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田岡嶺雲における「同情」観

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(1)

田岡嶺雲における「同情」観 ─雑誌『靑年文』を中心とした論理構造と言説環境─ 平崎   真右

一   はじめに

田 岡 嶺 雲( 本 名・ 田 岡 佐 代 治 一 八 七 〇

一 九 一 二 ) は、 明 治 二 三( 一 八 九 〇 ) 年 に 郷 里 の 土 佐( 土 佐 郡 石 井 村 赤 石、 現・ 高知市赤石町)から上京し、二月に水産伝習所(現・東京海洋大学水産部)に入学するが、翌年明治二四(一八九一)年

月 に 卒 業 し た あ と、

九 四 年 九月 に は 東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 漢 文 科 選 科( 以 下「 漢 文 科 」) に 入 学 し な お し て い る( 明 治 二 七 = 一 八

七月 卒 業 )。 こ の 漢 文 科 に 在 籍 中 よ り 評 論 活 動 を 始 め、 そ の 頃 に は 山 路 愛 山 と の 論 争

)(

や、 蘇 東 坡 や ハ イ ネ、 さ ら に は 荘 子 な ど に 関 す る 評 論

)(

が み ら れ、 漢 文 科 を 卒 業 し た 翌 年 明 治 二 八 ( 一 八 九 五 ) 年、 山 県 五 十 雄( 一 八 六 九

一 九 五 九 ) と 中 心 に な り 雑 誌『 靑 年 文

)(

』 を 立 ち 上 げ て 主 筆 と な る と、 「 時 文 」 欄 を 中 心 に 旺 盛 な 活 動 を 展 開 す る

)(

。 こ の『 靑 年 文 』 の 創 刊 に つ い て は、 先 行 文 芸 誌 な ど で は 好 意 的 に 迎 え ら れ て い る。 二・ 三 例 を あ げ れ ば、 『 早 稲 田 文 学 』 で は「 さ て 靑 年 の 意 氣 ほ の 見えて華やかなるは生まれてより漸く二號を重ねしのみなる『靑年文』なり、其の主眼とも見ゆる時文欄には往々筆鋒鋭き ものありて面白 し

)(

」と評し、 『青山評論』では「其活氣殻々たるを見んと欲せば開巻第一「時文」を讀 め

)(

」と記し、 『國學院 雑 誌 』 で は「 「 時 文 」 の 欄 い つ も な が ら 賑 や か な り 普 く 我 か 文 界 の 事 實 を 蒐 め 鋭 利 の 筆 鋒 を も て 評 し 去 り 評 し 來 る 所、 眞 に 『 靑 年 文 』 の 名 に 背 か ず と や い ふ べ き

)7

」 と 述 べ る な ど、 い ず れ も「 時 文 」 欄 に 注 目 し た 活 躍 を 歓 迎 す る 言 葉 を 寄 せ て い る

(2)

が、当該誌における文芸批評の数々によって、嶺雲は文壇を代表する批評家として声明を上げたと言える。 こ の、 『 靑 年 文 』 に お け る 嶺 雲 の 文 芸 批 評 に つ い て は、 す で に( 家 永 一 九 五 五

)8

)、 ( 西 田 一 九 七 三

)9

)、 ( 吉 田 一 九 八 一

)(1

) な ど に よ る 評 伝 的、 文 学 史 的 な 意 義 と 位 置 づ け に 関 す る 先 行 研 究 が み ら れ る。 そ こ で は 一 様 に、 日 清 戦 争 前 後( 明 治 二 七

二 八 年)の日本社会に表面化する、下層社会に関したルポルタージュや貧民政策論議などの同時代状況に刺激、同期する形であ らわれた「観念小説」や「悲惨小説」といった新しい文学状況に対して、嶺雲がいち早く目を向け、且つその傾向や作家た ちを強く推したことを評価する。嶺雲によって推挽された作家としては、硯友社関係であれば泉鏡花や江見水蔭、川上眉山 や広津柳浪、その他には樋口一葉や三宅青軒などが挙げられるが、これらの作品や作家たちに対する嶺雲の評価軸には、彼 の 言 葉 で「 同 情 」 と 指 呼 さ れ る 論 理 が 一 貫 し て い る。 そ の 点 に つ い て も す で に 先 行 論 で は 指 摘 さ れ る も の の( 吉 田 一 九 八 一) (立花二〇〇 二

)((

)、しかしその「同情」に込められた意味や論理の構造、それを文芸批評にとどまらない嶺雲の評論活動 全体のなかで捉え返す作業や、その論理が含みこむ思想や言説レベルにおける可能性などについての考察は、管見の限りで はまだ本格的に為されている状態とは言えな い

)(1

。本稿もまた、嶺雲の評論活動全体については及ばないものの、主に『靑年 文』で展開された時期を上限とし、同時期における言説状況も視野に入れつつ、彼の文章にみられる「同情」観の内実を取 り出してみたい。

二  

『靑年文』までの「同情」観

嶺雲の評論活動の嚆矢としては、現時点で確認される限りでは注

(でも触れた「

『平民的短歌の發達』第二を讀む」 (明治 二五年一〇月 一七 日刊『亞細亞』第六一号)がそれであり、以後はおもに簡単な時評や文芸評論を中心に活動していくが、 評論の対象はそればかりに留まることはなく、次第に「社会評論、教育評論、風俗時評、文明批評、人生論」などの広範囲

(3)

表①

論題 掲載誌(号) 刊行年月日

( 「囈言」 『亞細亞』( 巻 (0 号 (明治)((.9.(

( 「俳諧管見」 『日本人』( 巻 ((.((.(8

( 「芭蕉」 『史海』(( 巻 (7.(.(7

( 「美と善」 『宗教』(( 号 (7.8.(

( 「悲劇の快感」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (8.(.(0

( 「愛山氏の『命耶罪耶』」 同上 同上

7 「松本文三郎氏の『公孫龍子』を讀む」『宗教』(( 号 (8.7.(

8 「日本文學に於ける新光彩」 『日本人』( 号 (8.7.(

9 「軽浮と沈着」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (8.7.(0

(0 「小説と社會の隠微」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (8.9.(0

(( 「下流の細民と文士」 同上 同上

(( 「詩人と同情」 同上 同上

(( 「柳浪」 同上 同上

(( 「天才と狂熱」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (8.(0.(0

(( 「今日の批評」 同上 同上

(( 「『目黑物語』」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (8.((.(0

(7 「『鬼一口』」 同上 同上

(8 「村井弦齋」 同上 同上

(9 「一葉女史の『にごりえ』」 『明治評論』( 巻 ( 号 (8.((.(

(0 「境遇と靈性」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (8.((.(0

(( 「水蔭の『女房殺し』」 『明治評論』( 巻 ( 号 (9.(.(

(( 「『五調子』を評す」 『明治評論』( 巻 ( 号 (9.(.(

(( 「柳浪」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (9.(.(0

(( 「一葉」 同上 同上

(( 「綠雨と天外」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (9.(.(0

(( 「暗黑面と操觚者」 同上 同上

(7 「詩人と人道」 『日本人』(8 号 (9.(.(0

(8 「嗚呼文士涙なき歟」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (9.(.(0

(9 「所謂小説家」 同上 同上

(0 「露伴」 『明治評論』( 巻 ( 号 (9.(.(

(( 「文士の品格」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (9.8.(0

(( 「偉人出でよ」 『日本人』(( 号 (9.8.(0

(( 「罵時嘲俗の風」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (9.9.(

(( 「露伴の時文評」 『靑年文』( 巻 ( 号「時文」 (9.((.(

(( 「新進作家に告ぐ」 『江湖文學』( 号 (9.((.(9

(( 「一葉女史を吊ふ」 同上 同上

(7 「神秘とは何ぞ」 『反省雜誌』(( 年 ( 号 (0.(.(

(4)

におよび、 「文明批評家」 (家永一九五五、八五頁)とでも言うべき様相をみせていく。ここでは表①に整理した彼の時評や 文芸評論に範囲を絞り、さらには主催雑誌の『靑年文』までを上限として、彼の主張する「同情」の論理構造や意味内容の 変遷などを確認してい く

)(1

。そこでは、細かく検討すれば発表時期と扱う題材の文脈によって多少の違いが認められることか ら、ここでは大きく三つの段階(A、1~3、B、4~9、C、

(0~

(7)に分けて捉えてみたい。以下では、各段階のうち

代表的な言説をパラフレーズしつつ取り上げる。

(A、1~3) 1、 「囈言」 (明治二六年

九月 一日刊『亜細亜』第二巻一〇号)

(全集一・一九七三、一一九

一二一頁)

ある。 で あ り、 そ の よ う な 視 線 で「 ( 同 ) 情 」 に よ っ て 詠 ま れ た 万 葉 歌 を 解 釈 す る こ と は 不 適 当 で あ る と す る 点 に ポ イ ン ト が 中 情 あ つ て 理 な し 」( 一 二 一 頁 ) と 批 判 す る。 こ の 批 判 は、 三 上・ 高 津 た ち の 評 価 軸 が 理 学 者 の「 智 」 に も と づ く 解 釈 じたるの誤見なるべし。當時に在ては實にしか感じて詠じ出したる者たるを忘る可らず(中略)當時に在ては詩人の胸 (上下、金港堂、明治二三年一一・一二月)における万葉歌の低評価に対して、 「是れ著者の歌を 作る といふ觀念より生

00

み 」( 一 二 〇

一 二 一 頁 ) と「 同 情 」 の 効 用 を 述 べ る。 そ の ロ ジ ッ ク を も っ て、 三 上 参 次・ 高 津 鍬 三 郎『 日 本 文 學 史 』 「 擬 人 の 詞、 之 を 為 す 者 に 於 て は 擬 人 た ら ず、 唯 同 情 の 眼 を 以 て 之 を 觀 る が 故 に、 實 に 其 生 あ る が 如 き を 感 ず る な る の   「 詩 人 と 理 学 者 」 と い う 対 立 軸 を 立 て、 前 者 に は「 情 」 が あ り、 後 者 は「 智 」 で 物 事 を 捉 え て い く 特 徴 を 指 摘 す る。

この文章は、嶺雲がはっきりと「同情」の語句を用いた最初のものと思われるが、ここでの用例は主に文学表現に対する

(5)

鑑賞のスタイルに留まるきらいがみられ、それは2( 「俳諧管見」 )や3( 「芭蕉」 )においても変わらない。

(B、4~9) 4、 「美と善」 (明治二七年八月五日刊『宗教』第三四号) (全集一・一九七三、二一六

二三六頁)

  一 節 と 二 節 と に 分 け ら れ る が、 一 節 で は「 美 」 に つ い て、 二 節 で は「 愛 」「 同 情 」 そ し て「 善 」 に つ い て 述 べ る。 そ れ ら の ロ ジ ッ ク は 共 通 し て お り、 「 美 」 も「 愛 」「 同 情 」「 善 」 も、 ど ち ら も 無 差 別 無 分 別 の 状 態 で あ り( 一 方 で は、 美 感 に 打 た れ て そ の う ち に 埋 没 さ せ ら れ る 状 態 と、 も う 一 方 で は、 神 を 瞑 想 黙 思 す る と き )、 そ の 為 す と こ ろ は 異 な っ て いても達する所は同じである、と整理する。この両節のうち、主調は二節にあり、ショーペンハウエル、シルレル(シ ラ ー) 、 ミ ル ト ン、 プ ラ ト ン、 イ ン ド 哲 学・ 仏 教、 論 語・ 宋 儒 な ど、 古 今 東 西 の 哲 人 た ち の 言 葉 を 引 き つ つ、 そ れ ら は 「其途を異にして其歸を同ふし、百慮にして而かも一致に出づ」 (二三三頁)と、違うところにあるけれど至るところは 同 じ で あ る と 一 括 す る。 こ の 論 理 も、 「 美 」 と「 善 」 が 為 す と こ ろ は 違 っ て も 達 す る と こ ろ は 同 じ で あ る 点 が、 先 と 通 底している。

等 の 如 き 偶 起 の 事 に 於 て は 差 異 あ る べ き も )、 さ れ ば 己 れ の 欲 せ ざ る 所 は、 則 ち ま た 他 の 欲 せ ざ る 所 に し て、 己 の 欲 す し、 望 み、 飲 み、 且 食 ふ の 我 な れ ば、 彼 の 我 も 其 根 本 的 に 於 て は、 等 し く 欲 し、 望 み、 飲 み、 且 食 ふ の 我 也、 ( 其 氣 質 し て 此 我 を も 別 て、 固 と 此 の 我 も 彼 の 我 も 其 我 た る 所 以 に 於 て は、 異 な る 所 な き な り、 此 の 我 も そ の 根 本 的 に 於 て 欲 と を 通 有 す る も の で、 そ れ を 感 じ ら れ る か ら こ そ 人 は 万 物 の 霊 と 言 え る の だ、 と 述 べ る。 そ の 文 脈 に お い て、 「 彼 に 對 己を主張すれば他者と衝突するが、人が人である所以はそこに「反省」という能力があること、この反省は自己と他者   「 同 情 」 に つ い て 抽 出 す れ ば、 シ ル レ ル の 言 葉 と し て 人 の 性 質 を 二 分 し、 そ の 一 方 で あ る「 動 物 的 性 質 」 の ま ま に 自

(6)

る所はまた他の欲する所たるべき而已、此おもひやり、即ち此同情こそ、凡ての道義の根本なれ」と述べ、孔子や『論 語』の言葉と、 ショーペンハウエルの「善とは他人の苦患を察すること( Erkenntniss des fremden Leidens )にして、 純 粋 の 愛( caritas ) は 即 ち 同 情 な り と い ひ、 凡 て の 愛 は 即 ち 同 情 な り( Alle Liebe ist Mitleid ) と も い へ り 」( 二 三 一

二三二頁 )とを、同一のものとして結びつける。

5、 「悲劇の快感」 (明治二八年四月一〇日刊『靑年文』第一巻第三号「時文」 )(全集一・一九七三、三二五頁)

  人生の悲惨を味わった人間にしてはじめて悲惨の真味を知ると述べ、そのような人間であるからこそ「他の悲酸に艱 むものを見ては、同情の感油然として湧き出づ」 (三二五頁)とする。その「同情」は、 「人間がその倫理的理想に一歩 を 近 け 得 た り と 感 ず る、 滿 足 の 一 快 感 」( 三 二 五 頁 ) と し て 捉 え ら れ、 あ く ま で も 自 身 の 側 の 倫 理 や 快 感 と し て 意 味 づ けされる。それは一方的な視線ではあるが、それでも「悲劇の快感」を味わえる人間は厭世的なものに多く、楽観的且 つ「樂世の人」はその惨憺や悲劇を味わうことができない。それ故に、喜劇的な「和樂文字」に富んでいる日本文学に は、悲劇的な深刻に欠けるものがあると指摘される。

4( 「美と善」 )以降は、3までは主に文学表現(または鑑賞)に対する程度の意味で用いられていた「同情」が、倫理的 なものとして広がりを持たせられ始めている。このような傾向は、以下の

(0(「小説と社會の隠微」

)以後ではさらに推し進 められ、それは単なる評論視点ではなく、創作態度や倫理的な基準として明確に主張されるようになり、文学者(操觚者) の社会的意義にまで拡張される。以下でいくつかみるように、それは功利的な「文明開化」の社会と対置された、それらを 矯正し改革(または革命)していく方法論として展開していく様子だとも言えよう。

(7)

(C、

(0~

(7)

(0、「 小 説 と 社 會 の 隠 微 」( 明 治 二 八 年 九 月 一 〇 日 刊『 靑 年 文 』 第

二巻 第

二号「

時 文 」) ( 全 集 一・ 一 九 七 三、 四 〇 二

四 〇 三 頁 )

((、「 下 流 の 細 民 と 文 士 」( 明 治 二 八 年 九 月 一 〇 日 刊『 靑 年 文 』 第

二巻 第

二号「

時 文 」) ( 全 集 一・ 一 九 七 三、 四 〇 三

四 〇 五 頁 )

((、「詩人と同情」

(明治 二八年九月一〇日 刊『靑年文』 第

二巻 第

二号「時文」

)(全集 一・一九七三、四〇六頁 )

(0で は、 「 近 時 風 俗 の 壊 廃 豈 に い ふ に 忍 び ん や 」 で 始 ま る 時 勢 認 識 か ら、 こ こ

二・

とが一対として認識されている。 て寫實せよ」 、「燃ゆるが如き同情を注ぎて以て暴露せよ」 ( 四〇三頁 )というように、 「理想・同情」と「寫實・暴露」 義」と言われるように、ヒューマニスティックな倫理観を伴うものとしてあり、文末では「大なる理想を内に懐きて以 に泣き、道義の爲に憤」 ( 四〇三頁 )って社会の罪悪を暴露しろとの方向性を示す。ここでの「同情」とは「人道」 「道 る。その際、ただ醜態を暴露するだけでは人心を卑しくするだけであるから、そこに「大に其同情の涙を揮て人道の爲 隠 微 を 暴 こ う と す る 風 潮 が あ ら わ れ、 小 説 界 も 同 趣 向 の 作 品 が 出 て 来 た と し て、 社 会 の 裏 面 を 暴 露 す る こ と を 鼓 吹 す 三年 来 に は 新 聞 紙 が 社 会 の 裏 面 の

((でも「同情」の意味や文脈は同じだが、現代社会における貧者は、一度貧者に転落すれば固定化され、貧から脱す

る こ と が 容 易 で は な い 社 会 構 造 に あ る こ と を 指 摘 し、 そ の よ う な 構 造 的 貧 困( 下 層 社 会 ) に あ る 人 々 は「 悲 傪 」 で あ り、 「其生涯の最も憫むべきものは彼の下層社會の徒にあらずや」 ( 四〇四頁 )との視線を注がれることになる。その視 線 の 中 に「 滿 腔 の 同 情 」 を 注 ぐ こ と が 作 家 の 態 度 と し て は 必 要 で、 「 彼 等 憫 む べ き の 生 涯 を 描 き、 彼 等 不 告 の 民 の 爲 に 痛 哭 し、 大 息 し、 彼 等 に 代 り て 何 ぞ 奮 て 天 下 に 愬 ふ る を 爲 さ ゞ る 」( 四 〇 五 頁 ) こ と が 使 命 と な る。 こ の よ う な 主 張 が

(8)

な さ れ る 際 に は、 レ ト リ ッ ク と し て、 下 層 社 会 の 構 造 的 貧 困 に 対 し て は 伯 夷 叔 斉 や 呑 舟 の 魚 の 故 事 が 引 か れ、 「 滿 腔 の 同情」を注ぐべき文脈ではヴィクトル・ユーゴーの著作が引かれる。

((も論旨は同じく、ここで改めて「詩人と理学者」の二項対立が反復される。ここでの新しい用語としては「義人」

が み ら れ、 レ ト リ ッ ク と し て は「 同 情 な く む ば 詩 な く、 文 な く、 天 下 に 義 人 な し 」( 四 〇 六 頁 ) と、 一 続 き に 並 置 さ れ る。世の中に「大作」が出るには文士詩人の「同情」が必要であり、現今にそのような作品が出ないのは「同情」が足 り な い か ら で、 「 眞 の 救 世 者 出 で ざ る は、 猶 義 人 の 同 情 足 ら ざ る な り 」( 四 〇 六 頁 ) と さ れ る 筆 致 か ら は、 「 同 情 」 と 「救世」が結びつけられ、この頃より嶺雲の評論が明確に社会化の傾向を帯びてきた様子を認めることができる。

19 、「一葉女史の『にごりえ』 」(明治二八年一二月 一日刊『明治評論』第五巻

一号)

(全集一・一九七三、四九三

五〇四頁)

  一葉の『にごりえ』評に入る前に、

(0で論じられる「境遇と霊性」と同じ主張が展開される。境遇の罪と、その人が

本 来 有 し て い る 霊 性 と は 別 物 で あ る こ と、 「 智 」 や「 意 」 は 差 別 や 真 偽 を 生 ず る も の で あ り、 そ れ と 霊 性 と は 異 な る こ と、 「 情 」 は 純 で あ る が「 智 」 や「 意 」 に よ っ て く ら ま さ れ て し ま う な ど の 認 識 枠 は、 嶺 雲 が 漢 文 科 出 身 で あ り 漢 学 に 通暁している点よりみれば、中国哲学における「理気二元論」のロジックと同型である面も指摘できよう。このような 視点をもって人を観るとき、そこには「寛恕」があり「同情」があり、それが「ヒューマニティ」であり、ユーゴーが 同情の憐みをもってジャン・バルジャンを写したことに通じるとする。そうして、このような「寛恕」や「同情」こそ 小 説 家 が 持 た な け れ ば な ら な い 目 で あ る と し、 法 律 や 罰 則 が 行 い や 結 果 を 律 す る も の で あ る の に 対 し て、 「 此 間 に 在 て 其 心 術 に 入 り、 精 神 を 問 ひ、 こ れ が 爲 め に 同 情 を 表 し て 慰 藉 の 涙 を そ ゝ ぐ も の は 獨 り 小 説 家 あ る の み 」( 四 九 五 頁 ) と 強 調 す る。 小 説 家 の 眼 は「 其 美 中 醜 を 認 め、 醜 中 美 を 認 む る の 邊 に 在 て 存 す 」( 四 九 六 頁 ) よ う に、 悪 の な か に も 善 を

(9)

み、善のなかにも悪をみるような複眼的な視点が必要であることを述べる。 こ の よ う な 複 眼 的 な 視 線、 同 情 的 な 視 線 を 有 し た 近 作 の 白 眉 と し て、 一 葉『 に ご り え 』 評 に 移 る。 「 吾 人 は 一 葉 女 史 が『 濁 江 』 一 篇 を 讀 み て 深 く 作 者 が 犀 利 の 眼 光 と、 溢 る ゝ が 如 き 同 情 と に 服 す 」( 四 九 六 頁 ) と い う 言 葉 に、 本 作 に た いする最大級の賛辞が込められていよう。お力という売女は婦人の貞操を破る卑猥な存在であるものの、それはあくま でも境遇の罪であり、女徳の最も大切である貞操を破っていることは事実だが、ただその結果だけを指して非難するこ と は 境 遇 と 霊 性 を 混 同 し て い る の だ と 言 う。 「 嗚 呼 天 下 賣 春 の 女 を 指 し て 禽 獣 と い ふ、 而 か も 此 憐 む べ き 女 児 の 貞 操 を 破 ら し む る 境 遇 の 罪 の 更 に 惡 む べ き を 知 ら ざ る な り、 憶 」( 四 九 八 頁 ) と 嘆 息 す る ほ ど に、 お 力 に 対 す る 周 囲 の 視 線 に は、境遇と霊性(自己)とを混同した批判も多かった様子を伺わせる。

27 、「詩人と人道」 (明治 二九年三月二〇日刊『日本人』第一八号) (全集二・一九八七、四九

五三頁)

とることが流行している時流に乗っているに過ぎないと批判を加える。 遇 は 彼 等 の 題 目 た る 能 は ざ る べ き 歟 」( 四 九 頁 ) と 指 摘 さ れ る よ う に、 今 の 小 説 家 は、 下 層 社 会 や 不 具 の 人 間 を 題 材 に か と 疑 義 を 呈 す る。 「 彼 等 の 奇 僻 の 人 間 を 描 く や よ し、 不 具 の 人 間 を 寫 す や よ し、 然 れ ど も 飢 に 叫 び 寒 に 泣 く 悲 傪 の 境 を描くことを誇るものの、しかしそれは果たしてよく下層社会細民のために泣き、悲惨の境遇を描出したものであろう   「 人 道 と は 何 ぞ、 相 憐 の 謂 の み、 相 憐 と は 何 ぞ、 同 情 の 謂 の み 」 か ら 始 ま る 一 文 は、 今 の 小 説 家 は 人 間 社 会 の 暗 黒 面

  文章の中盤では、貧に陥るものは自己責任の一面もたしかにあるものの、それの多くは社会の構造によって貧に落ち る の で あ っ て、 さ ら に は 犯 罪 や 悪 に 手 を 染 め る し か 術 が な い 状 況 そ れ 自 体 に 批 判 の 矛 先 を 向 け る。 「 嗚 呼 衣 食 足 て 後 礼 節を敎ゆべきのみ、貧者の罪を犯すや、其責其人にあらずして其貧にあり、彼等をして此罪惡を犯さゞる能はざらしむ

(10)

るの運命、寧ろ憐むべくして惡むべきものあるを見ず」 ( 五一

五二頁 )との一文には、

(9(「一葉女史の『にごりえ』

」) や

(0(「境遇と靈性」

)で指摘された、境遇によって悪を犯すものの、その悪は本人の自己それ自体とは区別されるとい う認識が一貫している。

  後 半 で は、 当 代 の 宗 教 家 は 貧 者 の 庇 護 者 と な り 代 弁 者 と な る こ と は 職 責 で あ る も の の、 「 而 る も 彼 等 の 慈 善 を 名 と す るも、實は己れの宗敎に利せんとする私心の其間に介せるを免れず。彼等の多くは僞善者なり、其名を美にして其行を 匿にす、彼等には以て此等の貧者を托すべきに非ず、未来の福田を説て貧者の財嚢を絞るが如きは更に酷だし、斷じて 貧者の味方に非ず」 (五二

五三頁)として、非常に強く批判する。そのような宗教者に利用されるのではなく、詩人文 士こそが彼らに真の憐みや「同情」を注ぐことを求め、その態度は「而れども錢の爲めに文を賣り、銭の為めに書肆に 叩 頭 す る も の の よ く す る 所 に あ ら ず、 一 身 を 以 て 人 道 の 爲 め 殉 じ、 毀 誉 禍 福 を 以 て 度 外 に 措 く の 熱 誠 あ る を 要 す 」( 五 三頁)と、まさしく宗教家以上に宗教家的な情熱が必要であることを説くに至 る

)(1

31 、「文士の品格」 (明治二九年 八月一〇日刊『靑年文』第四巻第一号「時文」 )(全集二・一九八七、一五〇

一五一頁)

  小説家が狭斜(=遊廓)を題材とすることは構わないが、最近の小説家たちは狭斜小説の流行に乗っているものばか りだと批判する。そこでは写実を衒うように、狭斜世界の言葉や状景を描くものの、それは狭斜世界に通であることを ことさら示すようなものであり、描くべき対象への「同情」が無いという。その描き方に対しては、過剰な写実を省略 することを勧め、同時に、狭斜世界は「士君子のまさに之を口にするすらも耻づべき所」と認識されており、そのよう な 狭 斜 世 界 の 状 況 を 写 実 に よ り 細 々 と 描 く こ と は「 彼 等 文 士 た る も の の 品 格 を 知 ら ざ る の 甚 だ し き も の 」( 一 五 一 頁 ) と 批 判 す る。 こ の 指 摘 は、 す で に 江 見 水 蔭『 泥 水 清 水 』( 明 治 二 九 年 四 月 一 〇 日 刊『 文 藝 倶 樂 部 』 第

二巻 第

三編 ) に 対

(11)

する評言( 「『泥水清水』 」明治二九年五月一〇日刊『靑年文』第

三巻第 四号「時文」

)でなされており、さらに広津柳浪 『 今 戸 心 中 』( 明 治 二 九 年 七 月 一 〇 日 刊 ) を 読 ん で 同 じ こ と を 感 じ た と い う。 な お こ こ に は、 『 今 戸 心 中 』 が 廓 言 葉 や 遊 女 の 内 面 を よ く 描 い て い る と い っ た 同 時 代 の 評 価 軸 と は 別 の、 嶺 雲 な ら で は の 評 価 軸 が 存 す る 点 が 明 ら か に 読 み 取 れ る

)(1

この他、またこれ以降の評言においても、文壇の流行に追従し、名利を求めて活動する態度を「僞文學者」や「穀潰」な どと非常に強い口調で批判し、文学者が名声や安逸を求めるのではなく、文や詩のために身を殉ずることを熱烈に求める筆 致 が 続 き、 新 進 作 家 た ち に 現 今 の 文 壇 を 刷 新・ 革 命 す る 気 概 を 持 つ よ う 強 く 鼓 吹 し て い く 点 が 特 徴 だ と 言 え る( 例 え ば、 「 ヒ ュ ー マ ニ チ ー」 明 治 二 九 年 一 月 一 〇 日 刊『 靑 年 文 』 第

二巻 第

六号「

時 文 」、 「 操 觚 者 の 腐 敗 」 明 治 二 九 年

『 靑 年 文 』 第 五月 一 〇 日 刊

三巻 第

四号「

時 文 」、 「 近 時 小 説 の 傾 向 」 明 治 二 九 年 一 一 月 五 日 刊『 靑 年 文 』 第

四巻 第

四号「

時 文 」、 「 紛 々 た る 所 謂 文 學 者 を 如 何 か す べ き 」 明 治 二 九 年 一 二 月

五日 刊『 靑 年 文 』 第

四巻 第

五号「

時 文 」、 「 靑 年 の 意 氣 」「 靑 年 に 及 ぼ せ る 功 利的文明の弊」 「新進作家を壑中に擠落せよ」明治三〇年

一月 一〇 日刊『靑年文』第

四巻第 六号「時文」など)

。それらの論 旨は

(0(「小説と社會の隠微」

)以降で展開される社会志向の視点と大差ないためここでは割愛する。 以上にみてきた認識をここで「同情」観と呼べば、その論理の構造としては、嶺雲自身が次のように述べている点が参考 となろう。

  そ れ 同 情 は 我 を 以 て 彼 と す る な り、 彼 を 以 て 我 と す る な り。 ( 中 略 ) 主 觀 を 以 て 客 象 に 對 し、 而 し て 唯 に 其 客 象 の 表 現をみるのみならず、更によく其内層に徹するを得る所以の者は、唯主觀に同情なるものあり、自ら内に省み、己を以 て 人 に 及 ぼ せ ば な り。 故 に 同 情 に よ り て 描 寫 せ ら れ ざ る の 性 格 は 皮 相 の み、 活 躍 せ ず

)(1

。(

(0「 露 伴 」( 全 集 二・ 一 九 八

(12)

七、七八頁) )

ここでは、対象を憐れむというより、その対象と同化または同じような立場に可能な限り近づくことで対象を把握する、 という視線が述べられている。そのような「同情」観は、嶺雲にとってのある種の方法論としても貫かれており、それは下 層社会に取材した「悲惨小説」や「観念小説」を積極的に評価していく文芸評論に繋がる が

)(1

、それ故にこそ、彼の評価軸に 満たない作家と作品群を手厳しく批判することにもな る

)(1

。 さて、右にみてきた嶺雲における「同情」は、彼の来歴を補助線とすることで、その言説の意義をよりクリアーにするこ と が 出 来 よ う。 彼 の 郷 里 が 土 佐 で あ る こ と は 先 に 述 べ た が、 周 知 の よ う に、 土 佐 は 当 時 に お け る 自 由 民 権 論 の 本 拠 で も あ る。嶺雲は村にできた民権論の「 社

)(1

」に参加し、石井村小学校で開催された「学術演説会」では数えで一三歳(満一一歳) の時に講演するなど、その早熟ぶりが見てとれよう。しかし彼は演説下手であったらしく、それ以降は自身でも「演説とい ふ 者 は 殆 ど 絶 對 に 爲 な か つ た 」( 全 集 五・ 一 九 六 九、 五 一 二 頁 ) と 述 べ て い る。 そ の 後、 明 治 一 六( 一 八 八 三 ) 年

よって大阪中学校( 明治一八 =一八八五年 立 の 大 阪 中 学 校 に 入 学 し、 在 学 中 の 明 治 一 九 ( 一 八 八 六 ) 年 に は、 当 時 の 文 部 大 臣・ 森 有 礼 に よ っ て 下 さ れ た 学 制 改 革 に 九月 に 官

七月には大学分校と改称されていた)は第三高等中学校となる。それに伴って学

校 は 軍 隊 的 に 律 せ ら れ る こ と と な り、 「 寄 宿 舎 生 の 自 由 は 甚 し く 束 縛 せ ら れ た 」 嶺 雲 た ち は、 お も に 舎 監 を 標 的 と し て 反 抗 したという(全集五・一九六九、五三一

五三三頁) 。しかし、その際に閉じ込められた禁外出者の牢獄のなかで他の生徒か らの毎日の差し入れの菓子を食べていた嶺雲は、それが原因となり胃を害することとなり、以後

三年半にわたる闘病生活を

余儀なくされる。 早 熟 な が ら に 自 由 民 権 論 に 感 化 さ れ て い た 嶺 雲 に と っ て、 学 校 に お け る 圧 制 は 大 き な ス ト レ ス と し て あ り 得 た で あ ろ う し、 生 来 的 に あ ま り 丈 夫 と は 言 え な い 身 体 を 害 し、 青 年 期 の 多 く の 時 間 を 闘 病 に 費 や さ ね ば な ら な か っ た 境 遇 は、 嶺 雲 に

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とってはかなり大きな事実として影響していると捉えられよう。さらには学校を退学して帰郷した療養中に父が他界したこ と( 明 治 二 一 = 一 八 八 八 年 )、 そ の 後 に 上 京 し て 入 学 し た 漢 文 科 に し て み て も、 選 科 生 で は 学 士 号 を 持 つ こ と が 出 来 な か っ た環境も考慮すれ ば

)11

、嶺雲の人生は順風満帆な輝かしいものであったとは言い難い。このような状況も考慮して、家永は嶺 雲 の 人 生 を「 失 敗 の 生 涯 」( 家 永 一 九 五 五、 一 八 六 頁 ) と 呼 ぶ が、 本 稿 で も そ の よ う な「 失 敗 者 」 な い し「 敗 者 」 の 位 置 取 りは、彼の「同情」観を考えていくうえで一定の意義を有すると考える。史実的にみても、彼が幼年期に携わった自由民権 運動には「敗者」の面がみられようし、学制改革に対してみても、結果的には発病からの闘病という「敗者」の位置に嶺雲 はある。 この「敗者」の位置取りは、彼の言説にみられる「自由」を論じた文章を参照するとき、より明確に理解することができ る。 初 期 の 評 論 に お い て「 自 由 」 に 関 し て 論 じ た も の が 若 干 み ら れ る が( 「 如 是( 第 一 ) 自 由 上 」 明 治 二 五 年 一 二 月 五 日 刊 『 亞 細 亞 』 第 六 八 号、 「 如 是( 第 二 ) 自 由 下 」 明 治 二 五 年 一 二 月 一 九 日 刊『 亞 細 亞 』 第 七 〇 号 )、 そ こ で は「 説 く を 休 め よ、 人 間 に 自 由 あ り と。 ( 中 略 ) 然 る に 吾 人 は 何 れ の 處 に か、 自 由 を 求 め む と す る。 よ し 此 社 會 は 進 歩 し て 金 甌 無 欠 の 域 に 至 り、 平 等 の 天 下 を 造 り 出 す を 得 る も の と す る も、 而 か も 吾 人 は 天 然 の 壓 制 を 如 何 せ ん や 」( 全 集 一・ 一 九 七 三、 三 一 頁 ) と か、 「自由を欲するは萬物の情なり。自由能はざるは、宇宙の理なり。 (中略)萬物皆其自由を得ざる所、乃ち宇宙の大義存 焉 」( 全 集 一・ 一 九 七 三、 八 頁 ) な ど の、 諦 観 的 な 認 識 を 見 て 取 る こ と が で き る。 そ れ を 裏 書 き す る よ う に、 以 後 の 論 評 で は「 自 由 」 に 関 す る 言 説 は 後 退 し、 代 わ り に 先 に み て き た「 同 情 」 が 多 く 目 に つ く よ う に な る が、 後 年 の 論 評 中( 「 嗚 呼 新 年 」 明 治 二 九 年 一 月 五 日 刊『 日 本 人 』 第 一 三 号 ) で も「 所 謂 自 由 な る も の、 こ れ 痴 人 の 説 夢 に 過 ぎ ざ る の み。 ( 中 略 ) 人 生 は 畢 竟 繫 縛 の み、 唯 死 や 解 脱 な り 」( 全 集 一・ 一 九 七 三、 五 五 三 頁 ) と、 宗 教 的 な 認 識 と と も に 人 間 の 不 自 由 さ が 論 じ ら れ る程度にすぎない。そういった認識のもとで、なお現実の世界に目を向けるのであれば、その矛先が貧民や下層社会に焦点 が 絞 ら れ て い く 様 は、 同 時 代 の 経 済 恐 慌 や 日 清 戦 争 に よ る 社 会 経 済 環 境 の 変 動 な ど を 考 慮 す れ ば さ ほ ど 無 理 の な い 展 開 で

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あったと考えられよう。嶺雲が「同情」を向けた下層社会の住人こそ、人間の不自由さが凝縮された感さえはらみ、そこで はいくら「自由」が声高に唱えられたとしても空疎ですらある。そのような環境にある人々に対して届きうる言葉、または そ の よ う な 人 々 の 環 境 を、 そ う で は な い 環 境 で 生 き る 人 々 に 向 け て 通 知 す る 言 葉 も し く は 態 度 と し て、 「 同 情 」 が 論 じ ら れ るに至ったと考えることができよう。ここには多分に、嶺雲の「敗者」の位置取りが掉さしていると本稿では捉えてお く

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。 しかし「同情」の言説そのものは、当時においては彼一人に占有される特異な認識であった訳ではない。次節ではその点 を、嶺雲の「同情」観に影響を与えたショーペンハウアー哲学の日本における受容と、嶺雲とは若干異なる方向で「同情」 論を展開した島村抱月におけるそれを参照することで、嶺雲の「同情」観の相対的な位置どりを考えてみたい。

三   同時代における「同情」論

嶺雲の評論中には、漢学的な素養にもとづく認識やインドも含めた東洋思想、表①4( 「美と善」 )で挙げられた西欧の諸 思 想 な ど、 明 治 近 代 の 言 説 環 境 の 下 で 様 々 な も の を 摂 取 し た 痕 跡 が 認 め ら れ る。 本 稿 で 対 象 と す る 彼 の「 同 情 」 に つ い て は、漢学的な知見以外には特にショーペンハウアー哲学の影響が指摘されることから、まずはその受容環境について概観し ておきたい。 近代日本におけるショーペンハウアー哲学の受容については、大きく三つの時期(①明治一七(一八八四)年、②明治 二 六 ( 一 八 九 三 ) 年、 ③ 明 治 四 四・ 四 五( 一 九 一 一・ 一 九 一 二 ) 年 ) が 画 期 と し て 指 摘 さ れ る( 兵 頭 一 九 九 〇、 一 二 四

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頁 )。 明治初期にベンサムやミル流の功利主義やコント流の実証主義を中心とした英仏系の啓蒙思想を導入して以降、スペンサー 流の社会ダーウィニズムなども唱導されるが、明治一〇年代以降に明治政府のヘゲモニーが強まるにつれ、ドイツ・プロイ セン系の観念的・保守的な原理が奨励されることとなり、その方針に合わせるように東京大学にもドイツ・プロイセン系の

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学問が導入されていく。制度的には明治 一九 (一八八六)年の「帝国大学令」によ り当該路線が明確化されるが、哲学・思想面においては、明治 一七 年に結成された 「 哲 学 会 」 の メ ン バ ー で あ る 井 上 哲 次 郎( 一 八 五 五

一 九 四 四 )、 井 上 円 了( 一 八 五 八

一 九 一 九 )、 三 宅 雪 嶺( 一 八 六 〇

一 九 四 五 ) な ど の 東 京 大 学 哲 学 科 の 卒 業 生 た ちの動向が、ショーペンハウアー受容の面からは注目される。嶺雲が文科大学の漢 文 科 に 在 籍 し た 時 期 は 前 述 の よ う に 明 治 二 四

二 七 年 だ が、 先 の 受 容 時 期 区 分 の 一 つ で も あ る 明 治 二 六 年 に は、 六 年 間( 明 治 一 七

二 三 年 ) の ド イ ツ 留 学 を 終 え た 井 上哲次郎が「哲学・哲学史(第一講座) 」の担当者として名を連ね(表②) 、さらに は哲学科初の外国人講師であるブッセ( Ludwing Busse 一八六二

一九〇七)の後 任 と し て、 ド イ ツ 系 ロ シ ア 人 の ケ ー ベ ル( Radphael von Koeber 一 八 四 八

一 九 二 三)が着任している。日本におけるショーペンハウアー受容のキーマンであること と、所属学科は違えども嶺雲の在学中における講師である面とを考慮し、ここでは 井上とケーベルにおけるショーペンハウアー理解に絞って簡単に触れておく。 井 上 の シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー 理 解 の 根 底 に は、 「 現 象 即 実 在 論 」 と 呼 ば れ る 思 考 形 態 が 指 摘 さ れ る( 井 上 二 〇 〇 七、 四 八 頁

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)。 こ れ は、 井 上 が 東 京 大 学 で 原 坦 山( 一 八一九

一八九二)の「仏典講義(後に「印度哲学」と改称) 」で『大乗起信論』そ の 他 の 大 乗 仏 教 の 哲 学 的 思 考 を 学 び、 そ れ を ヒ ン ト に 構 想 し た と さ れ る も の だ が (渡部二〇一四、一一 六

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頁) 、論理構造としては「一元論」が特徴となり、東洋的な 一 元 論 を 示 す こ と で 西 洋 哲 学 流 の 二 元 論 的 思 考 に 対 抗 し よ う と し た も の と 言 わ れ

表②(明治 ((─(0 年までの文科大学各講座担当者((()

講座名 区分 講師名 担当時期

漢学、支那語学 第一講座 島田重禮 明治 ((.9.9 ~

第二講座 竹添進一郎 明治 ((.(0.(8 ~ (8.9.((

根本通明(講師) 明治 (8.(0.( ~ (9.(0.(7 根本通明(教授) 明治 (9.(0.(7 ~ 第三講座 宮島大八(分担) 明治 (8.(.(0 ~

三島毅(分担) 明治 (8.(0.( ~ (9.(.((

那珂通世(分担) 明治 (9.(.( ~

哲学、哲学史 第一講座 井上哲次郎 明治 ((.9.9 ~

第二講座    

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る。このような一元論的な思考を井上は日本的哲学の土台に据え、留学中に触れたショーペンハウアーやハルトマンの哲学 が「西方キリスト教的二元論とは異なる、一種の神秘主義的一元論、云い換えれば、 東方的

000

、 東洋的な本体的一元論の発想

0000000000000

を 持 っ て い た 」( 井 上 二 〇 〇 七、 五 六

五 七 頁、 傍 点 マ マ ) か ら こ そ、 『 大 乗 起 信 論 』 的 な 発 想 を 彼 ら の 内 に 読 み 取 っ た と 指 摘 さ れ て い る。 そ の 思 考 は、 中 国 北 宋 時 代 の 程 伊 川( 一 〇 三 三

一 一 〇 七 ) の 理 一 元 論 的 な 発 想 に も と づ く「 理 一 分 殊 」 論 や「 体・ 用 」 の 論 理、 朱 子 学 に も 影 響 を 与 え た 華 厳 哲 学 に お け る「 理 事 無 礙・ 事 事 無 礙 」 の 考 え に も 通 底 し、 「 内 在 的 超 越」の論理として東洋的発想の根幹をなすものと把握される。 これに対して、ケーベルにおけるショーペンハウアー理解にも似たような趣向が認められる。ケーベルのパーソナリティ は内向的且つ受動的であり、キリスト教の理解にも東方キリスト教(ロシア正教)的な理解、すなわち神秘主義的で形而上 的傾向が極めて強く、哲学の根底には神秘的とも思われる知的直観が働かねばならないことをよく語っていたという。この ような認識から理解されるショーペンハウアー哲学は、神秘主義的実在論として読み込まれることとなり、世界に内在する 超 越 的 存 在 と の 直 結 的 な 関 係( 「 合 体 」、 シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー 的 に は「 涅 槃 」) へ と い た る よ う な、 一 元 論 的 な 思 考 形 態 を と ることになる。 このように、井上においてもケーベルにおいても、ショーペンハウアー哲学は一元論的な認識枠で把握される点で共通し ており、それは嶺雲の「同情」論においても通じている。表①4( 「美と善」 )で開陳される無差別無分別の状態や、為すと ころは違っても達するところは同じであるという認識、相対を超えて絶対に至る( 「道と躰を合する」 )点を『荘子』の「斉 物論」を援用して主張する論理がそれに当たるが、この一元論的な認識枠で理解される「同情」論は、同時代では嶺雲以外 に、例えば島村抱月(一八七一

一九一八)にも認めることができる。東京専門学校(現・早稲田大学)の卒業論文( 「覺の 性 質 を 概 論 し て 美 覺 の 要 状 に 及 ぶ

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」) を も と に、 明 治 二 七 年 の『 早 稲 田 文 学 』 に 掲 載 さ れ た「 審 美 的 意 識 の 性 質 を 論 ず

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」 に おいて彼の「同情」論が展開されることから、その論理を概観してお く

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当 該 論 文 の 主 要 な 論 旨 は、 「 主 觀 の 面 に 立 ち て、 審 美 的 意 識 の 成 る 次 第 を 研 究 す る に あ り。 思 ふ に、 審 美 の 意 識 は 結 局 我 他の同情を本とす。同情の性質を知らんとせば、まづ、情の由りて來たる處を審にし、そが知と意とに對する地位を明めざ る べ か ら ず

)11

」 と、 審 美 的 な 意 識 の 成 り 立 ち と、 そ れ を 構 成 す る「 同 情 」 の 理 論 的 考 察 に あ る が、 そ の 考 察 に 際 し て は カ ン ト、ヒューム、シラー、ハルトマンらも引用されつつ、大枠ではショーペンハウアーの「同情」理論が参照される。抱月は まず「同情」を「同悲の情」 (真同情)と「憐愍の情」 (準同情)とに分け、前者は「自ら其の地に立ちたる心地して、悲を 同 じ く す る 」 も の、 後 者 は「 他 を 憫 れ と 見 る 」 も の と 規 定 す る

)11

。 そ れ は 仏 教 に 由 来 す る「 平 等 我( 平 等 の 情 )」 と「 差 別 我 ( 差 別 の 情 )」 に も 言 い 換 え ら れ る が、 「 準 同 情 」 が 概 念 や 知 識 に よ っ て 制 約 さ れ て い る こ と か ら「 差 別 我 」 で あ る の に 対 し、 「 真 同 情 」 は 我 他 の 区 別 を 超 越 す る ゆ え に「 平 等 我 」 に い た る も の と さ れ る。 そ の「 真 同 情 」 は、 概 念 や 知 識 に よ る 知 的 操 作 な し に「 理 想( イ デ ー) 」 を「 直 覚 」 す る こ と で 得 ら れ る が、 そ れ は 具 体 的 な 現 実 生 活 の な か で 達 成 す る こ と は 困 難 で あ る 反 面、 「 美 術 界 」 に お い て だ け 実 現 さ れ る。 こ の 発 想 に は シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー の 芸 術 論 の 影 響 も 看 取 さ れ る が、 彼 に おいては苦悩に満ちた生の世界における束の間の慰めや安らぎを与えるものが「芸術」であり、あくまでも副次的なものと して扱われる「芸術」もしくは審美的意識の話題は、抱月においてはそれこそが主題として取り上げられる。ショーペンハ ウ ア ー に と っ て は、 本 質 的 に 苦 悩 で あ る 生 の 世 界 か ら 脱 け 出 す 為 に は、 「 同 情 」 と い う 自 己 と 他 者 の 区 別 を 解 消 す る 同 一 性 体 験( 自 己 と 他 者 の な か に あ る 苦 し み を 共 に 感 じ と る =「 共 苦 」「 同 苦 」) こ そ が 最 高 の 道 徳 的 な あ り 方 と し て、 倫 理 的 な テーマとなる。 このような「同情」は言わば「真同情」に該当するが、その思考は嶺雲においても、例えば表①4( 「美と善」 )において 「「 善 と は 他 人 の 苦 患 を 察 す る こ と( Erkenntniss des fremden Leidens ) に し て、 純 粋 の 愛( caritas ) は 即 ち 同 情 な り と い ひ、 凡 て の 愛 は 即 ち 同 情 な り( Alle Liebe ist Mitleid ) と も い へ り 」」 ( 全 集 一・ 一 九 七 三、 二 三 一

二 三 二 頁 ) と 述 べ ら れ たように、彼が主張する「同情」もまた、抱月の述べる「真同情」に該当する様を見て取ることができよう。ショーペンハ

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ウアーの「同情」論はその意味から抱月の「同情」論に影響を与えるが、しかし抱月は倫理上のテーマをあくまでも審美上 の 問 題 と し て 捉 え な お そ う と し た の で あ り、 そ の 限 り で の シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー 理 解 で あ っ た 一 面 が み ら れ る。 そ れ は、 シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー に と っ て の 解 放 と 救 済 は、 こ の 世 界 を 形 成 す る 本 質 的 な 存 在( 「 意 志 」) を 否 定 し た 先 に 現 出 す る「 涅 槃 」 の 境 地 こ そ が 真 の 慰 め で あ り 快 楽 で あ る と い う、 つ ま り 世 界 の「 否 定 」 の 立 場 で あ る の に 対 し、 抱 月 は「 平 等 我 」「 真 同情」の目的を達したからこそ快楽を感じるという、世界の「肯定」の立場にあった違いによるところが大き い

)1(

四   まとめ

如 上 の よ う に 展 開 さ れ た 抱 月 の 審 美 的 意 識 と「 同 情 」 の 探 究 は、 「 真 同 情 」 /「 準 同 情 」 と い う 区 別 を 設 け つ つ も、 希 求 さ れ る 地 平 と し て は「 真 同 情 」「 平 等 我 」 と い う 無 差 別 平 等 の 境 地 が 設 定 さ れ て い た。 そ も そ も こ の よ う な 思 考 が「 現 象 即 実在論」の制約の下で行われている点からみても(岩佐二〇一三、五二

五五頁) 、一元論的な世界観を背景としている点が 指摘しうる。その一元論的な世界観の下でショーペンハウアー哲学が受容されたことは、井上哲次郎とケーベルを通して確 認したが、その枠組みは、嶺雲におけるショーペンハウアー理解ならびにその中で展開される「同情」論についても等しく 指摘できることをみてきた。さらにその「同情」論自体に関しても、同時代においては島村抱月における理解と軌を一にし ている一面が認められたが、そのような思考自体は、同時代的な知的・言説環境(知のプラットフォーム)から出て来たも のであるに過ぎないともいえる。しかし、そのプラットフォームからの距離や方向性については異同が認められ、その差異 こそが各論者のオリジナリティとして理解される。 例えば抱月の「同情」論では、ショーペンハウアー的な意味での倫理的な側面を切り落とし、あくまでもそれを審美上の 問題として追究したところにオリジナリティが認められたが、その「同情」論は、嶺雲におけるそれとは方向性が異なる。

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嶺 雲 に お い て は、 「 同 情 」 そ の も の の 認 識 は 抱 月 ほ ど ま で に は 理 論 的 な 思 索 は 深 め ら れ ず、 本 人 自 身 も「 予 の 社 會 主 義( と いひ得べくんば)は極めて簡單である。貧者に對する同情、只是だけである、資本がどうの分配がどうの、そんな經濟上の 理 窟 は 予 に は 無 い、 強 者 に 對 す る 反 抗、 弱 者 に 對 す る 同 情、 此 が 予 の 思 想 の 基 石 で あ る 」( 全 集 五・ 一 九 六 九、 六 六 二 頁 ) と 後 年 に 述 べ る よ う に、 そ れ は 極 々 単 純 な も の で あ っ た に す ぎ な い。 し か し そ の 単 純 さ は、 特 に 表 ①

「 文 学 」 と の 関 係 性 が 問 わ れ て い た 時 代 状 況 も 控 え て い る 般 へ と 展 開 し て い っ た 点 も 先 に 触 れ た が、 そ こ に は な お 漢 文 学( 前 近 代 ) 的 な 概 念 と し て の「 文 」 と 近 代 的 な 概 念 で あ る あるだろう。彼の評論活動が初期においては文芸の領域に集中し、後には「文明批評家」とまで言われるように広く社会一 向性を強くもつ漢文学に親しみ、それを骨子とした言説を展開していったことも併せ考えることでさらに強調される側面も は、前述のように嶺雲が郷里土佐において年少ながらに自由民権運動に関わって活動した経歴や、歴史的にみて政治への志 雲 の「 同 情 」 は あ り 得 た こ と を 示 し て い よ う。 そ の よ う な 社 会 化 も し く は 政 治 化 へ の 端 緒 を ひ ら く も の と し て の「 同 情 」 し、その世界の悪しきものを摘発し、貧しいものたちに「同情」し、世界を良い方向へと変えていくための起点として、嶺 も、 抱 月 の よ う に 倫 理 的 な も の を 捨 象 し た 審 美 的 な も の と も 異 な り、 ( こ れ は 抱 月 に も 通 ず る が ) 現 実 の 世 界 を「 肯 定 」 そ、嶺雲のオリジナリティであったと言える。それはショーペンハウアーにおける世界の「否定」の中で希求される倫理と 微 」) 以 降 に 明 確 化 さ れ て い く 社 会 改 革 へ の 強 い 志 向 へ と 結 実 し て い き、 そ の よ う な 志 向 を 支 え る 論 理 と し て の「 同 情 」 こ (0(「 小 説 と 社 會 の 隠

)11

。 今 後 は そ の よ う な 環 境 も 視 野 に 収 め た う え で、 嶺 雲 の 文 芸 ま た は評論全般を検討する必要があるが、その一つの視覚として、彼の「同情」論にみられる論理構造や言説展開を考察するこ とには意義が認められる点を指摘しておきたい。

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五   おわりに

評論活動の始発期においては、その果敢さと鋭利さによる論法と悲惨小説や観念小説などの新文学の潮流を積極的に推し た こ と な ど か ら 声 名 を 上 げ た 嶺 雲 が、 「 同 情 」 に つ い て 理 論 的 に 思 索 し て い っ た 抱 月 が 後 の 自 然 主 義 文 学 運 動 に お い て 主 導 的 な 役 割 を 果 た し た の と は 異 な り、 「 明 治 三 十 年 代 以 後 の 彼 は 文 芸 評 論 か ら 遠 ざ か り、 さ な く と も、 文 学 自 体 の 深 化 発 展 に つ い て い け な い、 あ る 意 味 で は 旧 式 な 批 評 家 だ っ た の で あ る 」( 吉 田 一 九 八 一、 四 四 五 頁 ) と さ れ る こ と は、 た し か に 狭 義 の 文 学 か ら 言 え ば そ の よ う に 論 じ ら れ る の だ ろ う。 し か し 嶺 雲 が 盛 ん に 言 挙 げ し た「 同 情 」 は、 狭 義 の 文 学 の み に 留 ま ら ず、彼の時代状況への関心も相まって社会化・政治化される射程を含みこむものであった。東西の文明や思想の融合、戦争 に 対 す る 態 度、 結 婚 や 家 制 度 に 関 す る ラ デ ィ カ ル な 言 説 な ど、 『 靑 年 文 』 以 降 に 展 開 さ れ る 各 種 の 評 言 に お い て も、 本 稿 で 検 証 し て き た「 同 情 」 観 を そ の 基 調 と し て み と め る こ と が で き る。 そ れ ら の 総 体 的 な 検 討 も、 「 同 情 」 観 に み ら れ た 論 理 構 造を中心として進めていく必要があるだろう。 また、狭義の文学から、さらには演劇の世界へと活動場所を変えていく抱月の「同情」論とは方向が異なり、社会化・政 治 化 を 射 程 に 含 む 嶺 雲 の「 同 情 」 論 は、 同 時 代 さ ら に は す こ し 後 に 展 開 す る 社 会 主 義 的 な 文 学 活 動 は も と よ り、 「 経 世 済 民 」 的 な 活 動 や 社 会 事 業 な ど と も 連 動 す る 認 識 と し て 注 目 に 値 す る テ ー マ で も あ る。 こ の 点 は、 「 文 」 と「 文 学 」 の 言 説 環 境、その中での嶺雲の言説的布置を視野に収めて検討すべきでもあるが、それらについても今後の課題としておきたい。

(1)①「『平民的短歌の發達』第二を讀む」(明治二五年一〇月一七日刊『亞細亞』第六一号)、②「愛山生が反駁に答ふ」(明治二五年一〇月二二日刊『國民新聞』第八四八号一面)、③「愛山生が史論を讀む」(明治二五年一〇月二四日刊『亞細亞』第六二号)など。発端は、

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愛山が『國民之友』第六七号(明治二五年九月二三日刊)・第六八号(同年一〇月三日刊)・第六九号(同年一〇月一三日刊)に発表した『平民的短歌の發達』に対する嶺雲の批判(①~③の署名はいずれも「栩々生」)であり、愛山からの反論は、『栩々生に答ふ』(明治二五年一〇月一九日号『國民新聞』)のみである。なお全集の「解題」によれば、①の評論が嶺雲の文章で確認できる最も早いものであるという(全集一・一九七三、六七六頁)。    以下、嶺雲の文章の引用は、利便性を考慮して『田岡嶺雲全集』(西田勝編、法政大学出版局)の該当頁を記す。例えば、(全集一・一九七三、六七六頁)は全集第一巻、一九七三年刊、六七六頁を表わしている。また表記に関して、本文中での年号は雑誌書籍の刊行年月日は元号表記のみとし、それ以外の年号については元号と西暦を並記し、字体については、雑誌名と引用文は原則として原文のままとした。(2)蘇東坡については、「蘇東坡」(明治二六年八月二八日刊『史海』第二六巻)。ハイネについては、「ハインリヒ・ハイネ」(明治二七年二月三日刊『日本人』第八号~第一二号に毎号連載)。荘子については、「莊子の逍遥游」(明治二七年六月五日刊『宗教』第三二号、同年七月五日刊『宗教』第三三号)。(3)『靑年文』は、第一巻第一号が明治二八年二月一〇日に刊行され、明治三〇年一月五日刊行の第四巻第六号の通巻二四冊をもって一応の終刊を迎える。しかしその後も、発行元である「少年園」から発行された雑誌『文庫』第五巻第五号(明治三〇年五月二〇日刊)の付録として収められたり、明治三一年九月に菊判型雑誌の体裁で『靑年文第一集』が同じく「少年園」から刊行されるなどして、二四冊での終刊とは言い切り難い面も指摘される(全集一・一九七三、七〇六頁)。(4)嶺雲は『靑年文』以外にも、『東亞説林』(明治二七年一一月三日刊~明治二八年三月一六日刊、通巻四号)、『江湖文學』(明治二九年一一月二〇日刊~明治三〇年六月八日刊、通巻七号)、『天鼓』(明治三八年二月二三日刊~明治三九年三月二〇日刊、通巻二〇号)、『江湖』(明治四一年三月二〇日刊~明治四一年八月二一日刊、通巻五号)、『黑白』(明治四二年二月刊~明治四二年一〇月刊)など、多くの雑誌の立ち上げに関わっている。これら各雑誌の立ち上げと顛末などについては各全集の「解題」を参照のこと。(5)『早稲田文学』第一次第一期(八四)、明治二八年三月二五日(6)『青山評論』(五四)、明治二八年四月二日(7)『國學院雑誌』一(六)、明治二八年四月二〇日(8)家永三郎『數奇なる思想家の生涯─田岡嶺雲の人と思想─』(岩波書店、一九五五年一月)(9)西田勝『近代文学の潜勢力』(八木書店、一九七三年五月)(

(0)吉田精一『近代文芸評論史

明治篇』

(至文堂、一九八一年四月)(

(()立花雄一『明治下層記録文学』

(筑摩書房、二〇〇二年五月)(

はその作業を控えておく。嶺雲自身は「忘れられた思想家の一人」(家永一九五五、三頁)と言われるように、その主要著作(『壺中観』 (()ここで、本来であれば嶺雲に関する研究史を整理することが必要であろうが、次の点からまだその時宜を得ていないと判断し、本稿で

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明治三八年四月、『壺中我観』明治三九年三月、『霹靂鞭』明治四〇年一〇月、『病中放浪』明治四三年七月など)が当時の政府から悉く出版禁止にされたため、彼の膨大な文章が「全集」として編纂されて世に出たのは、死後五七年が経過した一九六九年(全集五巻)からであった。それ以外にも、嶺雲が文章を発表した媒体が雑誌や新聞を主としており、それらに掲載される文章は資料として散逸しやすい性格を有することから、単行本出版されたものより保存がされにくいというフォーマット上の問題にも、彼の文章を参照することへの困難さが指摘しうる。嶺雲の文章の収集と整理は、家永や西田の労に帰するところが多大であるが、西田を中心に編纂される全集の刊行も、全八巻の予定ではあるものの、二〇一七年現在では第五巻までがようやく刊行された段階である(最近刊は二〇一四年四月刊の第四巻)。二〇〇五年・二〇〇六年には、鈴木一正による嶺雲関連の網羅的な参考文献目録が作成され(鈴木一正「田岡嶺雲参考文献目録─昭和二一年~平成一五年」『国文学研究資料館紀要

一九年」『国文学研究資料館紀要 文学研究篇』三一、二〇〇五年二月、同「田岡嶺雲参考文献目録─明治二五年~昭和 文学研究篇』三二、二〇〇六年二月)

、研究上にも裨益するところ大であるが、嶺雲に関する本格的な評伝も(家永一九五五)にほぼ限られる点や、嶺雲の活動全体に対する個々の研究についても、なおその全貌を俯瞰する段階には至っていない。このため、嶺雲の研究史を検討する作業も現段階では時期尚早の観があり、本稿で扱う論点についても、彼の生涯にわたる「同情」観を扱うものではないことは本文で触れたとおりである。(

は、基本的には注3であげた明治三〇年一月五日刊行の『靑年文』第四巻第六号までとしたが、『靑年文』後の事例として 年五月一〇日刊『靑年文』第三巻第四号「時文」)(全集二・一九八七、九六─九七頁)など。また、表①で取り上げた文章の時間的上限 チー」(明治二九年一月一〇日刊『靑年文』第二巻第六号「時文」)(全集一・一九七三、五七〇─五七二頁)、「操觚者の腐敗」(明治二九 そのため、文中に「同情」の語句が現れずとも、文脈的に「同情」を論じた文章はリストには取り込んでいない。例えば「ヒューマニ (()リスト化の基準としては、全集を底本とし、原則として文中に「同情」の語句が確認できるものを網羅的にカウントすることとした。

( までにカウントした。この時期区分はあくまで便宜的なものであるため、これ以降の言説も今後は検討していく必要性がある。 (7のみ、参考 が、同時代状況下では、「貧」という視点をもった社会事業活動とその意義の鼓吹が、実地的な実践としても、注 けを巡って」『(二松學舍大学)人文論叢』九三、二〇一四年一〇月)。嶺雲の視野は活動地である東京におけるそれを見てのものだろう 分野で「福田」を広める活動を開始したときに当たっている(平崎真右「近代社会事業としての墓石整理を考える─「福田海」の位置づ 前年(明治二八年)には、例えば大阪の地では「福田海(当時の名称は「無縁法界講」)」が興り、それは既成の宗教者たちとは異なった 者的なパトスをもって活動すべきとの評言は、当時の時代状況を考える上では興味深い奥行きを持ってくるだろう。この文章が世に出る (()貧民救済などの慈善・社会事業活動に関して、既成の宗教者たちによる実際の活動を強く批判し、詩人文士こそが彼らに代わって宗教

( 品や評論としても澎湃として湧きおこる。その文学側の言説を代表するものとして、嶺雲の評言は一つの言質として看取しうる。 (7でみるように文学作 一五〇─一五一頁)と、狭斜世界を汚れたものとして認識し、しかしその汚れた世界のなかでも人間の涙や情は汚れていないこと、「至 汚れたらざればなり」、「汚れたる狭斜の地に於ける清き情と涙とを描く、人をしてこれに同情せしむること多し」(全集二・一九八七、 (()その嶺雲の評価軸とはなにか。まず彼は、「蓋し涙なるものは至純、地汚れたればとて彼等(注:狭斜世界の住人、遊女)が涙必ずしも

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純」であると捉える。この認識のあり方は、

( な世界でしかなく、それに「明治の新衣裳を着けしめたるのみ」(全集二・一九八七、九三頁)と手厳しい。 は、嶺雲がどこに評価点を置いていたのかを明らかにするだろう。この二者間の恋愛関係といったテーマは、為永春水のような人情本的 會の罪にもあらず。これ避け得べからざるの悲傪に非ざるが故に、その人を動かすや弱し」(全集二・一九八七、九二─九三頁)との評言 あったとしても、それはあくまでも当事者同士でのものでしかない。「二人が戀愛によりて惹起せる罪過のみ。境遇の罪にもあらず、社 り」(全集二・一九八七、九二頁))。『泥水清水』評としては、花鳥と水島の関係は一場の恋愛話でしかなく、この二人のあいだに悲惨が 其行文共に熟して花袋の拙劣に似ずと雖も、然れども其眞に同情せず、眞に泣かず、時好を趁ふて徒に筆を弄したるに至ては二者相似た えられており、花袋は水蔭に比べてさらに低評価である(「水蔭の作、これを花袋の『斷流』に比すもとより同日の論に非ず、其結構、 一葉『にごりえ』のエピゴーネンとして田山花袋『斷流』(明治二九年二月一〇日刊『文藝倶樂部』第二巻第三編)や『泥水清水』が捉     同じ論旨の批判は、「『泥水清水』」(明治二九年五月一〇日刊『靑年文』第三巻第四号「時文」)で先取り的に指摘される。そこでは、 けていないので批判の対象となる。 ので、描くべきはそこであるにも関わらず、昨今の流行小説では「境遇」の写実ばかりに力を入れる傾向があり、「靈性」を同情的に描 り」(全集二・一九八七、一五一頁)と、「人間」「世界」という普遍的な価値観を持ちだす。この「人間」「世界」は「靈性」に属するも 人情はひとしくこれ人間の情のみ、狭斜の悲傪もひとしくこれ世界の悲傪たるのみ。材は狭斜にありと雖も、描くは人生なり、世界な 「靈性」とを弁別したものだと換言できよう。「境遇」とは個別的なものだが、「靈性」とは普遍的であるともいえ、だからこそ「狭斜の (0(「境遇と靈性」)での主張と地続きであり、狭斜世界という「境遇」と、涙や情という

(()原文では文章にすべて傍点が附されているが、引用に際してすべて省略した。

価としては、 どとも称されている」(伊狩章『硯友社の文学』塙書房、一九六一年一〇月、一八一頁)とも指摘される。嶺雲のそれら悲惨小説への評 れる。先行論では「深刻小説は、はじめ悲惨小説と呼ばれたが、二九年ごろからは深刻小説の呼称が広く行なわれ、のちには暗黒小説な り、さらには同時期の動向でもある泉鏡花や川上眉山らの作風を称した「観念小説」とも、新傾向の文学としてしばしばセットで論じら 小説」「観念小説」と呼ばれる作品群を指している。例えば「悲惨小説」は、文学史では「深刻小説」と抱き合わせで用いられる観があ ものなり」(全集一・一九七三、五七一頁)とのくだりがみられるが、それは明治二七・二八年前後に集中的に現れる「深刻小説」「悲惨 (7)例えば「ヒューマニチー」(明治二九年一月一〇日刊『靑年文』第二巻第六号「時文」)では「嗚呼今の小説家はよく悲傪を描くに誇る

(0(「小説と社會の隠微」)~

( 「貧民の正月」『毎日新聞』明治二九年一月九~一二日など)の、嶺雲への感化が考えられる(立花二〇〇二、一三二─一七六頁)。 (桜田文吾『貧天地饑寒窟探撿記』日本新聞社、明治二六年六月、松原岩五郎『最暗黑之東京』民友社、明治二六年十一月、横山源之助 極が描かれてはいないとの認識に表れるが、その点は立花雄一が指摘するように、同時期に盛んに発表された貧民窟ルポルタージュ群 段階では、実は早くも批判的な目が向けられている。その批判点は、題材には下層社会や貧困層が採られていても、なおそこには悲惨の (((「詩人と同情」)の段階では積極的に推奨されるものとしてあるが、「ヒューマニチー」の

(8)「ヒューマニチー」、さらには

(7(「詩人と人道」)辺りからなされる悲惨小説批判は、立花が指摘するように当初の悲惨小説評価からの

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