第 1 節 山陰「鍵尾式」の再検討とその併行関係 1 はじめに
中国地方東部における、畿内第Ⅴ様式併行期から布留式併行期にかけての編年細分は、地域ごとに 粗密の差はあれ徐々に進められており、最近の論考には、その併行関係を示す試案が、具体的な型式 名を使って編年対照表に示されるようになってきている。中でも鳥取県青木遺跡の報告(青木遺跡発 掘調査団 1976・1977・1978)では、九重式=青木Ⅲ期と上東式、的場式=青木Ⅳ期と才の町Ⅰ式(伊 藤・柳瀬ほか 1974)の併行関係が示されるなど、これまでの山陰・山陽両地域に横たわっていた編年 上のギャップを解決する案も示されている。しかし、「鍵尾Ⅱ式」期(山本 1970 64 頁)の整理が具体 的に述べられなかった問題点があって、その成果はそのままの形では評価しにくいのが実情である。
ことに最近の報告等でも定義を抜きにして、「弥生後期末」「古式土師器」という名称にとらわれて、
その併行関係を考えているような論考がなお見受けられる。
その事例は、山陰とりわけ島根県側や岡山県北部での編年考証において、主として、九重式とこれ に後続する的場式、鍵尾式期の相対的な評価と、「汎鍵尾式」期の未整理な部分に由来する問題として 具体化している。端的な例で示すと、松江市的場遺跡の報告の中で、九重遺跡出土の器台形土器と岡 山県芋岡遺跡出土の白江Ⅱ式のそれとの近似性を指摘しながら、「特殊な器形をもつ一群の土器につ いてのみ言えることであって、両者の実年代とは別個のものとしたい」(近藤正・前島 1972 48 頁) と結論づけた例をはじめ、従来の「汎鍵尾式」に対して、一定の整理を試みる姿勢を打ち出し、小谷 式をこれから分離することを提唱しながら、なお島根県松本 1 号墳出土土器を「鍵尾Ⅱ式」の古段階 と理解し、「鍵尾Ⅱ式」を奈良県上ノ井手SDO31 資料(小若江北式併行)(安達・木下 1974)と対比 させようとした論(前島・松本 1976 36 頁)などがある。さらに岡山県西北部の西江遺跡報告中で、
九重式土器の出土事例に接しながら、「後期中葉のものは、明瞭なものがない」(岡山県教育委員会 1977b 401 頁)と記されていることも、山陰で提唱されている九重式弥生最終末期とする位置づけを そのまま受け入れて、後期中葉に上東式固有の様相を想定した結果であろう。
この例にみられるような、これまでの島根県等における編年研究上の問題点は、この地方を中心に 分布する四隅突出型方形墳墓を古墳とみなし、九重式を弥生最終末期、的場式を最古式の土師器とし て理念的に固定して、これを直接山陽地方の酒津式期に対比させようとした点と、安来市鍵尾遺跡資 料を標式にした鍵尾式が拡大解釈されて、その整理の必要性が説かれながらも、松本 1 号墳と同一型 式とした位置づけは(山本清 1963)出雲市知井宮遺跡の報告(大塚 1963)の段階から、ほとんど変化をみ せていないことの 2 点に集約される。この部分を中心に、中国地方東部の当該期の併行関係を再考す ることにしたい。
2 岡山県南部の編年細分
この地域の併行関係を考える際の軸として、当該期の編年細分が比較的良好に進められている岡山
県南部の細分案を便宜的に用いることにする(註 1)。以下にあげる区分は、おもに、『岡山県埋蔵文化 財発掘調査報告』2「上東遺跡の調査」(伊藤・柳瀬ほか 1974)(以下'74 年報告と略す)、『岡山県埋蔵 文化財発掘調査報告』16「川入・上東」(柳瀬・江見・中野 1977)(以下'77 年報告と略す)の成果によ っている。
上記二書では、当該期の細分案として、上東鬼川市Ⅰ~Ⅲ、才の町Ⅰ、Ⅱ、下田所、亀川上層式の 7 細分が提唱されている。詳細は原報告に譲るとして、この細分型式が、そのまま他地域の細分型式 と対応させうるかどうかは、なお問題があるようである。そこで、前記 7 細分を念頭において、ここ では、本稿の趣意に合わせて 4~5 区分を目安に再編成し、’77 年報告に記された下田所式を中心にし た評価に関する検討を加えておきたい。
Ⅰ期 鬼川市Ⅰ式期(図 8 の 1~6)
「弥生式土器集成」に収録された上東式(坪井 1958、鎌木 1964)のうち、その古相のものを抽出して、
上東式を細分しようとしたもので、大空式(鎌木・六車 1961)、白江Ⅰ式(間壁 1966)と提唱されてきた ものに対応する。
具体的には、上東遺跡東鬼川市 Pit4、同西鬼川市溝 4・5('77 年報告)資料を指標とする。壷形・
甕形・高坏形土器の各所に、より中期的な様相を残し、当地方の中期末の仁伍式(山本慶一 1973)から 本格的な上東式への中間様式ともいうべき位相である。
Ⅱ期 鬼川市Ⅱ式期(図 8 の 7~14)
「弥生式土器集成」に示された土器のうち、最も中心的なもので、「上東式」の本来の特徴を備えてい る一群である。
頸部沈線をもつ長頸の壷形土器と、口縁部径 40cm に達する大型の器台形土器が盛行する時期である。
Ⅲ期 鬼川市Ⅲ式および才の町Ⅰ式期(図 8 の 15~30)
従来は、上東式と酒津式との中間様式に、白江Ⅱ式、あるいはグランド上層式(間壁 1966a)と呼ば れていたものがあてられていたが、公表資料が岡山県西部に偏っていたこともあって、いま一つはっ きりしなかった。'72 年次の上東遺跡の調査で、良好な一括資料に恵まれ、この中間様式をより上東 式的なもの(鬼川市Ⅲ式=15~23)と、より酒津式的なもの(才の町Ⅰ式=24~30)との古新に 2 細 分することができた。倉敷市王墓山遺跡群の報告中(間壁忠彦・葭子 1974)に、鬼川市Ⅲ式と才の町Ⅰ 式をそれぞれエピ上東式、プロト酒津式と区分されたのは、この二者の特徴が一つの要因となってお り、さらに間壁忠彦・葭子両氏の独自の発生期古墳観の展望が含まれていたことによる。ただ、この 2 細分が直接、他地域他遺跡の資料に適応できるかどうかはいま少し検証の必要があるが、岡山県西 南部での粗雑な観察では、若干の区分も可能である。すなわち、矢掛町芋岡山遺跡C溝出土資料(間壁 忠彦・葭子 1967 38 頁)を補足する条件で、白江Ⅱ式を考えるならば、白江Ⅱ式は鬼川市Ⅲ式的であ り、かつて酒津式の範疇で考えられていた井原市(旧美星町)五万原遺跡 3 号住居址床面資料(間壁忠 彦・葭子 1968 13~15 頁)は、才の町Ⅰ式的なものに対応させうる。
鬼川市Ⅲ式は、上東遺跡東鬼川市井戸Ⅰ資料('74 年報告)を指標とする。この資料中には、器台 形土器の出土例がなく、鬼川市Ⅱ式期に盛行していた大型の器台形土器の変化を十分には把みきれな い。しかし、墳墓出土の例をみると、大小二つの器形がある。一般的には、受け部から筒部への屈曲
が鋭くなる(間壁ほか 1978 35 頁)ことが指摘できる。
才の町Ⅰ式は、上東遺跡才の町 Pit ヘ出土の一括資料('74 年報告)を指標にする。壷形・甕形土 器の底部には、胴下半部と同様な器面調整が顕在化し、高坏形土器がもっとも短脚化を示すのもこの 時期である。
Ⅳ期 a 才の町Ⅱ式・下田所式期(以下、総称する場合は酒津式を用いる。図 9 の 1~15)
才の町Ⅱ式は、'74 年報告で上東遺跡における酒津式土器と認識したもので、才の町 Pit ト出土の 一括資料をもってあてた。ただし、'77 年報告で、それまでの成果を踏まえて編年案をまとめた柳瀬 昭彦と私とでは、次期に設定された下田所式の評価に若干の相違がある。
柳瀬案における才の町Ⅱ式と下田所式の差は、下田所式には、甕・壷の丸底化、器胴の球形化の進 行等、器形の後発性が顕著になる点であり、さらに氏の予察的な見通しとして、甕の二重口縁部外面 に、顕著な櫛描線を施した後、横ナデを加えた退化凹線が主流を占めるもの(=才の町Ⅱ式)と、細 く浅い櫛(刷毛?)描平行沈線だけのもの(=下田所式)との違いが見出されることにある、と理解 される。この相違点は、上東遺跡才の町 Pit ト資料('74 年報告)と、同下田所 Pit4・川入遺跡法万 寺溝 4 資料('77 年報告)とを識別する手掛りとしては、有効な根拠になるに違いない。
ところで、倉敷市酒津遺跡資料(間壁 1958)を参考にすると、器形の上では、才の町Ⅱ式と下田所式 の両方に共通する様相をもちながら、甕の口縁部の技法は、むしろ後者に通じる内容となっている。
また、少量の資料で比較するには大きな難点があることを断わった上で、高坏を比較してみると、深 い口縁部立ち上がりと、浅い坏部、脚柱部の特徴等、酒津遺跡の高坏は才の町Ⅱ式のそれよりも、よ り後出的な要素がみられる。
このような差が、一型式内の、新古の様相をもちながらも器形のバラエティとしておこっているの か、細分可能な目安になるのか、現資料からだけでは断定しえないが、見通しとして、細分可能な根 拠になりそうである。
結論的にいえば、柳瀬案の才の町Ⅱ式と下田所式は、酒津式の新古の様相を良好な形態で捉えたも ので、その場合、酒津遺跡資料に対応するものは下田所式であり、下田所式を酒津式の後続型式とし て取り出す必要はない。才の町Ⅱ式は、その古段階に位置づけられるが、才の町 Pit ト以外あまり類 例がないことを考慮すると、本格的酒津式への過渡期的側面と考えておいてよいであろう。
Ⅳ期 b 仮称才の元式期(図 9 の 16~20)
酒津式と亀川上層式の中間型式と考えられる小期であるが、前項で記したように酒津式が下田所 Pit4 資料に対応することに立脚し、川入遺跡法万寺地区 4 号住居址資料や大溝Ⅳ層資料('77 年報告)
を補足した亀川上層式を考え合わすと、酒津式と亀川上層式の間に 1 小期を設定できるかどうか疑わ しい面もある。しかし、器種構成に不十分な点が残るものの、上東・才の元 Pit1 資料('74 年報告)
を酒津式の範疇で考えてよいかどうかは、問題である。本例の高坏・器台・甕のすべてに、酒津遺跡 資料よりも後発的な様相を示していることは事実であり、上東遺跡のすぐ北に位置する辻山田遺跡溝 D・F2(間壁忠彦・葭子 1974 78・79・87 頁)にも類似資料をみることができる。ここでは、今後の課 題として、中間的な一群があることを指摘するにとどめる。
Ⅴ 亀川上層式期(図 9 の 21~33)
上東遺跡・亀川地区斜面堆積の一括資料、川入遺跡・法万寺地区 4 号住居址、同遺跡大溝 4 層、同 Pit2 資料(以上、'77 年報告)を標識とする。酒津式の器形からたどりうる資料がほとんどであるが、
内面ヘラ削り技法によらない壷・甕や、坏部径の小さい有底の小型器台、小型坩等畿内の布留式との 関連で考えられる資料も確実に共伴している。
当地方当該期の編年は、坪井清足が笠岡市高島王泊遺跡(坪井 1956)の観察から、畿内布留式の整理 検討を加味して、王泊第六層式の抽出と、第五層式と小若江北式の併行関係を示して以後、1960 年代 後半に、間壁忠彦が数少ない資料の中から、酒津式→玉野市山田原(=小若江北式)→笠岡市北川走 出という変化を示した案(間壁 1966b)につきていた。
高島遺跡で示された王泊第六層式提唱の意義は、いまだ酒津式土器の様相が明らかになっていなか った段階で、布留式に先行する土師器の一群があることを、幅広い視野で見通した点であり、いわば、
酒津式的なものを理念の上で描こうとしていた(註 2)ことにある。ところが、このような意味合いを もって示された「第六層式」は、現実にはわずか 7 点の材料にもとづく不明瞭な内容であったにもか かわらず、最近ではこれが酒津式に後出して、さらに 2 期に分けられたりするような見解さえ示され ている(正岡ほか 1972 112 頁)。
王泊の層位区分の材料中には、すでに 1・2 の指摘があるように、各層位に若干の挟雑物がみられ(間 壁 1972 92 頁)、この時期の資料がある程度豊富になってきた現在では、器種構成もわかるより純粋 な一括資料を軸に細分を考える必要があろう。
その後、岡山市幡多廃寺下層資料の検討をとおして当該期の整理を試みた根木修は、酒津式土器の 系譜をひく器種と、畿内的な影響下にある器種―小型丸底土器の出現―の混在の意義を問いながら、
酒津式→王泊第六層→(山田原)→王泊第五層→北川走出の図式と、幡多廃寺下層Ⅰ~Ⅴ式の分類案を 示した(根木ほか 1975 177~178 頁 註 3)。
柳瀬もまた、上東・川入遺跡('77 年報告)の整理をとおして、才の町Ⅱ式→下田所式→(+)→
亀川上層式→(+)→川入大溝上層式の試案を示している。
この懸案の細部の評価はともかく、氏等の指摘にあるように、亀川上層式の諸相は、王泊第五層資 料にやや先行する位置づけを与えてよいと思われ、坪井が先見的に「王泊第六層式」(=理念的には酒 津式)と同第五層式の間にもう一型式を想定していたもの(坪井 1956 28 頁)に対応させうるのではな かろうか。
近年では、畿内の庄内式から布留式への推移の実体もかなり複雑なことが知られるようになり、布 留式自体にも、小若江北式に先行する一群が指摘されている。亀川上層式も、布留式に共通する器形 や技法が各所にみられ、時間的なちかさを自ずと示している。したがって亀川上層式は、おおむね布 留式の古段階との併行関係を考えておきたい。
ただ、亀川上層式そのものも、たとえば'77 年報告の前記資料と'74 年報告の亀川斜面堆積資料との 間に、わずかな先後関係を見出すことは可能である。後者が、小若江北式との併行関係で捉えうるこ とを考慮すれば、この新古の様相は、将来、細分の目安になるかもしれない。