• 検索結果がありません。

自閉症の哲学的探求 ― 新たなパースペクティブの形成を巡って ―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "自閉症の哲学的探求 ― 新たなパースペクティブの形成を巡って ―"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1 はじめに

 旧約聖書の創世記において,主(神)は最初 の人間(アダム)を土から創った。あらゆるも のどもは,土に同化していたのだ。人間は知恵 の実を食べることによって,裸であることの羞 恥心を自覚した。つまり,同化していたものが 分裂し,他者の視線を自己意識に組み入れたの である。人間は,自我と他我との相互関係に よって,意識(自我)を二重化したのだ。つま り自己意識が生じたのである。更にこの事態を 言い換えると人間は,自我-私を限定するとと もに,自分から分裂(区別)した他者との間で 羞恥心という共感を得たのである。この時,性 器を隠すという自覚的な行為が初めて行われた のだ(1)。このように叙述すると自己意識は,ア ダムとエバとの間の一対の関係から生じたよう にみえる。この事態について会田雄次は著書

「アーロン収容所」の中で,明解に述べている。

捕虜であった会田が掃除のために部屋に入る と,全裸の白人女性は日本人であることを知る と,ごく自然に髪をすき始めたという。つまり 他者を認定することとは,同一物をシェアーす ることと重なるわけで,白人の女性にとって会

田は,同一物を分かち合う対象(他者)ではな いのである。このことは人類が他の生物と区別 される重大な事態である。

 知恵の実を食べる以前の人間は,自分を自覚 しておらず,他の存在者と同様に「ただ食べ,

ただ寝る」という無限定を生きていた(2)。一方 自分を限定した人間は,限定に対する無限,個 に対する全体という観念を持つに至る。

 自覚した人間が,ある事柄を同一のこととし て了解することとは如何なる事態なのだろう。

それは人間同士が,他の存在者や存在の仕方に 対し,同一の了解を持つことである。この時,

同一の視点により自然の中に秩序が設けられ る。一方,同一のこととして捉えられないこと は,無秩序とみなされる。人間にとって無秩序 とは,渾沌,押し寄せてくる迫動となる。

 ハイデッガーは,ニーチェについての講義録

(以下

:

ニーチェ講義)の中で,この迫動の中で の生あるものの実践とは,「それ自体において 存立確保(

Bestandsicherung

)なのである」とし,

「押し寄せてくるものごとを或る静止的なもの

-形態や図式へ転化することを要求する」こと であるとした。この図式欲求こそ,押し寄せて くる迫動的なものを持続化の圏域内に囲いこむ

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程4年(指導教員 那須政玄)

論 文

自閉症の哲学的探求

― 新たなパースペクティブの形成を巡って ―

三 浦 仁 士

(2)

ことであり,そして生けるものの生動性はそこ から不断にはじまるという」[

Heidegger

1961

:

訳129

-

130]。

 各時代には,その時代に固有の世界観があ る。現代社会において生動性は,機能的な社会 という圏域に囲い込まれることによって不断に はじまる。赤ん坊は,この現代社会の環境世界 の中に産み落とされ発達する。

J.

ピアジェの発 達心理学は,生物学的,遺伝学的アプローチに よって人間の身体的・知的発達過程を研究する ものである。そしてピアジェは発達とは,環境 世界への適応であるとし「主体による客体の同 化,客体への主体の調節の理論」であるとする

Piaget

1948

:

訳17]。つまり,ピアジェは環境 世界と身体との不調和は,相互作用によって調 節され,身体機能の構造が,環境世界の構造を 取り込むことによって身体機能と環境世界は均 衡に至り,身体は環境世界と同化したとされる のである。この「調節・均衡・同化」という過 程こそ,ピアジェ発達理論の中心概念であり,

不変項と呼ばれる。発達は不変項に基づき,吸 啜反射(口腔と乳房との間の関係の系)から環 境世界全体へと向かい,身体的,知的同化の経 路をたどるのである。ピアジェの発達理論は,

身体を構成する諸組織・諸器官が協応すること によって,身体は環境世界全体を同化させてい くと考えるのである(3)

 当初発達理論は,障害を遅滞とみなし,理論 の中心から除外するか,障害を対象とする論を 組み立てる場合は,リハビリテーション等に よって,如何に遅れを正常な発達に近づけるの かという議論に終始した。

 ところが昨今,

M

フィッツジェラルドら児 童青年精神医学,発達心理学の研究者らは,高

機能自閉症[

High functioning autism

]及びア スペルガー症候群[

Asperger

](以下

: HFA

ASP

)の人々が,一つの主題に徹底的に集中し,

創造的な作品を作り出すことについて注目する ようになった(4)

 しかし,創造性に焦点を絞る場合,その対象 は,

HFA

ASP

の人々だけに限定されること になる。一方で

HFA

ASP

は,自閉症スペク トラム(以下

:

自閉症)という同一障害がもつ 幅広い症状の中に含まれているとみるのが一般 的な見方である。本論考は,自閉症に共通し て表れる症状こそ,

HFA

ASP

の人々による 創造性と連続していると考える。その自閉症に 共通する症状と自閉症者(5)に特有な規則的な行 為,論理,製作物等との関係を十分に説明する ことによって,創造性を可能とする自閉症者に 特有な世界観を描くことができるのではない か。こうした試みは,現代に生きる平均的な人 間が,どのような仕方で生きているのかを解明 することでもある。

HFA

ASP

の人々の創造 性を示す数学,物理学,建築物の設計,論理哲 学等への寄与を,現代社会に有用なものとし て,自閉症の遅滞と見る立場から症状を分離す ることは,現代社会の価値観を無批判に肯定す ることに他ならない。

 同化と分裂あるいは無限定と限定という概念 は,「隠れ」と「目立ち」という概念と重なり 合い,本論考の底流を流れている。したがって 本論考は,平均的人間による遠近法的展望=

パースペクティブについて検討し,自閉症者を 機能的社会の圏域に閉じ込めるのではなく,そ こから哲学的,存在論的な見解を導きだそうと するものである。このことは,自閉症者に特有 なパースペクティブを明らかにするとともに,

(3)

彼らの創造性についても十分な説明をなしえる と考える。

2 精神科医による自閉症の報告  自閉症について論じるにあたり,自閉症者 は,一体どのような行動をするのか,具体的に みておく必要がある。

 アメリカの精神科医レオ・カナーは,1943 年 に「情 動 的 接 触 の 自 閉 的 障 害 」(

Autistic disturbances of affective contact

)において,11人 の子供の症例報告を行った。その中で,母親の 証言を交え,チャールズという4歳半の幼児の 症例について記述しているので要約する。

 1.母親と気持ちが通じない。人と関係を結 ぶという感じがない。2.他人の立場から話 す。「あなたは~した」「彼は~した」というよ うに,自分のことを話す。自分の行為,願望に 対して「僕は~したい」という人称代名詞を使 わない。代名詞を除く単語の記憶力は抜群であ る。3.一歳半の時には,おもちゃ,ビンや ジャーの蓋をくるくるまわすという行動を繰り 返していた-常同行動[

KanneR

1943]。これ らの症状は,自閉症児に共通するものである。

 自閉症児は,無生物に注意を向け,夢中にな るのに対して,母親(他者)との関係において は,目もくれないという症状が現れる。そして 自閉症児は,他人の存在に気付いていないと 言われる(6)。自我と他我とは相互関係にあるの で,他我がないということは自我もないという ことである。勿論,自閉症児には,自我及び他 我が存在しないということではないので,自閉 症児の特徴を自我あるいは他我の希薄性と呼ぶ ことにする。

 アダムとエバは,同化していた状態から分裂

し,限界が設定されることによって,意識が二 重化し,羞恥心(自己意識が発生し),つまり,

共感が芽生えた。この自己意識の構造を,詳し くみていく必要がある。

 筆者は,カナーの報告にみられる自閉症児の 症状は,自閉症者がみせる驚異的な記憶力,細 部まで描く描写力,規則遵守の姿勢,論理,創 造性等と連続した関係を有していると考える。

このように考えると,自閉症の症状を単なる遅 れとして捉えることはできないのである。

3 基軸としての身体-左・右の考察  自分の娘が,

ASP

であると診断されたことを きっかけに,自身も

ASP

であることがわかっ たリアンの体験をみる。

 高校に入学し,チアリーダーを目指したリア ンは,手本となる者と向き合い,他のメンバー と一緒に踊る時のことを回想して次のように証 言している。

 「私以外の全員は,目に映った動きとは左右 裏返しに体を動かせるらしい。リーダーが左腕 を動かせば,みんなも左腕を動かす。これが私 にはできなかった。向かいに立った人が左腕を 動かせば右腕が,右腕を動かせば左腕が動いて しまう。これではいけないとわかってはいる。

でもどんな工夫をしようと『先輩の右手は,私 の左手』と何度自分に言い聞かせようと,やは りだめだった。頭ではわかっても,体には伝わ らないのだ」[

Liane

1999

:

訳41

-

42]。

 以上の証言は,自閉症者の特徴とどのように 関わっているのだろうか。

 左・右は,自己の身体の出現において現われ る。自己の身体の出現とは,自己が限定されて いることである。そして,これまで述べてきた

(4)

ように,自己の身体とは,自己の二重化として の自己意識において,はじめて自覚されるので ある。

 幼子は,向き合う手本の他者に合わせて動作 を行う時,リアンのように間違った動作を行 う。幼子が正しい動作を行うためには,どのよ うなことが必要となるのだろう。まず,自分の 身体を基軸として設定(ポジショニング)を行 う。その上で私の身体の左・右の方向と向き合 う他者の身体の左・右の方向が,逆になること を自覚する。私に即して言うと私の身体にとっ て左腕と右腕は絶対的であり,私が回れ右をす ると左腕と右腕は逆の方向にある。つまり,最 初の位置にある自己の身体を基軸に左・右を置 くことによって,向き合う他者の左・右がどち らの方向にあるのかを知ることができるのであ る。

 リアンは,自己意識においては,左腕や右腕 の正しい動作を自覚している。リアンが,正し い動作をすることができないのは,自己の身体 の基軸性の希薄さによるのである。従って身体 は,向き合う他者の動作に対して反射的に動い てしまうのだ。身体は,意識と分離し,他者と の間の一対の関係の中に留まる。一対の関係と は,何を意味するのだろうか。仮に,リアンの 身体と向き合う他者の身体との一対関係だけが 存在するのだとしたら,リアンの動作を間違っ ているということはできない。だとしたらどの ような構造においてリアンの動作は,間違って いることになるのだろうか。メンバーと手本の 関係構図をみる。同じ動作をする者として相互 了解しているメンバー同士は,手本が示す動作 に対して,相互意思疎通によって手本の動作を 同一なこととみなし,同一の動作を行う。だか

ら正しいのであり,それができない者は間違っ ているということになる。リアン以外の他のメ ンバーたちは,手本と左・右の方向が逆になる ことを認識した上で,正しい動作を自己の身体 に組み込んでおり,動作を一々意識することは ない。他のメンバーたちは,一様に正しい動作 をすることによって身体は,目立つことなく隠 される。

 身体の目立ちと隠れもまた,同化・分裂と類 似した形態とみることができる。すなわちアダ ムとエバは,裸で一様に暮らしていたが意識の 分裂によって,限定され,身体(性器)を意識 し,イチジクの葉で性器を隠した。この隠すと いう行為は,他者を認定したことであり,同一 物をシェアーすることと重なっているのだ。共 通の世界観を築いたことである。言い換えると 自己意識が二重化されるというのは,ある事柄

(欲望することや羞恥すること)を他者と同じ くすることである。目立ちとなった性器は,隠 されなければならない(8)

 目立ちとは,ある時代の世界のあり方とも関 係する。だとするとチアリーディングという集 団的身体運動が行われる時代の世界をみること によって,この時代に特有の目立ちと隠しがあ るはずである。このことは後で述べる。

4 平均的な乳幼児の一対の関係(反射 の関係)から同一のことを同一のこ ととして了解する関係への移行 4-1 一対の関係から同一視する関係への移

 一対の関係は,人間を含む哺乳類,鳥類等,

身体が相似対称的に形成されている生体の成長 にとって重要な意味を持っている。例えば鳥の

(5)

雛は,親鳥が羽ばたいている姿を模倣すること によって翼という部分肢の動かし方を覚える。

動物は身体を意識する自我を持つことなく本能 的にそれらを行う。この相似対称的な身体を持 つ者同士の同型的一対の関係は,人間の間で は,どのように現れるのだろうか。

 発達心理学者の浜田寿美男は,生後一ヶ月半 ぐらいの赤ん坊は,母親等(身近にいる者)の 向ける笑顔に,やがて笑顔を向け返すようにな ることを同型的一対の関係の成立にとって非常 に重要なやりとりであると考えている(9)。この 時,乳児は,目,口,頬等,顔の様々な部分肢 を機能させ同型の表情をつくりだす。更に浜田 は,赤ん坊が笑顔の意味を分かっているのでは なく,微笑みを返すという同型の活動が先立つ と指摘する。この指摘は,重要なので後で論じ る。いずれにせよ,笑顔を向け合うことにおい て,平均的な赤ん坊は,同型的一対の本能的反 射関係に入り,他者との間で共感性を得るきっ かけを獲得するのである。一方,自閉症児の場 合,微笑みを返すことは,ほぼないに等しい。

共感は,乳幼児と他者との一対の関係の中で起 こる。そして,この一対の関係における共感こ そ,対象を他者と同一しし合う関係に入ってい く萌芽なのである。

 乳幼児は,更なる発達を経て一対の関係から 共同注意-共同注視(

joint attention

以下

:

共同 注意)という関係の中に入っていく。それは幼 児が,線路上を走る電車を指さし「デンシャ」

という時,母親が「ほんと,電車だねえ」と返 し,同じものを見ているという心の交流を深め ている状態をいう。人間の共感は,例えば電 車,バス等,何らかの対象の知覚を通して形成 されるのだ(10)。一方,自閉症児は,共同注意

以前に,対象に対して何らかの意図を持つ指さ しも困難である。そもそも自閉症児は,目を合 わさないのだから,微笑み合うという一対関係 をつくることが困難であることは先に述べた。

従ってある対象に対し,他者と共感すること は,当然困難になるのだ。かくして自閉症児の 症状は,発達の遅れとして捉えられる。一対の 関係の成立は,他者との間で同じ人間同士であ るという相互了解の始まりであり,他者との間 で同一の対象(事物的存在者)を見出していく ことは,人間同士が事柄を同一と了解し合うこ とである。それは自他未分離の状態から自己と 他者,自己と事物的存在者とが分離していく過 程でもある。すなわち,自他未分離状態から対 象を同一視する関係への移行とは,自我が芽生 えてくることであり,自分に限定を設ける過程 だとも言える。一方で自・他意識が希薄である 自閉症者は,自我を基軸とすることが苦手であ る。だとしたら彼らは自我の横溢する現代社会 という圏域に投げ込まれながら,無限定的なあ り方をどこかに保持していると言えるのではな いか。

 平均的な人間は,自己を限定することによっ て,欲望の対象である性器を隠すという行為を した。性器を隠す行為とは,原初的な行為であ り,同一の事柄を了解したことである。しか し,なぜ人間は同一のことを了解しあうのだろ うか。このことについては平均的な人間と自閉 症者の特徴を比較することによってある程度の 答が得られる。熊谷高幸(障害児教育学)は,

怒りや恐れ,闘争本能が自閉症児にあっては乏 しいことを指摘する[熊谷

1993

:

162

-

184]。平 均的な幼児は,幼児同士でおもちゃを奪い合 い,喧嘩をして勝った者は喜び,負けて取られ

(6)

た者は悲しむ。幼児は,おもちゃを欲望し,争 うのである。自閉症児は,そもそも物を欲望し ないので,事柄がどのようになろうと無関心で ある。人類は,集団生活の中でルールをつく り,家族,民族を形成した。そして人類は集団 の「なわばり」を他のどんな生物よりも拡張し ていく志向が強い。同一の事柄を了解しあうこ ととは,他者を組み込み,自我を有した人間が 他の存在者を欲望することに始まり,人類のな わばりを拡張することに関わっているのではな いかと思われる。つまり,他者を欲望すること は,自己を知ること(自己を獲得すること)で あり,そこから一つの対象のシェアーが可能と なる。他者,おもちゃ等を欲望すること,闘争 本能が発達に深く関係することは,熊谷も指摘 することである。

 ピアジェの発達理論は,発達とは母体の中の 自他未分離の状態(同化)から,次第に分離(分 裂)していき,再び身体と環境世界とが同化す るという考え方である。一方で,自閉症児は,

常同行動にみられるように平均的な人間とは異 なる限局的な行為から出発する。この限局的行 為もまた無限定と関係している。勿論,自閉症 児が無限定を保持しているからといって,平均 的な人間と無関係に生きるのではなく,平均的 な人間の圏域内に「居る」のであって,影響を 受けないことはないのである。従って自閉症児 は,平均的な人間との交渉を通して,平均的な 人間とは,ズレた世界を形成するのだ。そして 自閉症者が,緩やかなスピードで開花させる表 現こそ,彼らの驚異的な能力,創造性なのであ る。以降,その観点から論じていく。

4-2 自閉症児の存在の仕方

 カナーの症例報告にあるように自閉症児は,

本来なら「私は~した」であるところを「あな たは~した」「彼は~した」というように話す。

それは他者が,自分のことを話している場所に 出くわし,その都度,他者が自分に付与する呼 称を用いて,自分のことを話していると考えら れる。

 浜田は,人称代名詞の転換の例を取り上げ自 閉症児の言語使用について,詳しく論じている ので以下にみていく。

 「わたし(自分)」と「あなた(相手)」とい う一対一の対応関係の会話において「わたし」

と「あなた」は,四通りに役割分担をする。つ まり,1.自分の「わたし」-自分,2.相手 の「わたし」-相手,3.自分の「あなた」-

相手,4.相手の「あなた」-自分である。浜 田はこれらの人称代名詞の交換ができるために は,私が相手の言葉を聞くとき,その相手の パースペクティブ(視点,視覚,あるいは意 図,相手の話の脈絡)をおのずと取り込んでい ると指摘する[浜田

1992

:

201

-

216]。パースペ クティブを取り込むとは,どのようなことをい うのだろうか。その具体例として,玉井収介の

「自閉症」(講談社新書)のエピソードが上げら れる。

 先生がある自閉症児の手を握り「冷たいね」

と言った。二週間後,その子は,ストーブにあ たりながら「冷たい」と言った。というのは,

二週間前に自分の手を握った先生の手は「暖か かった」ので,その子は自分にとって「暖か い」場面で「冷たい」と言ってしまったのであ る[浜田

1992

:

193]。

 浜田は,自閉症児は他者のパースペクティブ

(7)

に立つことが困難であると言う。それは自我が 他我の視点に立つことである。だが本論考で何 度も指摘しているように,自我が他我の意識を 組み入れ二重化するから,自我(私)は,私 があることを自覚することができるのである。

従って相手の視点に立つことができないのは,

自我の視点に立つことができないことでもあ る。

 自閉症児は,リアンと同じように一対の関係 において他者の言葉を反射的に返しているの だ。これが鸚鵡返しと言われる行為である。だ から,自閉症児は,自分のことを二人称あるい は三人称で話している他者による自分に対する 人称代名詞を,そのまま受けとめ自分のことと して使用してしまうのだ。ではどうして「こ れ」「それ」という指示代名詞を覚えることも 困難になるのだろうか。指示代名詞は,発話者 の身体の位置(ポジション)によって使い分け られる。自己の身体を基軸として設定すること が希薄であるならば指示代名詞を使用すること は困難になる。このように考えると自閉症児は 言語使用においても,本来なら自我が設定され る場所を他我によって占領されるというような 状況が生起しているのではなかろうか。先生の

「冷たいね」という言葉によって希薄な自我は,

占領されてしまうのである。

 だが,先に述べたように自閉症児は,自我や 共感を欠いた状態に留まり続けるのではない。

他者との交渉において自閉症児の中に変化が生 じる。この変化を述べるにあたって,変化と自 閉症児の特徴的な行動とを関連付ける必要があ る。

 他者との一対の関係になかなか入ることので きない自閉症児は,対象と同化するという独自

の関係に入り込む(常同行動)。この対象との 同化-常同行動と,彼らが生み出す表現は連関 したものなのである。先述したフィッジジェ ラルドら述べている

HFA

ASP

の創造性とは,

自閉症児の遅れとみなされたところの特徴が,

原動力になっているということだ。

 筆者は,自閉症者の世界への参与は,平均的 な人間とは,異なる別の角度(ズレ)からの表 現であると考える。この観点から,彼らの論 理,製作物,創造性を論述することは,現代社 会に一石を投ずることになると確信している。

5 持続的存立確保という観点からみた 自閉症者のパースペクティブ  カナーの症例報告にあるように自閉症児の

「母親と気持ちが通じない」という特徴は,他 の多くの臨床例も指摘するところである。そ の後,成長してから常同行動(例えばビンや ジャーの蓋をぐるぐるまわして時間を費やす)

や道順や家具の配置にこだわる同一性保持の傾 向が現れる。加えて,ホブソンら多くの発達心 理学者は,生後2年目の中頃にみられるよう な,例えばマッチ箱を自動車にみたてて遊ぶ行 為-「象徴遊び」に自閉症児は,顕著な遅れを 持つと指摘する。一方で,自閉症児は,「視空 間的な(入り組んだ)パターン認識のような非 言語的認知能力が高いのに比べて,言語面での 発達は,ほぼどのケースでも遅れている。」(11)

と述べている[

Hobson

1993

:

訳13

-

14]  まず,「母親と気持ちが通じない」という問 題を検討する。先に述べたように平均的な乳幼 児の場合は,母親が微笑むと微笑みを返すとい う仕方によって,一対の関係における共感の萌 芽を示す。微笑み返しができない自閉症児の特

(8)

徴は遅れと捉えられるのであるが,この自閉症 児の特徴は,後になって現れる常同行動と同一 性の保持という行動との関連で捉えなければな らない。微笑みを返す行為は,一対の反射的な 関係の中で現れる。しかし,微笑みとは,実に 変化に富んだ人間の相貌の一つでもあるのだ。

また乳幼児と顔を合わすのは,母親一人に限ら れたことではなく,父親,兄弟,その他,様々 な人々が顔を合わす。身近に感じる者の微笑み を返すことは,全体的な相貌を大雑把に模倣す ることである。このように捉えると,自閉症児 が後にとる常同行動,同一性の保持とは,人間 の相貌の流動性を否定し,限局された物である ビンやジャーの蓋の回転運動に依拠しようとし ていることなのではないだろうか。平均的な赤 ん坊は,他者との交渉において大雑把に表情を 捉えていく能力を既に0 0備えており,しかも微笑 みのような他者と気持ちを通わせる行為を通じ て自我の中に他我を組み込み,自我を二重化し て自己意識を形成することによって私があるこ とを自覚する。この過程において,自我を次第 に自らの環境に向けて限定していくのではない のか。一方で自閉症児は,他我の相貌よりも限 局され確実に持続する事柄(循環)へと自らを 同化するのだ。なぜ,同化するのかというと,

自閉症児は,自我が希薄であるからだ。このよ うに考えると自閉症児が象徴遊び(マッチ箱を 自動車に見立てて遊ぶという行為)をしないこ との理由もわかる。つまり,直前にあった自動 車を主観によって表象しなおし,自動車は四角 くて,動くものというように大雑把に捉えると いうことをしないということである。自閉症児 は,その代わり,タイヤの運動に同化していく。

 彼らのこの特徴は,自己無限定的であるとと

もに無時間的でもあると言える。

 「はじめに」で述べたハイデッガーのニー チェ講義における見解は,「生あるもの」の存 立確保について言及したものであるが,自閉症 児の特徴についても,的確な解答を与えるもの となっている。

 ハイデッガーは,ニーチェがいう人間の図式 化傾向と渾沌との関係を次のように整理する。

生あるものは,迫動的なものを持続化の境界内 に囲いこみ存立確保を図る。境界で囲い込むも のをギリシア語では(地平)と言う。渾沌は,

遠近法的展望(予感される見通し),持続的存 立の視野のうちでのみ認知され,そこからそ の都度立ち現れる地平によって囲いこまれる。

その仕上げが図式形成なのである[

Heidegger

1961

:

訳132

-

133頁]。

 更にハイデッガーは,発達理論が提起すると ころの一対の関係から対象を同一視する関係へ の移行を知っているかのように,ニーチェにつ いて論じている。ニーチェの問題設定は,個別 化された人間から出発しており,相互了解とし ての人間同士の関わり,相互意思疎通として の人間たちが関わっている事物との関わりで あり,或ることについての相互了解とは,そ れについて同一の意思を持つことであるとす る[

Heidegger

1961

:

訳135頁]。勿論,ハイデッ ガーにおいては,発達理論的な観点はなく,相 互了解と相互意思疎通は同時に行われることと して論じられている。

 ハイデッガーは,ニーチェの問題設定に立っ て以下のように述べる。

 「人間たちの和合と不和は,自同的で持続的 に存立するものの確定にもとづいているわけで ある。仮にわれわれが,移り替わる表象や感情

(9)

の奔流に委ねられて,引きさらわれてゆくだけ だとすれば,われわれ自身は決してわれわれ自 身ではなく,同様に他の人間たちも彼ら自身 として且つ同一の人間たちとして,自分にも われわれにも決して立ち現れてくることがで きないであろう。同じように,同一の人間た ち同士が,同一のこととして0 0 0 0 0 0 0 0了解し合うべき 当の事柄も,正体のないものになるであろう」

Heidegger

1961

:

訳136頁]。

 人間は自らを自同的であると自己確信し,同 一なことを同一なこととして了解しつつ,遠近 法的展望に立って地平を形成するのである。そ してハイデッガーはこの了解こそ,「或る歴史 的人間類型がみずから高く掲げる本質的な諸 目標をめぐる最高の闘争なのである」と言う

Heidegger

1961

:

訳137頁]。

 遠近法的展望とは,パースペクティブのこと である。パースペクティブの基軸(中心)に位 置するのは,事物的存在を自身の前に引き立て る(

Vor-Sich-Bringen

),人間なのである。

 発達理論は,まさに身体(心身)と環境世界 とを事物的に前に引き立て,身体と環境との適 応度の平均を打ち立てる学問である。産み落と された赤ん坊の発達とは,出会うものごとを,

既在の認識に基づき,その通りに受け止めてい くことである。

 発達理論的に言えば人間同士の相互了解の萌 芽は,乳幼児の時の微笑み返しにみられ,相互 意思疎通は,事物に対する共同注意によって育 まれる。幼児は,事物を名指すところからはじ まり,その名指された事物がどうであるかとい うように,出来事を言明できるように発達する のである。幼児が出会った対象及び事柄を同一 のこととして了解することこそ,パースペク

ティブ形成の萌芽であり,幼児が世界の圏域に 参加することなのである。一方,自閉症児は,

その特徴からこの圏域に参加することが困難と なる。だから,多くの発達理論は,自閉症児ら の特徴を「遅れ」として捉え,訓練を促し,圏 域内へと囲い込もうとする。しかし,こうした 態度が決定的に見逃していることは,常同行動 や同一性の保持という同化的行動,一対の反射 的行動の意味なのである。自閉症児の常同行動 や同一性の保持とは,人間が持続的存立という 見通しに立って,押し寄せてくるものごとを了 解することに関係している。自閉症児は,平均 的な幼児が圏域内に参入するのとは,異なる方 法をとるのだ。平均的な幼児にとって,母親等 の笑顔(相貌)は,最も身近で親しみのあるも のであるとともに大雑把に模倣することが可能 なのである。しかし,先にも述べたように自閉 症児にとって,人間の相貌は得体の知れない相 を呈する。一方ビンやジャーの瓶の回転運動 は,自閉症児にとって人間の相貌に比べると,

より固定的な持続性(循環性)を持っているの ではないか。自閉症児は,大雑把にものごとを 捉えていくのとは異なり,限局的な部分からな る循環的な物の運動へと入り込んでいくのであ る。

 平均的な幼児は,母親等,他者との一対の関 係の中から共感を育み,物に対する他者との間 の共同注意を形成することによって物を名指 す。初めて言葉を発するようになる幼児と母親 等との関係において物の同一性は,以上のよう な関係において生じた。そして物を名指す行為 は,認識へと移行する。これらの過程は,平均 的な人間が,ある物を持続的存立の中ですでに 固定してきたことを前提としている。言い換え

(10)

ると既に認識されている物を,認識されている 通りに認識するということである。

 一方自閉症児の場合は,投げ込まれている世 界の得体の知れなさの中で,持続性の高い物体 の規則的運動へと同化する。この同化する物と は,現代社会の用具的存在者の連関の中から切 り取られ限局された部分的な物である。自閉症 児に見られる,自分の身の回りの物が少しでも 位置を変えようものなら,すぐに元通りに戻す という同一性の保持もまた,常同行動と同様に 持続性に関わっているのではないか。平均的な 人間は,限定によって他者や物を自己から分離 し,自分自身を設定する。自閉症児は,このよ うに自己を限定し基軸化することに困難を抱え ているのである。従って平均的な人間において は,自己の限定を通して相互了解,相互意思疎 通という関係に入っていくのではなく,希薄な 自我という特徴によって無限定的に物と同化す るのである。それに対して自閉症児は,持続的 に運動する物によって自我を占拠されるにまか せるのだ。しかし自閉症児は,世界と交渉する 過程において,同化的状態からはみだしてい く。そして平均的な人間のパースペクティブか らズレたパースペクティブを形成し,平均的な 人間のパースペクティブに,自らのパースペク ティブを重ねていくのである。このズレこそ,

フィッジジェラルドらがいう創造性の原動力な のである。この原動力は,彼らの平均的ではな い存在の仕方にあるのだ。つまり自閉症者は,

持続的に存立する事柄と同化することによっ て,事柄をそのままに表現し,更にその事柄に 厳格な規則をみいだし発展させていくのであ る。

 リアンは,幼少時のままごと遊びの時など用

具が秩序正しく並べられていることに興味が限 局され,他の子供が並べ替えると我慢の許容を 超えたとし,更に「ことばとは細部優先の,過 剰なまでに形式的な規則」であり,「ことばと 意味とは一対一で対応している」と述べてい る[

Liane

1999

:

訳22]。これは自閉症児の多く が持つ「同一性の保持」であり,言語と意味が 一対一で対応しているということは,ある物を 指し示すときに確実性を増すとも言える。逆に

「それ」とか「これ」という曖昧な指示代名詞 は,不可解極まりないものとなる。自閉症者は いわば平均的な人間の曖昧性に翻弄されるので あり,自分達の厳格な規則性によって世界を翻 訳し独自の世界をつくりだすのだ。

 自閉症児が同化する限局された部分の循環的 運動は,平均的な人間が投げ込まれている同じ 世界の中の部分なのである。従って,自閉症児 は,世界の中で出会うものとの交渉を通して,

物の配置の固定的な規則をみいだし,その規則 にいわば同化的に依存していくのだ。同時に他 者との交渉を通して薄っすらと他我が現われる ことにより,薄っすらと自我が現われてくる。

だから自閉症者が他者と築く関係は,時に自身 が同化的に依存する規則で他者を統制しようと いう態度に表れる。多くの自閉症者は,成人し てからも他者の存在の希薄さを証言する(同時 にそれは自我の希薄さでもある)。彼らはこう した特徴によって平均的な人間が築いていく関 係とは,ズレたところから関係を結ぶのであ る。

 もっとも,彼らが彼ら自身の世界があること を証言し始めたのは,自閉症という症例が確認 されたごく最近のことである。従って自閉症者 のパースペクティブと平均的な人間のパースペ

(11)

クティブとは,どのような関係を持つのかとい うことは論じられたことはない。例えば自閉症 者は,十数年にも渡るカレンダーの気の遠くな るような過去あるいは未来の日付の曜日を言い 当てる。カレンダーは人間がつくった時間であ るが,その日付と曜日の関係は14パターンの循 環なのである。自閉症者は,現代人が直線的に 引き伸ばした時間とは異なり,数字と曜日とい う文字の循環にリアリティーを持つのである。

常同行動を解く鍵は,ものごとの循環性にある と思われる。また,自閉症者は過去に一度見た 風景を記憶の中に取り込み,精度の高い描写を 行ったりする。これらの高度な能力は,果たし て強度の高い持続的存立性に同化していく自閉 症児の特徴から由来するという説明で片づけら れるのだろうか。もしかしたら占拠している事 物に対し,瞬間的にシャッターをきり映像化し ているのかもしれない。このことについては,

今後の研究において探求していきたい。

 自閉症者は,厳格な規則性,視覚空間の優位 等の特徴から驚くべき創造性を発揮する。その 理由の一端は,既に述べた通りである。

 筆者は,自閉症者は,平均的な人間とは異な り,特有のパースペクティブを形成することを 示唆した。そして自閉症者の創造を可能として いるのは,自閉症者のパースペクティブが,平 均的な人間のパースペクティブとズレているが 故であることを示した(いわば平均的な人間 は,事柄を自分の視点に翻訳し表現するのだ が,自閉症者は,事柄をそのまま表現する)。

 一方で,平均的な人間は,自閉症者と比べる と実に曖昧であることに気付く。この曖昧性と は,どのようなことなのかを理解することに よって,自閉症者の形成するパースペクティブ

がより鮮明になると思われる。

 その前に共同注意によって名指され,認識さ れることになる電車とは,事物的存在者である と同時に,乗る用具でもある。

 次章において,平均的な人間が,どのような 存在者であるのかを検討することによって,現 代社会において自閉症者はどこに位置づけられ ているのかを明らかにする。更に左・右の問題 を別の観点から再び取り上げ,左・右とは,何 かを検証し,自閉症者の存在可能性について考 察を深めることとする。

6 世界=内=存在と自閉症 6-1 身体性から隠れへ

 ハイデッガーは,『存在と時間』(1927)にお いて用具性が事物に先立つと考え,「われわれ は,配慮において出会う存在者を,道具0 0

das Zeug

)となづける」と言う[

Heidegger

1927

:

161頁]。現存在(人間)は,配視的配慮によっ て用具的存在者との親しみのなかで,出会い,

たずさわっているのである。普段,用具的存在 者は,「目立ち」というあり方において隠れて いる。しかし,「目立たしさ,催促がましさ,

煩わしさというこれらの様相は,用具的存在者 において客体性の性格を浮かびあがらせるとい う機能をもつものである」[

Heidegger

1927

:

172

-

173]。用具は,故障,不具合において客体 性を浮かび上がらせるのである。

 一方,発達理論的にいうと,幼児は,名指し を通して,事物的存在の認知を先に行っている のではないかという疑問がでてくるが,そうで はないのだ。幼児は,あらかじめ出来上がって いる用具的存在者の連関の中に産み落とされ る。赤ん坊は,病院で生まれ,用具で洗浄され

(12)

る。かつてなら,産婆に受け取られ,産湯につ かっていたことだろう。先述した「赤ん坊が笑 顔の意味を分かっているのではなく,微笑みを 返すという同型の活動が先立つ」という浜田の 見解は,共同存在する現存在(人間)は,誕生 において意味からではなく型から入るというこ とである。同様に,事物的存在を名指すという 行為は,現存在が産み落とされ,(型どおりに)

はめこまれている用具的な連関があるからこ そ,可能となっているのである。

 ハイデッガーは,世界=内=存在という概念 を用いて道具の「目立ち」と「隠れ」を説明し た。「目立ち」とは,道具が用具的存在者の連 関・配置の中から事物的に浮き上がることであ る。人間の身体もまた世界の配置の中に隠れ る。人間は,自らを限定することによってエデ ンの園から追放された。つまり,他の存在者と の一様さの中でに生きていくことができないの だ。従って道具立ての世界の中で用具的存在者 の狭間に,身を隠すのである。

 

ASP

であるリアンは,左・右の動作について 一々考えないといけなくなり,身体が目立ちに 晒される。自閉症者は,正常な人間に対して壊 れ(故障)としての目立ち,遅滞と認定され現 代社会の圏域に囲い込まれる。これが自閉症者 の現代的な意味での位置である。

 昨今,障害は医学的な知見でのみ確定される のではなく,むしろ社会制度的,社会環境的な 制約を受けているという考えが主流になってき た。すなわち制度や環境世界の改変(バリアフ リー化等)によって制約を取り除こうという試 みである。この試みも,現代的な「隠れ」のあ り方であるということができる。

 しかし本論考は,現代社会の射程に踏みとど

まるのではなく,自閉症者の存在可能性を,彼 らの形成する特有のパースペクティブから論じ るものである(勿論,ハイデッガーも現代社会 的射程に立っているのではない)。

 5章で述べたように平均的な人間は,自閉症 者の同化的無時間的な持続性からなる厳格な規 則性に比べて,実に曖昧であることがわかる。

このことは自閉症者の存在の仕方から反照的 に,自覚されたことでもある。以上のことを踏 まえ,人間の身体を中心とする左・右の問題を 再び取り上げ,左・右の確定とは,そもそもど のような事態のことなのかを問う。更に,近代 的な学問である発達理論は,この時代になぜ心 身の発達,自我の形成を,問題にしたのかを明 らかにする。

6-2 左・右の問題について-身体性の現わ れの考察

 ハイデッガーは『存在と時間』,第三章世界 の世界性,第二三節「世界=内=存在の空間 性」の中で世界を用具的連関として描き「現存 在が世界の『内に』存在するというのは,世界 の内部で出会う存在者に親しみつつそれと配慮 的に交渉しているという意味」であるとし「内 存在の空間性は,閉離(

Entfernung

)と布置

Ausrichtung

)という性格を示す」と言う。閉

離とは,「距離を取る」こと,あるものの遠さ をなくすことである。つまり用具は,適切な場 所にあらかじめ布置(配置)されているのだ。

現存在(人間)は,このような世界の内にあり,

用具は手元の手ごろな所にある。現存在は,熟 知された道具立ての連関にはめこまれているの であって,「左右の別は,主観によって感じわ けられる『主観的なもの』ではなく,いつもす

(13)

でに現前している世界のなかへ布置されている ことの方向である」と述べている[

Heidegger

1927

:

訳240

-

241]。用具は,既に丁度よい所に 配慮的に配置されているのであって,私が主観 的に「ハンマーは,私の右にある,ハンマー は,私の左にある」などと,その都度,身体を 中心とした左・右の方向を一々意識し,用具の 在り処を知るのではないのだ。用具は適当な近 さという曖昧性をもって配置されているのであ る。従って空間とは,手ごろな用具の配置の間 に伴って生じるのである。

 左・右とは,前・後と同じく,人間の身体を 基軸とする方向のことである。チアリーディン グの時の動作に,慣れることによって身体は隠 れる。それは自動車を運転するときに一々身体 動作のことを意識せずに運転するのと同じであ る。リアンの場合,左・右が意識されるのは,

他のメンバーと同一化することができないこと であり,身体は目立ちの状態に置かれる。しか し,3章の最後に述べたように,リアンの身体 の目立ちは,集団的0 0 0身体運動の中で生じたので ある。このように考えると,この時代は,どの くらいの射程で,誰がではなく世人(

das man

が何を欲望していたのかを考えることによっ て,身体性を読み解くことができるのではなか ろうか。

 身体に焦点をあてた発達理論の登場は,近代 の大規模な産業化と労働形態の転換が起こった 時代とほぼ一致する(大量生産・大量消費時 代)。日本近代史研究者の藤野豊は,1930年代,

多くの国民が参加する体操がつくられたと述 べている(12)。それは軍国主義の中の体力増強 の方針とも関わっている。チアリーディングも また,19世紀後半,アメリカの大学スポーツの

応援として生まれ,現在は,チアリーディング そのものがスポーツとなっている。運動会の入 場行進の練習のときに,先生の左・右,左・右 という号令が,校庭に鳴り響く。人間が集団と なって同じ動作を繰り返す運動は,かつてどの 時代にも存在したことのない事態である。つま り,この時代身体に照明があてられたのは,世 界のなかに布置(配置)されている用具の編成 と規模が大転換したことと密接に関わっている のである。

6-3 パースペクティブのズレについて  用具的存在者の連関からなる世界は,パース ペクティブと,どのように関わるのであろう か。用具的存在者の転換に即してパースペク ティブのズレをみていく。

 電車は「乗る用具」であると先に述べた。し かし,電車は手元にある用具とは,およそ性格 を異にする。電車は,内存在の空間性におい て,手元にあるような閉離性を示すのではな い。広大な広がりを持つ現代的な用具である電 車が運行するためには,巨大な空間と時間を制 御する必要があった。それこそ世界を一変させ るような描きかえが必要だったのである。

 デカルトが世界に与えた一撃とは,巨大な空 間と時間を制御する条件をつくったことであ る。デカルトは,確実性に基づき身近にある用 具を通過し「物質的事物は,純粋数学の対象で あるかぎり存在することが可能である」とした

Descartes

1641

:

訳107]。つまり数学的=物理 的パースペクティブに立って,存在者の持続的 存立を確保した。物体(延長実体)の運動は,

数学=物理的な空間の運動として数式によって 表される。

(14)

 デカルト的確実性は,存在者を数学=物理的 な物体とみなし,それまでの西欧世界のパース ペクティブであった類似による存在者の持続的 存立を崩していったのである。巨大な交通網や 大規模建築は,数学=物理的空間が必要不可欠 であり,電車のダイヤも数式によって作成され る。

 現代人は,曖昧を生きると同時に,時間厳守,

失敗の許されない作業等に従事する。いわば,

曖昧性と規則性を同時に生きているようなもの だ。しかし,規則と曖昧の両方を生きるという のは,「良い加減」に状況に合わせているとい うことでもある。ここに自閉症者の極度に厳格 な規則性を有したパースペクティブが入ってく ると,「きちんとしている」と思い込んでいる 平均的な人間は動揺せざるをえない。また学問 的訓練を受けた

HFA

ASP

の人々は,数学的・

論理的な理論に対して,一層精緻な理論によっ て反駁するか,さらに精緻な理論を構築してい くのである。

7 むすびにかえて

 成人してから

ASP

であるという診断を受け たグニラ・ガーランドは「世界は,常に変化し ている大きな謎であり,予測のつかない事件が ひっきりなしに起こりつづける」場所であった と言う[

Gunilla

1997

:

訳19]。これは希薄であ る自我の体験である。しかし,自我の希薄さは

「茶色い布の世界に引き込まれ,糸の一本一本,

織り目のすきまの一つ一つに心を奪われ」てし まう同化的傾向を促し「とにかく見た通りのも のを再現したい。そのためには,何もかも,残 らず再現したい。そのためには,何もかも,残 らず描きこまなければ…。だから私は,鼻の穴

を描き,眉毛を描き,手の指も足の指も,正確 に数を数えて描いた」[

Gunilla

1997

:

訳18]と いう衝動につながる。同化的傾向は,画用紙に 移され,部分に拘り極微細なものまで描き込む 精確な絵画へと結晶していく。

 ハイデッガーのいう「世界像の時代」とは,

世界が像となることであり,主観が客観に対し て優位になる時代である。自我を有すること は,自我が二重化することであり,ズレを含み 込むということだ。当然,人間同士の同意から なるパースペクティブは,ズレていく。デカル ト的な確実性に基づく存在者の存立確保は,数 学=物理的空間での持続を保障するものであ る。このことは,類似のつながりであった存立 を揺らがせ,空虚な空間に巨大な建造物を組み 立てることの序章だったのである。

 自閉症者もまた,デカルト的確実性に関わっ た可能性はある。しかし,彼らの多くは,既在 の事柄に,そのまま同化するか,そこからより 精緻な規則をみいだすことぐらいである。しか し,自我の希薄さから生まれる没入的な集中力 は,既在の論理規則をさらに徹底させて,途轍 もない「怪物」をつくる可能性を秘めている。

その用途は自閉症者には無関係だとはいえ,強 固な自我を持つ者たちが活用することもあり得 る。

 一方で自我が希薄であるということは,対象 との間のズレが少ないということである。これ は自閉症者の特徴である闘争本能に乏しいこ と,対象への欲がないことにつながっている。

集団的な身体運動が,発生した現代社会とは,

かつてのどの時代よりも人間の欲望が肥大化 し,「なわばり争い」が熾烈になった時代であ るのかもしれない。人間は,動物のようにあか

(15)

らさまで限局された「なわばり争い」をするの ではなく,人間同士で同一の事柄を了解するた めに,考え抜かれた集団的な争いをする可能性 を常に持っている。

 自閉症の哲学的研究は,現代に生きる私たち が,何者であるのかという自覚を反照的に与え る。21世紀に入り人間は,新たな技術革新を目 指し,用具はミクロの世界の技術へと展開して いる。現在求められる人間像は,最早平均的な 人間ではないのだ。最早,平均的な人間は求め られていない。この現代社会において,人間は

「良い加減」に生きる領域を失いつつあり,自 我は,崩壊に向かっているようである。ところ が自我が希薄な者が,長時間にわたる集中力を 有し,創造力を発揮するというのは,皮肉であ ろうか。

 強固な自我を行使することなく,真の持続と 循環をみいだすことが,問われているのであ る。

〔投稿受理日2009. 11. 21/掲載決定日2009. 11. 24〕

⑴ 旧約聖書の創世記において主(神)は,土(ア ダマ)の塵で人(アダム)を形づくり,アダムの 肋骨からエバがつくられた。そして最も賢い蛇に そそのかされ,善悪の知識の木から実を食べたこ とによって,裸であることを自覚し,イチジクの 葉で自らの性器を隠したとある。

⑵ 那須は,「エデンの園では道具的限定も,いわん や事物的限定も禁じられていた」と述べている。

[那須政玄 1992: 45]。

⑶ ピアジェは「全体はすべて関係の系であり,関 係は全体の一切片だからである。したがって,関 係性は厳密な意味での生理学的活動から高次の知 的活動にいたるまで,あらゆるレベルにおいてあ らわれてくる。最も初歩的な知覚でも,やはりそ れらはそれぞれ相互に関係しあっていてひとつの 有機的全体として構造化されている」と述べる

[Piaget 1948: 訳11]。

⑷ マイケル・フィッツジェラルドの最近の研究等 があげられる[Fitzgerald 2004: 訳4-5]。

⑸ 本論考は,自閉症者と自閉症児という呼称を,

使い分ける。乳幼児期から成人となった人々すべ てを自閉症者と呼ぶことができる。一方で主に乳 児期,幼児期までの子供たちの呼称を場合に応じ て自閉症児とした。従って自閉症児は,自閉症者 の中に含まれる。

⑹ ホブソンは,カナーの症例報告を踏まえ自閉症 児は「私たちが,他の人(乳児,子ども,大人の いずれの場合であっても)と関わりをもっている ときに感じる“情が通い合っている”という実感 は,その母親と息子との関係においては悲劇的に 欠落していたのではないかとも思えてくる」と述 べている[Hobson 1993: 訳11-12]

⑺ 幼子がテレビの踊り手の振り付けを,正しく行 うには,どのようにしたらよいのかを考えるとよ い。

⑻ 那須は,「エデンの園では,アダムとエバは,

(中略)動物と同じ無限定な『世界』に生きていた のである。そこでは一切の行為は止む。アダムは エバへとは向かわない。動物は,いわゆる本能で もって行動することができる。雄は雌に向かうこ とができる。しかし人間は,本能をどこかに置き 去りにしてきてしまった。したがって文化あるい は世界観という枠をはめて「限定」を行わなけれ ば,一切の行為は発動しないのである」と述べて いる[那須 1992: 45]。

⑼ 浜田は,「微笑みの意味が分かってから微笑みを 交すことができるようになるというよりは,むし ろ反対に,こうして微笑みに微笑みを返す同型活 動がまずあって,これを通して,赤ちゃんは微笑 みの意味を自分の内に受けとめていくのでしょう」

[浜田 1992: 78]と述べ,このような関係を二項関

係と呼ぶ。しかし本論考においては,項という用 語を使用せず,同型的一対の関係(一対一の関係)

あるいは一対の関係という用語を用いる。

⑽ 共同注意は,二項関係から三項関係への発展と みることができる。しかし,本論考は「同一の人 間たち同士が,同一のこととして了解し合うべき 当の事柄」を問題としているのであって,発達の 段階を追うものではない。従って本論考の主張を 明確にするため「項」という用語を使用しないこ

(16)

ととした。

⑾ カナーの症例報告において「代名詞を除く単語 の記憶力は抜群である。」という記述がみられる。

一方,ホブソンは,「言語面での発達は,ほぼどの ケースでも遅れている」とする。ホブソンは,平 均的な人間のパースペクティブから見解を述べて いるように思われる。重要なのは,代名詞使用の 困難の原因をさぐり,自閉症児の言語使用の規則 性を明らかにするとともに,この規則性から,自 閉症者の展望を探索することではないか。

⑿ 日本近代史研究者の藤野豊は,「1930年代,ラジ オ体操はもとより,厚生体操・男子青年体操・女 子青年体操・大日本体操・産業体操など実に様々 な体操がおこなわれている」と述べている[藤野 2000: 50]。

参考文献

那須政玄,1992『結界と虚界』,行人社 会田雄次,1962『アーロン収容所』中公新書 Heidegger Martin, Nietzsche, 2Bde, Neske, 1948(邦 訳:

細谷貞雄監訳,杉田泰一,輪田稔,1997,『ニーチェ

Ⅰ・Ⅱ』,平凡社)

J. Piaget, La naissance de l’intelligence chez l’enfant, 2e ed.(邦訳: 谷村覚,浜田寿美男,1978,『知能の誕 生』,ミネルバ書房)

Michael Fitzgerald, 2004, Autism and Creativity(邦訳: 石坂好樹,花島綾子,太田多紀,2008,『アスペル ガー症候群の天才たち-自閉症と創造性』,星和書 店)

Kanner L, Nervous Child, (邦訳: 十亀史郎,斉藤聡明,

岩本憲,1978,『幼児自閉症の研究』,黎明書房)

Hobson, R. P, 1993, Autism and development of mind(邦 訳: 木下孝司,玉村公二彦,別府哲,山口学人,

2000,『自閉症と心の発達-「心の理論」を越えて

-』,学苑社)

Liane Holliday Willy, 1999, Living with Aspeerger’s

Syndrome(邦訳: ニキ・リンコ,2002,『アスペル

ガー的人生』,東京書籍

浜田寿美男,1992,「私」というもののなりたち,ミ ネルバ書房

熊谷高幸,1993,自閉症からのメッセージ,講談社 現代新書

藤野豊,2000,強制された健康,吉川弘文館 Rene4 Descartes, Meditationes de prima philosophia, (邦 訳:

井上庄七,森啓,野田又夫,『省察』,中央公論新社)4 Gunilla Gerland, 1997, A REAL PERSON(邦訳:

ニキ・リンコ,「ずっと『普通』になりたかった。」,

花風社

参照

関連したドキュメント

当該不開示について株主の救済手段は差止請求のみにより、効力発生後は無 効の訴えを提起できないとするのは問題があるのではないか

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

したがって,一般的に請求項に係る発明の進歩性を 論じる際には,

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration

あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない