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『 大 東 世 語 』 「 輕 詆 」 篇 注 釈 稿

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(1)

一『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) 〔凡例〕

一、本稿は、服部南郭『大東世語』「輕詆」篇の本文と原注に関する

注釈である。

一、注釈は、早稲田大学大学院教育学研究科二〇一五年度科目「国文

学演習」(堀  誠担当)の受講生(篭尾知佳・奥田惇・永瀬恵子・

山中明・呂天雯・馮超鴻・樋口敦士・高橋憲子・折原佑実)が講

読担当話の発表資料に基づいて原稿化した。

一、底本は、早稲田大学図書館蔵本『大東世語』(寛延三年〈一七五〇〉

刊)に依り、また典拠に関しては同館蔵本『大東世語考』(方寸

菴漆鍋稿、寛延四年〈一七五一〉序)を参考にした。

一、「輕詆」篇の都合十四話を、〔輕詆1〕のように順次表記した。

一、注釈は本文の〔書き下し文〕・〔訳文〕、原注の〔書き下し文〕・〔訳 文〕、および〔語釈〕、〔典拠〕から構成される。

一、〔書き下し文〕は、原則として底本の訓点を尊重しつつ、適宜こ

れを改めた。

〔輕詆1〕

弘仁時。科試對策。國子助敎廣人①與 判焉。高材者。以 文多一レ 纍落 第。時廣人一目眇。高材乃竊詈云。眇博士。豈得 視我文 哉。廣 人聞。便應曰。我眇猶不 卿文 。況於 眇時 哉。

〔書き下し文〕

弘仁の時、科試の對策、國子助敎の廣人  判に與 あづかる。高材といふ者、 文の纍多きを以て落第す。時に廣人  一目眇す。高材乃ち竊かに詈 そし

て云ふ、「眇博士、豈に我が文を明視することを得んや」と。廣人聞

きて、便ち應じて曰く、「我が眇猶ほ卿が文を見るに足らず。況んや 早稲田大学大学院教育学研究科紀要  第二十七号  二○一七年三月

『大東世語』 「輕詆」篇注釈稿

    誠・篭尾   知佳・奥田    惇・永瀬   恵子 山中    明・呂      ・馮    超鴻・樋口   敦士 高橋   憲子・折原   佑実       

(2)

二『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

眇せざる時に於いてをや」と。

〔訳文〕

弘仁の時、官吏登用のための作文試験で、助教の広人はその審査に関

わった。高材という者はその答案に作詩上の欠点が多いため不合格と

なった。その時、広人の片目は見えなかった。そこで、高材はひそか

に罵って言った、「片目が見えない博士がどうして私の作文をはっき

りと見極めることができようか」と。広人は聞きつけるや、「私のす

がめでは、あなたの作文を見るのに十分でない。まして片目でないと

きはなおさらのことでしたよ」と答えた。

〔原注〕

①廣人。博 通經史 。最明 左氏 。兼逹 諸道工技

〔書き下し文〕

①廣人は經史に博通す。最も左氏に明らかなり。兼ねて諸道工技に

逹す。

〔訳文〕

①広人は経書や歴史書の内容に広く通じていた。その中で最も『左

氏伝』に詳しかった。同時に、様々な技芸にも練達していた。

〔語釈〕

弘仁  嵯峨・淳和天皇の時の年号。八一〇〜八二四。

科試  律令制での官吏登用試験。大学・国学の出身者および国司の推

薦する者に対して行う。

對策  律令制での官吏登用試験の方法の一つ。課題に答えて漢文の作 文を提出すること。また、その答案。

國子助敎  大学寮の助教の唐名。助教とは、律令制下の大学寮で博士

を助けて授業や科試にあたった教官のこと。明経科にのみ置か

れ、明経博士を助けることを任とした。博士に次ぐ官。

廣人  未詳。宗人の誤りとする説もある。滋善宗人か。『日本三代実

録』「貞観五年(八六三)正月廿日」の卒伝の中に、大学博士

御船氏主に学び、天長年間(八二四〜八三四)に美作博士にな

り、経学に優れ、承和七年(八四〇)に助教となったことが見

える。

判   科試対策の審査。

纍   わずらい。うれい。瑕。疵。

眇   すがめ。片目がつぶれて見えないこと。

高材  未詳。典拠の『江談抄』では「高村」とする。高村は小野篁と

も考えられる。

明視  明らかに見ること。はっきりと見えること。

卿   対称の代名詞。敬意を含んだ親しい呼び方で、君主が臣下に対

して用いる語。また、男子が同輩や目下の者、妻に対して用い

る語。ここでは、後者。

博通  広く物事に通じていること。

經史  経書と歴史書。

左氏

  『中国十三経では日本、つで一の。春秋左氏伝巻〇三。略称の』、

律令制下の大学寮の学令で教材として定められた大学で学ぶべ

(3)

三『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) き経書の一つ。

諸道  種々の芸道。諸般の技芸。 工技  巧みな技芸。

〔典拠〕

『江談抄』巻第二―第二〇話「助教広人、諸道を兼学し、諸の舞を習ひ、

工巧に長ずる事」。

(篭尾  知佳)

〔輕詆2〕

釋空海書 大內門榜 。後野道風作 語謗 之曰。美福田廣。朱雀飽 米。

〔書き下し文〕

釋空海  大內の門榜に書す。後に野道風  語を作りて之を謗りて曰

く、「美福は田廣し、朱雀は米に飽く」と。

〔訳文〕

空海は内裏の門額を書いた。後に小野道風は次のような言葉を作っ

て、空海の書いた門額を「(美福門の)美福の文字は田の字が広く、(朱

雀門の)朱雀の字は、まるで雀が米で満腹しているようだ」と謗った。

〔語釈〕

空海  七四四〜八三五。俗姓は佐伯。幼名は真魚。諡は弘法大師。延

暦二十三年(八〇四)に最澄と共に渡唐し、大同元年(八〇六)

に帰国後、紀伊国高野山に金剛峯寺を建立し、真言宗の開祖と

なる。博学多能にして、その著書は弘法大師全集に集められて いる。能書家としても知られており、嵯峨天皇・橘逸勢と共に

平安時代初期の三筆と称される。

大內  天皇の御所。内裏。宮城。 門榜  門の名を記した掛札や額などをいう。門牌。 野道風  小野道風。八九四〜九七六。小野篁の孫。かなと漢字を調和

させた和様書道の完成者で、藤原佐理や藤原行成と共に三跡

と称される。後世「道風のふるい筆」と言われるように、晩年

には中風を患ったせいで思うように書が書けなくなっており、

それは空海の書を謗った祟りとも噂される。『本朝文粋』巻第

十三にも、寛弘四年(一〇〇七)に美福門の門額を書き改める

際に、祟りを恐れて祭文を奉った旨が記される。

美福  美福門。平安京大内裏の外郭十二門の一つ。朱雀門の東に、南

面して立つ。道風は、「「福」という字の「田」の部分を大き

く書きすぎていて、バランスが悪い」というように空海の書を

謗った。

朱雀  朱雀門。平安京大内裏の外郭十二門の一つ。大内裏南面の正門

にあたり、朱雀大路から宮城に入る入口。道風は、「「朱雀」の

字が「米雀」の字に見える」というように空海の書を謗った。

〔典拠〕

『古今著聞集』巻第七―第二八七話「能書」「弘法大師等大内十二門の

額を書す事并びに行成美福門の額修飾の事」。

(奥田  惇)

(4)

四『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

〔輕詆3〕

或稱 發昭博學英才 。善相公每相輕侮。便云。可 才。博則吾 不 知。

〔書き下し文〕

或るひと發昭を博學英才と稱す。善相公每 つねに相輕侮す。便ち云ふ、「才

有りと謂ふべし。博は則ち吾知らず」と。

〔訳文〕

ある人が発昭(紀長谷雄)を博学で優れた才能の人であると称賛した。

善相公(三善清行)は、いつも見下しており、「才能があるとはいえ

るが、博学かどうかは私には分からない」と言った。

〔語釈〕

發昭  紀長谷雄。八四五〜九一二。平安時代前期の公卿、漢学者。紀

納言と通称される。字は寛、発昭は唐名にあたる。延喜二年

(九〇二)参議に列し、同十年に権中納言従三位を経て翌年中

納言。『延喜格式』の編纂に加わり、詔勅・公文書も多く起草

した。大蔵善行に詩才を認められ、師事したものの疎んぜられ

るに至った。そのため、その後は菅原道真に師事した。詩集に

『延喜以後詩巻』『紀家集』など。

善相公  三善清行。八四七〜九一八。平安時代前期の漢学者、文章博

士。大学頭を兼任、式部大輔などを経て参議兼宮内卿、従四

位上。文章博士から参議に進んだため、善相公と称される。昌 泰三年(九〇〇)右大臣菅原道真に辞職を勧告、道真左遷後に

『革命勘文』を上奏し、年号は延喜と改められた。延喜十四年

(九一四)には『意見封事十二箇条』を上奏、経史・詩文に通

じており『延喜格式』編纂にも参画した。著書に『藤原保則伝』

など。

輕侮  軽んじあなどること。人を見下してばかにすること。

〔典拠〕

『江談抄』巻第三―第二五話「三善清行の宰相、紀長谷雄と口論する

事」。

『今昔物語集』巻二四「三善清行宰相、与紀長谷雄口論語第二十五」。

(永瀬  恵子)

〔輕詆4〕

釋安海精 台學 。每 豎義 人能屈一レ 之。時慧心源信。檀那覺運。 稱 台門兩輪 。海常曰。慧心淺廣。揭厲可 涉。檀那深狹。不 踰 跨

〔書き下し文〕

釋安海  台學に精し。豎義の每に、人の能く之を屈すること無し。時

に慧心の源信、檀那の覺運、台門の兩輪と稱す。海常に曰く、「慧心

は淺廣なり。揭厲して涉るべし。檀那は深狹なり。踰跨に過ぎず」と。

〔訳文〕

僧安海は天台教学に精通していた。広学豎義のたびに、討論して言い

(5)

五『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) 負かせる者がいなかった。その当時、慧心院の源信と檀那院の覚運は

天台宗の両輪と呼ばれていた。安海がいつも言うには「源信の学問は

浅くて広いので、着物のすそをかかげて渡ることができる。覚運の学

問は深くて狭いので、跨いで越えるにすぎない」と。

〔語釈〕

安海  生没年未詳。平安時代中期の天台宗の僧。比叡山の興良につい

て出家し、横川にあって天台教学を研究した。一〇〇三年、源

信が天台宗義の疑問二十七条を作って宋の四明知礼に送り、そ

の答釈を求めたとき、安海は自分で上・中・下の義釈を作った

が、知礼の答釈はその中と下の義釈を出なかったという。

台學  天台宗に関する学問・教養。天台教学。 豎義  広学豎義。天台宗の法華経講演の討論会。豎は竪と同じ意味

(立つ)を持つ。

源信  九四二〜一〇一七。平安時代中期の天台宗の僧。卜部氏。大和

の人。比叡山の良源に師事。横川の恵心院に住んで修行と著述

に専念し、慧心僧都、横川僧都と呼ばれた。各宗に通じ、「往

生要集」を著わして、のちの浄土教成立の基盤を築き、平安時

代の思想、学芸に深い影響を与えた。

覺運  九五三年〜一〇〇七年。平安時代中期の天台宗の僧。藤原貞雅

の子。京都の人。比叡山の良源に師事。比叡山の東塔南谷の

檀那院に住んで教学を講説したことから、檀那僧都とも呼ばれ

た。かつて良源から真言密教を学ぶように勧告されて、静真や 皇慶に師事した。

台門  天台宗。 揭厲  着物のすそを持ち上げること。『詩経』の「深則厲、浅則掲」

より。

踰跨  またぎ越えること。

〔典拠〕

『元亨釈書』巻第五慧解二の四。

(山中  明)

〔輕詆5〕

或人會 江時棟 。初問 文字 。平範國在 側曰。對 三試及第江學士 。 初問 文字 。何乃癡也。

〔書き下し文〕

或る人  江時棟に會して、初めて文字を問ふ。平範國  側 かたはらに在りて曰

く、「三試及第の江學士に對して、初めて文字を問ふは、何ぞ乃ち癡

なるや」と。

〔訳文〕

ある人が大江時棟に会うと、いきなり文字について尋ねた。平範国は

そばに居合わせて、「三度の課試にも合格した江学士に向かって、い

まさら文字を質問するなんて、どれほど馬鹿なことか」と言った。

〔語釈〕

江時棟  大江時棟。生没年未詳。平安時代中期の文人。大江匡衡の養

(6)

六『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

子。寛弘元年(一〇〇四)に外記となり、安房守、大学頭、河

内守などを歴任した。

文字  言語思想を書き表す記号。ここでは、漢字を言う。 平範國  生没年未詳。平安時代中期の貴族。桓武平氏高棟王流、武蔵

守平行義の子。官位は正四位下、右衛門権佐。日記『範国記』

がある。

三試  大学寮、式部省で行われた課試(試験)であり、寮試、省試、

方略試のことを言うか。平安朝の学制では、大学寮に入学した

学生は、大学寮で行われた寮試を受け、合格すると擬文章生と

なり、擬文章生は式部省で行われた省試(文章生試)を受け、

合格すると文章生となり、文章生は文章得業生に推薦されて、

方略試(対策)を経て、任官される。

學士  学問に従事する者。また、官吏としての文学の士。 癡   おろか。ばか。

〔典拠〕

『古事談』巻第六―三七、四二三「時棟、文字を問はれて答へざる事」。

『十訓抄』一ノ四十九。

〔備考〕

『大東世語』では、大江時棟が課試に三度も合格したと書いてあるが、

典拠『古事談』『十訓抄』では二度としている。

(呂  天雯) 〔輕詆6〕

平範國①。自 甲斐前司 。補 五品郞 。藤右府實資②在 列。非 其 非次 。謂 坐人 曰。充 甲斐前司 者何人③。

〔書き下し文〕

平範國、甲斐の前司自 り、五品郞に補す。藤右府實資  列に在り。其 の非次を非とし、坐人に謂ひて曰く、「甲斐の前司に充 たる者は何人

ぞ」と。

〔訳文〕

平範国は甲斐の前任の国司の職から、五位の蔵人に補任された。右大

臣藤原実資は朝議の列にいた。その順序を無視したことを非難し、同

席の人たちに、「甲斐の前任国司に補充する人物は一体誰が相応しい

か」と揶揄した。

〔原注〕

①武藏守行義之子。右衛門佐。

②小野宮右大臣。

③時宇治相公謂。實資以 大臣 列。嘲 弄朝議 。遣 人勘發

〔書き下し文〕

①武藏守行義の子、右衛門佐なり。

②小野宮右大臣なり。

③時に宇治相公謂へらく、「實資  大臣を以て列に在り、朝議を嘲

弄す」と。人をして勘發せしむ。

(7)

七『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) 〔訳文〕

①武蔵守行義の子であり、右衛門佐である。

②小野宮右大臣である。

③その時、関白頼通は、「実資は大臣の身で列にいながら、朝議を

嘲り弄ぶとは」と思い、人を遣わして譴責させた。

〔語釈〕

平範國

  〔輕詆5〕〔語釈〕「平範國」の条を参照。

五品郞  ここは五位の蔵人を言う。

藤右府實資  藤原実資。九五七〜一〇四六。平安時代中期の公卿、藤

原斉敏の三男。治安元年(一〇二一)右大臣、のち従一位に至

る。著書に『小右記』がある。右府は右大臣の唐名。

非次  順序によらない。順序どおりでない。不次。

行義  平行義。生年未詳〜一〇七三。平親信の子。官位は従四位下、

武蔵守。

右衛門佐  蔵人正五位下右衛門権佐のこと。

宇治相公  藤原頼通。九九二〜一〇七四。藤原道長の長男。治安元年

(一〇二一)従一位、左大臣となり、康平四年(一〇六一)太

政大臣。後一条天皇以後三朝の摂政関白を務める。通称は宇治

殿。相公は参議の唐名。

勘發  落ち度を責め暴く。

〔典拠〕

『江談抄』巻第二―第十二話「小野宮右府、範国が五位の蔵人を嘲け る事」。

〔備考〕

五位の蔵人は、五位の殿上人の中から、家筋がよくて才能が優れた者

を選んで任命するのが一般的である。甲斐の前任の国司であった範国

は、長元九年三月、また後朱雀天皇の治世となった同年四月に、五位

の蔵人となった。

(馮  超鴻)

〔輕詆7〕

藤隆光①。外究 儀禮 。內無 心情 。世目 大法會獅子

〔書き下し文〕

藤隆光  外に儀禮を究め、內に心情無し。世に大法會の獅子と目す。

〔訳文〕

藤原隆光は、見た目は儀礼を極めて威儀を備えるが、内面には風流を

解さなかった。かくて世の人には実の伴わない大法会の獅子と見なさ

れた。

  〔原注〕

  ①中納言爲輔之孫。右衛門佐宣光之子。左京大夫。

  〔書き下し文〕

  ①中納言爲輔の孫にして右衛門佐宣光の子なり。左京大夫なり。

  〔訳文〕

  ①中納言為輔の孫で、右衛門佐宣光の子である。左京大夫である。

(8)

八『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

〔語釈〕

藤隆光  藤原隆光。九七三〜没年未詳。藤原宣孝の子。長保三年

(一〇〇一)蔵人に就任し、皇后大進、左京大夫などを歴任。

紫式部の継子に当たる。

爲輔  藤原為輔。九二〇〜九八六。平安時代の公卿。藤原朝頼の子。

朱雀天皇に仕え、因幡守、尾張守などの地方官を歴任し、正三

位まで昇進した。

宣光  藤原宣孝の誤りか。生年未詳〜一〇〇一。平安時代の貴族。紫

式部の夫。

儀禮  一定の形式に則った儀式、儀礼のこと。また、儒教の経典の一

つで礼について記した書のこと。

大法會獅子  大規模な法会で演じられる獅子舞の獅子のこと。獅子は

威儀を備えるものだが、ここでは実体の伴わない見かけ倒しの

意味を持つ。

〔典拠〕

『江談抄』巻第三―第十九話「藤隆光を称ひて大法会の師子と号くる

事」。

(樋口  敦士)

〔輕詆8〕

藤伯州範永①。平因州棟仲②。源衛尉賴實③。源讚州兼長④。藤京兆

經衡⑤。源筑州賴家⑥。六人一輩。以 詠歌 。竝稱於世。歷年没後。 唯賴家一人尙存。有 爲仲者 。自 奥貽 言賴家 。其意云。諸友多没。

存唯君與 我耳。賴家曰。當時六子之交。未 爲仲 。何輙 强託如 是。不 報。

〔書き下し文〕

藤伯州範永、平因州棟仲、源衛尉賴實、源讚州兼長、藤京兆經衡、源

筑州賴家、六人一輩なり。詠歌を善くするを以て、竝びに世に稱せら

る。歷年して没せし後、唯だ賴家一人尙ほ存す。爲仲なる者有りて、

奥自 り言を賴家に貽 おくる。其の意に云く、「諸友多く没す。存する所は

唯だ君と我とのみ」と。賴家曰く、「當時六子の交、未だ爲仲有るを

聞かず。何ぞ輙 すなはち强託して是 かくの如くなる」と。報 こたへず。

〔訳文〕

伯耆守藤原範永、因幡守平棟仲、佐衛門尉源頼実、讃岐守源兼長、左

京職藤原経衡、筑紫守源頼家は和歌六人党である。歌を詠むことに長

じていることにより、世間に並び称された。年が経ちそれぞれが亡

くなった後も、頼家一人がなお存命であった。為仲という者が、奥州

から便りを頼家に送ってきた。その文面に言うことには、「友がらの

多くは亡くなってしまいました。今生きているのはあなたと私のみで

す」と。頼家が言うには、「当時の六人の交友に、為仲がいると聞い

たことはありません。どうしてこのように無理にこじつけるのでしょ

うか」と。報えはなかった。

〔原注〕

①尾張守仲淸之子。

(9)

九『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) ②安藝守重義之子。

③美濃守賴國之子。

④攝津守道成之子。

⑤中宮大夫公業之子。

⑥攝津守賴光之子。

〔書き下し文〕

①尾張守仲淸の子なり。

②安藝守重義の子なり。

③美濃守賴國の子なり。

④攝津守道成の子なり。

⑤中宮大夫公業の子なり。

⑥攝津守賴光の子なり。

〔訳文〕

①尾張守仲清の子である。

②安芸守重義の子である。

③美濃守頼国の子である。

④摂津守道成の子である。

⑤中宮大夫公業の子である。

⑥摂津守頼光の子である。

〔語釈〕

藤伯州範永  藤原範永。生没年未詳。父は尾張守藤原中清。母は従三

位藤原永頼女。正四位下。蔵人、尾張・但馬・阿波・摂津・伯 耆等の守。和歌六人党の党首。一条天皇御葬送に焼香奉仕(以

上「権記」)。家集に『範永朝臣集』がある。『千載和歌集』、『後

拾遺和歌集』、『新古今和歌集』などに三十首入集。「伯州」は

伯耆国。

平因州棟仲  平棟仲。生没年未詳。父は従四位下平重義。母は藤原高

節の養女となった藤原道隆女という。周防内侍の父。従五位上。

周防・因幡守。和歌六人党の一人。歌合への出詠も知られる。

『後拾遺和歌集』に二首入集。「因州」は因幡国。

源衛尉賴實  源頼 よりざね。一〇一五〜一〇四四。父は美濃守頼国。母は藤

原信理女。頼光の孫。従五位下。蔵人。佐衛門尉。和歌六人党

の一人。歌道執心の説話を伝える。歌合への出詠も知られる。

家集に『頼実集』がある。『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に七

首入集。「衛 尉」は中国秦代の官名。宮門の護衛を掌った。 源讚州兼長  源兼長。生没年未詳。父は備後守道成。母は平親信女。

本名は重成。正五位下、備前・讃岐守、右兵衛佐。和歌六人党

の一人。歌合にも出詠した。能因法師などとの交流が知られる。

『後拾遺和歌集』に五首入集。「讚州」は讃岐国。

藤京兆經衡  藤原経衡。一〇〇五〜一〇七二。父は藤原公業。母は藤

原広業女。正五位下、大和守、甲斐守、大学頭、後三条天皇の

大嘗会和歌作者。和歌六人党の一人。多数の歌合に出詠。家集

に『経衡集』がある。『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に十六首

入集。「京 けいちょう」は左 さきょう京職 しき・右 うきょう京職 しきの唐名。

(10)

一〇『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

源筑州賴家  源頼家。生没年未詳。父は摂津守頼光。従四位下、筑前

守、蔵人。和歌六人党の一人。『後拾遺和歌集』以下の勅撰集

に九首入集。「筑州」は筑紫国。

尾張守仲淸  藤原中清。仲清は諱。生没年未詳。尾張・周防・河内・

備中の守。内匠頭。正四位下。

安藝守重義  平重義。生年未詳〜一〇六一。小栗五郎、常陸真壁郡小

栗郷北頭。

美濃守賴國  源頼国。源頼綱子。本名行光。院蔵人に補す。康平三年

(一〇六〇)以後の出生か。

攝津守道成  源道成。生年未詳〜一〇三六。平安時代中期の官人、歌

人。家集『道成集』。

中宮大夫公業  藤原公 きみなり業。生年未詳〜一〇二八。本名景能。父は藤原

有国。母は越前守斯成女。正五位下。中宮大進。

攝津守賴光  源頼光。九四八〜一〇二一。源満仲の子。摂関家の奉仕

をつとめて源氏の地位の向上をはかり、備前・但馬・美濃な

どの国守を歴任。藤原兼家の二条京極の新邸落成には馬三十頭

を献じ、藤原道長の土御門新邸には所要の家具一切を贈るなど

し、その富裕さで世人を驚かせた。大江山酒呑童子の退治は彼

の武勇伝説の一つ。

歷年  連年。また年を経る。

奥   陸奥。奥州。

貽   おくる。のこす。 强託

  (事実にそむいて)無理にこじつける。

〔典拠〕

『袋草紙』雑談六十六。

『続古事談』巻二―五十一。

(高橋  憲子)

〔輕詆9〕

滋岳川人作 讖曰。貞觀後。公握 衡。壬午歳。聖人生。宇治公子師實。

其年 生。未 弱冠 。旣陞 相位 。人以 讖爲 驗。承保上皇聞

曰。讖已有 言。大水出 平地 九丈。後都無 驗。何必盡信。

〔書き下し文〕

滋岳川人  讖 しんを作りて曰く、「貞觀の後、公  衡を握る。壬午の歳、

聖人生まる」と。宇治公の子師實、其の年を以て生まる。未だ弱冠

ならずして、旣に相位に陞る。人  讖を以て驗ありと爲す。承保上

皇  之を聞きて曰く、「讖已に言ふこと有り、『大水  平地より出づる

こと九丈なり』と。後都 すべて驗無し。何ぞ必ずしも盡 ことごとく信ぜん」と。

〔訳文〕

滋岳川人が予言書を作って言うことには、「貞観の後、宇治公(藤原

頼通)が権勢を握る。壬午の歳に、聖人が生まれる」と。宇治公の子

の師実はその年に生まれた。いまだ二十歳に満たないうちに大臣に昇

格した。世の人は予言書が的中したと考えた。白河上皇がこのことを

聞いておっしゃることには、「予言書には以前『大水が平地から九丈

(11)

一一『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) の高さまで達する』とあったが、その後全く予言に応じた験がない。

どうしてすべてを信じることができようか」と。

〔語釈〕

滋岳川人  平安時代の陰陽師。生年未詳〜八七四。はじめ刀岐直と称

したが、仁寿四年(八五四)滋岳朝臣の氏姓をあたえられた。

のち、陰陽頭、安芸権介などに任命された。著書に『世宇要動

静教』などの著がある。

讖   未来のことを書きしるしたもの。予言書。

貞觀  清和天皇・陽成天皇の時の年号。八五九〜八七七。  握衡

  「目衡握。「とこの」衡玉「の番衡五、でつ一の星七斗北は」」

は国の権勢を握る意。「持衡」と同じ。

壬午歳  貞観年間から起算すれば、貞観四年(八六二)が最初の壬午

の歳で、宇治公の子師実の生年である長久三年も壬午の歳に当

たる。「其年」は師実の生年である長久三年(一〇四二)のこ

とか。

宇治公

  〔輕詆6〕〔語釈〕の「宇治相公」参照。

師實  藤原師実。一〇四二〜一一〇一。藤原頼通の三男。康平三年

(一〇六〇)に内大臣となり、白河天皇の関白などを務め、寛

治二年(一〇八八)太政大臣となった。日記に『京極関白記』

などがある。

相位  宰相。師実が康平三年(一〇六〇)に内大臣、寛治二年

(一〇八八)に太政大臣に就任していることから、ここでは内 大臣を指すか。

承保上皇  白河上皇。在位一〇七二〜一〇八六。後三条天皇第一皇子

で、延久四年(一〇七二)に即位した。堀河天皇に譲位後、院

政を始めた。「承保」は年号で、一〇七四〜一〇七七。

九丈  一尺=二九・七糎で、一丈=十尺なので、二十七メートル前後。

〔典拠〕

『続古事談』巻第五―十八。

(折原  佑実)

〔輕詆

10

諸才子在 播州 。同詠 高砂松樹 。爭 巧苦吟。大宮先生藤義定作出。

殊佳。良暹自負。素輕 大宮 。於 是乃曰。不 圖被 牸牛角觸

〔書き下し文〕

諸才子  播州に在りて、同じく高砂の松樹を詠ず。巧を爭ひて苦吟す。

大宮先 生藤義 のりさだが作出づ。殊に佳なり。良暹自負す。素 もとより大宮を輕んず。是に於いて乃ち曰く、「圖らず牸 ぎゅう角に觸れらる」と。

〔訳文〕

才能のある者たちが播磨の国で、一緒に高砂の松樹を詠じた。巧みさ

を競い、苦心して詠作した。帯刀の長官藤原義定の作が詠みだされた。

ことに優れていた。良暹は自負心が強く、以前から義定を軽視してい

た。そこで、彼は「はからずも牝牛の角に突かれるとは」と言った。

(12)

一二『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

〔語釈〕

才子  才知にすぐれ、頭の働きがすばやい人。

播州  播磨国の略称。現在は兵庫県南部にあたる。

高砂  兵庫県南部の地名。加古川河口の西岸にあり、播磨灘に面する。

    謡曲「高砂」で知られる高砂神社の「相生の松」や曽根天満宮

の「曽根の松」がある。

大宮先生藤義定  藤原義定。生没年未詳。平安後期の官人。藤原定通

の子。応徳二年(一〇八五)に正六位上、壱岐守。「大宮」は

不詳。「先生」は東宮の警護にあたる帯刀の長官。

良暹  生没年未詳。平安時代後朱雀・後冷泉両朝(一〇三六〜

一〇六八)頃の歌人。比叡山の僧で、祇園別当となり、後に大

原に隠棲した。橘俊綱家の歌会などに多く参加していた。私撰

集『良暹打聞』を編み、家集も存在したが、いずれも現存しな

い。『後拾遺集』以下の勅撰集に三十一首入集。

牸牛角觸  牸牛は雌牛。雌牛の角が後ろに曲がっているという。ここ

では、雌牛に腹をつかれることで、専門な歌人が意外に素人に

詠み任されたことを譬えていう。 〔典拠〕

『十訓抄』三ノ四。

『古今著聞集』巻第五―第一八五話「田舎上りの兵士の水上月の秀歌

を詠ずる事並びに大宮先生義定が秀歌の事」。

(呂  天雯) 〔輕詆

11

藤信賴舉 兵後。除目調選。多用 私人 。藤伊通①曰。䧟井亦已多殺人。何以不 官。

〔書き下し文〕

藤信賴  兵を舉げし後、除 もく調選せられ、多く私人を用ふ。藤伊 これみち

く、「䧟井も亦た已に多く人を殺す。何を以て官と作 らざるや」と。

〔訳文〕

藤原信頼は挙兵した後、除目の人選で、家臣を多く用いた。藤原伊通

は、「かの三条殿の井戸もまた多くの人を殺した。どうして官吏に選

ばれないのか」と言った。

  〔原注〕

  ①右府俊家之孫。大納言宗通之子。官至相國。

  〔書き下し文〕

  ①右府俊家の孫なり。大納言宗通の子なり。官は相國に至る。

  〔訳文〕

  ①右大臣藤原俊家の孫であり、大納言藤原宗通の子である。官位は

太政大臣に達した。

〔語釈〕

藤信賴  藤原信頼。一一三二〜一一五九。『尊卑分脈』によれば中関

白道隆八世の子孫で、父は大蔵卿忠隆。母は民部卿顕頼女。後

(13)

一三『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) 白河院の寵臣として権力を振るうが、平治の乱で平重盛、頼盛

らに討たれる。『公卿補任』によれば、保元三年(一一五八)

二月に参議に任ぜられる。平治元年(一一五九)には権中納言

正三位で、右衛門督、中宮権大夫を兼ね二十七歳で没した。

除目  朝廷の儀式で大臣以外の官を任命する行事。

調選  選抜されて栄転すること。

私人  めしつかい。私家僕隷の属をいう。家臣。

䧟井

  (時押が勢軍の朝義・頼信、の人乱の治平。戸井たち陥)がし

寄せた後白河院の御所三条殿の井のこと。火を避けて大勢の

人々が飛び込み、死者が多く出た。(『古活字本  平治物語』巻

上「三条殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事」を参照。)

作官  官吏となる。

藤伊通  藤原伊通。一〇九三〜一一六五。中御門流権大納言藤原宗通

の次男。藤原道長は高祖父にあたる。『公卿補任』によれば、

保安三年(一一二二)参議に任ぜられる。平治二年(一一六〇)、

六十八歳の時太政大臣に任ぜられる。

右府  右大臣の唐名。

俊家  藤原俊家。一〇一九〜一〇八二。藤原頼宗の男。母は、内大

臣藤原伊周の女。頭・検別当・大蔵卿・民部卿・左衛門督・

按察使・右大臣。正二位。『公卿補任』によれば、永保二年

(一〇八二)十月二日に、病により出家し、同日薨じた。

大納言宗通  藤原宗通。一〇七一〜一一二〇。藤原北家、右大臣・ 藤原俊家の子。『公卿補任』によれば、寛治八年(一〇九四)

に参議に任ぜられる。永久三年(一一一五)から保安元年

(一一二〇)七月二十二日の薨(『中右記』同日条)までの五年

間民部卿であった。白河院の近臣として権勢を振るった。

相國  太政大臣・左大臣・右大臣の唐名。

〔典拠〕

『今鏡』「ふじなみの下」第六。

『古活字本  平治物語』巻上

  「信西の子息闕官の事付けたり除目の事

并びに悪源太上洛の事」・「三条殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ

事」。

(高橋  憲子)

〔輕詆

12

京極藤黃門①。奉 勅采 選歌集 ②。時乞 入選 者。競携 其雋 而至。

竝以爲極 意自擇。黃門受而開 之。都不 佳。乃擲返曰。諸君妙選。

乃盡 於此 耶。願得 其除 却塵垢 而讀 之。

〔書き下し文〕

京極藤黃門、勅を奉じて歌集を采選す。時に入選を乞ふ者、競ひて其

の雋を携へて至り、竝びに以爲らく「意を極めて自ら擇ぶ」と。黃門

受けて之を開く。都 すべて佳 ならず。乃ち擲 なげうち返して曰く、「諸君の妙選、

乃ち此に盡くるか。願はくは其の塵垢を除却せし嚢を得て、之を讀ま

ん」と。

(14)

一四『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

〔訳文〕

藤原定家は、勅命を受けて歌集を編纂した。その時、歌集への入集を

乞う者が、我先にとその秀作を携えて定家の家に来た。「みな自信を

持って自ら選びぬいた秀作である」と思っていた。定家は受け取って、

開けて見ると、どれも佳作ではなかった。そこで、定家が擲ち返して

言うことには、「あなたたちの自選の秀作は、この程度のものですか。

その駄作を取り除けた歌の袋を手に入れて、読みたいと思います」と。

〔原注〕

①中納言定家。

②新勅撰集。

〔書き下し文〕

①中納言定家なり。

②新勅撰集なり。

〔訳文〕

①中納言定家である。

②新勅撰和歌集である。

〔語釈〕

京極藤黃門  藤原定家。一一六二〜一二四一。藤原俊成の次男。『新

古今和歌集』、『新勅撰和歌集』といった勅撰和歌集や、『小倉

百人一首』を撰した歌人。『定家八代抄』、『拾遺愚草』といっ

た歌集の他に、『毎月抄』、『近代秀歌』、『詠歌大概』といった

歌論書も著した。 歌集  ここでは『新勅撰和歌集』のことを指す。貞永元年(一二三二)

に後堀河天皇の下命を受け、藤原定家が編纂を行った。藤原定

家の日記『明月記』には、『新勅撰和歌集』の編纂に際して、

多くの入集希望者と面会したことが記述されている。

雋   優れたもの。 妙選  精しくえらぶこと。 除却塵垢囊  塵垢囊は塵垢を入れた袋。晋の支遁が王坦之を嘲った 語。『世説新語』輕詆篇に「王中郞與 林公 絕不 相得 、王 謂 林公詭辯 、林公道 王云、著 膩顏帢榻布單衣 、挾 左傳 、 逐 鄭康成車後 、問、是何物、塵垢囊。」とある。これにあや

かってここでは、塵垢を除却した囊のことをいう。

〔典拠〕

未詳。

〔備考〕

『明月記』『江談抄』『古事談』『古今著聞集』等に典拠となるような話

は見当たらない。

(奥田  惇)

〔輕詆

13

〕 典藥敦重。候 上皇御膳 。乃謂 傍人 曰。今所 供羞品。若有 詔問 。 暗證 本艸 。口對無 遺。會六條內府①至。聞 此向 敦重 曰。吾願 有 問。今正索 鹽字 。不 知在 何扁 。敦重曰。在 土扁 。內府曰。

(15)

一五『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) 才限已見。他不 必問

〔書き下し文〕

典藥の敦重、上皇の御膳に候す。乃ち傍人に謂ひて曰く、「今供する

所の羞品、若し詔問有らば、暗 ひそかに本艸を證して、口對遺 のこすこと無から

ん」と。會 たまたま六條內府至る。此れを聞きて敦重に向ひて曰く、「吾

願はくは問ふ有り。今正に鹽の字を索 もとむ。知らず何扁に在らん」と。

敦重曰く、「土扁に在り」と。內府曰く、「才限已に見 あらはる。他は必ずし

も問はず」と。

〔訳文〕

典薬頭である和気篤成が、後宇多上皇の御膳の場に伺候した。そこで

傍にいる人に「今お出しするお召し上がりものについて、もしお尋ね

になりたいことがあれば、そらで本草を調べあげ、口頭であまさず申

しあげましょう」と言った。ちょうどそこに六条内府がお見えになっ

た。内府は篤成の話を聞くと、「私はぜひお尋ねしたいことがありま

す。今まさに『鹽』の字を探しています。いったい何偏なのでしょう

か」と篤成に尋ねた。篤成は「土偏にございます」と応えた。内府は

「学才のほどがこれで分かった。これ以上のことは問うまでもない」

と言った。

〔原注〕

①有房。左中將有通之子。官至 內大臣

〔書き下し文〕

①有房なり。左中將  有通の子なり。官は內大臣に至る。 〔訳文〕

①有房である。左中将の有通の子であり、官位は内大臣に達した。

〔語釈〕

典藥

  「典薬頭」の略。典薬寮の長官。くすりのかみ。

敦重  和気篤成。生没年不詳。典薬頭。大膳大夫。永仁元年(一二九三)

宇佐使を勤め、元亨二年(一三二二)典薬頭、大膳大夫になっ

たとされる。

上皇  後宇多上皇。一二六七〜一三二四。第九十一代天皇。先代・亀

山天皇の第二皇子、母は京極院・藤原佶子。父の譲位をうけて

八歳で即位、二十一歳で伏見天皇に譲位した後、皇子の後二条

天皇を即位させてからは院政を行った。学問に通じ、仏道修行

に熱心であった。日記に『後宇多天皇宸記』がある。

羞品  お召し上がりもの。勧めもの。羞はすすめ、供える意。

詔問  有識者などに対して、ある問題についての見解や意見を求める

こと。

本艸

  「学学草本。「とこの物書の」草本本「はでここ。略の」学草」

は薬用植物を中心に、自然物についての知識を必要とする中国

古来の薬物学。

口對  自分自身のことばで応対すること。

六條內府  六条有房。一二五一〜一三一九。鎌倉時代の公卿・歌人。

父は六条通有、母は藤原清定女。姓は千草とも称した。延慶元

年(一三〇八)権大納言、文保二年(一三一八)従一位、元応

(16)

一六『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原)

元年(一三一九)内大臣。二条派の歌学を学び、『新後撰和歌集』

をはじめとする勅撰集に多くの歌が入集した。「内府」は内大

臣の唐名。

鹽   「塩」の別体字。一般に「塩」は「鹽」の俗字とされているが、

本草書である『本草和名』や『医心方』では「塩」の字のみ

が使用されている。内府は最初から篤成を陥れるために偏を尋

ね、俗字であるとされる「塩」の偏を答えるものと予想してい

たと考えられる。

才限  学問や学識の限り。程度。

〔典拠〕

『徒然草』第一三六段。

(永瀬  恵子)

〔輕詆

14

〕 鎌倉中書王①蹴鞠會。雨場未 乾。俄而佐隱州車 載鋸屑 之。乃 撒 場。得 濕妨 。後或憶 陶侃事 。賞 其有一レ 幹。吉田黃門②曰。 故事有 乾沙 。鋸屑之陋。何必嗟賞。

〔書き下し文〕

鎌倉中書王  蹴鞠の會、雨場未だ乾かず。俄にして佐隱州  鋸屑を車

載して之を進む。乃ち場に撒じて、濕妨無きことを得たり。後に或

るひと陶侃が事を憶ふ。其の幹有ることを賞す。吉田黃門曰く、「故

事  乾沙を儲 たくはふること有り。鋸屑の陋、何ぞ必しも嗟賞せん」と。 〔訳文〕

鎌倉中書王(宗尊親王)が蹴鞠の会に臨んだ際、雨に濡れた鞠 まりつぼはま だ乾いていなかった。やがて佐々木隠岐入道は大 鋸屑を車で運び込ん

だ。それを地面に撒布したところ、ぬかるみの支障はなくなった。後

にある人は陶侃の故事を思い出し、入道の才能を賞した。吉田中納言

は「このような場合には、故実には乾いた砂を備えるとある。大鋸屑

のような下卑たものを用いてどうして褒め称えることがあろうか」と

批判した。

〔原注〕

①寛元帝子。名宗尊。中務卿。以 征夷大將軍 。出 鎭鎌倉府

②藤房。

〔書き下し文〕

①寛元帝の子にして、名は宗尊なり。中務卿にして、征夷大將軍を

以て、鎌倉府に出鎭す。

②藤房なり。

〔訳文〕

①寛元帝(後嵯峨天皇)の子で、名は宗尊である。中務卿で征夷大

将軍に任ぜられ鎌倉幕府を治めた。

②藤房である。

〔語釈〕

鎌倉中書王  宗尊親王。一二四二〜一二七四。鎌倉幕府六代将軍。後

嵯峨天皇の皇子。中務卿にもなったため、「中書王」とも呼ば

(17)

一七『大東世語』「輕詆」篇注釈稿(堀・篭尾・奥田・永瀬・山中・呂・馮・樋口・高橋・折原) れる(「中書」は「中務省」の唐名)。鎌倉幕府初めての皇族将

軍であったが、北条氏より危険視され、文永三年(一二六六)

には京都に帰された。

寛元帝  後嵯峨天皇。一二二〇〜一二七二。父土御門上皇が承久の乱

に加担したため、幕府から睨まれることとなる。在位四年の後、

後深草天皇に譲位した。後深草、亀山二代の間の院政を行った。

亀山天皇を溺愛し、その子世仁親王(後宇多天皇)を皇位に就

けたため、持明院統、大覚寺統の両統迭立のきっかけとなった。

なお、「寛元」は後嵯峨・後深草天皇時代の年号。一二四三〜

一二四七。

中務卿  中務省の長官。四品以上の親王が任命された。 佐隱州  佐々木政義。一二〇八〜一二九〇。佐々木義清の子で「宇治川

の先陣争い」で有名な高綱の甥。法名は真願。鎌倉幕府の近習。

車載  車に人や物を載せること。 鋸屑  おがくず。 陶侃事  陶侃、二五九〜三三四。東晋の武将。もともと貧しかったが、

張昌、徐敏、蘇峻などを討伐した功績により、大将軍に拝せら

れた。陶淵明の曾祖父とされる。『晋書』「陶侃伝」には「時

船、木屑及竹頭悉令 擧掌一レ 之、咸不 所以 。後正會、 積雪始晴、聽事前餘雪猶濕。於 是以 屑布 地。及 桓溫伐一レ 蜀、 又以 侃所 貯竹頭 丁裝 船。其綜理微密、皆此類也(時に

船を造り、木屑及び竹頭悉 ことごとく擧げて之を掌 つかさどらしむ。咸 みな  所以 を解せず。後に正會、積雪始めて晴れ、聽事の前の餘雪猶ほ濕

る。是に於いて屑を以て地に布 く。桓溫の蜀を伐つに及び、又 侃の貯ふる所の竹頭を以て丁 くぎを作り船に裝 よそふ。其の綜理微密な

ること、皆此の類なり」とあり、陶侃が雪の上に大鋸屑を蒔い

たり、竹の切れ端で釘を作ったりした故事はよく知られる。『世

説新語』政事篇にも見える。

幹   腕前、才能。 吉田黃門  未詳。藤原冬方、藤房、冬房、定資等諸説がある。近年、

小川剛生は『為房卿記』の記述を引きながら「甘露寺隆長」で

あると推測している(『新版徒然草(角川ソフィア文庫)』)。

故事  昔からのしきたり、故実のこと。なお、「乾き砂」については

万寿二年(一〇二五)正月、皇太后妍子(三条天皇后)による

大饗の際に南庭に撒かれた記事がある(『栄花物語』巻二十四

「わかばえ」、『左経記』「万寿二年正月二十二日」)。

儲   蓄える、備える。利益を得る意の「もうける」は国訓である。 陋   狭い、低い、賤しい。 嗟賞  感心してほめる。ほめそやす。

〔典拠〕

『徒然草』百七十七段。

〔備考〕

典拠の『徒然草』には「陶侃」の逸話の記載はない。

(樋口  敦士)

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