日韓古代火葬墓の比較研究
一日本古代火葬墓 の系譜 をめ ぐって 一
小 田 裕 樹
I.は
じめ にⅡ
.研
究 史 と問題 の所 在Ⅲ
.分
析 の 方 法 と資料Ⅳ
.分
析 ―百 済 ・ 新 羅 火 葬 墓 の特 質 一V.考
察 一 日本 古 代 火 葬 墓 の系 譜 ―Ⅵ 。 ま とめ
要
旨
本稿では、 日本の古代火葬墓の系譜 を明 らかにすることを目的に、韓半島の火葬墓 につ いて 墓構造・分布・ 時期 の点か ら様相 を整理 し、 日本 との比較 をお こなった。百済では、骨蔵器 に用 い ら れる器種が少 ない点、羅城 内に火葬墓が分布す る点が特徴 であ るが、従来考 え られて きた よ りも火葬 は盛行 していなかった とみ られる。新羅 では、新羅王京周辺 に特殊 な墓構造 をもつ火葬墓が分布す る 点が特徴 であ り、地方では工京 と異 なる地域性 がみ られ ることを明 らかに した。 日本の火葬墓 との関 わ りについて、百済の火葬墓 は時期的な連続性 に問題があ り、積極 的な評価 はで きない。一方、 日本 と新羅 との間では、支配者層の火葬墓 の墓構 造 を比較す ると、両 国共 に独 自の骨蔵器・埋納施 設 を採 用 してお り、直接 的な関係 は見いだ しがたい。 しか し、両者の様相 には、「仏教思想」 と「律令 制度」
が共通の背景 として存在 していた ことを見 いだ し、その淵源 は中国 (唐)に求め られ る可能性 が高い と考 えた。 日本の古代 の火葬 は、律令 国家の成立期 に中国か らの先進文化の一つ として律令制 度・仏 教 とともに受容 し、律令 国家 にふ さわ しい葬法 とい う位置づ けで支配者層 に採用 された もの と考 え ら
'と
る。
キーワー ド
火葬墓
墓構造
都城 の葬地
地域性
律令国家
余良文化財研究所
都城発掘調査部
I。 は じめ に
日本古代の火葬は F続日本紀』文武
4年
(700)の道昭の火葬記事 を初現 とし、その後、持統・文武天皇 をは じめ とする天皇 。貴族が火葬 され、奈良〜平安時代 を中心に盛行する。
これは、現在 までの発掘調査の成果をみても看取で きる。
この 日本古代 の火葬墓 について、黒崎直は「天皇喪葬 を範 として官人・貴族層が追随 し た」墓制であると位置づけた1。 近年の研究では、火葬導入の意義について、律令国家成立 期 に新 たな墓制 を模索 した支配者層の政治的意図 と関連 して評価 されている2。
しか し、 日本古代の支配者層がなぜ火葬 を採用 したのか、についての説明は従来十分 に お こなわれていない。 日本における火葬導入の歴史的意義 を明 らかにすることは、律令国 家の墓市1に対す る位置付 けや国家理念 など、東 アジアにおける 日本古代律令国家の特質を 探 る上で重要 な手がか りになる と考 えられる。 この問題 を明 らかにす るためには、当該期 の東 アジアの中で、火葬がいかなる位置づけにあるのか、 どのような過程 を経て日本が受 容するに至 るのかについて明 らかにする必要がある。
本稿 では、 日本の古代火葬墓 について、その系譜 を明 らかにす ることを目的 とし、韓半 島の火葬墓 との比較 をおこない、その淵源についての考察 を試みる。
なお、本稿 で扱 う火葬 とは仏教思想 を背景 とし、納棺→茶昆→拾骨→蔵骨の一連の儀礼3 を経 て造墓 された墓の ことを言い、拾骨が認め られない縄文時代の火葬やいわゆるカマ ド 塚4とは区別す る。
Ⅱ .枡 究 史 と問題 の所在
1.日 本古代火葬墓の系譜に関する研究史
日本 の火葬墓 の系譜 につ いての見解 は、大 き く
3つ
の説 に分 けるこ とがで きる。(1)百
済、
(2)新
羅 (統一新羅)、
(3)中国 (唐)の 3説
で あ る。(1)百
済説姜仁 求 は 日本 にお け る火葬墳墓 制度 は百済 か らまず伝授 された もの と し、 日本へ 渡 った 百済人 に よって広 く流布 した と考 える5。 藤 沢一夫 は中国か らの影響 を考 えつつ も、扶余周 辺 の 出土例 か ら日本 の火葬墓 との共通性 を評価 した6。 小 田富士雄 は、西 日本の火葬墓 につ い て、 百 済 の火葬墓 との親近性 が存在 す る と指摘 した7。 山本孝 文 は、 百済 と日本 の骨 蔵 器8の
類 似 か ら、 日本の火葬が百済減亡 を契機 と し、 日本へ 渡 った集団が九州や近畿地方 に 火葬風 習 と骨蔵器 を伝 えた とした9。
これ らの説 は、 日本 の骨蔵器 に多 くみ られ る須恵器短頸重 (壼A)10と百済 にお ける有蓋 短頸壷 の形態 的類似 を根拠 とし、百済系渡来人 による火葬 の伝播 を想定す る。
54
日韓古代火葬墓 の比較研 究
(2)新
羅 (統一新羅)・ 説網 千 善教 は火葬 導 入 に関す る先 行研 究 を詳 細 に検 討 した上 で批 判 を加 え、新 羅 仏 教 や 文 武王 の火葬 な ど、新 羅 か らの影響 を考 えたレ
。新 羅 か らの影響 とす る説 には、金子裕 之 も賛 同す るB。
これ らの説 は、文献記事 や古代 史側 の研 究動 向 を踏 まえ、 当該期 の頻繁 な 日羅 交渉 の存 在 や 、新 羅 仏教 と 日本 仏教 との 関 わ り、 日本 古 代 の政 治・ 文化 へ の新 羅 の影響 が 明 らか に
され て きた こ とを背景 とし、その一環 として火葬 の伝播 を理解す る ものである。
(3)中
国説日本 の古代墳 墓 につ いて先駆 的 な研 究 をお こなった森本 六爾 は、奈 良時代 の墳 墓 につ い て唐 朝 文化 の波 及 に よる もの と したM。 斉 藤 忠 は、新 羅 の火 葬 墓 の様 相 をふ ま えた上 で 、 火 葬 は薄葬 と仏教思想 の浸潤 に よって、 中国か ら日本 に伝播 した と考 え、 それ に先 ん じて 新 羅 の文 武 王 も「西 国 の式 」 に よって火 葬 され た もの と理 解 したち。 また、藤 沢 一 夫 は百 済 と共 に、 中 国 の南 朝 か らの影 響 を考 え 、 小 田富 士 雄 も火 葬 の淵源 は中 国 にあ る と指 摘 す る17。
近 年 も森本徹 は斉藤忠 の説 を支持 し、 日本・ 百済 ・新羅 にお け る火葬墓 の出現 は唐 を起 源 と し、各 地域 で発展 した もの と し18、 奥村 茂 輝 も、 当該期 の仏教 受容 の様相 を整 理 した上 で、入唐僧 による知識が契機 となった可能性 を考 える19。
これ らの説 は、 当該期 にお け る遣唐使 や入唐僧 に よる唐 の先進文化 の受容 の一環 と して 火 葬 を受容 した もの と理解す る。 ただ し、 中国で は火葬が普 及せず、資料 的 に も火葬墓 が 発掘 調 査 された事例 はほ とん どな く、僧侶 に限定 され た葬法20と評価 され る こ と、火 葬 導 入 の 時期 には唐 との関係 悪化 や、遣唐使 の 中断 な どに よ り直接 的 な交渉 関係 が なか った とみ
られ る ことか ら、 中国 と日本 の火葬 にお ける直接 的な関係 につ いては明 らかではない。
以上 をみ る と、 日本 の古代火葬墓 の系 譜 につ いて、考古 学 的 に系譜 関係 を検 討 した もの は、 百済説 の有蓋短顎壷 と日本 の重
Aと
の 関連 のみで、古代 史・仏教 史の研 究成 果 に基 づく説が主であ り、考古 資料 に則 した検証が必要 といえる。
2.韓
国 の 古 代 火 葬 墓 に 関 す る研 究 史次 に、本稿 で検 討対象 とす る韓 国の火葬墓研 究 について概観す る。
(1)百
済 の火葬墓研 究斉 藤 忠 は、扶 余周 辺 で 出土 した有 蓋 短 頸 重 の 資料 紹 介 の 中 で、銭 貨 が副 葬 され た事 例 な どを もとに、 これ を火葬骨蔵器 と評価 した21。 姜仁 求 は扶余 周 辺 の 出土事例 か ら、骨 蔵 器 の 埋 置形態や副葬 品の配置 な ど、火葬墓 の構 造パ ター ンを二重径式、心壼多紐式 、単径 式 、 内壺 外奏式、倒甕式、単壺式、外壷 内重式 の
7類
型 に分類 した22。 山本孝文 は、従来百済 の 火 葬墓 とされて きた中 に、統一新羅期 の火葬墓 が含 まれ る こ とを指摘 した上 で、姜仁 求 のい う単重式・単椀式が百済火葬墓の典型であ り、被葬者 は僧侶が中心であったと評価 し、
涸澁都城 との関係、 日本の火葬墓 との関係 も含め、再検討 をおこなった23。
(2)新
羅の火葬墓研究斉藤忠 は、慶州周辺で収集 された骨蔵器 を集成 し、出土状況・形態 。文様の特徴 につい てまとめた24。 鄭吉子 は収集資料 も含めて印花文骨蔵器の分類 ・編年をおこない25、 宮川禎
― も印花文土器 の編年研究の一環 として、連結把手付骨重の編年をおこなった26。 洪潜植 は 統一新羅 の葬 ・墓制 を概説す る中で、石室墳 と火葬墓 との関係 に言及 し、火葬墓の構造 に ついては二重型・単一型に分類 した27。 また、 自身の印花文土器の編年研究 をふ まえ28、 連 結把手付骨重 の編年 を再検討 し、火葬墓の年代 を従来 よ り大幅に新 しく考える見解 を提示 した29。 亀 田修― は、統一新羅の概説の中で火葬墓 についてふれ、王京・地方の違いを指摘 した30。 金鏑詳は慶州錫杖洞遺跡の発掘調査 をふ まえ、慶州周辺の火葬墓の構造を分類 し例、
石乗哲 も、発掘調査資料や文献記事 をもとに、慶州周辺の火葬墓の構造 を再分類 し、火葬 墓の展開や造営背景 について考察 した32。 洪潜植 は、墓の構造の分類や新たな年代観 をふ ま え、新羅 の火葬墓 は、
8世
紀 中葉以降、9世
紀代 を中心 に盛行す るとし、火葬墓の展 開は 舎利容器の変化 と不可分で、王 。貴族の舎利信仰が反映す るとした33。 さらに、王京 と地方 の火葬墓 について墓 の構造の差異 を見出 し、王京型火葬墓 と地方型火葬墓の存在 を提起 し た34。 車順詰 は、研究史 と慶州周辺の火葬墓の整理 をお こない、墓構造に階層差が現れてい ることを指摘 し、火葬墓の展開にともなう思想的変化 を指摘 した35。以上の ように、韓国の火葬墓研究は、収集資料 に基づ く基礎的研究か ら、発掘調査資料 の蓄積 を踏 まえ、火葬墓 の構造の分析や王京 と地方など地域 間比較がおこなわれている段 階にある。ただ し、現状 では百済 (扶余周辺)。 新羅 (慶州周辺
)を
中心 とす る個別地域 を対象 とす る研 究が主であ り、洪潜植の王京・地方における火葬墓の造営層やその背景 に 関す る研究36のように、韓半島全体 を視野に入れ、階層性 。地域性の整理 をおこなった上で 火葬墓の特質 を明 らかにする研究が必要 といえる。3。 日韓 古 代 火 葬 墓 の比較 に関す る研 究 史
小 田富士雄 は、西 日本 と百済・新羅の火葬墓 の様相 を比較 し、百済 と新羅の相違や、 日 本において金銅製骨蔵器や墓誌が見 られる点が特徴であることなど、各地域の特徴 を指摘
した37。
また、森本徹 は 日韓両地域 における古墳 と火葬墓 との併存 関係 に着 目し、火葬墓の導入 様相 の比較か ら、従来の墓制 に火葬墓が新式の墓制 として加 わ り、両者が併存する韓半島 と、古墳 の築造が終了 した上で新たな墓制 として火葬が導入 された 日本 という相違点 を見 出 し、 日本 における火葬導入が よ り政治的な意図をもっておこなわれたものと評価 した38。
森本の研 究 は、両国の様相の比較か ら、古墳 の終焉 と火葬導入における特殊性や 日本の
56
日韓古代火葬墓 の比較研 究
火葬 墓 の特 質 につ いて論 じてお り、注 目すべ き成 果 とい える。 しか し、森本 の研 究 で は、
対 象 と した資料 数が 限 られ てい た点 、古墳 との併 行 関係 に注 目 した ため、火葬 墓 そ の もの につ い て の検 討が あ ま りお こなわれ てい ない点 に課題 が残 り、近年 の資料 の増加 をふ まえ て再 度検討 をお こな う必要がある。
4.問
題 の 所 在日本 の古代 火葬墓 の系 譜 につ いて、従 来
3つ
の説 が提 起 され てい るが、百済 の有蓋 短顕 壷 と 日本 の重Aとの 間に系譜 関係 を求め る以外 に考古学 的 な検討 はお こなわれてお らず、近 年 の 資料 の蓄積 をふ まえた上 で考古学 的 に諸説 の検 証 をお こな う必要 があ る。韓 国 の火 葬墓研 究 で は、個 別 地域 内 を対 象 と した研 究 か ら、韓 半 島全体 を対 象 と した墓 の構 造 に関す る研 究や地域 間比較が お こなわれ て い る段 階 にあ り、 日本 の火葬墓 との比較 研 究 が可 能 な状 況 にあ る とい える。
本稿では、日本の古代火葬墓の系譜について諸説の検証をおこなうために、まず韓半島 の火葬墓資料を集成し、韓半島における火葬墓の特質について整理をおこなう。次に、日 本の古代火葬墓の様相との比較をおこない、両者の系譜関係について検討する。
Ⅲ .分 析 の方 法 と資料
1.分 析の方法
考 古 資料 と しての火 葬墓 は、 「納棺 ・茶昆 ・拾 骨 。納 骨 な どに関 わ る様 々 な葬 送儀 礼 の 最終 的 な痕 跡」39と して、骨蔵器 の選択 や埋納 方法 、祭祀行為 の痕跡 な どの諸属性 の集合 と
して把握 で きる。
本 稿 で は、分析 にあ た り「墓構 造 」 に関 わ る属 性 を主 な対 象 とす る。 「墓構 造 」 とは、
骨 蔵 器 お よび骨 蔵器 の外 容 器 や埋 納 施 設 を含 め た属性 の あ り方 とそ の組 み合 わせ と し、骨 蔵 器 の選択 に関 わ る属性 と骨蔵 器 を埋 納 す る施 設 の構 築 に関わ る属 性 の 同一遺構 内 で の供 伴 関係 と して把 握 され る。 これ に、 火葬 墓 の立 地 ・ 分布 や他 の遺跡 との 関係 な どを含 め て 分 析 を進 め る。
分 析 で は、 百 済 ・新 羅 そ れ ぞ れ の墓 構 造 ・分 布 ・ 時期 に 関す る特 徴 を整 理 す る。 そ の 後 、 日本 の古代 火 葬墓 との比較 をお こない、 上 記 の 日本 古代火 葬墓 の系 譜 に関す る諸 説 に つ いて検証 したい。
なお 、 韓半 島 と日本 との間には支配者層 か ら民 衆 まで、様 々な レベ ルでの交 渉が想 定 で きるが40、 本稿 で は、主 に支配者層 レベ ル を対 象 と して、火葬 の系 譜 関係 につ い て検 討 を進 め たい。
2.資
料分 析 の対象 とす る資料 は、韓 半 島 にお け る
6〜 9世
紀 の火葬 墓 資料 101例 で あ る (第4
表、 第10〜 19図 )。 発 掘調査 資料 の集成 に努 めたが、一部発 掘 調 査 に よ らない資料 を含 め てい る。 なお、韓 半 島で は人骨が 出土す る事例 が少 な く、確 実 に墓 とは判断で きない資料 も多 い。特 に、建物 跡 か ら出土す る土器 につ いて は、火葬墓 とされて きた ものが地鎮具・
鎮壇具 として再 評価 されてい る・ 。従来火葬 と評価 されて きた資料 の中で、地鎮 具・鎮壇具 と判 断 した もの は外 したが、性格 比 定が 困難 な ものや、特記すべ きもの につ いては本文中 で説明 を加 える。
また、 年代 的位 置づ けにつ いては、李東憲の印花 文土器 の編年案42に依拠 す る。印花文土 器 以外 の土器 の年代 観 につ いて は、基本 的 に報告書 の記載 に従 うが、変更の あ る場合 は文 中で記述 してい る。
Ⅳ .分 析 ―百 済・ 新 羅 火葬墓 の特 質 ―
1。
百済の火葬墓
百済 の火葬墓 は姜仁 求 によ り報告 されているが43、 扶 余周辺 の 「百済火葬墓 」 は、骨蔵器 の器種 が有議短 頸壼 または有蓋金 と少 ない点が特徴 で、特別 な骨蔵器埋納施設 を設 けない 素掘土坑 が多 い ようである (第10図)。
なお、 姜仁 求 が挙 げた事例 の中で、扶 余 中井里唐 山遺跡例 な ど、土器 の形 態 か らみ て統 一新 羅期 に位 置付 け られ る ものが あ る44。 これ らは、扶 余上錦 里 遺跡 。同花枝 山遺跡 と共
に、統 一新羅期 にお け る地方の火葬墓のあ り方 を示す事例 として再評価す る必要がある。
また、従来 百済 の火葬墓 の典型 と して評価 されて きた事例 につ いて も、扶余決北里遺跡 や 同軍守里遺跡 出土 の有蓋短頸壷 は出土状 況や周 辺 の遺構 との 関係 が不 明であ り、建物や 寺 院 に関係 す る地鎮 具 や鎮壇 具 の可 能性 が残 る。斉 藤 忠 は扶 余 出土 の有 蓋短 頸壼 につ い て、銭貨 の副葬 を根 拠 と して、 日本 の火葬墓 にみ られ る銭 貨 の副葬例 との類似 か ら、火葬 墓 の可能性 を考 えてい る45。 確 か に、古代火葬墓 か ら銭貨が 出土す る事例 は多 く見 られ るが
46、 土器 内 に銭 貨 を納 め る例 は地鎮具・鎮壇具、胞衣重 な どの例 が あ り47、 必 ず しも火葬墓 のみに限定で きず、慎重 な判断が必要であ る。
次 に、分布 をみ る と、火葬墓 は百済 の涸洸期 の都 城 であ る扶 余 地域周辺 に集 中す る (第
1図)。 この中 で、 羅城 内 に分布 す る事例 が あ り、都 城 と墓 との 関係 を考 える上 で重要 で あ る。 日本 の藤 原京・平城京 では、都城 内で確 実 な墓 は調査 されてお らず48、 これ は都城 内 での埋 葬 を禁 じた「喪葬令」皇都 条 との関連 で理解 されてい る⇔。後述 の新羅で も王京外 に 墓 地が 設 け られ てい た と判 断 され るこ とか ら、百済 の様相 は 日本 や新羅 とは異 なる可能性 が ある。
扶 余 の測洸城 で は、王 陵 と推定 され る陵 山里古墳 群 が羅城 の東 に立地 し、 隣接 して陵寺 (陵山里 寺
)が
位 置 す る。 これ らは、涸洸城 内外 の空 間構 成 の 中で、王 陵 と寺 院が計画的58
#″ 端
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下IFれてτ■響 唐山 旺浦里\ミ ナ「甲}跡
日韓古代火葬墓の比較研究
●
:'四洸期
▲ :統 一新羅期
第 1図
扶余周辺の火葬墓分布
に配置 されていた もの と理解 で きる。 これ に対 し、城 内 に火葬墓 が存在 す る点 は特 異 であ り、 これ を城 内の寺 院 との関連 を もって僧侶 の火葬墓 と理解 す る説50もあ る。 しか し、羅城 内 の墓 地 の存 在 は火葬墓 のみ な らず涸洗期百済の都城制 の特 質 を考 える上 で も重要 な問題 となるこ とか ら、火葬墓 とみ るか地鎮 具 ・鎮壇 具 な ど他 の性格 の遺構 と評価す るか、慎 重 な判 断が必要である。今後の城 内での発掘調査の進展 に期待 したい。
また、扶 余 以外 の地域 で は、 羅州伏 岩里
3号
墳 17号 石 室 内(7世
紀 前 葉)の
事 例 が あ る。 これ は、石 室羨 道 内で瓦形土製 品 を組 み合 わせ た間に火葬骨 を置 いていた。伏 岩里 3 号墳 で は3世
紀 中葉 以 降、甕桔墓・横 穴式石室 と連続 的 に造墓がお こなわれてお り、その 最 終段 階 にお い て火葬墓 が採用 され て い る。 これ は、伝 統 的墓 制 の 中 に新 式 の墓 制 が挿入 され た様相 と見 る こ とがで き、百済 にお け る火葬受容 の一様態 を示す事例 として、注 目さ れ る。 なお、百済末期 と報告 された全州 中華 山洞火葬墓 は、蓋 の形態 か らみて統一新羅期 の火葬墓 とす る見解Ыを支持す る。
以上 み た よ うに、百済の火葬墓 は従 来考 え られて きた よ りも、確 実 な火葬墓 と判 断で き る事例 は ご く少数 であ り、現在 の資料状 況か らは百済 で火葬が盛行 していた とい う評価 は 難 し く、非常 に限定 的 な範 囲で受容 された もの と考 え られ る52。
2.新
羅 の 火 葬 墓(1)墓
構 造 の分類 と年代・ 分布まず 、墓構 造 の分類 をお こな う。 骨 蔵器 に は、材 質 と して施釉 陶器 (唐 三彩 ・緑 釉 陶 器 。青磁)、 陶質土器 (印花 文土器 を含 む)、 軟 質土器 、 木質 や繊 維 (布
)な
どの有機 質 が あ り、器種 で は短頸壷 、連結把手付重 、鉢、椀、奏が あ る。 この うち、緑釉 陶器 ・印花 文土 器 の短頸壺 や連結把 手付壺 は骨蔵器専用 の容器 と して作 られた可能性 が高 く、椀・ 奏第1表
新羅の墓構造相関表 骨蔵器 中国藤陶磁器 骨置器(軍用祭器〕日常容器類(転用る器) 曹三彩 青磁 緑和 陶質上器 印花文土器 議 串 泊控抑工朴蕪 縞頃需阿貿土器 i 胴貿土器(【「花又主器を含む, 軟買土器石機質・なし 特蛭嘉 慕 1若芸IIn△ 右芸飾R 右芸4ikとロエ朴鉄 鉄 牽 姦 埋 納 施 設
専 石櫃 用 外 容
連結把手付壷 二̲̲盗融重 ̲ 外壷・奎 容 器 締 胡陽洞 慶州出土 拝里三陵 南山出土
花谷理 録杖漏学生会館花枝山B2 : 忠学里③ 忠孝里② l 上錦里 : 艇止山9 1 rl`伯至東川洞 南山?青邸里古壌 錫杖洞68 1青邸里 艇止山17 1青邸里
素 掘 土 坑
錫杖洞5 検洞里192‑3, 隆城洞2 武村里C 盈倉里3 武村166 中華山洞1 中華山洞2 中井里唐山2 艇止山9大清5 甲山里 松花山1 武村里A 松花山2 武村里E 仁甫里遵君号 武村里F 沙村里′} 花枝山B‑1 大清4 艇止山1 盈倉里1 艇止山12 盈倉里2 艇止山13 盈倉里4 盈倉里5 武村里B 武村里
D
武村249
松鶴洞1 松鶴洞2 松鶴洞3 松鶴洞4 中井里唐山1 中井里唐山3 中井里唐山4 花枝山B3 艇止山4 艇止山6 艇止山7 誕止山8 錫杖洞51 李氏始祖生誕地 大清3友江里1 1沙村里叶 武村卜1661友江里2 1武村
248
1松鶴洞5 1帽岩洞G 2 5 11 18 下明忠孝里③ ※歴州周辺 ※大清6誕止山19
塚i0 15
大山山面
南止止山
皇艇艇文
艇止山16?
は 日常 容器 の転用 と考 え られ る。 ま た 、 骨 蔵 器 を お さ め る外 容 器 と し て、石櫃 や連結把 手付 壺 な どの専用 容 器 と、 陶 質・ 軟 質 奏 な どの 日常 容 器 の転 用 が あ る。骨 蔵 器埋 納 施 設 と して 、小石 室 な どを構 築す る ものお よび素掘土坑があ る。
これ らの属性 の組 み合 わせ か ら、
墓構 造 を分類 す る (第
1表
)。 分 類 にあたっては、決潜植 の分類53をふ ま え、以下の ように分類 した。Al:
石櫃 ・連結把手付壺 (専用 外容器)×
専用容器・中国産陶磁器A2:
壷・椀 (転用外容器)×
日 常容器類 (壺・奏・椀など)Bl:小
石室 ×日常容器類 (壷・甕・か `
日韓古代火葬墓の比較研究
★
:Al型
▲
:A2型
■
:Bl型
●
:B2型 づお°6
第2図
新羅の火葬墓分布 (番号は資料番号に対応)
椀 な ど)
B2:素
堀 土坑 ×日常容器類 (壼・奏・椀 な ど)A型
は骨蔵器 を外容器 に納 める もので、洪潜植 の二重型、B型は単一型 に該 当す る。洪潜 植 が石棺 形 と した もの はいわ ゆる小石室 と考 えた。 また、B型は骨蔵器 の器種 によ り、印花 文土器短頸壷 (専用容器)、 重類、奏類、椀類 とさ らに細分可能である。次 に、火 葬墓 の造営 年代 をみ る と、
7世
紀後 半 か ら9世
紀 前 半 が 主体 で あ り、8世
紀 代 を中心 に盛行 す る とい える。 また、慶州東川洞遺跡 ・昌寧友江里遺跡 な ど一部6世
紀代 に 遡 る とされ る事例 が あ る。 これ らは火葬骨 の出土が無 く、確 実 な火葬墓 とは言 い難 い もの の、 これ を火葬墓 と認 め るな らば、F「花 文 土器壼 や、連結把 手付 重 な ど新 羅 の火 葬墓 を特 徴付 け る専用 容 器 が 出現 す る以前 か ら、独 自の容 器 (盆形容器)や
転 用容 器 を用 いた火 葬 墓 が造 られていた と評価 で きる。分布 につ いてみ る (第
2図
)。 新 羅 の王京 (慶州盆 地)周
辺 に集 中す る他 、現状 で は慶 尚北 。南 道 、 忠清 南 道 に多 く分布 す る。墓構 造 の各類 型 をみ る と、新 羅王京周辺 にAl・A2・ B型が分布 し、王京以外 ではB2型が 中心 で、一部A2・ Bl型の分布がみ られる。
以下では新羅王京周辺 と王京以外 の地方 とに分 けて記述す る。
(2)新
羅王京周辺 の火葬墓まず、新羅王京 内54の火葬墓 とされ る事例 について検討す る。
雁 鴨池下層 出土骨蔵器 については、報告書 では骨壺 と報告 し55、 鄭吉子 も火葬墓 と して取
:ヽ,学│
判 ゛ ° `
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し
a^'蠣筆
瑠南山 'hだ
ギ潔岳il郡 γ フ山
,外1籍 郭ご
★
:Al型▲
:A2型■
:Bl型●
:B2型 第 3図新羅王京周辺の火葬墓分布
り上 げた ほか、亀 田修 ― も王宮以前 に存在 した とす る天柱 寺 との関係 で理解 してい る酪。 一方、 これ らを鎮壇具 とす る程恩蛾 の説Vがあ る。筆者 は、 月城周辺 において同時期 の埋 葬遺構 が他 に見つ か ってい ない点、近接 す る皇南洞
123‑2番
地遺跡や皇龍寺、王京SlEl
地 区で多数 の鎮壇・地鎮遺構 が見つか ってい る こ とな どか ら、 同様 の性格 の もの と して、
雁 鴨池下 層 出土骨 蔵 器 を臨海殿 な ど王宮 の整備 に関わ る鎮壇 具 ・地鎮 具 とす る説 を支持 し たい。
また、皇 南 大塚 の封 土 中か ら出土 した統 一新 羅期 の土器 を火葬墓 とす る見解 もあ る58① これ を火葬墓 とみ るか他 の性格 の遺構 と理解す るか につ いて は、決定的 な証拠 が ない。伝 関哀王 陵 出土 「元和 十年 」銘骨 蔵 器 も工 陵の墳 丘背面 に造 られてお り、新羅 で は前代 の王 陵 な どの封土 や近接 した場所 に造墓 す る事例 が存在す る ようであ る。 『三 国遺事』 に よる と、新羅 には「死胎 の児」 を裕福 な人の墓 に埋 める と後孫が絶 えない とす る習俗
59が
ぁ った とみ られ ることか らも、単純 に墓や祭祀遺構 と性格 を比定す るこ とは困難である60。 これ ら の例 を王京 内の火葬墓 と認 めて も、居住地 と墓地 とが分 かれてい るこ とは評価 で き、基本 的 に王京 内での埋葬例 はな く、王京周辺 に造墓 された もの と判断 され るa。次 に、王京周辺 の火葬墓 について検討す る (第
3図
)。王京東南 の朝 陽洞遺跡 や南 の南 山周辺 で、唐 三彩 や緑釉 陶器 ・青磁 を骨蔵器 とす る
Al型
火 葬墓 が分布す る。朝 陽洞遺跡 の唐三彩鎮 は、石櫃 に入 った状態 で発見 され、蓋 として銅 製皿 を被せ ていた62。 唐 三彩鎮 は、文様 ・器形・釉調 のほぼ同様 の ものが 中国河南省黄冶窯
62
日韓古代火葬墓の比較研究
か ら出土 してお り63、 黄 冶 窯 産 とみ て 間違 い ない。朝 陽洞遺跡 の火葬墓 の被 葬者 を元聖王 と す る説64ゃ、聖 徳王 とす る説 もあ る との こ とであ るが65、 銭 は通常蓋 を もつ器種 であ るの に 対 し、 朝 陽洞 遺 跡 で は銅 製 皿 を転 用 して用 い てお り、 セ ッ トが不揃 い な点 か らは、王 陵 と 評価 す る には躊 躇 す る。 しか し、舶 来 の唐 三彩 を入手 し得 た被葬者 の高 い社 会 的地位 を考 え る こ とは可 能 であ ろ う。南 山出土 の緑釉 陶器 や拝里 三陵付 近火葬墓 の青磁壺 も同様 に被 葬者 の高 い経 済力 と社 会 的地位 を示唆す る。
Al型
は専用 容 器 や特 殊 な埋 納 施 設 を構 築 す る点、王京周辺 にのみ分 布 す る点 で他 の類 型 とは異 なる特徴 を持 つ。 また、周 辺 の石 室墳 とは分布が重複せ ず、単独 で立地す る点 か ら、 あ る程 度 の墓 域 を確 保 して い た と推 測 で きる。唐 三彩 や緑 釉 陶器 を保 有 す る こ とか ら、被 葬者 は社 会 的上位 層 で あ る と想 定 で き、特 に僧侶 も含 め た新 羅 の特 権 階層 (具 体 的 には王京 の六部人 な ど)が
推 測 され る。そ の一 方 で、 王 京 西 方 の西岳 山、松 花 山麓 一帝 や北 方 の隆城 洞・ 東 川 洞 地 区で はA2・
Bl・ B2型火葬墓が群 集 して分布 してい る。 これ らは、統一新羅期 の石 室墳 と分布が重複 す る66。 そ の状 況が、明 らか な例 として、東 国大学校慶州 キ ャンパ ス内の錫杖 洞古墳群が挙 げ られ る (第
13・
14図 )。 錫杖 洞古墳 群 は、石室墳 の時期が 明確 で はな く、併存 関係 は正式 報 告 を待 って検 討 す る必 要 が あ るが 、土 葬 墓 と火葬墓 が 同一墓 域 内 に葬 られ て い る点 は評 価 で きる。墓構 造 をみ る と、学 生会館 敷 地 出土火 葬墓 (A2型 :転用外 容 器+陶
質土器壼+
青磁椀 転用蓋
)〜
61号 墓 (Bl型 :印花 文 土器重)〜
その他 (Bl・ B2型 :木櫃 ・転用容 器)と多様 なあ り方 がみ られ るが、
Al型
はな く、群集 して立地す る点 か らも、先述 の朝 陽洞遺 跡 や南 山周辺 の事例 とは異 な る。石 室墳 が
9世
紀 代 まで存 続 す る新 羅 で は、 王京 周辺 の大 多 数 の石 室墳 の 中 に火葬墓 が 混 在 して い る こ とが 予 測 され る。 これが 一 般 的 な墓制 のあ り方 と考 え られ 、伝 統 的 な墓 地 を 統 一新 羅期 に入 って も継続 的 に使用 し、 その中 に新式 の火葬墓 が加 わ った もの と評価 で きる。
新 羅王京周辺 にお け る現在 の 資料 の状 況 で は、王京東南方 と南 山周辺 の火葬墓 が、墓構 造 と立 地 か らみ て、石 室墳 と重複す る王京西方 と北方 よ りも優越 す る と思 われ、王京 を取 り巻 く葬地 間 に格 差
67が
存 在す る ようであ る。新羅の王陵の分布 をみ る と、王 陵比定が完全 で はない点 に注 意 を要す るが、6世
紀 以 降の王 陵 は武列 王 陵が王城 西 の 西 岳 山裾 に造 られ るほか は、8世
紀 前 半代 まで は王京東側 の慶州 ―蔚 山街道お よび吐含 山麓 に位 置す る点 が 特徴 で あ る68。 李根 直 は、王 京 の東 に王 陵が造営 され る理 由 と して、 吐含 山が新 羅五岳 の東 岳 と して崇拝 を集 め て い る こ とか ら、仏 国土 を意味す る仏 国寺 や石 仏寺 の創建 な どと同様 の脈絡で理解 す る69。 筆者 は これ に加 え、 蔚 山街 道が唐 。日本 か ら王 京へ 入 る際 の主要経 路 にあたることか ら70、 王 陵が 四天王寺・望徳寺 な どの寺 院 と共 に、外 交使 節 に対す る視覚 的効 果 を狙 って配置 ・造営 された可能性 が 高 く、新 羅 の王 陵・葬地が、王京 内外 の都 市 計 画 と一体 で配置 された もの と考 える。
火葬墓 の分布 は
Al型
が東 と南 に偏 ってお り、 出土位 置が把握可能 な事例 としては、 南 山 周 辺 の検 出例 が多 い こ とか ら、王 陵 よ りひ とつ ラ ンクが下が る位置づ け として王京 南 方 の 葬 地 が 設定 されていた可 能性 が あ る。 しか し、南 山は新 羅 人 に とって仏教 聖地 で もあ り、多 くの石 仏・ 石塔 な どが分布 してい る こ とか ら、南 山へ の信仰が影響 を与 えた可能性 も考 慮 す る必 要が あ る。そ して、 さ らに下位 の葬 地 と して、 王京 の西 ・北 方 の伝統 的 な石 室墳 の墓域 と重複す る葬地が位置付 け られていた可能性 が高 い と推測 される。
この王 陵・ 葬地 の分布状 況 は、都 城 の北 に皇帝 陵 。天皇 陵 を配 し、東〜東南お よび西 を 重視 して葬地 を配置 した長安城 や平城京 、都 城 の南 に天皇 陵 を配 し東西 に葬地 を配 した藤 原京71とは異 なる様相 であ り、新 羅王京 と王 陵・葬地 の空 間構成 は、新羅独 自の理念 に よ り 配置 されていた もの と推測 され る。
(3)新
羅 の地方の火葬墓王京以外 の諸地域 に
Al型
は な く、B2型の墓構造 が圧倒 的多数である点が注 目され る。 こ れ は、亀 田修―が指摘す る王京以外 にお け る規制 の存在72も考慮 す る必要が あ る。 しか し、前 述 の通 り、王京周辺 に も錫杖 洞遺 跡 や松 花 山遺跡 な ど、
A2型
やBl・ B2型が分布 してお り、 単純 に王京 ―地方で墓構 造 が排 他 的 な関係 にあ る こ とを示す ので はない。 む しろ王京 周 辺 のみ に分布す るAl型
と、王京周 辺 ・地 方 で一般 的 にみ られ るA2・ Bl・ B2型とが 重 層してお り、王京周辺 の
Al型
の存在 が特徴 的 といえる。新 羅 の地 方 にお ける火葬墓 の あ り方 と して、公州艇 止 山遺跡 と扶余周 辺 の火葬墓 につ い て検討す る。
つまみ
卑
1 2
頂部形態
①
かえり
\ a\ b ttc
口縁部
形態 フα
i千
子
2β① 公州艇止 山遺跡 の火葬墓 につ いて 公 州艇 止 山遺跡 は錦 江 の南 岸 に あ た り、 百 済熊津期 の大壁 建 物 や 王 族 の寝 儀 礼 に関 わ る と推 定 され る遺構 が 検 出 され た こ とで著名 な遺 跡 で あ る。 報 告 書 で は19基 が統 一新羅期 の火 葬 墓 と し て報 告 され てお り、14基の 出土 位 置 が 明 らか になっている73(第18図 )。 艇 止 山遺 跡 の火葬墓群 につ いて は、洪 潜 植 に よ り既 に詳細 な分析 が お こな わ れ て い るが74、 ここでは艇止 山遺跡 の火 葬墓 群 の形 成過程 を復元 し、墓域 の変 遷 と 第4図
艇止山遺跡出土有蓋椀 の属性分類
い う視点か ら分析 を試みる75。 なお、遺構 に 伴 わない遺物 の中に も統一新羅期 の遺物が 多数 あ り、実際の火葬墓 の数 は さ らに増 え る と考 え られるが、報告 された図面 を もと に分析 を進める。
艇止 山遺跡の火葬墓 で は、有蓋椀 を骨蔵 器 とす る ものが主体 であ り、蓋 のか え りの 有無 とつ まみ・頂部 の形態、文様 が時期差 を表 しているようであ る。 そ こで、有蓋椀 の属性分類 をお こな う (第
4図
)。 まず蓋 をみ る と、 つ まみ に は小 形 の もの(1)
と、輸状つ まみ
(2)と
が ある。 また、頂 部形態 には九み を もつ もの (①)と
頂部が 平坦 な形態 (②)が
あ る。か え りには、 しっか りとしたかえ りを貼 り付 ける もの
(a)
と、小 さなか え りや痕跡 的 な段 を もつ もの (b)、 かえ りが無 く端部 を折 り曲げる もの (c)に分かれる。蓋の各属性 は第
2表 ‑1
の ような相関を示す ことか ら、a×① ×1を
I類
、b×② ×1を Ⅱ類、c×② ×2を Ⅲ類 とする。次に、椀には無高台の椀Aと高台 をつける 椀
Bが
あ り、椀Bには、 日縁部がやや内湾気 味の もの (α)と
、外反す る もの (β)が
ある。椀
Aに
はほぼ直線的に立ち上が り外面 に沈線 を施す もの と、 日縁端部 を外反 させ るもの とがある。以上の椀形態 と、先の蓋 の分類 と組 み合 わせ ると、第
2表 ‑2の
ようになる。 これは蓋 と椀 の型式変化 の方向性 が相 関す るこ とを示 し、既存 の研 究成果 をふ まえる と、
I→
Ⅱ→ Ⅲの型 式 変化 が想 定 で きる。 ま た、文様 を見 る と、 縦 長 連 続 文 (二重 円日韓古代火葬墓の比較研究
第2表
艇止山遺跡出土有蓋椀 の属性相関表
かえり
X頂部形態
bX②3 6・17 2・3 12 14・19
47・ 10
秘 翠
つ 2
α Pρ
椀B
椀A外反
直線 13
数字は火葬墓の遺構番号を示す
期
▲
︲
Ⅱ /
// ∠\ 3
Ⅲ期 // △
3▲:新規の造墓
△:既存の墓
第5図
艇止 山遺跡遺構 変 遷模式 図
I期
▲ 3 /
▲ 6 //
/
// A17
/ /
文 ・馬蹄 形 文)。 多 弁 花 文 の
A手
法 に よ る施 文 (3・ 17号)や
列 点文 のA手
法 に よる施 文(6,14・
13・ 17号)か
ら、列点 文 のC手
法 の施 文(7号
)、 波線 文 の施文(4号 )へ
と漸移 的 に変化 してお り、器形変化 の方 向性 と矛盾 しない。
以上 の検討 に よ り、
I〜
Ⅲ類 を時期差 と考 え、遺構変遷 をみ る。まず 、 3・ 6・ 17号墓 が 最 も古 く
(I期
)、 次 に 1・2,8・ 12・
14。 19号墓(Ⅱ
期)、 そ して 4・5'7・
10。 11,13・ 15。 18号 墓が造 られ る (Ⅲ期)。第
5図
をみ る と、 当初 3・6,17号
墓 が 大 きな墓域 を確 保 し、 Ⅱ期 に 1・ 19号 墓 はあ る 程 度 の墓域 を もって造墓 し、2号
墓 は3号
墓 の前面 に、6号
墓 周辺 で は 8・ 12・14・
号 墓 を群 集 して造墓 す る様相が見 て取 れ る。 Ⅲ期 には さ らに6号
墓 周辺 に群集 して造墓 す る こ とが わか る。これ は、
I期
の段 階で墓域 が既 に決定 され てお り、 Ⅱ・ Ⅲ期 の火葬墓が前代 に造 られ た 墓 との 関係性 を反映 し、 当初 の墓 域 に規 制 され て造 墓 が 決定 され ていた もの と解 釈 で き る。6号
墓 周辺 で は、造墓契機 とな る6号
墓 の前面 で累代 的 に造墓 を繰 り返 してい る こ と か ら、新 た に造墓 や葬送行為 をお こな う過程 で、葬儀 参加 者 らは常 に6号
墓 や前代 の被 葬 者=祖
先 の記憶 を思 い起 こ し、 自 らの帰属 意識 が 強調 され る効 果が あった と解釈 で きる。3号
墓 。17号 墓周辺 で もⅡ・ Ⅲ期 の造墓 が見 られ るが、密集 度 は低 く、継続 的 な墓地利用 で は ない。 これ らは、艇止 山遺跡火 葬墓群 の被 葬者 が、 それぞれ等質の関係 ではな く、複 数 グルー プが現実 の集 団間関係・社 会 的位 置 を反映 して造墓 をお こなっていた こ とが想 定 され る。被 葬者 の性格 を示唆す る遺物 の 出土 な どが無 く、被葬者 の性格 は不 明だが、九州五小京76 の一 つ で あ る熊 川州 の州城 との 関連 か ら、 王京 の情報や仏教思想 を介 して火葬の知識 を得 る こ とので きた被 葬者集団 と推測す る77。
また、艇止 山遺跡 で は骨蔵器 の器種 に重 が少 な く、大 部分 が容量 の小 さな椀 を骨蔵器 と す る点 は重要 であ る。 これは、工京周辺 の
Al型
や他 地域 の大型壼類 を骨蔵器 とす る火 葬墓と異 な り、骨蔵器 を選択す る時点 で火葬骨 すべ て を埋 納 す る意図は無かった もの と考 え る こ とが で き、拾 骨 の意識 自体 が変容 して いた と解釈 で きる。地方 における火葬墓造営 にお け る受容 の一様態 を示す と考 える。
②扶余周辺の統一新羅期火葬墓 (第19図)
扶余中井里唐 山遺跡の火葬墓 は、単9̲E・ 二重饗・心壼多饗式78とされたように、多様 な埋 納方法が存在す るが、 これは統一新羅期の地方 における火葬墓の一様相 として再評価す る 必要がある。
新羅の火葬墓では、王京周辺・地方 も含 めて伴 出遺物が少ない点が特徴 といえる。その 中で、扶余周辺の火葬墓は陶質土器有蓋椀 を伴 う事例が多い点、埋納方法のバ リエー シ ョ
66
日韓古代火葬墓 の比較研 究
第6図
川崎市宮前区有馬2466火葬墓の推定出土状況 (左)と扶余中井里唐山2号墓 (右)
ンが豊 か な点 を地域性 として評価 で きる。 中井里唐 山
1号
墓 の埋 納方法 (二重 径式)の
類 例 は現在 の ところみ られ ないが、 中井里唐 山2号
墓 の埋 納方法 (心壷 多終式)の
類 例 は、慶 州東 川洞火葬墓 の高杯 複数埋納 と慶州花谷里火葬墓 の土製十二支像 の埋納例が関連す る 可 能性 が あ る。 ただ し、東川洞火葬墓 は火葬墓 であ るかが不 明 な点 と、時期 が大 き く異 な る点、花谷里火葬墓 の十二支像 に対 して中井里唐 山
2号
墓 で は椀 が8個
体 と内容 が異 な る 点 に問題が残 る。中井里唐 山遺跡でみ られるような多様 な埋納方法が王京や他地域で見 ら れるか否かは今後の資料の蓄積 を見 なければな らないが、地方 における火葬習俗の変容 を 示す可能性が高い。なお、壼 の周 囲に小型の土器 を囲続す る例 として、 日本の神奈川県川崎市宮前 区有馬 2466火 葬墓例
(9世
紀前半)が
ある (第6図
)。 これは倒置 した土師器長胴奏の周囲を伏 せ た土師器杯19点が囲続 していた とされ、既 に中井里唐 山遺跡例 との類似が認識 されてい たが79、 中井里唐山遺跡例 を統一新羅期の火葬墓 とみることで、新羅の地方 と、 日本の関東 地域 との関係 を考えることが可能 になると考える。 『続 日本紀』 では、7世
紀後半〜8世
紀後半 にかけて、関東地域 に新羅人・百済人・高麗人を投化・帰化 させた記事が多 くみ ら れる80。 川崎市宮前区は旧武蔵国橘樹郡 にあた り、渡来人の移配記事 には出てこないが、同 様の事情 を示す可能性がある。関東に移配 された渡来人の中に僧尼 も含 まれることか ら、宮前区有馬2466火 葬墓例 において も、扶余中井里唐 山遺跡 と同様の火葬習俗や葬送儀礼が 伝 えられたことを反映する可能性がある。
韓半島 と日本 との間には様々なレベルでの交渉が想定で きるがЫ、 これは支配者層 とは異 なるレベルで、地域性 を表す要素が伝播 した可能性 を示す事例 といえる。
3.小
結以上の分析 をまとめる。百済の火葬墓 については資料上の問題があることを指摘 した。
この点 を踏 まえた上 で、百済 の火葬墓 は、有蓋短頸壷 と有蓋金 と骨蔵器 の器種 が少 な く共 通 してい る点、 羅城 内 に火 葬墓 が存在 す る点が特 徴 で あ る。 しか し、 百済 で は従 来考 え ら れて きた よ りも、火葬 は盛行 してい なか った可能性 が高 く、百済 の火葬墓 につ いての評価 は今後の資料 の蓄積 を見 なが ら、再評価す る必要がある。
新 羅 の火 葬墓 は、 墓構 造 をみ る と、王 京 周 辺 の
Al型
の特殊 な墓構 造 の存 在 が特徴 で あ り、A2・ Bl・ B2型は王京 と地方で共通 し、地方ではB2型が圧倒 的多数である。王京周辺 の分布 で は、基本 的 に王京 内の居住 地 と墓 地 とは分 け られてお り、王京外 に葬 地 が設 け られていた可能性 が高 い。 また、王京 と王陵・ 葬地 の位置 関係 と、葬地 間の格差 な どにつ いて は、 日本 。中国 とは異 なる新羅独 自の理念 を反映す る可能性がある。
王京周辺 で は大多数 の石室墳 の中 に少数 の火葬墓 が混在 してお り、伝 統 的 な墓地が統一 新 羅期 で も継続 的 に使用 され、 その中に火葬墓 が新 た に加 わった もの と考 え られ る。
地方 で は公州艇 止 山遺跡 の墓 地分析 か ら、複 数 グルー プに よる累代 的 な墓地 の利用 と、
集 団意識 の再 生 産が お こなわれ て いた こ とを指摘 した。 また、 地方 で は王京周 辺 の火葬墓 とは拾骨 の意識や埋納方法が変容 し、地域性 が表れていた可能性 を指摘 した。
V.考 察 一 日本 古代 火 葬 墓 の系 譜 ―
1,日 本の古代火葬墓 について
本節 で は、韓 半 島 との比 較 の た め に、 日本 の古代 火 葬墓 の概 略 と、墓構 造 の諸特徴 につ いて述べ る82。
日本 の古代火葬墓 の性格 と して、黒崎直 は、古代墳墓 の変遷 を整理す る中で、土葬 ・火 葬 の転換 期 が 、天 皇喪 葬 の画期 と連動 す る こ とを見 出 し、
8世
紀代 の火 葬 につ い て、 天皇 喪 葬 を範 と して、貴 族 ・官 人層 が そ れ に従 った もの との理解 を示 した83。 この枠組 みが現 在 で も支 持 され てお り、小林 義孝 は、持 統 天皇 の火 葬採 用 と元 明天皇 の遺 詔 にみ られ る薄 葬 の内容 か ら、伝 統 的 な遺体 観・霊 魂観 か らの脱却 や律 令 制 に基 づ く官僚機構 の 円滑 な逼 営 を 目指す支 配者層 の火 葬 の導入 にお ける意 図 を評価 し解、森本徹 も墓制 の管理機 能 を想定し、火葬へ の転換 に支配者層の政治的意図 を重視す る85。
さて、筆者 は、 日本古代 の火葬墓 は墓構 造か ら以下 の ように大 き く
3つ
の類 型 に分類 で きる と考 えてい る (第7図
)。I型 :木棒卜・粘土椰・木炭椰 ・石櫃 ×専用容器 (金属 製 ・ ガ ラス製容器、木櫃)
Ⅱ型:小石 室 の構築 と須恵器大奏・土師器奏の被覆、素掘土坑 ×短頸重 (壺
A)
皿型:素掘 土坑 ×転用容器 (煮炊 具 ・貯蔵具 ・供膳具類)
このうち I型 は専用の骨蔵器を木椰・粘土榔 。木炭彬【などの特別に構築 した移【施設に納 める点が特徴であ り、大和盆地周辺に分布が集中し、前代の墳墓 と重複 しない単独立地な
68
日韓古代火葬墓の比較研究
出屋 敷2号墓
匡 f脇
l 1
│
第7図
日本の古代火葬墓の3類型
第3表
被葬者 と墓構造か ら見た階層性
文 忌 寸祢 麻 呂 威 名 真 人大村 太 朝 臣安 万侶 小 治 田朝 臣安麻 呂 美 努 連 岡萬 紀 吉 継 宇 治 宿 祢 伊 福 吉 部 臣徳 足比 山代 忌 寸真 作 高 屋 連 枚 人 下 道 朝 臣國勝 國依 僧 道 薬 僧 行 基 雁 多尾 畑 1号 墓 三ツ塚 20号 墓 三ツ塚22号 墓 三 ツ塚15A号墓 三 ツ塚 34号 墓 雁 多尾 畑 2号 墓 雁 多尾 畑 3号 墓 雁 多尾 畑4号 墓
冨 位
室族 三 位 五位 六 位 在 地 僧 lB 以上 以 上 以 下 氏族
官 厩 轟 芭銅 製 木櫃 壺A土師
藁
理 網 距 設
粘土櫛!禾炭榔 右権 上慕 右組 素掘 木柳 被覆 土坑
立 地
H独 群集 時 期
●
●
● O O O O O O O O O
●
● O O O O O O O O O
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
● つ 0
●
●
●
●
●
●
●
●
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●
●
● つ
●
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●
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●
●
●
●
●
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●
●
●
●
●
●
貶雲4(707, 慶 雲4(70') 養 老7(723) 神 亀6(729) 天 平2(730) 延暦 3(,04) 慶雲2(705) 和銅 3(7,0) 炭辰(728) 宝亀 7(776) 和銅元 (708) 和銅7(714) 天平21(749) 平城 Ⅱ 平城 ⅡW
平城 Ⅱ 平城 Ш Ⅳ 平城 Ⅱ 平城 Ⅱ 平城 Ⅱ 平城 Ⅱ
どか ら、都城周辺 の特 殊 な墓構 造 を もつ火葬墓 と評価 で きる。 このI型は、墓誌 出土墓 や 被 葬者層 の推 定可能 な火葬墓 との検討 の結果 、五位以上 の官位 と高 い相 関がみ られ る (第
3表
)。 そ して、 これ は律 令 の「 喪葬令」 にみ られ る、官 人 を対象 に官位 に応 じて葬具 や 葬 送 夫 の支給 をお こな う「公 葬制」 を意 図 した規 定86と関連 す る可 能性 が 高 い と考 え られ る。 また、 Ⅱ・ Ⅱ型 火 葬 墓 は都 城周 辺 の他 、全 国 に広 く分 布 してお り、骨 蔵器や埋 納施 設・祭祀行為 な どの地域 差が大 きい こ とが特徴 であ る。以上 か ら、
I型
と Ⅱ・ Ⅲ型 は被 葬者 の階層差 を反 映 し、特 にI型につ い て は五位以上 の 上 。中級官 人層 の墓 であ り、 「喪葬令」 と関連 して都城周辺 に造墓 され た もの と考 え られ る。本稿 で は このI型
火 葬墓 を支 配者層 の火葬墓 と捉 え、 このI型火 葬墓 の系 譜 関係 につ いて、検討 を進 める。2。
日本古代火葬墓の系譜をめぐって
以下では、研 究史でみ た 日本古代火葬墓 の系譜 に関す る諸説 について検討す る。
(1)百済説 の検討
まず、百済 と日本 の火葬墓 との系譜 関係 につ いて検 討す る。筆者 は百済 と日本の火葬墓 との関係 は薄い と考 えてい る。
本稿 の分析 で、百済 で は火葬 が あ ま り盛 行 してい ない と指摘 したが、 さ らに、百済 と 日 本 の火 葬墓 との造営年代 には時期差が存在 す る。百済 の火葬墓 は涸 洗期 (538〜 660年
)の
造営 であ り、 日本 の火葬 は道 昭 の火葬 (700年
)が
始 ま りとされ、考古 学 的 に も7世
紀 に遡 る事例 はわずか で、8〜 9世
紀 を中心 に盛行 す るこ とが追認 されてい る。 なお、北 山峰生 が最近、7世
紀代 の火葬墓 の存在 を積極 的 に評価す る見解 を提起 したが87、 まだ確実であ る70
とは言 い難 い。 た とえそれ らの遺構 を火葬墓 と して認 め た上 で も、北 山が 出現期 の火葬墓 と した墓 は、全 て木製 骨 蔵器 で あ る点が 注意 され、 百 済 火 葬 墓 の有 蓋 短 頸壺 や 有蓋盆 を骨 蔵器 とす る特徴 とは異 なる。
また、従 来、百済 と日本 の火葬墓 の系 譜 関係 を認 め る 根 拠 とされ て きた、有蓋 短 顕 壺 と 日本 の短 頸 重 (壺
A)
との関係 につ いて も検討の余地が あ る。
日本 の壺
Aの
祖 型 に関 して、藤 沢 一 夫 は「百 済 の扶 余 都 城 時代 の遺 例 に近似 し、 そ の源 流 を察知 せ しめ る もの が あ る」88と し、 山本孝 文 も百 済 の有 蓋 短 頸壼 と 日本 の 重Aと の関係 を考 える89。̲方
、重Aの
蓋 に残 る沈線 な ど か ら金属 製 品 を模 倣 した もの と考 えた小 田富士雄90や、 銀 ・銅 の鋳 造 品 にそ のモ デ ル を求 め る矢 部 良 明鋭らの ように金属器 に壺
Aの
祖 型 を求 め る説 もあ る。これ は、重
Aの
型 式分類 をふ まえ、最古 型 式 と百済有 蓋 短頸重 や金属 製容器 との形態比較 に よ り解 決す る必要 が あ る。壼Aの
分類 ・ 編 年 に関 して は、 藤 森 栄 一 以 来 、 胴 部 最 大 幅 の位 置 の下 降が 時 間 的変 遷 の指 標 とな り92、黒 崎 直 に よる胴 高指数 を もちい た編 年
93が
提 示 され てい る。 これ らは、主 に須恵器 の壺Aを
対 象 とす る ものであ るが、 ここで は土 師器壼Aを
素 材 と して 、壷Aの
祖 型 に つ いて考 えてみたい。土 師器壺
Aは
、 当該期 の土器 の特徴 で あ る土 師器 ・須 恵 器 の互換 性94を もつ 器種 の一 つ で あ り、須 恵器至Aと 同形 態 で あ る。全 国的 に出土 す る須 恵 器 壼Aに
比 べ 、都 城 や寺 院・火葬墓 な どか らの 出土 が 中心 で、 出土例 が少 な く、従 来 あ ま り注 目されてい ない。 しか し、7世
紀代 の 中枢 地域 であ る飛鳥・藤 原地域 で は、飛 鳥 Ⅳ,V(7
世 紀 後 半 〜
8世
紀 初頭)の
遺構 か ら出土 す る須 恵器 壺A
は少数 であ り、土 師器壺
Aの
出土 量 の方 が多 く、奈 良時 代 の平 城 宮 ・京 にお いて須 恵 器重Aが
主 流 となる こ とか ら、 土 師器壺Aと須 恵器壼Aと の 間 には出現 時期 に差が あ る こ とが推測 され る。日韓古代火葬墓の比較研究
0 20cm
第
3図壺
Aの変 遷 法隆寺香水壷
藤原宮第
72次調査
SE8061(飛鳥Ⅳ
)石神遺跡
S K 518(飛鳥Ⅳ〜
V)藤原京右京十条一坊 西 北 坪 井戸
(飛
鳥
V)僧道薬墓須恵器骨蔵器 (714年
)この飛 鳥 ・藤 原地域 出土 の土 師器壷
Aは
、 日縁 部 が長 い ものか らや や短 い ものへ 、牛 角 状 の長 い把 手 か ら、三角形 に近 い把手 を貼 り付 け る ものへ と変化す る (第8図
の2→ 3→
4)。 第
8図 4は
、和銅3年
(714)の墓 誌 を伴 出 した奈 良県僧 道薬墓 の須恵器壼A(第
8 図5)と
ほぼ同形態 であ り、奈 良時代以降主流 となる須恵器重Aに
つ なが る もの と考 え られ る。土 師器壼
Aの
形態 的特徴 は、胴部最大幅が体部上〜 中位 にあ り、 口縁 端部上面が平坦 でや や肥厚 す る点 と、外 方へ 踏 ん張 った高台 を貼 り付 け る点 で あ る。 さ らに口縁部 と体部外面 全 面 に暗文 ミガキ を施す点 も特徴 であ り、 これ は当該期 の他 の土 師器供膳具 にみ られ るよ うに金属 器 の光沢 を表現 した もの と考 え られ る95。 これ らの土 師器壼Aの
諸特徴 は、百済 の 有蓋 短 頸壷 よ りも、金属製 の壼 を模倣 して製作 され た可 能性 が高 い と考 え られ る。 モデル となった金属 製壼 については、類例が少 ない ものの、奈 良県法隆寺宝物鋳銅製香水壼96(第8図
1、7世
紀 末〜8世
紀 前半)が
最 も近 い形 態 とい え、 時期 を前後 す る奈 良県法輸寺塔 金銅製舎利容器97(7世
紀 後 半)、 奈 良県東大寺金堂鎮壇 具銀製飯金狩猟文小壼98(752年
)
な どと同様の容器 と推測 される。
須 恵器壺
Aで
も、土 師器重Aと 同様 の形態 的特徴 の他、蓋 に宝珠形つ まみがつ く例 や、沈 線 やヘ ラ ミガキ を施す例 が存在す るこ とか ら、や は り金属 製 の壼 を模 倣 して製作 した ものと考 えることがで きる。
飛 鳥 ・藤原地域以外 で
7世
紀後半 を遡 る重Aが
あ るか否 か、金属製の壺 には無い把手 をつ け る こ との意 味、土師器壼Aと須恵器壺Aの
関係 な ど、 さ らに詳細 な検 討が必要であ るが、現 時点 で は 日本 の壼
Aは
、金属製の壼 (特に仏器 として使用)を
模倣 して製作 された器種 と 考 える99。以上 か ら、百 済 と日本 の火葬墓 との関係 は、百済 にお け る火葬 の状 況 に加 え、従来説の 根 拠 とな って い た短 頚壼 の形 態 的類似 に関 して も直接 的 な系 譜 関係 を持 つ とは評価 で き ず、百済 の火葬墓が 日本 の火葬墓 の源流 となった可能性 は薄い と考 える。
(2)新
羅説 の検討本稿 で分析 した新 羅 と日本 の火葬墓 は、骨蔵器 の形態 や埋 納 施設 に直接 的 な系譜 関係 は 認 めが た い。 それ は、 日本 の金属製 ・ ガ ラス製容 器 を骨 蔵器 と し、粘 土彬【・ 木炭棒卜を構築 す る点 と、新 羅 の印花文 で装飾 した専用骨 蔵器 や連 結把 手付壼 とい うよ うに、 それぞれ独 自の骨蔵 器・埋 納施設 を持 つ点 か ら、骨蔵器 の器種 選択 と埋 納施設 の構 築 において、 日本 と新羅 の火葬墓 の間に、直接 的な関係 は薄い と考 え られ るためであるЮO。
しか し、両者 の火葬墓 には共通点が あ る。 それ は、都城 。王京周辺 に分布す る特殊 な墓 構 造
(I型
・Al型 )の
存在 であ る。この専用容器 を使用 し専用 の外容器や埋 納施設 に納 め るI型・
Al型
の墓構 造 は、入 れ子72
日韓古代火葬墓の比較研究
構造 をとる点が共通す る (第
9図
)。 こうした火葬墓 にみ られる入れ子構造は、既 に指摘 されているようにЮl、舎利容器 を模倣 した ものと考えられる。
東 アジアの舎利容器 には、入れ子構造 をとる荘厳形式が広が っている。 これは F大涅槃 経』 などに見える、釈迦の葬儀 に際 し遺体 を金棺・銀棺・銅棺・鉄棺 とい う四重の構 に安 置 した故事 にちなむ とされ102、 日韓の仏舎利容器にもみ られる形式であるЮ3。 日本 と新羅の I型・
Al型
に共通 してみ られる入れ子構造は、 この舎利荘厳形式 を火葬墓 に採用 した結果 と考 えられる。 この とき、 日本ではガラス製容器や金属製容器 な ど、 よ り忠実 に舎利容器 に近づ けようとしているのに対 し、新羅では入れ子構造 と金形態 とい う構造的側面 を採用 し、印花文土器や連結把手付壺 などの専用容器 を創 出 している点に両国の受容の相違がみ られるЮ4。そ して、特殊 な墓構造 を もつ墓 を都城 ・王京周辺 につ くる点 は、律令制 とくに「喪葬 令」 との関係が想起できる。
日本では、都城の成立 と葬地の設置が不可分の関係 にあると考 え られ、墳墓の分布や墓 構造の面か らみて も、都城周辺の葬地への埋葬がおこなわれていた可能性が高いЮ5。 新羅の 律令制度は、武列王が654年に唐律令 を継受 して律令 を施行 してお り、その中に喪葬令規定 も存在 していた とされるЮ6。 新羅の喪葬令における、皇都条などの条文の詳細 については不 明な点が多いが、武烈王以降の王陵の配置状況か らみて王京 と陵域が分け られていること や、本稿で分析 した ように基本的に王京外 に葬地が分布す る点 に注 目したい。 これ らはお そ らく皇都条の ような京内の埋葬規制が存在 し、葬地 を京外へ設けたことを反映す ると考 えられる。
以上か ら、 日本 。新羅の火葬墓間に直接的な系譜関係 は認め られないが、両者の墓構造 の共通点か らは、「仏教思想 (特に仏舎利信仰)」 と「律令制度」 とい う共通する背景の 存在が考えられる。
慶 州南 山出土
第9図
骨蔵器の入れ子構造
奈 良県文祢麻 呂墓