智山學報 第66 - 015松本 亮太「『智光明荘厳経』の一考察」
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(2) 智山学報第六十六輯. 1 『智光明荘厳経』の内容考察 1.1 如来の不生不滅 『智光明荘厳経』は、 「世尊よ、不生不滅というのはいかなる法の別名であるの か6)」という文殊の質問で始まり、 「文殊師利よ、不生不滅というのは、これは 如来の別名である7)」と世尊が答えるところから話が展開する。 つまり、「如来=不生不滅」を明らかにすることが経の主旨であることは明ら かである。このことを述べるために九喩が説かれるのであるが、その構造は九喩 にほぼ共通して、 構造①. まず衆生がその立場に応じて如来を知覚し、利益を受ける、. 構造②. しかし、如来は存在せず、不生不滅である。. という二重の構造となっている。一例を挙げると、 nāsti ca Mañjuśrīs tathāgatah, atha ca dharmasvaraghosena tathāgata iti ̇ ̇ ̇ prajñaptir loke sambhavati/sattvānām eva pūrvakuśalakarmavipākena ̇ tathāgataśabdam niścarantam sattvāh samjānanti/sarvasattvānām sarvȧ ̇ ̇ ̇ ̇ sukhajananārtham pramattānām ca samcodanārtham śabdo niścarati/te ̇ ̇ ̇ ̇ Mañjuśrīh sattvāh śabdam śrutvā tathāgatam samkalpayanti/ayam tathāgȧ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ tasyātmabhāva iti/ ādikarmikānām ca bodhisattvānām sarvabālaprthagjanānām ca tathāgatāṙ ̇ ̇ ̇ ̇ ambanakuśalamūlasamjananārtham tathāgatavāk śrūyate/api tv anutpanno ̇ ̇ ̇ ʼniruddho Mañjuśrīs tathāgato veditavyah// (JĀA.31.15-25) ̇ また、文殊師利よ、如来は存在しないが、世間では、法(太鼓)の音響をも って如来[というものがある]との仮説が生じる。実に、衆生の過去の善業の 成熟によって、衆生は如来の音の発生を知る。一切の衆生の、一切の安楽を 生じることを目的として、また、散漫となった者の教誡の目的として、音が 出る。文殊師利よ、彼ら衆生は音を聞いて、如来を想像する。これが如来の 身体であると。 初心の菩薩たちや、一切の凡夫たちの、如来を対象として善根を生じるこ とを目的に、如来の声が聞かれる。しかし、文殊師利よ、如来は、不生不滅 であると知られるべきである。. ( 66 ).
(3) 『智光明荘厳経』の一考察(松本). ここでは、如来を見る衆生の条件としては、「衆生の過去の善業の成熟によっ て、如来の音の発生を知る」と説かれる。また、他の箇所では、「衆生の信解に よる、見方の差によって8)」 「心の清浄さから、また、衆生の修行の正しさから、 如来の身体を見る9)」などと説かれる。これらをみると衆生は、その行いや信心 によって、如来を見たり、声を聞いたりするのである。その立場は、「邪性に定 まった系列の衆生達の身体に至るまで、如来という日輪の光線は、降り注ぐ10)」 ということであって、五性各別のように先天的に備わっている素質には関係なく、 行いや信心に応じた如来の影像が、あらゆる衆生に無条件に現れるといってよい。 そして、この現れた如来は「一切の安楽を生じることを目的として、また、散 漫となった者の教誡の目的として」また、 「すべての衆生の一切の災い、不安、 隋煩悩の寂静の為に生じる11)」といった利益をもたらすのである。 以上の事柄は、上記の経典の構造①にあたる内容である。しかし説かれている ように、この出現した如来は衆生の仮設である。つまり「「名」という仮設が定 まって、世間において「如来・阿羅漢・正等覚者」といわれる12)」のに過ぎない のである。また、ここで如来が現れる対象となっているのは、初心の菩薩以下の 衆生と説かれている。つまりは、より上の菩薩、そして如来の視点の意味ではな いということがわかる。 na ca Mañjuśrīr ādikarmikānām ca bodhisattvānām sarvaśrāvakapratyekȧ ̇ ̇ buddhayānikānām sarvabālaprthagjanānām caivam bhavati/śūnyas tathāgȧ ̇ ̇ ̇ to vaśiko ʼbhūto ʼnaksaro ʼghoso ʼdeśo ʼbhāvo ʼcintyo ʼnimittaś cittamanovijñā̇ ̇ nāpagato ʼnutpanno ʼniruddho ceti/ (JĀA.36.6-10) そして、文殊師利よ、初心の菩薩たちや、一切の声聞乗と縁覚乗の者たちや、 一切の凡夫たちは、このように「如来は、空虚で、空しく、存在せず、文字 をもつものではなく、音声をもつものではなく、方向をもつものではなく、 非有で、思惟せず、無相で、心意識を離れ、不生不滅である」とは思わない。 anutpādadharmah satatam tathāgatah sarve ca dharmāh sugatena sādrśāh/ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ nimittagrāhena tu bālabuddhayo asatsu dharmesu caranti loke/ ̇ ̇ (JĀA.37.1-4)13). 如来は、常に、不生の性質をもつものである。また、一切諸法も善逝(如来) ( 67 ).
(4) 智山学報第六十六輯. のようなものである。しかし、姿に捉われることによって、智が劣っている 者達は、世間において、実在しない諸法に向けて行動する。 上記のように、初心の菩薩以下の衆生たちの見方は否定的に説かれる。ここで 言われる「智が劣っている者たち」というのは、文脈からみて明らかに、初心の 菩薩を含めた、声聞、縁覚、凡夫といった衆生たちである。 これらより、構造②にあたる部分こそが初心の菩薩より上の菩薩、如来の視点 であり、重要な点であることがわかる。つまり菩薩が目指すべき悟りの内実は、 如来が不生不滅であることを理解することである。この不生不滅たることを説く 一例を挙げると、以下の通りである。 evam eva Mañjuśrīs tathāgato ʼrhan samyaksambuddho nātīto nānāgato na ̇ pratyutpannah, nādhyātmam na bahirdhā nobhayam antarenopalabhyate, ̇ ̇ ̇ notpanno na niruddhah, nocchinno na śāsvatah, na jñānavān nājñānavān, ̇ ̇ aprajñāvān nāprajñāvān, na vidyā nāvidyā, na vimuktir nāvimuktih, na ̇ sāvadyo na niravadyah, na smrtimān nāsmrtimān, na sthānavān nāsthānavān, ̇ ̇ ̇ na nisadyo nānisadyah, na prthivīdhātur nābdhātur na tejodhātur na ̇ ̇ ̇ ̇ vāyudhātuh, na samskrto nāsamskrtah, na prapañco nāprapañcah, na ruto ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ nārutah, na drśyo nādrśyah, anaksarah, aghoso ghosasamatikrāntah, atulas ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ tulāsamatikrāntah, alaksano laksanāpagatah, na śānto nāśāntah, na dīrgho na ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ hrasvah, na cetano nācetanah, na caityo nācaityah, na lokyo nālokyah, ̇ ̇ ̇ ̇ darśanasvabhāvena śūnyah, asmrtī, amanasikārah, avitarkah, avicārah, ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ cittamanovijñānāpagatah, sarvatra samo nirvikalpah, nirviśesas tryadhvȧ ̇ ̇ samatikramah/ (JĀA.43.11-44.7) ̇ 文殊師利よ、まさにこのように、如来、阿羅漢、正等覚者は、過去のもので なく、未来のものでなく、現在のものでなく、内にあるとも、外にあるとも、 それら両方の中間にあるとも知覚されないものであり、生じたものでなく、 滅したものでなく、断滅したものでなく、常住のものでなく、智を具えたも のでなく、智を具えていないものでもなく、智慧を具えたものでなく、智慧 を具えていないものでもなく、明慧をもつものでなく、明慧をもたないもの でなく、解脱したものでなく、解脱していないものでもなく、罪があるもの ( 68 ).
(5) 『智光明荘厳経』の一考察(松本). でなく、罪がないものでなく、憶念をもつものでなく、憶念をもたないもの でなく、場所をもつものでなく、場所をもたないものでなく、座るものでも なく、座らないものでもなく、地界でなく、水界でなく、火界でなく、風界 でなく、つくられたもの (有為) でなく、つくられたものでないもの (無為) で なく、無戯論のものでなく、有戯論のものでなく、声をもつものでなく、声 をもたないものでなく、見られるものでなく、見られざるものでなく、文字 をもつものでなく、音声をもつものでなく、音声を超越したもので、無比の もので、称量を超越したもので、特徴がないもので、特徴を離れたもので、 寂静のものでなく、寂静でないものでなく、長いものでなく、短いものでな く、感知せられるものでなく、感知せられないものでなく、精神的なもので もなく、非精神的なものでもなく、視るものでもなく、視られないものでも なく、見るという本性として空であるもので、憶念がないもので、無作意の もので、無尋のもので、無伺のもので、心意識を離れたもので、すべてに対 して、平等で、無分別で、無差別で、三世を超越しているのである。 このように、空を表現するときに用いられるような、対立概念の両方を否定する 表現を繰り返すことにより如来の不生不滅を説いている。 以上のように、構造①で説かれた、衆生が如来を知覚して利益を受けるという 事実と、構造②で説かれた、如来が不生不滅であるという二重の構造が確認でき た。ではこの「すべての衆生の一切の災い、不安、随煩悩の寂静の為に生じる」 というような衆生利益のはたらきは、 「文殊師利よ、如来の力によって衆生は如 来を見る14)」と説かれるように、空でなく、如来に付随する力として認められる のであろうか。 高崎 [1974] では、この経典について、 「菩提、自覚の智を体とする法身と、慈 悲、後得智を体とする色身の二種仏身の問題が、この経の主題である」といい、 さらに、後得の世間智である大悲の力としての仏業をたたえ、強調する経典であ ると述べている。すなわち、衆生利益は如来の大悲の力によるもので、本稿でい うところの構造①の部分が強調された経典であるという。 また、島村 [2009] によると、「如来〈真如、法身〉には、用らきは常に認められ ないとし、この「如来の威力」は、俗諦としての如来の用らき、具体的には 「〈衆生が作り出した・概念としての如来〉に対する・行者の信」が生み出す用ら ( 69 ).
(6) 智山学報第六十六輯. き、の意味とする立場」を立て、これを支持している。しかし、九喩のうち日光 の比喩の箇所に関してのみ「〈現実の行者が修行を完成して、悟り・真如を実現 した後も、身体をもった人格個体として三界に存在している事態〉として理解す る必要がある」と述べ、これこそが高崎の述べる後得の世間智を体とする色身の はたらきを述べた箇所であるとしている。 本稿は、仏身論による観点で『智光明荘厳経』を解釈するものではないので、 細かい議論に関しては避けるが、原型に近いとされる僧伽婆羅訳では、この「如 来の力」が語られる比喩は欠けており、衆生利益をもたらす如来の力や大悲に関 しては、経の主張する範疇ではなかったと見える。しかし、衆生が如来に向けて 行う行動やそれに伴う利益というものがあるからには、如来の力や大悲というも のを想定せざるを得ず、そうなった場合、後得の世間智や色身といったもので説 明されることになるであろう。しかし、本経の焦点としてはやはり、構造②の部 分を主張することであり、法身の不生不滅、空性を説くところに集約されている といえる。 1.2 菩薩行 以上のように、『智光明荘厳経』は、衆生が如来をみて、それに向かって行動 し、利益を受けるといった現象に対し、如来の不生不滅、空性を説いた経典であ る。では、菩薩はどのようにして、悟りに向かうのかという問題に対し、菩薩が 目指すべき境地に至るための、菩薩行に関して次のように説かれている。 katham Mañjuśrīr bodhisattvaś carati bodhisattvacaryāyām/…/sacen Mañ̇ juśrīr bodhisattvo na rūpam śūnyam iti carati nāśūnyam iti/evam caran ̇ ̇ Mañjuśrīr bodhisattvaś carati bodhisattvacaryāyām/tat kasmād dhetoh/rūṗ am eva śūnyam rūpasvabhāvena/evam vedanāsamjñāsamskāravijñānam ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ śūnyam iti carati nāśūnyam iti/evam caran Mañjuśrīr bodhisattvaś carati ̇ bodhisattvacaryāyām/tat kasmād dhetoh/cittamanovijñānānupalabdhitvāt/ ̇ sa na kaścin Mañjuśrīr dharmo vidyate, yasya parijñānam vā prahānam vā ̇ ̇ ̇ bhāvanā vā sāksātkriyā vā bhavet/ (JĀA.67.5-68.12) ̇ 文殊師利よ、菩薩行に向けて、菩薩はどのように行をするのか。〈中略〉文殊 師利よ、もし菩薩が、色が空であると行じない、また非空であると[行じ]な ( 70 ).
(7) 『智光明荘厳経』の一考察(松本). いならば、このように行じている菩薩は菩薩行に向けた行をしている。それ はなぜかというと、色は色の本性として空であるからである。このように、 受や想や行や識が空であると行じない、また非空であると[行じ]ない。文殊 師利よ、このように行じている菩薩は菩薩行に向けた行をしている。それは なぜかというと、心意識が知覚せられざるものである故である。文殊師利よ、 [苦を]よく知ることや、[集を]断ずることや、[道を]修することや、[滅を] 証得することを為そうというような、法は全く存在しないのである。 このように、菩薩の修行とは、修行しないことによって修行するといった逆説的 な表現で説かれている。結局のところ修習すべき内容が、具体的に説かれること はなく、それもまた、空であるといったところであろうか。 この表現によく似たものを『維摩経』に見出すことができる。 punar aparam bhadantaśāriputra yo dharmārthikah, nāsau duhkhaparijñā̇ ̇ ̇ nārthiko na samudayaprahānārthiko na nirodhasāksātkriyārthiko na māṙ ̇ gabhāvanārthiko bhavati/…dharmārthikena te bhavitukāmena sarvadharmānarthikena bhavitavyam/ (VKN.56.13-57.13) さらにまた、大徳シャーリプトラよ、法を求める者は、苦を知見することを 求める者でもなく、集を断じることを求める者でもなく、滅を現証すること を求める者でなく、道を修習することを求める者でもありません。〈中略〉あ なたが法を求めることを修習しようと欲するならば、一切法を求めないとい うことによって修習すべきです(高橋・西野[2011]109-111) 渡辺 [1977] においても、 『智光明荘厳経』の教義が『維摩経』に相似している との指摘がされており、 『智光明荘厳経』の「文殊師利よ、根を持たないこと、 拠り所を持たないことで、如来は菩提を得た15)」という箇所を挙げている。 『維 摩経』でいうと第六章の観衆生品第七「一切諸法は根拠のないことという根本を 根拠としているのです。(高橋・西野[2011]133. 4)16)」にあたる部分の思想と似てい ると言っているのであろう。 『維摩経』は、梵本発見の経緯17)や共通の偈頌18)が説かれていることなどと合 わせて見ても、関係の深い経典といえるであろう。 ( 71 ).
(8) 智山学報第六十六輯. 2 『性起経』との比較 『智光明荘厳経』は如来の出現に関して、その如来の(法身の)空たることを説い た。同じく如来の出現を説き、 『智光明荘厳経』の成立に影響を与えたとされる 経典に『性起経』がある。『智光明荘厳経』が『性起経』由来とよばれる一つの 理由として、両経に共通する日光の比喩というものがある。少々長い引用になる が、本文の紹介もかねて、両経の内容の比較を行う。 『性起経』.
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(97) 『智光明荘厳経』の一考察(松本) (TUSN.(P)92a.6-93a.6). まさにその日輪は、贍部洲に昇ったとき、最初に、山の王、すなわち、須 弥山に現れるだろう。その次に、その他の大山に現れるだろう。また、その 次に、諸の黒山に現れるだろう。その次に、諸々の高地に現れるだろう。ま た、その次に、贍部洲の諸々の低地に現れるだろう。しかしながら、日輪に は「ここに最初に光明を放つ、とか、ここに最初に現れよう。」という区別 はなく、また戯論もなく、日輪は光を等しく放って、昇ることがないことは ない。大地の高低の差異によって、より高いところに先に昇るのである。 仏の子よ、このように如来・阿羅漢・正等覚者たちの智慧の身という日輪 もまた、辺も中もなき法界たる種姓に昇ったとき、常に相続不断に、障礙な き智慧の光明を照らすのである。そして、それを完全に放つ時、最初に、山 の大王の如き優れた意楽をもつ賢人たちに、法の大光明を示す姿で現れるで あろう。その次に、声聞や独覚乗に入った者たちに現れるであろう。その次 に、善根の決定せる衆生たちに、意志の器にしたがって、智慧の大光明を示 す姿で現れるであろう。その次に、邪定聚の辺際にいたるまでの一切衆生に もまた、如来の智慧の大光明が現れるであろう。(中略) それらの如来の智慧の身という光明は、この衆生たちについて、 「我らは、 最初に大乗(の教え)によって照らして、その次に、中間の意楽をもつものた ちを、声聞や独覚乗(の教え)によって、浄化すべきであるという目的で照ら そう。その次に善なる意志を有する信解の乗にある衆生たちに、意楽にした がって、成熟させようとする姿によって照らそう。その次に、邪定聚の辺際 にいたるまでの一切衆生の意楽を浄化しよう。見方を正しくしよう。」とい う分別を有さず、戯論をもたない。(中略) 如来の智慧の身である日輪は、分別を有さず、等しく光明が現れるが、衆 生たちの、種々様々の善根や、種々様々の意楽にしたがって、如来の、種々 様々の光明があらわれて、存在するのである。 『智光明荘厳経』 tadyathā Mañjuśrīh sūryaraśmayo Jambūdvīpe pūrvataram eva tāvad ̇ mahāśailendrarājānam avabhāsayanti/tatah paścāc cakravādān mahācakrȧ ̇ vādān avabhāsayanti/tatah paścād uccoccān prthivīpradeśān avabhāsayanti/ ̇ ̇ ̇ ( 73 ).
(98) 智山学報第六十六輯. tatah paścād iha Jambūdvīpe nimnān prthivīpradeśān avabhāsayanti/te ca ̇ ̇ Mañjuśrīh sūryaraśmayo na kalpayanti, na vikalpayanti, na cintayanti,・・・/ ̇ evam eva Mañjuśrīs tathāgato ʼpy arhan samyaksambuddho na kalpayati, ̇ na vikalpayati, na cintayati, na vicintayati/cittamanovijñānāpagato Mañjuśrīs tathāgatah, anutpanno ʼniruddhah, alaksano laksanāpagatah,・・・na kalpā̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ pagato nākalpāpagatah/ ̇ atha ca punar Mañjuśrīs tathāgatasūryamandalajñānaraśmayas traidhā̇̇ tuke ʼnantamadhyadharmadhātvapratihataraśmyavabhāsapramuktāh/prasṙ ̇ tāś ca raśmayah pūrvataram eva mahāśailendrakalpādhyāśayānām bodhi̇ ̇ sattvānām kāye nipatanti/tatah paścāt pratyekabuddhayānasamprasthitā̇ ̇ ̇ nām kāye nipatanti/tatah paścāc chrāvakayānasamprasthitānām kāye ̇ ̇ ̇ ̇ nipatanti/tatah paścāt kuśalādhyāśayānām yathādhimuktīnām sattvānām ̇ ̇ ̇ ̇ kāye nipatanti/tatah paścād antaśo mithyātvaniyatesu sattvasamtānesu kāye ̇ ̇ ̇ ̇ tathāgatasūryamandalaraśmayo nipatanti/tesām copakārībhūtā bhavanty ̇̇ ̇ ̇ anāgatahetusamjananatayā, samvardhayanti ca kuśalair dharmaih/ ̇ ̇ ̇ tatra ca tathāgato Mañjuśrīh samah sarvatropeksako nirvikalpo niṙ ̇ ̇ viśesah/na punar Mañjuśrīs tathāgatajñānasūryamandalasyaivam bhavati/ ̇ ̇ ̇̇ ̇ asyāham sattvasyodāram dharmam deśayisyāmi, asya na deśayisyāmīti/na ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ tasyaivam vikalpo bhavati, ayam udārādhimuktikah sattvah, ayam ̇ ̇ ̇ ̇ madhyādhimuktikah, ayam śrāvakayānādhimuktikah/ayam kuśalāśayah, ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ayam hīno mithyāśaya iti/ ̇ na Mañjuśrīs tathāgatajñānasūryamandalasyaivam bhavati/ayam udāṙ̇ ̇ āśayādhimuktikah sattvo ʼsya mahāyānam deśayisyāmi, ayam ̇ ̇ ̇ ̇ madhyāśayādhimukto ʼsya pratyekabuddhayānam deśayisyāmi, ayam śrāvȧ ̇ ̇ kayānādhimuktiko ʼsya śrāvakayānam deśayisyāmi/kuśalākuśalāśayānām ca ̇ ̇ ̇ sattvānām āśayam viditvā viśodhayisyāmi, rjukām drstim karisyāmi/yāvad ̇ ̇ ̇ ̇ ̇ ̇̇ ̇ ̇ mithyātvaniyatānām api sattvānām yathānurūpam dharmam deśayisyāmi/ ̇ ̇ ̇ ̇ na tathāgatajñānasūryamandalaraśmyavabhāsasyaivam vikalpo bhavati/tat ̇̇ ̇ kasya hetoh/sarvakalpavikalpaprapañcasamucchinnatvāt tathāgatajñānȧ sūryamandalaraśmyavabhāsasya/atha ca Mañjuśrīh sattvānām kuśalā̇̇ ̇ ̇ śayasamtānavaicitryāt tathāgatajñānasūryamandalaraśmyavabhāsasya ̇ ̇̇ ( 74 ).
(99) 『智光明荘厳経』の一考察(松本). vaicitryam bhavati// (JĀA.37.10-40.17) ̇ 文殊師利よ、例えば、太陽光線が贍部洲において、遠い過去に、最初に、 数々の大きな山の王を輝かせて、その後、鉄囲山を輝かせて、その後、数々 の高い高い地点を輝かせて、その後、贍部洲の数々の低地を輝かせていると しよう。文殊師利よ、それらの太陽光線は分別せず、虚妄分別せず、考え ず・・・。 文殊師利よ、このように如来であり阿羅漢であり正等覚であるものもまた、 分別せず、虚妄分別せず、考えず、識別しない。文殊師利よ、心意識を離れ た、如来は、生じたものでなく、滅したものでなく、特徴がなく、特徴を離 れ、・・・、分別を離れたものでなく、無分別を離れたものでない。 そして、また、文殊師利よ、如来という日輪の智慧の光線は、三界におい て、辺も中もなき法界に無礙の光線を放射している。充満している光線は、 遠い過去に、大きな山の王のようなこころざしを持つ菩薩達の身体に降り注 ぐ。その後、縁覚乗に向かった者たちの身体に降り注ぐ。その後、声聞乗に 向かった者たちの身体に降り注ぐ。その後、信解といった、善きこころざし を持った衆生の身体に降り注ぐ。その後、邪性に定まった系列の衆生達の身 体に至るまで、如来という日輪の光線は、降り注ぐ。そして、未来の因を生 み出すことによって、彼らの、饒益が起こり、また、善法によって成長させ る。 そこでまた、文殊師利よ、如来は、すべてに対して、平等で、無関心で、 無分別で、無差別である。文殊師利よ、如来という智慧の日輪は次のように 考えない。「私は、この衆生のために、優れた法を示し、この[衆生の]ため に、示さない」と。[また]次のように差別しない。 「この衆生は優れた信解 をもつもので、この[衆生]は中程度の信解をもつもので、この[衆生]は声聞 乗の信解をもつもので、この[衆生]は善き心をもつもので、この[衆生]は不 足していて、邪妄な心をもつものである」などと。 文殊師利よ、如来という智慧の日輪は、次のように考えない「この、優れ た心の信解をもつ衆生には、大乗を示そう。この、中程度の心の信解をもつ [衆生]には、縁覚乗を示そう。この、声聞乗の信解をもつ[衆生]には、声聞 乗を示そう。そして、善き善き心をもつ衆生達の思想を理解して、清浄にし よう、正しく見させよう。また、邪性に定まった衆生達のために、このよう ( 75 ).
(100) 智山学報第六十六輯. な相応しい法を示そう。 」と。如来という智慧の日輪の光明はこのように差 別しない。その理由はなにか。如来という智慧の日輪の光明の、一切の分別、 虚妄分別、戯論を断滅した性質の故である。しかし、文殊師利よ、衆生達の 善き心の系列の多様性から、如来という智慧の日輪の光明の多様性が現れる のである。 以上のように、両者の教説は極めて似ている。概して、日光が大地を順々に照 らすように、如来も菩薩、縁覚、声聞といった順に照らし出すのであるが、それ は大地の高低差、衆生の信の差によるものであり、如来も日光と同様に無分別で あることが説かれている。 次に、両経の相違する点を見てみる。紙面の都合上割愛するが、 『性起経』で はこの比喩の前に、同じく日光を題材とした比喩があり、そこには、日光のもた らすさまざまな利益が羅列して説かれ、同様に如来のもたらすさまざまな利益が 説かれる。これは『智光明荘厳経』にはない部分である。一方、 『智光明荘厳経』 に特有なのが下線部に見られるような、否定句の羅列によって如来の不生不滅を 説いている箇所である。『性起経』には経全体を通して見ても、如来自体の不生 不滅、空性を説く場面はほとんど見られない。 つまり、両経とも、同じく無分別に如来のはたらく様子が説かれるが、『性起 経』は、如来から現れる仏業・その功徳や利益に主眼を置いて説き、 『智光明荘 厳経』は、仏業をもたらす不生不滅なる如来に主眼が置かれている。 また、『智光明荘厳経』における菩薩の目標としては、一切法の空を証得する ことであり、それに対して菩薩行が説かれた(実際は、修行しないことによって修行す る、というような具体性を欠くものであるが)のに対し、 『性起経』では、 「菩薩大士は. 如来・阿羅漢・正等覚者たちの生起・出現を理解するべきである19)。 」と繰り返 し説かれるのみで、菩薩が行なうべき修行のような表現は出てこない。敢えて 『性起経』における目指すべき境地をいうと、菩薩となって如来のはたらきを受 けることである。『智光明荘厳経』には無条件に衆生が如来のはたらきを受ける ことが説かれていたのに対し、 『性起経』では「感官の壊れたもの( )に はとらえられない」とか「福徳を作らなかった衆生 (
(101) ) たちの 視野にはあらわれない」などと表現され、如来のはたらきを知覚できるのは、菩 薩のみであるということが説かれる。これは、大乗とそれ以外の衆生を区別して、 ( 76 ).
(102) 『智光明荘厳経』の一考察(松本). 菩薩の道に入ることの優位性を説いているのである。 3 まとめ 『智光明荘厳経』では、衆生がその信や行いによって、如来を知覚し、それに よって利益を受けることが説かれる。しかし、このような行動に捉われるものは 初心の菩薩以下の衆生たちで、智の劣ったものであると説かれる。そして、これ らの衆生に現れる如来に対して、空を説明する際に用いられるような対立概念を 共に否定する言葉が繰り返し説かれる。つまり菩薩が目指すべき悟りは、衆生た ちが概念化された如来を見て、それに向けて行動するが、その如来が不生不滅で あることを理解することである。如来のはたらきを説いたうえで、その体の不生 不滅を説くことで、如来のはたらきと空性たる本体の関係を説き、特に法身の空 性を説くことが主題となっていることは経の構造からもあきらかである20)。 次に『性起経』と『智光明荘厳経』の日光の比喩の比較をおこなった。日光の 比喩をとおして見えてきたのは、同じような比喩であるが、比喩の仕方が異なっ ている。つまり、『性起経』は「日光が無差別に衆生を利益する」ように「如来 が、差別・戯論せず衆生たちの信解や意楽に応じて、衆生をさとりに向かわせる というはたらきをもたらす」ことを示している。一方『智光明荘厳経』は、 「不 生不滅なる日光が衆生を利益する」ように「不生不滅なる如来法身から無功用・ 不休息に仏業があらわれる」ことを示している。『性起経』は、その経題が示す ように、如来の出現を主要テーマとしたものである。そして、その目指すところ は、如来が出現することの原因を理解し、菩薩となってそのはたらきを受け、そ の利益によって悟りに向かうといったシンプルなものである。また『性起経』に は、如来出現による功徳に関する詳細な記述があり、如来の遍満性なども説かれ る。それに対して『智光明荘厳経』には、功徳に関する記述が少なくなっている 一方、如来自体が不生不滅であるという教説が加えられ、そのことが強調された 形となっていた。さらに、『性起経』に比べて『智光明荘厳経』で「衆生の条件」 が説かれないのは、『智光明荘厳経』はあくまでも法身の空性を説くことを主題 としている経典であり、如来のはたらきを主題として説いている訳ではないので、 仏業と衆生の関係や、菩薩の優位性は問題になるものではないのである。 また、 『智光明荘厳経』の成立に関しては、 『性起経』の影響を受けたものであ るという前提には同意するところであるが、その主張する点は異なっているため、 ( 77 ).
(103) 智山学報第六十六輯. 他の空を説く経典(例えば『維摩経』など)の影響も少なからずあったとみること ができよう。. 略号及び使用テキスト JĀA.. 木村高尉 大塚伸夫. 木村秀明. 高橋尚夫. 幾澄博士古稀記念論文集』ノンブル社 VKN.. 梵文校訂『智光明荘厳経』『小野塚. 2004. 大正大学綜合佛教研究所梵語佛典研究会『梵文維摩経』大正大学出版会. TUSN. “
(104) ” Jinamitra, Surendrabodhi, 等訳. 2006. 九世紀北. 京版 No. 761、デルゲ版 No. 44 RGV. The Ratnagotravibhāga Mahāyānottaratantraśāstra, ed. E. H. Johnston, Patna, 1950 参考文献 島村大心 2009「『智光明荘厳経』の説く三身説衾如来の利他行の用らき(第四真理命題) の意味内容衾」『智山学報』第五十八輯 高崎直道 1974『如来蔵思想の形成』 高崎直道 1975『大乗仏典 12. 如来蔵系経典』. 高崎直道 1989『インド古典叢書. 智山勧学会. 春秋社. 宝性論』. 中央公論社. 講談社. 高橋尚夫 2003「 『文殊讃佛法身礼』の方円図について」 『佐藤良純教授古稀記念論文集 「インド思想と仏教思想の基調と展開」第一巻』. 山喜房佛書林. 高橋尚夫 2016「法身とは何か『維摩経』と『智光明荘厳経』より」『密教学研究』第 48 号. 日本密教学会. 高橋尚夫・西野翠. 2011『梵文和訳. 維摩経』. 春秋社. 中村瑞隆 1953「入一切仏境界経に就いて」『大崎学報』No. 100 渡辺海旭 1977「古于闐及其珍貴の古物」 『壺月全集』上巻 445-456. 大東出版. 註 1). 『宝性論』における『智光明荘厳経』の役割としては、引用が七か所ほどみられる ほか、「仏宝品」において、「『智光明荘厳経』に準拠して知るべきである」といっ て、如来の徳性を『智光明荘厳経』の内容を根拠に述べていること、さらに、「自 然不休息仏業品」における、仏業を説くために用いられる九喩が『智光明荘厳経』 に説かれるものであることなどが挙げられる。. 2). 漢訳(1)曇摩流支(501 年)訳『如来荘厳智慧光明入一切仏境界経』(大正蔵 12. No. ( 78 ).
(105) 『智光明荘厳経』の一考察(松本). 357) 漢訳(2)僧伽婆羅(518 年頃)等訳『度一切諸仏境界智厳経』(大正蔵 12. No. 358) 漢訳(3)法護(〜1058 年没)等訳『仏説大乗入諸仏境界智光明荘厳経』(大正蔵 12. No. 359) チベット訳. Surendrabodhi,. 等訳 “
(106) .
(107) ”(北京版『大谷目録』No. 768、デルゲ版『東北目録』No. 100) 3) 中村[1953]189-192、高崎[1974]619-627 参照。 4) 『性起経』について現在見つかっているテキストは、漢訳三本、チベット語訳一本 である。梵本は発見されていない。「性起品」の性起という訳語より、性起思想が 生まれ、性起の語を含んだ題で呼ばれることが多いことから、本稿ではまとめて 『性起経』と呼ぶことにする。 5) 高崎[1974]によると、まず経の説処について、『智光明荘厳経』の「法界胎蔵宮 (dharmadhātugarbhe prāsāde)」と、『性起経』の「如来の加持する城、如来の住 まわれる法界胎蔵の楼閣宮殿(
(108)
(109) . )」という部分が似ていることである。二つ 目 は、『智 光 明 荘 厳 経』の 菩 薩 達 の 描 写 に お い て、 「法 雲 地 を 得 て い る (dharmameghabhūmipratilabdha)」とあることである。法雲地というのは『華厳 経』に説かれる菩薩の階位の第十地のことであり、『華厳経』を通過したことを予 想させる。三つ目が『智光明荘厳経』に「大宝の蓮華胎蔵の師子座(mahāratnapadmagarbhasimhāsanam)」が出てくるが、 「蓮華蔵師子座」というのは『華厳 ̇ ̇ 経』の多くの品で見られることからまた、『華厳経』の影響を受けたと考えられる のである。 6). katamasyaitad Bhagavan dharmasyādhivacanam anutpādo ʼnirodha iti/ (JĀA.24. 18-19). 7). anutpādo ʼnirodha iti Mañjuśrīs tathāgatasyaitad adhivacanam/ (JĀA.26.3-4). yathādhimuktikānām ca sattvānām darśanavaimātratayā…/ (JĀA.28.13) ̇ ̇ 9) pariśuddhatvāc cittasya subhāvitatvād bhāvanāyāh sattvānām tathāgatātmabhāvȧ ̇ darśanam bhavati/ (JĀA.27.19-20) ̇ 10) antaśo mithyātvaniyatesu sattvasamtānesu kāye tathāgatasūryamandalaraśmayo ̇ ̇ ̇ ̇̇ nipatanti/ (JĀA.39.15-17). 8). 11). sā ca dharmadeśanā sarvasattvānām sarvopadravopāyāsopakleśopaśāntaye saṁ ̇ vartate/ (JĀA.36.13-14). 12). nāmaprajñaptih sthitā loke tathāgato ʼrhan samyaksambuddha iti/ (JĀA.34.4-5) ̇ ̇ ( 79 ).
(110) 智山学報第六十六輯. 13). 『Prasannapadā』が引用している。Lous de laVallée Poussin, mūlamadhyamakakārikās de Nāgārjuna avec la prasannnapadā de Candrakīrti,(ST.-PÉTERSBOUG, 1913)449. 5-12. 14). tathāgatānubhāvena Mañjuśrīh sattvās tathāgatam paśyanti/ (JĀA.27.21) ̇ ̇ amūlāpratisthānā Mañjuśrīs tathāgatena bodhih prāptā/ (JĀA.54.2-3) ̇̇ ̇ 16) apratisthānamūlapratisthitāh sarvadharmāh/ (VKN.68.16) ̇̇ ̇̇ ̇ ̇ 17) 高橋[2016]によると、『智光明荘厳経』の梵本がポタラ宮側から提示されたリスト 15). にあったので、調査したところ、同じ帙の中に『維摩経』の梵本が入っていたとい う。その梵本には『維摩経』「見阿閦品第十二」の章名が記されていたという。こ の章についても、 『智光明荘厳経』の「文殊讃仏法身礼」と深い関係があると言わ れている。 18) VKN. 7. 17-8. 8、JĀA. 75. 9-76. 8, 76. 11-14 19) 20).
(111) 高橋[2016]に、日光の比喩の否定句を列挙し、「『維摩経』と『智光明荘厳経』は もっともシンプルな形で無我性則ち空・不二を説く経典であると云えるであろう。」 と述べられている。. 〈キーワード〉 智光明荘厳経、性起経、法身. ( 80 ).
(112)
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