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﹃ 平治物語絵巻   六波羅合戦巻 ﹄ について

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(1)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について 一︑はじめに   ここに紹介する﹃平治物語絵巻  六波羅合戦巻﹄は︑

二〇一四年に早稲田大学図書館が新たに収蔵した絵巻で

ある︵以下︑早大本と称す︶︒これまで﹃平治物語﹄の絵

巻は︑原本・模本を合わせ︑三条殿夜討巻・信西巻・六

波羅行幸巻・待賢門合戦巻・六波羅合戦巻・常葉巻が確

認されており︑この早大本は六波羅合戦巻を描いた模本

である︒現存する﹃平治物語絵巻﹄のうち︑常葉巻以外

は多少の差異はあるものの一連の作品として考えられて

おり︑原本は十三世紀後期頃の成立かと先学により検証

されている 1︒   六波羅合戦巻は︑住吉広行︵一七五五〜一八一一︶の﹃倭

錦﹄に﹁六波羅合戦粉本  不具着色已失原本所在﹂とあ

ることが多くの先行研究で指摘されており︑十八世紀後

半頃には原本の所在は不明とされ︑白描模本が享受され

ていた様子が窺える︒しかし昭和に入り︑十四枚の原本

の残欠が発見され 2︑更に四行の詞書断簡も報告された 3︒

これらと東京国立博物館に所蔵される白描模本が︑原本

の全体像を把握する主な手掛かりと考えられている︒模

本は東博本の他︑各地で所在が確認されており︑今回報

告する早大本もまた模本の一つであるが︑東博本とは異

なる特徴が見え︑六波羅合戦巻の原本の姿や享受︑更に

は絵巻と﹃平治物語﹄の関係を考える上で貴重な資料で 早稲田大学図書館所蔵

平治物語絵巻 六波羅合戦巻 について

滝  澤  み 

﹃早稲田大学図書館紀要﹄第六十二号︵二〇一五年三月︶

(2)

あると言える︒以下︑この早大本に関する調査の報告を

行う︒

二︑書誌情報

  初めに︑早大本の書誌情報を記し︑考察を加えてみよ

う︒

︻絵巻︼

  ﹇所蔵﹂早稲田大学図書館   ﹇番号﹈チ四  六三四九   ﹇巻冊﹈一巻   ﹇表紙﹈青地に白い花・金泥の草などの模様   ﹇寸法﹈   縦四一.八㎝×横一五m七二㎝   ﹇外題

﹈ ﹁

平治物語﹂︵題箋あり・金箔付︶

  ﹇内題﹈︵なし︶   ﹇装丁﹈巻子   ﹇軸頭﹈朱塗・青い花の模様   ﹇字高﹈三二.八

  ﹇用字﹈かな・漢字   ﹇奥書﹈  ﹁土佐古将監之真筆/元和三年霜月七日写畢/

森井善太郎︵落款印﹁卿雲

﹂ ︶﹂︵/は改行︶

  ﹇蔵書印﹈  ﹁

新宮城書蔵

﹂︵

水野忠央

︶︵

縦八

.三㎝×横

二.

六㎝

  ﹇備考﹈  見返し・詞書・奥書部分に金箔が散っている︒

︻箱︼

  ﹇表面﹈黒塗   ﹇寸法﹈   縦五二.六㎝×横一二.四㎝×高さ一一.〇

㎝   ﹇外題﹈  ﹁平治物語  土佐光起筆﹂︵題箋あり・金箔付︶   ﹇備考﹈   蓋裏に付いた紙片に﹁花園実満画

﹂ ︑ 箱底に付

いた紙片に﹁紀州新宮城主水野忠央旧蔵﹂と

ある︒

まず早大本の伝来を確認しよう

旧蔵者の水野忠央

︵一八一四〜一八六五︶は︑紀伊国新宮︵現和歌山県新宮市︶

の城主である︒忠央と言えば︑丹鶴叢書の編纂で著名で

ある

忠央の蔵書が収められた丹鶴書院の目録である

﹃新宮城書蔵目録﹄︵文久元年︿一八六一﹀〜三年︿一八六三﹀

頃成立 4︶第八巻の﹁御画巻物﹂の項には︑三本の﹁平治

(3)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について 物語絵詞﹂︵各一巻︶の存在が確認出来る︒その詳細は不

明であるが︑このうちの一巻が六波羅合戦巻であったと

すれば︑遅くとも早大本は目録が作成された時までには

存在していたことになる︒同目録には﹃保元物語

﹄ ﹃ 平

治物語

﹄ ﹃ 平家物語

﹄ ﹃

承久記

﹄ ﹃

太平記﹄を含む多くの

軍記物語も収集されていた様子が窺える︒早大本は表紙

の模様も細かく

見返し

詞書

奥書部分には金箔が

散っており︑六波羅合戦巻の模本としては豪華な部類の

ものである︒早大本の制作が忠央の命によってされたも

のなのか︑それとも忠央は所持していたに過ぎないのか

は特定し兼ねるが︑城主が所持していたものとして︑見

劣りしない作りとなっているのは確かである︒

  奥書からは森井善太郎という名と︑元和三年︵一六一七︶

の年が確認出来る︵図版1︶︒早大本の詞書部分には金箔

が散っているが︑筆の上に金箔が付いているため︑執筆後

に施されたことが分かる︒この奥書も筆の上に金箔が付

いており︑本絵巻の制作時と同時に書かれた奥書である

ことが分かる︒但し︑落款印は金箔の上に押されている︒   この森井善太郎の奥書は︑他の模本のうち︑安田靫彦

氏旧蔵本・逸翁美術館蔵本・宮内庁書陵部蔵本にもある︒

まず日本画家・安田靫彦氏︵一八八四〜一九七八︶が所蔵

したという白描模本を確認してみよう︒未見のため鈴木

敬三氏﹃初期絵巻物の風俗史的研究 5﹄の記述を引用する

と︑安田本の奥書には︑

土佐古将監之真筆  元和三年霜月七日写畢        森村善太郎︵花押︶      六波羅合戦之図  橘金六所蔵

[図版1]奥書

(4)

     明和九年十一月  千賀七郎左衛門義徴䇭

とあり︑橘金六が元和三年制作の模本を所蔵していたこ

とや︑明和九年︵一七七二︶の千賀義徴の模写であること

が書かれている︒こちらでは﹁森村﹂と翻刻されている

︑ ﹁ 土佐古将監之真筆元和三年霜月七日写畢﹂という記

述については早大本と一致する︒この安田本の奥書は逸

翁本にも見え︑そちらでは森村ではなく﹁森井﹂とある 6︒

更に逸翁本の場合︑森井善太郎・橘金六・千賀義徴の名

に続いて︑絵に関する考察と

︑ ﹁ 明和九年壬辰十一月

﹂ ・

﹁寛政五年癸丑八月﹂の表記がある︒考察は九行に渡り︑

この図が﹁待賢門夜戦の図﹂と言われているがそれは誤

りであり︑今改めて﹁六波羅合戦の図﹂と題する旨が記さ

れている︒また︑森井善太郎の名の後には︑早大本では落

款印があるが︑逸翁本では花押が描かれている︒しかし

この花押は輪郭のみを縁取ったものであり︑後の写しで

あることは明らかである︒更に書陵部本にも︑逸翁本と

同一の﹁土佐古将監︵中略︶寛政五年癸丑八月﹂の記載が

あり︑それに加えて﹁文化元年甲子十一月  松岡清助丹 治辰方︵花押︶﹂とあり︑書写した年と人物が分かる︒書

陵部本にも森井善太郎の名の後に︑落款印ではなく花押

が見えるが︑こちらは縁取りではなく通常のものである︒

  これらの奥書を持つ絵巻の享受についても確認してお

く︒秋山光和氏は︑徴古館蔵﹃本朝画図目録﹄にある六

波羅合戦巻の記事を紹介している 7︒管見に及んだ国会図

書館蔵﹃本朝画図目録﹄を引用すると︑

   六波羅合戦図  一巻     土佐古将監光顕画○元和三年十一月䇭原本橘金六       蔵○森井善太郎書判︵挿入記号︶○寛政十年三月

白川邸に観る

○明和十

六年十一月千賀七郎左エ門

義微 ︵ママ︶䇭 ︵朱で挿入︶

とあり︑寛政十年︵一七九八︶に絵巻を見た記録がある︒

この記録は安田本・逸翁本・書陵部本とは

︑ ﹁

光顕

﹂ ︑ ﹁

和十六年﹂といった箇所が異なるが︑森井善太郎の書判

があることが窺える︒また

︑ ﹃

訂正増補考古画譜﹄︵黒川

真道氏編﹃黒川真頼全集

﹄ ︿

国書刊行会︑一九一〇刊﹀所収︶

(5)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について には

︑ ﹁ 六波羅合戦  一巻  古画目録云︑六波羅合戦図

一巻︑土佐古将監︑原本橘金六蔵﹂という﹃古画目録﹄

の情報が載っている︒

  以上をまとめると︑同じ森井善太郎の奥書を有してい

ても︑安田本・逸翁本・書陵部本は千賀義徴の模写系統

であることが窺え︑これら各本や﹃本朝画図目録﹄から︑

森井善太郎の奥書を持つ六波羅合戦巻は︑義徴模写系統

のものが多く享受されていたことが分かる︒そうした享

受の実態から考えれば︑森井善太郎の名のみを有する早

大本は特異であり︑義徴の手を経ていない︑別系統の模

本である可能性がある︒森井善太郎については︑早大本

に﹁卿雲﹂なる落款印が見える以外に情報がなく︑この

落款印が森井善太郎自身のものなのか含め︑今後も検討

すべき点である︒

  奥書に見える﹁将監﹂とは︑近衛府の第三等官を指す︒

﹃訂正増補考古画譜﹄には

︑ ﹁

真頼曰︑古将監詳ならず︑

倭錦を按ずるに︑慶恩の弟に︑春日左近将監行長あり︑

これを古将監といへるか︑されど︑六波羅合戦も亦保元 平治物語のうちのものなるべければ︑山名貫義氏の説に

拠らば︑慶恩の筆なるべし﹂とあるように

︑ ﹁ 土佐古将

監﹂のみでは誰を指すのか判別し難い

︒ ﹃ 本朝画図目録﹄

は土佐光顕︵南北朝期の絵師︶としているが︑他に同様の

記述は確認出来ず

︑ ﹃ 本朝画図目録﹄筆者が推定したも

のではないかと考えられる︒六波羅合戦巻の原本残欠を

収めていた帖の箱の蓋表には

︑ ﹁ 武者絵鑑  土佐筆  裏 ニ古筆切﹂と書かれていたという 8︒こうした﹃平治物語

絵巻﹄と﹁土佐﹂という名を結びつける動きは六波羅合

戦巻に限った話ではなく︑信西巻や六波羅行幸巻といっ

た他の巻にも見えるものである︒

  ﹁土佐古将監﹂という名は︑他の絵巻の識語にも確認 出来る︒光明寺本﹃当麻寺曼荼羅絵巻﹄上巻末 9には﹁右

曼荼羅之縁起上下巻土佐古将監真跡決然而無渉于猶豫者

也 狩野永真法眼證之﹂とあり︑東京国立博物館蔵﹃異

本伊勢物語絵巻﹄第三巻末 Aには﹁此伊勢物語三巻之絵土

佐古将監光長之遺筆也為證其真識其後狩野右京進安信﹂

という記述があり

︑ ﹁ 土佐古将監﹂の﹁真跡

﹂ ﹁ 遺筆﹂で

(6)

あることが重視されている︒どちらも狩野安信︵永真︶

︵一六一三〜一六八五︶による鑑定である︒その真偽はさ

ておき︑後者の﹁光長﹂は︑平安後期から鎌倉初期に活

躍した絵師・常盤光長︵生没年未詳︶のことと考えられ

る B︒前者の﹁土佐古将監﹂については︑小松茂美氏は﹁土

佐派の絵師は︑室町時代以来︑代代が左近将監に叙せら

れた︒したがって︑古い時代の証言と近い世の人を区別

するために︑特に︿古将監﹀というような呼称を用いた﹂

と解説し︑土佐光信︵生年未詳〜一五二三頃か︶を想定し

ている C︒しかし﹃異本伊勢物語絵巻﹄の光長の例から考

えれば

︑ ﹁

古将監﹂が指す人物は必ずしも室町時代の人

間とは限らないと言える︒このように江戸初期において︑

絵巻の作者を﹁土佐古将監﹂の筆と鑑定する例は確認出

来︑早大本の奥書もそうした一例と考えられる︒そして︑

もし江戸初期の鑑定が示す﹁土佐古将監﹂が

︑ ﹃ 異本伊

勢物語絵巻﹄が記すよう光長のことであり︑森井善太郎

の奥書も同様ならば︑次のような流れが考えられる︒す

なわち

︑ ﹃ 平治物語﹄は平治元年︵一一五九︶に起きた乱 のことを主に書いているため︑森井善太郎はそこから絵

巻の成立を平安後期から鎌倉初期と考え︑その頃に活躍

した光長を絵巻原本の作者と推定した︒そしてその光長

=﹁土佐古将監﹂の真筆本を写し︑奥書を書いた

︒ ﹁

佐古将監﹂が他の人間を指す可能性もあるため断定はし

兼ねるが︑一つの仮説として示す︒

  箱の情報も確認しておこう︒箱の蓋裏には

︑ ﹁

花園実

満画﹂と書かれた紙片が付けられている︒花園実満︵一

六二九〜一六八四︶は︑江戸前期の公卿である︒父は花園

家の祖である右少将・花園公久︵一五九一〜一六三二︶で︑

公久は早くに没したものの︑実満は三歳で従五位下に叙

せられており︑父の死後も位を上げている︒寛文元年︵一

六六一︶正月五日に従三位︑寛文六年︵一六六六︶十二月

二十九日には参議になっている︒箱の外題には﹁土佐光

起筆﹂とある︒土佐光起︵一六一七〜一六九一︶は︑江戸

前期に活躍した土佐派の絵師で︑承応三年︵一六五四︶

に左近衛将監に任官されている︒実満・光起共に︑元和

三年に写された絵巻の作者には当然成り得ず︑森井善太

(7)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について 郎が写した絵巻を転写した人物として挙げられているのであろう︒この情報の信憑性は

︑ ﹁

土佐光起筆﹂としつつ︑

﹁花園実満画

﹂とある時点で不可解であるが︑江戸前期の 0

人々が関わった絵巻として考えられていた様子が窺える︒

  ﹃思文閣古書資料目録

237﹄︵思文閣出版古書部︑二〇一四

刊︶では︑この絵巻は﹁江戸後期写﹂としている︒成立

年代の特定は今後の課題であろうが︑実際に江戸後期の

写しならば︑元々﹁土佐古将監之真筆﹂の絵巻があり︑

それを森井善太郎が写し︑更に実満・光起筆とされる転

写がされ︑それをまた後人が写したものがこの早大本と

いうことになろうか︵転写の具体的回数は不明︶︒

  以上︑奥書の内容を分析しつつ︑森井善太郎の奥書を

有する本の中でも︑早大本は他の義徴模写系統とは異な

る経緯を持つ可能性を述べた︒早大本の特性は奥書のみ

に留まらないことを︑本文の考察の際にも指摘する︒

三︑本文

  ﹇凡例﹈ 一︑以下︑早稲田大学図書館蔵﹃平治物語絵巻  六波羅

合戦巻﹄の翻刻である

  ︒ ︻ ︼は︑詞書・絵の順を︑

︵  ︶は絵の内容の説明を︑論者が私に付けたもの

である︒

一︑改行部分は/で示した︒また︑漢字の表記は基本的

には底本通りにした︒

   ︻第一段︼

抑待賢門の戦は平治元年十一月廿七日の/事なりし

悪源太義平は同日の暮ほとに/またこそ六波羅によ

せ給ふ一人當千のつはもの/とも真先に進み戦けり

御曹子のたまひけるは/今日六波羅へよせて門のう

ちへ入さるこそ口惜/けれつゝけものともとて五十

餘騎かけいれは平/家ふせきかねて引いりにけり清

盛は北の臺の/にしのつま戸に軍の下知してゐたま

ひけるか/妻戸のとひらに敵の射かけし矢のあめの

/ふることくにあたりけれはふせく兵に恥ある侍か

/なけれはこそこれまて敵はちかつくらめいてさら

(8)

は/かけむとて馬引よせさせ打のりて大音にて/大

将軍はたれ人そかく申は太宰大弐清盛/なりけんさ

むせんとかけ出たまへは平家の侍これを/見て筑後

守父子主馬判官父子難波瀬尾/をはしめとして究竟

の兵真先にすゝみ戦ひ

けり義平三方をまくりた

てゝおもてもふらす戦/給ひしか平家新手をいれ替

て人馬の息を/休め入替〳〵たゝかへは源氏の兵も

せんかたなくて/門より外に引しりそきぬ河原をに

しへ引にけり/義朝是を見給ひて義平は河原を西に

引しは/家のきすとおほゆるそ今は何をか期すへき

/うち死せよとかけ出給へは鎌田兵衛馬よりとひ/

をり御轡にとりつき一先都を御引あつて/かさねて

平家をほろほし給へかしと申けれは/よしとものた

まひけるは東にゆけは逢さか山/不破の関をやとゝ

むへきにしに趣かは須/广あかしをな ︵ママ︶すきなむあは

れゆみ矢とる/身ほとかなしかりけるものはなしい

かゝは/せんとのたまひけり三條河原にてかま田/

申けるは守殿はおほし召たゝせたまふ/むねあるに より引退給ふいましはしふ/せき矢射てのはしまい

らせよといひしに/平賀四郎よしのふたゝ一騎引返

して/散々にたゝかひけれは義朝これを見/たまひ

てあれよしのふうたすなと宣ひしに/佐々木須藤刑

部伊澤をはしめとして/はせふさかつてふせきける

佐々木源三/秀よし須藤刑部としみち伊澤四郎/の

ふかけも六条邊にて敵にかけあはせ/敵あまたうち

とつて或は打死しあるひは/手屓て落にけりよしと

もは東をさして/落給ふものゝふのならひとはいひ

なから/としもすてにくれなむに寒さもことに/つ

よくしてきのふの雪も消やらす

あはれさもなか

〳〵にいつくをそれとさゝ/ねともまつ青はかの長

者をなんたのみ/にてをもむき給ひし扨平家の人々

/義朝の宿諸ならひにのふよりの舘に/火をかけゝ

れは魔風さかむにして/炎地にふきしき餘盡数十丁

にふき/ちらしてたちまちに灰塵の地とそ/なりに

ける嫡子よりともは當年十/二歳になり給ひぬいま

たいとけなしと/いへとも弓馬の家にむまれて大軍

(9)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について を/おそれすして父とともに打たゝれしか/源太か

産衣といひし鎧は義家卿/二歳のとき院よりまひら

せ給ひしよろひの/家に傳りしを着し給ひ鬚きり丸

の/太刀を帯て乱軍の中をうちぬけ/すこしも手疵

を屓給はす寿永の/秋になりしかは舎弟判官よしつ

ねを/つかはし給ひけれは平家の一門/こと〳〵く

都を落ぬ元暦のはしめには門司赤間関のいくさ破れ

て一門/西海にしつみて源氏の代とそ/なりにける

源平盛衰の間夢/のことし

   ︻絵一︼

︵六波羅における清盛率いる平氏と源氏の戦いの絵︶

   ︻第二段︼

義朝たえすして西の河原へ引しり/そきぬ馬をひか

へて申けるは命おし/からんともからは是よりすな

はちおつへし/よしともは今度かけ出なんのちは/

さらに不引して頸を馬のはなにけさす/へしと申を

正清みつゝきにとりつきて/たゝいま御命をはてさ

せ給ひて何ほとか/あるへき東国へ趣かせ給ひて御 家人/相催して平家をほろほさん事時刻を/めくら

すへからすと申てもろともに/落にけり

   ︻絵二︼

︵義朝を諌める正清の絵︶

   ︻第三段︼

鎌田兵衛申けるは守殿はおほし召/旨ありてひかせ

給ふなり正清は御供/つかまつり殿原はしはしふせ

き箭/射てのはしまいらせよ心さしは御供に/おと

るへからすといひけれは五十餘騎/のこりとゝまり

て矢たねのあるかきり

心をひとつにしてふせき

たゝかふ惣方/こゝにて多くうたれにけり

   ︻絵三︼

︵三条河原における清盛率いる平氏と源氏の戦いの

絵〜義朝や金王丸が逃げ落ちる絵︶

   ︻第四段︼

信頼卿の宿所三箇所䮒義朝か/六條堀河の家をやき

はらふあいた/餘盡数十町にをよふ感陽宮の煙/の

ことし

(10)

   ︻絵四︼

︵信頼・義朝の邸宅を焼き討ちする絵〜猛火の絵︶

   ︻奥書︼

土佐古將監之真筆/元和三年霜月七日寫畢/森井善

太郎︵落款印﹁卿雲

﹂ ︶

四︑考察

  先行研究において︑六波羅合戦巻の模本は東博本が代

表的に挙げられるが︑そのためか他の模本について触れ

られることは少なく︑何点存在するのかさえ不明確であ

る︒しかし︑絵巻の享受を考える上では︑模本の存在は

重要である︒今回論者が存在を知り得た模本は︑早大本

を除くと十三点である D︒その十三点の諸本と早大本の大

きな相違点は︑A詞書第一段を持つか︑B第一段以外の

詞書を持つか︑C絵に色が付いているか︑D色の指示が

文字で書き込まれているか︑E森井善太郎の奥書を持つ

か︑である︒先行研究を踏まえつつ Eそれらをまとめると︑

次のようになる︒ 1 東京国立博物館蔵一巻A詞書第一段なし・B詞書あり・C色なし・D色指示

あり・E森井奥書なし

  ﹇成立﹈十八世紀初頭   ﹇模写者﹈横田養碩・平田小太郎 F   ﹇蔵書印

﹈ ﹁ 史﹂

2 安田靫彦氏旧蔵一巻︵未見︶

C色なし・E森井奥書あり

  ﹇成立﹈明和九年︵一七七二︶か   ﹇模写者﹈千賀七郎左衛門義徴か

3 逸翁美術館蔵一巻︵国文研紙焼写真による︶

A詞書第一段なし・B詞書あり・C色なし︵一部淡彩︶・

D色指示あり・E森井奥書あり

  ﹇成立﹈寛政五年︵一七九三︶   ﹇蔵書印

﹈ ﹁ 道彦図書印﹂

4 関保之助氏旧蔵本︵未見︶

  ﹇成立﹈十八世紀後半   ﹇模写者﹈稲葉通邦︵一七四四〜一八〇一︶

(11)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について 5 宮内庁書陵部蔵一巻

︵ ︻

絵四︼のみ︶

A詞書第一段なし・B詞書なし・C色なし・D色指示

あり・E森井奥書あり

  ﹇成立﹈文化元年︵一八〇四︶   ﹇模写者﹈松岡清助丹治辰方︵一七六四〜一八四〇︶   ﹇蔵書印

﹈ ﹁

松岡文庫

﹂ ﹁ 帝室図書之章﹂

6 東京芸術大学大学美術館蔵一巻①︵未見︶

A詞書第一段なし・B詞書あり・C色なし︵一部淡彩︶・

E森井奥書なし

  ﹇成立﹈天保十四年︵一八四三 G︶   ﹇模写者﹈木村立嶽︵一八二七〜一八九〇︶

7 真田宝物館蔵一巻

︵ ︻

絵三︼のみ︶

A詞書第一段なし・B詞書なし・C色あり・D色指示

なし・E森井奥書なし

  ﹇成立﹈十九世紀   ﹇模写者﹈高川文筌︵一八一八〜一八五八 H︶   ﹇蔵書印

﹈ ﹁

文筌画印﹂

8 京都府一澤喜久夫氏蔵一巻 A詞書第一段なし・B詞書あり・C一部色あり・D色

指示あり・E森井奥書なし

  ﹇成立﹈文久元年︵一八六一︶   ﹇模写者﹈有信か I

9 横浜市歴史博物館蔵一巻

A詞書第一段なし・B詞書なし・C色あり・D色指示

あり・E森井奥書なし

10  東京芸術大学大学美術館蔵一巻②︵未見︶

A詞書第一段なし・B詞書なし・C色なし・E森井奥

書なし11

  安田靫彦氏旧蔵一巻︵未見︶

C色なし

12  小堀安雄氏旧蔵一巻①︵未見︶ 13  小堀安雄氏旧蔵一巻②︵未見︶   以下︑これらの絵巻と比較することで︑早大本の特徴

を見ていきたい︒尚︑右に挙げたものの内︑未見のもの

は比較対象から外す︒

(12)

⑴ 詞書について   まず︑詞書について検証していこう︒早大本の大きな

特徴の一つは︑冒頭に詞書があることである

︵ ︻

第一段

︼ ︶︒

詞書第二段〜第四段に当たる部分は他本にもある︒しか

し︑詞書第一段は管見に及んだ限りでは早大本にしか存

在しない︒翻刻で示したように︑絵巻が展開する以前に︑

六波羅に義平が攻め入るところから︑後に頼朝によって

源氏が再興されるという﹃平治物語﹄の一部の諸本の結

末まで J︑言わば物語のダイジェストが六十八行という長

文に渡って記述されている︒絵巻の享受者に︑この六波

羅合戦巻をどういった流れの中で見るべきか︑予め示し

ていると言えよう︒

  六波羅合戦巻の詞書と﹃平治物語﹄諸本との関係は︑

詞書断簡や東博本を対象にした日下力氏による先行研究

があり K︑早大本では詞書第二段・第四段に当たる部分は 古態本 Lに︑第三段に当たる部分は金刀比羅本に近いこと

が検証されているが︑早大本の詞書第一段は流布本系本

文を参考にしていると考えられる

︒ ︻

表1︼は︑詞書第 一段と﹃平治物語﹄の代表的な諸本である流布本・古態

本・金刀比羅本の対照表である︒

︻表1︼詞書第一段と諸本対照表

﹇凡例﹈

一︑ ﹃

平治物語﹄のテキストは︑流布本・金刀比羅本は

永積安明氏・島田勇雄氏校注日本古典文学大系︵岩

波書店︑一九六一刊︶︑古態本は日下力氏校注新日本

古典文学大系︵岩波書店︑一九九二刊︶を使用した︒

句読点など私に改めた部分もある︒

一︑詞書第一段と一致する部分に︑各諸本に線を引いた︒

太字・ゴシック体の部分は︑三本のうち︑その本固

有の表現である︒

一︑表は便宜上︑主に内容で区切って分けた︒点線の区

切りは︑章段が遡り︑記事が前後する箇所である︒

一︑詞書の末尾部分は省略した︒

(13)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について 詞書釈文流布本古態本金刀比羅本

抑待賢門の戦は平治元年十一月廿七日の事なりし悪源太義平は同日の暮ほどにまたこそ六波羅によせ給ふ一人当千のつはものども真先に進み戦けり 悪源太は其まゝ六はらへ寄らるゝに一人当千の兵ども前にすゝんで戦ひけり

︒ ︵

中略 悪源太義平中略を始として廿余騎六波羅へをしよせ二の垣楯うちやぶりておめひてかけ入さん〴〵に戦けり なし

御曹子のたまひけるは

︑ ﹁ 今日

六波羅へよせて門のうちへ入ざるこそ口惜けれつゞけものどもとて五十余騎かけいれ平家ふせぎかねて引いりにけり

悪源太のたまひけるは

︑ ﹁ 今日

六波羅へよせて門の中へいら

ざるこそ口おしけれ

すゝめ

者どもとて究竟の兵五十余騎しころをかたぶけてかけいれば平家の侍ふせぎかねばと引てぞ入にける義平まづ本意をとげぬとよろこんでめきさけんで懸入給へり なし

さるほどに悪源太宣けるは

今度六波羅へよせて門の内へいらざることこそ口惜けれすゝめや者共︑〳〵﹂とて十余騎しころをかたむけおめひてかけければ平家の軍兵ばつとあけていれにけり

︒ ︵

中略

清盛は北の台のにしのつま戸軍の下知してゐたまひける妻戸のとびらに敵の射かけし矢のあめのふるごとくにあ

たりけれは

︑ ﹁ ふせぐ兵に恥あ

る侍がなければこそこれまで敵はちかづくらめいでさらばかけむとて 清盛は北の台の西の妻戸の間軍下知してゐ給ひけるが妻戸のとびらに敵のいる矢雨のふるごとくにあたりければ

清盛いかての給ひけるは

︑ ﹁

せぐ兵に恥ある侍がなければこ是まで敵は近づくらめ〳〵︑さらばかけんとて中略清盛の装束 大弐清盛北の対の西の妻戸の

間に

軍下知して居たりける

妻戸の扉に敵のいる矢が

雨のふるごとくにあたりけれ

大弐清盛

大に忿て

︑ ﹁

ある侍がなければこそこれまで敵を近づくれのけや清盛かけんとて甲の緒をしめて妻戸の間よりつッと出庭に立たる馬を縁のきはへ引よせて

ひたとのる

︒ ︵ 中略

清盛の装

なし

清盛宣ひける

︑ ﹁ かひ 〳〵 しく

防ぐ者なければこそ敵は是ま

で近付らめ

清盛さらばかけ

とて

︑ ︵

中略清盛の装束

(14)

馬引よせさせ打のりて大音に

︑ ﹁ 大将軍はたれ人ぞ

かく

申は太宰大弐清盛なりげんざむせんとかけ出たまへば

鐙ふむばり大音あげて

︑ ﹁ よせ

ての大将軍は誰人ぞかう申は太宰大弐清盛也見参せんかけ出られければ御曹子

これをきゝ給ひ

︑ ﹁ 悪源太義平

こゝにありえたりやおうさけびてかく なし 何か源氏の大将軍ぞかう申は太宰大弐清盛げんざむ

ぞのたまひける

︒ ﹁ 悪源太是に

ありとておめひてかけらる中略

平家の侍これを見て筑後守父主馬判官父子難波瀬尾をはじめとして究竟の兵真先にすゝみ戦ひけり 平家の侍これをみて筑後守父主馬判官管親子難波尾をはじめとして究竟の兵五百余騎真前にはせふさがて戦けり中略 なしなし

義平三方をまくりたてゝおもてもふらず戦給ひしが

平家新手をいれ替て人馬の息を休め入替〳〵たゝかへば源氏の兵もせんかたなくて門より外に引しりぞきぬ

河原をにしへ引にけり 義平三方をまくりたておもて

もふらず切てまはり給ひしか

源氏は今朝よりのつかれ武いきをもつかずせめ戦平家はあらてを入かへ〳〵︑

にかゝて馬をやすめ

懸いで

〳〵たゝかひければ源氏つゐにうちまけて門より外へ引し

りぞき

やがて河をかけわた

河原を西へぞ引たりける なし 源氏の兵ども互におめひて責戦ほどに悪源太の勢はけさよりつかれ武者平家の勢は今のあらてなり源太の勢すこしよはりてみえければ

︑ ﹁ さらば馬の気をつがせ

とて門より外へ引退くがて河より西へひかれけり

義朝是を見給ひて

︑ ﹁ 義平は河

原を西に引しは家のきずとおぼゆるぞ今は何をか期すべき

義朝 是をみ給て

︑ ﹁ 義平が河よ

り西へ引つるは家のきずとおぼゆるぞ今は何をか期すべき

義朝

︑ ﹁ ひかばいづくまで延ぶ

べきぞ討死より外はの儀有べからずとてやが

義朝宣ひけるは

︑ ﹁ 義平が河よ

り西へ引つること家のきずとおぼゆるぞ義朝今はいつをか

(15)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について うち死せよとかけ出給へば鎌田兵衛馬よりとびをり御轡 にとりつき

︑ ﹁ 一先都を御引あ

つてかさねて平家をほろぼし給へかしと申ければ 討死せんとて懸られければ鎌田馬よりとんでおり水付に立て申けるは

︑ ﹁

中略しばらくいづくへも落させ給ひ山林に身をかくしても御名ばかりをのこしをき敵に物をおもはさせ給はんこそ謀の一にても

候べけれ

︒ ︵ 中略

はや落させ

給へと申せば てかけんとしければ鎌田より飛下轡に取付

︑ ﹁

中略

若又のびぬべくは

北陸道に

かゝりて東国へくだらせ給ひなば東八ヶ国にたれか御家人ならぬ人候

︒ ︵中略

︶ ﹂

と申せ

︑ ︵

中略 期すべきうちじにせんとて

かけられければ

鎌田申ける

︑ ﹁

中略いづくへもおちさせ給名計あとにとゞめてに物をおもはせ給へと申ば

よしとものたまひけるは

︑ ﹁

にゆけば逢さか山不破の関をやとゞむべきにしに趣かば須磨あかしをなすぎなむあはゆみ矢とる身ほどかなしかりけるものはなしいかゞはせとのたまひけり

あづまへゆかば

あふさか

不破の関西海におもむか須磨明石をやすぐべき弓矢とる身は死すべき所をのがれぬれば中々最後の恥ある

たゞこゝにてうち死にせ

とすゝみ給へば

︑ ︵

中略 なし

義朝宣ひけるは

︑ ﹁ 東へ行ばあ

ふさか不破の関にしへ行ば須磨明石をやすぐべきたゞ

こゝにてうち死にせん

とて

中略

三条河原にてかま田申けるは守殿はおぼし召たゝせたまふむねあるにより引退給ふいましばしふせぎ矢射てのばしまいらせよといひしに

三条河原にて鎌田兵衛申ける

︑ ﹁ 頭殿はおぼしめす旨あっ

て落させ給ふぞよく〳〵ふせぎ矢つかまつれといひければ なし

三条河原にて鎌田といひける

︑ ﹁

頭殿はおぼしめすむねあ

りておちさせ給ぞふせぎ矢射はや人々といひければ

平賀四郎よしのぶたゞ一騎引

返して

散々にたゝかひけれ

義朝これを見たまひて

平賀四郎義宣

引返し散々に

たゝかはれければ義朝かへり

見給て

︑ ﹁ あはれ

源氏は

しまでもをろかなる者はなき物かなあたら兵平賀うたす 義朝の勢の中より

︑ ︵

中略たゞ一騎とッて返して称けるはさり共音には聞こそしつら信濃国の住人平賀四郎源義生年十七歳われと思はむ ひらか四郎義のふひきかへしさん〳〵にたゝかひければ

しとも見たまひ

︑ ﹁ あはれ源氏

はむちさしまでもおろかなる物はなきかなあッたら武者平賀

(16)

あれよしのぶうたすな宣ひしに佐々木須藤刑部伊沢をはじめとしてはせふさがつてふせぎける佐々木源三秀よし須藤刑部としみち沢四郎のぶかげも六条辺にて敵にかけあはせ敵あまたうちとつて或は打死しあるひは手屓て落にけり 義宣打すなとの給へば佐々木の源三須藤刑部井沢四郎を始としてわれも〳〵

真前に馳ふさがてふせぎける

︑ ︵中略激戦の様子

か様に面々たゝかふ間に 者あらば寄りあへ一勝負せんとてさん〴〵にたゝかふ

激戦の様子 ︒ ︵

此ものどもふせきたゝかひ討死しけるに うたすな者とも平賀うたすと宣へば佐々木源三藤刑部井沢の四郎をはじめとして我も〳〵と中にへだゝり戦けり

︒ ︵中略激戦の様子

かやうに戦ひまに

︑ ︵

中略

よしともは東をさして落給ふ

義朝おちのび給ひしかば

︑ ︵

義朝は延ゆきけるこそあはれな なし

ものゝふのならひとはいひながとしもすでにくれなむに寒さもことにつよくしてきのふの雪も消やらずあはれさも

なか

〳〵

いづくをそれと

さゝねどもまづ青はかの長者をなんたのみにてをもむき給ひ なしなしなし

平家の人々義朝の宿諸な

らびにのぶよりの舘に火をか

けゝれば魔風さかむにして炎地にふきしき余尽数十丁にふきちらしてたちまちに灰塵の地とぞなりにける

さる程に

平家の軍兵はせ散

信頼義朝の宿所を始て

謀叛の輩の家々に

をしよせ

〳〵火をかけてやきはらひしかば其妻子眷属東西に逃まどひ山野に身をぞかくしける 合戦すでにすぎければ信頼卿宿所義朝六条堀河の舘末実大炊御門堀川の家以上五ヶ所に火をかけたりをりふし風はげしくふきとがなき民屋千家やけければ余煙京中にみち〳〵てけりかの咸陽宮の さるほどに平家の軍兵信頼義朝の宿所をはじめて謀叛の輩の家々にをしよせ〳〵火を懸

て焼払ひ

謀叛の輩の妻子所

にし山ひがし山片辺にしのびゐて御方軍にかたせ給へといのるいのりもむなしくて

(17)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について   詞書の流れや細部の記述は︑三本の中では流布本が最

も近い︒流布本の物語の展開は︑主に古態本と金刀比羅

本を混ぜ合わせた形となっているため︑詞書が古態本・

金刀比羅本それぞれと重なる部分は勿論ある︒しかし︑

例えば詞書の冒頭部分︑義平の掛け声から清盛が勇み挑

む場面は︑金刀比羅本には﹁六波羅へよせて門のうちへ

入さるこそ⁝⁝﹂に相当する義平の掛け声はあるが︑清 盛が北の対の西の妻戸付近にいたという記述はなく︑逆

に古態本には義平の掛け声はない︒どちらも兼ね備えて

いるのは流布本である︒また︑義平勢に向かう清盛を見

て︑筑後守家貞等を始めとする平家の武士たちが戦いに

挑むという記述は流布本にしか存在せず︑詞書第一段が

流布本を参考にしていることは明らかである︒

  流布本の成立が一四四六年〜一五六〇年前後の間と考 雲とのぼりしを伝聞ては外国のむかしなれ共理をしるともがらは歎くぞかし あとのけふりを見けるこそとゞかなしくおぼえけれ

嫡子よりともは当年十二歳になり給ひぬいまだいとけなしといへども弓馬の家にむまれ大軍をおそれずして父とともに打たゝれしが源太が産衣といひし鎧は義家卿二歳のとき院よりまひらせ給ひしよろひの家に伝りしを着し給ひ鬚きり丸の太刀を帯て乱軍の中をうちぬけすこしも手疵を屓給はず

︒ ︵

以下略 八幡殿のおさな名を源太とぞ申ける二歳のとき院より

︑ ﹁

いらせよ御覧ぜんと仰を蒙り給て

︑ ︵

以下略 なし 八幡殿の少名をば源太とぞいひける

二歳の時ゐんより

︑ ﹁

いらせよ御らんぜらるべしと仰を蒙て

︑ ︵

以下略

(18)

えられること Mや︑詞書第二段以下と重複した︑正清の諫

言や︑平氏による信頼・義朝の宿所の焼き討ちといった

内容が記されていることから︑この詞書第一段は原本に

あったとは考えられず︑後補と言える︒従来知られてい

る六波羅合戦巻の模本では︑巻頭にあるべき詞書が欠け

ているであろうことが推測されている N︒事実︑原本には

冒頭の詞書が存在していたかは定かではないが︑早大本︑

もしくは早大本が見本とした絵巻もまた︑巻頭の詞書が

欠落していると考え︑これを補ったのであろう︒そして

ただ補うばかりでなく︑物語の最終的な結末まで示した︒

  詞書第一段の内容については︑注意すべき点が幾つか

ある︒末尾部分の﹁寿永の秋になりしかは舎弟判官よし

つねをつかはし給ひけれは平家の一門こと〳〵く都を落

ぬ﹂という記述は︑平家一門が都落ちしたのは木曽義仲

が都に来たためであって︑義経ゆえではない︒それに続

︑ ﹁ 元暦のはしめには門司赤間関のいくさ破れて一門

西海にしつみて﹂という記述も︑壇の浦の戦いは元暦二

年︵一一八五︶三月に起きたのであり︑その約五ヶ月後 には改元されるため

︑ ﹁ 元暦のはじめ﹂という表現は厳

密には適切ではない︒更に︑義朝等が落ち延びる箇所の

﹁ものゝふのならひとはいひなからとしもすてにくれな

むに⁝⁝﹂という表現もやや解し難い︒これらの点を踏

まえると︑一行目の﹁平治元年十一月廿七日﹂という記

述も注意すべきであろう︒合戦が起きた月は正しくは十

二月である︒後に﹁としもすてにくれなむ﹂とあるため

一と二の誤写の可能性はあるが︑他の問題点と併せると

単なるミスとも断言し難く︑早大本制作者が物語の展開

を具に把握していたか疑問である︒

  詞書第二段〜第四段は︑詞書断簡や東博本と比較する

と︑字母や改行の全てが一致するわけではない︒加えて︑

言葉の異同も以下の四箇所見える︒

①早大本第二段﹁御命をは

てさせ給て﹂│他本﹁す 0

0

させ﹂

②同第二段﹁馬のはなにけさ

すへし﹂︵一澤本も同様︶ 0

│他本﹁はなにけた

すへし﹂ 0

③同第三段﹁御共つかまつり

﹂│断簡・他本﹁つかま 0

(19)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について つる

0

④同第三段﹁惣

方こゝにて多くうたれにけり﹂│他本 0

﹁両

方﹂ 0

  ④の﹁惣方﹂のように一概に誤写と断じ難い例もあり︑

②のように同様の異同が見える他本もあることから︑こ

うした写しを持つ模本の系統も考える必要があろう︒

  以上︑早大本の詞書を検証してきた︒諸問題点はある

ものの︑詞書第一段からは︑早大本やその見本が単に模

写をするだけでなく︑江戸時代人々に最も読まれた流布

本系本文を以て絵巻を補完しようとした跡が窺える︒そ

して詞書第二段や第三段には異同があり︑こうした点か

らも早大本と他本との違いが見えるのである︒

⑵ 絵について

  次に︑絵の考察に移ろう︒早大本は全段に渡り彩色が 施されている︒原本残欠 Oも色が付いている︒模本では全

体が彩色されたものとして真田本・横浜本が︑一部が彩

色されたものとして一澤本がある︒逸翁本では濃淡が確 認出来る︒また︑東博本・逸翁本・書陵部本・真田本・

一澤本・横浜本には︑文字によって色の指定が書き込ま

れている︒残欠と早大本の配色を比べると︑一致してい

る部分もある一方︑異なる箇所も多く︑原本の全てを忠

実に踏まえているわけではないことが分かる︒各模本の

配色も︑早大本と全てが一致するわけではない︒

  主な登場人物に焦点を当てると︑東博本では清盛・義 朝・正清・金王丸・重成の名が明記されているが︑早大

本では短冊はあっても名前は一切なく︑どの人物が誰を

指すのか︑絵師に明確な認識があったか不明である︒こ

のうち︑物語に装束の色が明記されているのは︑清盛と

義朝である︒詞書第一段の元となった流布本では︑清盛

の装束は﹁紺のひたたれに黒糸縅のよろひき︑黒漆の太

刀をはき︑くろほろの矢負︑ぬりごめ藤の弓もて︑くろ

き馬に黒鞍をかせて乗﹂っていたとする︵古態本・金刀

比羅本ほぼ同︶︒早大本では濃い青色の鎧・直垂と黒い馬

に乗った姿が一貫して描かれており︑物語や残欠と一致

する Pが︑太刀は茶色で着色されている︒残欠では︑太刀

(20)

も物語同様黒く塗られている︒義朝の装束は︑物語の通

りであれば

︑ ﹁ 赤地のにしきのひたゝれに︑黒糸縅のよ

ろひに︑鍬形うたる五枚甲の緒をしめ︑いか物作の太刀

をはき︑黒羽の矢負︑節巻の弓もて︑黒鴾毛なる馬にく

ろ鞍をかせて﹂いるはずである︵流布本による︒古態本ほ

ぼ同︶︒しかし

︑ ︻ 絵二︼の諫言の場面において︑鎧は灰色︑

直垂は濃い青色である︒金刀比羅本で﹁練色﹂︵薄黄色︶

とされる直垂の色とも異なる︒横浜本や真田本のように︑

清盛の装束の色でさえ物語から遠ざかってしまう模本 Qを

考えれば︑早大本は﹃平治物語﹄の世界と完全に乖離す

るわけではないが︑距離があることは明らかである︒東

博本などでは︑清盛の鎧や直垂に﹁コン﹂という色の指

示が見え︑義朝の直垂には﹁モン朱クルマキ﹂︵東博本は

後半判読不能のため︑逸翁本による︶

という指示が見える

もし物語を参考にしていれば︑清盛の装束は一致させる

一方︑太刀の色だけを変えるとは考え難い︒絵巻の彩色

については︑物語との直接的な影響関係よりも︑模本の

間で僅かに伝わる配色指示の影響などをも考慮すべきで あろう︒しかし義朝の装束は指示とも一致せず︑物語か

らも離れ︑独自の配色を施している R︒   配色以外にも︑諸本間で相違点がある︒三条河原の戦 いを表す残欠⑨︵番号は﹃日本絵巻大成

13﹄による︶の図に

当たる部分では︑図左上に武士が描かれているかどうか

で違いがある︒残欠・東博本・真田本・一澤本では武士

が確認出来るのに対し︑早大本︵図版2︶・逸翁本・横浜

本には見えない︒この図では他に︑中央一番上の武士の

背負う弓矢があるか︑その下に位置する武士の背に︑折

れた弓が刺さっているかどうかという細かな違いもある︒

[図版2]残欠⑨相当箇所

(21)

早稲田大学図書館所蔵平治物語絵巻六波羅合戦巻について   図の違いについて最も着目すべきは

︑ ︻ 絵四︼の信頼・

義朝宿所焼き討ちの場面で︑早大本と他本で異なる描写

が四箇所見えることである︒一つ目は︑一軒目の宿所の

焼き討ち場面で︑他本いずれも炎の中に武士が描かれて

いるが︑早大本では存在しない︒この人物は火中にいる

にも関わらず︑苦しんでいる様子が見られず︑違和感が

ある︒二つ目は同場面の炎の絵である︒東博本では一一

㎝の短い紙を継ぎ︑その僅かな中でしか当該場面を描か

ず︑その後にまた別の紙を継いで次の宿所の焼き討ち場

面に移っている︒それに対し︑早大本ではその四倍以上

の四九.

六㎝

に 渡

り︑猛火を描く︒三つ目も炎の絵に関

するもので︑二軒目の焼き討ちの後に︑東博本では一四.

五㎝の短い紙を継ぎ︑その中でしか炎を描かないのに対

し︑早大本では四六.五㎝もの長さに及んで猛火を描く︒

四つ目は︑二軒目の焼き討ちの後に︑燃えゆく宿所の残

骸かと思われる柱と共に︑猛火のみの場面が設けられて

いる︵図版3︶︒このように焼き討ち場面には︑東博本を

始めとする他本とは異なる絵が︑早大本にのみ認められ る︒一軒目の焼き

討ちの炎の絵は︑

彩色が付いた横浜

本であると特に分

かるが︵図版4︶︑

東博本含む他本の

描き方では︑炎が

途中で切れて次の

場面に移っており︑

不自然である︒早

大本の形が最も自

然と言えよう︒

  このような絵が

早大本のみに見え

る理由としては︑

①原本にこうした

絵があり︑それが

伝わった︑②早大

[図版3]猛火の場面

(22)

本などの後代の絵

巻が独自に補った︑

の二つが考えられ

る︒冒頭に詞書が

補われていたこと

を考えれば︑絵巻

の末尾も補った可

能性は充分にある︒

もしそうであるな

らば︑それは絵巻

としての体裁を整

えようという意識

があったゆえだと

思われる︒冒頭や

末尾を整えることで︑絵巻は﹁完成した絵巻﹂らしくな

るであろう︒その一方で︑早大本は義徴転写系統とは異

なる道筋で︑森井善太郎の言う﹁土佐古将監之真筆﹂す

なわち原本に遡り得る可能性もあるため︑①も否定する ことは出来ない︒

  猛火の描写に加えて指摘しておきたい特徴は︑早大本

は血の描写が著しいということである︒この点︑全体に

渡り彩色が施されている真田本・横浜本とも比較して考

えてみよう︒文筌が描いた真田本では︑比較的血は抑え

て描かれている︒それに比べると︑横浜本は真田本より

も︑首や手が斬られている部分に激しく血を描く︒早大

本は︑横浜本よりも更に多量に血を描く傾向にある︒例

えば︑横浜本の血の描写は︑画面中央のような︑目立つ

場所に位置する人々に対して確認出来るのに対し︑早大

本では隅に位置する武士や死体にも血が描かれている︒

残欠⑨︵図版2︶に当たる場面において︑早大本では頭

に矢が刺さった武士に多量の出血が描かれているが︑横

浜本では血は描かれていないのも︑そうした例の一つで

ある S︒また︑人間に対してだけでなく︑横浜本では弓は

刺さっているが血を流していなかった馬の周辺にも︑早

大本では夥しい血を描き込んでいるのである︵図版5︶︒

これらが模写にせよ︑早大本の加筆にせよ︑東博本のよ

[図版4]横浜本の炎

参照

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