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山陰弥生墳丘墓の成立と系譜

ドキュメント内 山陰弥生墳丘墓の研究 (ページ 79-108)

第 1 節 配石墓と方形区画墓

山陰の地域色は四隅突出型墳丘墓成立の前段階から現れている。弥生中期に他地域にはない貼石区 画をもつ方形区画の墳丘墓が島根県西部から京都府北部の海岸部を中心に点在的に築かれており、独 特の四隅突出型墳丘墓の成立はそれを背景にしていることは疑いない。四隅突出型墳丘墓のもとにな った山陰地方の貼石墳丘墓の初現はいまのところ弥生中期中葉ころと理解されるが、その出現経緯を 探るために、まず弥生中期中葉以前の埋葬形態を概観したい。

1 弥生時代初期の墳墓 区画墓の分類

弥生時代の墳墓は埋葬施設を広く囲う施設をもった区画墓と特別な区画施設をもたない墓の二種 類に大別できる。区画墓は溝や墳丘を造ることで遺体を納める埋葬施設よりもはるかに大きな墓域を 形作っている。区画のない墓には支石墓や配石墓、石蓋土壙墓、石棺墓、木棺墓、地域限定的な甕棺 墓があり、しばしば列状に並ぶ墓群を形成する。それらは時に溝などで集落域と区分され、墓域を形 成しているが、もとよりこれは区画のない墓に分類される。区画墓は区画のない墓よりやや遅れて、

おもに瀬戸内・畿内、山陰以東に現れる。瀬戸内以東の初期の区画墓では基本的に木棺墓または土壙 墓である。どちらもその初現段階から一定の地域差をもっている。

初期区画墓には、周囲を溝で囲う周溝墓と周囲を一段低く削って相対的に高い区画を造り出すいわ ゆる台状墓、土を盛り上げて墳丘を築く盛土の墓がある。これに山陰を中心に分布する方形区画の「貼 石」墓や四隅突出型墳丘墓など加えた分類が、弥生時代の区画をもつ墓の形態分類として、しばしば 地域色と重ねて論じられてきた。区画墓の研究には、この分類に加えて「古墳」との質の違いを示す 概念として用いられた「墳丘墓」が区画墓分類の指標として扱われることもある。「古墳」と「墳丘墓」

の区別に関する問題は第 1 章 2 節で記した。ここでは、埋葬施設を広く囲う区画をもつ墓のうち、な にがしかの高さをもつ区画墓全般をその築造時期や階層制と関係なく墳丘墓と総称する。もとより、

前方後円墳時代の各種の墳墓も墳丘墓である。

個々の墳丘墓の属性は、その墳丘墓が地域の中でどのようなあり方をしているかによって、異なっ てくる。たとえば弥生時代中期の佐賀県吉野ヶ里遺跡「北墳丘墓」と弥生時代後期後半の吉備地方の 楯築弥生墳丘墓は、同じ墳丘墓という言葉を用いても同じ歴史的ステージにある墳墓でまとめること はできない。吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は首長層の累代墓的様相をもち、楯築弥生墳丘墓は吉備の大首長 を埋葬した王墓の格をもつ。時代も形態も異なる二つの墳丘墓には地域色も踏まえた意味づけが必要 になる。墳丘墓の外観に一定の規格性が示された山陰の四隅突出型墳丘墓の場合などは墳丘形態その ものに地域的・時代的属性が備わっているが、これはその呼称に属性が与えられているからで、一般 的な墳丘墓に階層制や時代性などの特定の属性を与えることはできない。

和田晴吾は弥生墳丘墓を墳形と墳丘の構築法、立地、墓壙の構築方法などから再整理して、弥生墳 丘墓の基本形式を方形周溝墓、円形周溝墓、方形台状墓、円形台状墓に分け、さらに台状墓の地域的

変容として方形貼石台状墓(おもに島根県域の貼石区画墓)と四隅突出型方形台状墓(本書の四隅突 出型墳丘墓)、周溝墓と台状墓の複合形態として方形貼石周溝墓(おもに京都府北部の貼石区画墓)、

四隅突出型方形周溝墓(本書で扱う北陸型の四隅突出型墳丘墓)に分類している(和田 2003)。和田 の分類は各地の区画墓の特徴をそれぞれ系統づけたもので、円形周溝墓や貼石区画墓、四隅突出型墳 丘墓の地域色を描き出している。

周溝墓や台状墓などの分類はもともと区画の構築方法による視覚的な分類で、階層差を示すような 属性を備えた分類ではない。周溝墓は基本的に沖積地などの高低差のない平坦な場所にあり、台状墓 や盛土墓は高低差のある扇状地とか丘陵上に築かれている。細い丘陵地で一定の規模で平坦な区画を 造ろうとすれば、斜面下方側に土を盛り上げるとか、尾根筋を削り落して広い平坦面を造るなどの大 掛かりな工夫をしないと周溝を全周させることができない。周溝が外界から墓域を可視的に明示する ことを第一義的に担ったものだとすれば、溝でなく盛土によって区画を示す方法や、周りの地形と区 別できるように傾斜地の一部を削ることで人為的な区画を造りだす方法も、墓域を区画する意図に大 差はない。細い丘陵尾根筋に墓を作る場合は、区画の四周に溝をめぐらせるよりも、尾根筋の上下あ るいは左右の斜面を削り落すことで方形の区画を比較的容易に造ることができる。逆に平坦な場所で 台状墓を造るとなると周囲を広く削り落す作業は膨大なものになる。それよりも、周囲を溝で囲み、

その残土で内側に盛土をして区画を形作る方が容易である。盛土による区画墓は両者の折衷型で、区 画の一部に溝を伴う場合や一部を削り落す一方で区画内の低い部分に盛土をしている場合もある。周 溝墓もなにがしかの盛土をもっていることは、区画内に設けられた墓壙の底の高さから考えてほぼ確 かであろう。台状墓も区画内の高低差を調整するために一定の盛土が行われていたと推定できる。そ の意味ではこれらの区画墓はなにがしかの盛土や高低差が意識された墳丘墓といえる。

盛行する時期と分布地域に偏りがある区画墓もあるが、基本的には墓が築かれた場所、地形の違い によって区画墓の形が決まるのではなかろうか。区画墓の構築法の差は、同じ区画思想を背景にしな がらも築かれた場所によって生み出された形態差であり、根本的な技術や造墓思想の差に由来するも のではない。墓域をどこに定めるかの選択は、地域ごとの集落と墓の営み方の違いによる側面を考え ると、たとえば北陸の尾根上にある周溝墓は「立地の上で方形台状墓が方形周溝墓に影響を与えた」

(和田 2003)と対立軸のように扱う必要はないであろう。周溝墓と台状墓、盛土墓を区分することに 造墓思想上、さらには技術上根本的な違いがあると思えないが、和田の区分にしたがい、周溝墓と盛 土による墓を含めた台状墓に大別しておく。

2 初期弥生墳墓の地域色

列島の弥生時代の墳墓は、その初期から地域色をもっている。地域ごとに時期差もあることを含ん だうえで新たに始まる埋葬形態の地域色を大別すると、北部九州、山陰、瀬戸内・畿内の三地域に分 けることができる。北部九州には「石槨」をもつ支石墓と素掘りの墓壙(木棺を伴う土壙墓)をもつ 支石墓、甕棺を伴う石蓋土壙墓のほかに、希少例ながら福岡県東小田・峯遺跡のような木棺墓を内部 主体とした墳丘墓もある。本州西端部から山陰地域では、初期に土壙墓(木棺墓を含む)や石棺墓・

配石墓群が築かれ、前期の終わりごろに、但馬・丹波地域に方形周溝墓や台状墓が現れる。

瀬戸内・畿内地域では前期末ごろから、北部九州にみられない方形や円形周溝墓が築かれる。この 周溝墓は、その後、北陸・東海各地に広がり、弥生時代中・後期を通してその地域の普遍的な墓とな る。このほか、愛媛県西野Ⅲ遺跡で石槨状の「配石墓」や礫を用いた木棺墓、徳島市庄・蔵本遺跡の 箱形石棺墓があり、松菊里系の土器を伴う。

一方、九州島や山陰地域では、前期末から新たな埋葬形態が加わり地域色を深める。北部九州では 成人を納める甕棺が一般的に用いられるようになり、佐賀県吉野ケ里遺跡では甕棺墓を埋葬施設とす る累代的な墳丘墓が築かれる。吉武遺跡群では高木地区配石を伴う木棺墓や甕棺墓群、樋渡地区に 10 数基の木棺墓や甕棺墓を内部主体にした墳丘墓が認められる一方、列状配置をもつ大規模な甕棺墓群 が形成される。そのなかには青銅武器類や鏡を副葬した特別な墓が含まれている。また、中期後半以 降には前原市三雲南小路、春日市須玖岡本遺跡など王墓と目される墓で溝や墳丘による「方形」の区 画をもっていた可能性が考えられているほか、安徳台遺跡で不整形な台状墓も確認されている。

山陰の初期弥生墳墓(配石墓と方形区画)

山陰地方では主に 1990 年代以降、松江市古浦遺跡や出雲市原山遺跡以外でも、弥生前期~中期初 めに属する墓が各地で明らかにされている。山陰の弥生前期の墓制については、山田康弘、加藤光臣、

徳永隆らの意欲的な研究成果がある。山田は縄文時代にはない列状配置の墓が沿岸部を中心に西から 東へ時間的な経過とともに広がることを指摘し、縄文時代の伝統を継ぐ集塊状配置をもつ墓も弥生前 期の墓に残っていることにも配慮して、弥生文化の伝播ないし受容の実体を説いている(山田 2000)。

加藤は弥生前期の配石や木棺の裏込石が朝鮮半島からの系譜に遡れると指摘している(加 藤光 2000)。徳永は各氏の見解を総括して、配石と墓壙上の供献遺物、木棺の採用など新しい墓制の要素が いずれも縄文時代の墓制にたどれないものとして、その起源を北部九州の支石墓に求め(徳永 2000)、

松江市堀部第 1 遺跡の木棺を覆う石(報告では標石と記している)の配置を分類して北部九州の木棺 墓や朝鮮半島の支石墓との関わりを示唆している(徳永 2005)。

ここでは各氏のこのような視点に沿いながら、対象地域を山陰海岸東端部の但馬・丹後地域まで広 げて、その代表的な事例を取りあげる。墓壙内の木棺の有無かかわらず、墓壙上に大量の石を積み置 いたものや墓壙掘り方にそって石を置き並べたものを、便宜的に配石墓と表現する。ただし数個の石 を墓壙上に置いた標示石とみなされる類は含めない。

山陰の弥生中期初頭以前の墳墓の特徴は、大きく島根県域と広島県の山間部、鳥取県域、兵庫県北 部から京都府北部の但馬丹後地域の 3 地域に分けることができる(図 22)。

【山陰中西部】

広島県北部域については、島根県江津市に注ぐ江の川流域に属していることと、土器文化などの点 で山陰との近似性があることからまとめて扱うことにする。このうち、海岸沿いには浜田市鰐石遺跡、

松江市(旧鹿島町)古浦遺跡、同堀部第 1 遺跡、出雲市(旧簸川郡大社町)原山遺跡、山間部では益 田市(旧美濃郡匹見町)イセ遺跡のほか、江の川中流域の邑智郡美郷町(旧邑智町)沖丈遺跡、飯石 郡飯南町(旧頓原町)板屋Ⅲ遺跡、広島県域では江の川最上流域の山県郡北広島町塚迫遺跡、同町岡 の段C地点遺跡、三次市高平遺跡などで前期後半~中期初頭に属する墳墓群が知られている(図 22 の 1~10)。

ドキュメント内 山陰弥生墳丘墓の研究 (ページ 79-108)

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