床面近くで出土している。

哲亭遺跡A5-2 号墳のような細長い方形周溝区画をもつ墓は、同じく江原道春川泉田里遺跡(沈載 淵・金権中・李枝賢 2004)をはじめ韓国南海岸の泗川梨琴洞遺跡(慶南考古学研究所 2003)や韓国東 南部の蔚山市域で数例知られている。泉田里遺跡では正方形にちかいものを含め 15 基ほどが確認され ている。そのうち細長い周溝墓は 9 基あり、1 基を除いて長軸が東西に向いている(図 35 の 2)。長軸

ドキュメント内 山陰弥生墳丘墓の研究 (ページ 108-123)

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