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労働力の再生産と労働者家族の存続

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労働力の再生産と労働者家族の存続

向 井 公 敏

Ⅰ 問題の所在──隠された理論領域としての労働力の再生産──

Ⅱ 労働力の価値規定と労働者家族の存続 1.労働力の価値規定と家事労働 2.資本主義の発展と労働者家族の存続

Ⅲ 労働者家族内部における「非市場関係の保存」

1.家族賃金イデオロギーと家父長制家族の存続 2.血縁的紐帯にもとづく労働者家族の主体的形成

Ⅳ 結びに代えて

問題の所在

──隠された理論領域としての労働力の再生産──

すでに

30

年以上も前のことであるが,1960−70年代のわが国のマルクス経済学界に おいて精力的に自説を展開していた宇野弘蔵が,みずから「これは面白い問題

1

だ」と認 めながら,ついに明確な解答を与えることができないまま終わった一つの難問が存在し ていた。近年,松尾秀雄によって再び取りあげられることとなっ

2

たこの難問とは,すべ ての社会関係がもっぱら商品経済的に処理されている純粋資本主義という理論モデルの なかで,資本主義的生産の不可避的な産物というべき産業予備軍,すなわち職を失い生 計の道を絶たれた失業者はどうやって食っていけるのか(より正確には次の好況期まで どうやって食いつないでいけるのか)ということである。実際,資本家と労働者と地主 という三大階級のみによって構成され,しかもそこでの彼らの行動がもっぱら商品経済 的な法則(価値法則)によって支配されている純粋資本主義を前提するかぎり,失業者 はその収入の源泉を失い,餓死するほかないからである。だがもしそうだとすれば,労 働力商品の供給を絶たれた純粋資本主義モデルが存立不可能となることは,誰の目にも あきらかであろう。

晩年の宇野を悩ましたこの難問は,しかしながら,宇野の原理論の世界とは無縁な一 般の人々には,荒唐無稽としか思われないかもしれない。実際,もしわれわれがこの問 題を,ひとたび宇野の純粋資本主義モデルから離れて,もっぱらわれわれ自身の生活実

────────────

1 宇野弘蔵編『資本論研究』Ⅱ 筑摩書房,1967年,280ページ。

2 松尾秀雄『市場と共同体』ナカニシヤ出版,1999年,206−213ページ参照。

287)287

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感に訴えるなら,その答は明白である。というより問題そのものが最初から存在してい ないとさえいうべきであろう。なぜなら失業者は,たいていの場合,彼/彼女の家族や 親族,また地域の隣人や古くからの友人によって支えられるであろうし,また生活水準 の相違はあってもかつての救貧院や現代の福祉国家といったその時々の国家のサービス によって最低限の生活が保障されることも容易に推察することができるからである。そ れさえも期待できないときには乞食となって他人の憐れみにすがって生きることさえ不 可能ではないであろう。だがもとより,労働力の再生産を家族,地域社会,国家といっ た非商品経済的諸関係に求めるというわれわれの日常的経験にもとづくこうした解決方 法は,すべての社会関係が商品形態によって包摂された純粋資本主義モデルを追求する 宇野にとっては,「理論的に一貫しないことにな

3

る」として到底受け入れられるもので はないのである。

松尾も指摘しているように,結局のところ宇野は,「そういう実際上の問題をただち に原理的に解決しようとしても無理

4

だ」と述べるに留め,この問題について十分な解答 を与えるに至ってはいないといえよう。事実,われわれが見いだすことのできる宇野自 身によるほとんど唯一の説明とは,たとえば次のようなものである。

「問題は,さきにもいったように,その過剰人口が,原理論で想定されている純粋の 資本主義社会では,好況期に動員せられるまでにいかにして生存するかということに帰 着する。ところがこの点は,たしかに原理的に規定しうることではない。しかしわれわ れは,すでに労働者人口の絶対的増加をその自然増殖の内に予定し,賃銀は後継者の養 育費をも含むものとしている。同様にしてまたこれらの過剰人口も現役労働者の賃銀に よって生存するものとしてよいのではないか。強いて考えれば,好況期中に動員された 労働者の家族員の中から不況期の失業者を出し,就業者の賃銀によって失業者も生活す るということにな

5

る。」

見られるようにここで宇野は,一方で問題そのものを「原理的に規定しうることでな い」としながら,他方ではその背後に労働者家族の存在を暗黙の内に想定することによ って問題の解決を試みているといってよいであろう。だが宇野のこの苦肉の策も,われ われの理解によれば,すべての社会関係が商品経済の論理によって処理されているはず の宇野の純粋資本主義モデルに,労働者の家族とその内部における血縁関係にもとづく 相互扶助という非商品経済的な──まさにその意味で「原理的に規定しうることではな い」不純な──要素を密輸入するものでしかないであろ

6

う。これに対してこの問題を宇

────────────

3 宇野,前掲書,279ページ。

4 同上。

5 宇野弘蔵「資本制生産の基本的矛盾とその解決」,宇野弘蔵・梅本克己『社会科学の弁証法』岩波書 店,1976年,所収,221ページ。

6 事実,宇野は一方では,「労働者家族だったらどうだろう」(宇野編『資本論研究』Ⅱ,前掲,280ペー ジ)と自問しながらも,結局のところこの問題をそれ以上展開することがなかったといえるが,そ

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野に突きつけ,いうなれば宇野による労働力商品の特殊性の強調を逆手にとって,この 点にこそ宇野の純粋資本主義モデルの限界が存在していると主張したのは,梅本克己で ある。

「労働力という商品の独自な性格はいろいろな形で規定できると思うのですが,私と しては,その独自性を決定するものは,やはり人間主体と切り離せないところにあるの ではないかと思っています。これはマルクスが初期の疎外論以来一貫して,いろいろな 形で表現してきたことですが,とにかくそれは人間主体と切り離してはそれを消費する ことはできない。ですから,そういうものが商品化するところに資本主義自立の根拠が あるとすれば,自立の根拠そのもののなかにすでに自立を許さないものがある。どんな に資本主義が自己の原理を純化させようとも,純化の根拠そのものの中に純化し切れぬ ものがある。不純化の根を残している。……純粋に経済学的に資本主義の原理体系を抽 象してみても,やはり原理以外の不純なものに依拠せざるを得ない。……たとえば産業 予備軍,これは資本が労働力商品を確保するためのシステムとして,純粋資本主義の原 理体系の中にも導入せざるを得ないものですが,それでは産業予備軍は,失業中は何で 食っているのか。純粋資本主義の原理論としてはそんな問題は捨象するのでしょうが,

現実の予備軍は,やはり原理以外のところで食っているのでしょう。……まあこれは一 例ですが,とにかくこんな具合に,純化の根源に,どうしても資本主義を自立させない 不純化の根がある,そこに労働力商品というものの性格があ

7

る。」

われわれにとって興味深いのは,ここで梅本が宇野の労働力商品化論──ひいてはま た純粋資本主義論──に対して提起している問題は,われわれが前稿で取りあげたギン タスとボールズによるマルクスの労働力商品化論の批判ときわめて類似したものである ということである。たとえば前稿のはじめにも指摘したよう

8

に,ギンタスとボールズの 労働力商品化論批判は,たんに労働過程における階級闘争や労働統制機構の確立という

────────────

の理由としては,松尾秀雄の次の指摘がわれわれには正鵠を射たものと思われる。「宇野は商品経済原 理が旧来の共同体的領域を必ずしも分解しつくしてはいない部分が必ず資本主義には残されているので あって,例えば農村とか家族とかに依存して失業者は生活を維持しているという考え方でもって答えよ うとするのだろうが,しかし宇野には,それを言ったら自分の純粋資本主義の理論はおしまいになると いう意識が強く働いて,とくに家族共同体の問題には言及しようとしなかった。」(松尾,前掲書,287 ページ。)なおこの問題に関連して,松尾は,マルクスと宇野が「ともに資本主義という経済システム を商品経済原理の純粋化なりその原理の全面化という方法によって定義し,純粋な理論からは非商品経 済的要因を除外して考えようと試みた点では一致している」(同書,279ページ)とし,それに対し て,「市場は家族という共同体的人間の存在形態までも分解するという抽象は無理があるとしたらどう であろうか。すなわち,人間の社会的存立には,家族という人間関係を一方の極に残したままでない と,いかに商品経済の浸透力が強力であっても,人間の人間としての生存は不可能だ,という留保条件 がつけば,どうであろうか」(同書,227−228ページ)という,経済学の方法論にかかわる根本的な問 題を提起しているが,われわれにとっても多くの示唆に富むものといえよう。

7 宇野弘蔵・梅本克己「対談・社会科学と弁証法」における梅本の発言。宇野・梅本『社会科学の弁証 法』,前掲,12−13ページ。

8 拙稿「労働過程の統制と内部労働市場──賃労働関係論の再構築に向けて──」『同志社商学』第52巻 第4・5・6号,2001年3月,278−279ページ参照。

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非商品経済的諸関係の存在を強調するだけでなく,商品としての労働力の定義そのもの にも及んでいるのであるが,その際彼らがわが国のマルクス経済学の常識に逆らって

「労働力は商品でない」と主張する根拠とは,労働力の生産と再生産が,家族,地域社 会,国家といった非商品経済的諸関係──まさにその意味で梅本のいう純粋資本主義と いう「原理以外の不純なもの」──に決定的に依存しているということにほかならなか ったからである。事実,ギンタスとボールズはこの点を,梅本と同じ含意で,だが梅本 よりもはるかに直截に,次のように言い表している。

「労働が労働力の使用価値であると定義することが資本主義的生産過程を技術的に規 定されたブラック・ボックスとして示しているとすれば,それに付随する〈労働力は商 品である〉という定義は,家族をブラック・ボックスとして示している。いずれの定義 も問題となっている領域内部の社会的諸関係を曖昧にしてい

9

る。」

「労働力の生産と再生産は,支配的商品生産──資本主義的形態であれ小商品的形態 であれ──とは根本的に異なる社会的諸関係を含んでいる。また資本主義の再生産のた めに含んでいなければならないのである。労働力を商品と名付けることはこうした社会 的諸関係の異なる性格を無視し,資本主義的生産の領域における実践との結合を曖昧に するのであり,それゆえ拒否されるべきであ

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る。」

事実,以下に見るように,上述の梅本の問題提起がその後のわが国のマルクス経済学 において無視され続けてきたのとは対照的に,マルクスや宇野の労働力商品化論によっ てブラック・ボックスとされてきた労働力の再生産という隠された理論領域は,1970−

80

年代の欧米諸国の新たなマルクス研究の諸潮流によってすでにこじ開けられている といって過言でないのである。われわれの理解によれば,この労働力の再生産という新 たに開かれた理論領域は,しかしながら,そのなかに相互に関連する二つの論点を含ん でいるというべきである。その一つは労働力の再生産を可能にする労働者家族という非 市場関係の存続であり,いま一つはそのような労働者家族による社会的消費である。本 稿ではさしあたりそのうちの第一の点,すなわち市場経済の全面的展開を意味する資本 主義の発展のもとでの労働者家族の存続の意義を明らかにしてみたい。その意味でいえ ば,前稿に引き続いて本稿でわれわれが検討すべき課題とは,資本主義的生産における 労働力の再生産の解明にとって,「労働力を商品と名付けることから生じる不条

11

理」──

いいかえれば労働力の再生産をもっぱら市場原理によって捉えることから生じる不条理

──にほかならない。

────────────

H. Gintis and S. Bowles, Structure and Practice in Labor Theory of Value, Review of Radical Political Eco- nomics, vol. 12, no. 4, 1981, p. 17.

10 Ibid., p. 8.

11 Ibid.

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290(290

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労働力の価値規定と労働者家族の存続

周知のようにマルクスは『資本論』第

1

部第

4

章「貨幣の資本への転化」において,

労働力商品の価値規定を論じた際,一方で労働力が商品であるかぎり,「労働力の価値 は,他のどの商品とも同じに,この独自な商品の生産に,したがってまた再生産に必要 な労働時間によって規定されてい

12

る」としながらも,同時にまた,労働力という「この 独自な商品」に固有ないくつかの事例をあげることを忘れてはいない。すなわち,第一 には,労働力が労働者の精神的・肉体的存在と不可分であり,資本によって工場で直接 生産されることができない以上,その価値は,労働力の生産に必要な労働時間によって 直接規定されるのでなく,「労働力の所持者の維持のために必要な生活手

13

段」の生産に 必要な労働時間によって,いうなれば間接的に規定されるしかないということであり,

第二には,このように「労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として 維持するのに足りる」「生活手段の総額」は,「それ自身一つの歴史的産物であり,した がって,だいたいにおいて一国の文化段階によって定まる」ということ,まさにその意 味で「労働力の価値規定は,他の諸商品の場合とは違って,ある歴史的な精神的な要素 を含んでい

14

る」ということである。

ここに見られるような労働力の独自な価値規定の方法は,いわゆる労働力商品の特殊 性を示すものとして,これまでも繰り返し論じられてきたことはいうまでもないであろ う。だが同時にまた,こうした労働力商品の特殊性についての議論は,労働力の価値規 定が「他の商品とも同じに,この独自な商品の生産に,したがってまた再生産に必要な 労働時間によって規定されている」というマルクスの基本命題の妥当性を問いかけるも のとはついにならなかったことも前稿で指摘したところである。しかしながら,われわ れの理解によれば,以下に見るように,今日の欧米諸国におけるマルクス研究の新たな 諸潮流のなかで,こうした労働力の価値規定についてのマルクスの基本命題が,したが ってまたマルクスの労働力商品化論そのものが,いまや根本的な批判に曝されていると いって過言でないであろう。

1.労働力の価値規定と家事労働

マルクスが労働力の価値規定の特殊性としてあげた以上の二点は,しかしながらいず

────────────

12 K. Marx, Das Kapital, Bd. 1, MEW, Bd. 23, Dietz Verlag, Berlin, 1968, S. 184−185.[大内兵衛・細川嘉六 監訳『マルクス=エンゲルス全集』大月書店,第23巻,1965年,223ページ。なお同訳書には原書ペ ージが付されているため,以下では訳書ページは省略する。また訳文は適宜変更している。]

13 Ibid., S. 185.

14 Ibid.

労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (291)291

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れも資本主義のもとでの労働力の再生産の現実と整合しない。すなわち第一の点は労働 力の再生産を市場原理に還元しているということによって,第二の点は労働力の価値規 定における労働者の主体的実践的契機を無視しているということによって,である。わ れわれの理解によれば,両者は密接に関連しているが,そのうち第二の点の考察は次稿 に譲るとして,さしあたり第一の点,すなわち労働力の再生産に必要な労働時間が「労 働力の所持者の維持のために必要な生活手段」の生産に必要な労働時間に等しいという 命題についていえば,われわれが過去の時代と現代とを問わず,資本主義的生産のもと でのごくありふれた労働者家族の消費生活を想起すれば,その理由はただちにあきらか となるであろう。すなわち,後にも述べるように資本主義的生産の歴史的発展段階に応 じて労働者の消費様式は著しく変化したとはいえ,少なくとも今日に至るまでわれわれ が労働者家族の消費生活のなかに見いだすことができるのは,労働力の再生産が商品と して購入された生活手段の個人的消費によってはじめて可能であることはたしかだとし ても,それと同時に,S・ヒンメルウェイトが指摘しているように,「労働者は彼らが 自分たちの賃金で買う諸商品を直接消費するのではない」ということ,むしろ労働者の 個人的消費による労働力の再生産のためには「もう一つの生産過程,すなわち家庭内で 行われ,商店で買われた財を直接に消費しうる生産物に転換する生産過

15

程」──いわゆ る家事労働を不可欠としているということにほかならないからである。このような「家 事労働は商品を生産しないが,家族の全メンバーの個人的消費の実質的な構成要素を形 作る多くの様々な使用価値を生産する。この個人的消費はまさに,労働力の生産に必要 なものであ

16

る。」にもかかわらず,ヒンメルウェイトによれば,このような現役の労働 者とその子供に対して「清潔な衣類や調理された食事といった生産

17

物」を提供するとい う,「一般に家事労働として知られるもう一つの生産過程を,マルクスは論じていな

18

い」,というのである。

たしかにマルクスにとって,そしてまたおそらく宇野にとっても,労働力が人間主体 と切り離すことができず,それゆえ事実上労働者家族の内部でのみ再生産されること,

したがってまたそこでは多かれ少なかれ「原理以外の不純なものに依拠せざるを得な い」ことは,いわゆる労働力商品の特殊性を示すものにほかならず,その意味で家事労 働の存在は説明の必要もないほど自明の事柄であったといえるかもしれない。この点 は,たとえばマルクスが「労働力の生産に必要な生活手段の総額」を個々の労働者だけ でなく,家庭内におけるその「補充人員,すなわち労働者の子供の生活手段を含んでい

────────────

15 S. Himmelweit, Reproduction and the Materialist Conception of History : A Feminist Critique, in : T. Carver

(ed.),The Cambridge Companion to Marx, Cambridge University Press, 1991, p. 201.

16 S. Himmelweit and S. Mohun, Domestic Labour and Capital, Cambridge Journal of Economics, vol. 1, no. 1, 1977, p. 16.

17 Ibid., p. 15.

18 Himmelweit, op. cit., p. 201.

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る」と述べていること,またそれを受けて宇野が,先述の難問の解決策として暗黙の内 に市場の外部における労働者家族の存在を想定していることからもあきらかであろう。

とはいえ,それと同じくらいあきらかなことは,マルクスが,そして宇野もまた,こう した労働者家族における労働力の再生産過程とそこにおける社会的諸関係を説明の必要 もないほど自明の前提と見なすことによって,結局のところそれらを「資本主義的諸関 係の再生産の分析の外部

20

に」放置してしまうこととなったということである。マルクス にかんしていえば,このような労働力の再生産についての理論的「空

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白」を如実に示し ているのが,『資本論』での次の一文である。

「労働者階級の不断の維持と再生産も,やはり資本の再生産のための恒常的条件であ る。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能とに任せてお くことができ

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る。」

われわれの知るかぎり,ここに見られるような労働力の再生産についてのマルクスの

「説明の不十分

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さ」に対して最初に公然と不満を表明したのは,1970−80年代の欧米諸 国におけるマルクス主義フェミニストであろう。実際,後にも見るように,彼らによれ ば,マルクスによる労働力の価値規定は,労働力の再生産を市場における賃金と生活手 段との交換関係に還元してしまうことによって,第一に,生活手段の消費による労働力 の再生産に不可欠な家事労働の存在を事実上不可視のものとするものであり,それゆえ 第二には,この家事労働をめぐる男女の性別分業の固定化──まさにその意味での資本 主義的生産の「恒常的な条件」としての家父長制家族の存続──を隠蔽するものにほか ならないのである。たとえば,H・ハートマンはいう。「資本制の発展に関するマルク スの理論は,〈空白の場〉拡大の理論である。……資本はただ,だれがその場を埋める のかに関係なく,これらの場をつくり出してきたが,階級,労働予備軍,賃金労働者と いったマルクス主義的カテゴリーは,なぜ特定の人々が特定の場を占めるのかを説明し ない。どうして女性が家庭の内外で男性に従属するのか,どうしてその反対でないのか について,何の手がかりも提供しない。マルクス主義カテゴリーは,資本制それ自体と 同様に,セックス・ブラインドである

24

。」そのかぎりでいえば,「マルクスにおける労働 者の家族は,新古典派経済学における企業──その内部の活動が無視され同時に神秘化 されているブラック・ボックス──のようであ

25

る」とする

J・ハンフリーズの指摘は,

────────────

19 Marx, Das Kapital., Bd. 1, MEW, Bd. 23, op. cit., S. 186.

20 Himmelweit, op. cit., p. 202.

21 Ibid., p. 212.

22 Marx, Das Kapital, Bd. 1, MEW, Bd. 23, op. cit., S. 598.

23 Himmelweit, op. cit., p. 210.

24 H. I. Hartmann, The Unhappy Marriage of Marxism and Feminism : Toward a More Progressive Union, Capi-

tal and Class, no. 8, 1979, p. 7−8.[H・ハートマン「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚」,L・

サージェント『マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚』田中かず子訳,勁草書房,1991年,所 収,42ページ。]

労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (293)293

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決して誇張されたものではないであろう。

2.資本主義の発展と労働者家族の存続

ここに見られるような労働力の再生産における家事労働の発見は,欧米フェミニスト の間でいわゆる家事労働論争を引き起こし,家事労働に賃金を与えるべきだとする主張 さえ現れたが,ここではそのことの当否は問わな

26

い。またマルクスの資本主義分析にお ける労働力の再生産についての理論的「空白」を補うものとしてハートマンらによって 提起された家父長制という理論的概念についても後にあらためて検討するが,さしあた りわれわれにとって興味深いことは,このような労働力の再生産についてのマルクスの 理論的「空白」が,「人間の再生産のための現存の諸関係がなんらかの自然的な基礎を 持ってい

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る」という,家族関係についてのマルクスの自然主義的イデオロギーによって 生みだされたとする,フェミニストたちの指摘である。この点については,たとえばヒ ンメルウェイトの次のような指摘が参考になるであろう。

「マルクスは人間の再生産の存在を知らなかったわけではない。……彼はそれに大き な歴史的重要性を与えていたが,にもかかわらずその社会的形態を分析できなかった。

この欠落の唯一可能な説明は,マルクスがエンゲルスよりもずっと,人間の再生産につ いての,特に親子関係や性的関係についての自然主義的理解に結びつけられていたとい うことであるように思われる。」

「マルクスは自由な交換というヴェールを取り払い,資本主義的工場における表面の 諸現象を見破っていたとはいえ,マルクスのようにヴィクトリア時代の家事についての イデオロギーにどっぷりと浸かっていたものには,家庭内の現実を解明することは,は るかに難しいことであったのかもしれな

28

い。」

実際,ヒンメルウェイトの指摘を待つまでもなく,マルクスの著作における人間の再 生産や家族関係についてのこうした理論的「空白」は,少なくともこれまでのところ,

主としてエンゲルスの『家族,国家,私有財産の起源』によって補われてきたといって 過言でないであろう。周知のようにエンゲルスはそこで,近代の家父長制家族を「女性 に対する男の無条件の支

29

配」であり「女性の世界史的な敗

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北」を意味するものであると

────────────

25 J. Humpheries, Class Struggle and the Persistence of the Working−Class Family, Cambridge Journal of Eco- nomics, vol. 1, no. 3, 1977, p. 243.

26 内外におけるいわゆる家事労働論争については,以下の諸文献を参照されたい。M. Molyneux, Beyond the Domestic Labour Debate, New Left Review, no. 116, 1979.竹中恵美子「労働力再生産の資本主義的性格と 家事労働──家事労働をめぐる最近の論争によせて──」『経済学雑誌』第81巻第1号,1980年5月,

伊田広行「家事労働論・序説」『大阪経大論集』第44巻5号,1994年1月。

27 Himmelweit, op. cit., p. 214.

28 Ibid., p. 212.

29 F. Engels, Der Urspurug der Familie, des Privateigentums und des Staates, MEW, Bd. 21, S. 69.

30 Ibid., S. 61.

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し,その起源を,私有財産の保存と相続という所有関係の制度化に求めていたからであ る。「一夫一婦婚は,決して個人的性愛の果実ではなく,それとは絶対に無関係であっ た。なぜなら,婚姻はあいかわらず打算婚だったからである。一夫一婦婚は,自然的条 件にではなく経済的条件にもとづく,すなわち原始的な原生的共同所有にたいする私的 所有の勝利にもとづく家族形態の最初のものであっ

31

た」,というように。あるいはま た,「歴史上に現れる最初の階級対立は個別婚における敵対の発展と一致し,また最初 の階級対立は男性による女性の抑圧と一致す

32

る」,というように,である。

だが,すでにこれもまた今日では余すところなく明らかにされているように,エンゲ ルスによるこうした所有関係の制度化としての近代的家父長制家族の説明も,欧米のフ ェミニストからは,資本主義のもとにおける「労働者階級の家族の理解にとっては全く 不適当であると見なされてきた」といって過言でないであろう。理由はあきらかであ る。「彼が財産の相続をめぐって考案されたと見なしている家族形態や,財産を所有し ている階級のそれに一見よく似た人間の再生産諸関係が,譲るべき財産を全くもたない 労働者階級によってなぜ踏襲されてきたのかを,エンゲルスはどこでも説明していな

33

い」からである。

実際,『家族,私有財産,国家の起源』のみならず,『共産党宣言』や『資本論』に断 片的に存在するマルクスとエンゲルスの家族関係の歴史的考察を一瞥するかぎり,われ われは,あたかも彼らが資本主義のもとでの「労働者階級の家族の消滅を予言してい

34

る」かのような印象すら受けるであろう。たとえば次のように。

「現在の家族,ブルジョア的家族はなにをもとにしているか? 資本を,私的営利を もとにしている。完全に発展した形では,この家族は,ブルジョアジーにとってしか存 在しない。そして,プロレタリアのよぎなくされた家族喪失と公娼制度とがその補足物 となっている。」

「大工業のためにプロレタリアの家族のきずながみなひきちぎられ,子供がたんなる 商品や労働用具に変えられていく…

35

…。」

だが,もとよりこうしたプロレタリア家族の崩壊は,子どもを資本に売り渡す「親の 労働者たちが示すほんとうに腹だたしい,まったく奴隷商人的な気

36

質」について憤慨を 露わにしていたマルクスにとっては,家長である男性労働者が「奴隷商人」のように自 分の「妻子を売

37

る」という前近代的な家族制度の崩壊を意味するものにほかならないで

────────────

31 Ibid., S. 67−68.

32 Ibid., S. 68.

33 Himmelweit, op. cit., p. 209.

34 J. Humpheries, The Working Class Family, Women’s Liberation, and Class Struggle : The Case of Nineteenth Century British History, Review of Radical Political Economics, vol. 9, no. 3, 1977. p. 25.

35 K. Marx, F. Engels, Manifest der Kommunistischen Partei, MEW, Bd. 4, op. cit., S. 478.

36 Marx, Das Kapital, Bd. 1, MEW, Bd. 23, op. cit., S. 419.

37 Ibid., S. 418.

労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (295)295

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あろう。まさにその意味でマルクスはいう。

「資本主義体制のなかでの古い家族制度の崩壊がどんなに恐ろしくいとわしく見えよ うとも,大工業は,家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程で婦人や男 女の少年や子供に決定的な役割を割り当てることによって,家族や両性関係のより高い 形態のための新しい経済的基礎をつくりだすのである。言うまでもなく,キリスト教的 ゲルマン的家族形態を絶対的と考えることは,ちょうど古代ローマ的,または古代ギリ シア的,または東洋的形態を,しかも相ともに一つの歴史的な発展系列を形成している これらの形態の一つを,絶対的と考えることと同様に,愚かなことである。また,同様 に明らかなことであるが,男女同性の非常にさまざまな年齢層の諸個人から結合労働人 員が構成されているということは,この構成の自然発生的な野蛮な資本主義的形態にあ ってこそ,すなわちそこでは生産過程のために労働者があるのであって労働者のために 生産過程があるのではないという形態にあってこそ,退廃や奴隷状態の害毒の源泉であ るとはいえ,それに照応する諸関係のもとでは逆に人間的発展の源泉に一変するにちが いないのであ

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る。」

たしかにここでは,機械制大工業の発展に伴うプロレタリアの「家族喪失」は「古い 家族制度の崩壊」を意味するものにほかならず,そのかぎりで資本主義的生産は将来の

「家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎をつくりだす」として積極 的に評価されているといえよう。だがそれにしても,以上のような資本主義のもとでの 労働者家族の消滅というマルクスやエンゲルスの「異様な結

39

論」には,われわれは次の ような素朴な疑問を抱かざるを得ないであろう。すなわち,もし明日にでも「家族や両 性のより高い形態」に「照応する諸関係」が出現することが約束されているならばとも かく,そうでなければ,資本主義のもとで「一切の家族のきずな」を失った労働者は,

プロレタリアにとっての千年王国が到来するまで,一体いかにして自らの労働力を再生 産し続けることができるのであろうか,と。

われわれの理解によれば,結局のところ大工業による労働者家族全員のプロレタリア 化とその必然的帰結としての伝統的な労働者家族の消滅というマルクスとエンゲルスの テーゼからは,今日に至るまでの労働者家族の存続は,もっぱら「遅れた生産様式の陳 腐な遺物」か,それとも市場原理では解明できない「社会学的アノマリ

40

ー」としてしか 理解することができないといえよう。まさにその意味で,マルクスの労働力商品化論 は,労働力の再生産をもっぱら市場原理に還元することによって,家事労働や性別分業 に見られるような「家族内部における非市場関係の保

41

存」を事実上黙殺し,その結果と

────────────

38 Ibid., S. 514.

39 Humpheries, Class Struggle and the Persistence of the Working−Class Family, op. cit., p. 242.

40 Ibid., p. 256.

41 Ibid.

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296(296

(11)

して,たとえばイギリスにおける資本主義の本格的成立以後ほぼ

2

世紀にわたる「労働 者階級の家族の存続を説明することに失敗してき

42

た」というべきである。

労働者家族内部における「非市場関係の保存」

以上見たような労働力の再生産についてのマルクスの理論的「空白」は,しかしなが ら今日では主として欧米諸国におけるラディカル派やマルクス主義フェミニストによっ て,急速に埋められつつあるように思われ

43

る。本稿ではそのなかでも,すでに見たよう に労働力の再生産という理論領域に,資本制と本質的に区別される社会システムとして の家父長制という非市場的概念を導入することよって,近代の労働者家族の存立根拠を 説明しようとする先述のハートマンと,他方これとは対照的に伝統的な家族構造の存続 を労働者家族自身の主体的要求に求めるハンフリーズの見解を中心に明らかにしてみた い。実際,木本喜美子が両者の論争を簡潔に要約して述べているように,たとえば近代 的労働者家族の存続にとって決定的な意味を持つ「家族賃金」というイデオロギーの受 容をめぐって,ハートマンが当時の「男性労働者の決定的役割」を強調し,ハンフリー ズがそれを「労働者家族の男女の要求」とみなすというように,両者の間には「家父長 制第一主義」対「階級第一主義」ともいうべき「対極的見

44

解」が認められるといってよ いが,にもかかわらず,われわれの理解によれば,両者の主張のいずれもが,以下に見 るように近代の労働者家族の存続を可能にした「物質的基盤」を明らかにすることによ って労働力の再生産についてのマルクスの理論的「空白」を埋めようとしている点で,

きわめて興味深い論点を提示しているように思われるからである。

1.家族賃金イデオロギーと家父長制家族の存続

「すべての人間を無産賃金労働者にするという資本制の必然により,家父長制は壊滅 するという,19世紀マルクス主義者の予言ははずれてしまっ

45

た。」なぜなら「家父長制

────────────

42 Ibid., p. 241.

43 とりわけマルクス主義フェミニズムの諸理論については,以下の諸文献を参照されたい。A・クーン,

A・ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦』,上野千鶴子他訳,勁草書房,1984年,竹中恵美

子「1980年代マルクス主義フェミニズムについての若干の覚え書き──Patriarchal Capitalismの理論構 成をめぐって──」『経済学雑誌』第90巻第2号,1989年7月,上野千鶴子『家父長制と資本制──

マルクス主義フェミニズムの地平──』岩波書店,1990年。なお,このような内外のマルクス主義フ ェミニズムの成果は,少なくともこれまでのところわが国のマルクス経済学においてはほとんど取りあ げられることがなかったといえるが,そのうちの数少ない試みの一つとして,梅沢直樹「女性労働差別 問題とマルクス派社会経済学の再構築」(久場嬉子編『経済学とジェンダー』明石書店,2002年,所 収)が参照されるべきである。

44 木本喜美子『家族・ジェンダー・企業社会──ジェンダー・アプローチの模索──』ミネルヴァ書房,

1995年,69−71ページ。

45 Hartmann, op. cit., p. 17.[前掲訳書,59ページ。]

労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (297)297

(12)

的関係は,初期マルクス主義者が期待したような過去の遺物でもなければ,資本制の発 展に伴って急速に時代遅れになるものでもなく,生き残って資本制とともに繁栄してい

46

る」からである。というよりハートマンによれば,今日の資本主義のもとで労働力の再 生産を唯一可能にする家族とは,性別分業と男性による女性支配によって特徴づけられ る近代的家父長制家族にほかならない。

ここでハートマンのいう家父長制とは,「男性による女性の労働力の支配」を「物質 的基盤」とし,男性が「重要な生産資源(資本制社会では,たとえば,生活するに充分 な賃金を支払う職)へのアクセスを女性に許さないことにより,そして女性のセクシュ アリティを制約することにより,この支配を維持する」「一連の社会関

47

係」を意味して いる。「この支配を行使することで,男性は女性から個人的サービスを受け,家事や育 児の責任から免れ,セックスのために女性の身体に近づき,自らを力強い存在と感じ,

実際に力強い存在でありう

48

る」のである。

だが,いうまでもなくそれ自体としては資本制以前の諸社会にも存在し,マルクスや エンゲルスが「古い家族制度」と見なしてその消滅を予言したこのような家父長制が,

一体なにゆえに「生き残って資本制とともに繁栄している」のであろうか。ハートマン によれば,資本制のもとでのこうした家父長制的労働者家族の存続は,なによりもまず 女性の労働力の支配をめぐる「資本と家父長制との妥

49

協」の産物にほかならないであろ う。このことを歴史上最も明白に示しているのが,「19世紀末から

20

世紀初頭にかけ て,安定した労働者階級家族によって徐々に規範となっていった」とされる,いわゆる

「家族賃

50

金」というイデオロギーである。

周知のように,産業革命と機械制大工業の発展に伴う工場への女性や子どもの大量参 入の結果生じた「低賃金競争」と「崩壊した家庭生

51

活」という深刻な問題に対して,当 時の労働組合と男性労働者のほとんどは,「男女の賃金平等を目指して闘う代わりに」

「家族賃金」を,すなわち「家族を養うに充分な額の賃金」を要求し,「家庭での妻のサ ービスを確保することを望ん

52

だ」が,このことはまた,男性労働者のみならず,「資本 制の利害にもかなうものであった。」なぜなら,労働市場への女性や子どもの参入は資 本にとって一方では安価な労働力の利用を意味していたが,同時にそれは労働者家族の 崩壊によって安定した労働力の供給を脅かすものとなったからである。「よくいわれて いることだが,資本家は,19世紀初頭の工業化の時代に一般的に見られたような極端

────────────

46 Ibid., p. 3.[同,36ページ。] 47 Ibid., p. 11.[同,48ー49ページ。] 48 Ibid., p. 14.[同,53ページ。] 49 Ibid., p. 19.[同,61ページ。] 50 Ibid., p. 16.[同,57ページ。] 51 Ibid.[同,56ページ。] 52 Ibid.[同,57ページ。]

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298(298

(13)

に劣悪な状況では,労働者階級の家族は適切な自己再生産ができないことを認めてい た。専業主婦は賃労働に携わる妻よりも,より健康な労働者を生産し,かつよりよく維 持すること,また教育を受けた子どもは教育のない子どもよりも,質のよい労働者とな ることを知ってい

53

た」からである。まさにその意味で,「家族賃金は,当時家父長制と 資本制との間に生じていた,女性の労働力をめぐる利害対立抗争の解決策だと理解して よいだろ

54

う。」

かくてハートマンによれば今日に至るまでの労働者家族の存続は,男性による女性の 労働力支配を意味する家父長制と,それがどのような形態であっても良質な労働力の再 生産を不可欠の前提とする資本制との間の,「健全で強力なパートナー・シッ

55

プ」の所 産にほかならないのである。だがその場合,近代の労働者家族が他のどの形態でもなく 家父長制家族としてのみ存続してきたことの最大の根拠は,資本制にではなく家父長制 にこそ求められるべきであろう。なぜなら,「家父長制が存在しなかったならば,労働 者階級は一致団結して資本制と対決していたかもしれないが,家父長制的社会関係は労 働者階級を分断し,一部(男性)が他(女性)を犠牲にして買収されることを可能にし

56

た」からである。

いずれにせよ以上が,1970−80年代のマルクス主義フェミニズムの理論的成果を代表 する,ハートマンのいわゆる資本制と家父長制との二重システム論である。だが,われ われの見るかぎり,すでに見たような労働力の再生産をめぐるマルクスの理論的「空 白」についての舌鋒鋭い批判に比べれば,それに代わる労働力再生産論として彼女が提 起している家父長制家族という概念は,一見して,あまりにも単純化されたものといわ ざるを得ないであろう。すなわちその第一は,ハートマンの「家父長制モデル」におい ては,男性労働者は資本家が生産過程で労働者を支配するのと全く同じ意味で,家庭内 で女性を意のままに支配しうると仮定されているということである。あたかもそこでは

「男性たちが自分たちの都合のいいように歴史をを創りあげるビジョンと力を持ってい て,社会的現実の不透明さを克服し,自分たちの行動の意図する結果も意図せざる結果 も支配下に置

57

く」とでもいうように。したがってまた,家庭内においても資本家と同様 に「男性は自分たちの物質的充足を追求するために合理的かつ有効に行動す

58

る」かのよ うに,である。また第二には,その必然的帰結として,「家族賃金」の受容が資本制と 家父長制との「パートナー・シップ」によるものだとする彼女の歴史認識は,「組織さ

────────────

53 Ibid., p. 17.[同,58ページ。] 54 Ibid., p. 16.[同,57ページ。] 55 Ibid., p. 14.[同,54ページ。] 56 Ibid., p. 16.[同,57ページ。]

57 J. Humpheries, Method, Materialism, and Marxist−Feminism : A Comment on Matthaei, in : B. Roberts, S.

Feiner(ed.),Radical Economics, Kluwer Academic Publisher, Boston / Dordrecht / London, 1991, p. 147.

58 Ibid., p. 148.

労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (299)299

(14)

れた男性労働者の推進力を資本の推進力と対等に位置づけるという点で,特異な方法論 にもとづくもの」というべきである。資本制のもとで異なる利害関係にある男性資本家 と男性労働者がいずれも男性であるという理由で協力したという「議論はただちに納得 しがた

59

い」からである。

ここに見られるようなハートマンによる家父長制概念の「行きすぎた単純

60

化」は,し かしながら,われわれの理解によれば,そこでの家父長制家族という概念が,ハートマ ン自身も認めているように,伝統的マルクス主義の「生産様式モデル」と「パラレルな 分

61

析」によって生みだされてきたという点にこそ求められなければならないであろう。

実際,すでに見たようなハートマンの二重システム論は,端的に言えば「階級と資本主 義的搾取」という「資本主義についての伝統的マルクス主義の観念に」,「ジェンダーと 男性支配」という「家父長制の概念を付け加え

62

る」ことによって成立したものにほかな らないといってよいが,決定的なことは,「その際,資本主義のマルクス主義理論に異 議を唱えることはなかっ

63

た」ということである。まさにその意味でわれわれの理解によ れば,ハートマンの二重システム論は,『資本論』におけるマルクスの生産関係分析を 労働者家族の内部へと「パラレル」に適用することによって,われわれが前稿でも見た ような伝統的マルクス主義の理論的難点をも受け継いでいると思われるのである。すな わち,労働過程内部における資本による労働者の専制的支配というマルクスとその後の 伝統的マルクス主義の命題が,労働力の再生産の場としての労働者家族における男性労 働者による女性や子どもの専制支配としてそのまま繰り返され,その結果,両者の決定 的な相違──とりわけ労働者家族内部の血縁的紐帯にもとづく「非市場関係の保存」

──が見失われている,というようにである。

2.血縁的紐帯にもとづく労働者家族の主体的形成

これに対して,ハートマンの二重システム論を「資本主義と家父長制との調和を過大 評

64

価」するものとして批判し,むしろ今日に至るまでの労働者家族の存続の理由を,労 働者自身による血縁的紐帯にもとづく伝統的な家族形態の擁護に求めるのは,J・ハン フリーズである。

一見するところ彼女もまた,労働力の再生産についてのマルクスの理論的「空白」に

────────────

59 木本,前掲書,70ページ。

60 Humpheries, op. cit., p. 147.

61 H. I. Hartmann, A. R. Markusen, Contemmporary Marxist Theory and Practice : A Feminist Critique, Review of Radical Pokitical Economics, vol. 12, no. 2, 1980, p. 88.

62 J. Matthaei, Marxist−Feminist Contribution to Radical Economics, Radical Economics, op. cit., p. 128.

63 Ibid., p. 124.

64 Humpheries, The Sexual Division of Social Control, Review of Radical Political Economics, vol. 23, no. 3 & 4, p. 271.

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300(300

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対して,近代の労働者家族の存続には充分な「物質的基盤」が存在していることを強調 する。だがそれは,ハートマンのいう家父長制家族における男性による女性の労働力支 配という意味での「物質的基盤」とは全く異なって,労働者家族が,現役労働者のみな らず,家族内の「非労働成員や,生産性が自分たちの生存には不十分な成員の扶養」を も必要とするという,「家族の本源的に共同的な側面」を意味するものである。まさに その意味で,ハンフリーズによれば,「家族が労働する個人と労働しない個人との結合 体──それが後者の生存を保証している──のなかに保っている本源的に共同的な核

65

心」としての血縁的紐帯こそが,今日に至るまでの労働者家族の存続を根拠づける「物 質的基盤」にほかならないのである。

たとえば,「産業化がそれ以前に存在した広範な血縁的紐帯を破壊する」という通説 的見解に対して,ハンフリーズは少なくとも

19

世紀のイギリスにおいては「〈近代化〉

は家族の結束を縮小しなかっ

66

た」として,次のように反論している。

第一に,「1834年の救貧法の過酷さ」は,労働者階級に救貧院への恐怖と憎悪を呼び 起こし,「相互的・互恵的な血縁的紐帯を通じての〈階級的自

67

立〉」を促すものであっ た。事実,「19世紀イギリスの労働者階級の家族にとって,血縁的紐帯は,絶えず不安 定な条件のもとでの非官僚的扶養の主要な源泉を提供するものであっ

68

た」が,その際,

救貧法に見られるような「援助の官僚的形態」に代わって,他のなににもまして「血縁 的紐帯が強化されたのは,それが,危機的状況において互恵的な行為を行うことのでき る」「労働者階級によって統制可能な唯一の枠組みを与えるものであったからであ

69

る。」 その意味で,ハンフリーズによれば,「家族の持続性は,資本主義的環境のなかで非労 働の仲間の必要を満たすための民衆による方法を求める労働者階級の闘争を反映してい

70

る」というべきであろう。

────────────

65 Humpheries, Class Struggle and the Persistence of the Working−Class Family, op. cit., p. 247.

66 Ibid., p. 248.ハンフリーズのこの見解は,最近わが国でも邦訳されたタマラ・K・ハレーブンの『家族

時間と産業時間』(正岡寛司監訳,早稲田大学出版部,2001年)にもはっきりと認められるところであ る。たとえばそこでハレーブンは,「産業化は伝統的家族を破壊した,あるいは人びとが前産業的環境 から産業的環境に移住した結果,地域社会の紐帯が切断され伝統文化が崩壊した」という「社会学およ び歴史学」の「ステレオタイプの見解」(同,xxivページ)に対して,20世紀初頭のアメリカにおいて すら,家族や親族といった血縁的紐帯が労働者階級の工場労働と家族生活のなかで強固に生き続けてい た事実を,当時世界最大の織物会社であったアモスケグ社で働く労働者に即して詳細に実証していると いえよう。本稿では時間的制約のためにその成果を充分に取り入れることができなかったが,本文での ハンフリーズの所説を補強するものとして,脚注のなかで積極的に援用してみたい。

67 Ibid., p. 250.

68 Ibid., p. 248.

69 Ibid., p. 250.

70 Ibid.前述のハレーブンも,家族や親族の血縁的紐帯の存続について,ハンフリーズと同じ含意で次の ように述べている。「経済的に不安定な状況におかれていた当時,身内の者たちが相互に依存しあう関 係は核家族員を超えて拡大家族員の範囲にまで広がっていた。労働者家族のほとんどが貧困状態か,あ るいはそれに近い状態で生活することを余儀なくされていたので,家族員からの拠出と家族資源の集中 的な管理がなければ,家族が生きのびることはできなかった。家族はすでに生産の単位ではなかった が,しかし,たとえ家族全員が同じ職場で働いていないとしても,また彼らが同じ時期に働いてい 労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (301)301

(16)

第二に,「労働者階級の家族のすべての成員がプロレタリア化するというマルクスの 予言は,19世紀イギリスの歴史において立証されなかっ

71

た」が,ハンフリーズによれ ば,それはハートマンのいうように労働市場からの女性の排除を共通の目的とした資本 家と男性労働者との「パートナー・シップ」によるものでなく,なによりも「すべての 成員がプロレタリア化する」ことによって生じる労働力の価値低下とそれに伴う生活水 準の低下に対して,労働者自身が家族成員の「労働供給」を「統

72

制」し,一人の男性労 働者の賃金によって家族全体の扶養が可能となる「家族賃金」を求める組織的運動によ って対抗したことの結果にほかならないのである。そしてこのことが意味するのは,少 なくとも

19

世紀イギリスにおいては,「家族システムは,資本主義労働市場の過酷さに 対抗して個人を守るうえで重要な役割を果たしたのであり,労働者階級が生活水準を上 昇させるために組織化することのできる基礎を提供し

73

た」ということである。まさにそ の意味で,「普遍的なプロレタリア化によって引き起こされる労働力の価値低下は,資 本主義発展のある時代に,伝統的な家族構造を守ろうとする強い動機を労働者階級に与 え

74

た」と,ハンフリーズはいうのである。

第三に,もしハートマンのいうように,資本主義における家族の役割が労働力の正常 な維持と再生産にあるとすれば,そしてそれが資本にとって利益となるということによ って今日まで維持されてきたとすれば,資本が家事労働に代わる安価な財やサービスを 提供できなかった初期工業化の時代は別としても,その後の資本主義の発展のなかで,

たとえば「家族に代わる民間ないし国家による子どもの養育機関が」──要するに家事 労働の完全な社会化が──「構想される」ことも可能であったろう。個々の労働者家族 における「家族サービスに取って代わる」「扶養の集中化が,資本に資源の管理により 大きい統制を与えることによって,資源の管理が資本の利益になるように能率化され修 正されることを可能にすることは確かであ

75

る」からである。だが,それと同じほど確か なことは,少なくともこれまでの資本主義の歴史のなかでこのような家事労働の完全な 社会化は,労働者階級自身によって,つねに拒否されてきたということである。

────────────

ないとしても,まだ家族は労働の単位としての機能を果たしていたし,また彼らはそのような考えを共 有していた。」(ハレーブン,前掲書,278ページ。)「二つの生活設計のタイプが認められた。一つは繰 り返しおとずれる危機や不安定の発生に対処するための防衛的プランであり,いま一つは,基本的な安 定を確立し,さらなる昇進を獲得するための長期的プラン──しばしば二,三世代に及ぶ──である。

防衛的プランの根底にあるのは,自尊心の消失に対する恐れである。これは,公共福祉や慈善団体から の援助を受けた結果生じることが多く,なんとしてもこれは避けねばならなかった。困ったときの頼み の綱は家族しかなかった。現在を生き残り,長期的プランを実行していくために,家族は資源を備蓄 し,家族員に厳しい規律を課した。」(同,517ページ。)

71 Ibid., p. 251.

72 Ibid.

73 J. Humpheries, J. Rubery, The Reconstitution of the Supply Side of the Labour Market : The Relative Auton- omy of Social Reproduction, Cammbridge Journal of Economics, vol. 8, no. 4, December 1984, p. 341.

74 Humpheries, Class Struggle and the Persistence of the Working−Class Family, op. cit., p. 244.

75 Ibid., p. 256.

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302(302

(17)

「資本主義の発展が利潤のための生産の命令するところにしたがって生産の合理化へ と至るにつれて,資本主義は,社会的諸関係を市場関係へと容赦なく変えていくという 歴史を持っている。労働者階級の家族が市場の規律を与える力から逃れてきたのは,た だ家族がその力に抵抗してきたからであ

76

る。」「こうして,一つの制度としての家族は,

分配と社会的交流の人間的で非市場的な方法を求める民衆の熱意によって形成されてき たのであ

77

る。」

しかしながら,ここに見られるようなハンフリーズによる労働者家族の「本源的に共 同的な側面」の強調は,すでに見たような近代の家父長制家族における男性の女性支配 を摘発するマルクス主義フェミニストの強い反発を招くものであったといえよう。たと えばハートマンはいう。「すべての成員が単一の利害を持つ一体化した労働者家族とい う観念は,労働が行われる生産領域への男性と女性の全く異なった関係が存在する以 上,われわれには空想的(romantic)であり正しくないように思われ

78

る。」なぜならそ れは,「ジェンダーの闘争にではなく階級闘争に焦点を当てる」ことによって,「社会的 諸関係の一つの大きな部分,すなわち家族内の労働をめぐる男と女の関係を考察するこ とを拒否しているために,男性支配の存続を満足に説明することができな

79

い」からであ る。

だが,もとよりハンフリーズも,すでに見たような労働者家族による「労働供給」の

「統制」が,現実には工場における生産労働を男性に,家庭内の再生産労働を女性に配 分するという「性差別的イデオロギー」にもとづいて行われたこと,そしてその結果と して「労働者と雇主における性差別を強め,長期的には経済的平等の達成を一層困難に した」ということを決して否定するものではない。その意味で彼女はいう。「悲劇は,

行動が階級的基礎にもとづいて統制されることができず,」「その結果,性に根ざした支 配・従属関係が強められたということであ

80

る」,と。

実際,ハンフリーズのいう労働者階級による家族の擁護が,結局のところ伝統的家族 を特徴づける血縁的紐帯という「非市場関係の保存」にほかならない以上,そのことが 同時に家族内での性や年齢にもとづく家父長制的なヒエラルキーの,したがってまた男

────────────

76 Ibid.

77 Ibid., p. 251.

78 Hartmann, Markusen, Contemporary Marxist Theory and Practice, op. cit., p. 90.

79 Ibid.同様に,バレットとマッキントッシュも,「家族賃金」を求めた当時のイギリス労働者階級の闘 争を擁護するハンフリーズに対して,「家族賃金システム」は,第一に,家事責任を女性にのみ負わせ ることによって「女性の従属と抑圧を強化し」,第二に,女性の労働力を,「不況期に男性の賃金を低下 させ男性労働者の代わりとなる産業予備軍」として構成するにすぎず,歴史的に見て「労働者階級全体 の生活水準を上昇させる傾向を持たなかった」のであり,また第三には,そこに見られる根強い性差別 イデオロギーによって,今日に至るまで「男性と女性との分断を生みだすことによって労働者階級を弱 体化させている」として,逐一反論している。(M. Barett, M. MacIntosh, The ‘Family Wage’ : Some Prob- lems for Socialists and Feminists, Capital & Class. no. 11, 1980, pp. 59−69.)

80 Humpheries, Class Struggle and the Persistence of the Working−Class Family, op. cit., p. 253.

労働力の再生産と労働者家族の存続(向井) (303)303

(18)

性による女性支配,親による子供の支配の「保存」をも意味するものでもあったことは 言を待たないであろ

81

う。その意味で,こうした「家族賃金」イデオロギーが,性差別的 イデオロギーとそれにもとづく家庭内ヒエラルキーを温存し,それによって家庭内での 女性の従属的立場と労働市場における女性労働の周辺的地位を構造化するという点で,

重大な役割を果たしてきたことは紛れもない事実である。まさにそれゆえにハートマン が,また同じ含意でバレットとマッキントッシュが,この「家族賃金」イデオロギーが 演じてきた歴史的役割を今日の時点で総括し,そのうえで現代資本主義のもとで今なお 存続する「家族賃金という理念」を「破壊すべき神

82

話」として厳しく断罪することも,

故なしとしないであろう。

だが,それにもかかわらず,少なくとも,すでに見たような

19

世紀における「家族 賃金」イデオロギーの受容を,当時の男性労働者と労働組合が「労働人口をジェンダー に沿って構造化しようとするブルジョワジーの圧力と共謀し

83

た」ことの結果だとするマ ルクス主義フェミニストのテーゼに関するかぎり,われわれはハンフリーズとともに次 のようにいわねばならないだろう。すなわち,19世紀のイギリス資本主義という歴史 的に制約された状況の下で,「労働者階級が性差別イデオロギーをこのように用いたこ とを,いまから振り返って」「即座に断罪することは」,「19世紀の労働者の物質的諸条 件に対して鈍感であ

84

る」といわざるをえない,と。たしかに,しばしば指摘されている ように,「家族賃金」を求める運動だけでなく,工場法をめぐる労働条件や労働時間に 関する闘争においても,当時の男性労働者と労働組合が「女性のか弱さと家族の完全性 を強調するブルジョア・イデオロギ

85

ー」に訴えたことは事実であろう。成人一般の労働 時間の規制を求める闘争が「婦人のペチコートのうしろから闘われ

86

た」という周知の文 言は,このことを如実に示すものといってよいであろう。しかし,だからといって,労

────────────

81 その意味でフェミニストとは異なる観点からであるが,ハレーブンもまた,当時の労働者家族が,いか に個人の自立や個々の家族成員の自由な自己実現を妨げるものであったかを率直に表明している。「相 互依存と一致団結による努力が家族存続の鍵を握っていたので,家庭経済をいかに維持していくか,そ の戦略は個人の選択あるいは個人本位に優先した。」(ハレーブン,前掲書,279ページ。)「家族に対す る義務感は,家族文化の表現形態の一つであって,家族の福祉,自助,あるいは存続にかかわるだけで なく,個人のニーズや幸せよりも家族のそれを優先させることにかかわる一組の価値である。家族の自 律性は,個人の自己実現よりも重要な目標として価値づけられて保持された。」「こうした当時の家族に よる決定は,現代からみれば無情といえるほど個人の感情を無視していた。」(同,156ページ。) 82 Barett, MacIntosh, The ‘Fanily Wage’, op. cit., p. 59.

83 Ibid., p. 54.

84 Humpheries, op. cit., p. 253.

85 Ibid, p. 244.

86 シドニー・ウェッブ,ビアトリス・ウェッブ『労働組合運動の歴史』上巻,荒畑寒村監訳,飯田 鼎・

高橋 洸訳,日本労働研究機構,1973年,353ページ,B. L.ハチンズ,A.ハリソン『イギリス工場 法の歴史』大前朔郎他訳,新評論,1976年,62ページ,参照。なお,この文言の意味するところにつ いては,ハチンズとハリソンの次の記述を参照されたい。「男子の労働組合が目的としたことは,自分 たちが長時間働くために婦人を排除することではなく,同法(女性の労働時間を規制する工場法──引 用者)を婦人のために実施することによって,自分たち自身の労働時間を実際に短縮することであっ た。」(同,186ページ。)

同志社商学 第54巻 第1・2・3号(2002年12月)

304(304

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