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『蜻蛉日記草稿』の成立についての一考察

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

『蜻蛉日記草稿』の成立についての一考察

金, 英燦

九州大学大学院博士後期課程

https://doi.org/10.15017/15072

出版情報:語文研究. 105, pp.18-29, 2008-05-20. 九州大学国語国文学会 バージョン:

権利関係:

(2)

﹃蜻蛉日記草稿﹄の成立についての一考察

 大東急記念文庫及び岡山市正宗家には︑﹃蜻蛉日記草稿﹄

︵但し︑大東急記念文庫書目には﹃頭注蜻蛉日記﹄となって

いる︒便宜上︑以下﹃草稿﹄と略す︒︶と題される﹃蜻蛉日

記﹄の註釈稿が分蔵されている︒板本と同じく八冊で︑一

︵上ノ上︶︑二︵上ノ下︶︑三︵中ノ上︶︑七︵下ノ中︶の草稿

本とその清書本が大東急記念文庫に︑四︵中ノ中︶︑五︵中

ノ下︶︑六︵下ノ上︶︑八︵下ノ下︶の草稿本が正宗文庫の所    ユ 蔵である︒従来﹃草稿﹄には奥書・識語などのないことから︑

正確な成立時期については不明とされてきたが︑石原昭平編      の﹃日記文学事典﹄には︑ 未刊だが﹃蜻蛉日記﹄における最古の注釈書︒八冊本の写本︒主に萩原宗固︵一七〇三〜一七八四︶の注釈︑山岡湊明︵一七二六〜一七八○︶の校勘と補注がある︒

︵中略︶江戸時代に唯一の版行された坂本の﹃蜻蛉日記

解環﹄は︑天明五年︵一七八六︶であり︑宗固の﹃草稿﹄

は︑それより遡ること十七︑八年前に成稿した︑と巻末

の山岡湊明の書き入れにある︒

という記述がある︒山岡聖明の書入れとは︑静母堂文庫蔵山

岡湊明自筆書入れの﹃蜻蛉日記﹄宝暦板本にあるもので︑石

原氏は﹁大東急文庫﹁蜻蛉日記草稿﹂解説  付︑歌人︑萩       ヨ 原土固の注釈態度と方法  ﹂において︑

一18一

(3)

独自につけた静嘉堂蔵松井文庫本の五冊目の巻末に﹁明

和六年己丑十一月朔日於武庫寓居再考以百花庵校本且交

愚意冠注一過了雪明﹂とあり︑百花庵勲功と交り︑湊明

が注と校本を披見したとある︒

と︑﹃草稿﹄と言明書入れ板本の関係について述べている︒

明和六︵一七六九︶年の﹁再考﹂のときに︑山岡湊明が用い

た百花庵の校本が︑﹃草稿﹄であるとの判断で︑﹃草稿﹄が天

明五年刊の﹃かげろふの日記解環﹄︵以下︑﹃解環﹄と略す︒︶

より十七︑八年前に成稿したと述べているのであろう︒しか       し︑柿本奨氏が﹁﹃蜻蛉日記﹄宗固湊明注﹂において︑

その凝固校本とは︑現在ふつう宗固本と呼んでいる大東

急文庫・正宗文庫分蔵の注釈稿本のことではないようで

ある︒︵中略︶なぜかなら︑宗固本も板本の分冊のしか

たを襲い︑︵五︶︵筆注−静嘉堂文庫蔵﹃蜻蛉日記﹄の

五冊目の巻末識語︶の﹁宗固校本﹂は当然巻五であるが︑

それに﹁俊云﹂と冠して揚げられた湊明の説が六か所に

見え︑そのいずれも宗座本を一旦作って後に補記した体

裁でなく︑作る前に承知していた背明説を記した趣のも

のだからである︒ と︑異見を述べているように︑山岡湊明が参考した百花庵校本が︑﹃草稿﹄であるとみることには疑問の余地がある︒柿本氏のごとく︑静嘉堂文庫蔵﹃蜻蛉日記﹄書き入れの際に山岡湊明が参考したのが現行の﹃草稿﹄ではない︑ということになれば︑﹁宗固の﹃草稿﹄は︑それ︵筆注1﹃解環﹄︶より遡ること十七︑八年前に成稿した﹂という石原氏の説は修正されるべきではなかろうか︒ 本稿では︑﹃草稿﹄の成立時期について考察することを目的とするが︑従来︑その成立時期については︑しばしば﹃解環﹄との関連が議論されてきた︒それは﹃蜻蛉日記﹄巻末家       ら 集の﹁かのくに\かはくといふかみあり﹂という詞書に対す       る注として︑﹃草稿﹄に﹁解環抄神名帳二陸奥国白川郡阿福麻河魚神社ト沖本二面セリ﹂という頭注があるためであろう︒ 本稿でも︑主に﹃解環﹄と﹃草稿﹄とを比較することによって︑﹃草稿﹄の成立時期について考察したい︒

 大東急記念文庫および正宗文庫﹃草稿﹄      柿本奨氏が﹁﹁蜻蛉日記草稿﹂について﹂ の分蔵については︑で︑

(4)

大東宿替の各冊巻末には﹁木村正立図書﹂の朱印がある

が︑正宗本にはそれがなく︑正宗本各冊本文の初めに

﹁不忍文庫﹂の朱印︑その上部に﹁阿波国文庫﹂の朱印

があり︑﹁阿波国文庫﹂の朱印は各冊巻末にもあるが︑

大東千本には︑それらがない︒これによって見れば︑大

東急本は不忍文庫・阿波文庫に入らなかったらしく︑正

宗本が不忍文庫に入る時︑すでに大東急患と分かれてい

たのであろう︒

と︑﹁阿波国文庫﹂と﹁不忍文庫﹂の蔵書印のある正宗文庫

本と︑それがない大東急記念文庫とは︑すでに正宗文庫本が

不忍文庫に入るとき分蔵されていたと述べている︒そして

﹃草稿﹄にある屋代弘賢の注については︑ と述べる︒しかし︑大東急記念文庫蔵の草稿本と清書本には︑

       弘賢日秋の花には有へからすす\きも春の若はへなるへ

し末に春折過てとみえたると歌にほにいてはとあるおも

ひ合すへし︵草稿本一巻三十八オ︑清書本三十ウ︶

      ヱをはじめとする︑全八例の屋代弘賢の注が見出されるので︑

柿本氏の指摘は不正確である︒おそらく︑蔵書印の有無︑あ

るいは片方だけの調査結果をもとにした間違いで︑﹁不忍文

庫﹂の蔵書印のない大東急記念文庫蔵本には︑その所蔵者で

あった屋代弘賢の注はないと判断したのであろうか︒

 一方︑石原昭平氏は﹁大東急本﹁蜻蛉日記草稿﹂について        萩原宗固の注釈態度を中心に  ﹂において︑

一20一

このように正宗本は屋代弘賢の手を経たために︑たとえ

ば第四冊︵中ノ中︶に﹁たいまこ\ちあしくて漸とは﹂

につき︑﹁弘賢日漸は鄙の誤にや︑耶は那字の異体なり﹂

とする朱書押紙が︑その当否はともかくとして︑現われ

たりする︒︵中略︶このように︑本文や注に対して意見

を述べた弘賢注が︑数は少ないが︑見えている︒大東急

潮に弘賢注が現われないのは︑いうまでもない︒ 不忍文庫印などのある正宗本は屋代弘賢が所持したらしいが大東急本の方はそれがなく︑早くに分蔵されたらしい︒そのことは︑大東急本が清書本として︑湊明︑塙保己一︑横田孫兵衛︑弘賢等の注を加えたものがあるのに対し︑正宗本にはそれがないことからも考えられる︒

と︑柿本氏と同じく早い時期の分蔵とみている︒しかし︑

(5)

﹃草稿﹄にある屋代弘賢の注については柿本氏とは逆に︑大

東急記念文庫本の清書本にはあるのに正宗本にはないと述べ

ているにもかかわらず︑実は正宗本﹃草稿﹄にも

       弘賢日この説かなへるにや云々

       弘賢抄︑そのかみといふ意にや ︵草稿本四巻四十六オ︶

︵草稿本五巻三十コ入

という弘賢注が見出される︒留保己一・横田袋翁・屋代弘賢

の注は大東急記念文庫蔵本の清書本によく現れることから︑

早く分蔵され清書本のない正宗文庫本には︑これらの注がな

いと考えたのであろうか︒

 以上の事実をふまえれば︑大東急記念文庫本と正宗文庫本

とに分蔵されたのは︑塙保己一・横田袋翁・屋代弘賢などの

注がすでに備わった後のことであり︑言い換えれば︑稿本段

階であったにせよ﹃草稿﹄に三人の注は付けられていたこと

になる︒

 すでに第一節末で触れたように︑﹃草稿﹄︵八巻三十八オ︶

       には︑﹁解環抄神名帳二陸奥国白川心心福麻河辺神社ト沖本 二注セリ﹂という注がある︒そして︑﹃解環﹄︵十八巻十五オ︶にも﹁神名帳二陸書中白河郡阿福麻河伯神社ト沖本二品セリ﹂という同一の注記が見える︒高田墨守﹃擁書漫筆﹄︵文化十

       

三年刊︶にも︑﹁解環抄中の十二巻に︑大原の神の誤とせしはひがことなり︒﹂と記し︑﹃部長﹄の注と一致していることから︑﹁解豊野﹂と﹃解環﹄は同一物であることは︑従来指摘されたとおりである︒ ﹃草稿﹄で︑﹁解環抄﹂と明記して﹃解環﹄を引用しているのはこの一例のみである︒しかし︑﹃撃墜﹄は天明二年成立・天明五年刊行であって︑﹃草稿﹄の著者といわれている萩原宗固の破年は天明四年であることから︑両者の成立順序については先行研究でもしばしば取り上げられてきた︒最初に両       者の関係について触れた正宗敦夫氏は﹁稿本﹁蜻蛉日記蔓質﹂﹂において︑

解環の刊行は天明五年正月即ち宗固の破年の天明四年の

次の年であり︑解環の践文によれば荻軒︑坂徴氏は八十

七歳の長命で破したとあって其践文の癸卯は天明三年で

あるから宗固は版本は見ぬ筈であるが刊行前に稿本は篤

本で世に流布してみたかも知れぬ︒のみならず附録とも

見なすべき歌壇のうちの﹁はらからの⁝⁝かはくといふ

(6)

かみなり﹂の頭註に﹁解博士神名帳二陸奥國白川郡阿福

麻河伯神社ト沖本二註セリ﹂と見え︑版本の解由の註文

と合ってみるから篤本で宗固が解環を見たとするのが妥

當かと思はれる︒

と︑刊行前の稿本の﹃解環﹄を萩原宗固は見たと述べている

が︑﹃解環﹄が稿本で流布していたかどうかは不明である︒      むこれに対し︑柿本氏は﹁蜻蛉日記草稿﹂について﹂において︑

むしろその﹃解環﹄注を引いたのは刊本﹃言挙﹄を見た

人︑そしてその引用の筆蹟が﹃草稿﹄と同筆と見えるか

ら︑﹃草稿﹄は宗固ならぬ人と考えるほうが︑むりがな

いのではあるまいか︒

と︑稿本の流布を想定した正宗氏とは逆に︑刊本の﹃臨書﹄

を参照の上﹃草稿﹄は成立したと述べている︒しかし︑この

見解は支持されることはなく︑後藤祥子氏の﹁資料翻刻正宗      家蔵﹃草稿蜻蛉日記四﹄﹂においては︑

しかしこれまで全容の紹介される機会がなく︑ために︑

坂徴の﹃解環﹄に先立つ最も早い蜻蛉日記注釈として注 目されながら︑上村悦子博士のこ労著﹃蜻蛉日記解釈大成﹄にも参照される機会を逸してしまった︒

と︑﹃草稿﹄の成立が先であると見なしている︒また︑石原

昭平氏も前掲﹃日記文学事典﹄などで︑後藤氏と同じ見解を

述べているように︑未だその成立時期は定説を見ない︒正宗

氏は﹃草稿﹄の著者と目される萩原宗固の破年と﹃解環﹄の

刊行年との関係から︑また︑石原氏は静官立文庫蔵﹃蜻蛉日

記﹄板本にある山岡湊明の識語から︑天明五年に刊行された      む﹃解環﹄より﹃草稿﹄の成立が早いと述べている︒

 石原氏の説くように︑﹃草稿﹄が﹃解環﹄より早く成立し

たとすれば︑﹃解環﹄が﹃草稿﹄の本文および注を参照して

いる可能性もあるはずである︒しかし︑その前後関係は果た

して正しいのであろうか︒次の用例は︑﹃解環﹄が﹃草稿﹄

を参照していないと思われる頭注の一例である︒

 天延二年正月の除目で道下は右馬革に任ぜられたが︑その

直後である二月︑道士母は奥山の寺に参詣する︒その奥山を

道綱母は︑﹁なに許ふかくもあらすといふへきところなり﹂

と記しているが︑﹃草稿﹄︵七巻二十九ウ︶の頭注には︑﹁大

和物語なにはかりふかくもあらすよのつねのひえをと山と見

るはかりなり﹂という引歌をあげている︒これに対し﹃解環﹄

一22一

(7)

︵十六巻六ウ︶は︑﹃草稿﹄には︑

沖本ニヒク所ノ歌ハ何バカリフカクモアラズヨノツネノ

 ママヒラヲ外山トミルバカリ也トアリ︒猶ソノ沖本二引ケル

歌トテモ︑余力見ル所ノ本イクバクノ転写ヤランモシラ

レズ︒丁半が記憶甚乏ケレハ︑未二号得一︒何平出タル歌

ニヤ︒姑今此沖本ニスガリテ尺シヌ︒       もえイくさどもはいかうゑたる︵草稿本二巻七ウ︶

と書いてある︒﹃草稿﹄の﹁もえイ﹂という傍注は︑いかな

る本文による注記であろうか︒﹃解環﹄︵五巻二十ニウ︶では︑      ﹁見給へ︒草どもいか\もえたる﹂と改訂され︑

と︑契沖系統書入れ板本にある引歌を引用しながらも︑その

正確な出典は明記できていない︒もし︑﹃草稿﹄を参照する

ことができたならば︑引歌の出典についての記述は変わって

きたはずである︒以上のことから︑﹃解環﹄は﹃草稿﹄を参

照していないと判断される︒

 次は︑﹃草稿﹄の成立が﹃解環﹄より早いと見なしている

石原・後藤氏とは反対に︑﹃解環﹄の成立を先とする柿本氏

の説を裏付けると思われる具体的な用例をいくつか挙げる︒

 康保三年三月︑作者の家で発病した並家は︑作者の兄に案

内され自宅に戻ることになった︒その後︑見舞いに訪れ一晩

を過ごして帰ろうとする作者に︑庭を見せて﹁み給へくさと

      んはいか\うゑたる﹂と兼家はいった︒この箇所︑宮内庁書

陵部蔵桂宮本をはじめとする諸本に異同のないところだが︑ モエヲ原本こうゑ二作レリ︒上二一二月バカリトイヒ︒下文二四月差アレハ︒萌出ルコロホヒナレバ︒必モエナリ︒

という注を付けている︒﹁モェ﹂という本文は﹃解環﹄の独

自の改訂であり︑それを﹃草稿﹄は参照し特記しているので︑

この箇所については﹃草稿﹄は﹃解環﹄を参照しているとい

えよう︒ 次の用例は安和元年九月︑年来の念願であった初瀬詣でに

出発するときの記事である︒門出の四日目の日︑参詣の準備

のため椿市に泊まった作者に︑兼家から﹁きのふけふのほと︑

なにことか︑いとおぼつかなくなん︒嘉すくなにてものしに

し︑いか\︒いひしゃうにみよさふらはんするか︒かへるへ

からん日きして︑むかへにたに﹂という文が届けられる︒次

(8)

の本文は椿市から出立した直後の記事である︒

それよりたちて︑いきもていけは︑なてうことなきみち

も︑山ふかき心ちすれはいとあはれに︑みつのうゑもれ

       ヰのママいにすきもと\有さしてたちわたり︑このは\いろく

に見えたり︒

       問題は﹁もと\有さして﹂の箇所であるが︑書体転説によっ

て生じた意味不明な本文で︑現在の諸々事書も推測による本

文改訂を施している箇所である︒参考として以下に諸地本を

   お 挙げる︒

もとは\さして1国会本・大東急本・章本館本・無窮

         会本・阿波国本・松平本・神宮本

もとは\さまて1萩野本・下林旧蔵本

もとは\きまて1教育大本・京都大本

もと有 さして1学習院本・静嘉堂本・東大本・吉田

         本・板本

大東急記念文庫蔵﹃草稿﹄の草稿本︵二巻三十ウ︶では︑      きりイ は     もイ﹁水のこゑも︒れいにすぎ︒も書算さし†たちわたり︒﹂となつ        きりイハイているが︑清書本では﹁水のこゑも︒れいにすぎ︒もと有さ       らしもたちわたり︒﹂と一部改められている︒﹃草稿﹄の本文である﹁もと有さして﹂は︑板本を底本にしていると容易に推測される︒しかし︑傍注にある﹁きりはさしも﹂という本文は︑いかなる本文を参照しているのであろうか︒当該箇所の﹃解環﹄︵六巻二十一オ︶本文を確認すると﹁水のこゑも例にすぎ︒霧はさしもたちわたり﹂と改訂し︑さらに︑

原本二水のこゑもれいにすきもと有さしてたちいたり︒

沖本二︑れいにノにヲのカト疑ヒテ︑杉さしてたちわた

りト直シテアリ︒初セ川二︑二本ノ杉ヲヨメルヲオモヒ

テ尺セラレシ︒尤由縁アリテメデタクキコユ︒サレドモ︑

上下ノ文ニァハセテオダシカラズ︒ヨリテ原本ノきもと

ノもとノ六字ハ︑りノ一字ノ説転セシニョミテ︑コレラ

きりトヨミ︑スギハ上ヘツケテ︑水ノ声モ例ニスギ︑キ

リハ︑サシモ立ワタリトスレバ︑文義オダヤカニキコユ

レバ臆ヲ直直シツケリ︒

という注を付けている︒﹁水ノ声モ例ニスギ︑キリハ︑サシ

モ立ワタリ﹂と本文改訂しているのは︑﹃重盗﹄の独自の案

であって︑それを﹃草稿﹄は参照しているのである︒

一24一

(9)

 最後にもう一例を挙げる︒﹃蜻蛉日記﹄本文の最後の年で

ある天延二年十二月︑作者が晦日の魂祭を見ていたときの記

事である︒

あすの物︑おりまかせつ\︑人にまかせなとしておもへ

       は︑かうながらこひ︑けふになりにけるもあさましう︑

みたまなとみるにも︑れいのつきせぬことにおほ\れて

そはてにける︒

 宮内庁書陵部蔵桂宮本をはじめとする古本系の本文は全て

﹁かうなからこひ﹂で異同はないが︑大東急記念文庫蔵本に

      つりイ      つりか﹁かうなからこひ﹂︑彰考館文庫蔵本に﹁かうながらこひ﹂︑       へっリイ阿波国文庫旧蔵本に﹁かうながら計了ひ﹂という書入れがある︒

この箇所︑後藤氏の正宗家蔵﹃蜻蛉日記草稿﹄︵八巻三十四

ウ︶の翻刻によれば︑﹁かうながらとひ︵﹁とひ﹂ミセケチ︑

右傍﹁に日﹂ミセケチ︑左傍﹁イへっ\﹂︶﹂という本文と︑ るべし︒

という萩原宗固の頭注が見出される︒しかし︑宗固は古本系

の本文である﹁かうながらこひ﹂と︑また﹁かうながらに日﹂

となっている或本を参照してはいるものの︑﹁へっ\﹂となつ      ヨている異本は参照していないと思われる︒該当箇所の﹃解環﹄

︵十八巻十八オ︶では︑

へ・

つ・

\ ●

︑けふになりにけるも⁝⁝

と︑﹃草稿﹄の傍記︵左︶と一致する独自の本文改訂を施し

ているので︑﹃草稿﹄は﹃解環﹄の本文を参照した萩原宗固

以外の人によって成立したといえよう︒

 以上︑﹃解由﹄と関連する﹃草稿﹄の本文および頭注につ

いて調べた結果︑﹃草稿﹄は﹃解環﹄を参照していることが

明らかになった︒

宗云 かうながらこひ︑或本かうながらに日とありても

聞えがたし︒いつしか年の暮はつる日になりたるよと︑

あさましく思ふ成べし︒魂祭するを見るにも︑我いのち

ながくて物思ひにおぼほれて︑年さへはつるをなげくな

 ﹃草稿﹄には︑第三節で挙げた萩原宗固の頭注以外に︑山

岡湊明をはじめ︑第二節で確認したとおり︑塙保己一・横田

(10)

袋翁・屋代弘賢などの注も記載されている︒また︑﹁下図云﹂

﹁真古墨﹂﹁仁人云﹂﹁或抄云﹂﹁庭竃﹂などの注と︑これらの

注より二字分ほど上げて︑用語例・引歌などの古典引用・古

注釈書・古辞書の摘記も散見される︒このような頭注・傍注

を有する﹃草稿﹄は︑いかなる過程を経て成立したのであろ

うか︒石原氏は﹁大東急文庫﹁蜻蛉日記草稿﹂解説﹂におい

て︑﹃草稿﹄の本文およびその稿本について︑

大東急本﹁蜻蛉日記草稿﹂の本文は︑改訂本文であり︑

宗固・湊明が書き入れを行った注釈本である︒︵中略︶

ともかくも宗固の﹁草稿﹂本は︑版本の校合でないので

別に宗国校本があったか︑﹁草稿﹂の本文がそれである

か︑詳かでない︒だいたい近世の書き入れ本が︑版本の

元禄版か宝暦版かによるらしいから︑宗固の校本もそれ

の類と推される︒

と︑述べている︒他方︑﹃草稿﹄        の稿本について柿本氏は︑

宗固本︵筆注1﹃草稿﹄︶は書入れ板本を経て成立した

ものであり︑その書入れ板本は︑下巻の三冊を欠いて五

冊だけ桃園文庫に蔵されている︒紺表紙美濃大判の板本 ︵上記の通り下之下巻を欠くので刊記を見ることができないが︑文政板本か宝暦板本かであろう︶に︑宗福本と同じ筆蹟の注が︑訂正加除甚しく乱雑の観があるほどに加えられてあり︑それを整理して宗固本が作られたものと思われる︒

と︑東海大学附属図書館蔵桃園文庫の﹃蜻蛉日記﹄板本が

﹃草稿﹄の母体である旨を述べている︒実際︑桃園文庫蔵

﹃蜻蛉日記﹄板本に当ってみると︑同筆であると判断するに

は︑いささか疑問が残るが︑柿本氏が述べているように︑塙

保己一・横田袋翁・屋代弘賢の注の部分を除く︑残り全ての

頭注が一致しているので︑﹃草稿﹄の頭注は桃園文庫蔵﹃蜻

蛉日記﹄板本の頭注をそのまま移したものであり︑それに塙

保己一以下三者の注も加えられたと思われる︒

 結局︑山岡湊明が静嘉堂文庫蔵﹃蜻蛉日記﹄板本の﹁再考﹂

のときに用いた百花庵の校本は︑﹃草稿﹄ではなく︑桃園文

庫蔵萩原宗固自筆書入れの﹃蜻蛉日記﹄板本である︒従って︑

桃園文庫蔵﹃蜻蛉日記﹄板本の頭注と︑﹃草稿﹄の頭注とは︑

別物である︒

 とすると︑﹃草稿﹄の草稿本および清書本は︑いつ誰によつ      ぜて作られたのであろうか︒高田与清﹃信書漫筆﹄の巻第一

一26一

(11)

﹁萩原宗固翁が歌﹂には︑について︑

晩年に四谷荒木横町に家をうつしてすみ︑天明四年とい

ふとしの五月二日︑齢八十二にてみまかりにき︒その著

書あまたきこえし中に︑蜻蛉日記の注釈は余もひめもた

り︒

とあり︑また︑

俗語﹂には︑ 巻第二﹁おんばこどの\おんとむらひといふ

萩原山雪か首書に︑おほばこは車前草か︑和名於保管古︑

今も童の蛙を殺して︑其上に此草の葉おほひておけば︑

蛙のいきかへる戯事をするにや︒其事の神なるによりて︑

おほばこの神ともいへる歎︒おもひかへるに︑蛙をそへ

たる成べし︒といへるがよろし︒

とあって︑それは﹃草稿﹄の頭注と一致しているので︑﹃擁

書漫筆﹄が刊行された文化十三︵一八一六︶年には︑すでに

成立していたことになるだろう︒最後に︑﹃草稿﹄の著者に

ついて︑次のような記述がある︒川瀬一馬氏は﹁表構古版物       語文學解説﹂において︑﹃頭注蜻蛉日記﹄すなわち﹃草稿﹄ 江戸末期篤︒屋代弘賢自筆注︒不完の稿本二部を存するが︑もと揃っていたのが︑傳承の間に供したものであろう︒︵中略︶その頭注には宗固︵萩原︶や山岡明阿等の説をも揚げてあるが︑﹁保己一日﹂ともあり︑又︑﹁弘賢日﹂ともあって︑朱筆は弘賢の自筆である︒さすれば本書は屋代弘賢の注解作業である︒

と述べている︒﹃草稿﹄の本文はいくつかの異本を参照して

本文に改訂を施し︑それに桃園文庫蔵﹃蜻蛉日記﹄板本にあ

る萩原宗固自筆書入れの頭注をそのまま移して成立した︒改

訂を施し︑桃園文庫蔵﹃蜻蛉日記﹄の頭注を移したのが︑誰

であるかは断定できないが︑﹁朱筆は弘賢の自筆である︒﹂と

いう記述が正しいならば︑屋代弘賢も﹃草稿﹄の成立にかか

わっている一人であろう︒

 以上の事実をふまえれば︑﹃草稿﹄は萩原宗旨以外の人︑

おそらく萩原宗固の弟子筋にあたる準率己一・横田袋翁・屋

代弘賢の誰かによって︑﹃解環﹄が刊行された天明五年以降︑

﹃擁書漫筆﹄が刊行された文化十三年以前に成立したことに

なる︒

(12)

注1

注2

注3

注4

注5

注6

注7

注8   注大東急記念文庫蔵本は大東急記念文庫所蔵﹁古志古版物語文學総鰍﹂︵雄松堂フィルム出版︑一九七三年︶のマイクロフィルムにより︑正宗文庫蔵本は後藤祥子氏の﹁資料翻刻正宗家蔵﹃草稿 蜻蛉日記﹄︵萩原警固の蜻蛉日記注︶﹂︵﹃日本女子大学紀要︵文学部︶﹄︶によった︒石原昭平編﹃日記文学事典﹄︵勉誠出版︑平成十二年二月︶︒また︑﹃日記文学事典﹄では﹁天明五年︵一七八六︶﹂となっているが︑﹁天明五年︵一七八五︶﹂の間違いであろう︒石原昭平﹁大東急文庫﹁蜻蛉日記草稿﹂解説−付︑歌人︑萩原宗固の注釈態度と方法1﹂﹃王朝日記の新研究﹄笠間書院︑一九九五年十月柿本奨﹁﹃蜻蛉日記﹄宗固湊明注﹂﹃学大国文﹄︵第八号︶︑一九六五年以下︑本文の引用は宮内庁書陵部蔵桂宮本﹃蜻蛉日記﹄による︒柿本奨﹁﹁蜻蛉日記草稿﹂について﹂﹃かがみ﹄︵第六号︶︑大東急記念館文庫︑昭和三十六年号月大東急記念文庫蔵﹃蜻蛉日記草稿﹄の草稿本と清書本から確認できた屋代弘賢の注は以下のとおりである︒草稿本にだけあるものは︵草︶︑清書本にだけあるものは︵清︶︑両方にあるものは︑それぞれの該当箇所を明記した︒一巻三十ウ︵清︑草三十八オ︶・二巻二十オ︵清︑草二十五オ︶・三巻十ウ︵清︶・三巻十四ウ︵清︑草十八オ︶・三巻二十四オ︵清︑草三十一オ︶・三巻二十五オ︵清︶・三巻二十五ウ︵清︶・三巻二十六オ︵清︶石原昭平﹁大東急本﹁蜻蛉日記草稿﹂について1萩原宗固

の注釈態度を中心に一﹂﹃中古文学﹄︵第十四号︶︑中古文学 注9

注注 1110

注12

注13

注14

注15 会︑一九七四年十月正宗敦夫﹁稿本﹁蜻蛉日記古楽﹂﹂﹃文学﹄︵第八号︶︑岩波書店︑昭和七年一月注6に同じ︒後藤祥子﹁資料翻刻 正宗家蔵﹃草稿蜻蛉日記四﹄︵萩原宗固の蜻蛉日記注︶﹂﹃日本女子大学紀要﹄四十三号︑一九九三年ただし︑正宗敦夫氏は︑﹃草稿﹄は稿本の﹃解環﹄を参照して成立したと述べているので︑﹃草稿﹄は稿本﹃甘干﹄よりは後︑板本﹃聖帝﹄よりは先に成立したということになる︒諸伝本の校異および略称は︑上村悦子﹃蜻蛉日記校本・書入・諸本の研究﹄︵古典文庫︑昭和三十八年︶︑佐伯梅友・伊牟田経久﹃かげろふ日記総索引﹄︵風間圭官房︑昭和三十八年︶に従った︒

﹃草稿﹄と﹃解環﹄は︑ともに私意による本文改訂本であり︑

特に﹃解環﹄は︑契沖系統書入れ本を参考にした旨をその凡       やイ例に記している︒だが︑﹃草稿﹄は﹁かうもの一えうにもあらであるも﹂︵一巻一オ︶のように︑参考にした異本本文を傍記

してはいるものの︑それがどういう本であるかは特定できな

い︒また︑大東急記念文庫蔵本﹃草稿﹄は︑草稿本に﹁さら     なおほしそとてイにうしろめたくはなをな目し昔と目目て﹂︵二巻六ウ︶とある異本本

文に従い︑清書本の段階で﹁さらにうしろめたなくはおほし

そとて﹂︵二巻四オ︶のように改訂されている︒このような事

例は他にも散見する︒

﹃蜻蛉日記草稿﹄のこの箇所にある書入れについては︑石原昭

平氏の﹁蜻蛉日記の終末1﹃例のつきせぬこと﹄の意味する

もの﹂﹃日記文学・作品論の試み﹄︵中古文学研究会編集・中

古文学1︑昭和五十四年︑笠間書院︶に考察がある︒石原氏

一28一

(13)

注注 1716

注18 は﹁これは要するに湊明が﹁かうなから︑ひ︑けふに⁝⁝﹂の本文︑宗固が﹁かうながらへっつ︑けふに﹂本文を持つ本を対校本としてどこからか借覧して書き入れたらしい︑ということだろう︒﹂と述べてはいるものの︑﹃蜻蛉日記草稿﹄が参照した﹁かうながらへっつ︑けふに﹂となっている﹁対校本﹂についての具体的な言及はない︒注4に同じ︒高田与清﹃擁書漫筆﹄文化十三年刊︒但し︑本文引用は﹃日本随筆大成﹄︵第一期十二巻︑日本随筆大成編輯部編︑一九七五年十一月︶による︒

川瀬一馬著﹁古爲古版物語文學解説﹂大東急記念文庫︑昭和四

九年十月

︵きむ よんちゃん・本学大学院博士後期課程︶

参照

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(1959)により、実見調査の上、真偽判定・資料のナンバリング(1.骨(會1.1)~ 25.骨(會5.5))・模写が行