相 対 的 安 定 期 に お け る イ ギ リ ス 労 働 党 の 政 策 構 想
犬
立 里
一」冒¶←一扁
男
はじめに
ノロマルシイ一般に・小選挙区単記投票制に最適のものとみなされている二大政党制を正常型とするイギリスの政治体制は︑周
知のとおり・しばしば西欧型の議会制民主主義の引照基準とされるものであるが︑第茨大戦後の戦間期にかつてな
い重大な挑戦に直面した︒その一つは︑二大政党制の崩壊状況であった︒既成の二大政党の一つであった自由党が︑
もはや改革政党としてのプログラム構築力を喪失し︑かつまた指導者間の不和.分裂の連続によって没落過程にあっ
たのに対して・一九一八年に機構改革と社会主義的綱領の採択によって全国的機構とナショナルな政策を有する近代
的政党となった労働党は︑急速な上昇過程にあった︒労働党は︑一九二四年と一九二九〜三一年に政権の地位につい
ていたが・未だ下院で過半数の議席を制しえず︑自由党の支持を必要としたのである︒かくて︑二大政党制が崩れ︑
多党制・厳密に言うと三党制三冨詳圃ωヨΦの状況を迎えたからである︒さらにもう一つは︑園家の構成原理たる議
会制民主主義への社会の底辺からの挑戦であった︒それは︑大戦直後に︑サンディカリズムや共産主義による反議会
相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想二一
神奈川法学二二
主義としての︿直接行動﹀思想が︑狭義の労働運動富びo母目o<ΦヨΦ葺において主導的なものとなり︑一九二六年
のゼネストにまで至ったことに端的にあらわれている︒そこには︑大戦後におけるイギリスの経済的条件の悪化︑国
際的不安定︑ロシア革命等が影響を及したことは言うまでもない︒
だが︑長期的視座でみると︑イギリスの政治体制は︑例外なくこの時期においても︑破綻または大きな制度的変更
を来たすことなく︑変動する状況に対する適応力の効能を発揮した︒そして︑次第に三党制から二大政党制への収敷
傾向を強め︑議会制民主主義の権威を回復して行った︒この政治過程において︑労働者階級を中心とする国民各層を
統合した労働党は︑極めて重要な役割を担ったとみられるのである︒第一次政権とゼネストの試錬をへて労働党は︑
プログラム政権の地位についたとぎの政策要綱としての綱領の作成を中心に次の政権担当に備えたが︑この四年半にわたる野
党期における同党の綱領作成は︑党指導部︑独立労働党(厨瓜8①巳Φ馨冒σ︒霞℃霞叶団)の政策委員︑TUC(日話絶C三8
6︒躍﹃霧ω)幹部などの共同作業によって成遂げられたのである︒この綱領形成過程でマクドナルドQ餌日窃審8ω契
竃霧o︒舜置)を頂点とする︑この国の代表的リーダーシップに属する漸進派社会主義者の党内指導権が確立したので
あるが︑おそらく︑こうした政・策作成過程を背景とするリーダーシップ確立過程が︑二十年代後半期の労働党に一九
ヴアイタリテイニ九年総選挙で驚異的な躍進をなさしめた活力を供給したのであろう︒この選挙で同党は︑三七・一%の得票率
で六一五議席中二八八議席をえ︑前回を一三七議席上回り︑下院における相対的多数派として第一党の座をしめ︑マ
クドナルドの下に第二次政権を担当するのである︒さらにまた︑労働党がこうした上昇傾向をみずから作り出したこ
とが︑ゼネストで挫折した労働運動を︑アングロ・サクソン的意味の政治参加を契機とする政治的労働運動に転換せ
しめた無視することのできない要因であったとみられるのである︒
以上に述べたような問題関心から︑本︑稿では︑先ず︑相対的安定期におけるイギリスの国内政治状況とこの国をと
りまく国際政治状況が明らかにされ︑次に︑労働党の内政綱領と外交綱領の形成過程が浮彫りにされよう︒そして︑
その政策構想における問題点が探られう﹂とになろう︒言うまでもなく︑この野党理練り上げられた労働党の政策
懲は・第二次内閣の政鴇想および政策の鯖と深い連関隻有するものであり︑とりわけ︑三+年代初期の危機
的状況下における労働党の政策構想と比較し︑第二次内閣の挫折に至る政治過程を分析するための出発点となりうる
ものである︒
ところで・二+年代後半の野党期における労働党ξいては︑イずス史学界においても最近峯︑充分に研究され
なかった・それは・この時禦史家の関心を集中せしめるゼネストを挾むことにもよるであろう︒また︑左派の中心
であったILPが党主流派との対立を深め︑一九三二年には労働党から離脱したことによるILP末期に対する史家
の関心の薄乏もよるであろう・それゆを︑二+年代の綱領作成過程霊LPが果した役割は不当に低く評価され
て来たが・最近ではギ三謡﹄・ Φ)らの騒を通じてそれが再評価されつつある︒
なお・森の以下の部盆︑萎が昭和四+二窪東京大学に提出した学位論文の篁章と第二章から肇んD)再
構成したものであり・そのため采文の可成りの部分と註の大部分は省略されている.﹂とを.﹂.﹂で断っておきたい︒
(︑)g霧﹄︒器ρ饗繭三冨︒Φ葺ρ↓芭づ書昌良Φ三霧・霞霊曙μ・.ゆ望ド︒お蓬唱舞︒為ゴ①ピ①{;繭コ・︒
︒℃量§量曇冨閃一匿穿︒ピ§霞︒︒<Φ§Φ・櫛㌔鋤﹁奮Φ昌梓欝﹃三諏・︒一﹃・︒・<︒⊇塁乞︒.に.
(2)筆者の学位論文を葦修正した原論文は︑=九三一年危讐至るイギリス労働党‑政策作成者の状況認識と構造認識
を中心として﹂という題目で﹁国家学会雑誌﹂第八±巻竿丁+二旦り︑同第八+二巻第三.四.涯発表されている︒
相対的安定期におけるイずス労働党の政策構想二三
神奈川法学二四
国 内 政 治 状 況
ヨーロッパ諸国は︑ドーズ案およびロカルノ条約を契機にして戦後不安定から脱出し︑大恐慌に入るまで相対的安
ノセマルシイ定の状況にあった︒これは︑国内.国際関係における正常への復帰を意昧するが︑イギリスでは一般に戦前型の回
復がノーマルシイとされており︑保守党安定内閣が成立した一九二四年一一月︑シティが国際金融の中枢的機能を回
復した金本位制に復帰する二五年五月がその指標とされている︒しかし︑イギリスが事実上の内政的安定を迎えるの
は一九二六年のゼネストを経過してからであった︒大戦直前にも﹁産業不安﹂は発生していたが・大戦直後からゼネ
ストまで労働問題は重大な国内緊張を生み出していたからである︒しかしこの国内緊張は︑ゼネストにおける裸わな
階級対立が最小限に抑えられて闘争が収束されて以来︑著しく緩和した︒そして︑中庸を尊重するボールドウィン首
相の保守党における権力の座が安定し︑一方︑﹁陛下の反対党﹂である労働党では︑その第一次内閣の崩壊直後に動
揺を見せたマクドナルドのリーダーシップが再び確立した︒
こうした権力状況が︑体制的安定化を促した重要な政治的要因であった︒またゼネストの敗北の教訓から労働運動
が︑E.ベヴィンの指導下に︑政党︑議会︑政府という政治制度による目標価値の実現を図る政治的労働運動へ方向
転換したことも安定化に寄与した︒さらに古仏た︑かかる状況の背景として︑構造変化過程にあったイギリス経済にお
ける成長側面が無視しえぬ影響を及ぼしている︒
イギリス労働党が始めて政権の座に上った一九二四年は︑短期的にみれば政治体制にとって不安定を意味したけれ
ども・長期的にみると労働運動の体制化が進められた年であった︒それは議会労働党(℃四同臨鋤ヨ・コ梓餌殴鴇け菩︒¢.℃・︒畦ε
が統治術を見習い︑少数派内閣であったにせよ︑とくに外交において予期以上の実績をあげたことによる︒だが︑労
働組合運動のリーダーのなかには︑一九二一年以来争議が交渉によって解決される傾向にあったとはいえ︑ゼネスト
を究極兵器とみなす裸わな階級闘争観をもつ者が少くなかった︒また資本の側にもそれへの対決意識があった︒一
方︑保守︑自由両党の指導者間では﹁権力なき﹂労働党内閣を生み出した不安定な政治状況のなかで権力をめぐる陰
謀もなされていた︒その中心人物はロイド・ジョ!ジであった︒権力を渇望していた彼は労働党内閣の対ソ外交に対
(1)する態度を一変し総選挙に政府を追い込み同内閣を葬むった︒こうして一九二三年十二月総選挙以来一年も経過せず
して十月に総選挙が行なわれた︑この最中に贋造物として知られる﹁ジノヴィエフ書簡﹂が公表され︑それが争点
となり労働党は四二議席を失い︑自由党は凋落し︑そして保守党が四一九議席をとった︒このように︑選挙政治から
みても戦後イギリスの政治体制は一九二四年まで正常の状態にはなかった︒連立政権崩壌後二年間に三回総選挙があ
り︑保守←労働←保守と政権交替が行なわれたが︑いずれも有権者の多数の支持を得ない三八︒二%←三〇.五%←
四 八 三 % と い う 得 舞 で 権 力 の 地 位 ξ い た ・ 労 働 党 は 下 院 総 議 席 の 三 分 の 匠 も 達 せ ぬ 少 数 党 で あ っ た が ︑ 畠
党の支持で内閣を担当したのである︒
一九二四年総選挙の結果︑第二次ボールドウィン内閣が発足した︒その政治課題は︑国内緊張を和らげ体制的安定
を造出することにあった︒この内閣は不安定な状況下に成立したが︑入閣歴を有する有能でかつ威厳ある政治家から
なる内閣であったので安定政権というイメージで国民に迎えられた︒しかもボールドウィソ(ω冨三醸じu巴山≦ヨ)や保健
相チェソバリン(﹀同9霞劉9凸O冨ヨげ醇一巴類)は︑逆境におかれた個人や産業を国家が干渉して救済し︑社会的進歩を
相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想二五
神奈川法学二六
図るといったトーリー・デモクラシーを受継ぐトーリー・ソーシアリズムを志向する近代保守主義の思想をもった進
(3)歩派の政治家であった︒こうした思想は︑マクドナルドら漸進的社会主義者と共通するものであった︒それによって
(4)保守・労働両党指導岩間の合意による政治の時代︑即ち︑ボールドウィンーーマクドナルド時代が到来した︒
だが︑国際的安定化が一般的に感知されていた一九二五〜六年にイギリスはまだ安定を迎えていなかった︒この間
には︑主要産業の不況と大量失業︑そして労資関係の険悪化という深刻な問題があった︒一九二五年五月︑イギリス
は旧交換率のまま金本位制に復帰したが︑この交換率は一〇%めポンド高となり︑そのためイギリスの国際競争力は
著しく減退した︒同時にまたルール占領解除によるドイッ経済復興により石炭産業をはじめ主要輸出産業が打撃を蒙
った︒そこで資本が導入した政策は︑生産費切下げによる﹁産業合理化﹂であった︒﹁産業合理化﹂の本来の意味は︑
科学的諸原理の産業組織への適用による生産過程の刷新であり︑二十年代のアメリカ産業をそのモデルとしている︒
だが︑この新資本主義の象徴は︑労働者の生活と労働条件の改善に直結しなかった︒とくにイギリスでは︑高度機械
化による近代化としてよりもむしろ賃金切下げ︑労働時間延長などによる生産費切下げが﹁合理化﹂の主たる側面で
(5)あった︒
一九二五年六月三〇日︑英炭鉱協会は︑同年八月以降の労資協定策として大幅な賃率引下げと労働時間延長を英炭
鉱労働組合に提案した︒しかし︑後者はこれを峻拒し︑前者はその合理化案に固執したので石炭産業における労資関
係は著しく険悪化した︒労炭を支援するTUC総評議会は︑合同機械工組合のスワルズ(︾.ゆ鱒ω芝"一〇ω)や全国合同家
具労組出身の下院議員パァセル(︾書︾■]℃口同OΦ一一)など左翼的リーダーの指導下にあり︑一九二一年に挫折した三角同
盟(↓.一且.≧一陣9ロ︒︒)に代る産業同盟(一コ含のけ.陣餌一≧謡・︒コ︒Φ)を組織し︑炭労への集中的資本攻勢を全労働への攻撃とし
て ゼ ネ ス ト で 対 決 す る 体 製 作 っ た ・ だ が ︑ 資 本 陣 営 は 委 こ れ に 対 決 し う る 体 制 に は な か っ た ︒ そ こ で 政 府 が 介 入
し ・ 石 炭 産 業 に 対 し 翠 吾 百 ま で 賃 下 げ 芝 相 当 す る 補 助 金 を 供 与 し ︑ か つ 圭 鍵 委 墾 儀 け る と い う 決 定
を七月三百に行ない・ゼネストが回避された︑この扉決Lは︑労働側において︿黒い金曜日﹀の汚名を濯いだ
く葎癒げと呼ばれ・ゼネス恵想をさらに普及した︒芳︑桑陣営には︑ゼネスあ威嚇に屈した屈辱感と
体制的危鑛が滋り・政府は・蔵相チャふル(≦帥曇・鼻ψ︒ゴ蟷・︒﹃芭の下に・MS(︒.‑q僻コ圃.餌二︒誹囲︒﹃齢げ①寓餌一昌門①昌‑
⇔§︒h︒・ξ景)を組織し・来たるゼネ条に万全の備えをしいた︒この組織は自発的志願者からなる食糧などの補
給機関であり︑約十万人が参加したという︒
さて・石炭問題王立調査委員会皆由党のサ・・ユエル(口Φ噌げΦ﹃酔︼﹁.mWPヨ¢Φ一)を議長として発足し︑一九二六年三月
一〇日墾呈髪公表した・﹁サ・三エル奮会報告﹂は纂引下げや補助金打切りの必覆は認めたが︑労働時間延
長には反対した・そして・石炭産業の効率化のため髭区肇国有化と.あ肇の全面的再編成を禦︑した︒.︑の石
炭産業近代化案は・専門家による科学的な調査塞ついていただけに︑ベヴィソをはじめ労働側には︑.航.﹂そ真の
問 題 解 決 の 方 向 と 考 え た 者 が 少 な く な か 導 し か し な が ら ︑ 貧 欲 か つ 保 守 的 震 鉱 栞 家 濃 ︑ .﹂ の 再 編 懲 で さ
えも絶対に受け入れようとはしなかった︒炭労もまた一べ〒の賃下げも認めない能心度をとった︒.﹂うして岬サ︑︑︑ユ
エル委報告﹂は平和的解決の基健な急なかつ麓か毛褒補助金が期限切れになり︑ゼネスあ危機が迫った
とき・政府は交渉にょる解決を求める総評議会を無視し︑力の対決を選択した︒.﹂うして五月三口から九晶にわた
り全国を混乱状態に陥し入れたゼネ条が発生した︒支配層は︑・イド・ジ.‑ジを例外として︑.﹂れを立憲国窪
対する挑戦︑革命という危機イメージで迎え︑統一して闘うのである︒
相対的安定期におけるイギリス嵩党の政策構想二七
神奈︑川法学二八
それでは︑労働陣営はぎ対応したか︒労働者階級は︑底辺の.澁.動.霧.風.を中心にして驚くべ蓬帯性と戦闘
性を発揮した,それが︑ゼネスト突入後︑最初の四八時間に鉄道・バス・電車・地下鉄・船舶などの運輸機能を全国的
に殆んど完全に停止させ︑OMSで対抗できると読んでいた政府の計画を挫折せしめた︒彼等の連帯性と戦闘性は最
後まで崩れなかった︒総評議会がゼネスト中止指令を発した二四時間後には︑その指令時よりも十万人も多くの労働
者がストライキに入っていた︒それは指導部への批判と憤激の意思表示でもあった︒しかしながら︑その指導部には
最 初 か ら 致 命 禦 意 見 の 相 違 が あ っ た ︒ 総 評 議 会 は ︑ P L P . 葎 脇 . の 天 で ゼ ネ ス 虞 対 論 毒 あ る 禽 鉄 薪 合
のトマス(﹄・工.ρ︑びO一昌簿ω)︑ゼネストを革命的闘争とみなした炭労書記長クック(﹀■旨9&︑そして中間的なべヴィ
ンや電気労組のシトリーン(〜<︒ζ,∩嵩什﹃一口O)の二派で構成されており︑その指導権は︑一九二五年九月のTUCスカ
ーバラ大会以来︑左翼︑から中道左派たるベヴィンらの手に移っていた︒従って︑総評議会のゼネスト指導は︑最初か
ら勝利の展望なきものであった︒サイモンズ(偏島き身ヨ8ω)によれば︑総評議会は︑第一に明らかに政治ストであ
るゼネストを政治ストでない全国ストであるという見解を示し︑闘争の性格を曖昧なものにした︒そこから政治的対
立を怖れ︑ストライキ参加者に警官チームとのフットボール・ゲームを奨励する指示もなされたのであり・通信およ
び鉄鋼部門にストライキを拡大する戦術を決定できなかった︒また︑ゼネストが効力をもつとみなされた鉄道・バス
.地下鉄.電車による運輸機能の完全麻辣戦術は︑突入後四八時間を経て政府の訴えに応じた中産階級︑大学生等の
市民義勇隊やOMSによって︑また交通革命による自動車の普及により次第に効力を喪失するが︑総評議会はこれに
対応する戦術決定を全くなしえなかった︒かくて総評議会は︑敗るべくして無条件降伏するに至っ(麗︒
ところで︑﹁二つの国民﹂の対決の場においては︑ボールドウィンのような政治的人格が支配的地位をしめていた
ということは重要な意味を有する︒一例をあげると︑保守党内閣には︑ボ!ルドウィンに代表される中庸派とチャー
チルに代表される強硬派︑即ち対決派があった︒ゼネストの最中に後者は軍隊の介入を迫ったが︑ボールドウィンが
これに反対して塑たの募4若し重﹂のと叢隊が動H員され・大弾圧が行なわれたとすれば・おそらく器的情
勢が発生したであろう︒たとえ短期間でゼネストが鎮圧されようとも︑イギリス政治社会の構造は︑そのためかつて
ない深傷を負ったであろう︒
ゼネストの結果︑労資共に大なる痛手を蒙り︑甚大な国家的損失を出した︒なかでもTUCは︑資本陣営が報復措
置として行なったゼネスト参加者に対する解雇や賃下げ︑ストライキ基金の流出等によって大ぎな犠牲を払った︒炭
鉱労働者はこの年の末までストライキを続けたが︑それはもはや絶望的闘争であった︒資本および国家の損失として
は︑輸出が前年度より一億五千万ポンド減少し︑ゼネスト前に百万を割っていた失業者が急増して六月に一七五万︑
九月に一六五万となったことなどがあげられる︒
このように︑ゼネストはイギリス政治体制における一大試練であった︒それは︑イギリスにおける階級闘争の激化
と金本位制復帰の際の財政的失敗︑そしてドイッ経済の復興といった戦後状況下で発生した︒しかし︑これを長期的
視座でみれば︑その発生は︑工業化の普遍化過程としてみられる︒一九二〇年代に始まる世界的規模での資本主義の
構造変化過程におけるイギリスの適応の仕方と関連している︒たしかにこのゼネストは︑A・バロックが述べるよう
()︹1)︑に︑労資関係における十九世紀的適応方法であった︒しかしその経験は︑勝者にも敗者にも等しく︑力による闘争が
極めて高くつくことを認識させたのである︒それ以来︑ストライキの発生件数およびその参加者ぱ著しく減少した︒
敗北の結果︑労働組合運動が戦闘力を喪失し︑労資協調路線と政治的労働運動へ方向転換した一方︑資本の側も平和
相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想二九
神奈川法学三〇
的解決を求めるようになったからである︒一九二八年一月︑ICI(Hヨ需﹃巨09巳B=昌含ωξ)社長モンド(﹀醇2
諸︒昌島)とTUC議長ターナー(じd①コa﹁¢吋コ①触)との問で開かれたモソドHターナi会議はその制度化であり︑この会
議ぽ︑その後の労資関係の指導的原理と化したモンディズムの出発点であった︒
ゼネスト終焉後訪れた国内緊張の弛緩による内政的安定は︑労資関係の質的変化のみならず︑与野党の代表的リー
ダーシップが権威を回復し︑正常な政党政治の状況が形成されたこと︑また二十年代後期に表面化した社会経済的構
造変化による萌芽的な大衆消費社会状況︑とも相互関連している︒
そこでまず政党政治におけるリーダーシップ状況についてみよう︒ボールドウィン首相が理想に掲げていた﹁産業
平和﹂の好機は︑ゼネスト後到来した︒彼は︑ゼネスト参加者に対する苛酷な報復措置を抑制するよう資本家側に訴
︑兄た︒彼は︑ゼネストを禁止し︑公務員のTUC加入を禁止し︑さらに労働組合によるその構成負からの政党費徴収
を制限する︑資本の労働への追撃である﹁労働争議及び労働組合法案﹂が︑今度は政府法案として上程されるのをもか はや抑制できなかったが︑そこには︑この時期に立法過程における労働運動の圧力が︑ゼネストの敗北によって︑戦
後最も弱化していたことが考慮されねばならない︒とにかくゼネスト後︑産業平和に尽したボールドウィンの政治家
としての会と威厳は︑危機の最中でさえも頁したその剛毅と雅量によって高まつ糖労働党においてマクドナル
ドのリーダーシップがゼネスト後確立したのも︑TUCがベヴィンらの指導下に中道路線へ方向転換してPLP主流
派への忠誠をもつようになり︑そのことも関連してILPなど左派の圧力が弱まったという状況下であった︒こうし
て︑与野党ともに中道的政治家の代表的リーダーシップが確立したのである︒
ところで︑体制的安定化には︑このようなリーダーシップ状況と関連性をもつ政府の社会経済政策の状況適応的効
果があげられねばならない︒それは︑保守党政府によるかなり大規模な大衆受益者化政策と産業保護政策の展開であ
った︒前者は︑労働者階級の体制内編入を構想したロイド・ジョージの社会改革に始まり︑戦後漸次拡大され︑この
政府の下ではチェンバリソ保健相によって実現した︑トーリi社会主義と呼ばれた社会政策である︒一九二四年に労
働党内閣の保健相ホイートリー(﹄︒ぎ≦9銭2)によって作成されたが︑同政府の下では施行されなかった﹁住宅供
給法﹂が実施された︒また彼の国民皆保険構想の展開として寡婦及び孤児年金制の実現︑老齢年金制の改善︑国民健
康保険制の改善等があった︒チェンバリンの政治指導における注目すべき点は︑彼が保守党調査部や保健省調査部を
(13)設置してそれを駆使し︑調査資料を基礎に政策作成を行ない︑それによって保守党の近代化を図ったことである︒
こうした政府の社会経済政策の展開を背景にして︑一九二七年頃から次期総選挙を目標とした三政党による︑社会
コンピロケイングコポリシイ経済再編成をめぐる競争的政策の政治状況が生じた︒保守党は政府において政策作成を行ない︑一九二九‑三〇
年度予算としてチャーチル蔵相は︑大衆受益者化と産業保護によって再編成を図る﹁繁栄予算案﹂を作成した︒しか
し︑同党のなかにはより画期的な政府の産業への介入を構想したマクミラン(}幽餌吋〇一山り斎鋤Oヨ一一一僧譜)ら青年議員の政策グ
(14)ループもあった︒一方︑労働党では︑後で述べるように︑社会経済再編をめぐる活発な綱領論争が展開されていた︒
だが︑三党の政策競争状況において指導的地位をしめたのは︑ロイド・ジョージ下の自由党であった︒彼は︑一九二
七年に健康を害し党首を辞したアスキスに代ったが︑党基金私物化問題やゼネストへの態度ゆえに党内の不信を買っ
ていた︒だが︑彼は一九二四年以来自山党経済学者の協力をえて産業問題の調査研究に基づく経済再編成計画を作成
(15)し︑それらを数々の政策文書として刊行した︒
ところで︑政治体制の安定化状況の形成には︑社会経済的構造変化とそれに付随する現代型大衆社会の萌芽的形成
相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想一一=
神奈川法学三二
状況が関連している︒経済構造についてみれば︑技術革新に伴なう︑生産過程の機械化︑企業の合併集中化としての
産業合理化による資本主義経済の構造変化があった︒二十年代後期には停滞的な十九世紀以来の輸出産業と対照的
に︑第二次産業部門では自動車︑電機器具︑化学︑航空機︑食料品などが国内市場向け産業として口覚しい成長を遂
げた︒またマスコ︑︑︑関係(新聞︑放送︑映画︑印刷)︑交通・運輸関係︑専門的サービス(病院︑広告)等の第三次産業部
門が発達し肥大化した︒これらの新成長産業は大ロンドンやミッドランドを中心に発展し﹁豊かなる南部﹂を形成して
行 く ︒ か か る 消 叢 業 の 喪 が 経 済 構 造 を 変 讐 せ ︑ 消 費 社 会 構 造 を 形 づ く る の で 賢 ・ 先 述 し た 政 府 の 塀 鋸 が
これにプラスした︒こうした構造変化が体制的安定化の一条件となったことは言うまでもない︒次に社会構造につい
てみると︑高度工業化によって国民所得が年々上昇傾向にあったことからその構造は徐々に変質した︒バウリ(}7
じd︒乱.団)とスタンプ(旨ω雷ヨ℃)の統計を引用すると︑国民所得は一九一一年の一九億八千八百万ポンドから二四年
には三八億三募ポンド(南アィルラソドを婁ず)と九割伸びて臥紀ご︺の増加によそ低所鴛への配分率も引上
げられ︑所得平準化が促進された︒またラウントリー(閑︒ω.閑O≦︑口一﹁①O)が一八九九年と三六年に行なったヨーク市
民生活調査によれば︑肉体的機能を維持しえない第一次貧困層は︑労働者階級の一五・四六%︑全市民の九・九一%
(18)から︑六.八%︑三.九%へ減少している︒雇傭構造においては︑給与所得層であるホワイトカラーの増加が著しい︒
政府.自治体の被雇傭者数は戦前の二倍以上に膨脹し︑民間産業でも先述した構造変化に伴ないホワイトカラーの
比重が大きくなった︒このように新中問層が成長する反面︑職人や小企業者などからなる旧中間層は衰退し︑自由党
の伝統的地盤を弱めた︒また賃金労働者階級においては︑生産過程の変化に伴ない未熟練労働者と熟練労働者との差
(挿)異が消滅し同質化が進行した︒かかる社会経済的構造変化は民衆の意識に影響を及ぼし︑その価値体系の変質を来た
しつつあった︒それは第一次大戦の衝撃︑とくにその末期から直後の生活体験に端を発しているが︑ゼネスト後の安
定状況下で噴出した︒二十年代後期からみると︑正統的道徳基準ないしは価値休糸から解放された新しい世代は︑大
戦末期に二五歳未満の若年麟であった︒しかし︑既に触れた構造変化が︑正統的道徳基輝たいしは価値体糸を先ず若
(")い世代から徐々に崩壊せしめて行った構造的要凶であったとみられる.このような新世代の態度は︑国教.非国教徒
を問わず教会礼拝者の著しい減少︑総選挙やとくに地方選挙の投票率の激減現蒙︑政治的集会への参加者および確固
たる信条を有して政党へ入党する者の減少傾向︑などに反映している︑こうした新たな世代がイギリスの政治に重要
な位置を占めたことは言うまでもない︒一九二八年の﹁国民代表法﹂によって四七〇万の二十代女子有権者が誕生し
た︒さらに未だ総選挙における投票経験のない二十代前期の男子有権者百万が控えていた︑従って︑一九二九年総選
挙では︑これら若い層の投票行動が決定的な役割を受持つとみられたのであり︑政党は︑ここに新しい世代をどう組
織するかという問題に直面したのである︒
以上に述べて来た如く︑戦後イギリスはゼネストを経て体制的安定を迎えた︒そこには︑ゼネストの教訓に基づく
産業問題への新たな対応の制度化︑政党政治における正常化と現代型大衆デモクラシーへの接近︑そして高度工業化
による消費社会構造の萌芽的形成︑とが平行に進行し相互連関している.ゼネストが戦後イギリス政治の分水嶺とさ
れるのは︑次の三条件による︒第一に︑戦後爆発的に発生した産業問題に関する問題認識とその処理方式が︑ゼネス
ト以後大きく変った︒即ち︑戦前と同様に物埋的力の対決を背景にした政治的妥協による紛争解決が戦後もとられた
が︑ゼネスト以後産業構造の環境適応を図る政策形成と恒常的な労資協議制の制度化による解決がなされるに至っ
た︒第二に︑ゼネスト後保守・労働両党において党首のリーダーシップが確立し︑多党制から二大政党制への移行傾
相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想三三
神奈川法学三四
向が現われ︑競争的政策による政党政治の展閉をみた︒第三に︑斜陽産業と構造的失業の問題を抱えつつも国民経済
は成長しつつあった︒この成長段階における大衆意識の変容に基づく大衆民主主義の不安定性という懸念もあった
が︑それはドイッのように深い民族的不満と挫折感に基づくものではなかったので政治体制そのものに関る不安定要
因とはならなかった︒けれどもこの体制的安定化は重大な不安定要囚を内包した相対的安定であった︒慢性的大量失
業を生み出した経済構造に関る問題が未解決のまま取残されていた︑しかもこの安定は︑隔際的な相対的安定によっ
て外から作られていただけに︑国際的安定が崩れればそれに随伴する性格を有していたからである︒
(1)6h・の蜜伍昌Φ楓乏Φσρ↓ずΦ固諺けピpσo嘗居09.Φヨ已〇三"↓訂Φ℃9三〇餌一£=鎚8二ざ<oドω卜﹂℃b℃.酌押しQ一〜器覧∪窪臣空㏄鵠ol
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(2)∪﹄﹄登9臣¢国Φ︒8邑ω透窪ぢしd葺巴コ}§︒︒乙塗L綜心ら﹂¶ω●
(3)9訳Φ爵国ぎα・論びΦ葺︒︒h謬島①9§び︒﹃互p謹コ署嗣§乙認矧暴b︒︒・︒旧○ド.ぎ蓄計切葺§げΦヨ①Φ=
什げΦ♂く四同ω一㊤一Q◎〜μ¢亟ρH㊤①卜⊇"℃℃.GQωQQh
(4)U・O・oo9屡①署Φ戸しd﹃一鉱ωプ℃o葺器自・︒︒ヨoΦ一りOρ一8ρ℃℃・嵩目〜嵩P両者は行政経験においても気質や政治哲学において
も︑また平民出身という点でも類似性を有する︒
(5)o﹄・=・∩︒5雷①ζ×け↓8尾§ω冒ゆ議昌ω︒︒凶巴簿巳国8言巳︒℃︒ぽざ一§らや︒・︒・h・(6)︿赤い金曜日﹀前後については︑﹀一一謬しU三一〇6r↓ゴ①い竃①鋤口息臼一ヨΦo{国3窃叶しd①≦P同↓感創Φ¢巳oコい窪島費尉G︒Q︒H
〜昌逡ρ這①ρbb・b︒刈O〜ミQ︒・No︒O〜吋Q︒トここ巳曲Q離ω団ヨo塗噌↓90窪2巴ω件ユ搾ρ﹀三ω8ユo巴三︒︒叶oユo巴セoヰ鑓拝μ㊤鴇もO"H窃〜HQ︒℃鵠を参照︒
(7)﹀﹄島︒︒ぎ︒b・鼻もや§ゐ8る㊤︒︒魯・客 ︒︒邑巨︒旦o︒鋤;¢℃︒答M2霧雰践︒さ§﹁︒=Nおト︒9
(8)ゼネストの経過については︑旨ω唄ヨoコρoやユ什己ΦoαbΦ息巴ぞ℃霞叶目﹃﹃¢Φ旧閑¢騨ず聞巴詳幡畢↓7Φ冒罵oo臨2①証=Φ
9㊤ヨげΦ量p設8署.まムαご爵冨創費ユ・・ρ︒︒rρ︑g︒Φ叢巴︒︒什H節Φ・﹀の什二身︒二鋤σ︒諾吋︑・︒仲﹃◎・︑一6タ︑Φ鋤℃︒じ
葺ぎ蔓琶暮︒江8︾謹Hも︒・ω︒︒︒折﹀﹄巴︒︒Fβ︒貫亭ゆ︒︒・︒鳥︒︒膳・を参照した︒
(9)6こ・︒・旨婁︒茗F"辱①ア璽三鷺辱﹀・均﹄蓼.旦ξ閃m夢Φ﹃gΦぎゅ︒,叶︒﹃ざ象ら.聾・
(‑o)﹀窪ぎ6ぎ︒や臼}6冨℃﹂︒︒・
(11)自由党も・イド・ジ.ージ派を除き同法案を支持した︒
(η)︒・︒︒・︒遷重ω欝・5しd巴︒言﹀:×憲=ぎ:臨・・舞霧義・︾{琴﹄﹄乏︒蝶瓢・・御︑しd榊︒・q﹃鶴喜︽・彫℃.デ
ト⇒ゆ.
(13)9唇蛋ぎひ・b℃'臼噌やb9旨黛﹄㎝ア§・
(41)・囲§.・葺銭︒・籍.という政笠婁疲して刊行した}{・竃・︒艶葺・罵くΦ門︒,陣餌コ}Φ}.ヒ憎﹄︒︒量︑セ﹃.轡︒︒①﹃を
はじめとする︑保守党守旧派からYMCA(尾o蝦コαqζ¢器oh60冨ω霞く餌二!.①︾︒︒加oo冨臨oコ)と呼ばれた旗新派︒﹀.℃.Z一67
巴ω︒p穿島里箒巳・ぎびぎ霞ρ寄︒Φω罠貯酢︒芭質§ω叶蝉仲Φ・謹︒︒も︒﹄ア・︒αμ・
(51)︒イド・ジ・←の政策については︑閏§ズ︒壽P↓ξき器漏︒¢噌謁①蜜﹄︒巴・Φ︒﹃・・Φ§ご"︒・量〜§引謬︒一μ一鋤ω
}o昌①ρ=o賓αOΦo薦ρH¢㎝封Oや曽①〜BO・等を参照した︒
(61)このよう蕪造変化については︑次のよう斐献を参照した︒︒・じ竃雲︑38凸貫9四呈仙︑餌蝦嵐鵠︒同Φ・︑圃︾ω︒6繭鋤一
琶団§︒巳&ぎ蔓︒{じd壼三§〜まρ謹9≦﹄﹄・9葺﹀︒︒霧乱§︒巳︒匹㎝什︒噌唄︒日鴨詳働一詳葛竃
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(71)翼耳H﹄︒乙Φ楓監ωこ塾臣雪℃隔gz箕腕︒コ⇔ニコ︒︒聞舜Φ謹亡§もミ・
(81)bd■ω①①び︒ぎ閑︒毒毒"℃︒重コづ亀﹃軽婁﹀・・§巳・︒︒︒一餌}ω駕H<Φ紀︑︒凄︒村i馨層﹄︒︒.
(91)﹀.罫身〒し・婁駐p巳ご.︒器捻﹂︒暴︾曽門6︒;①m︒是ぎ6仲岱円Φ︒臼5・・一瓢博島"鵠αぎ一Φ・︒葛§薯.
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相対的安定期におけるイギリス労.働党の政策構想 三五
神奈川法学三六
二 国 際 政 治 状 況
第一次大戦後におけるヨーロッパの不安定は︑概括すれば︑その諸民族︑諸国民に深甚な政治・経済・社会的影響
を及ぼした現代史の出発点とされる史上最初の全体戦争にょる衝撃の深さと︑その我後処理の欠陥︑すなわち﹂ヴニ
ルサイユ講和条約﹂の所産であった︒その衝撃の深さは︑大戦が祉会主義革命と民族解放連動に点火したことで知ら
れる︒とくにソヴェー︑‑︒ロシアの出現にょり︑資本主義と社会主義の体制的対立の腿嗣をみるに至るが・二十年代に
おいては連合国の対ソ干渉後も両者の相互不信に基づく険しい舛立が繰り拡げられ︑国際・国内酌不安定が増帽さ池
た︒
また講和条約に直接関連するものとしては︑策一に︑連合国の対,弧賠償政策が不安走形成要因としてあげられる︒
フランスの復讐主義と対独警成論やイギリスにもあった獲得主義によって課せられた背酷な賠償のため︑その憤激が
強力なナショナリズムをドイッ国民のなかに培養した︒第二の不安定要因は︑安全保障問題であった・フランスぢよ
びベルギーがドイッの賠償不履行に対して行なったルール占領は︑雄本的には復興するドイッの国力が脅威であった
ことに基づいていた︒また東部国境においてもドイツとポーランドの深刻な対立があった︒ここに述べた陪償と突八h
へでレ保障の問題は︑カー(閏・即O︑門.)が指摘するように︑二十年代ヨーロッパの二大不安定要因であ②だ︒これについ
でこれらの問題との関連性をもつ戦時債務の償還をめぐる連合国間の対立が第三の不安定要因としてあげられる︒さ
らにまた︑講和条約への不満に起因するイタリア・フ呼ノシズムの権力掌握が︑一一十年代におげる潜在的な不突定形慮
要因とみられる︒
一九二〇年代にヨーロッパの平和と安定を産出した国際政治状況にっいてみれば︑不安定から安定への途は︑ここ
に触れた二大不安定要囚を除去し︑さらにその他の不安定要囚をも取除いていこうとする外交的展開によって拓けた
のである︒
先す︑剛ドーズ案﹂による賠償問題解決についてみよう︑ルー‑ル占領は︑ドイツのみならず占領国にも大なる経済
的損失をもたらし︑仏独関係の悪化な招いた︑その結果︑ドイッ経済を再建し︑その支払能力の枠内での賠償取極め
をなす方が得策であるという考え方がこの両国において強まった︒とくにドイツでは外資導入による経済再建こそ当
面の最大課題てあった.︑英米両国にとっても欧州の経済再建が自国の経済的利益になると考えられていた︒ことにア
メリカ合衆国がその償還を求める戦時債務問題の解決も︑賠償聞題解決にかかっていたし︑そのためには先ず経済再
建による安定化を必要とした︑そこで合衆国によるヨ:博ッパ諸国への資金供与が必要とされた︑かくて連合田賠償
委員会は︑アメリカのドーズ(Ω︑鋤同一.︑ρじ偶...︒︒)将箪を議長とする専門家委員会を設置し︑賠償問題解決と経済再
建のためのプラン作成を諮問した︒一九二四年四月﹁ドーズ委負会報告﹂が刊行されたが︑それによれば︑ドイツの
安定通貨と均衡予算の同復が前提とされ︑賠償年賦額は︑初年度十億マルクから瀬増し五年目に二五億マルクと定め
られた.その財源は和税収入および鉄道債等々に求められたが︑初年度の支払いを可能にするため八億マルクの外位
を提供するという解決策が打ち出された・ルん占領軍の撤退妻た下ーズ案Lの重要な内蜘算の;であつ〆こ
の一ドーズ﹂案﹂を採択したロンドン会議(一九二四年七月一六口〜同年八月∵ハ日)を主磁平したのは労働党内⁝閣の首相兼外一
相の地位にあった一︑クドナルドである︒彼の外交とロンドン会議における議長としてのリ:ダーシップが︑このよう
な賠償問題の解決に寄与した︒彼の外交は︑信頼に基づく新しい精神を主たる頼榔として問題解決を図るものであ
和対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想三七
神奈川法学三八
(3)り︑従来からの労働党の無賠償政策に固執して賠償政策に反対する党内左派を抑え︑同党年来の賠償政策を転換せし
(4)めた︒
﹁ドーズ案﹂は一九二四年九月から実行されて行くが︑その翌月にはモルガン財閥を通じて集められた外債がドイ
ツに流入し︑ドイッは急速な復興過程に入った︒連合国間の戦時債務問題もこのロンドソ会議を契機に解決へ向った︒
イタリi︑ベルギー︑ルーマニア︑ユーゴスロヴァキア︑ギリシャ︑ポルトガル︑フランスの英米両園に対する負債
償還協定が成立して行った︒何れも債権国から外債形熊で資本供与を受けて国内経済を安定させ返済するといった︑
(5)先の賠償問題解決方式と同様な方法で実現した︒このことにより国際金融の復活が促された︑
ところで︑ロソドン会議が次の課題として残した安全保障聞題への対処は︑先ず﹁団際紛争平和的解決議定書﹂(﹁ジュネーヴ議定書﹂)にみることができる︒この議定書は︑諸畷家岡の相互理解を深め︑戦争原因を平和的に除去す
る一般的協定の形式をとり︑常設司法裁判所の強制調停による国際紛争解決を規定し︑若しもその調停が遵守されな
い場合︑侵略国への裁判︑とくに経済的制裁を闇連盟規約﹂よりも明確に規定した一これはマクドナルドの発案で作
成されたが︑このとき以来︑労働党の外交政策は︑反国際連盟から国際連盟主義に転換を遂げて行く.しかし保守党
はこの議定書に舛し︑英艦隊を連盟理事会の下におく帝国の威信を傷つける条約と誤認して反対し︑マクドナルドに
へ6)代ったA・チェンバリン外相は︑一九二五年三月一二日︑連盟即︑事会に同議定書の拒絶を通告した︒しかし︑この決
定に際してチェンバリンの胸中には︑そのオルターナティヴがあった︒彼の議定書拒絶演説は次のような提案を含ん
でいた︒即ち︑国際連盟は︑極端な場合︑近接する国家間または国家群問の紛争に介入せねばならない︒その場合に
備えてイギリス政府がとるべき最上の方法は何か︒彼は提案した︒﹁国際連盟と協力して特殊な要請に舛応すべく特
殊 叢 極 め を す る こ と で 藩 規 馨 補 虐芋 る こ と で あ る L 4 こ こ に ヨ カ ル ノ 条 廼 彫 誠 紛 導 が み ら れ る .
それはイギリス外交の二つの伝統である.嚢嶺.健理による〒巳パ問題介入と孤立主義の原建よる不介
入の態度のうち薯の適用乞て懲されたものである︒かかる安保条約難の難饒に熟しつつあった︑一九二
二年暴・ギッは西欧条約の締蓼フランスに提案していた・養∴・カレ内閣はこれを繋したが︑一九二甲
五年の冬になるとフランス禺の対独能心度に軟化の徴候が現われた︒ド︑身ッ外相シ.rレ壱マソ(︒¢.叶㊤<.︒齢.Φ︑,¢︑
ヨ登醤欧地域協定に関する・かつてクノ音禦なしたと同じ対仏提萎五一五年二月に行なったのは正し
くこのようなときであった・そしてその翌月チェソずン外相はこの提箋︑の支持裟明した︑かくて同隼月ロカ
ルノでヲランス.ギッ及びベルギ︑ギッ国境保障条約L︑ギッに対するフ一フソス︑ベルギー︑チェニ︒ヴ
ァキア・ポ⊥フンドの調停条約・そしてフ一フンスとチェコス・ヴ岬,キア及蒙主フンドの相互保障条約が蟹され︑
+二是︒ンドンで調印さ難‑三れがヨカルノ条約Lであり︑それ漿づ歯際体禦﹁.(肋ルノ体制﹂と呼ば
れるものである・この条約が成立し空九二五年は︑﹁戦争の年と平和の年との真の分割線である﹂とA.チェンパ
リンが言明したように・独仏協調を産出し︑戦後状況の終焉をみた.﹁・カルノ条約﹂の結果︑ギッは国際連盟に
加入しその葎理歯となった・ま梨加盟国であっ粂ソ両国もその籍準備委曇および世界経済会薩荒し
た・こうして国際連盟は・︿鯵国橿vから︿全ての国からな畠際櫨﹀へ籍を変︑兄︑その権威をかつてなく
高めた藷あ国際紛争の平和的解決︑第八回婁の侵略戦争禁湊・祓︑﹁ブリアンーケ・ッグ不戦条約﹂への轟︑
国際経傷力などでジ柔ふ外交にかけられた諸毘の期待笑きかった︒勿論︑そ.﹂に縫際雛緩型よる国
際経済活動の拡奈決定的ともいえる影響を及している︑このようにして形成された平和化妄定化が︑権力政治状
三九相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想
神奈一川法学四〇
況の噴出を抑制したとみられる︒
.﹂総鑛魂内部では︑外交崇グ一フ艸みゴー(︒Φ︒.・・Φ︒碁己によると︑力歩ン(ρ塞⁝)に袋趣£
る︿孤立派﹀が強い影響嘉有していた︒︿孤立派﹀はA・チェンずンに代毒︒れる︿.幌.膨..濡︑﹀が主張
する嚢への限定的介入に反射し奈︑後謹.→ルド壺イン霜の轟をえて薯を抑難・トあように保守党が両派に分れたのは︑fでリツハの利益繍する冠譲華に糞があったからである・︿孤立派﹀は〒μッパ懸不介入が国家利益を護.︒姦.えたが︑︿西欧派﹀は軍事馨の発・辻︑と‑に輩案達が海峡を河饗し・イギリスの安全霧門かす貞たので冷る.︑しかし︑この︿西欧派﹀にしても馨が畠の.繰臨慧,に関るとみ芒た〒︒ッパの濃は︑いわゆ・︒バ四諸境地域に限定され︑東欝境地域に屡笈紙已・芳・財隔党にも孤立嚢の伝統があった︒平和義あwるい繕級闘争の立崇ら勢力均舞交が批讐れたがため裁砲響だが・フユネーヴ議定書﹂以来︑同党外交政策は︑勢力均衡と孤立主義の中間的位置を占める・
平和化妾定化ということ籍対婆定という華で置羨えられるが︑この相対嬰定にはそれを不峯に導蓉易ならぬ臨題があった︒笙には︑大戦およびその戦後処理に起因する問禦あった・﹁ゼ桑﹂にもその実行を困饗らしめ︑国際的危機を招︑毒崇あった.藁欧の案保障慰犠然未縦の状岬葱であった美戦による社会経講混乱・と講和条約への国民架満喜景に権力を掌握したイ賓ア・ファシズムは蔑に拾頭した黒雲であった︒一よたソ連と資本嚢諸国の関係は︑改善されの・つあったとはいえ︑未だ国際危機の発生源となりξ渓兄こ
ヤずぬぞひあった︒第二には︑大戦を起占描レ﹂するグイナ︑・・ック畿際政治状況と後進国にまで及ぶ藁化の不黎麓によって促蒔dれた経済ナシ.チ芸ム①⇔・コ・降同一︒旨餌酔ぎ瞬ぎの問題があった︑三﹂で⁝葛経済ナショナリズムという用語
は︑一般に世界市場をめぐる競争激化に対応するところの国家の保護主義によ}4,通商政策を意味するものとして使用
(13)される.︑この経済ナシコ一ナリズムの発展が︑国際経済におけるアナーキーな状況を醸成し︑大恐慌の条件となり︑ひ
いては権力政治状況を噴出せしめた主因となったのである︒
﹁ドーズ案﹂には未決の年限閻題があったが︑それより電大な湖題は︑賠償年賦払いがドでツの経済再建と均衡財
政・安定通貨の上になされるということであった︒けれどもその工業製晶輸出は︑他国における関税障壁や輸入禁止
・制限措置によって停滞した︒そしてその国家財政は年々財政赤字を累積していた︑従って︑賠償財源の半分を国家
予算に依存する﹁ドーズ案﹂の履行は次第に困難となった︒その履行のためにとられた大衆課税と廻税の引上げ措置
は︑国内市場の狭隣化を招き︑早くも一九二七年にその履行は困難となり︑賠償支払総務シルバー‑じ(︒︒・鵠芽霞o〒
げ興什)にょり﹁ドーズ案﹂改訂が示唆され︑一九二九年一月︑モルガン財閥のヤング(O≦魯u・就︒螺謬)を議長とする
(14)専門家委員会が発足するに至ったのである︒一方︑英米両国は︑賠償問題解決に決定的役割を担ったが︑その関係は
必ずしも友好的でなかった︒英帝国内の自治領諸国︑とくにカナダとアイルランド自由園には︑自立化傾向と同時に
合衆国への接近傾向があった︒こうした自治領の遠心化が英国支配層にアメリカへの警戒心を抱かせたのである︒そ
のために︑一九二七年六‑七月に開催されたジュネーヴ海軍軍縮会議は︑米英両国が対立して流産し︑その翌年七月
イギリスは﹁英仏海軍軍縮協定‑﹂を結ぶが︑それは︑合衆国が主張した六インチ砲積載巡洋艦および駆逐艦について
(一)1)制限しない取極めであり︑英米関係を悪化させた︒
ところで︑一九二三年八月のコルフ占領にみられるように︑イタリア・ファシズムは無視できぬ国際的不安定要因
であった︑しかし︑イギリスでは︑次に述べる如き対伊関係からそれが認識されていなかった..イタリ:は︑戦後︑
相対的安定期におけるイギリス労働党の政策構想四一
神奈川法学四二
英仏植民地に隣接する東アフリカ植民地の境界再画定問題を︑一九一五年に結ばれた﹁ロンドン条約﹂に依拠して提
起した︒これに対し︑一九二四年五月マクドナルド内閣がジュバランド(﹂=σΦ﹃一PO山)問題を護歩して解決して以来︑
(16)緊張が解け友好的関係が成立した︒その後イタリーは︑賠償・戦債問題の解決︑﹁ロカルノ休制﹂の形成などで英米
両国に協力したのである︒A.チェンバリンとムッソリーこの親密さにみられる如く︑イギリスの貴族層︑財界人︑
カトリック教徒には親伊感情があった︒ファシズムはイギリスにも小さな形で出現していたが︑ロシアにおける政治
的宗教的迫害という点で英ソ関係の断絶が考慮されても︑ファシズムにょる政治的異端への迫害が英伊関係の悪化を
来たすと看倣されたことはなかった︒ハンガリーのホルティー政権に対しても同様だったが︑そこには︑イギリス支
配層における社会主義革命に対する反革命へのシンパシイが︑反民霊主義の政治休制であるファシズムへの認識を曇
(17)らせていたことをみることができる︒
さて︑二十年代に主たる岡際的不安定要因であったソヴェト・ロシアとの関係についてみると︑干渉戦争後連合国
の支配層には対ソ強硬と対ソ柔軟の二つの対応があったが︑大勢として前者が政策決定権を保持していた︒前者にと
ってソヴェトの存続は︑戦前.戦時債権や投下資本など利益喪失を意味しただけでなく︑コミンテルンを通した革命
の輸出を意味した︒だが︑後者においては革命のイメージは︑プロレタリアートを体制化しうる白国の政治体制につ
いての安定イメージがあったために︑前者の場合ほど強烈でなかった︒彼等には︑ボルシェヴィキ政権に国際的市民
権を与え︑正常な外交関係を樹立し︑ソヴェトを国際的に体制化し︑自国の利益を追求できるというイメージがあっ
たのである︒マクドナルド内閣は︑ロイド・ジョージ失脚後のカーゾン外相の対ソ強硬外交を転換し︑一九二四年二
月︑ソヴェト.ロシアを正式に承認し︑八月には﹁英ソ通商条約﹂と債務履行等に関するコ般条約﹂を調印した︑
しかし︑同内閣は︑この対ソ外交ゆえに野党の総攻撃を浴びて倒れた︒これに代った保守党内閣は︑チェンパリン外
相が対ソ強硬外交を推進し︑一九二七年五月ソヴェトの貿易商社﹁アルコス︾鴨8ω﹂を反鰻破壊活動の中心と殖4ー赦
して捜索し︑それによって英ソ外交は断絶するに至った︒彼のこうした対ソ強硬外交は︑一九二四年総選挙における
﹁ジノヴィエフ書簡﹂︑ゼネストの際全ソ労働組合評議会が贈った多額の支援資金︑コ︑︑︑ソテルソの中摂イソ"p︑
アフガニスタソにおける反英帝国主義闘争の紅織化などで保守支配層が危機感をもち︑対ソ強硬派が態度を硬化した
状況下に展開され悔しかし・このようなイギリスの対ソ強硬外交は︑相対嬰定期の国際状況に適応しなかった︒
仏伊両国は・イギリスより寛大な条件でロシアに借款を提供し︑対ソ貿易を拡大していた︒従って︑英ソ断交直後チ
ェンバリソ外相が反ソ外交戦争を展開しようとしたとき︑両国はこれに批判的態度をとった︒この相対的安定期にソ
連は一国社会主義建設に力点を置くに歪っていたのでその対外政策にも著しい変化︑即ち資本主義諸国との国交関係
樹立・外資導入︑中立・不可侵条約による自国の安全保障︑そして国際連盟への接近などが生じたのである︒
ここで視点を経済ナショナリズムに移せば︑輸出入の禁止・制限と高率保護関税にみられる二卜年代の経済ナショ
ナリズムの昂進は︑やがて大恐慌下の国際経済に決定的影響を及ぼし権力政治状況を噴出させるが︑それ以前の相対的
安定期においても大なる影響を国際関係に及ぼしていた︒こうした経済ナショナリズムの発展は︑戦後ヨーロッパ諸
国が経済的に弱化したため保護主義をとらざるをえなかったことに基づいている︒とりわけ︑戦後の国境変更にょり
成立した新興農業諸国にとって保護主義は︑自国産業を防衛する上で死活的利益に関するものであった︒このような
ナショナリズムに対し︑これを抑制し︑計画経済体制を樹立するといったイソターナショナリズムは未だ成熟してい
なかった︒たとえば︑今や大竜生産時代に入った広大な国内市場をもつアメリカ合衆国が︑最高率保護関税を真先に
相対的安定期におげるイギリス労働党の政策構想四三