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労働力の再生産と失われた「賃労働」の部 : プラ ン問題再考

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(1)

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部 : プラ ン問題再考

著者 向井 公敏

雑誌名 同志社商学

巻 57

号 6

ページ 207‑234

発行年 2006‑03‑15

権利 同志社大学商学会

ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007348

(2)

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部

──プラン問題再考──

向 井 公 敏

問題の所在

1 プラン不変説vs変更説 2 『資本論』の方法論的「一面性」

『資本論』における労働力の価値規定の外生性と不変性 1 労働力の価値規定における歴史的・精神的要素

2 相対的剰余価値論と「賃金バスケット」の外生性と不変性 『経済学批判要綱』における「賃労働」の非『資本論』的叙述

1 暫定的仮定としての「必要労働」の固定性 2 「流通の自立的起点」「消費者」としての労働者 3 相対的剰余価値の生産と消費圏域の量的および質的拡大 『資本論』と失われた「賃労働」の部

──結びに代えて──

問題の所在

いうまでもなくマルクスの『資本論』は未完の著作である。このことは『資本論』の 研究者ならば誰しも認めるところであろう。だがそれがいかなる意味で未完の著作なの かについては,必ずしも自明のこととはいえないであろう。たとえば第一に,もしそれ がたんにマルクスが生前に自らの手で刊行しえたのは『資本論』全

3

部のうち第

1

部の 初版,第

2

版,およびフランス語版にすぎず,第

2

部と第

3

部は未完成の原稿のままマ ルクスの死後,エンゲルスの編集によって出版されたということを意味するならば,た んなる同義反復に過ぎないであろう。だが第二に,その際エンゲルスの編集がマルクス の意志を忠実に体現するものであったかはしばらく措くとしても,現行『資本論』全

3

部が,マルクスの意図していた「経済学批判」の構想──以下では「経済学批判」プラ ンと呼ぶ──を,少なくとも基本的な意味で実現するものであったのかどうかにかかわ る問題として提起されるならば,事態はまったく異なるであろう。そこには今なお見解 の対立が存在しているからである。『資本論』の対象領域をめぐるいわゆる「プラン問 題」がそれである。かつてわが国の『資本論』研究において一大論争を巻き起こしたこ のプラン問題は,しかしながら今日ではその根本的な解決を見ないまま問題それ自体へ の関心が急速に失われているといって過言でないが,われわれの理解によれば,この問 題は『資本論』の諸問題の理解にとって今なお重要な意味を有していると思われるので

599)2

(3)

ある。とはいえ本稿は『資本論』全

3

部の対象領域にかかわるこのプラン問題を,その すべてにわたって論じようとするものではない。もっぱら前稿でも見たようなマルクス の賃労働関係論の現代的再構築というわれわれの問題意識に関連するかぎりでこの問題 の再検討を試みてみた

1

い。

1

プラン不変説

vs

変更説

周知のようにマルクスは,1958年に刊行された『経済学批判』の「序言」のなかで みずからの「経済学批判」プランを次のように言明していた。「私はブルジョア経済の 体制をこういう順序で,すなわち,資

!

!

・土

!

!

!

!

・賃

!

!

!

,国

!

!

・外

!

!

貿

!

!

・世

!

!

!

!

という順序で考察する。はじめの三項目では,私は近代ブルジョア社会が分かれてい る三つの大きな階級の経済的生活条件を研究する。その他の三項目のあいだの関連は一 見して明らかであ

2

る。」

このいわゆる

6

部門プランに,ほぼ同時期に執筆された『経済学批判要綱』で見られ る第

1

部「資本」についてのプランを補足することによって,われわれはこの時期のマ ルクスの「経済学批判」プランをおおむね次のように示すことができるであろう。

「 蠢 資本

(a)資本一般

(1)商品

(2)貨幣

(3)資本

1

資本の生産過程

2

資本の流通過程

3

両者の統一または資本と利潤,利子

(b)競争

(c)信用

(d)株式資本 蠡 土地所有 蠱 賃労働 蠶 国家

────────────

プラン問題をめぐる戦前・戦後からの内外の論争については,青才高志「プラン問題をめぐる諸見解──

佐藤金三郎氏の死を悼んで──」『信州大学経済学論集』第28号,1991年を,またプラン問題に固有 の多くの論点については,谷野勝明『経済科学の生成』時潮社,1991年,を参照されたい。

Karl Marx, Zur Kritik der Politischen Ökonomie,MEW, Bd. 13, Diez Verlag, Berlin, 1961, S. 7.〔大内兵衛・

細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』第13巻,大月書店,1964年,5ページ。なお本訳書には 原書ページが記載されているために以下では訳書ページは省略する。

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8(600

(4)

蠹 外国貿易 蠧 世界市場(と恐

3

慌)」

さしあたりこのプランを現行『資本論』と比較すれば,問題の所在は一見してあきら かである。まず第一に,現行『資本論』がここでの第

1

部「資本」のうちの「資本一 般」を原型とするものであるということは説明を要しないであろう。だが第二に,同時 に,現行『資本論』には当初「資本一般」の外部に存在していた数多くの対象領域──

たとえば第

1

部「資本」の部における「競争」と「信用」,あるいはまた地代や労賃と いった本来第

2

部「土地所有」,第

3

部「賃労働」に属すべきであった諸問題──も少 なからず含まれているということも否定し得ない事実である。それゆえもしわれわれ が,もっぱら第一の観点に立つ限り,『資本論』は「資本一般」の発展形態であり,依 然として

6

部門プランの一部をなすに過ぎないといえるかもしれないであろう。他方,

後者の点を重視するならば,『資本論』は,少なくとも

6

部門プランのうちマルクスが 最も重視していた前半

3

部──「近代ブルジョア社会が分かれている三つの大きな階級 の経済的生活条件を研究する」「資本」「土地所有」「賃労働」──を基本的な意味で完 成させているとみなすことも可能である。まさにその意味で,『経済学批判』から『資 本論』のあいだで「著作プラン上の根本的な変更があったか否か」,いいかえれば現行

『資本論』は「最初のプランのうちのどの範囲までを実現していると考えるべきか。こ れがプラン問題として古くから内外で論議されてきた問題であ

4

る。」

だが,わが国におけるプラン問題の第一人者ともいうべき佐藤金三郎が指摘している ように,この「プラン問題は二つの側面をもっている」といえよう。「一つは著作プラ ンの根底に横たわる方法論上の問題としての側面であり,いま一つは『資本論』成立史 上の考証問題としての側面であ

5

る。」そして少なくともこれまでのところ,この問題に ついて最も明解な結論を提示してきたのは,「方法論上の問題」を根拠として『経済学 批判』から『資本論』との間に根本的なプランの変更が生じたとするプラン変更説であ ろう。実際,戦前のグロースマンや

1960

年代におけるロスドルスキー,また方法論的 立場を異にするとはいえわが国の宇野弘蔵に見られるように,現行『資本論』の対象領 域が,当初の「資本一般」からかつての

6

部門プランにおける前半

3

部へと拡大してい ったとする点で,それらは基本的に一致しているからである。

これに対して,このような「方法論上の問題」によるプランの変更は存在せず,した がってまた現行『資本論』も基本的には「資本一般」の発展形態であると主張するプラ ン不変説については,その主張は必ずしも一義的でない。理由は明白である。プラン変

────────────

佐藤金三郎「『資本論』の成立──プラン問題を中心として──」佐藤金三郎他編『資本論を学ぶ』

蠢,有斐閣,1977年,3−4ページ。

同書,7−8ページ。

同書,10ページ。

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 601)2

(5)

更説と比べてわが国に多く見られるこの不変説は,上述の二つの問題のうち「『資本論』

成立史上の考証問題」と密接に関連して提起されてきたのであるが,まさにそれゆえに この立場は,1953年の『経済学批判要綱』や近年の新メガでの『1861−63年草稿』を はじめとする新資料の刊行によって,その都度多大の修正を余儀なくされてきたからで ある。このことは,なによりも前述の佐藤自身が,一方で「『経済学批判』と『資本論』

とのあいだには方法論上の原則的変更はありえないという立場から」出発しながらも,

他方ではこの『要綱』の内在的研究を通じて,結局のところ『資本論』は,「〈競争〉

〈信用〉〈土地所有〉〈賃労働〉のすべてについての基本的規定をすでにふくんでいるか ぎりでは,内容的には最初のプランの前半三部を実現したもの」であり,これに対して それらの「特殊研究」は「『資本論』の範囲外に依然として留保されている」とする

「両極分

6

解」説を結論するに至っていることからもあきらかであろう。さらにいえば佐 藤は後年『1861−63年草稿』にも言及し,そこでの「資本一般」は『要綱』のそれとは

「言葉は同じでも,考察範囲や概念規定が違うということ」,その意味で「『資本論』は

〈資本一般〉であるというよりも」,当初は「資本一般」の外部に放置されていた労賃や 地代といった問題をも含む「資本の一般的分析」というべきものにほかならないことを はっきりと承認しているのである。もとよりその際佐藤が,「現在の『資本論』が『要 綱』の〈資本一般〉を母胎として,いわばそれの充実,完成された形態として存在して いるというのは当然のこと」であり,したがって「私がいまやプラン不変説から変更説 に変わったというふうに取られると困

7

る」と語っているとしても,である。

その意味からすれば,今日の『資本論』成立史研究の飛躍的進展によって,少なくと も現行『資本論』全

3

部が「内容的には最初のプランの前半三部を実現したもの」であ るという点にかんするかぎり,われわれはもはやかつてのプラン不変説と変更説に見ら れたような根本的な対立を認めることができないであろ

8

う。だがそうであればあるほ

────────────

同書,12−13ページ。なお佐藤の「両極分解」説の詳細については,佐藤金三郎「〈経済学批判〉体系 と『資本論』──『経済学批判綱要』を中心として──」『経済学雑誌』第31巻第5・6号,195412 月,を参照されたい。

高須賀義博編『シンポジウム「資本論」成立史〔佐藤金三郎氏を囲んで〕』新評論,1989年,100ペー ジ。(佐藤金三郎『「資本論」研究序説』岩波書店,1992年,346ページ。

この点については今日の『資本論』成立史研究の最新の成果というべき,富塚良三・服部文男・本間要 一郎編『資本論体系』1,服部文男・佐藤金三郎編『資本論体系の成立』有斐閣,2000年,における谷 野勝明「『資本論』体系のプラン」および大村泉「『資本論』体系の成立」が参考になるであろう。たと えば谷野は,佐藤の「両極分解説」を「さらに発展させようと」する立場から,『資本論』の範囲外に 留保されている部分を体系的に展開すること」が「われわれに課題として残されている」(同書,179 ページ)としつつも,少なくとも『資本論』にかんするかぎり,佐藤と同様,そこでは「当初の〈資本 一般〉に〈土地所有〉〈賃労働〉の一般的分析が加わったことにより,『経済学批判』〈序言〉で前半 三項目で研究されているとされていた〈近代ブルジョア社会を構成している三大階級の経済的な生活条 件〉の解明が基本的に達成されている」(同書,178ページ)と述べているのであり,また大村も,従 来のプラン不変説の立場から,『資本論』全3部の草稿に,また『資本論』第1部初版以降のテクスト に存在する多様な留保文言は,「なお当初の経済学批判の構想が堅持されていたことを示唆しているか のようである」(同書,229ページ)として,この問題に対する慎重な態度をなお保持しながらも,現 行『資本論』が,少なくともその内容にかんするかぎり,『経済学批判』「当時の〈資本一般〉という!

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0(602

(6)

ど,ここに見られるような両説の内容上の接近は,プランの内容上の変更と方法論上の 変更とが一致するとする変更説はともかく,佐藤のような『経済学批判』と『資本論』

とのあいだのいうなれば方法論的不変説から出発した論者にとって深刻な問題を突きつ けるものであるといってよいであろう。すなわちその第一は,『要綱』段階の「資本一 般」から『資本論』の「資本の一般的分析」への内容上の変更が,同時に『要綱』以来 のマルクスの「経済学批判」体系全体の方法論的変更を伴うものであるのかどうかとい うことである。さらに第二には,そのことが,現行『資本論』にどのような方法的特徴 を刻印することとなったのかということである。

だがわれわれの理解するかぎり,佐藤を含めて,わが国の『資本論』成立史研究者の ほとんどが,プラン問題の本来の課題というべきこうした方法論上の問題を回避してき たように思われる。しかしながら,わが国ではほとんど取りあげられることがなかった とはいえ,1960−70年代の欧米諸国におけるマルクス・ルネサンスのなかで,これらの 問題について重大な問題提起がすでに存在していたのである。第一の問題についての

M・リュベル,第二の問題についての A・ネグリの問題提起がそれである。われわれは

この両者の見解を,近年,新たな観点からこの

6

部門プランから前半

3

部門プランへの 変更問題に論及した

M・A・リーボウィッツの所説を援用しながら,検討してみよう。

2

『資本論』の方法論的「一面性」

たとえばリュベルは,『資本論』はマルクスの「〈経済学〉の〈最初の部分〉でしかな

9

い」というプラン不変説の立場から,「もしマルクスが

1859

年の序言のプラン(6部構 成)にしたがって〈経済学〉を出版しなかったとしても,それはグロースマンが語って いるような構成プランを変更するに至らしめた〈方法論的〉理由によるものでない」と 主張する。要するに彼によれば,それはただたんに「資本一般」の内容がマルクスの予 想を超えて増大していったために,いうなれば「〈仮綴本〉を書く代わりに〈膨大な量〉

を作成する必要が生じ

10

た」からにほかならないのである。たとえば当初「価値と貨幣に ついての〈序章〉と三つの〈過程〉(生産,流通,両者の統一)を備えた資

"

"

の全体 を,マルクスは

1

"

0

"

0

"

"

"

"

"

取り扱うつもりでい

11

た」のに対して,後には「彼はそれを

3〈部〉とし,その第 1

部が印刷されれば約

800

ページを数えるまで膨らませることに

なった」というように,である。「マルクスが恐れていた見通しの誤りがどれほど破滅 的なものであったかがわかるであろう。実をいえば,ここにマルクスの研究方法と整合

────────────

! 理論的枠組み,したがって当時の6部門からなる経済学批判体系を抜本的に再編したもの」(同書,209 ページ)であることを認めているといってよいであろう。

Maximilien Rubel, Introduction de Karl Marx Œuvres II, Gallimard, Paris, 1968, p. CIII.

Ibid.,p. XCVII.

Ibid.,p. XCVIII.

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(7)

する唯一の〈プラン変更〉がある。すなわち,彼はただ,彼の膨大な計画のうちの困難 な部分(「資本一般」──引用者)を実現するために予期せぬ量を与えたにすぎないの であ

12

る。」

もとよりここに見られるようなリュベルのプラン不変説は,その根拠を主としてマル クスの書簡に求めるものであり,新メガ刊行以前の

1968

年に執筆されたことを差し引 いても,厳密な考証に裏付けられているとはいいがたいであろう。にもかかわらず,リ ーボウィッツは「リュベルは正し

13

い」という。なぜなら,リュベルの不変説の含意と は,『資本論』はマルクスの「経済学」の「一部分」にすぎず,「そのすべてでないとい うこと,それはたとえ出来上がっていたとしても一つの体系をなすものではなかったと いうこと」であり,その意味で「われわれは目の前に永久的に成文化された聖典という マルクス主義のバイブルを手にしているわけではな

14

い」ということにほかならなかった からである。そしてその際リーボウィッツがその証左としてあげているのが,かつての

6

部門プランで意図されていた,「資本」や「土地所有」と並ぶ独立した「部」として の「賃労働についての部が書かれないまま」に終わったことから生じている,『資本論』

の方法論的「一面

15

性」にほかならないのである。

ここでリーボウィッツのいう,「賃労働についての部」がついに書かれなかったこと から生じている『資本論』の方法論的「一面性」を最初に指摘したのは,イタリアの異 端的マルクス主義者

A・ネグリであろう。たとえばネグリは,マルクスの経済学批判

体系における『経済学批判要綱』の独自な意義を明らかにした

1979

年の『マルクスを 超えるマルクス』のなかでこのプラン問題に触れ,ロスドルスキーに代表される「文献 学的アプローチ」に対して次のような根本的な疑問を表明しているのである。「それ は,マルクスの完成された著作──『資本論』──は彼の研究全体を完璧に要約・提示 しているのだろうか,という疑問である。高名で学識あるわれわれの同僚は,『資本論』

成立史を語ってくれる。しかし,この成立史は,〈『資本論』はマルクスによる分析の最 高水準を示している〉という前提に立っているので,私には不適切に思われ

16

る。」 そればかりでない。ネグリは,以下で詳しく見るような『要綱』に頻出する「賃労 働」や「賃金」についての章または部についてのマルクスの断片的な叙述に対する彼自 身の独自な解釈にもとづいて,現行『資本論』の「一面性」について次のように結論す

────────────

Ibid.,p. CVI.

Michael A. Lebowitz,Beyond Capital : Marx’s Political Economy of the Working Class, Macmillan Academic and Professional Ltd, Houndmills, Basingstoke, Hampshire, and London, 1992, p. 14.

Rubel,op. cit.,p. CXXVI.

Lebowitz,op. cit.,p. 14.

6 アントニオ・ネグリ『マルクスを超えるマルクス』清水和己・小倉利丸他訳,作品社,2003年,36

−ジ。(なお同書のイタリア語初版は,Antonio Negri,Marx oltre Marx, Feltrinelli, 1979.ただし筆者は未 見である。

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2(604

(8)

るに至っているのである。すなわち,もしマルクスが「賃労働(あるいは賃金)に関す る章を著さず,その重要ないくつかの要素が,『資本論』第一巻の客体的叙述に縮約さ れ

17

た」にすぎないとするならば,「マルクスの主題全体にとって『資本論』は一部分に 過ぎない,しかも,本質的とは言えない部分である,とは考えられないだろうか?『資 本論』は完結しているがために,過大評価されていないだろう

18

か?」,と。

確かに,ネグリ自身も認めているように,『マルクスを超えるマルクス』における彼 の『要綱』理解は際立って「極端」な「観

19

点」に立つものであり,また叙述の難解さも あいまって,これまで詳細な検討が避けられてきたことも故なしとしないであろう。だ が少なくともわれわれが理解するかぎり,リュベルがプラン不変説の立場から示唆し,

ネグリとリーボウィッツが失われた「賃労働についての部」との関連で指摘している現 行『資本論』の方法論的「一面性」という主張が,果たして正当なものかどうかを問う ことなしに,プラン問題の最終的な決着はありえないことだけは確かであろう。という より,もし彼らの主張が正当なものであるとすれば,プラン不変説であれ変更説であ れ,「『資本論』はマルクスによる分析の最高水準を示している」ということを無批判に 前提するわが国の『資本論』成立史研究は,文献考証的側面はいざ知らず,方法論的観 点からは根本的な再検討を余儀なくされるといって過言でないであろう。以下ではこの 問題を,『資本論』における労働力の再生産と労働力の価値規定にかかわる諸問題に即 して検討してみよう。

Ⅱ 『資本論』における労働力の価値規定の外生性と不変性

1

労働力の価値規定における歴史的・精神的要素

問題の出発点は,『資本論』第

1

部第

2

篇第

4

章「貨幣の資本への転化」における労

────────────

7 同書,46ページ。

8 同書,39ページ。

9 同書,245ページ。だが,結論からいえば,注54でも指摘しているように,『要綱』は,資本の過程 における革命的主体を分析するための主体的アプローチ」であり,そこには労働者階級の「革命への意 志とその可能性の導きの糸が見出せるのである」(同書,43ページ)とする,ネグリの「極端」な主張 は,『要綱』解釈としては,とうてい支持されるものではないであろう。たしかに同書には,資本・賃 労働関係を理解するうえでの,弁証法に代わる「分離の論理」やプロレタリアの「自己価値創造」とい った斬新な諸規定が数多く存在しているといえよう。しかしながらわれわれの理解によれば,それらは いずれも,『要綱』解釈というより,経済決定論に代表される「マルクス主義の一種の伝統である盲目 的客体主義」(同書,49ページ)の批判という,1960−70年代の欧米マルクス・ルネサンスに特有の問 題意識の文脈のなかで理解されるべきであり,その意味でマルクス以後のマルクス主義の新たな可能性 の模索という観点から捉えることによって初めてその意義が明らかになると思われる。それゆえ本稿で は同書でネグリが提起している諸問題のうち,もっぱらプラン問題への言及にのみ限定し,賃労働関係 にかかわる彼の主張については,近年のM・ハートとの共著『帝国』における諸命題とともに次稿に おいて詳しく論じることとしたい。なお,『要綱』解釈をめぐる内外の論争については,拙稿「『経済学 批判要綱』をめぐる諸問題」(服部文男・佐藤金三郎編『資本論体系の成立』,前掲,所収)を参照され たい。

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 605)2

(9)

働力の価値規定である。周知のようにマルクスはそこで,一方で労働力の価値を,それ が商品である限りで,「他のどの商品の価値とも同じに,この独自な商品の生産に,し たがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されてい

20

る」としながらも,他方で は,この労働力という商品が「人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存

21

在」して いるという特殊な側面にも留意し,次のような規定を追加している。

「だから,労働力の生産に必要な労働時間は,この生活手段の生産に必要な労働時間 に帰着する。言い換えれば,労働力の価値は,労働力の所持者の維持のために必要な生 活手段の価値である。」しかもその際,「生活手段の総額は,労働する個人をその正常な 生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。食物 や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは,一国の気象その他の自然的 な特色によって違っている。他方,いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自 身一つの歴史的な産物であり,したがって,だいたいにおいて一国の文化段階によって 定まるものであり,ことにまた,主として,自由な労働者の階級がどのような条件のも とで,したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか,によって定まるも のである。だから,労働力の価値規定は,他の商品の場合とは違って,ある歴史的な精 神的な要素を含んでい

22

る。」

ここに見られるような,労働力商品の特殊性に由来する,「歴史的な精神的な要素」

を含む労働力の特殊な価値規定は,従来しばしば,労働力の価値規定の内容をなす「生 活手段の総額」,したがってまた「必要欲望の範囲」そのものが歴史的に「一定不変」

でなく,資本主義の発展とともに「その変化を予

23

想」しうるものであるという通説的解 釈を生みだしてきたといえよう。だが,われわれの理解によれば,少なくとも『資本 論』第

1

部第

2

篇第

4

章での労働力の価値規定を仔細に検討するかぎり,「歴史的な精 神的な要素」についてのこのような従来の通説的解釈は,誤りとはいえないまでも不正 確といわざるをえないであろう。

第一に,ここでマルクスのいう労働力の価値規定の「歴史的な精神的な要素」が,さ しあたりは資本主義の発展過程のなかで生じてくる諸要素としてではなく,主として封 建制の解体のなかで自由な労働者階級が形成されてきた歴史的・精神的諸条件にかかわ るものとして語られているということである。この点は,『資本論』とほぼ同時期の

『賃金,価格,利潤』においてマルクスが労働力の価値規定の「歴史的ないし社会的な 要素」について触れた際,このような「歴史的伝統と社会的慣習がこの点で演ずる重大 な役割」の一例として,「イングランドのいろいろな農業地域の平均賃金は,それらの

────────────

Karl Marx, Das Kapital, Bd. 1,MEW,Bd 23, Dietz Verlag, Berlin, 1962, S. 184.

Ibid.,S. 181.

Ibid.,S. 185.

3 宇野弘蔵『マルクス経済学原理論の研究』岩波書店,1959年,129ページ。

同志社商学 第57巻 第6号(26年3月)

4(606

(10)

地域が農奴制の状態から脱したときの事情のよしあしに応じて,今日でもなお多少ちが いがある」ことがあげられていることからもあきらかであろう。「純然たる生理的な生 活ではなく,人々がそこで住み,そして育てられる社会的諸条件から生ずる,一定の欲 望の充足」を可能にする労働力の価値は,「どこの国でも,伝

!

!

!

!

!

!

!

!

によって 決定され

24

る」というように,である。

第二に,たしかに,一般の商品の場合と異なるこのような「歴史的な精神的な要素」

による労働力の特殊な価値規定を,もっぱら資本主義的生産の前提条件としての「伝統 的な生活水準」にかかわるものとしてだけでなく,今日に至るまでの資本主義の発展過 程にまで敷衍することができると考えることも可能であろう。われわれもまたそのこと を否定するものではない。というより,のちにも見るようにそれは『経済学批判要綱』

をはじめとするマルクスの著作全体についていえば,異論の余地がないといって過言で ないであろう。だが少なくとも『資本論』にかんするかぎり,こうした楽天的な理解は この「歴史的な精神的な要素」に続くマルクス自身の文言によって封じられているので ある。すなわち彼はいう。「とはいえ,一国については,また一定の時代には,必要生 活手段の平均範囲は与えられているのであ

25

る」,と。要するに,もし資本主義的生産の 発展の結果としての「歴史的な精神的な要素」による「必要生活手段の平均範囲」の変 動が可能であるとしても,少なくともここではこの変動自体はなんら考慮されないと明 言されているのである。事実,その後の『資本論』の分析の全体を通じて,労働力の価 値を中心とする労働力の価格の上昇や低下の可能性について言及されることはあって も,労働力の価値規定にとって決定的な「必要欲望の範囲」やそれに伴う「必要生活手 段の平均範囲」の変動はまったく無視されているといって過言でないであろう。まさに その意味でリーボウィッツのいうように,『資本論』でのマルクスは「この一連の必要 生活手段の不変性を所

!

!

!

!

!

とみなし」,「この基礎にもとづいて彼は剰余価値の生産 の研究へと進んでいったのであ

26

る。」そしてこのリーボウィッツの主張をなによりも証 明しているのが,『資本論』第

1

部第

4

篇「相対的剰余価値の生産」である。

2

相対的剰余価値論と「賃金バスケット」の外生性と不変性

周知のように,マルクスは『資本論』第

1

部第

4

篇第

10

章において,「労働日の延長 によって生産される」絶対的剰余価値に対して,所与の労働時間という前提のもとでの

「必要労働時間の短縮」と,その結果としての労働力の価値低下から生じる剰余価値を 相対的剰余価値と名づけ,その生産方法について次のように述べている。

────────────

Karl Marx, Lohn, Preis und Profit,MEW, Bd. 16, Dietz Verlag, Berlin, 1962, S. 148.

Marx, Das Kapital, Bd. 1,op. cit.,S. 185.

Lebowitz,op. cit.,p. 16.

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 607)2

(11)

「労働力の価値を下げるためには,労働力の価値を規定する生産物,したがって慣習 的な生活手段の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門 を,生産力の上昇がとらえなければならない。」

「労働の生産力を高くし,そうすることによって労働力の価値を引き下げ,こうして 労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには,資本は労働過程の 技術的および社会的諸条件を,したがって生産様式そのものを変革しなければならない のであ

27

る。」

「商品の価値は労働の生産力に反比例する。労働力の価値も,諸商品の価値によって 規定されているので,同様である。これに反して,相対的剰余価値は労働の生産力に正 比例する。それは生産力が上がれば上がり,下がれば下がる。……それゆえ,商品を安 くするために,そして商品を安くすることによって労働者を安くするために,労働の生 産力を高くしようとするのは,資本の内的な衝動であり,不断の傾向なのであ

28

る。」 ここに見られるように,『資本論』における相対的剰余価値論は,漓技術的進歩によ る労働の生産力の上昇,滷それが消費財部門をとらえたときに生じる,この労働の生産 力の上昇に反比例する労働者の必要生活手段の価値低下,澆この必要生活手段の価値低 下に正比例する労働力の価値低下,潺したがって労働力の生産力に正比例し労働力の価 値に反比例する相対的剰余価値の生産,というように立論されているといってよいであ ろう。そして,われわれの理解によれば,このような一連の論理展開を一貫して特徴づ けているものが,「ただ労働日の長さだけ」が問題であった絶対的剰余価値の生産とは 異なって,「労働の技術的諸過程と社会的諸編成とを徹底的に変革」し,まさにそれゆ えに今日の資本主義的生産に至るまでの「一つの独自な資本主義的生産様式を前提す

29

る」相対的剰余価値の生産においてすら,「必要生活手段の平均範囲」はなんら変動し ないものとされているということである。実際,技術的進歩による生活手段の価値低下 にもかかわらず,「必要生活手段の平均範囲」が不変であるからこそ,労働力の生産力 の上昇がそれに直接反比例する労働力の価値低下として帰結し,したがってまたこうし た労働力の生産力の上昇に正比例する相対的剰余価値の生産も可能となるからである。

まさにその意味で,『資本論』における労働力の価値規定が,資本主義の歴史的展開に 伴う労働者の「必要生活手段の平均範囲」や「必要欲望の範囲」の変動の可能性をも内 包しているに違いないとする楽天的な解釈は,マルクス自身によって封じ込められてい るといって過言でないのである。

これまでわが国のマルクス経済学の教科書のなかでなんの疑いもなく繰り返されてき

────────────

Marx, Das Kapital, Bd. 1,op. cit.,S. 334.

Ibid.,S. 338 Ibid.,S. 532−533.

同志社商学 第57巻 第6号(26年3月)

6(608

(12)

た,このような『資本論』における労働力の価値規定とそれにもとづく相対的剰余価値 論に対して,発展した資本主義における賃労働関係論の観点から根本的な疑義を呈して いるのは,かつての欧米価値論論争における「異端的アプローチ」の代表的論者の一人

である

M・ドゥ・ブルイである。たとえばブルイは,

『資本論』でマルクスのいう労働

者の「必要生活手段の平均範囲」と「必要欲望の範囲」を,現代的視点からそれぞれ

「賃金バスケット」と「消費ノルム」といいかえ,両者の大きさが「伝統的な生活水準」

によって与えられたものであり,かつ変動しないものとするという『資本論』での労働 力の価値規定の特徴を,「賃金バスケット」および「消費ノルム」の「外生性と不変性

(exogénéité et stabili

30

té)

」と名づけたうえで,『資本論』の相対的剰余価値論の方法的特 徴を次のように要約している。

すなわち『資本論』でマルクスが展開している相対的剰余価値とは,すでに見たよう に「技術的進歩の存在が賃労働者向けの諸商品の単位価値を低下させる」ことによっ て,「所与の総価値量に対する剰余価値の相対的部分が労働力の価値を犠牲にして増大 するときに生みだされる利潤率上昇メカニズ

31

ム」にほかならないが,ブルイによれば,

それは以下のような二つの条件のもとで可能であるという。その一つはマルクスが『資 本論』で想定しているような,労働力の価値を規定する「賃金バスケット」──「必要 生活手段の平均範囲」──が不変である場合である。

だがブルイは,『資本論』でのマルクスに対して,いまひとつの可能性を提示する。

すなわちそれは,技術的進歩が「賃労働者向けの諸商品の単位価値を低下させる」だけ でなく,その供給量をも増加させることによって,この「賃金バスケット」が生産性の 上昇より低い程度ではあるが増加する場合でも,相対的剰余価値の生産は可能であると いうことである。だが,このことは,明らかに「賃金バスケット」や「消費ノルム」の 不変性というマルクスの仮定に抵触するであろう。「実際,もし技術的進歩が賃労働者 向けの諸商品の量を増加させるということを受け入れるなら,このことが意味するの は,当該部門には販路という問題が生じるが,この問題は賃金の増加,したがってまた 消費ノルムの拡大によってしか解決しえな

32

い」からである。

すでに見たところからも明らかなように,『資本論』でのマルクスが固持しているは もっぱら「この二つの選択肢のうちの最初の

33

方」であって,後者の可能性については,

少なくとも『資本論』を見るかぎりまったく触れられていないといって過言でないであ ろう。繰り返しいうように,マルクスは一方で,絶対的剰余価値と比較して,この相対

────────────

Michel de Vroey, La théorie du salaire de Marx : une critique hétérodoxe,Revue économique,vol. 36, no. 3, 1985, p. 471.

Ibid.,p. 470.

Ibid.,p. 471.

Ibid.,p. 470.

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 609)2

(13)

的剰余価値の生産をなによりも労働の生産力の上昇が労働者の消費財部門をとらえたと きに生じるものであるとしながらも,他方では,それに伴う労働者の「必要生活手段の 平均範囲」や「必要欲望の範囲」の増大の可能性をまったく無視していたからである。

だがもしそうだとすれば,「このことが意味するのは,技術的進歩の恩恵がすべて資本 家の側にいくということである。こうした理論展開が想定しているのは,生産性の改善 が労働者向けの消費財の生産規模の拡大を,それゆえまたそれらの供給拡大を伴わない ということであ

34

る。」まさにその意味でブルイによれば,一方で消費財部門の生産性の 上昇を根拠としながら,他方で「賃金バスケット」もしくは「消費ノルム」の「外生性 と不変性」を固持する『資本論』の相対的剰余価値論は,「生産拡大のない技術的進歩」

という「われわれの時代には擁護することが困難な」「仮

35

定」のもとでしか成立するこ とができないというのである。

ちなみにいえば,ここでブルイが「われわれの時代」に適合的な理論モデルとして想 定しているのは,「賃金バスケット」や「消費ノルム」が内生的に決定されるとするレ ギュラシオン派のいわゆる「フォード主義的賃労働関

36

係」である。すなわち,そこでは 労働力の再生産は「主として商品の消費によって行われ,この商品はいまでは資本主義 的商品である。それらの商品の生産は不断の技術的進歩の場であり,消費ノルムの拡大 を可能にし,あるいはむしろ必然化する。消費ノルムの決定は外生的であることをやめ る。反対にそれは団体交渉のただなかにはっきりと統合され,賃金の増加はまさに消費 財の供給と需要を調整するために生産性の上昇の関数としてプログラム化されてい

37

る」,といったように,である。

ここでブルイがあげているレギュラシオン派の「フォード主義的賃労働関係」の当否 を問うことはさしあたりここでの問題ではない。むしろわれわれにとって興味深いの は,『資本論』の相対的剰余価値論が,一方で労働力の再生産に必要な諸商品の不断の 技術革新を根拠としているという意味で今日の「発展した賃労働関係」の「予兆ないし 直

38

感」でありながら,他方では,すでに見たような「賃金バスケット」や「消費ノル ム」の「外生性と不変性」を固持し続けることによって,その現代的展開を不可能にし ているというブルイの指摘である。なぜなら彼によれば,こうした「賃金バスケット」

や「消費ノルム」の「外生性と不変性」によって特徴づけられる賃労働関係とは,結局 のところ

19

世紀イギリス資本主義という「マルクスの時代に存在していた賃労働制,

および必要な訂正を加えれば,今日なお周辺部に存在している賃労働制」に特有の「部

────────────

Ibid.

Ibid.,p. 471.

Ibid.,p. 472.

Ibid.,p. 473.

Ibid.,p. 472.

同志社商学 第57巻 第6号(26年3月)

8(610

(14)

分的賃労働関

39

係」というべきものにほかならないからである。ここでブルイのいう「部 分的賃労働関係」の意味するところを,われわれはほぼ次のように要約しうるであろ う。

第一に,賃労働者が労働力の販売と資本主義的商品の購買という「二つの極から資本 との関係に入

40

る」「フォード主義的賃労働関係」とは対照的に,そこでは「賃労働者が 資本との社会的関係のなかに入るのは,ただ一つの極,すなわち労働力の販売によって である。これに対して賃労働によって生産された資本主義的商品の購買にかんする点で は,その統合は最小限である。……なぜなら生活水準が取るに足りないものであり,ま た/もしくは家庭内の生産と消費の部分が優位を占めているからであり,したがってま た,商品の消費は周辺的なものにとどまっているからである。…… こうした制度的体 制では,主として資本蓄積を支えているのは,生産財部門と,購買者が賃労働者でなく 金利生活者や独立生産者であるような消費財部門である。したがって資本にとって賃労 働者はただ費用を表わすだけであって,販路を表わすものではな

41

い。」

第二に,「この枠組みでは,消費ノルムはマルクスの表現に似ている。それは外生的 である。それを基礎づける生活様式は,賃労働制の創設に先行し,またその後も存続し 続ける社会的伝統によって規定されてい

42

る。」

最後に,労働の生産力の上昇による消費財の価値低下は一時的に実質賃金の上昇をも たらすかもしれないが,産業予備軍の存在がそれを再び労働力の価値に一致するまで押 し下げるであろう。「こうした考察から生じる印象とは,マルクスが設定している問題 構制には,賃労働者の権利要求のための行動はほとんどその余地が与えられていないと いうことであ

43

る。」

まさにその意味で,ブルイによれば,マルクスが『資本論』で分析の対象とした賃労 働関係とは,マルクスの時代の資本主義に特有の,「賃労働者の権利要求のための行動」

の無力さと,「生活様式の決定における資本主義的商品の浸透の弱さによって特徴づけ られ

44

る」「部分的賃労働関係」と呼ぶべきものにほかならないのである。だがもしそう だとすれば,われわれはいまや『資本論』に代表されるような賃労働関係についてのマ ルクスの叙述を,もっぱら

19

世紀のイギリス資本主義に特有の,それゆえ今日ではも はや普遍的有効性を失った命題であると断定しなければならないであろう。

しかしながら,以上のようなマルクスの賃労働関係論にかんする

M・ブルイの所説

────────────

Ibid.

Ibid.,p. 473.

Ibid.,p. 472.

Ibid.

Ibid.,p. 470.

Ibid.,p. 472.

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 611)2

(15)

についてのわれわれの見解は,半ばはウィであり,半ばはノンである。第一に,前稿で われわれも指摘したように,『資本論』における賃労働関係の叙述が,資本による労働 の専制的支配という

19

世紀イギリス資本主義の現実に著しく制約されたものであるこ とは異論の余地がないであろ

45

う。だが第二に,労働力の再生産に必要な消費財部門に着 目したマルクスの相対的剰余価値論を,今日の発展した賃労働関係のたんなる「予兆な いし直感」にすぎないとするブルイの見解には,なお検討の余地が存在しているように 思われる。なぜなら,はじめにも指摘しておいたように,『資本論』に留まらず,『経済 学批判要綱』をはじめとするマルクスの著作全体を検討するならば,そこには──「フ ォード主義的賃労働関係」と呼ぶことはできないにしても──資本主義の発展それ自体 に伴う「必要生活手段の平均範囲」や「必要欲望の範囲」の変動の可能性についての,

たんなる「予兆ないし直感」に留まらない明示的な叙述が数多く見いだされるからであ る。そしてまさに,このような『資本論』段階で失われた非『資本論』的叙述のただな かに,すでに見たような『資本論』における労働力の価値規定の特殊な制約を位置づけ るとき,われわれはマルクスの「経済学批判」プランにおける『資本論』の特異な性格

──リーボウィッツのいわゆる『資本論』の方法論的「一面性」──を理解することが できるのである。

Ⅲ 『経済学批判要綱』における「賃労働」の非『資本論』的叙述

1

暫定的仮定としての「必要労働」の固定性

ブルイが

19

世紀の「部分的賃労働関係」に特徴的なものとみなした「賃金バスケッ ト」および「消費ノルム」の外生性と不変性という『資本論』におけるマルクスのテー ゼを,むしろプラン問題に見られるような『資本論』成立史にかかわる方法論上の問題 として捉え直しているのが,前述のリ−ボウィッツである。たとえばリーボウィッツ は,上述のような『資本論』に特有の労働力の価値規定の方法は,あくまでマルクスが

「経済学批判」プランを完成する上で便宜的に採用した一時的な「仮定」に過ぎないと いう。この点を明らかにしているのが,たとえば『経済学批判要綱』における次のよう な叙述である。

「さしあたり必要労働を必要労働として想定する,すなわち,労働者はつねに,必要 最小限の賃金だけを受け取るものと想定する。この想定が必要であるのは,もちろん,

賃金の増減やあるいは土地所有の影響によって規定されていないかぎりでの,利潤の諸 法則を確定するためである。固

!

!

!

!

!

もろもろの想定はすべて,展開が進行するにつ

────────────

5 この点については,拙稿「労働過程の統制と内部労働市場──賃労働関係論の再構築に向けて──」

『同志社商学』第52巻第4・5・6号,20013月,296−302ページを参照されたい。

同志社商学 第57巻 第6号(26年3月)

0(612

(16)

れて,自ずから流動的になる。しかし,はじめにそれらが固定されることによっての み,万事を混同することのない展開が可能になるのである。しかも,たとえば必要労働 の基準が,異なった時代と異なった国とでどんなに異なろうとも,あるいは,原料生産 物の価格変動の結果としてその比率が,あるいは労働の需要供給の結果としてその額と 比率とがどんなに大きく変わろうとも,資本は,所与の時代においては,基準を固定さ れたものとみなしてこの基準に従って行動しなければならない,ということは実際的に 確かである。これらの変化それ自体について考察することのすべてが,賃労働を取り扱 う章(chapter)で行われるべきことであ

46

る。」

ここに見られるように,少なくとも『要綱』に関する限り,「必要労働」の固定性と いう想定は,もっぱら「資本一般」の分析にとって必要な仮定として,すなわち「賃金 の増減やあるいは土地所有の影響によって規定されていないかぎりでの,利潤の諸法則 を確定するため」に必要な便宜的・暫定的仮定として語られているといってよいであろ う。実際,この「必要労働」の固定性という仮定は,その後の「展開が進行するにつれ て,自ずから流動的に」なるということがはっきりと明記されているからであり,その 変動の分析は「賃労働」の章または部に留保されているからである。その意味でリ−ボ ウィッツの指摘を待つまでもなく,マルクスは労働力の価値規定,したがってまたその 内容をなす「必要労働の基準」の変動の可能性を否定していたわけではない。逆であ る。「マルクスが資本主義社会では不変のままで保たれることができないもの──必要 性の水準──を不変のものと見なしているのは」,ただ上述のような「仮

!

!

によってな のであ

47

る。」

たしかに,以上の点は,プラン問題に熟知しているわが国の『資本論』成立史研究者 には自明の事柄と思われるかもしれない。だが繰り返しいうように,われわれにとって 問題は,マルクスが資本主義的生産の発展に伴って「必要労働の基準」──ブルイのい わゆる「賃金バスケット」および「消費ノルム」──が変動しうることを十分認識して いたにもかかわらず,「彼の主著である『資本論』は,この問題について沈黙している」

ということである。「そしてこの沈黙が混乱の重大な源泉であり続けてきたのであ

48

る。」 ここでリーボウッツのいう『資本論』解釈上の「混乱」とは,われわれの理解によれ ば,次のようなものである。すなわち一方で,少なくとも『要綱』を見るかぎり,すで に見たような「必要労働」の固定性という仮定は,あくまで

6

部門プランを前提とする

────────────

Karl Marx,Grundrisse der Kritik der Politischen Ökonomie, Diez Verlag, Berlin, 1958, S. 702.〔高木幸二郎 監訳『経済学批判要綱』第4分冊,大月書店,1962年,778−779ページ。(MEGA II/1.2, Dietz Verlag, Berlin, 1981, S. 681−682.〔資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』2,大月書店,1993 年,684ページ。)なお両訳書とも原書ページが付記されているので,これ以後訳書ページは省略す る。また訳文は,適宜変更している。

Lebowitz,op. cit.,p. 31.

Ibid.

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 613)2

(17)

「資本一般」に固有のものであり,したがって「賃労働」の章または部においては「除 去されるべき仮

49

定」であったといえよう。だが他方では,すでに見たように,現行『資 本論』の対象範囲が,かつてのプラン不変説と変更説とを問わず,佐藤の表現を借りれ ば,当初の

6

部門プランにおける「資本一般」にとどまらず,「資本」「土地所有」「賃 労働」という「内容的には最初のプランの前半三部を実現したもの」となっているとい うことも否定しがたい事実であろう。だがもしそうだとすれば,問題は,このような

「賃労働」や「賃金」についての基本的規定を与えているはずの現行『資本論』におい てすらマルクスは,かつての

6

部門プランに由来する「必要労働」の固定性という仮定 を依然として固持し続け,その結果,「必要生活手段の平均範囲」や「必要欲望の範囲」

の変動の可能性という,本来「賃労働の部に存在するはずであった決定的な諸問題を放

50

置」しているということである。まさにその意味で,プラン問題をめぐる「混乱の重大 な源泉」とは,一言でいえば,一方における

1959

年以来の「経済学批判」プランを特 徴づける方法の不変性と,他方における『資本論』の対象範囲の内容上の変更との混在

──さらにいえばこの点についてのマルクスの「沈黙」──にあるというべきであろ う。

だが,ことさらに結論を急ぐ必要はないであろう。というのもネグリやリーボウィッ ツの指摘を俟つまでもなく,『資本論』の「沈黙」とは対照的に,『資本論』に先行する マルクスの著作,とりわけ『経済学批判要綱』には,賃労働関係についての荒削りであ るがきわめて興味深い非『資本論』的叙述が数多く見出されるからである。

2

「流通の自立的起点」,「消費者」としての労働者

たとえば『要綱』において,まず第一に注目すべきは,奴隷制や農奴制と異なって,

資本主義的生産のもとでは賃労働者が資本との関係で自立的な交換者として現われると いう指摘であろう。しかもそれはたんに,『資本論』「貨幣の資本への転化」にも見られ るような労働市場における資本と労働力の交換にとどまらない。『要綱』でのマルクス がなによりも強調しているのは,賃労働者が資本と労働力の交換によって手にした賃金 を携えて再び流通に登場するときにも,彼は資本家に対して他のどの交換者とも同様の 自立的な「貨幣所持者」として,それゆえ資本家の商品を購買する「消費者」として現 われるということである。たとえば次のように。

「賃労働者は,奴隷とは異なり,彼自身が流通の一つの自立的起点(Centrum)であ り,一個の交換者であり,交換価値を措定し,また交換をとおしてそれを受け取る者で ある。……それぞれの資本家に対して,彼自身の労働者を除く他のすべての全大衆が,

────────────

Ibid.,p. 33.

Ibid.,p. 31.

同志社商学 第57巻 第6号(26年3月)

2(614

(18)

労働者としてでなく,消費者として現われる。つまり,交換価値(賃金)の所持者,資 本家の商品と交換される貨幣の所持者として現われる。彼らは誰もが,交換行為を開始 し,資本の交換価値を受け取る,流通の起点なのである。彼らは消費者のうちの,比率 から見てきわめて大きな部分……を占める。彼らの数──産業人口──と彼らが自由に 処分しう貨幣の量が大きければ大きいほど,資本にとっての交換圏域もそれだけ大きく なる。すでに見たように,産業人口をできるだけ増やそうとするのは,資本の傾向であ

51

る。」

「流通において主体として存在するすべての個人のばあいと同様に,労働者もある使 用価値の持主である。彼はそれを富の一般的形態である貨幣と取り換えるが,しかしこ れは,それをふたたび彼の直接的消費の対象としての,彼の諸必要を充足する手段とし ての諸商品と取り換えるためでしかない。彼は自分の使用価値を富の一般的形態と交換 するのであるから,彼の等価物の持つ限界……まで,一般的富を共に享受する者とな る。……彼は質的に締めだされている──彼の享受の範囲が──わけでなく,ただ量的 に締めだされているにすぎない。このことが彼を奴隷,農奴などから区別す

52

る。」 要するに,ここで語られていることは,第一に,労働力の販売によって手にした貨幣 を持って労働者が再び流通に登場するときには,資本家を含む他のすべての交換者と同 様に,「彼の直接的消費の対象としての,彼の諸必要を充足する手段としての諸商品」

を購買する消費者として,いいかえれば「資本にとっての交換領域」の担い手として──

まさにその意味でブルイのいう資本の生産物にとっての「販路」として──現われると いうことであり,また第二には,そのかぎりで労働者もまた「彼の等価物」の量的範囲 内であるが,「一般的富」を享受する主体であるということにほかならないのである。

とはいえ,このような奴隷や農奴と区別される「一般的富」の享受の主体,まさにそ の意味で資本主義的生産を特徴づける欲求の主体としての労働者の役割にかんしていえ ば,『要綱』においてすら,きわめて限定的なものに留まっているといわざるを得ない であろう。たとえば次のように。

「労働者がより高度な,精神的でもある享受に関与すること,すなわち彼自身の興味 に対する刺激を受けたり,新聞をとったり,講演を聴いたり,子供を教育したり,趣味 を涵養したりなどすること,つまり彼を奴隷から区別する文明への彼の唯一の関与は,

彼が好況時に,つまりある程度貯蓄が可能な時期に,彼の享受の範囲を広げることによ ってはじめて,経済的に可能となるのであ

53

る。」

端的にいえば,たとえ一方で流通において労働者が「一般的富」の享受の主体として

────────────

Marx,op. cit.,S. 322.(MEGA II/1.2,op. cit.,S. 332.)

Ibid.,S. 194.(MEGAII/1.1, Dietz Verlag, Berlin, 1976, S. 206.)

Ibid.,S. 197−198.(Ibid.,S. 209.)

労働力の再生産と失われた「賃労働」の部(向井) 615)2

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