奈良学ナイトレッスン 第7期 奈良の古仏を愛でるⅡ
~第二夜 十一面観音を旅する~
日時:平成 25 年 2 月 19 日(火) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:西山厚(奈良国立博物館学芸部長) 内容: 1 「やって来てくれる」のが観音菩薩 2 十一面観音にお詫びをする行事 3 海住山寺の十一面観音 4 十一面観音が表現している本質 5 奈良八十八面観音巡礼──西大寺 6 奈良八十八面観音巡礼──法華寺・海龍王寺 7 奈良八十八面観音巡礼──大安寺・法輪寺 8 奈良八十八面観音巡礼──聖林寺 9 奈良八十八面観音巡礼──長谷寺・室生寺 1.「やって来てくれる」のが観音菩薩 奈良時代、奈良の都に東大寺を造り、大仏を造った聖武天皇。その聖武天皇と光明皇后の間に、 女の子が生まれました。奈良時代は女性でも天皇になっていますが、それは適当な男性がいなかっ たからという、いわば中継ぎのような形でした。聖武天皇と光明皇后も、やはり男の子が生まれて ほしいと思っていたはずですが、なかなか生まれませんでした。 最初の女の子が生まれてから9年が経ち、ようやく待望の皇子が生まれました。聖武天皇も光明 皇后もとても喜び、赤ん坊にもかかわらず皇太子にさせたのです。日本の歴史上、最年少の皇太子 となりました。しかし、この子は病気でした。聖武天皇と光明皇后はあらゆる手立てを尽くしまし たが、病気はよくならない。観音菩薩の像を177体造って、それから『観音経』を177巻写経 しました。二人は観音様に対して非常に強い信仰をもっていらっしゃったのです。観音様の力でな んとか我が子を助けてほしいと、聖武天皇と光明皇后は必死にお祈りをした。しかし、満1歳を迎 えることなく、その子は亡くなってしまいます。このことは、聖武天皇と光明皇后に、とても大き な影響を与えることになります。 観音菩薩は、インドの言葉では「アヴァローキテーシュバラ」と言うのだそうです。仏教がイン ドから中国に入り、中国はそれを全て漢字に直す、つまり翻訳します。翻訳というのは、例えば私たちが英語を日本語にする場合でも同じですが、翻訳者によって訳し方が異なります。「アヴァロ ーキテーシュバラ」をある翻訳者は「観世音菩薩」と訳しました。これを縮めて「観音菩薩」とい うわけです。「観世音菩薩」とは、まさに漢字の通り、世間の音を観(み)るという意味です。「観」 というのは、聞くということと考えてもいいのですが、この世の中の音を聞き取ってくれる菩薩様 なのですね。また別の翻訳者は、「アヴァローキテーシュバラ」を「観自在菩薩」と訳しました。 こちらもまた漢字の通りなのですが、「自在に観る」ということです。両方の考え方を合わせると、 世間の音、実際には声といったほうがいいかも知れません、つまりいろいろな人たちの声を自在に 聞き取ってくれる仏様。それが観音菩薩なのです。 『法華経』というお経があります。このお経は28の章で構成されており、25番目に有名な章 があります。「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」という章です。「品」という字 は、「章」という意味です。「観世音菩薩普門の章」ということです。 先ほど、聖武天皇と光明皇后が『観音経』を177巻写経したといいましたが、厳密には『観音経』 というお経は無く、『法華経』の第25章、「観世音菩薩普門品」を一般に『観音経』と呼びます。 これを聖武天皇と光明皇后は一所懸命に写経をしました。 『観音経』には、こんなことが書いてあります。「南無観世音菩薩」と観音様の名号を唱えれば ──「名号」というのは「名前」です。阿弥陀如来に対しては上に「南無」がついて「南無阿弥陀 仏」、お釈迦様にいう場合には「南無釈迦牟尼仏」、観音様ですから、「南無観世音菩薩」──観音 は即時にその音声(おんじょう)を観じ、つまり世の中の声、音を即座に自在に聞き取って、もろ もろの難を解脱させ、苦や欲や怒りを離れさせる、とあります。元気いっぱい、幸せいっぱいの人 は、観音様の名前を呼んだりしません。呼ぶ人は、何かよほど苦しいことや悲しいことや悩みがあ る人です。その人がその苦しみや悲しみや悩みに耐えられなくなって、思わず「南無観世音菩薩」 と小さな声でつぶやいたとき、観音様は即座にその声を聞き取って、もろもろの難を解脱させ、苦 や欲や怒りを離れさせてくれるのだそうです。それゆえに功徳が得られる、ということが『法華経』 の「観世音菩薩普門品」、いわゆる『観音経』に書いてあります。昔むかし、「マグマ大使」という テレビ番組がありました。大変なピンチの時に「マグマ大使!」と3回呼んで笛を吹く。そうする とマグマ大使が来てくれるのです。そうしたイメージですね。 お経は一般的には普通の紙に墨で書くのですが、『観音経』の場合、平安時代の後半には紺色に 染めた紙に金泥で字を書くのが流行します。いわゆる『観音経』が収められた『法華経』はとても 長いので、書写するときに、1巻で全てを書くことは難しく、普通は8巻に分けて書きます。第8 巻にはいわゆる『観音経』とその他が収められており、その前に絵がついています。観音様はこん なことをしてくれる、観音様はすごいぞという絵が描いてあるのです。 例えばどんなふうにすごいかというと、悪いやつに追いかけられて崖のところまで追い詰められ た、絶体絶命です。うわーっと真っ逆さまに落ちるのですが、そこで観世音菩薩を唱えると、見事、 空中浮遊します。また、平清盛が平家一門の総力を挙げて作り、広島の宮島の厳島神社に奉納した いわゆる平家納経の「観世音菩薩普門品第二十五」ですが、はじめについている絵ではこんなこと が書かれています。知らずに人食い鬼の島に行ってしまい、人食い鬼たちがわーっとやって来たわ
けですね。その時に、「南無観世音菩薩」と唱えたら、なぜか白い馬が来てくれた。みな、それに 乗って脱出するのですが、じつは白い馬は観音様だったのです。観音様はいろいろな姿に変身でき るらしいのです。このように、大ピンチの時に観音様の名前を唱えると助けてくれるという信仰が、 インド以来昔からずっと、あらゆる地域であらゆる時代にあるのです。 観音菩薩は、衆生をすくうために、さまざまに身を変えます。あらゆる人々のあらゆる願いを叶 えるために、身を変えることをいとわない。その人の苦しみを救うには、この姿がベストだと思っ たら、人間の男にも女にも、男の子にも女の子にも、僧侶にも尼にも、梵天にも帝釈天にも、阿修 羅(あしゅら・八部衆に属する仏法守護神)にも迦楼羅(かるら・八部衆に属する仏法守護神)に もなり、やって来てくれるのです。 悩んでいる男性がいる。そこに、男の姿で来られてもあまりうれしくない。ちょっときれいな女 の人の姿で来てくれたほうが悩みは解消しやすいわけですね(笑)。そういったことをちゃんと理 解されて、その人を救うために最も適切な姿でやって来てくれるらしいのです。 私は浄土に行きたいという気持ちは全然ありません。実は、赤毛のアンも『アンの青春』の中で「天 国に行きたいと思わない。だってつまらなそうだから。」と言っています。浄土には苦しみがない。 苦しみがないということは、喜びもないということです。また、極楽浄土には女の人がいないらし い。全然、行きたいという気がしないですね(笑)。 けれども、阿弥陀如来が迎えに来てくれる「阿弥陀来迎」というのは嬉しいことだろうと、しみ じみ思います。やって来てくれる、というのがうれしい。ひとりぼっちじゃない、ということを強 く感じられます。観音様も「やって来てくれる」というのがポイントではないかな、と思います。 2.十一面観音にお詫びをする行事 西国巡礼というものがあります。観音様は33の姿に変わることができるということから、観音 様の数字は33なのですね。観音様自身にも、聖観音(しょうかんのん)、十一面観音、千手観音、 不空羂索(ふくうけんさく)観音、如意輪(にょいりん)観音、准胝(じゅんてい)観音、馬頭(ば とう)観音など色々いらっしゃいます。だから、観音様の仏像もたくさんあります。西国三十三所 の観音様をずっと巡っていく巡礼は、平安時代以来、千年以上の伝統があります。お参りする三十 三所の観音様の姿を描いた「三十三所観音曼荼羅」にはいろいろな観音様がいらっしゃいます。ち なみにその中で最も多いのは千手観音で、33分の15にあたります。次いで十一面と如意輪、そ の次に聖観音。不空羂索と馬頭と准胝は1体ずつ。つまり、千手、十一面、如意輪、このあたりが 観音様の中でも特に信仰が強いということがわかります。 『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』によりますと、観音様は勢至菩薩(せいしぼさつ) とともに阿弥陀様の脇侍(きょうじ:正しくは「わきじ」ではなく「きょうじ」)であったとあり ます。よくある阿弥陀三尊像は、阿弥陀様を挟んで観音様と勢至菩薩が左右をはさむ形式ですね。 奈良時代に中将姫(ちゅうじょうひめ)という女性がいました。これは半分以上、伝説の人物な のですが、當麻寺(たいまでら)におり、亡くなる時に阿弥陀如来以下、みんなが迎えに来てくれ ました。そのとき、先頭に観音様がいらっしゃり、阿弥陀如来は大集団のいちばん後方に立ってい
ます。 さて、奈良でいちばん有名な行事はお水取りではないでしょうか。東大寺の二月堂を舞台に行わ れる行事で、3月1日から3月14日に行われます。大きな松明が出て、実際の火事のようなすご いことになるのですが、実はあれは単なる魔除けのようなもので、その後がいよいよ本番です。そ れは、僧侶たちが十一面観音にお詫びをする行事です。お詫びをすることを悔過(けか)と言い、 お水取りは「十一面観音悔過の行事」なのです。奈良時代、752年に実忠(じっちゅう)という 人が始めて以来、一度の中断もなくずっと続いており、今年で1263回目となります。どうして お詫びをするかというと、災いは人間が悪いことをするから起きると昔の人は考えました。悪いこ とをしなければ災いは起きないのですが、人間は悲しいかな、悪いことをやってしまう。大きなこ とは滅多になくとも、小さなことまで含めれば、なにか悪いこと、迷惑をかけることをしてしまい ます。こういった悪い行いが積もり積もれば、絶対に災いが起きると、昔の人は考えたわけです。 けれど、昔の人の考えは明るいところがあり、悪いことをしちゃったけれど、謝ったら大丈夫とい う考え方があります。それが悔過なのです。仏様にとことんお詫びすれば、悪い行いをしたことは 消える。そして、天下の五穀豊穣(ごこくほうじょう)、万民快楽(ばんみんけらく)が実現し、 みんなが幸せになるという考え方です。 そのため、二月堂の中では僧侶が十一面観音にずっとお詫びを続けてくれている。大半の人が松 明を見て、「ああ、きれいだった」といって帰った後、そんなことをしてくれているわけです。 東大寺二月堂の中には、大きな十一面観音の「大観音(おおがんのん)」と小さな十一面観音の 「小観音(こがんのん)」がおられます。小観音は、「小観音さん」と、必ず「さん」をつけて呼ば れており、どちらも秘仏です。実は、東大寺の僧侶ですら絶対に見ることができません。しかし、 平安時代には見ることができたようで、当時に描かれた絵が残っています。大観音については顔の 部分だけ、小観音さんについては全身のお姿がわかります。実は、小観音さんは本物の観音様らし いのです。大観音は人間の手による仏像なのですが、小観音さんは本物だということです。お水取 りを始めた実忠がお祈りをしていたら、ほんとうの観音様が来てくださった。その時、やって来て くださった観音様が小観音さんで、その頭の上には、小さなお顔がたくさん乗っていた。つまり、 十一面観音でした。大きな仏像の大観音と、本物だとされる小観音さんにお詫びをして、みんなの 幸せを願う行事がお水取りです。二月堂に行っても、十一面観音を見ることはできないのですけれ ど、そのお堂の中に大観音と小観音さんがいらっしゃるわけです。東大寺には、観音様が雲に乗っ てやって来る絵が何点か残っているのですが、これはみな、小観音さんを描いています。 3.海住山寺の十一面観音 奈良と京都の境目に、海住山寺(かいじゅうせんじ)というお寺があります。住所は京都府なの ですが、文化圏は奈良で、奈良の中心地からバスですぐの山の上にあるお寺です。ここは鎌倉時代 に貞慶(じょうけい)という僧が復興した観音の霊場、観音の聖地です。本尊は十一面観音。なか なか不思議な観音様で、背中のほうに回ると完全に彫られていない感じがします。日本の仏像と、 中国や韓国の仏像は、本質的に異なると私は考えています。日本の仏像の多くは、木で造ります。
飛鳥・白鳳・奈良は別ですが、平安以降はほとんど木で造る。また、一木(いちぼく)造りと寄せ 木造りも、私は全く別物だと考えています。一木造りというのは、その木そのものが特別な木、聖 なる木です。そこに、仏の姿を表現する。木が仏に変わっていくわけです。この海住山寺の十一面 観音は、前側は仏に変わったけれど、まだ背中のほうは木のままです。仏像は完成後、魂を入れる 作法をします。しかし、私は、一木造りの仏像は魂が初めから入っているのでその作法が必要ない と考えています。寄せ木造りは造りもののため、魂を入れないと聖なる存在になりません。つまり 一木と寄せ木は全く別物なのです。この海住山寺の本尊は、魂の入ったちょっと不思議なお像だと 思います。 海住山寺には、もうひとつ十一面観音がいらっしゃいます。両方とも平安時代の半ば、10世紀 くらいのものだと考えられますが、先ほどの十一面観音は大人の背丈くらいあるのに比べ、もう1 つの方は小さなお像です。ちょっと腰をひねっており、こちらも抜群に素晴らしい十一面観音です。 先ほどの鎌倉時代に海住山寺を復興した貞慶という僧が、いつも傍らに置いていたと言われるのが、 このお像です。海住山寺には「十一面観音来迎図」という絵が残っており、観音様が大勢の菩薩た ちと一緒にやって来てくれる場面が描かれています。絵の右下に、今、亡くなろうとしているお坊 さんがいて、左上から迎えに来てくれるのは、阿弥陀如来ではなくて十一面観音です。この絵は貞 慶が生前に作成した原図に基づいて制作されたものと考えられます。いろいろな楽器を演奏してい る周りの菩薩たちと一緒に、十一面観音がやって来てくれるのですね。昔は、この絵に描かれたお 坊さんは貞慶だと考えられていました。貞慶は強い観音信仰を持っていたので、亡くなった後描か れたのだろうと。しかし実際は、このお坊さんは貞慶ではなく、霊叡(れいえい)という中国の僧 なのです。自慢になりますが、これを論証したのが私なのです(笑)。霊叡は、観音様の来迎を得 て亡くなったという伝記が残っている僧です。貞慶が生前にその伝説を描かせた原図となった絵が あり、貞慶が亡くなった後、弟子たちがそれを大きな「十一面観音来迎図」にしたのです。 4.十一面観音が表現している本質 十一面観音は、頭の上に小さなお顔がたくさん乗っています。真上から見て、いちばん真ん中の 高いところに仏面が1つ乗っており、前方に優しいお顔をした慈悲面が3つ、向かって右側に怒っ た怖い顔をしている瞋怒面(しんぬめん)が3つ、左側には牙上出面(げじょうしゅつめん)とい う牙を出しているお顔が3つあって、後ろ側に大笑面(だいしょうめん)という大笑いしているお 顔が1つ乗っています。頭の上の小さな11のお顔は四方向を、つまり全方向を向いているという ことなのです。十一面観音のお顔の意味を説く解説書は、たくさんありますが、私はあまり重要視 していません。とにかく、十一面観音の最大の特徴は、あらゆる方向に顔を向けているということ にあります。十一面観音ではなくとも、観音様はもともとそうなのです。だからこそ、世の中のど こかで誰かが小さな声で「南無観世音菩薩」、「観音様、助けて」と言った時に、すぐ聞き取って来 てくれるのです。常に全方向にアンテナを張っているからなのですね。観音様はそういう存在です。 十一面観音というのは、観音様のその本質を最もよく表現している姿であると思います。 ちなみに、十一面観音の頭の上のお顔には、慈悲面が3つではなく2つしかなかったり、あるい
は大笑面がなかったり、いろいろなバリエーションがあります。つまり、とにかく全方向を向いて いて、苦しみ悩み悲しむ人の声を必ず自在に聞き取って、すぐにやって来てくれるということが表 されている。十一面観音とはそういう観音様なのです。 5.奈良八十八面観音巡礼──西大寺 奈良で八十八面観音巡礼というのが徐々に人気が出てきています。八十八面観音とは、十一面観 音が8つ、つまり8つのお寺の十一面観音をお参りしようという巡礼なのです。1000年以上の 歴史を持つ西国三十三所とは異なり、八十八面観音巡礼はごく近年に始まったものです。西大寺、 法華寺、海龍王寺、大安寺、法輪寺、聖林寺、長谷寺、室生寺という8つ。 これからそれをご紹介してみようと思います。まず、西大寺に行きます。大和西大寺駅のすぐそ ばにあるのが、西大寺です。このお寺を造ったのは、孝謙上皇という女性です。先ほどお話しした 聖武天皇と光明皇后の間に、初めに生まれた女性です。立太子した弟がすぐに亡くなってしまった ため、この長女が孝謙天皇となり、やがて孝謙上皇となりました。孝謙上皇は道鏡という僧と手を 組みます。孝謙天皇の後の淳仁天皇は藤原仲麻呂が手を組み孝謙上皇方と対立するようになり、つ いに戦争になります。そして、孝謙上皇方が勝つのです。その時孝謙上皇は、四天王に戦さの勝利 をお祈りして、もし勝つことができたら四天王を本尊としたお寺を造る、という誓いを立てました。 四天王というのは、東西南北を護る4人の神様、仏教世界を護ってくれる神様です。そして戦いに 勝ち、四天王を本尊としたお寺を造りました。それが西大寺です。 その四天王を安置していた四王堂は、何度も火災に会い、現在の建物は奈良時代のものではありま せん。孝謙上皇が造った四天王も焼けてしまい、残っていません。しかし、四天王が踏みつけてい る邪鬼は、創建当初のものが残っています。これでは、最後に勝利したのは邪鬼であったことにな ってしまいますね(笑)。今の四王堂にも四天王がいますが、本尊は十一面観音になっています。そ の十一面観音は5.9メートルと、たいへん大きい。この観音様は、奈良では珍しく、京都からやっ てきた京都生まれの十一面観音です。平安時代の後半に京都で造られたのですが、そのお堂がつぶ れ、観音様も少し壊れてしまいました。鎌倉時代に西大寺はたいへん栄えます。それは、叡尊(え いそん)という素晴らしい僧が鎌倉時代に西大寺を復興したからです。そのことは、京都にも知れ 渡り、叡尊の寺に観音様をお移ししようということになった、そういう観音様です。穏やかな、の んびりした感じの観音様です。 西大寺に行ったことがある人でも、この四王堂に行ったことがない人は多いようです。四王堂に こんなに大きな十一面観音がおられるということは、あまり知られていません。毎月18日が観音 護摩といって、観音様の前で護摩を焚く日なのですが、そのときがまた良い雰囲気なのです。 6.奈良八十八面観音巡礼──法華寺・海龍王寺 法華寺は奈良時代に聖武天皇の后である光明皇后が造ったお寺です。 聖武天皇と光明皇后はすごく仲が良かった。2人は、夜寝るときはシングルベッドを2つ並べて いました。そのベッドはちゃんと正倉院に残っており、その上に敷いていた畳も布団も残っていま
す。実は、聖武天皇と光明皇后のシングルベッドは、くっつけて使用されていたということを論証 したのも私なのです(笑)。 ちなみに、奈良にある聖武天皇のお墓と光明皇后のお墓もくっついています。天皇と皇后のお墓 がくっついているのは、聖武天皇と光明皇后だけです。生前はベッドがくっつき、亡くなってから はお墓がくっついている、ほんとうに仲良しカップルだったのです。 光明皇后はまた、父親をこよなく敬愛していた。父親が亡くなってしばらくして、その邸宅をお 寺に作り替えました。それが法華寺です。だから法華寺は、光明皇后のお寺であるともに、父の家 だった場所で、光明皇后の父親に対する思いがこもっている場所でもあるのです。その本尊が十一 面観音です。 この十一面観音は、尋常ならざるすごい観音様です。通常は非公開で、期間限定でしか拝するこ とが出来ません。この観音様は光明皇后の姿を写したという伝えがありますが、それは真実かも知 れません。お像自体は、平安時代初期のものです。ですから光明皇后が亡くなってから数十年、こ とによっては40~50年ぐらい経ってから造られたお像かも知れません。しかし、光明皇后の姿 を写したという話が必ずしも荒唐無稽とは思いません。ちなみに法華寺の御朱印には「光明皇后御 尊像」、つまり十一面観音は光明皇后のお姿であると書いてあります。室町時代に書かれた『諸寺 縁起集』という本には、この十一面観音は「不可思議の像なり」と書かれています。さらに現在と 同様に、厨子に入っていて日頃は見られない、とも書いてありました。鎌倉時代末期の書物を読む と、ある時、このお堂の前で観音講というのを行ったところ、像のてっぺんから木仏が現れたとあ ります。やがて十分の九くらい出て、「わあっ」などと皆驚き、近づいて触ったというのです。し かし、やがて仏様はまた隠れてしまった、と書かれています。また『法花滅罪寺縁起』には、尼寺 である法華寺の尼の夢に光明皇后が現れて、こんなことを言ったというのです。「この像、昔、厨 子に籠めたてまつりしを、利生のために今まで開かれたり。……今は閉じ込めて開くべからず」。 つまり、「もともと厨子に入っていて見ることができないお像である。みんなのためにと、いっと き厨子を開いていたけれども、これからはまた閉めなさい」と。そのため、厨子は今日も閉まって いるのです。また別の本では、この前である法要をやっていたら、観音様が涙を流したと。そうい った不思議なお話がたくさんあるお像です。 お像の右足が蓮台からはみ出ています。親指がもう蓮台の外に出てしまっているのです。手が長 くてちょっと衣をつかんでいるようで少し衣が風に吹かれてなびいており、本当に、今にも歩き出 しそうな姿です。後ろから見ると、これは女の人の体だと感じます。すごく官能的で、何かがあっ て造られた、と感じられる、尋常ならざるお像なのです。 東大寺の大仏ができて1250年である2002年に、3日間の大法要が行われました。その2 日目には、日本中の尼寺の尼が全員集合して、尼だけで法要が行われました。その時に導師、つま りリーダーを務めたのが法華寺の今はお亡くなりになられた門跡でした。さらにその50年前の1 952年、大仏ができて1200年の大法要の時に導師を勤めたのも、同じ門跡さんだったのです。 1952年の時も2002年の時も導師を勤められて、ほんとうに日本の尼のトップの方だったの です。戦前から法華寺の門跡をずっとされていた方で、とても優しい方で、私も大好きでした。
法華寺の参道に伏せられている木枠は、四角く網が張られています。これは、亀の卵を蛇から守 るためのものです。法華寺の池にいる亀が卵を産むために上ってきて、このへんで産卵するらしい のです。門跡は、常日頃チェックしていて、卵を産んだらすぐにこの網のついた木枠を伏せて、さ らに動かないように石を載せて、卵が蛇や鳥に襲われないようにしていたのです。やがて亀の小さ な赤ちゃんが出てきます。網をぱっと取り、亀は小さくてもちゃんと這っていって池に入ります。 そんな風に、池の亀、魚や小鳥にも、いつも声をかけて、すごく優しい方でした。 海龍王寺は、法華寺のすぐ横にあります。 遣唐使の無事を祈る『海龍王経』というお経があります。奈良時代、何度も中国に遣唐使が派遣 されます。無事に行って無事に帰ってくることは、大変なことでした。大勢の人が中国に着く前に 亡くなり、そして中国で亡くなり、帰って来る時に亡くなる。遣唐使の無事を祈願して、遣唐使が 出発してから帰ってくるまで、海龍王寺で『海龍王経』をずっと読むことになっていたそうです。 光明皇后の父親は藤原不比等です。その藤原不比等の邸宅の隣に海龍王寺はありました。そして 不比等の邸宅は、法華寺となり、海龍王寺は奈良時代以来ずっと今日までその法華寺の側にあるわ けです。海龍王寺は飛鳥時代からあるお寺で、光明皇后が整備したのではないか、と考えられます。 門と参道の雰囲気がよくて、少し寂れた感じがまたいいのです。 海龍王寺もご本尊は、十一面観音です。昭和28年までは秘仏だったようで、そのためか状態が とてもいい。とてもきれいな観音様です。 7.奈良八十八面観音巡礼──大安寺・法輪寺 大安寺は、最初は平城京で最も大きなお寺でした。平城京が出来た当時、東西両横綱の寺は、大 安寺と薬師寺です。やがて東大寺ができて、奈良時代の終わりに西大寺ができます。奈良時代の終 わりにはトップが東大寺、次が西大寺という感じですね。興福寺も徐々に大きくなってくる。また、 元興寺(がんごうじ)も大きなお寺です。しかし、平城京でいちばんの大寺は大安寺だったのです。 天智天皇が創建した大安寺は、平城京遷都と同時に、都と同じく飛鳥から移ってきました。平安 時代の終わりの仏像の評価は、第1位が大安寺の釈迦如来、第2位が薬師寺の薬師如来といわれて いました。薬師寺の薬師如来は今も残っていますが、大安寺本尊の釈迦如来像は、焼けてしまい今 は残っていません。 当時、大安寺は総合大学でした。現在のおよそ25倍の大きさだった大安寺には、建物がいっぱ いあり、約1000人の僧がいました。外国から来た僧もたいていここに住んでいました。それほ ど大きなお寺だったのですが、それでも徐々に衰退し、江戸時代には大安廃寺、もうつぶれたお寺、 とまで言われるようなりました。しかし先代の住職が復興を進め、今はまたずいぶん盛んになって きました。 東大寺の大仏に魂を入れた、つまり大仏開眼をしたのは、インドからやってきた菩提僊那(ぼだ いせんな)という人でしたが、その人もまた大安寺に住んでいました。菩提僊那が住んでいた僧坊 がどこか、記録上判明しています。そこは今、大安寺の駐車場になっています。 大安寺は、最も大きなお寺であるとともに、奈良時代から庶民信仰のお寺でもありました。そこ
が大安寺のいいところです。 こんな話があります。大安寺の近くにとても貧しい女がいました。大安寺のお釈迦様は人々の願 いを聞いてくれると聞き、貧乏ながらもなけなしのお金をはたいて、毎日、お花やお香や油をお供 えしていました。ある朝、家の門の傍にお金が置いてあり、「これは大安寺のお金だ」と書かれて いたので、慌てて大安寺に返しに行きます。ところが、毎日それが続くのです。大安寺の側が「な にか変だ」と、その女に「お前、なんか変なことをしていないか」と聞きました。事情を聞かれた 女が「お釈迦様に祈っただけ」と答えると、僧たちは、「これは仏さまがあなたに与えたお金。私 たちは受け取らない」といって、女に返します。女は銭を得て、善報も得て幸せに暮らした、とい うお話です。 大安寺本堂の正面に現在のご本尊の十一面観音が祀られているのですが、幕で隠れてお顔が見え ません。そのための幕ということではないのですが、このご本尊はお顔だけ新しいのです。全身は 奈良時代なのですが、お顔は非常に新しいお像です。それから右手や左手の先も新しい。大安寺の 仏像は、奈良時代ものが9体残っていますが、全身ちゃんと残っているお像は1体もありません。 両手が残っているお像さえ1体もないです。大安寺の1300年というのは、なかなか大変な13 00年でした。しかし、胸の飾りなどを見ると、1本の木からきれいに彫っていて、とても素晴ら しいものです。私は、表面の風化したような仏様がとても好きなのです。綺麗なお像よりも、10 00年、1300年の時を経て、風化しつつあるその姿がとても好きです。 時間というのは不思議なものです。時は残酷であるともいえますが、時がもともとの姿を変えて いき、長い時をかけてそういう姿になった、その姿こそいちばん美しい姿であるように、最近は思 っています。人間も60歳、70歳、80歳、なればなるほど、素晴らしい。そうでなければいけ ないと思います。そうでなければ生きてきた甲斐がないですね。 大安寺では「笹酒」といって、1月と6月に、竹に入ったお酒を女性がついでくれる行事があり ます。冬は燗してあり、夏は冷たいお酒ですけれども、その笹酒を飲むとガンにならない、ガン封 じというので人気があります。 法輪寺は法隆寺の近くにあります。法隆寺・法輪寺・法華寺と、三つ法のつくお寺があり、法隆 寺はもちろん有名ですが、法輪寺は行ったことがない方もたくさんいらっしゃるのではないかと思 います。しかしこちらも、とてもいいお寺です。飛鳥時代の三重塔が建っていたのですが、昭和1 9年に焼けてしまいました。その後、様々な困難を越え、昭和50年に塔が再建されました。講堂 では、ずらりと仏様が並んでいて、とてもいい。中央に十一面観音が立っておられるのですが、顔 立ち、大きな目に特徴があって、なにか明るい気分になるお像です。頭の上の仏さまのお顔が、き れいに360度向いています。 8.奈良八十八面観音巡礼──聖林寺 聖林寺は奈良県桜井市にあります。 聖林寺の十一面観音は、とても有名です。日本には素晴らしい仏像がたくさんありますが、聖林寺 の十一面観音といえば、仏像好きで知らない人は絶対にいない有名なお像です。大きいですね。2
09.1センチメートル。2メートルを超える十一面観音です。 十一面観音は、本堂から階段を上っていった特別室におられます。でも必ず、まず本堂に行って、 ご本尊にお参りして下さい。ご本尊は、江戸時代の石仏です。 昨年秋の「うましうるわし奈良」キャンペーンでは、東京駅八重洲口の柱という柱に、聖林寺の 十一面観音のポスターが張られました。「麗しく生きた、千三百年」というキャッチコピーがつい ていました。とても迫力があり、少し怖い感じもしました。私の考えでは、この十一面観音像は、 仏像でもあり神像でもあるからではないかと思うのです。神仏習合、これは神様でもあり、神様は 怖いものです。平安時代初期になると、神像が造られるようになるのですが、初期の神像は怖いで す。神様の威厳、怖さを表現するために神像が造られるのです。私は、聖林寺の十一面観音には、 仏像でもあり神像でもあるようなイメージを持っています。とてもきれいな指をしています。仏像 は指がとても大事なのです。 このお像は、もともと聖林寺のお像ではなくて、三輪山の麓にある大神神社(おおみわじんじゃ) の若宮と呼ばれている建物がありますが、明治までは大御輪寺(だいごりんじ)というお寺の本堂 で、こちらにいました。大御輪寺というのは、大神神社のいわゆる神宮寺です。神社にくっついて いるお寺のことを神宮寺といいます。大御輪寺には、神様と仏様が両方一緒に祀られていたのです。 神仏習合です。ところが、1868(明治元)年、神社に仏像があることを禁止する法律ができま す。大御輪寺も大神神社の一部なので、仏像を置いておくことが出来ず、仏像を外に出したのです。 よく、お像は大御輪寺を出されて道ばたに捨てられていたのを聖林寺の住職が拾ってお寺に持って 帰った、というでたらめなことが言われています。しかし実際は、大切に聖林寺に移されました。 当分の間、お預かりしますという証文も残っています。 人間の信仰は、1日で手のひらを返すことはありません。ことに日本はそうです。日本人は手の ひらを返したように、いきなり仏像を壊したりなどはしません。つまり、奈良には廃仏毀釈は起き てない。奈良県全体でいえば、十津川や吉野など特定の地域では廃仏毀釈が起きましたが、奈良市 及びその周辺のところでは廃仏毀釈は起きていません。神社から仏像は出さなければいけない、そ れは命令なので出すのですけれども、ふさわしい場所に大切に移され安置されました。聖林寺の十 一面観音は乾漆像で、少しでも乱暴に扱ったらすぐ壊れてしまいます。それが完璧に現在も残って いる。つまり、道ばたに放置されていたはずはなく、大切に聖林寺に引っ越しされたのですね。 やがて聖林寺にやってきたフェノロサという人物が、あのお像を見て大感激して、厨子を寄進し ました。だから、かつてはその厨子に入っていたのですけれども、今は特別室にいます。この厨子 の下には線路があり、厨子の裏側の壁は扉になっていまして、かつては火事が起きたらその扉をあ けて、車輪のついた厨子ごとレールの上を移動させ外に出られるようにしてあったのです。万が一 の時には、厨子ごと外に出すことができるような、そういうものをフェノロサは寄進したのです。 9.奈良八十八面観音巡礼──長谷寺・室生寺 長谷寺もまた、いいお寺です。 山の上に大きな観音様が祀られています。平安時代、京都の貴族たちは、長谷寺に詣でるのがとて
も大きな楽しみでした。『枕草子』や『蜻蛉日記』、『更級日記』や『源氏物語』には、女性たちが 長谷寺にお参りする話がよく出てきます。そこで運命の出会いがあったりもするのです。 「わらしべ長者」という有名なお話もあります。ある貧乏な男性が観音様の所に参籠します。そ うすると観音様が夢に出てきて、「明日の朝、目が覚めてお寺から帰る時に最初に手にふれたもの を大事にしなさい」というお告げがあるのです。目が覚めて、「観音様に変わったことを言われた」 と思いながら寺から出ようとしたら、すぐに転んでしまったわけです。「いてて」と起き上がった ら、手に藁くずがついていました。「藁くずか」と払おうとしますが、観音様が最初に手にふれた ものを大事にせよといったから、この藁を大事にしようと思います。トンボが飛んできたので、藁 にトンボをくくりつけていたら、それを見た良家のおぼっちゃんが「ほしい!」といって、3個の みかんと交換してくれます。藁くずがみかんに変わったわけです。その3つのみかんを持って歩い ていたら、また誰かがやってきて、「そのみかんをください。もう喉が渇いて死にそうです。代わ りにこの反物を差し上げます」といって、どんどんいいものに変わっていって、最後は長者になる のです。長谷寺の観音様のお告げ通りにしたことによって長者になるというお話です。このお話は 有名な話で、私も小さい時からこの話自体は知っていたのですけれど、その舞台が長谷寺だったと いうことは大学生になるまで知りませんでした。 昔から、身分の高い人からも庶民からも、長谷寺の観音様は特別な信仰を集めていました。399 段の階段を上って行きますと観音様のところに出ますが、大きすぎて上半身しか見えません。10 メートルを超える大きな観音様です。この長谷寺の観音様の大きな特徴は、右手に錫杖を持ってい ること。お地蔵様が持っているような錫杖です。錫杖というのは、僧が歩くときに使う杖で、まさ に、この長谷寺の観音様は、やって来てくれる仏さまです。杖をついてやって来てくれる、という ことがさらに強調されているお姿なのです。 上半身しか見えないのですけれども、特別拝観の時には、足元の所に入れます。決して「さわら ないでください」などということはありません。皆、御足を触ります。親指の爪を見ただけでも、 とても大きいです。 長谷寺のご本尊は、元々奈良時代に造られたのですが、何度も焼けてしまっています。立地のせ いもあり、火がついたらなかなか消火できない。何度か焼けていますが、そのたびに造り直される のです。頭の上のお顔が残って、次に造る時にそれを体内に入れて、また造ったりするので、元々 の観音様の聖なる力は、奈良時代以来ずっと継承されているのです。今のお像は室町時代のもので すが、とても素晴らしいお像です。 室生寺は、「女人高野」といわれています。高野山は、かつて女性は上ることが出来ませんでし たが、室生寺は「女人高野」といわれて、女の人歓迎のお寺でした。坂を上っていくと本堂があり、 中に仏さまがたくさんいらっしゃって、その一番端に観音様がいらっしゃいます。 十一面観音は平安時代初め、九世紀のお像です。唇が朱くて、横から見ると少し口が出ていて、 かわいらしい感じがします。観音様は、みんな髪の毛が長いのですが、こちらの観音様は髪の毛が 耳にちょっと絡まった感じになっています。また、飾りがきれいです。冠をつけていて、体のとこ ろにも金属のお花の飾りが別につくって付けてあります。ちょっと官能的なところもある観音様で
す。 室生寺といえば16.18メートルの五重塔。外にある五重塔としては、日本で一番小さな塔で す。とてもきれいな五重塔です。室生寺に行った時には、門前の橋本屋で食事をなさってください。 ここもとても素敵な旅館です。 これまでご紹介した、いずれの観音様もそうなのですが、悩み苦しみ悲しみの中で観音様の名前 を呼んだら、即座にそれを聞きつけてやって来てくれます。十一面観音というのは、まさにそれが わかりやすく表現された姿です。観音様の本質、素晴らしさ、ありがたさを目に見える形に表現し たのが十一面観音ではないかな、と私は考えています。 奈良には、とても素晴らしい十一面観音がたくさんいらっしゃるので、皆さんも十一面観音との 出会いを求めて奈良に行っていただければと思います。