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清末大東汽船会杜の江南内河就航について

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清末大東汽船会杜の江南内河就航について

その他のタイトル On The Daito (大東) Steamship Company putted on the channel of Jian‑nan (江南) in the Late Qing (清) Dynasty

著者 松浦 章

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 24

ページ 1‑38

発行年 1991‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/15989

(2)

五 四

清末大東汽船会社の江南内河就航について

一八

0

七年︵嘉慶十二︶にフルトンが発明した世界最初の外輪式

言 次

一 緒 言

ニ大東汽船会社の設立

三大東汽船会社の航路拡張田大東新利洋行と戴生昌輪船局

②大東汽船会社の航路拡張

①上海・蘇州線

②上海・杭州線

③蘇州・杭州線

ー三角航路の完成1

④蘇州・鎮江線

⑤鎮江・清江浦線︑鎮江・揚州線

⑥上海・狭石鎮線

大東汽船会社と戴生昌輪船局と招商内河輪船公司との協定

t J  

川蒸汽船クラーモント号︵

Cl

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mo

nt

) が ニ ュ ー ヨ ー ク 近 郊 で 運 航

に成功して以来︑一八三五年︵道光十五︶にはイギリス船ジャーデ

ン号

( J a r

d i n )

が中国大陸近海に現れた最初の汽船であったと言わ

① 

れる

そ ︒

の後

アヘン戦争後の南京条約︑望厘条約等の締結によって一

八四四年︵道光二四︶アメリカ汽船ミダス号

(M

id

as

) が香港・広 東間の定期航路を開設した︒翌一八四五年にはイギリスのピーオー 汽船会社

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  Navigation

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  がロンドン・中国間の航路を開設するなど︑中国大陸に欧米の汽船

② が就航するようになった︒

第二次アヘン戦争後の一八五八年︵咸豊八︶天津条約では︑イギ リスは︑清朝に対し︑中国大陸沿海のみならず長江における汽船の

③ 航行権を要求し奪取することに成功したのである︒

沿海のみならず長江に欧米特にイギリス︑アメリカの汽船会社が

④ 

定期航路を開設し競争し合うことになる︒広大な国土を有する中国

清末大東汽船会社の江南内河就航について

松 浦

(3)

にとって注目される交通手段が新興の汽船業であった︒

同治十一年(‑八七二︶に創刊された新聞︑上海の﹃申報﹄の初

期の同年四月二十四日発刊の第二十六号は︑冠頭に﹁輪船論﹂を掲

げ︑輪船即ち汽船の交通機関としての重要性を指摘している︒

舟揖之利︑至輪船為已極突︒大則重洋︑巨海︑可以浮滸而自如︑

小則長江︑内河︑可以行走而無滞︑其運載重物也︑為至便︒其

伝逓緊信也︑為至速︒其護送急客也︑為至妥゜

とあり︑輪船の輸送力と速力に特に注目されたのであった︒その交

通手段としての便利さを同書では次のように述べている︒

替如上海搭到漠口︑其価毎人︑不過七金︑計銭十二千余︑為期

不過三日︒若改搭民船︑由上海而蘇州︑由蘇州而鎮江︑由鎮江

而金陵・安慶・九江︑以至漢口︑雖船価・火食稽可減省一半︑

而為期至速︑総在二旬以外︑其途間之累墜︑阻滞較之輪船已可

往返

三次

突︒

とあり︑輪船に乗船して上海から漠口に赴むくには︑運賃が一人︑

七金を越えることなく︑制銭では一万二千余銭であり︑三日程で到

着する︒他方民船によって上海から漢口に行くには蘇州︑鎮江まで

運河を利用し︑鎮江から長江によって南京︑安慶︑九江を経て漢口

に達することになる︒輪船の運賃に比較して安価ではあるが︑民船

では速くても二十日を要することになる︒この間に輪船は上海・漢

ロ間を三往復すると指摘している︒

このように︑運賃は高頭であるが時間の短宿は従来の民船に比較 して七分の一以上に達していた便利さは看過出来ない状況にあったことが知られる︒

このような状況のもと︑長江航路の特に上海・漢口間にアメリカ︑

⑤ イギリスの汽船企業が続々と就航することになった︒

同治十一年(‑八七二︶六月十二日発行の﹃申報﹄第六十七号に︑

﹁論輪船来往還漠事宜﹂に新しい汽船会社の長江就航について述べ

てい

る︒

火輪船之上海︑漠口両処往来者︑近数年来︑皆為旗昌典公正両

家所聾断︑別家之船︑不敢向此途問津︒

とあり︑長江の流域の内︑上海と漢口間の航路は︑旗昌公司即ちラ

ッセル会社と︑公正輪船公司即ちュニオン・ステーム・ナビゲーシ

⑥ ョン会社の二社が独占する状況であった︒ところが︑この競争に小

変を生ずることになる︒同書に︑

両家歴数年之久︑常独檀其利︑今其勢已小変突︒約半年前馬立

師洋行有一火船︑名漢洋︑伊初立意将此船︑往来還・漢各埠︑

同業者︑無不謗馬立師之胆大︑喉其無識見︒

とある︒旗昌公司と公正輪船公司の独占路線に︑新汽船会社馬立師

洋行が参入してきたのであった︒馬立師洋行は漢洋という汽船を使

って上海・漢口間に定期運行を行なったのである︒

清国側は︑その後︑旗昌洋行の船舶を買収して光緒三年(‑八七

七︶に︑輪船公司招商局を設立した︒そしてイギリスのバタフィー

ルドスワイヤによる太古輪船公司や︑ジャーディンマゼソンによる

(4)

清末

大東

汽船

会社

の江

南内

河就

航に

つい

⑧ 恰和輪船公司等が長江に定期航路を開設したのであった︒

一八九七年︵明治三〇︑光緒ニ︱︱‑︶前における長江の定期航路を

保有していた汽船会社について﹃通商彙纂﹄第七三号︑︵明治︱︱

1 0

年(‑八九七︶八月二五日刊︶に︑

元来長江航路二於テ︑運送業二従事スル汽船会社ハ招商局︑恰

和洋行︑太古洋行︑鴻安公司及麦辺公司等ノ数会社アレトモ︑

其ノ最勢カアルモノハ招商局︑恰和及太古ノ三会社トス︒此︑

三会社ハ数年前劇烈ナル競争ヲ試ミクルコトアレドモ︑今ハ互

⑨ 二共同聯合シテ︑長江沿岸二瓶溢スル莫大ノ利潤ヲ襲断セリ︒

と報告されているように︑大手が清の招商局︑英の恰和洋行︑太古

洋行であり︑この他に英の麦辺公司と中英の合同の鴻安公司があっ⑲ 

こ ︒

長江の汽船航運において中・英企業が独占した状況の中に︑日本

⑪ の汽船会社が参入して来たのである︒

日清戦争後の中日馬関新約︑即ちいわゆる下関条約によって︑既

に開かれている対外港以外に︑湖北省の沙市︑四川省の重慶府︑江

蘇省の蘇州︑浙江省の杭州府が加えられ︑そして︑湖北の宜昌より

長江を遡江して四川の重慶に到る航路及び上海より呉松江や運河に

⑫ よって蘇州や杭州へ到る航路の開設が可能となったのである︒

この結果︑日本の汽船会社が上海を起点にする蘇州・杭州航路︑

そして長江航路の開設を推進することになる︒

本稿では︑江南デルクにおいて日本汽船を初めて定期就航させた

大東汽船会社の設立

日清戦争後の下関条約によって︑日本で最初に上海・蘇州・杭州

間の内河に汽船を航行することになったが︑それを可能にしたのは︑

﹃日本外交文書﹄第二十八巻︑第二冊﹁日清嬬和条約締結一件﹂に

見える講和条約の締結である︒その適用条項は次の部分である︒第

六条の第二項に︑

旅客及貨物運送ノ為メ日本国汽船ノ航路ヲ左記ノ場所二迄拡張

⑭ 

スヘ

とあ

り︑

その

﹁︱

‑﹂

に︑

⑮ 上海ョリ呉松江及運河二入リ蘇州杭州二至ル

とある︒この条項によって︑上海を起点にして蘇州と杭州への日本

汽船による旅客・貨物運送が可能となったのである︒

講和条約が下関で伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章・李紅方との日中

の全権により締結されたのが明治二十八年(‑八九五︶四月十七日︑

⑱ 光緒二十一年三月二十三日のことであった︒

条約締結後︑ほぽ一年後に上記航路に最初の日本汽船を就航させ

⑰ たのは︑岡山県出身の白岩龍平であった︒

白岩は苦学の後︑荒尾精が創設した日清貿易研究所の練習生とな

り︑日清戦争中は書類の翻訳業務に従事し︑対中国企業の重要性を

⑮ 予見することになった︒特に︑ ⑬ 大東汽船の航運状況について述べてみたい︒

(5)

近衛篤麿は明治二九年(‑八九六︶に貴族院議長に選出された大

 

物政治家であり︑渋沢栄一は当時実業界の重鎮であり︑近藤廉平は

中国大陸に航路を拡大しつつあった日本郵船の社長に明治二八年

⑬ ︵一八九五︶に就任したばかりであった︒近衛・渋沢・近藤等一二人

共に大陸政策に強い関心を持つ人物等であった︒

﹃近

衛篤

麿日

記﹄

明治

一︱

︱︱

︱︱

年(

‑九

0 0

)

四月十四日の条に︑大

⑳ 東汽船の会長田辺為三郎の書状とともに別紙として大東汽船の拡張⑮ 計画についての﹁大東汽船株式会社梗概﹂が記されており︑その中

で大東汽船設立当初の状況を次のように記している︒

馬関条約の結果清国内河の開放せられたるにより︑明治二十九

であ

る︒ に蘇州︑杭州︑沙市︑重慶等の開放と同時に日本人の内河航行 の航運業を開始したのであるが︑是れは馬関条約に拠つて新た 行の創立に鋭意し︑遂に明治二十九年五月上海・蘇州間八十哩 た支那人挑文藻を説き︑始めて日支合雛の汽船会社大東新利洋 内河航運の開拓に着目し︑予て研究所在学時代から別懇であっ

⑲ 権拉に商工業経営権の獲得に基くものである︒

とあるように︑中国の内河航運業に早くから主眼を置いていた︒

大東新利洋行設立の際の株主の中に︑

近衛篤磨︑渋沢栄1︑近藤廉平︑野崎武吉郎等があったのは実

⑳ に異彩であった︒

と見えるように︑日本政財界における重鎮の一部が参画していたの

を之れに移し︑先づ上海より蘇杭両州に至るの航路を始めとし︑ 年五月白岩竜平氏大東新利洋行を発起し︑上海より蘇州に至る小輪船曳船業を創め︑幾多の困難を排除し︑航路を杭州に拡張し︑同業の競争に利益の有無を問の遣あらざる勢なりしが︑是より先後同志の士相援け斯業を大成せしめんとて︑其組織を改め大東汽船合資会社と為し︑漸く朝野の同情を博し︑三十一年九月毎年三万五百余円の航路補助金を国庫より受領する恩典に浴し︑会社の基礎漸く安固となり︑営業の発達も亦階梯を追て

⑳ 進歩するの状あり︒

とあるように︑大東新利洋行は大東汽船合資会社と改組し︑さらに

日本政府の補助金を受けることに成功したことが知られる︒

大東汽船合資会社に改組した際のことは︑﹃東京経済雑誌﹄第九

ニ八号︑明治一=一年(‑八九八︑光緒二四︶五月ニ︱日発行に︑﹁大

東汽船会社の創立﹂として次のようにある︒

廿七八年の役故荒尾精氏等と共に国事に軟掌したる白岩龍平氏

が上海に於て蘇州杭州三角航路の事業を興し︑百難を排し経営

しつ

4ある事は普く人の知る所なるが︑右事業に対し少なから

ぬ関係ある大阪の河原信可︑岡山の杉山岩三郎︑東京の村山長

太郎︑岸田吟香︑小林梅四郎の諸氏外数人は白岩氏と共に題名

の如き合資会社を組織し︑本月一︳一日大阪区裁判所に於て設立登

記を受けたる由︑其資本金は十万円にして︑白岩氏従来の営業

漸次清国内地の河湖に広く航運の業務を開拡する目的なりと云

(6)

清末大東汽船会社の江南内河就航について 船が上海を起点に江南デルタの水域に汽船の定期航路を拡張してい 清末の下関条約により︑中国内河に汽船航行を可能にした大東汽

大 東 汽 船 会 社 の 航 路 拡

張 ^ ^ 

40ツ年治〇明九

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シ年治九2明八9 西

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明治一︱︱︱一年(‑八九九︶十二月には同社の本社を東京市に移転し︑

翌︱

︱︱

︱︱

年(

‑九

0 0 )

四月に大東汽船株式会社に改組し︑明治四十

年(‑九

0

七︶三月︑大阪商船の長江航路︑湖南汽船︑日本郵船の

長江航路等と伴に合併し日清汽船会社が創立され︑大東汽船はその

⑱ 中に吸収されることになったのである︒ 生したのであった︒本社を上海から大阪に移している︒

日本の汽船が中国の内河を定期航行した最初は︑明治二九年︵光

緒二

二︑

Ill1896 1907

( 1 )

大東汽船会社の変遷表

大東汽船会社江南内河就航路線図

吋青江浦

一八九六︶に始まる︒昭和九年︵民国二三︑一九三四︶の

① 大 東 新 利 洋 行 と 戴 生 昌 輪 船 局

 

上海・蛛州線 上海・杭外I 蘇州・杭州線 蘇州・鎮江線 鎮江•清江浦線 鎮江・揚州線 上海・映石鎮線

とあり︑明治︱︱︱︱年(‑八九八︶五月一二日に大東汽船合資会社が誕

ふ ¢

った状況を以下に述べてみることにする︒

(7)

日本人経営の航運業は二十九年五月大東汽船会社の前身たる大

東新利洋行が上海蘇州線を試航せしに創まり︑引続き同行は上

海杭州線を開設せしが︑未だ揚子江本流に於て英支の先進汽船

⑲ 会社と角遂するものはなかった︒

と記されているように︑大東汽船会社の前身の大東新利洋行が最初

であ

った

白岩龍平が跳文藻との合塀によって明治二九年(‑八九六︶五月

大東新利洋行を設立したことは上記した通りであるが︑設立当時の

同洋行の状況を知る資料の一として﹁白岩龍平伝﹂に創業当初の様

大東新利洋行の最初よりの目論見は上海蘇州間︑上海杭州間︑

杭州蘇州間の所謂三角航路であったが︑第一航路たる上海︑蘇

州間の航行開始すら容易ならざる障碍に遇ひ︑君をして決死の

ら其の第一回航行船に乗込み︑船首に日章旗を翻して蘇州近く

航進すると︑果して其処に鉄索を張りその両側には支那兵が銃

居たが︑君は敢然と其の鉄索の除去を命じ︑若し肯かざれば索

を破って進航する旨を宣言し︑其儘進航を続けんとすると︑こ を

擬し

て︑

いざといへば発射せんとする身構へを以て威嚇して を妨害せんとする企てありと伝へられたので︑君︵白岩︶は自

蘇 州

・ 杭 州 間 毎 日

R 一八九六年開始︒ そして︑大東新利洋行創業の同年に︑ むるに当り︑支那側では之に反対し︑鉄索を張つて船舶の航行隔日 覚悟を取らしめたもので︑愈々蘇州への航路を開いて航行を始毎日一八九五年開始︒R 一八九五年開始︒

上 海

・ 杭 州 間 毎 日

船公司は次の路線を保持していた︒ 子を次のように記している︒ ﹃大阪商船株式会社五十年史﹄によれば︑の勢に辟易したのか遂に鉄索を取外づして妨害を中止したので︑瀬く事無く船を埠頭に繋留して︑処女航路の凱歌を揚ぐるを得和等の各汽船会社が激烈なる競争を起すに至り︑之が為めに大

一八

九七

東洋行の経営は甚しく困難を感じたが︑然かも前往して屈せず︑

遂に

難関

を突

破し

て︑

翌年

︵明

治一

︱‑

+︑

光緒

ニ︱

︱‑

⑳ 一月更に上海杭州間百五十浬の航路を進張し︑

とある︒明治二九年(‑八九六︶五月に上海・蘇州問の航路を開設

した大東新利洋行は中国側の抵抗にあった状況が如実に知られる︒

さらに︑同業である中国の汽船会社との経営競争もあった︒その最

大の競争相手が右伝記中にも見える戴生昌輪船局であった︒

大東新利洋行が上海・蘇州間の航路を開設するまでに︑戴生昌輪

上海・蘇州間 上海・湖州間

たのであった︒ 一八九二年開始︒

と︑上海を起点に蘇州・杭州をめぐるいわゆる三角航路を完成させ

戴生昌汽船の創業者は︑浙江省寧波府鎮海県出身の戴嗣源である︒

民国二四年(‑九三五︶の﹃鎮海縣志﹄巻二七︑人物伝に︑ たのであったが︑今度は同業の戴生昌輪船局を始め︑公記︑大

(8)

清末

大東

汽船

会社

の江

南内

河就

航に

つい

ったと言われている︒ 戴嗣源︑字綬之︑少失枯家貧︑習買於還︑日駕小舟︑載西人食用諸物︑就番舶市易︑習其言語︑井留心機械等事︑西人信重之︑延為棋記機器︑船廠経理︒

とある︒戴嗣源は幼くして上海に出て小舟にて外国人に食料を売る

仕事に従事している内に︑外国語や機械に興味を持ち︑彼の利発さ

に関心を持った外国人から信用されることになった︒その後︑彼は

幾つかの官職を経て︑同書に︑

︹光緒︺辛卯那立内河官輪局︑行駿蘇.杭・上海・嘉・湖各埠゜

とあるように︑光緒辛卯︑十七年︵明治二四︑

輪局を創業し︑蘇州・杭州・上海・嘉興・湖州への航路を拡張して

いったのである︒さらに同書に︑ 一八九一︶に内河官

嗣是陸続︑推広航路︑多至二十艘︑行旅便之︑此後内地輪局林

立︑人皆謂︑嗣源能得風気之先焉︒

とある︒その後航路は拡張され︑最大時期には二十隻の汽船を所有

し︑汽船の便利さのため︑各地で汽船会社の林立を見る先駆けとな

後述のように戴生昌は大東汽船会社にとって常に好敵主として競

争を継続していった︒﹃通商彙纂﹄第三八巻四六号﹁蘇州本邦人船

舶営業状況﹂に戴生昌汽船会社のその後を記している︒

光緒二十一年︵我廿八年︶寧波人戴綬之ナルモノ戴生昌官輪船

局卜称スル会社ヲ興シ︑特許ヲ得テ上海・蘇州間ノ定期航路ヲ

初メ︑続テ蘇州商務局二属スル河輪局興リ前社卜相提携シテ業

務ヲ営ミ専ラ其利益ヲ占有セリ︒次ギニ興リクルハ我大東汽船

会社ニシテ︑同社ハ馬関条約ノ規定二遵ヒ夙二企図経営スル所

アリ︒一︳十九年九月中始メテ上海・蘇州間ノ航業ヲ開キ同時ニ

上海居留米国商人ランバスナルモノモ亦同業二従事シクリシガ

間モナク廃業シ︑河輪局モ亦続テ閉局シ︑其後会社ノ勃興廃滅

隈ニシテ此間常二競争止ム時ナカリシガ遂二優勝劣敗ノ結果ハ

全ク我大東及ヒ戴生昌二社ノ収ムル処トナリテ爾来今日二至ル

迄尚ホ其業ヲ継続セリ︑而シテ後者ハ前二述ル如ク最古ノ会社

ニシテ資本十四︑五万円ヲ有シ︑従来ノ経験ニモ富ミ清国政府

ノ郵便物ヲ搭戴スルノ特約ヲ結ビ居リ︑之ガ為メ郵政局ョリ上

海︑蘇州︑杭州︑嘉興︑湖州︑南港各所往復運賃トシテ一ケ年

一干二百弗ノ報酬ヲ得︑久シテ官商二信用ヲ博シ︑殆ンド当国

官庁御用船ノ観アリテ︑今尚ホ内外人ノ気受最モ往良ナリ︒本

社創立人戴綬之ハ嚢キニ物故シ︑嫡子戴玉書其業ヲ続クニ至リ︒

去ル一二十六年十月中︑台湾二帰化シ︑昨年︵明治三八年︵光緒

一九

0

五︶八月上海総領事館二登録営業ノ許可ヲ受ケ尚

三一

ホ戴生昌輪局ノ名ヲ以テ航業ヲ営メリ︒故二該局所有ノ船舶ハ

⑲ 漸次我船籍二変換シッ︑アリ︒

とある︒戴昌生局の創業者戴綬之︑嗣源の没後に︑その業を継いだ

嫡子の玉書は台湾に移住したが︑当時日本が台湾を領有していたた

め同局は日本籍として見られていた︒

大東新利洋行が上海を起点に蘇州︑杭州間に定期汽船を航行した

(9)

と述べられているように︑光緒十九年︵明治二六︑ 頃の状況は︑﹃通商彙纂﹄第一︱一五号︵明治一=二年︵光緒二五︑八

九九

1一月二八日発行︶に掲載された明治三二年一月十八日付の

在上海総領事館報告とある﹁上海漢口間及上海︑蘇州︑杭州間本邦

定期船航行状況﹂に見える︒この報告の中の﹁二︑上海蘇州間﹂に

一八八九︶頃 よれば次のようにある︒

上海卜蘇州︑杭州間二於ケル航運業ハ今ヲ距ルコト十年前二在

リテハ汽船ノ航通蓼々暁星ノ如クニシテ其目的^官差卜称シ僅

⑭ カニ清国官吏ノ来往に便セシノミニ過キス︒

とあるように︑清朝にあって光緒十五年︵明治ニニ︑

より汽船の航行が見られたようである︒それも清朝官吏の公用に使

用されていたのであった︒ところが︑同報告に︑

降テ明治二十六年ノ秋二至リ始メテ戴生昌卜称シ官辺二縁故ヲ

有シ且ッ資カアル一商社力政府ノ特許を受ヶ汎ク官民ノ交通ニ

便センカ為メ汽船航行業ヲ開キタルヨリ以来二十八年夏二至ル⑮ マテノ間︑本航路ノ利益ハ全ク其独占二帰セシ

一八

九︱

︱‑

︶の

に政府の許可を得て︑戴生昌汽船が定期航路を開設し︑清朝官吏の

みならず近郊の住民にも多くの便宜を与えていた︒

その後︑日清戦争後の下関条約により︑蘇州︑杭州が開港される

R 内外人ノ競フテ汽船航行業ヲ試ミタル者少カラス

との状況となった︒しかし資力︑経験から継続して経営を発展させ たのは戴生昌汽船のみであった︒戴生昌汽船以外にも︑

公記︑人和会社等ノ存スルアルモ発着常二其期ヲ誤リ信用厚カ

⑰ ラス︑較々モスレハ廃閉ノ恐アリ︒

と︑公記︑人和等の会社が設立されたが定期航行と言うには程遠い

運行であった︒

大東新利洋行が上海蘇州線を開設し︑定期航行を開始する以前に

あっては︑同航路は唯一戴生昌汽船のみが独占する定期運行によっ

て経営されていたことが知られる︒ところが︑下関条約の結果︑日

二十九年六月大東新利洋行ノ蘇︑申航路ヲ開始シ︑三十年一月

杭州航路ヲ開キ︑前航路ハ一日一回︑後航路ハ毎月四回以上ノ

⑱ 割合ヲ以テ帝国郵便物ヲ搭送スルニ至リクル︒

とあるように︑明治二九年(‑八九六︶六月に大東新利洋行は上海・

蘇州線を毎日一便の定期航行を開始し︑続いて翌明治三十年の一月

より︑上海・杭州線を毎月四便の定期航行を始めたのであった︒

上海を起点とする蘇州︑杭州航路において中国の戴生昌汽船と日

中合弁の大東新利洋行とが競争することになるのである︒

薮二於テ一面ニハ運賃ノ暴落ヲ来クシタルト同時二︑一面ニハ

交通機関ノ改良ヲ促カシ︑例ヘハ上海︑蘇州間ノ航行二従前二

十余時間ヲ費ヤシクルモノ︑漸次其速カヲ進メ現今ニテハ十五︑

六時間ヲ出テス︒其乗客ノ如キハ殆卜十倍二達シ︑貨物モ亦随

テ多キヲ加へ︑又上海︑杭州間ノ如キモ三十時間内外ニテ発着 本の汽船会社がこの航路に進出することになったのである︒

(10)

ー 大

新 蘇州線

ー 瑞

通ヒ

清末

大東

汽船

会社

の江

南内

河就

航に

つい

ニ四︑五噸

二二︑五ニ八︑五

ー 澄

義 杭州線

通ヒ

ー 洪

右五隻ノ小型汽船ハ曳船用ニシテ此外曳船︵所謂公司船︶弐隻 同同十月

同同七月

八︑六

ニ四︑九同同十月 紡

同 八 月

︱‑︑五同 東 船名

総 噸 数

木 船

製 材

明治二八年十月

二九年三月 と報告されているように︑戴生昌汽船の独占航路に大東新利洋行が参入し︑両会社によって運賃の面のみならず︑旅客サービス︑時間の短縮等において激烈な競争が見られたことが如実に知られる︒年︵光緒二四︑

② 大 東 汽 船 会 社 の 航 路 拡 張

大東新利洋行は設立当初︑上海に拠点を置いていたが︑明治一ニ︱

一八九八︶十月組織を改変して大東汽船合資会社と

して︑大阪に本店を移している︒

大東汽船合資会社となった時期の状況は︑﹁上海漢口間及上海︑

蘇州︑杭州間本邦定期船航行状況﹂に次のようにある︒

大東汽船合資会社ハ即チ此大東新利洋行ノ義務ヲ継承シ昨年十

月一日以来帝国政府ノ保護命令ヲ奉シ︑上海︑蘇州間ハ日航︑

上海︑杭州間ハ隔日︵偶数日︶航二改メ︑目下其所有船左ノ如シ︒

⑲ スルヲ得ルニ至レリ

大東汽船合資会社は︑明治一︱︱︱年︵光緒二四︑一八九八︶十月一

日より日本政府の保護を受け航行することになった︒その保護に関

して︑﹃日清汽船株式会社一二十年史及追補﹄の第二章我社の前身会

社︑第一節大東汽船会社によれば︑

明治三十一年十月組織を改めた大東汽船合資会社と為し︑本店

を大阪に移した︒之と同時に政府は上記二航路︵上海・蘇州航

路︑上海・杭州航路︶に対し︑四年十ヶ月の問に亘り年額一︳一万

⑪ 余円の国庫補助金を交付し︑以て事業の発展を後援した︒

とあるように︑明治一ニ︱年十月以降︑年三万余円の補助金が得られ

たのであった︒

日本政府の庇護のもと︑大東汽船合資会社の経営は順調で︑組織

改変直後の明治一ニ︱年十月︑十一月のニヶ月間に︑ニニ八担約

13

.

6トンの貨物と一万四千余人の乗客を輸送したことが知られる︒そ

の他︑民船の曳船業も行っている︒ と

ある

ヲ有シ︑其五隻ノ曳船汽船ハ日々一隻毎二ニ︑三隻乃至四︑五

隻ノ民船ヲ曳キテ来往シ︑其曳船料一隻二付︑蘇州線二在リテ

ハ五弗︵小︶以上十二弗︵大︶マテ︑杭州線二在リテハ七弗

︵小︶以上十六弗︵大︶ヲ徴ス︑同会社ヵ昨年十︑十一月ノ両

月間其所属船二搭載セシ貨物及乗客数ハ︑上海蘇州間二於テ百

五十六担︑一万二千八百五十人︑上海杭州間二於テハ七十二担R 千四百四十人ノ多キニ上レリ︒

(11)

旦 >

,  国

五 五

§ 

畠 喜

先の報告では︑上海・蘇州線︑上海・杭州線各運賃等が詳細に報

(2

1)

(2

2)

大東

汽船

合資

会社

上海

・杭

州間

乗客

・貨

物運

︵上

海・

杭州

間嘉

善︑

嘉興

の両

地に

寄航

大東汽船合資会社の上海・蘇州間の乗客︑貨物の特徴は︑

⑲ 蘇州線ハ乗客ヲ主トシ︑貨物ノ積載甚ク稀レナリ

と︑上海・蘇州線は乗客の輸送が主であった︒他方︑杭州線の場合 ⑲ 

大東

汽船

合資

会社

上海

・蘇

州線

の乗

客・

貨物

運賃

告されているので次に表示してみる︒

一 汽 船 員 俸 給

記スレハ左ノ如シ

いる

︒ 及ハス @  杭州線ハ貨物ノ運送ヲ主トシ︑乗客ハ常二蘇州線ノ三分ノ︱ニ

と︑上海・杭州線は主として貨物輸送に特徴があった︒この路線の

特徴は︑網緞・銀貨・雑貨等の貨物から︑

毎年五月ョリ九月二至ルノ季節二際シテハ︑杭州附近ノ産茶ハ

一度上海ヲ経テ内外二分輸セラル︑力故二︑殊二其運搬ノ頻繁

⑮ ナルヲ覚フ

と︑季節的に茶の輸送に際し汽船が利用されていた︒

当時大東汽船の競争相手については︑同書には次のように記して

其競争者トシテ最モ有カナル者ハ戴生昌ノ所属船十六隻ニシテ︑

其外公記二属スルモノ三隻︑人和会社二属スル者五隻︑尚ホ他

⑯ ニ︑二︑三ノ航行船アリト雖モ這ハ何二憂フルニ足ラス

とある︒最大の競争相手は十六隻を所有する戴生昌であり︑その他

に三隻を有する公記と五隻を有する人和であった︒

大東汽船の経営状況について同報告は︑

目下大東汽船会社所属船ハ速力︑発着︑待遇等他会社二比シ信

用ヲ加ヘッ︑アルハ誠二好望ノ地位二立テリト謂ツヘシ︑然レ

トモ内部ノ経済上収支未ク相償フニ至ラサルハ遺憾ノ至リナリ︑

今参考ノクメ同会社力所属船一隻二付キ費消スル処ノモノヲ概

一ヶ月分百弗以上百一二十弗マテ

1 0

 

(12)

清末

大東

汽船

会社

の江

南内

河就

航に

つい

況﹂に見える︒

次 得 て い た が

、 収 支

上は赤字経営であった。

福 享 敦 泰 生 戴 大

嘉 利 大 来 丈 生

江鎮鎮江上海南溺上海杭州上海上海

航 雰

二 三 三 二 五 二 九 ー ニ ー 一 三 五 七

五 〇 八 四 五 四 二

ー ニ ニ ー 三 四 六 六一〇五四八:::::

毎 毎 隔 隔 日 毎 毎 毎日 日 日

. .  . . 

日 日 日

; 

回 回 回 回 回 回 回

( 3

) 一至レルモノナランカ︑日商大東汽船会社ハ明治二十九年ノ創 と記している︒大東汽船は速力︑サーヴス等で中国旅客の信用を漸ス︑目下負債少ナカラストナス所以ノモノハ旧来競争ノ結果弦 杭州線廿六弗乃至舟二弗 @  蘇州線十五弗乃至二拾弗

一 雑 費

一 石 炭

一ヶ月分五拾弗以上七拾弗迄

往復一航回毎ニ

蘇州線四屯半

杭州線七屯半

往復一航回毎ニ

①上海・蘇州線

蘇州帝国領事館報告として

﹁蘇

州運

輸業

大東汽船が蘇州線を最初に航行した状況について﹃通商彙纂﹄第

一六

八号

に︑

明治

一︱

︱︱

︱一

年︵

光緒

二六

︑一

0

0 )

四月十二日付の在

の﹁︵乙︶汽船会社ノ状

前記航路二於テ営業スル汽船会社ノ数ハ目下七ヲ以テ算スヘク︑

其中我邦人ノ組織セル大東汽船会社力拾万円ノ資本ヲ以テ株式

会社ヲ成スノ外︑其他ハ皆清国人カ一私人ノ名義ヲ以テスト雖

モ或ハ内部二於テ合資ノ性質ヲ有スルモノアルヤ図ルヘカラス︑

而シテ其資本ノ如キモ戴生昌官輪船局力拾四︑五万円ノ資金ヲ

有スヘシト称スルノ外︑他ハ其詳細ヲ知ルコト能ハス︒尤モ多

数ノ会社ヵ皆ナ借入レノ汽船ヲ以テ営業スル点ョリ見レベ其

質本モ亦四千円乃至一万円二過キサルヘシ︒当地ニテ汽船営業

ノ開始以来同会社ノ勃興廃減其数ヲ知ラス︒現二去月︵三月︶

新二設立セシモノアリト雖ドモ亦其翠固クルヲ期セス︒差シ蘇

州・上海間ノ同一航路二於テ目下四会社ノ競争アルニ至リテハ︑

仮令営業ノ股盛ナルニモセヨ︑早晩優勝劣敗ノ結果ヲ免レサル

ヘシト信ス︒夫ノ戴生昌輪船局ノ如キハ去ル明治二十七︑八年

頃二創立セル最古ノ会社ニシテ其資本モ亦最多額ナルニ拘ハラ

設ニシテ爾来等シク競争ノ渦中二在リシト雖モ幸二我政府ノ保

護金ヲ得︑又営業ノ基礎漸ク翠固ニナリ益々信用ヲ博シテ近来

⑲ ハ旅客著シク増加セリト云フ

とある︒蘇州を起点に競争していた会社には次のものがあった︒

⑲ 

蘇州

起点

各汽

船会

社経

営規

大東汽船以外に六社があり︑同社の最大競争相手が汽船︑噸数に

一 曳 船 員 俸 給

(13)

他方旅客輸送について︑同報告に︑ が利用されていた︒ ノ低廉ナルト︑一ハ強テ時間ヲ争フ程ノ必要アラサルトニ因ル ⑲ 

( 4 ) i

鯨州発船上海杭州鎮江南洒着船表

蘇 州 ョ リ

航行先上 海 杭 州 鎮 江

これら航路の汽船経営の特徴について同報告に次のようにある︒

今前記航路ノ営業如何ヲ察スルニ︑概シテ貨物ノ運輸ハ割合ニ

少ナク︑其多クハ民船二依ルヲ以テ通例トナス︑之レ一ハ賃銀

ノミナラス︑貨物ヲ汽船二搭載シテ税関ヲ通過スルヨリハ︑民

船二依リテ驚金局ヲ経由スル方︑税金ノ少額ナルコトアルニ因R 

ルナ

ラン

カ︒

とあり︑貨物輸送については運送費と通関税の安価から一般に民船

之二反シテ旅客ノ往来ハ日二月二頻繁ニシテ快速ナル汽船二搭上記の運賃が定まっていたが現実には︑ 汽船経営上欠くことの出来ない運航に曳船業があった︒その運賃は次の通りである︒

⑲ 

(6 )

曳船運賃表

蘇州

ョリ

航行先上 海 杭 州 鎮 江

, 9  

午後

午後

正午十二時 午前十時 四時半 五時

夜 翌 翌 翌 午後 午前 午前 九時二時半

十時

十二時

, 三 四 五 四

1円 円 円 円

, 乃 乃 乃 乃 至 至 至 至

‑ t ‑‑ t ‑

八 一 二 十 円 円 円 円

l三 六 七 四 円 円 円 円 乃 乃 乃 乃 至 至 至 至

‑ t ‑‑ t ‑‑ t ‑

九 五 六 二 円 円 円 円

曳 船 借 料

南 鎖 杭 上

航 累 蘇  

淋 江 州 海

三 二 四 一円 円 円 円

五 八

T T  

銭 銭

円 円 円 二 六 五

++++ 

銭 銭 銭 銭

円 二 七 六 二 十

十 十 十 五

銭 銭 銭 銭

( 5 )

発 船 時 間

当時の船客の運貨は次のようであった︒

⑲ 船客運賃表

着 船 時 間

たようで︑同報告に記されている︒ この時期の蘇州を起点とする汽船会社の発着時間はほぽ定ってい 航行していた︒

ことが知られる︒ おいてはるかに凌駕していた戴生昌であったことは明らかである︒生丈︑泰来︑享利︑福嘉の四社は大東汽船の保有していない航路を

而シテ其最モ多キハ︑春秋ノニ季ニシテ︑冬季モ商用上ノ旅客

⑲ 可成リ多シト雖ドモ夏ハ著シク其数ヲ減スルヲ見ル︒

とあり︑時間短縮の上から汽船が重視され乗客数の増加を見たが︑

季節変動が大きく︑春と秋を除き︑特に夏は乗客数が激減していた

アリ

スルノ便ハ漸ク一般ノ認ル所トナリ︑乗客ノ数ハ益々増加ノ傾

(14)

清末

大東

汽船

会社

の江

南内

河就

航に

つい

現二旅客運賃及曳船賃等モ之レヲ当初二比スレハニ割方ノ低減

ニシテ︑或会社ノ如キハ更ニ︱層ノ低価ヲ以テ競争ヲ試ミント@ 欲スルモノアリ︒

と︑運賃の値引き競争が激しかった様子が知られる︒

R上海・杭州線

上海・杭州間の状況については︑﹃通商彙纂﹄第一八五号に掲載

された明治三一︳一年︵光緒二六︑一九

0 0

)

十月二十四日︑十一月八

日付の在杭州帝国領事館による﹁清国浙江省嘉興﹂と︑同号の同年

十一月七日付の同領事館報告の﹁清国上海︑杭州間水路状況﹂が参

考になる︒このうち﹁清国浙江省嘉興﹂によれば該地の汽船会社の

状況を次のように報告している︒

汽船会社ハ戴生昌及大東会社ニシテ去月︵九月︶迄ハ大東会社

ノ分局ヲ置キ清国人の代理者之レヲ取扱ヒ来リクレドモ︑蘇︑

杭︑申ノ一二角航路ヲ開始セントスル企望アルヲ以テ︑該準備卜

シテ支店ヲ開設シ︑本邦人ヲ駐在セシメ盛二其業務ヲ取扱ハセ

ントスルノ勢アリ︒右二会社ハ杭︑蘇︑申ノニ航路二汽船ヲ毎

日往来セシナ乗客貨物ノ運搬二従来セリ此ノ外嘉興︑狭石鎮間

ニ幸順昌会社及合義会社アリテ狭石ョリ発シテ嘉興二来クリ︒

再ヒ嘉興ョリ上海ヲ終点トスルノ航路アリ︒尚平湖県ョリ松江

府二通スル汽船アリテ両地ヲ隔日二開船スルモノアリ︒又嘉興︑

南簿間二通スル汽船アリテ隔日に往来セリ︒前二詳述スル水路

しい

︒ 杭州線の全般的状況について﹁清国上海︑杭州間水路状況﹂に詳 至レルモノ︑如シ︒ R  果ヲ免カレサルヲ以テ︑追々汽船ノ航運ヲ企図スルモノ多キニ ヲ加フルト共二旧来民船ノ緩漫ナル運輸業ハ自然優勝劣敗ノ結

とある︒嘉興は上海・杭州間の航路のほぽ中間に位置しており︑同

地を航行するのは戴生昌と大東汽船の二社が大手であった︒

嘉興を起点とする運賃は同報告に見え︑それを表示してみる︒

@ 

嘉興

より

の旅

客運

賃表

嘉興

より

の行

上海

・杭

州・

蘇州

第一ノ幹流運河ノ内︑杭州批痰橋即チ大東汽船株式会社運輸航

路ノ終点ョリ上海二通スル同社代理店ノ所在地五ヶ所︵塘棲鎮︑

石門県︑石門湾︑嘉興府︑嘉善県︶二至ル運河筋ノ状態ヲ詳述

シ︑且其航路ノ里程ヲ細別スレハ左ノ如シ︒

杭州城外洪痰橋ョリ塘棲鎮乞

( 8 )

⑲ 

嘉興

より

の貨

物連

賃表

︵一

担に

つき

i

九仙

i

四仙

五十四清里

( 7 )

嘉興

より

の行

蘇州

・上

海・

杭州

五十仙

八十仙

一 六 十 仙

等 ハ大略小蒸汽船ノ往来自由ナルヲ以テ漸次商業ノ活発敏捷ノ度

(15)

嘉善県迄

とあり︑大東汽船は上海から杭州までの航路に右の五ヶ所に代理店

大東汽船株式会社ハ本社ヲ東京二置キ上海二支店ヲ設ケ︑蘇州︑

杭州へ出張店ヲ置キ上海︑蘇州間及上海︑杭州間ノ運河航路ニ

テ運輸業二従事ス︒現今杭州出張店ハ城内淳佑橋及城外新砥頭

ニ各出張所ヲ設置シ乗客並貨物ヲ集収日々数艘ノ船ニテ棋炭橋

出張店マテ運出シ︑同所ニテ乗客並二貨物ノ積換ヲ為シ︑毎日

午後五時ヲ定規トシテ出船ス︑客数及曳船ノ員数ハ一定セスト

雖ドモ大約五十名内外ノ乗客アリ貨物ハ時季二従ヒ多寡アリト

雖 ド モ 重 ナ ル 積 荷 ハ 製 茶

︑ 網 子

︑ 湖 絲

︑ 火 腿 等 ナ リ ト

拭震橋下流上海マテハ塘棲鋲︑石門県︑石門湾︑嘉興府︑嘉善

県ノ五ヶ所︑代理店ヲ設ヶ乗客及貨物ノ取扱ヒヲナサシメ其状

況各地異ナルヲ以テ左ニ︱々記載ス︒

塘棲鎮代理店ノ位置ハ東子角卜云ヘル運河ノ東岸ニシテ義務取

扱ヒニ従事スル支那人二名アリ乗客ハ一ヶ月百名位ニシテ貨物

ノ運搬ハ稀ナリト云ヘリ︒

石門県代理店ノ位置ハ南門外北寺前ニアリ︒本年︵明治三︱︱︱ ス ︒

扇子

を設けていた︒各代理店の状況は同報告に次のように見える︒ 過キスト云フ︒石門湾ノ代理店ハ運河ノ東岸ニアリ︑同所ハ昨年マテ戴生昌ノ支店アリシモ閉鎖シテ目下汽船ノ業務二従事スル者ハ大東ノ代

理店ノミナリ︒然レドモ小都会ニシテ昇降客多カラス︒一ヶ月

上海へ下行ノ者三十名︒杭州へ上行ノ者十名内外ナリト云ヘリ︒

嘉典府ハ杭州上海間ノ約中央ニシテ︑水陸ノ便多ク土産トシテ

網子︑菜油︑雑穀等ヲ輸出シ又重ナル輸入品ハ石油︑仔油︑刻

煙草︑雑貨等ニテ一ツノ商業地ナレハ乗客貨物ノ出入紗ナカラ

ス︒平均一ヶ月上海︑杭州行トモ乗客一一一百名ッ︑アリ︒下降ス

ル者四百余名ニシテ一千以上ノ昇降アリ将来有望ノ地ナルヲ以

テ︑大東汽船会社二於テ特二本邦人ヲ滞在セシメ業務ノ監督ヲ

ナシッ︑アリ︒

嘉善県ノ代理店ハ西門大街ニアリテ︑同業二従事スル戴生昌ァ

とある︒各代理店の乗降客数を整理すれば表

( 9 )

にな

る︒

@ 

( 9 )

大東汽船株式会社上海・杭州祝乗降客数

代 理 店 所 在 地 乗 降 客 数

︵ 一 ヶ 月

︶ 貨 物 数

塘棲鎮・東子角一

49,  レハ︑昇降ノ客多カラス︒@ 

スト

云フ

︱ヶ月三十名内外ノ乗客アルニ過キ

嘉 興 府 ョ リ

石 門 湾 ョ リ

嘉興府迄百

0

二消里

⑲ 三十六清里 人ハ多数ナルモ︑大東ノ代理店ハ開始以来一ヶ月約二十名位

石 門 県 ョ リ

石 門 湾 迄 十 八 清 里

塘 棲 鎮 ヨ リ

石門県迄六十六清里年︶四月中代理店ヲ置ヶリト云フ︒該店ノ外︑戴生昌卜云ヘル

同業者数年以前同地へ支店ヲ設ヶ業務二従事シ居レハ同店ノ客

(16)

清末

大東

汽船

会社

の江

南内

河就

航に

つい

③蘇州・杭州線ー三角航路の完成ー

上海・蘇州航路を開設︑続いて上海・杭州航路に定期航路を保持

した大東汽船がついに蘇州・杭州間にも定期航路を保有することに

なった︒それについて﹃通商彙纂﹄第一八九号︑明治三四年︵光緒

二七︑一九

0 1 )

1

︱一月二十日付の在杭州帝国領事館報告の﹁清国杭

州蘇州間本邦汽船新航路開始﹂に見える︒

上海杭州及上海蘇州間ノ小汽船航運業二従事シ帝国郵便物逓送

ノ任二当レル我大東汽船株式会社ハ漸次内外国人ノ信用ヲ博シ

業務増進ノ有様ナリシカ︑這回更二杭州蘇州線ヲ開始シ予メ企

図セル三角航路ヲ完成スルコト︑ナリ︒本月(‑︱一月︶二十三日

ヨ リ 双 方 定 期

(当経ルナ重其、リナ筈ノ船出)日隔内ノ分過市

鎮 ハ 浙 江 省 内 二 在 リ テ

ハ江沢震ハテニ省蘇。菱簿南、州湖、湖、

平 望

、 呉 江 等

ニノ名有、ヒ云卜城府指シ屈内省ハ州湖内、テナ

ル 蚕 糸 織 物

ノ便、上業営社該論勿ハ利産ノ商客往来ハレナ地前

途 甚 ク 多 望 ナ リ ト 云 フ ヘ

シ運、リ由二線河大、(間杭蘇来従湖

州 ヲ 経 サ ル モ ノ

) ノ 小 汽

船独又、リ係二占ノ業昌生戴商清ハ杭

湖 間

ニ定モルハ復往期スノ数船民二僅艘リ、カシニサキ過ノ前

  > >

西

.  >

彗 履 員

四=

程誌程

一 五

者ハ出帆不規則ニシテ︑船賃ノ比較的高貴ナルト︑後者ハ客室

狭陰ナル外︑航行時間ノ長キトニョリ執レモ不便紗カラス︑芳

々今般該社ノ湖州経由蘇杭線開業ハ内地交通ノ進歩トシテ一般

ノ歓迎スル所ナルヘシ︒

大運河経由蘇杭間距離ハ大凡百哩ナルカ︑湖州経由ハ約九十余

哩ニシテ︑内杭湖間実測距離三十八哩ナリ︑航行時間ハ概ネ杭

湖間八時間︑湖蘇間十二時間ヲ費シ︑船賃ハ上等入レ込ミニ弗@ 五十仙︑中等同一弗四十仙︑下等同九十仙ノ定メナリト云フ︒

明治三四年︵光緒一一七︑一九

0 1 ) 1

︱︱月下旬より大東汽船の蘇杭

線が開航し、蘇州からは呉江•平望·震沢・南簿・湖州・菱湖等を

経由して杭州に到る航路であった︒

蘇杭線の営業状況の詳細については﹃通商彙纂﹄第二百六︑明治

三四年︵光緒二七︑

一九

0 1 )

十一月二日付の在杭州帝国領事館報

告として﹁清国杭州南簿間航路視察復命書﹂中の﹁大東汽船株式会

社蘇杭線営業ノ情況﹂に見える︒

蘇杭線企業ノ来歴ハ前二会社力上海杭州間ノ航路ヲ開始セシ際︑

已二清国人ノ創立二係ル戴生昌公司ナル者アリテ︑上海杭州線

及杭州ョリ嘉興ヲ経テ蘇州二至ル線路ヲ航通シ居リタルカ︑明

治一︱‑+︱年(‑八九八︶十月中︑社員視察ノ結果︑杭州ョリ湖

州ヲ経過シ蘇州二到ル線路ノ有望ナルヲ認メ︑翌年即チ昨三十

三年未ョリ当館卜清国地方官卜交渉ヲ重ネ︑本年四月一日ョリ

開業スルニ至リ︑単二乗客ノミヲ搭載セシニ︑其時間正確ニシ

(17)

現時該社︵大東汽船︶ノ汽船︑湖州及南簿二着スルハ何レモ半 に入り︑速力︑船舶内の設備等で信用を得ていたようである︒ テ速カノ迅ナルト船中ノ設備佳ナルトニョリ︑忽チ名声ヲ博シ予想二違ハス好況ヲ呈シ︑乗客毎航平均百三十人以上ニテ︑已ニ戴生昌蘇杭線乗客ノ三割ヲ減殺スルニ至リ︑更二本年十月一日ョリ改メテ日発トナシ︑乗客ヲシテ出帆ノ有無二惑ハシムル等ノ不便ヲ除キタルニョリ益々一般二便利ヲ感セシムルヤ疑ナ◎ シ ︒

とあり︑明治三四年︵光緒二七︑

い状況であった︒

一九

0 1

)

四月一日より定期運航

大東汽船の蘇杭線の乗客・貨物等の搭載状況について同報告は次

のように記している︒

今大東会社二於テ︑此線路開始以来ノ情況ヲ聞クニ今日迄ノ所

ニテハ︑之ヲ杭瀑線及湿蘇に比スレハ︑乗客ノ数ハ両線ノ十分

ノ六位ニシテ︑其他曳船モ少ナク貨物ハ未夕全ク取扱ハス営業@ 全体ョリ云ヘハ両線収入ノ半額二上ラス︒

とあり︑大東汽船の杭州・上海線︑上海・蘇州線に比較し乗客の搭

乗は六割程度であった︒その上︑曳船も少なく貨物は全く取扱わな

しかし将来的には︑同報告に︑

殷実ノ地ヲ通過セルカ故二現二湖州ノ如キハ上等客ノ数︑上海R ヨリモ多ク︑将来ノ有望ナル言ヲ待タス

とあり︑旅客・貨物輸送の増加が推察される点を指摘している︒

旅客輸送上の問題点については︑同報告は︑し値上げしていたことが知られる︒ ハ毎日不定期ノ往来ヲナセリ︑其賃銭ノ如キモ自然競争ノ傾ア は次のように記している︒ 慮した運航の必要性を明言している︒ 夜又ハ黎明ノ頃ナルカ故二乗客ノ不便甚シク︑若シ他二湖州ヲ中心トスル汽船ヲ以テ競争ヲ試ムルモノ生スル等ノ事有ラハ︑或ハ全ク該地方ノ利益ヲ侵害セラル︑コトナシト云フヘカラス︑@ 是レ大二考慮スヘキ点ナリトス︒

と指摘している︒旅客の便宜を考慮して湖州・南簿の到着時刻に配

当時︑湖州・上海間で競合していたのは︑戴生昌公司と泰昌公司

の二社があった︒この内最大の競争相手は大東汽船の他線とも競争

していた戴生昌公司であった︒戴生昌公司の状況について︑同報告

戴生昌ハ全体二於テ三十隻二近キ汽艇ヲ有シ杭上線︑上蘇線︑

蘇杭線︑蘇州・鎮江線︑及上海湖州線等ヲ往復シ︑其勢力亦小

ナラスト云フヘシ︒現時蘇杭線ニハ汽艇三隻位ヲ用ヒ︑隔日又

リテ︑従来大東会社隔日開航ノ間ハ大東ノ船有ル日ハ船賃ヲ同

︱ニシ︑大東ノ汽船出帆セサルニ日ハ蘇杭間下等貨銭二対シ十@ 仙位宛ヲ加伸シタリ︒

戴生昌公司は三十隻程の汽船を保有し︑江南デルタの主要な地域

に航路を保持し︑蘇杭線にも一二隻位を投入しており︑大東と同日運

航の時は大東と同一運賃にし︑大東の運航が無い日は下等運賃を少

蘇杭線での貨物搭載については︑盤金局の煩雑な手続が必要であ

(18)

二 十 人 八

︑ 九 人

地方官民ノ大東会社汽船二対スル感情ハ嚢二当館︵杭州領事館︶

ヨリ地方官へ照会セル本年︵明治三四年︶七月中︑河水猥溢ノ

際︑徳清県葛山附近二於テ汽船進行ノ為︑余波田地ヲ侵害シク

リトテ︑農民群ヲナシ汽船二対シ土塊ヲ投シクル事有リシ外︑

現下別二異状ヲ認メス︑且ツ漸次汽船ノ便利ヲ覚知スルモノ︑@ 

如シ

とある︒湖州府の場合は次のようである︒

大東汽船会社代理店ノ位置ハ殆ント府城ノ中心ニシテ︑西門又

南門二通スル運河ノ交会点ノ左岸ノ凸処二在リテ営業上︑実ニ

屈強ノ場所ヲ占メタリ︑然レドモ域内河狭ク水浅ク︑民船竹木 湖

清末大東汽船会社の江南内河就航について

簿 批 痰 橋 約 六 十 人 蘇 州

目 的 地 客 数 目 的 地

十 余 人 数

客 り︑僅かの貨物のために時間を浪費するよりは︑

⑲ 専ラ乗客ヲ主トスル外︑僅二銀貨ノ輸送ヲ取扱フ位二過キス

として乗客輸送に主眼を置く方向にあった︒

﹁清国杭州南港間航路視察復命書﹂は︑菱湖鎮︑湖州府︑南薄鎮

における大東汽船会社の代理店ついても報告している︒

菱湖鎮における大東汽船会社代理店については︑

西柵ノ西南端運河ノ凸角二在リテ︑一見認識シ易ク客船トノ交

通ニハ孵船ヲ用ヒテ乗客ヲ送迎セリ︑今開業以来一ヶ月平均ノ

船客数ヲ挙クレハ左ノ如シ

した

一 七

しかし︑この記事の末尾にも見えるように︑日本政府の大東

とあ

る︒ サルヘカラス︑且ッ目下杭州ョリ発スル汽船ハ夜半十二時前後 テ汽船百民橋二到ルコト能ハサル時ハ︑更ラニ︱︱︱里橋迄送迎七 絆舟ヲ以テ乗客ヲ送迎スルニ約三十分間ヲ要ス︒若シ河水減シ

ニ︑又蘇州ョリ来ルモノハ黎明二湖州二着スルカ故二︑乗客ノ

不便ハ最モ甚シキニ係ラス尚蘇杭間二於テ乗客ノ数第一ヲ占メ

且上等客ノ数︑却テ上海ョリ多ク代理店ノ事務モ︱︱一人ニテ経理

セリ

前二河水減少汽船百民橋二至ルコト能ハサル為メ︑蓋金局分未

ヲ三里橋二設ヶ出張員ヲ派遣シ︑当初ハ一々検査ヲ行ヒクレト

モ︑其後大東会社ノ船ニハ貨物ヲ搭載セサルコトヲ信用シクル

為力︑近来ハ検査甚寛ナリト云フ︒

地方官民ノ大東会社二対スル感情ハ漸次交通ノ利便ヲ喜フモノ

ノ如ク︑殊二十月一日ョリ汽船日発トナリクル為メ︑更ニ︱同

ニ便利ヲ感セシメクルヲ覚ュ︑今回出張ノ際ハ知府不在ナリシ

為メ︑烏程︑帰安両知県及蓋金局総弁︑其他民間ノ紳董ヲ訪ヒ︑

大東汽船会社営業上ノ保護及水路二関スル注意等ヲ依嘱シクル

⑲ ニ︑敦レモ快ク之ヲ領諾セリ︒

湖州府の府城の立地条件が良い場所にあったが︑水路の条件が悪

いため︑汽船乗降地との連絡に絆舟を使い︱︱︱十分程の時間を必要と 等絶ニス水路ヲ擁塞セルカ為二︑汽船ハ城外ノ百民橋二碇泊シ︑

(19)

新航路ノ開始﹂にその状況が詳しい︒ ④蘇州・鎮江線

大東汽船は明治一︱︱五年︵光緒二八︑一九

0 ‑

︱)に蘇州から鎮江へ

の航路を開設した︒﹃通商彙纂﹄第二二六号に明治一二五年七月二十

九日付の在蘇州帝国領事館報告として﹁大東汽船会社ノ蘇州鎮江間

大東汽船会社二於テ蘇州鎮江間ノ航路開始二就キ久シク計画ス

ル所有

l J シカ︑今回調査ノ結果︑内港行船章程二準拠シ︑本月

︵七月︶廿四日ョリ蓮平及大和ノ両汽艇ヲ以テ営業ヲ開始シ当

分ノ内︑隔日出帆往来ノ事トセシニ︑開業当日ョリ毎航七十人

前後ノ乗客有リテ頗ル有望ナリト云ヘリ︑今左二営業ノ景況及

る ︒ 汽船への協力が知られる︒

南簿鎮における代理店は︑

大東会社代理店ハ湖州ョリ東二向ヒ南簿市街二入リ︱︱︱︱一百米突

ノ左岸二在リ︒湖州ョリ来ル汽船ハ午前四時ョリ五時ノ頃︒蘇

州ョリ来ルモノハ夜半十二時前後に来着ス︒来往上下ノ客日平

均十人内外ニシテ︑湖州へ向フモノ最多ク︑蘇杭ヲ比較スレハ

蘇州二赴クモノ多シト云フ︒従来外国人に対シテハ人気宜キ土

⑪ 

地ナ

リ︒

と記されており︑先に同報告で指摘されていたように︑大東汽船の

南簿への到着時刻が旅客数が少ないことと関係あったように思われ 航路ノ情況二就キ大要ヲ列挙センニ一︑発着点及寄港地蘇州︵発︶無錫︑常州︑丹陽ヲ経テ鎮江

南門外宝塔山下二至ル︵内港章程二於テ両通商間ノ直航ヲ許

サ︑ルニョリ︑城外一哩余ノ処ヲ選ヒテ碇泊地トナセリ︶

一︑発着時刻及航程両地ノ出帆時刻ハ正午トシ途中約十七時

間ョリニ十時間ニシテ到着ス︑故二上海方面ョリ蘇州ヲ経テ

鎮江方面二赴クモノハ早朝蘇州二着シ︑寵二蘇鎮線二接続ス

ルヲ得︑又鎮江方面ョリ来ルモノモ午前二於テ蘇州二着シ︑

午後二於テ上海線及杭州線二接続スルヲ得ヘシ︑尚ホ杭蘇線

モ将来可成午前中二蘇州へ入港セシメ接続ノ便ヲ図ラハ旅客

ノ為一層ノ便宜ヲ輿フルナラン︒

七十仙

上中下— ‑ ‑ ‑ ‑ ‑

弗 一 弗 面 弗

八 四 三 五 八 六 二 八 五 五 江 十 十 十 十 十 十 十 十 十 十

仙 仙 仙 仙 仙 仙 弗 仙 仙 仙 仙 弗

右ノ賃銭ハ兼テ鎮江ヲ根拠トシ︑鎮蘇線ヲ営業セル豊和公司

ノ賃銭ヲ標準トシテ暫定シクルモノニシテ戴生昌︑利用等ノ 蘇州

一︑

賃銭

無 錫

上中下 八四二

+++ 

仙 仙 仙

七十仙 四十仙

(20)

清末大東汽船会社の江南内河就航について 一︑水路ノ概況蘇州ョリ鎮江間ノ航路ハ即チ大運河ナルトモ

従来秋冬両季二於テハ減水甚シキカ為メ︑半ケ年間ハ殆ント

汽艇往来ノ望無カリシカ︑今年江蘇巡撫ョリ公欺弐十余万両

ヲ投シ常州鎮江間ヲ浚渫シ︑恰カモ本月初旬二於テ成功セシ

為メ︑減水季卜雖トモ水量四呪ヲ下ラサル見込ナルヲ以テ︑@ 多分終年営業ヲ継続スルヲ得ヘシト云ヘリ︒

大東汽船は蓮平と大和の二汽船によって蘇州・鎮江線を開設した︒

隔日運航であったが︑毎航行に七十名程の乗客があり有望視されて

その後の状況は︑﹃臨時増刊通商彙纂﹄明治三六年第十号︵五月

十八日刊︶に掲載せる明治三六年︵一九

0

三︶の在蘇州帝国領事館

報告の﹁清国蘇州鎮江間航路並各都市情況﹂に見える︒同報告の第

二﹁蘇鎮間各汽船会社ノ商況﹂に次のようにある︒

此航路ハ江北江南貨客交遥ノ幹線ニシテ其関係特二重大ナルニ

係ラス水路疏通七サルカ為メニ汽船会社ノ営業トシテハ最モ困

難ノ事情多キヲ以テ︑去明治三十二︑三年ノ交二於テ一且開設

シタル享利︑福嘉等ノ各会社モ終二営業ヲ持続スル能ハス︑久

シカラスシテ廃減シ︑爾来只戴生昌︑利用ノ両会社蘇州︑常州

間又老公茂ハ上海︑無錫間ヲ往復スルニ止マリシカ︑本年︵明

治︱︱一五︶夏期二於テ大東汽船会社力率先シテ︑此線路ヲ開始ス

︑こ

f

サルヘキ敷︒

一 九

取ルヘキ方法ナキヲ以テ常州ノ東南廿清里ナル戚野堰ノ浅州ヲ 大二苦悶ノ情況アリ︒大東会社二於テモ目下ノ減水二際シ他ニ キモ支店ノ経理未夕宜シキヲ得ス︒浮費最モ多キ由ナルヲ以テ 七シ為メ自然常州以西ノ航路ヲ廃スルニ至リ︑豊和ハ素ョリ資 会

社 汽 船 名 称

︱ ︱

 

七月二十三日 東

四 七月三十日比八月末二於テ開始セシカ︑

止シ目下常州迄往復七リ

従来鎮江ヲ根拠トシテ常州迄往復七シモノ︑本年七月

初旬二於テ伸張シテ蘇州二来往セシモ︑営業ニヶ月余

ニシテ十月一二日以来全線ヲ廃業セリ

上海ョリ蘇州ヲ経テ無錫迄往復ス

尚以上各会社ノ情況ヲ聞クニ︑利用ハ昨年浙江省二於テ官資ヲ

仰キ開業スルャ否ャ︑蘇杭濃各線二於テ他卜劇烈ナル競争ヲ起

シ已二破滅二瀕シ乍ラ確タル成算モナク鎮江線ヲ開始七シ者ニ

シテ︑経理其法ヲ得スシテ鎮江ノ代理店支配人ヨリ経紀ヲ謝絶

力微弱ニシテ到底他ノ各会社二敵スル能ハス︑ニヶ月間二約二

千弗ノ損失ヲ招キテ廃業スルニ至レリ︒而シテ他ノ戴生昌ノ如 老公茂 豊和

用十月九日以来鎮江直航ヲ停

戴生昌

毎日

隔B 翌日午前互時乃至十二時

同 開業時日 各船数 開航 今各会社ノ状況ヲ表示スレハ左ノ如シ︒ 各会社亦近日此航路ヲ開始スルニ至ラハ或ハ勢ヒ競争ヲ免レ

同 正午 乎水ノ時ニテ

出 航 時 刻 到 着 時 刻

ルヲ見ルヤ他ノ戴生昌︑利用両会社モ引続キ開業スルニ至レイ︑

参照

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