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熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ

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熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ

著者 野村 幸正

発行年 2009‑12‑16

URL http://hdl.handle.net/10112/00020074

(2)

151  

  8章 分析による行為の生成

Ⅰ  行為の観察

1 

分 析

︱ 記 述

  スキルの科学が目指す究極的な目的は︑人と機械の境界を取り払い︑双方の調和ある棲み分け

を実現することである︒その戦略的な目的の一つがエキスパートシステムを構築することであり︑

そのためには次の二つが不可欠といわれている︒一つは︑熟達者や専門家に自分の分野について

知っていることのすべてを顕在化させることである︒いま一つは︑この知識をコンピュータ︵機

械︶にコード化することである︒この考えには︑熟達者の内的な過程を辿ることで︑研究者はエ

キスパートシステムを構築しうるという前提があるように思われるが︑はたしてこの前提は自明

なのであろうか︒

  自明性には疑問が残るとしても︑この前提のもとで双方の命題に言及する︒前者はその道の熟

達者へのインタビュー︑あるいはその仕事の観察を介して︑その内実を分析︱記述することであ

る︒これは熟達化研究で用いられる手法の一つであるが︑熟達者自身の語りにしろ︑観察にしろ︑

(3)

それらを介して熟達者自身の知っていることのすべてが顕在化されているという保証はない︒暗

黙知云々からすれば︑それは不可能に近いように思われる︒

  また︑たとえ顕在化されたとしても︑それらの知識がコンピュータのコード化に直接つながる

という保証もない︒そこには双方のあいだを埋めるさまざまな所作が必要である︒その所作とは︑

たとえば専門家の身体のうちで実際に働いている知識と︑顕在化された知識との関係を明らかに

し︑さらには顕在化された知識とコード化との対応を理論的に詰めることである︒これらに関し

ては︑従来必ずしも正面から取り上げられなかったように思われる︒ここでは︑あくまでも自明

とされてきたことの意味をあえていま問い直すなかで︑新たな方法論を確立し︑それによって行

為の理論を構築してゆくことにする︒なお︑コード化に関しては第

12章で取り上げる︒

  分析︱記述の内実を具体的にいえば︑一つは行為それ自体と行為主体を取り巻く状況であり︑

いま一つは行為者の意図︑目的である︒前者は観察可能であるが︑後者は行為者の報告によるか︑

それとも生成された行為から推察する以外に手だてはない︒いずれにしても︑これらの分析︱記

述された対象はものであってもことではありえない︒ものとして記述された以上︑それらは行為

を構成する一つの要素として時間︱空間軸上に配置されてゆく︒その際︑誰の行為を分析︱記述

の対象とするのか︒また︑誰がそれを記述し︑それに基づいて誰が生成するのか︒それだけでな

く対象者︑記述者あるいはまた生成者の力量はいかほどか︒これらの違いによって記述される世

界が︑記述の仕方が︑さらに記述の妥当性︑信頼性が随分違ったものになる︒分析︱記述にしろ︑

(4)

153  第 8 章 分析による行為の生成

またその後の生成にしろ︑力量の違いによって分節化の単位や切り取りの単位が︑またその意味

するところが異なってくるからである︒

  ある行為を記述してゆく際︑自らが観察者となり︑自らの行為を自己省察し︑それを記述する

場合と︑観察者が他者である場合とでは違って当然である︒推察と解釈の入る余地のない前者が

正確なものとなるが︑主観的であるとの批判も免れない︒それだけではなく︑誰がどの様な目的

で記述するのか等の違いも重要になる︒そもそも普遍的な記述などはありえず︑ある目的をもっ

た記述にならざるをえない︒行為の理論を構築することを目的とした記述があれば︑一方では機

械に代替させることを目的とした記述があってよい︒双方が連続なら問題はないが︑人の行為の

記述と機械のそれとでは違って当然であろう︒

  また︑自己省察あるいは他者観察のいずれであっても︑観察者の力量によって見えてくる世界

が違ったものになる︒知らないことは見えないという事実からすれば︑その観察者のもつ力量は

重要である︒力量あるものは︑いずれの場合でも行為を的確に把握しうるが︑その記述が一般に

通用するとは限らない︒たとえ力量があっても︑観察者や行為者が行為を的確に記述する言語を

持ち合わせているとは限らないからである︒だいいち︑それらを記述する言語があるという保証

もない︒暗黙知云々を抜きにしても︑記述しうる範囲には明らかに限界がある︒

  さらに︑これらの関係は徒弟制︑学校︑スキルの科学等の観察︑さらには分析︱記述の状況の

違いによっても激変する︵表

2参照︶︒

(5)

対 象 分析―記述 行為の生成

徒 弟 制 師 匠 弟 子 弟 子

学 校 熟達者(他者) 教 師 生徒・学生

ス キ ル の 科 学

 自 己 省 察 熟達者(本人) 熟達者(本人) 機 械

 他 者 観 察

 (インタビューを含む) 熟達者(他者) 熟達者(他者)・

研究者 機 械

表 2 対象・分析―記述・生成の関係について

(6)

155  第 8 章 分析による行為の生成

  分析︱記述において重要なことは︑最終的にはそれを介して他者に﹁伝わったか﹂否かである︒

これに関連して︑浦は写真を表現する文章を書くという六ヵ月間の実践から︑﹁伝える﹂ための方

法論を探っている︵諏訪︑二〇〇四︶︒彼らのいう﹁伝える﹂とは︑表現者の感じていることを読

者の頭の中に︵コピーするかのように︶転送することではない︒それは不可能である︒読者はも

との文章を主観的に経験することによって︑それを自分なりにこととして体験する︒彼らは︑読

者が文章をこととして認識すれば︑その時点で﹁伝わった﹂と考えている︒そのためには︑伝達

者はダイナミックな知覚︑表出行為を介して︑表現したいことを増幅することが求められる︒

  ダイナミックな知覚とは︑既有の知覚枠やものの見方に囚われない知覚である︒その知覚は既

有の内部表象で表現されるようなものではなく︑たとえばデッサン︑スケッチ︑模型の制作等の

表現行為を介して外的に表象される︒しかも︑その知覚は絶え間なく続くことから︑知覚者はつ

ねに表象を外在化し続けることとなる︒この表出行為は外部世界を変化させ︑さらなるダイナミ

ックな知覚や行為を生みだす︒

  ダイナミックな表出行為に関して浦︵諏訪︑二〇〇四︶は︑写真を見ないで文章だけを読む読

者を想定した場合︑何かを﹁伝える﹂ためにはどのように書くのがよいのだろうか︑ということ

に注目している︒写真に写っているものの特徴や情景をできるだけ客観的に書くのがよいのか︑

それとも写真から感じたことを主観的に書くのがよいのか︑意見の別れるところである︒最初の

頃は︑写真に何が写っているかをできるだけ客観的に記述することにより︑写真の雰囲気を伝え

(7)

ることができるのではないかという仮説のもとで文章を書いていた︒しかし中頃からは︑写真に

写っているものや︑それらの特徴や位置関係を客観的に記述しても駄目ではないかと考えるよう

になり︑文章を書くという目的や打算を忘れて︑写真から浦自身が何を感じるかに重点を置き始

めている︒

  文章をすべて書き終わった段階で︑それらを他者が文章だけを読み︑あくまでも評価者の主観

的基準に基づいて﹁良いと思った文章﹂﹁悪いと思った文章﹂に評価していった︒その結果︑客観

的な記述に比べて主観的なそれが良い文章と評価されたのである︒良い文章とは︑要は読み手に

主観的な経験を促すことに成功した文章であり︑﹁伝わった﹂文章であると解釈している︒

2  関係の先行性

  主観的経験を促す記述は︑観測事象を記述する媒体が科学言語か︑それともわざ言語かによっ

ても随分違ったものになる︒科学言語はことがらを正確に説明︑記述することを目的とするもの

であり︑必然的に分析的である︒一方︑わざ言語は相手に関連ある感覚や行動を生じさせるもの

である︒たとえばおなじ手を差し出すにしても︑﹁手を右上四五度の角度に上げなさい﹂は科学言

語による記述であり︑﹁天から舞い降りる雪を受けるように﹂はわざ言語による記述である︵生

田︑一九八七︶︒科学言語が正確であり︑伝わることは確実であるが︑わざ言語はそれ以上のもの

を伝えようとしている︒

(8)

157  第 8 章 分析による行為の生成

  現象の可能な記述としては︑外部観測︱内部観測と科学言語︱わざ言語からなる四つの組み合

わせが考えられるが︑外部観測に基づいた記述は科学言語を用いることが︑また内部観測のそれ

はわざ言語に近いものになると考えられる︒前者がものとしての記述であり︑後者がこととして

の記述であるといってよい︒しかし︑たとえば浦の研究︵諏訪︑二〇〇四︶に見られるように︑

外部観測の事象をあえてこととして記述することもできる︒また︑内部観測のそれをものとして

記述することも充分にありうる︒

  内部観測は外部観測に先行することから︑またこととものは循環することから︑重要なことは

内部観測︱ことの関係をどのように捉え︑それをいかにわざ言語で︑あるいは科学言語で表出し

てゆくかである︒行為の記述と生成という観点からすれば︑外部観測の知見をこととして︑また

内部観測のそれをものとして記述することが重要になる︒これによって伝わる程度も︑さらには

それに基づいて行為の生成も随分違ったものになるはずである︒

  記述から行為への移行は用いる言語によって違ったものになる︒中枢機構による指令は︑科学

言語では必要であろうが︑わざ言語では必ずしも必要とは思われない︒初心者が科学言語を︑ま

た熟達者がわざ言語を駆使する事実からすれば︑このことは充分に予測しうることである︒初心

者は記述を意識にとどめ︑かつ自らの身体を媒体にして実行に移してゆく︒一方︑熟達者は記述

された事象や対象を含む環境を︑自分にとって有意味な世界として捉え︑それにふさわしい行為

を生成してゆく︒また︑熟達者は指令から解放され︑独自に意味の世界に対処している︒浦︵諏

(9)

訪︑二〇〇四︶の研究は︑科学言語よりもわざ言語が世界を有意味な環境として捉えるのに役立

つこと示唆しているが︑これも熟達者の力量によっても違うはずである︒

  わざ言語は︑使い慣れた道具や日常的に話される言葉から構成された有意味な世界に支援され︑

また制約されている︒実践共同体では︑わざ言語を介して弟子にわざを伝承してゆくが︑その過

程は必ずしも明確なものでもない︒参加者はわざ言語のもつ意味を︑周りのものや人とのかかわ

りを通して理解しているのであろう︒師匠の技を盗み取るということも︑また実践共同体が色濃

くもつ有意味な世界という特性に支えられている︒その世界での体験は︑分析的知見によるもの

でもなければ︑また誰か他の人の記述に依存したものでもない︒あくまでもその事態に自らが潜

入し︑自らが体験したものである︒われわれは明示化されないままに体験そのものを感知︑感受

することができる︒

  しかし︑誰もが体験のすべてを感知︑感受できる訳ではなく︑また全体像を把握できる訳でも

ない︒この限界を補償するものが行為主体の構想力である︒これによって限界を超えた体験が可

能になる︒そのためには︑まず場の情報と不可分の生の体験を感知︑感受することが重要である︒

ただ感知︑感受したとしても︑それを直接記述することはできない︒﹁〜であること﹂といった体

験に終始するだけである︒それは言語によらない体験であり︑外在化することが難しく︑結局は

個々人のうちにとどまらざるをえない体験である︒このような体験を介して︑われわれは世界を

意味あるものとして認識してゆく︒世界はものとしてあるだけでもなければ︑こととしてあるだ

(10)

159  第 8 章 分析による行為の生成

けでもない︒われわれの体験はこととしてあり︑その後にことをものとして体験する︒また︑そ

の逆もありうる︒

  ことからものへの移行が︑たとえば関係の先行性という言葉で表されるものであり︑スキルの

獲得と伝承の際の重要な特性である︒この先行性は︑仏教でいう縁起につながるのであろうが︑

ここでは清水︵二〇〇一︶のいう﹁半歩前の現在﹂と﹁半歩先の現在﹂という考えを参照しなが

ら考えてゆく︒

  たとえば﹁私は鐘の音を聞いている﹂といった場合︑﹁私﹂と﹁鐘の音﹂とを分離して意識し

ている︒さらにいえば︑自他分離の立場で私が世界を捉えているのであり︑基本的には分析的

アプローチのそれである︒これに対して︑たとえば﹁鐘の音が聞こえる﹂といった場合︑自分

と鐘の音は二つに分離しているとはいえない︒この自他非分離的経験が純粋経験である︒自他

非分離的経験の事態では鐘の音だけでなく︑その場を構成する他の情報もまた自己に対峙する

ものではない︒したがって︑それらはものとしてあるのではなく︑あくまでもこととしてある

といってよい︒たとえば︑﹁鐘の音が聞こえること﹂だけでなく︑﹁山々があること﹂︑﹁お寺が

あること﹂︑﹁山村があること﹂︑﹁夕暮れであること﹂︑﹁人びとが働いていること﹂︑﹁柿の木が

あること﹂等々からなる︒﹁私は鐘の音を聞いている﹂の現在は︑﹁鐘の音が聞こえる﹂と感じ

る純粋経験を反省したものであり︑本当のいま現在ではない︒反省によって生まれたものであ

(11)

り︑少し過去の側に位置する現在であることから︑半歩前の現在と呼んでいる︒これに対して︑

﹁鐘の音が聞こえる﹂の現在は未だ純粋経験としてあり︑反省という操作を受ける前の未来のあ

る部分を含むことになる︒そのためこの現在は︑半歩前の現在に比べて未来の側にあることか

ら半歩先の現在である︒ ︵清水︑二〇〇一︶

  未来を含む半歩先の現在は未だ対象化という制約のない事態であり︑木村︵一九八二︶のいう

ことの世界である︒対象化以前のことは互いに自律的に展開し︑新たな場を構成してゆくが︑わ

れわれはことの世界を直ちにものとして経験としてゆく︒それが︑たとえば﹁私は鐘の音を聞い

ている﹂という経験である︒未来を含む半歩先の現在は︑本質的に不安定な特性を有するのに対

して︑半歩前の現在はわれわれにある種の安定をもたらす︒自他非分離的経験が安定を求めて︑

一つの自他分離経験に限定されてゆく際にも︑場の情報が積極的に関与する︒

  しかし︑安定したものの連なりから直ちに動的な行為が生成される訳ではない︒だからこそ︑

われわれは分析︱記述されたものを再度ことの世界に移さなければならない︒そのためには︑場

の情報によって限定された自他分離経験が︑ふたたび場の情報に溶け込み︑こととして場の情報

と一体化していなければならない︒われわれの経験が場の情報と一体化して︑はじめて行為が生

成されるのである︒

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161  第 8 章 分析による行為の生成

Ⅱ  分析から行為へ

1  初心者 ︱ 熟達者モデル幻想

  いま︑行為の生成が頭の中での情報処理に基づいてなされているとすれば︑ある状況下の理想

的な行為を想定し︑その生成の手順をまえもって作ることができる︒人工知能の研究者は︑熟達

者を観察し︑その行動を分析︱記述し︑その知見から種々の条件を設定し︑その条件下で理想的

なモデルを構築したのである︒まず︑優れた熟達者の発揮したスキルの観測値を出発点にし︑そ

こから後向きに初心者あるいは初期値にまで戻り︑それらのあいだをいくつもの段階に分けてゆ

く︒次に︑それらの上位の段階を結果として︑それを引き起こした原因をそれ以前の段階に求め︑

それらのあいだにいくつもの因果の連鎖を想定している︒ただ︑どのレベルで分析し︑また何処

まで記述するかが問題になるが︑普遍的な基準がある訳ではない︒いずれも不完全な分析である

ことを承知のうえで︑構成されたモデルが初心者︱熟達者モデルである︒

  このモデルは︑不完全な分析にリニアな論理的手続きを付加していることからも明らかなよう

に︑開放系での熟達行為を閉鎖系に限定している︒また︑行為のもつ複雑性を縮減することで︑

生命現象において欠くことのできないゆらぎや不確実性を排除し︑自らの客観性を維持している︒

しかし︑ゆらぎや不確実性を排除した理論からは︑生命現象にかかわる行為を生成しえないよう

(13)

に思われる︒その理由として以下の六つが考えられる︒

  第一に︑このモデルを構成する上位︱下位の関係は必ずしも完璧な因果の連鎖でない︒そのた

め︑それに依拠して直ちにスキルを構成しうる訳ではない︒この場合の上位︱下位の関係は︑単

に時間軸上に位置する下位の行為︑そしてそれに続く上位の行為でしかない︒いま︑行為の目的

が意図の具現にあるとすると︑たとえ分析レベルでは別々のものであっても︑いま行っている行

為はそれに続く下位の行為を含みつつ行われる︒握手をするために手を差し出す行為は︑次に相

手の手を握るといった行為を内在していなければならない︒差し出した手で相手を殴る手の出し

方と︑手を握るそれとではおのずと別のものである︒個々の行為はそれ自体あるのではなく︑あ

くまでも行為全体の目標との関連で生成される︒このことはすでに言及した通りである︵第

2章

参照︶︒下位︱上位の関係は単なる時間軸上の近接性ではなく︑また単純な因果関係でもない︒そ

の関係は︑行為全体の意図の下で生成される個々の作動が近接して連鎖するものとしてある︒そ

れは因果関係ではなく︑むしろ共時的なものであり︑個々の作動が布置しているために生起した

と考えるべきではないか︒

  第二に︑このモデルは前提にしている分析だけでなく︑分析された事象と全体の関係にも問題

を抱えている︒分析とはしかるべき全体を細部に分けることであり︑分ければおのずと全体像を

把握しうるという暗黙の前提がある︒しかし一連の行為を分析し︑それを概念で把握したとして

も︑いったん分析すればそれはもはや元の行為の要素とはまったく別のものでしかない︒それだ

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163  第 8 章 分析による行為の生成

けでなく︑外部観測が行為のすべてを観察しうる訳ではない︒また︑行為者の自己省察にしても︑

すべてを省察しうる訳ではない︒とすれば︑何らかの形で暗黙知の働きを想定しない訳にはゆか

ないが︑それを想定した内的なモデルを構築することは難しい︒分析という手法の宿命であろう︑

いったん分析すると︑その分析の単位は分析者の恣意でいくらでも小さくできる︒対象の違いに

よって︑また分析する際の目的の違いによって︑その単位は違って当然である︒熟達化の過程に

言及する分析単位は︑通常は日常言語のそれであるが︑日常言語があいまいさを兼ね備えたもの

である事実からすれば︑はたして分析の単位に内在する問題を解決しうるのかという疑問が残る︒

  第三に︑分析から得られた知見に基づいて行為を容易に構成しえないのは︑分析者と行為者が

別人だからである︒通常︑行為を分析するのは行為者当人ではなく︑彼︵女︶とは無関係の第三

者による分析である︒それだけでなく︑その分析の知見からモデルを構成する人がその分析者で

あるとは限らない︒多くの場合︑それ以外の第三者︵研究者︶による他者分析であり︑さらには

それに基づいた構成である︵表

2参照︶︒いずれにしてもこの分析は︑一人の熟達者の熟達過程を

時間軸上で詳細に追跡してゆく︑あるいはまた熟達の各段階に到達していると思われる人びとを

同時的︵空間軸上︶に分析し︑それを時間軸上に再配置する︑の二つからなる︒

  第四に︑初心者︱熟達者モデルは︑熟達化の過程を必ずしも質的な変化として捉えている訳で

はない︒想定された因果の連鎖に基づいていったん初心者がスキルの習得を始めると︑その過程

は否応なしに直線的︑連続的なものとなる︒このモデルは︑熟達化の途上で生成された行為によ

(15)

ってもたらされた認識の変化と︑またそれによって以前とは違った形で行為が生成される可能性

のいずれをも考慮していない︒習得の過程は必然的に質的に異なる各段階を内在することになり︑

このモデルはそれをどのように扱うのか︑必ずしも明らかにはしていない︒それだけでなく︑人

によってまた課題によって︑その習得のあり方が異なるにもかかわらず︑このモデルはその違い

を充分に考慮していない︒このこと自体が問題なのである︒

  第五に︑これらの他者分析では︑観察者は関係する行為のみを図として浮かび上がらせて︑そ

れを観察対象とする︒それ以外の行為は図に対する地として無視される︒それだけでなく︑スキ

ルが生成されている固有の場は分析の対象とされないことも多い︒たとえ固有の場が分析された

としても︑その場に身を委ねていることで感得する世界や︑あるいは他者との協同作業を通して

得られる生の体験がそこに含まれることはない︒なかでも言語で表現できない身体知︑暗黙知が

排除されることになる︒熟達者は視覚︑聴覚といった個別感覚だけでなく︑他の感覚をも充分に

活かしながら︑さらにはそれらを総合した共通感覚に基づいて行為を生成している︒そのため︑

その行為は視覚という個別感覚のみから分析されるようなものではない︒それだけでなく︑熟達

者の記憶︑信念︑感情︑欲求に関連する情報も︑また分析対象とはなりえない︒加えて︑運動︑

姿勢といった固有の場と切り離すことのできない内部感覚情報が︑その分析には欠如している︒

  第六に︑われわれの学びや行為の生成は固有の場と深くかかわり︑しかも固有の場での学びは

多義にわたる︒スキルを構成する特殊な要素︑たとえば分析の対象とされた行為の反応レパート

(16)

165  第 8 章 分析による行為の生成

リー︵下位の行為︶は当然としても︑それ以外に多くの無関連な非特殊なものごとを学ぶ︒なか

でも後者に関しては︑行為の当事者であっても︑通常は意識されることなく学んでいるに過ぎな

い︒これらの特殊な反応レパートリーと非特殊なそれとの区別は必ずしも明確なものではなく︑

状況が違えば特殊︑非特殊の関係が逆転することも充分にありうる︒しかし︑他者分析では観察

対象としてのスキルのみが取り上げられ︑これらの非特殊な学びが分析の対象にされることは少

ない︒他者分析に基づいた初心者︱熟達者モデルは非特殊的な学びを考慮していない︒考慮して

いないのではなく︑本来ができないのであろう︒

2  幻想の克服

  初心者︱熟達者モデルは︑初心者が熟達のある段階に到達するためのプログラミングを段階的

に積み上げてゆくものである︒しかしそこでは︑初心者が課題に携わるなかで知識や技能を獲得

し︑そのことによって課題の捉え方が以前とは質的に異なり︑また対処の仕方も違ってくる︑と

いう事実が必ずしも考慮されていない︒すでに言及したところである︒

  これを考慮した新たな試みが︑たとえば学習するプログラムをまえもって組み込んでおくとい

うものである︒これは︑はじめから必要な知識をすべて準備しておくのではなく︑学習によって

それらの知識を獲得させてゆくものである︒一九八〇年代以降︑人工知能の研究分野でいくつも

の学習メカニズムが提唱されたが︑その中核はコネクショニズムであろう︒鈴木︵二〇〇一︶に

(17)

よれば︑﹁コネクショニストのアプローチでは︑隣接するノード間のローカルな相互作用と︑それ

に応じたリンクの重みの調整が並列的になされることによって知識が獲得される︒また︑獲得さ

れる知識はネットワーク全体に非明示的に分散されている︒このような知識の表現と獲得を扱う

ことにより︑入力情報に欠落やノイズがあっても︑全体が崩壊せず︑優雅な退行をする頑健なシ

ステムを構築することが可能になる﹂という︵頁二二七︶︒

  しかし︑コネクショニストが新しい知識観と処理観を提供したとしても︑その学習が熟達化の

道筋に沿ったものであるという保証はない︒また︑著者自らの体験からしても︑熟達の階梯を上

るにつれて︑見えてくる世界が質的に以前とは確実に違ったものになる︒それだけでなく︑人に

よってもその見え方がそれぞれに違っている︒これは︑熟達化が動的な関係のなかで進展してい

ることを示すものである︒コネクショニストのアプローチは︑この動的な関係をも学習するプロ

グラムに組み込んでいるのであろうか︒それは到底不可能である︒

  動的な関係からすれば︑スキルは関係としてあり︑しかもその関係を作り出すのは人の働きで

ある︒その働きに暗黙知や身体知が深く関係するとすれば︑人の働きをコネクショニズムからア

プローチしようとしても︑そのアプローチには限界があるように思われる︒コネクショニストの

いう学習するプログラムが扱えるのは︑あくまでも外部観測の知見であり︑もの的行為に限られ

る︒一方︑こと的行為は人の働きを介してはじめて生成可能である︒熟達者がたえず変化する状

況に対して︑そのつど適応的に振る舞うことができるのは︑人の働きを涵養しているからである︒

(18)

167  第 8 章 分析による行為の生成

  人の働きは関係性の科学︑なかでも﹁私﹂の科学︵河合︑一九八九︶につながるが︵第

13章参

照︶︑ここでは人の働きを構想という観点から言及しておく︒この初心者︱熟達者モデルは︑また

コネクショニストのそれは︑その基底において外部観測と内部観測をおなじものとして捉えてい

る節がある︒しかし︑行為者は内部観測に基づいて行為を生成してゆくことから︑手続き的知識

の単位や意味するところは︑外部観測のそれとは違ったものになって当然である︒内部観察を介

して抽出された知識は点の如きものであるが︑内部観測であるかぎりそれは絶えず続くことにな

る︒そして︑その点の連なりを超えて全体像が立ち現れるのであろうが︑それはひとえに行為者

の人の働きであり︑さらにいえば構想力の賜物である︒

  行為と構想を繰り返すうちに︑やがてもの的行為からこと的行為に移行してゆく︒そして︑こ

の移行が成立する基底には場の共有があり︑そこでは母子関係︑師弟関係に見られるような原初

的︑身体的なこととしての行為がある︒それらは身体的同調︑共鳴︑さらには間主観的体験を介

したものである︒

  これは熟達行為にもそのまま当てはまる︒その基底に身体的なこととしての行為があり︑それ

らの行為に基盤を置きながら︑やがてもの的行為からこと的行為に移行してゆく︒通常の行為で

はものを核にしながら︑そこにことが関与してゆく︒一方の熟達者では︑ことを中心に行為が生

成される︒ものからことへの移行は表象の獲得に基づいたものではなく︑知覚と行為のカップリ

ングの所産である︒その繰り返しが習熟につながり︑熟達した行為を生み出してゆく︒そもそも

(19)

何かに習熟するとは︑ある手だてを適用してすべての課題に対処しうるようになることではなく︑

そのつど新たな手だてを生み出し︑それで解決できるようになることである︒その手だてがもの

からことへの移行であり︑構想力であることはいうまでもない︒

(20)

間︑途中で降ろされたところは郊外であった︒リキシャ︵力車︶で到達したマトゥラー博物館は古ぼけた粗末なものであり︑その突き当たりの廊下に立像が無造作な形で展示されていた︒

随分痛んでいたが︑壊された手足を勝手に想像しながら彫ったものである︒豊かな胸︑ふくよかな肉体はマトゥラー仏の特徴を見事に現わしている︒ガンダーラ仏に比べれば︑その面影の素朴さと温かみにかえって惹かれる︒

マトゥラー女神立像

 

楠造 総高二尺三寸︵平成一六年作︶

(21)

第   9章 分析を超えた行為の生成

Ⅰ  同調する世界

1  カップリング

  前章で言及したように︑行為の理論が内部観測を介して構築されるとすると︑この理論は外部

観測の知見に基づいて構築された認識の理論とは︑本質的に相容れないものとなる︒これらの理

論は︑本来が異なる位相での二つのモードであり︑対峙するものでもなければ︑また因果関係で

結ばれるようなものでもない︒行為モードは︑認識という位相の異なるいま一つのモードとカッ

プリングしてはじめて可能となる︒このカップリングこそが︑行為の理論の中核をなすものであ

る︒  カップリングとは︑質の異なる二つの作動モードが結びつき連動することである︒河本︵二〇

〇〇︶によると︑カップリングは﹁一義的決定関係のない媒介変数を相互に提供し合っている複

数のシステムの作動上の関係﹂︵頁二一〇︶と定式化されている︒それは認識の理論が前提とする

因果連関の形成とは違った︑いま一つの関係のあり方である︒

(22)

172  たとえば︑心的システムと身体システムが併置されているとすると︑それぞれのシステムは自

己を維持するように作動するが︑他のシステムといちいち連動を図りながら作動している訳では

ない︒また︑これら二つのシステムを統合する︑さらに上位のシステムが作動している訳でもな

い︒心的システム︑身体システムいずれもが独自の作動を繰り返しながら︑それぞれに境界を形

成し続けている︒にもかかわらず︑これら複数のシステムが連動的に作動するのは︑相互がカッ

プリングしているからである︒

  いま︑上位システムを想定しないとすれば︑下位︱上位システムを全体として認識するような

全体視野もまたありえないことになる︒とすれば︑カップリングは全体視野ではなく︑局所視野

によるものと考えられる︒全体視野がすべてを一度に見渡せる視野であるのに対して︑局所視野

では一度に見渡せる視野が局所にとどまる︒しかし局所視野は︑その局所という言葉にとどまら

ない拡がりをもったものとしてある︒なぜなら局所視野とは︑それぞれの局所視野の集合体とし

てあり︑相互に波及し合うからである︒局所視野では︑まず局所を同定し︑それを観測する︒そ

して︑それが次の観測という行為に間断なく数珠繋ぎに連鎖してゆく︒したがって局所視野をと

る内部観測は︑次なる観測を内蔵してはじめて内部観測たりうる︒この観測は決して完了するこ

とがなく︑差異化する自己の最も先端な側面である︒いったん完了してしまえば︑それはもはや

内部観測ではない︒

  内部観測の真只中では︑時制が交錯する結節点が絶えず生起する︒それが現在進行形と現在完

(23)

了形の接点である︒現在進行形にはいま・ここにおける作動そのものがあり︑現在完了形には認

識に落とされた自己省察がある︒生きているシステムとしてあるわれわれは︑このような内部観

測と外部観測の絶えることのない視点の切り替えを行いながら︑自らの生命活動を維持している︒

そして︑この生命活動の原動力となり︑相互の移行を可能にする力動的な自己が︑自己中心的︑

場所中心的という二つの自己である︵第

3章参照︶︒   いま︑これらの自己を外部観測︵全体視野︶と内部観測︵局所視野︶という観点から鑑みてみ

ると︑外部観測に自己中心的自己を︑また内部観測に場所中心的自己を対応づけることができる︒

しかしこの対応づけでは︑自己中心的であるにもかかわらず自他分離とか︑あるいは固有の場所

に置きながら自他分離しない状態︑といったことを整合的に捉えることができない︒むしろ︑内

部観測から外部観測へと流入するベクトルとして自己中心的自己を︑また一方では︑外部観測か

ら内部観測へと流入するベクトルとして場所中心的自己を想定すべきであろう︒

  ここで述べられる自己はつねに自己を差異化する自己である︒差異化する自己は︑地図と海岸

線上の波に喩えられることがある︒仮にいま地図を自己とするならば︑その地図上の海岸線上に

は波の動きまでは表示されない︒波の比喩で表していることとは︑取りも直さず作動そのもので

あり︑それは絶えざる動きのなかにある自己でもある︒一方︑われわれが捉えうる自己とは︑全

体視野に基づいて切りつめられた差異化の残滓である︒それは完了形によって記述され︑動きを

奪われた自己でもある︒それは関係のネットワークが産出する残像のようなものである︒しかし︑

(24)

174

自己中心的自己と場所中心的自己が完全に乖離し︑別々に作動しているとするならば︑自己の同

一性は保たれない︒とすると︑この両者は何らかの形でカップリングの状態にあり︑協働的に自

己の同一性を作り出していると考えられる︒

  では︑この相互に位相を異にする自己の二つの形態は︑一体どのような関係性において自己の

同一性に寄与してゆくのだろうか︒それを解きあかす鍵の一つが場という概念ではないかと思わ

れる︒場とは︑自己を取り巻く環境であると同時に︑自己と協働的に相互を創出する関係として

ある︒これは︑一見すると論理矛盾のように思われる︒しかし︑これを生成のサイクルの織りな

す絶えまないネットワークシステムと考えてみると︑矛盾は解消される︒場とは自己の存立の基

盤であり︑そこではつねに生成とそれを凝固する運動がせめぎあっている︒

  その行為をいったん外部観測すれば︑観察すべき行為は直ちに場のもつ情報から切り離されて

いる︒一方︑その行為を内部観測するのであれば︑事態は随分違った様相を見せる︒まず︑観察

対象そのものが場の情報のなかで規定されることから︑観察の所産は観察主体と決して無関係で

はありえない︒また内部観測は行為を個々の要素として取り出すのではなく︑観察主体の身体の

皮膚の境界を超えてゆれ動く他者の行為に︑あるいはそのあいだに身を置くことで成立する︒身

を置くことで︑他者の行為に自らの身体の動きを同調させ︑その動きによって生じる見えの変化

を︑行為そのもののなかに観察者自身が直接捉えることができる︒そして観察者が行為者である

内部観測では︑これらの過程が直ちに行為につながる︒

(25)

2  道具の組み込み

  スキルの習熟とその遂行が生得的な同調︑模倣に拠ることは認めるとしても︑それだけで直ち

にスキルに習熟しうる訳ではない︒習熟するためには︑まず自らの身体を道具として対象とかか

わることであり︑それだけでなく道具を身体に組み込む︑つまり拡張された身体を構築しなけれ

ばならない︵第

2章参照︶︒組み込まれる道具の違いによって身体のあり方︑そして行為の実行は

当然違ったものになってゆく︒道具の使用そのものが必然的に行為を生成する際の支援となり︑

また制約となるからである︒これらの支援と制約は︑あくまでも道具の使用を介して習得された

ものである︒多くの場合︑人は他者が道具を使うのを観察し︑またそれを模倣することで道具を

自らの身体に組み込んでゆく︒その根底には︑身体の同調性と相補性という生得的な能力が深く

関与しているはずである︒

  道具の組み込みは︑熟達化のいずれの階梯においても重要な過程である︒その過程は︑道具が

提供する反応の可能性に身体が相補的に同調することからなる︒それは道具の製作者の意図をお

のずと汲み取ることであり︑また生態心理学のいう道具のアフォーダンスに自らの身体を添わせ

ることでもある︒道具が熟達化の過程で製作されたものであり︑しかもその当時の熟達者が道具

の製作に深くかかわっていたことからすれば︑行為者が相補的な同調によって道具を組み込んで

ゆく可能性は充分にありうる︒その際︑道具を組み込むための反応レパートリーが︑たとえ潜在

的であるにしても︑すでにそれが獲得されていれば︑その後の熟達化においては重要な意味をも

(26)

176

つ︒実践共同体の師匠はこのことを充分に承知しているからこそ︑徒弟が反応レパートリーを獲

得していることを見極めながら︑実際に道具を使わせる時期を考慮して使用させている︒

  反応レパートリーがまえもって具備しているのであれば︑道具の組み込みは容易であるが︑そ

れがなければ︑まずそれを獲得しなければならない︒反応レパートリーを獲得する手だての一つ

が実践共同体への参加であり︑場に身を委ねることである︒そこでの徒弟は︑一見すればわざの

習得とは関係のないと思われる掃除とか︑お手伝いとかを求められるが︑それは徒弟が反応レパ

ートリーを獲得するための期間でもある︒その獲得は熟達化の階梯を上がるためには不可欠なも

のであり︑一般には遊びに近い関与を介して獲得されるものである︒遊びこそ確実に反応レパー

トリーを増やす手だてである︒遊びを介して︑徒弟は後の組み込みに必要な身体知や暗黙知を身

につけ︑意識の介入を減少させてゆく︒やがて道具は身体の一部となり︑透明になり︑わざを構

成する︵野村︑二〇〇三︶︒

  道具の組み込みは具体的な用具に限定されるものではない︒道具のうちで最も重要なものは言

語である︒言語を自らの身体に組み込むことで︑行為の理論がより高次なレベルで機能するよう

になる︒たとえ同調や模倣を介して行為が生成されるとしても︑その行為は未だ確固たるもので

はなく不安定な状態にある︒それは行為が未だ模倣すべき対象とともにあり︑対象から必ずしも

独立していないからである︒単純な行為なら同調や模倣で行為を生成しうるが︑複雑な行為とな

ると事態は異なる︒複雑な行為を模倣するためには︑まずその行為の全体構造を把握していなけ

(27)

ればならない︒しかし︑それだけで複雑な行為を模倣しうる訳ではない︒ある意図の下で︑それ

らの表象を全体構造に関連づけながら順序に従って再生し︑行為を生成してゆくことが求められ

る︒これらの把握と再生に言語が深く関与していることはいうまでもない︒

  初心者が言語を組み込み︑複雑な行為を模倣しようとする場合には︑それに必要な表象を思い

起こし︑その連なりから行為を生成する︑という流れを意識的に作り出してゆかなければならな

い︒はじめのうちは意識と行為とのあいだに齟齬が生じるが︑意識的に模倣を繰り返してゆくう

ちに︑やがていくつかの表象が一つになり︑またその表象と行為がカップリングするようになる︒

この場合でも︑行為のすべてが表象に基づいて生成されると考える必要はない︒行為の相当部分

が同調によって模倣され︑また下位の行為の多くがすでに反応レパートリーとしてある︒したが

って︑いちいち表象を再生することで行為を生成している訳ではない︒

  いずれにしても︑表象と行為がカップリングするのは︑われわれが表象と行為の関係を長期に

わたって構築してきたためであり︑しかもそれを先験的にもっているからである︒ただ︑たとえ

先験的なものであるとしても︑それは進化軸上のある時点で後天的に獲得されたものである︒し

たがって︑表象と行為の関係は純粋に先験的なものでもなければ︑また純粋に後天的なものでも

ない︒これらの対立を超えた関係を説明するために︑著名な比較行動学者であるコンラート・ロ

ーレンツは仮説的実在論を提唱している︒

  ローレンツ︵一九七三︶によれば︑動物や人間の振る舞いも︑それが環境世界に適応している

(28)

178

振る舞いであるかぎり︑環境世界の像であるという︒生物はすべて﹁鏡の背面﹂にあたる認識器

官を先験的にもち︑その﹁鏡の表面﹂には︑われわれ自身をも含めてすべての世界が映し出され

ている︒すべての現実世界とは︑要はこの鏡に映ったものであるという︒仮説的実在論からすれ

ば︑この映像を映し出す表面には背面が実在していて︑この背面があるために映像も︑またその

映像のもとになっている事実も︑おなじ事物というカテゴリーにまとめ上げられることになる︒

外界を映し出す﹁鏡の背面﹂は先験的であるが︑実は進化の途上で後天的に獲得されたものであ

る︒  心理学者が仮説的実在論に言及することは少ないが︑九〇年代の認知科学の特徴である生物学

的志向は︑また生態心理学の基本的な考えは︑いずれも仮説的実在論そのものではないかと思わ

れる︒生物は事前に決められた中央制御メカニズムなく︑局所的な相互作用を介して進化してき

たのである︒その最終的な所産が反省意識の獲得であり︑これが全体視野をもたらしたに過ぎな

い︒さらに︑仮説的実在論は進化心理学の基底にある考えとも共通している︒

  進化心理学によれば︑現在の人間の認識のメカニズムは︑人間が生存してきた環境で直面した

課題を解決するに適した形に進化した結果であり︑しかもその環境は人間がイナクトしたもので

ある︒仮説的実在論は進化軸上での展開であるが︑表象と行為の関係も本質的にはこれとおなじ

ものとして捉えることができるのではないか︒いずれも︑実在するものの相互がかかわりあうな

かで生じた一つのシステムである︒全体視野的な表象がまえもってあった訳ではない︒また︑そ

(29)

のシステムでの行為であるかぎり︑そのなかでさまざまな生態学的変化が生じる︒その変化に対

する能動的な行為がイナクトメントであり︑それによって生じた環境がイナクトされた環境であ

る︒

Ⅱ  イナクトされた環境

1  イナクトメント

組 織 研 究 の 第 一 人 者 で あ る ワ イ ク

︵ 一 九 七 九︶ は

︑ そ の 著 書

The Social Psychology of 

Organizing, 2nd ed.﹄において︑組織化の過程を自然淘汰が行われる過程と類似したものとみな している︒そしてイナクトメント︵enactment︶を中心に︑生態学的変化︑淘汰︑そして保持を

組織化の四つの要素として捉え︑組織化のモデルを展開している︒詳細は彼の原著︵あるいは訳

書︶に任すとして︑彼がイナクトメントという用語を組織化の基底に据えたのは︑つまるところ

組織化をダイナミックなかかわりとして捉えているからである︒

  そもそもイナクト︵enact ︶とは︑ジーニアス英和大辞典によると︑⑴︿法律﹀を制定する︑⑵

︿提案など﹀を実行に移す︑⑶︿劇など﹀を上演する︑というような意味がある︒その語源は行動

によって何かを具現することである︒とすれば︑たとえば女形は女性という性を上演することは

(30)

180

できないが︑ジェンダーを上演するといえるのではないか︒このような表現が妥当であるのは︑

行為を介して女性を演じることができるからである︒

  ワイクによれば︑組織化におけるイナクトメントは自然淘汰における変異に当たるが︑あえて

イナクトメントという術語を用いるという︒それは﹁組織メンバーが︵自らをやがて拘束する︶

環境を創造する上で果たしている︵とわれわれが思っている︶積極的な役割をイナクトメントと

いう言葉がとらえている﹂からである︵翻訳頁一六九︶︒たとえば︑われわれは本を読んでいる際

に何らかの経験の流れに変化が生じると︑その変化により深い注意を払うべく囲い込みをするこ

とがある︒囲い込みはイナクトメントの一形態である︒ワイクのいうイナクトメントとは︑対象

への働きを介して直面する環境の一部を自らが積極的に生み出し︑以前には存在しなかった環境

の新しい面を作り出し︑それに意味を付与する行為である︒それだけでなく︑行為するなかで自

らの直面する制約や機会となる素材を作り出す︑つまり人が自らの環境を創造し︑その環境が逆

に自らの行為を制約するという側面を強調したものである︒

  われわれは︑そのつど立ち現れるイナクトしうる環境を的確に記述する言葉をもたない︒また︑

その環境の多くがいちいち意識に上る訳でもない︒そのため︑それらは必ずしも外部観測の対象

とはならない︒むしろ内部観測でしか捉えられないことの方が多い︒内部観測に依拠するかぎり︑

われわれは自らの判断で多様なかかわりを同時に展開し︑そのかかわりのなかで立ち現れた関係

を︑新たなイナクトしうる環境として捉えてゆくことができる︒開放系であるかぎり︑イナクト

(31)

メントはかかわりの質を変えながらつねに新たなイナクトメントをもたらす︒

  ところで︑ワイクがイナクトメントを組織化の基底に据えたのは理解しうるが︑この概念が直

ちにスキルの科学︑なかでも行為の理論を構築する際の有効な概念になるか否かは定かではない︒

行為の生成におけるイナクトメントの内実を明らかにするために︑ここでは筆者が関心をもって

取り組んでいる仏像彫刻を取り上げ︑その熟達化の過程をワイクのいう枠組みで検討してゆく︒

  仏師が木を素材にして仏像を彫り進めてゆく際︑その彫り方に明確な決まりがある訳ではない︒

仏師によって彫り方はさまざまであるが︑一般には全体の図面に基づいて顔︑身体︑手︑足等を

それぞれに彫り進め︑最終的にそれらをつなぎ合わせれば完璧な仏像が彫り上がることになる︒

現に︑等身大を超えるような大きな仏像を彫る際にもこのアプローチを採用する︒全体を部分に

分けないかぎり制作しえないからである︒面白いことに︑初心者もまたこのアプローチを採用す

るが︑満足な仏像を彫ることができる訳ではない︒

  図面に基づいた制作過程は︑仏像彫刻に限らずもの造り一般に見られる現象であるが︑図面の

果たす役割は仏師の力量によって違うようである︒彫り始めるまえに完璧な図面があり︑それに

基づいて彫っている訳ではない︒だからといって︑その種の図面が不必要という訳でもない︒そ

もそも図面は外部観測の所産であり︑文字通り全体視野に基づいたものである︒しかし︑いま・

ここを彫っている仏師からすれば︑その彫り方を導く完璧な図面がある訳ではない︒

  なぜか︒仏像彫刻にはそれなりの決まりがあるが︑こうでなければならないというものではな

(32)

182

いからである︒仏像は仏師によっても︑また時代︑文化によっても違った形を︑表情を見せてい

る︒それぞれの仏師の思い描く仏像があってよい︒彫り始めるまえの図面は必要であるが︑実際

に彫り始めると︑その図面を超えて形が展開し︑やがて完成した像に至ることは充分にありうる︒

これなどが工場等でのもの造りと大きく異なるところである︒

  これには︑仏像という信仰の対象が祈りを込めて彫られる︑という事実が深く関連しているの

ではないか︒たとえば粗彫りの円空仏などは未完ともいえるが︑完成された仏像でもある︒この

ようにつねに完成した姿があり︑また一方ではつねに未完の姿がある︒たとえ三分の出来であっ

ても三分にふさわしい姿があり︑五分の出来にもそれにふさわしい完成像がある︒そもそも誰が

三分︑五分︑さらには一〇分の出来と決めるのであろうか︒私からすれば︑円空仏はまぎれもな

く完成された木彫仏像である︒

  仏師は夢中で彫り進めている過程で︑それまでとは違った感覚にとらわれ︑ふと刀が止まるこ

とがあるという︒そこで改めて仏像を見直すと︑以前とは違った段階に来ていることを感じるら

しい︒これが生態学的変化であり︑イナクトしうる環境を生み出し︑次のイナクトメントを引き

起こす︒生態学的変化は︑かかわりを介してそのつど立ち現れる結節点である︒彫り進めてきた

がゆえに︑おのずと次の段階が見えてくるのであろう︒これは師匠の一言とか︑優れた作品に出

会うとか︑等を契機にして生じることもある︒いずれにしても︑それらを契機にしてものの見方

が変わり︑自分の作品に対して以前とは違ったものの見方をするようになる︒それは︑たとえば

(33)

﹁身体の割には顔が少し大きいのではないか﹂との思いを抱いた時である︒

  次に︑その生態学的変化に応じて︑仏師は顔を少し締めるべく刀を入れる︒これがイナクトメ

ントである︒いったん刀をいれて顔が締まると︑全体像が以前とは違って見えてくる︒この刀を

入れることがイナクトメントであり︑刀が入れられることで新たに立ち現れた顔はイナクトされ

た環境を生み出し︑その顔にふさわしい形の身体︑手︑足等がそれぞれに立ち現れる︒仏師はそ

れに見合うように刀を入れてゆく︒イナクトメントはそれぞれの像の全体と部分との関係を再構

成する機会を与えている︒

  ただし︑その顔にふさわしいイナクトメントは必ずしも一つとは限らない︒多様なイナクトメ

ントがありうるが︑現実にはそれらのうちからあるイナクトメントに限定されてゆく︒いずれに

しても︑イナクトされた環境にふさわしいさまざまな構造をあてがってゆくことになる︒これが

イナクトメントに続く淘汰である︒さまざまな構造とは︑たとえば締められた顔に対して立ち現

れた身体であり︑手であり︑足である︒それらは必ずしも一つではなく多様でありうるが︑実際

にはそれらのうちの︑仏師が思い描いている像に合致するものが残る︒淘汰とはそれを具体的に

実行することである︒また︑イメージすることで淘汰することもある︒必要なら粘土をひねるこ

ともある︒いずれにしても可能な構造のうちから一つを選択し︑身体や手足を締めてゆく︒この

淘汰を介して︑仏像は三分の出来から次の四分︑さらには五分の世界に至る︒

  最後の保持とは︑ワイクによれば︑合点のゆく意味形成︑すなわちイナクトされた環境のスト

(34)

184

レートな貯蔵である︒イナクトされた環境が実際の環境になるかどうかを決めるのは淘汰の過程

であるが︑この淘汰が絶対という訳ではない︒現時点では淘汰されたとしても︑それが保持され

ることで反応レパートリーとして残り︑後の行為の可能性を拡げることは充分にありうる︒

  仏像を彫る行為をワイクの枠組みに基づいて見てきたが︑もちろんこれらの四つの要素の重み

づけは︑なかでもイナクトメントは行為者の力量に応じて違った様相を見せる︒そもそもイナク

トされた環境とは︑自然科学者のいう自然環境ではないが︑純粋に心理的環境というものでもな

い︒むしろ生態心理学者のいう環境であり︑彫るべき行為をアフォードする環境である︒それは

実践共同体に参入した徒弟が力をつけてゆくにつれて︑そのつど立ち現れる環境であり︑そこで

の行為が新たな行為を生み出してゆく︒

2  自作 ︱ 自演モデル

  ワイクのいう生態学的変化︑イナクトメント︑淘汰︑そして保持という一連の過程を︑たとえ

ば仏師が当初の図面を超えて彫り進めている時︑仏師は自ら行為のモデルを自作し︑それを自演

していることになる︒それが自作︱自演モデルである︒このモデルは未だ理論として確立したも

のではなく︑そのつど構成されたモデルであり︑絶えず再構成されてゆく︒したがって自作︱自

演モデルは︑あくまでも個別のものであり︑それぞれの行為者の力量を︑そして課題状況を反映

したものである︒また作られたモデルは︑それぞれのレベルで力量に応じて絶えず作り換えられ

(35)

る︒そのモデルは︑初心者︱熟達者モデルのいう熟達化の各階梯に位置づけられるようなもので

はなく︑イナクトされた環境でのモデルである︒

  では︑行為者は自らが構成した自作︱自演モデルに基づいて︑いったいどのように行為を生成

しているのか︑その特性を自らの仏像彫刻の体験やインタビューの体験に基づいて記述すれば以

下の通りである︒

  まず︑自作︱自演モデルは︑それがいずれの階梯のものであっても︑初心者︱熟達者モデルと

違って︑つねに漠然としたものである︒たとえそうであったとしても︑何らかのモデルがないか

ぎり︑人は行為を生成しえないからである︒このモデルはイナクトメントに基づいて構築された

ものであるが︑このモデルに基づいて行為を生成してゆくなかで︑モデルそれ自体もそのつど修

正される︒ワイクはイナクトメントをナイサー︵一九七六︶の知覚循環から説明しているように︑

スキーマ︑探索︑対象の知覚循環を経てモデルが再構築されてゆくと考えてよい︒

  次に︑実践共同体に新たに参入した新弟子は︑兄弟子や師匠の行為に自らの身体を同調させな

がら模倣し︑時には制作過程を概念的に捉えてゆく︒それは同調する身体をモデルとし︑それを

相補的に捉え︑そのなかでモデルを修正することである︒また︑それらを全体構造との関連で再

生してゆくなかで︑やがてその模倣の完成度を高めてゆくことでもある︒それによって新たな行

為を生成してゆくだけでなく︑その過程で身体知︑暗黙知をも同時に獲得してゆく︒

  さらに︑実践共同体では︑個々の概念や説明に内在される意味の世界が拡がってくる︒また︑

(36)

186

一方では︑身体で捉えていた世界と概念的に捉えていた世界が同調してゆく︒初心者の場合︑あ

る行為と身体の同調は︑たとえばエントレインメントの現象に見られるように︑必ずしも双方の

関係を概念的に把握したものではない︒熟達化の階梯を上るにつれて︑多くの意味を内在した概

念や表象と身体が同調して︑行為を生成してゆく︒それだけでなく︑概念化された単位と身体︑

さらには身体と行為の対応関係を内部観測するようになってゆく︒

  最後に︑熟達化のなかで自らが行為を捉え︑それを概念的に自己説明するとしても︑その説明

が実際には他者の考えによる説明であることも多い︒熟達化の内部で進行している過程を自分の

実感として理解しているとは限らない︒そのため︑行為の生成の真只中でなされた自己説明と他

者説明とのあいだに齟齬や矛盾が生じる︒自己説明という概念は︑物理学の課題で自己説明を促

す条件が統制条件よりも成績が良かった事実︵チィら︑一九九四︶に基づいているが︑なにも目

新しい概念ではない︒誰しもが問題に直面した際に行っていることである︒自己説明するなかで

自らが構築したモデルを修正し︑他者説明との齟齬を解消してゆく︒このことは︑自己説明が他

者説明に近づくのではなく︑むしろイナクトされた環境において自己説明と他者説明が統合され

ることによるものであろう︒それはイナクトされた環境を自分の身体に引き寄せて︑そこで自作

︱自演モデルを実行することである︒

(37)

し︑タイを経てカンボジアに辿り着いた︒そこで出会ったアンコールワット・アンコールトムのクメールの像にすっかり魅了された︒

帰国後︑フランスのギメ国立東洋美術館所蔵の写真を参考にしながら彫り上げたが︑所蔵仏は両腕が破壊され跡形もない︒腕の形次 第で違った仏像になるが

私の好みのままに鑿を進めたのである︒

プラ ーパ ーラミタ

 桂造 総高二尺︵平成一七年作︶

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