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教育をめぐる対立と裁判と法研究序説 ― 教育裁判論研究を素材にして ―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

教育をめぐる対立と裁判と法研究序説 ― 教育裁判 論研究を素材にして ―

著者 元山 健

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 17

ページ 13‑26

発行年 1981‑03‑23

その他のタイトル Introduction to the Study of the Conflicts and the Law on Education.

URL http://hdl.handle.net/10105/6498

(2)

       箏

教育をめぐる対立と裁判と法研究序説

一教育裁判論研究を素材にして一

元 山   健榊

 (政治学教室)

序 本棚の課題

 法学にとって、法と裁判とは切っても切れない深い仲にある。教育法にもこのことはもちろん あてはまる。

 ところが、「戦後日本の……教育行政現象においては、不幸にして法現象の比重が異常なまで に高まっている」 (傍点筆者)という叙述につきあたり、また、r r教育裁判が存在すること自体        (王).....

が……教育の自由を奪っている」(2)(傍点筆者)とも述べられている。さらに、r学校の教育関係 の内部にかかわる教育法理論は……教育関係者にとっての『行為規範』として、『慣習法』的に 働かせられるのがふさわしく、それが『裁判規範』化せしめられるのは最後的場面と心得られる べきではなかろうか」{3)と主張される。教育法学はよほどの「裁判」嫌いであると思われる。誰で

も裁判など好きではないという意味では、教育法学は正常であるが、先程も述べたように、法と いえば裁判という答えが戻ってくる法学の世界にあっては、このことは大変に興味深いものとい わねばならない。実は、このことは本稿の本論で述べるように、教育という対象に規定された正 当な根拠があるのであるが、私がかなり以前に感じた素朴な疑問であった。

 そこで、本稿は教育法学会の成果に依拠しつつ、その教育裁判論の諸研究を中心的素材として、

教育裁判と教育法についての論点を整理するとともに、そのなかで若干の課題を提起し、可能な 限りこれらに対する解答を見出すことを目的とするものである。

 このような課題意識にもとづく本稿には、それに規定された限界があることはいうまでもない。

第ユに、教育裁判論からのアプローチに伴う限界である。それは教育裁判研究そのものではない し、教育法論そのものでもないことになる。第2に、論理の構造の分析を通じてのアプローチで あることから生じる限界である。たとえば、本稿ではr教育の本質」やr教育権」それ自体は考 察の直接の対象とはならない。とはいえ、r法律の観点だけから、法律の地平に現れた限りでの 教育を問題にしてみても、……教育法の本質はとらえられない」(4)という指摘にしたがって、 r論 理の観点だけから教育を問題にする」ことのないよう努めるつもりである。

 以上の如き限界にもかかわらず、本稿の課題設定は、 「不幸」にして多発しているとはいえ、

日本の教育の基本的矛盾を照し出している教育裁判の研究を対象としているがゆえに、今日の教 育法・裁判の重要な課題に迫りうるものと考えるのである。

*Introductiontothe Studydthe Conflicts拙t㎞Law㎝肋]ca乞i㎝.

榊Ken Motoyama(Department of Political Science,Nara University of  Education,Nara)

一一3一

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I 徴育裁判白の話相

1.教育紛争・教育裁判の発生長盤 ω 教育をめぐる対立の論理的整序

 教育をめぐる対立は、形式的にこれを見れば、教育にかかわるすべての主体の間で生じる可能 性があるし、その組み合せはそれ自体としては容易にできよう。たとえば、親対子、教師対子、

教師対教師といった具合である。しかし、教育裁判論を基軸にしてこの対立を見るときには、現 代日本における最も基本的な対立の現象形態は、国(以下、地方公共団体も含む)と教師・国民 との対立であるといえるであろう。ところで、この対立現象は見方を変えれば、教師を個人的に

も、また集団的にも、国が獲得するか、国民(親と子ども)が獲得するかの争いともいえるであ ろう。教師の側からいえば、いかなる主体として自己を位置づけるのかという形で、この対立が 選択を迫ってくるともいえるのである。たとえば、現象的には教師対子どもという形をとる争い・

対立(内申書問題や非人聞的体罰事件など)も、その本質は国と国民の対立であることが少くな いのである。この場合には、教師が国家の側に獲得されてしまっていると考えられるのである。

 ところで、このように述べてくると、教師は中間的存在であるかの如く思われるかもしれない。

しかし、そうではない。まず最初に教師の存在そのものを見ることにしよう。教師は教育の営み を実現するための教育的価値1・)の所持者であるとともに勤労者であるべの教師?存在自体が教 師の選択を決定する基本的土台である。そこから子どものための専門職であるとともに、その親 と同じ勤労者であるという意識が生れる。しかし、同時にこの存在は資本主義的形態でしか現れ ないために、そこからは専門職の裏返しとしての聖職者意識と労働者ではなく国家業務の執行者 意識も生れるのである。主・徒を間違えてはならないが、存在と意識のズレは現実に生じうるの であって、後者の意識が教師を総体として包み込むことさえありうるのである。かくて、教師は 本質的には国民の側に立つものであり、その意味で既述の構図は正しいものであるにも拘わらず、

現実には厳しい選択を迫られる主体として、国民の側に立つことを決断しつつ、対立の舞台に登 場せざるをえないのである。

 以上に述べたことは、「大工業の本性とその資本主義的形態のもたらす、根本的に相反する2 つの側面こそ、今日の教育をめぐる諸矛盾の出発点であり、また帰着するところでもある。」(6)と いう指摘に、教師の主体性の矛盾の側面から接近しだといってもよい。しかし、これが現実のわ が国の教育をめぐる対立として現象する(=教育紛争となる)までには、さらにいくつかの契機 を導入しなくてはならない。

 第1には、今日の教育をめぐる対立は特殊現代の資本主義の下で生じるものであることである。

周知のように、現代の資本主義は国家の積極的な社会への介入によってはじめてその存立を確保 している。その主軸が経済にあることは言うを侯たない。しかし、経済への介入は経済の矛盾を 本質的には一層拡大する形でしか「解決」できないし、そのことは、同時に国家権力そのものの 危機をも意味している。これが国家の市民社会への恒常的介入の現実的土台なのである。さて、

国家の社会への介入は、具体的には、支配階級内での調整と妥協を経た階級意思の総括たる諸政 策に結実し、諸政策はその体系を形づくる。イデオロギー政策は治安政策の2本柱の1っとして、

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現実の国家の階級的役割を隠蔽するために積極的に機能することになる。教育政策がこの1っで あることはいうまでもない。(7戸くして、現実の教育対立は、高度に発達した資本主義の所産とい えるのである。

 とはいえ、これではまだ日本の現実の教育対立の必然性の証明にはならない。そこで、第2に、

国家のイデオロギー支配の総体のうちで文教政策が中心をなすのはなぜかという間に答えねばな らない。影山日出弥氏は、国家のイデオロギー支配の目的を「国民の全体を『超」階級的形で捕

捉すること」一 A「それを確実に長期に保障する」ことであると述べている。(8)公教育とりわけ義 務教育は、r国民全体を捕捉すること」に最も適しており、また教育が人間の形成である以上、

青年期までに「捕捉」することは「確実」性と「長期」性の何よりの「保障」であるといえるで あろう。かくて、何故に文教政策のうちの教育政策が中心をなすかが理解され、何故に教育を 巡る対立が生じるかが理解されるのである。

 しかし、これでもなおわが国において現実に教育をめぐる対立が多数存在することの証明には 足りない。それゆえ第3に、わが国における現代資本主義の矛盾を統治のレベルで現実に表現し、

したがって、教育紛争の直接的契機となってきたもの、即ち、日米安保体制の存在によって生み だされる教育対立が検討されねばならないのである。こあ点の重要性は、戦後の日本教育史を顧 みれば明らかである。(g)そして、この面からの検討が今日も依然として重要であることはいうまで

もない、否、むしろそれは今日の日本の教育をめぐる基本的対立の1つであるとともに、それを 現実の教育の教育紛争へと転化させる直接的契機、決定的環でもあるといえるのである。

 ここで若干のまとめをすることにしよう。すでに序で述べたように、本稿の課題の1つは教育 法学における教育裁判の諸研究の検討を通じて、教育紛争、教育裁判のとらえ方の整理を試み、

できうれば課題を提出することにあっれ

 日本における教育対立を規定するものが、r高度に発達した資本主義」とr日米安保体制」に あることは、既述に明らかなようにすでに明らかにされていることである。①Φ私が本節で試みた ことは、両者の相互関係に筋道をつけることであり、教育法学の諸成果を導きとして、教育をめ

ぐる対立を資本・労働関係から具体的現実へと階梯的に論理を進めてみようとすることであった。

そうする由縁は、2つの規定要素が別個にあるものではなく、教育をめぐる対立総体に統一的に 実現している以上、その統一的な実現の仕方は「経済一国家一政策」の連関を2つの規定要素の 巾にとらえこむことによって、一層明確になるように思われたからである。

 第2の整理課題は、教育をめぐる対立の基本構図に関することであった。即ち、支配階級・国 家・行政対教師・国民という対抗関係のうち、教師 国民とまとめられている部分の相互関係を 教師の主体を軸にしつつ、教育・教育的価値・専門職・勤労者・聖職・公務執行者といった概念 を用いて、幾分なりと明らかにすることであった。この点は「教育是正・創造的裁判」と分類さ れる諸事件のあるものにっいての見方の基礎として若干とも役立つであろうと考えたからである。

 兼子仁教授は、教育法学の先駆的著作において、「今日の日本の教育界が『全般的恒常的な教 育紛争状況』にあり」、それはr『学校戦争』と呼んでも過言ではな」く、r日本の教育課程行 政が一流国としてよほど異常である」と述べているωが、その理由は、教育法学のこれまでの諸

一!5一

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研究によって、今日では以上のように理解されているように思われるのである。

12〕対立 紛争 裁判の発生の論理的整序

 以上のように教育をめぐる対立を整序したとしても、それが教育裁判に現象するまでには、論 理的に少くともあと2つの階梯を踏まなくてはならない。第1には、教育をめぐる対立が具体的 な教育紛争として現象するプロセスを規定する諸要因の分析である。これが必要なのは、対立が 具体的紛争にまですべて発展するとはいえないからである。それゆえ、この段階においても、対 立の基本的諸要因を前提としつつ、それとは相対的に異なる規定要素が存在しなくてはならない。

たとえば、そこでは紛争を惹起する政策は具体化されているであろう。そうだとすれば、基本的 教育施策から個別的なその実現までのプロセスが、具体的諸紛争の分析から抽出され、そこから

さらに教育紛争の質の一般性と特殊性とが明らかにされることができるであろう。

 第2の階梯は、教育紛争が教育裁判に展開するプロセスの分析である。ここでも、第1の階梯 と同様のことが該当するが、それだけではなく、ここでは「法」的要因が不可欠の要素として登 場せざるをえなくなることに特別の注意が払われなければならない。その場合、r法」は第1に

r紛争」の実体そのものをr法」の枠組みに組み込むという意味で、第2にこの実体を法的r技 術」(ここではr解釈」ということだけでなく、訴訟技術という手続き的なものも含めている)

の枠組みに組み込むという意味で、審理に入る以前にすでに重要な役割りを果すことになる。も ちろん、この過程の結果は裁判そのもので明らかになるが、ある枠組みを対立する当事者が各々 何故に選択したのかということの分析は、一方の当事者が国である場合の実証的分析は困難かも

しれないが、やはり行いうるものといわねばならないだろう。

 このような大きな2つの階梯の分析を通して、教育をめぐる対立の基本的決定要素が、個々の 階梯での法則性を通じて貫ぬかれて、教育裁判の発生へと連なっていくと考えられるのである。

ここでは、如上のように教育裁判への論理的道程の構造を提起することによって、教育裁判の普 遍と特殊を明らかにする課題の1っとしっつも、その具体的展開はこれまでの諸業績に譲り、私

自身の展開は他日を期すことにしたい。そこで、次に節を改めて教育裁判そのものについての諸 論点の整理を、とくにその概念と意義(効果や限界を含めて)という点から、試みることにする。

2.教育裁判蛉の諸相 ω 教育裁判の概念

 ① 内容2分類論一教育裁判は、教育関係裁判と教育法裁判に内容上2分される。前者は r教育ないし教育界とのかかわりが法的ではなく、たんに現実的・事実上のかかわりである裁判」

であり、後者はr教育が良く行なわれることを助長するような、教育制度に特有な『教育法』の 法論理が形成実現されていく」ような裁判である。⑫教育法社会学はこの両方を研究対象とする が、教育法解釈学の固有の対象は後者のみである。ここですでにr教育が良く行なわれることを 助長する」という目的論的ないし価値志向的表現があらわれている。この点はr教育法」そのも ののとらえ方とかかわっているが、本稿では皿章で更に詳述することにしたい。

 ② 教育法裁判の機能的分類一これは、教育の自主性を守る機能を果すべき「自主性擁護的 教育裁判」、教育の外的条件を整備する機能を果すべきr条件整備的教育裁判」、教育創造ない

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し是正の機能を果すべきr教育是正的教育裁判」に分類される。O劃この中で第2の裁判こそ本来 の教育法裁判であり、第3のものは裁判で結着をつけるのにはふさわしくないものとされている。

こう言われる理由についても①と同様に後述に委ねるごとにする。

 ③ 訴訟形態からの分類一教育裁判は独自の訴訟形態をもつものではないので、以上の内容 と機能をもつ裁判が、r刑事」、 r行政」、 r民事」の各訴訟で行われることになる。ここでは

r刑事教育裁判」の発生理由に特に注意しておきたい。その理由として、第1に国の教育政策・

行政に対する教育界の人々の反対が強いこと、第2に、教育界の人々にとって事前の行政参加権 や積極的な行政争訟権の保障が乏しいことが挙げられているからである。ωこの理由の前者につ いては、前節ですでに具体的に論じているが、後者の指摘は、前節の12〕で述べた「対立一紛争」、

「紛争一裁判」の各論理階梯にかかわる重要な指摘といえるであろう。

 ④ 教育裁判の総体を定義する試み一r教育紛争を国家機関たる裁判所において教育法を媒 介として一定の法的判断を導き出し、紛争を権力的に『解決』する現象」が教育裁判であるとす

る考え方がある。{15〕この定義の積極面は裁判所を国家機関の一つと認識した点にある狐他方 r教育法を媒介として」とすることによって、①の教育関係裁判が欠落する可能性があるといえ よう。もっとも、同じ論者は、教育裁判をr高度に発達した資本主義の所産であって、経済・国 家体制の国家独占資本主義化に即応し、強化される教育施策の市民法原理の否定によって現出す

る社会現象」とも規定しており、㈹教育関係裁判は、この後者の規定によれば包括されることに なろう。ところで、この後者の規定には、「市民法原理の否定」という指摘があり、同じ論者は 別のところで、教育法をr社会法」ととらえているように思われる。ここには教育法の歴史的本 質論への手がかりがあるといえよう(第皿章を参照のこと)。さらに同じ論者はr今日の教育裁 判は……安保法体系を支持する者と憲法体系を支持する者との抗争として成立する教育紛争を、

裁判所において法を媒介として解決しようとするものであり、争いの中心は教育権の帰属である」

とも定義している。o刊以上の定義にあたって、r裁判」を一つの過程として把握することが前提 とされているが、これは「過程的分析」として今日更に発展させられている。{1勧

 そこで、最後に前節の叙述をも踏えつつ、教育裁判の仮の定義を提示することによって整理を することにしたい。r今日の日本における教育裁判は、資本主義社会における基本矛盾にもとづ

く基本的教育対立を根底にしつつ、国家独占資本主義段階の教育対立を直接の土台とし、安保体 制による教育対立を直接の契機として生成する教育紛争を、現代の特殊法たる教育法を中心とす る法を媒介として、国家機関の1つである裁判所において、権力的に『解決』しようとする、国 家・教師・国民を主体とする諸当事者の広い意味での教育権の帰属をめぐる歴史的諸運動の特殊

な社会的現象形態の1つである。」

12〕教育裁判の特色と限界一① 教育裁判の特色についても、教育法学における多くの業績が ある。(a)教育裁判の提起ないし年代的進行からみた特色として、「学校教育をめぐる対立」を反 映しているということがある。ug〕教育裁判が教育をめぐる対立のなかでも学校を中心に生起して

いることは確かなことである。その必然性については、すでに前節の文教政策に関する叙述にお いて素描してある。(b激育裁判には憲法裁判に準ずるものが少くないことが、第2の特色として

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挙げられよう。e⑪その理由の最大のものとしては、教育基本法制が国民の教育権を軸にして憲法 の文化・教育的基本権と結合していることとこれを生かしうる国民教育運動の力量の存在、そし てこれらと対立する教育法制・行政の存在が挙げられよう。(c)第3の特色としては、教育裁判に おいては、法廷は「公開シンポジウム」の如くとらえられねばならないということである。⑫1〕こ れは裁判官の意識が判決に影響するという一般的な裁判の科学論のレベルでもいえようが、にも か、わらずr特色」として指摘されるにはそれなりの理由があるように思われる。それは、(d)教 育裁判の「動態性」という第4の特色ともか、わるのである。⑳この理由は、直接的には、裁判 官が教育については素人であるということである。何故、裁判官が素人のままではいけないのだ ろうか。第1に、教育について素人のままであると、形式的法論理の操作の次元のみで判決を下

してしまう危険があるからである。そして第2に、形式的法論理は、そもそも教育の本質に合致 しないと考えられているからである。(e)第5の特色として挙げられるのは、教育裁判において争 われるのは「歴史観や教育観、そして人問観」であるということである。㈱しかし、注意すべき

ことは、裁判所にこれらを好んで決定してもらおうとして、こうしたことが争われるという意味 でこの特色が挙げられているのではないということである。 r裁判所には歴史解釈や教育の本質、

民主主義の本質についての見解を、判決という形でおしつける権利はもともとないはず」である という指摘はこれを裏づけている。②切教育裁判においては、国民が、原告であれ被告であれ、本 質的には法的規制になじまない教育とその価値の一切を違憲な法規によって統制しようとする教 育行政の攻勢を問題とする限りで、歴史観などがすぐれて問題にならざるをえないという意味で

の受け身的特色であると解すべきであろう。晒)(f)最後の特色として、教育裁判は国民教育運動の 一環としての意義を有しているということが挙げられている。かくて教育裁判は、比較裁判論の 観点およびr教育」の本質の観点から以上のように特徴づけられているといえるであろう。

② 教育裁判の限界一教育裁判の限界として挙げられるのは、(到裁判の枠の限界、(b)裁判所の 権力機関としての限界(とくに最高裁判所)(C)国民教育運動にとっての限界、O)法理論の水準 の限界、(e)法論理であること自体の限界、㈱(f)判決の教育認識の限界等々である。②ηこれらのう ち、(a)(b)(e)については必ずしも教育裁判だけの限界とは思われない。(c)については他の裁判運動 に比して限界が大きいように思われる。それは(f)ともかかわるが、すでに述べたように、教育の 本質はもともと法的規制になじまないといわれる以上、運動の本質を裁判そのものが規定してい

く程度は少くならざるをえないからである。注意すべきは、この限界は他と比較してのr量」的 相違なのであって、 「質」的なものではないということ、換言すれば、いかなる裁判運動も、そ の成否が全面・唯一的にr裁判での勝敗」にかかるということはありえないことである。{醐(Dに ついては、たしかに教育裁判独自の限界的特色といってよいであろう。@)は克服さるべく予定さ れた限界であって、本質的限界ではないように思われる。かくて、ここでも「教育」の本質とか かわって、教育裁判の質的限界が最も強く現れているといえる。それゆえ、次章においては、教 育法論の諸相を通して、この点に一層の接近を試みつつ、整理に向いたいと思う。

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皿 教育法曽の諸相 1、法舗理としての教育法

 前節においては、教育裁判論の様相が検討された。ここでは教育法論の諸相を検討することに する。しかしながら、その中心軸は教育法解釈学の立場から教育法の諸論を見るということに限 定されるgなぜなら、全体として教育裁判研究を基軸的素材として展開される本稿においては、

教育法の諸論もまた、「裁判」とのかかわりでこれを見ていくことが論理のとるべき道筋であり、

r裁判」ということになれば、現実に最も大きな影響を有するのは裁判官の価値判断=判決と直 結する教育法解釈に他ならないからである。

 そこで、最初に教育法の定義から見ていくことにしよう。鵬〕兼子仁教授は、「現行法の法論理 としての教育法は『教育制度に特有な法論理の体系』である」とされる。{30そして・ rこのよう な教育法の捉え方は、現行の教育関係法が、教育という事柄の性質に即して正しく条理解釈でき るものであることに結びついて」いるとされ・81〕更に・「教育関係法であっても・そこに『教育 制度に特有な法論理』がなく、政治的な国家統制の法論理が実施されていれば、そのかぎりで限 実には、厳密な意味での教育法は不在」だとされる。働

 この定義において、鍵を握る概念は、r法論理」、 「教育制度」、そしてr条理」である。

r法論理」とは、r現行法としてあるべき法規範の内容」である。制 r教育制度」とは、r教育 が行なわれていくのに必要な条件として社会的に整備されているべき仕組み」をいう。触そして

「条理」とは、条理一般ではなく、現代の特殊条理としての「教育条理」であり、「その内容的 素材は、教育ないし教育制度の性質に即した、より具体的な原理や法則である」とされる。嗣ま た、「いかに実現されることがのぞましい教育の原理・法則であっても、権力的強制がふさわし

くないものは教育『条理』と解すべきではない。」のである。㈹

 さて、以上のように簡単に教育法解釈学の立場からの代表的教育法論を整理したうえで、まず 第一に気付くことは、「べき」という当為概念の多用である。この点をとらえて教育法学の非科 学性を論難する向きもあるかと思われるが、私はそうは思わない。なぜなら、そもそもこの定義 が法解釈学の立場からのそれであることである。法解釈は本来的に「価値判断」なのであって、

その限りで当為概念が用いられることには何の不思議もない。それは、解釈の正当性をr科学的 決定説」の立場から論証する場合にもなお、それが解釈である限り、r当為」榎念たることを失

なわないのは当然だといえるのである。このことが確認すべき第一の点である。

 次に気付くことは、教育条理の本質的内容は何かということである。条理もまた法源の一つで あるから、そのレベルからいえば、権力的強制を不可欠の内容としている。他方、条理とはr事 物の本質」という意味であり、これは教育条理においては、「教育の本質」がその内容というこ

とができる。ところで、「教育の本質」の一つを自律性と考えるとすると、r条理」の内容はあ たかも二律背反の運命に陥るかの如く思われる。しかしそれは現象的把握なのであって、両者の 関係を自律の保障としての強制、または自律の反映としての強制と把握することが重要であろう。

このことは教育の営為を保障するものとして教育制度をとらえることを意味する。条理=法は直 接に律この制度をとらえ、そこに強制の契機が生かされてくることになるのである。教育=自律

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は、制度一強制を自からのために創出することによって実現されるという関係がここにはあると いわねばならないのである。ところで、制度の目的たる「社会的統制」と教育の自律性の内実と

しての「発達保障」とは、現実にはrそれぞれにおいて矛盾している」し、 「このような矛盾を 含むものとして」教育法はとらえられねばならないという重要な指摘がある。{弼「条理」論は、こ

うした見解と必ずしも異なるものではないのである。たとえば、対立する「発達保障」観の各々 には、それに合致した制度論があるからである。r条理」論の本質は、つきつめれば、科学的教 育内容論に規定されつつ、これに立ち入らないということであるように思われるのである。そこ で最後に考察すべきことは、教育科学の枠の中で、ともに基本的には発達保障の法則にのっとっ ていながら、相対的に異なる保障内容が提起された場合の問題である。ここでは、教育法のr条 理」解釈としては、より制度概念になじむものの方が選択されるであろう。ここでは制度=強制 概念が教育概念に反作用するのである。条理論は、教育内容に立ち入らないことを前提としつつ、

このようなダイナミックスのうちにとらえなくては無矛盾的3段論法(教育一条理一法)に帰着 してしまうであろう。それは教育そのもののダイナミックスを無視する、教育法学自体の存在根 拠を失わしめる発想といわねばならない。

2.教育法の特蟹 ω 教育法の性質

 ここではr現代法」、 「社会法」、 r特殊法」、 「教育行政法」などの諸概念とのかかわりで、

r教育法」の性質について、整理を試みることにする。

 (a)教育行政法と教育法一教育に関する法をどのようにとらえるかについては、「教育行政 法規説」・「教育関係法規説」・「教育法固有法説」があるといわれる。138〕前2者の特徴は一言で

いえば、教育と教育行政を分離せず、行政=権力作用の一つとして教育を位置づける点にある。{鋤 これに対して、固有法説は教育と教育行政とを分離するところに特徴がある。にも拘わらず、

r巨視的にみれば、……いまだ教育行政の機能論を中心とする行政法学ないし教育行政学の域に とどまるものとみられる」という批判は重要である。ωこの域からの脱出の一つのあり方として、

固有法説は、徹底して教育それ自体を法論理の外へ排除しつつ、かつこれに本質的に依拠すると いう形で行ないつつあるように思われる。ωそれは非権力的な営みである教育と法論理とを媒介 するものとしての教育権論に集約されるといえるであろう。かくて、教育権論に教育学と教育法 学、教育法社会学と教育法解釈学は収飲することになるのである。

 (b)教育法と特殊法・社会法概念一教育法は民法に対する「特殊法」であり、労働法や社会 保障法という社会法にたいして固有性をもった独自の社会法である。教育法は、特殊法であり、

社会法であることによって、すぐれて現代法であるといえるのである。

 ところで、社会法とは何かということに関して、多くの研究成果があるが、念頭に置かれてい る社会法とは、「社会的弱者の入間的生存の権利を現実に保障すべきであるという原理」にもと づくものとして考えられている。⑫それゆえ、民法との関係では、非財産的性質の在学契約を例と

した論理の中でのみr特殊法」という社会法とは別の表現がなされたのであろう。というのは、

民法の財産法的性質の側面は、すでにみた社会法概念のうちに否定的に総括されていくからであ

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る。たゾ、注意すべき点は、「社会的弱者」概念には、教育法においては、「発達可能態」とし ての子どもという観点が独自の位置を有することである。それは教育に特殊な社会関係を基礎づ けるものであり、そのことこそが「教育法」をその他の社会法にたいする別個の「特殊法」とす る基底要因であろう。それゆえ、r特殊法」概念は一方で民法、他方で他の社会法に対するもの として2重の用い方をされるのであるが、それは既述の社会法の定義を軸としたメダルの表裏の 如き関係と整理できるように思われるのである。㈹

12〕教育法の自立性

 教育法が独自に存在しうる根拠が、すでに述べたように、「特殊法」を成立させるr特殊社会 関係」にあることは疑いがない。ところで、この特殊社会関係概念は、実はすでに教育法のr法 論理」をくぐりぬけたものであると思われる。このことの論証がここでの課題である。

r教育法が教育行政からの自律性を保障しているということは、教育法という新しい法分野が、

まさにそれが対象としている『教育』(教育実践の総体としての教育)に固有の法則と固有の価 値を認め、したがってそれに対する立法や行政による統制を排除するということを、その法原理 そのものとして認めるということに他ならない。そしてこの観点を放棄するとすれば、それは教 育法の独自性を放棄することに通じている。」ωこのことは、r教育関係法であっても、そこに

『教育制度に特有な法論理』が無く、政治的な国家統制の法論理しか実施されていなければ、そ の限りで現実的には、厳密な意味での教育法は不在だ」とする見解に結びつく。これを積極的に 表現したのが、たとえば、教育法の主要な法形式は「教育現場の真の要求に沿うものとして非強 制的に成立する法でありうる」慣習法や条理であるという見解である。蝸

 や、引用が混みいった感があるが、r真の要求」が必然的に依拠する教育の本質を踏まえて、

これを提出する「教育現場」という認識には、教育科学に裏づけられているとはいえ、それ自体 にすでに1つの価値選択があるのであって、したがって、r特殊社会関係」概念はすでにr法論 理」の網をくぐりぬけたものと解せられるのである。

 だからといって、教育法論理が次の如き教育法の第2の存立根拠を示す議論と矛盾するもので ないことはいうまでもない。 「文教政策が人民に対する国家のイデオロギー支配の中枢をなすと すれば、この支配の法的現象形態として存在する『教育と教育制度に固有な法』としての『教育 法』が重要な位置を占めざるを得ない。教育法現象の理論的分析とそのシステムは、教育学の理論

と学問的蓄積を前提としつつ、この点にその自立性の客観的根拠を有するといわねばならない。㈹」

この第2の見解は、日本の現実の教育政策と法のレベルで教育法の独自的存立の根拠を明らかに しているのであって、ここでは教育をめぐる矛盾・対立が中心となって当然なのである。「特殊 社会関係」概念は、すでに述べたように、こうした矛盾的現実を踏まえて、理論構成されたもの

と解せられるのである。

 ここから、教育法自体が、教育権概念がポレミークな概念だといわれる㈹のと同じ意味で、現 実との対応のレベルでは極めて対抗的概念だといえるであろう(たとえば、対教育行政法概念。

教育法論理の体系的無矛盾性と教育法のポレミーク性)。

 さて、以よの2つの自立根拠論と関連しつつも、や、視点を変えた第3の自立根拠論は、憲法

一21一

(11)

教基法の価値に教育法が依拠できる一定の根拠を見出す。ここで注意すべきは、こうした見解は r法律」ではなく「その価値」に依拠していることである。国民が守るのはr法」ではなく、そ こに反映されている民主的価値であるという考え方があるのである。㈱この点からも・教育法の ポレミーク性をいうことができるであろう。

3.籔育基本法と教育目的

 教育基本法には周知のように教育目的が掲げられている。教育目的法定は許されるものか。若 干の見解を整理することから始めよう。

(a)「過渡期」論一r戦後の日本が憲法・教基法法制のもとで、教育のあり方につき法律主義を とったのは、……教育の自由が国民的基盤において実現されるまでの、いわば過渡的措置」であ り、「憲法・教基法法制とは、そうしたわが国の歴史的制約にもとづく特殊日本的性格のものな のである。ω」

(b)目的法定の内容としての自律性保障一この見解は、「憲法と教基法の精神は、たとえ合法 的であるからといって、教育の自由、精神の自由を奪うことはできないということを、憲法みず から、教基法みずからが示している」ということから、r法律で教育の目的を定めることには、

一定の限界がある」という。そして、教基法による教育目的提示がr一定の限界」を超えている かどうかを問い、次のように立論する。教基法における教育目的(主権、人権、平和)は、内容 的にはr未来に開かれた普遍」であり、しかもこの理想の実現のためには、思想・良心、学問の

自由、教育の自由が不可欠であると考えられる。醐

(C〕目的法定への疑義一この見解は、指導要領を例に採りながら、次のように主張する。指導 要領に目標が掲げられるのは学校教育法に小・中・高校などの目的・目標が示されるからであり、

学校教育法にこうした目的・目標が示されるのは教基法に目的が掲げられているからである。そ して、指導要領の目標が教科書の内容を左右していることを考えねばならない。以上のことは、

教基法の示す目的が今日意義深いという把握があろうと別問題である(傍点筆者)。 rいかなる 内容の法であれ、法によって教育目的を規定すれば、直接教科書をしばる指導要領に目標を示し てよいとする根拠がつくられたことになる柵」

 以上の3つの見解の整理と検討を試みることにしよう。3見解ともに教育のあり方が本質的に は法的規制になじまないものだと考える点では相違はない。にもかかわらず、(b)と(c〕との相違は 注目されるべきである。(b)は、国民の民主的教育要求に根ざしたr未来へ開かれた普遍」が教育 目的として法定される限りで、かっ、教基法自体がこれを実現するために自己抑制的に教育の自 律性を保障しているがゆえに、目的法定に一定の意義を見出している。⑮)は、いわば国民の要求 の側から目的法定主義をとらえている。しかし、(C)はどんなに良い目的であれ、教育のあり方自 体が拘束されざるをえないから、目的法定は好しくないと考えている。国民の教育要求を実現す

るために、上からの拘束を排除すべきであるということである。

 ここには2つの論点が含まれている。第1に、「法」定の意味をどうとらえるか、第2に、法 定される「目的」の内容をどうとらえるか、である。第1の論点からはじめよう。法はいうまで

もなく支配階級の意思の特殊な表現形態であるが、他方で彼らは国民の意思の表現という形態を

(12)

探らざるを得ず(支配の正当性の根拠λ したがって普遍的形態を探らざるを種ない(法の本質 と形態の矛盾にかかわる)。⑫国民はこの普遍的形態性を利用して、運動論的には支配一被支配の 妥協の産物という面をもつ法(その価値)を利用して、自からの要求を実現する手掛りを得るこ とができる。これに対して、(C)は法の本質の面を看過してはならないことを提起している点で評 価すべきである。要は教育法のレベルで、法の2面性をいかに統一的に位置ずけるかという問題 である。そこで、第2の論点である「目的」の内容とかかわらせて、さらに検討してみよう。(c)

は、目的法定はどんなに良い目的であれ許さるべきでないと解しており、(⑤はこれとは異なる。

 そこで、私なりに(c)に疑問を呈しておきたい。その際、3つの前提をあらかじめ明らかにして おきたい。第1に教育のあり方が法的規制に本来的にはなじむものではないことは私も同感であ ること、したがってこのレベルでは法定は許されないと思われる。しかし、要はこれをいかにし て実現すべきかということであるように私には思われる。このレベルで、第2の前提としての法 定される目的の是非、第3の前提のr法の民主的価値」の擁護が問題になる。即ち、第1の前提 の実現は、国民の教育要求が現実の教育に実現している場合には何の問題も生じないが、逆にこ れを妨げる勢力の強い場合には、彼らを拘束する手だでもないことを意味することになるのでは ないだろうか。このような場合には、国民の民主的教育価値の反映している教育目的が法定され ていることが、権利の最大の防衛線になるであろう。この意味で(a)の見解は示唆的である。国民 の運動によって、自己否定的に(即ち目的法定)自己を実現していく(即ち目的非法定)という ダイナミックスのうちに、目的法定主義の意義をとらえかえすべきではないだろうか。この意味 から重要なのは、法の2面性の教育法における一方のあらわれ、教基法→学教法→指導要領の道 筋を、他方のあらわれ、即ち国民の教育意思の実現の視点から断ち切っていく論理の確立である ように思われるのである。そして、そうなれば、この課題はすぐれて法論理としての教育法の課 題でもあることになるのである。制

結びにかえて

 本稿はすでに理解されたように、教育裁判論を中心的素材としつつ、一方で教育対立の構造連 関を把握し、教育裁判の諸概念を整理するとともに、他方では不十分ながらも教育法の諸問題に 接近しようとするものであった。とりわけ、後者の課題については、r法論理としての教育法」

を軸にしていること、かっ基本的にこれにとどまるものであることが理解されたと思う。それは もともと本稿が教育裁判論からの接近であったことの帰結でもあり、またその限界でもある。

 とはいえ、教育対立の構造連関を明らかにした上で、教育裁判の概念を仮に提起しえたこと、

「特殊な社会関係」概念の次元を明らかにしえたこと、また教育目的法定への疑義へ疑義を提起 しえたことなど、ある程度の課題も提起しえたと思う。もちろん、考察の及ばなかった課題は少 くないが、それらについては他日に検討を期したいと思う。

(注)

ω 兼子仁『教育法学と教育裁判』(1969)218頁

12〕堀尾輝久r現代における教育と法」(岩波講座r現代法・8』,1966)164貫

一23一

(13)

制 兼子仁『教育法〔新版〕』 (1978)4頁 141堀尾・前矧2〕論文162頁

㈲ 「教育的価値」概念については、堀尾・同上論文190頁

16〕本山政雄他r教育裁判の教育学的研究ω」(名古屋大学教育学部紀要15巻,1968)37頁 17〕野村・戒能他編『現代法の学び方』(1969)100,102頁

⑧ 影山日出弥r憲法学と教科書裁判」(法律時報41巻10号,1969)102頁 19〕太田莞編著『戦後日本教育史』(1978)参照のこと。

O⑪ 本山政雄他r教育裁半1研究の方法について」(教育学研究37巻ユ2号,1970)117頁 O11兼子・前掲は膚4頁

(12)兼子・吉川『教育裁判』(1980)24頁 Oa 兼子・割11・同上書28〜32頁

O』 兼子・吉川・同上書17頁 α51本山地・前掲61論文23頁

㈹ 本山地・同上論文28頁

11刀 本山政雄「教育政策と教育裁判」(日本教育法学会年報1号,1972)丑74頁

118〕たとえば、浪本勝年r学テ・教科書裁判の過程的分析」(日本教育法学会年報2号,1973)

 兼子仁r教育権実現の手だてとしての教育裁判」(日本教育法学会年報6号,1977)など

(19〕永井憲一r国民の教育権と教育裁判」(森田編『教育裁判闘争と憲法・教育基本法』1971)

 213頁

制〕たとえば、鈴木英一r教育裁判と教育判例」(学校運営研究,1964)127頁など多数

⑫1〕兼子・吉川・前掲112書27頁 鋤 兼子・前掲O副論文125頁以下

㈱ 参照、堀尾前矧2〕論文161頁、鈴木・前掲龍O〕論文など。

2切 増尾・同上論文164頁

囲 だから、たとえば、学会で決着つけるべきことを好んで裁判所にもちだし、そのくせ敗北す  ると裁判官が歴史観を裁くのは許せないなどというのはおかしいといった言辞(典型としての  宇野精一r勇気ある判決に敬意を表する」季刊教育法13号,1974)は、第1に誰が力づくで  r真理」を強制したのかという点をさかさまにし、第2に教育法・裁判で歴史観を裁くという  ことの意味を知らないことできわだってい乱

㈱ 兼子・前掲川書206〜207頁

刎 鈴木・前掲蛯。〕論文など参照のこと。

鯛〕仲哲生r人権裁判運動と憲法」(早稲田法学会誌27巻,1976)223頁

e9 教育法社会学的視点も包括した定義として、牧征名r教育科学と教育法学の統一」(講座数

 育法1巻,1980)67−8頁

1鋤⑬1〕132〕兼子 前掲3膚7,9頁

㈹ 兼子・同上書4貫

(14)

一鋤 兼子・同上書17頁

㈱鯛弟子・同上書41,42頁 牧・前掲㈲論文68頁

牧・平原編著r教育法入門」(1975)13頁以下

 たとえば、相良惟一r新版教育行政学』(1970)52頁など 永井憲一r教育法学の目的と任務』(1974)207頁 牧・平原・前掲⑬靱書17頁を参照されたい。

兼子・前矧3〕書14頁

 兼子のr社会法」概念自体も問題としうるが、他日を期したい。法論理としての教育法にと って重要な論点なので、附言しておく。

 堀尾・兼子『教育と人権』(1977)194頁  兼子・前矧3〕書22頁

 影山・前掲18〕論文103頁  堀尾・兼子・前掲ω書71〜2頁

 渡辺洋三r教育裁判の歴史的・社会的意義」(日本教育法学会年報2.1973)を参照のこと。

 永井・前掲岨9論文238〜39頁  増尾・兼子・前掲ω書137〜39頁

 山住正己「教育内容と教育法」(講座教育法3.1980)8頁  野村・戒能他編・前掲171書36頁以下

 私の不手際で紙数を超えている。もう1つの論点である、法定された目的が国家に向けられ るのか、それとも国民にも向けられるのかということについては、さらに研究し、他日に期し

たい。

一25一

(15)

参照

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