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(1)

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織 化 : 福井県武生町の魚市場を事例にして

著者 原田 政美

雑誌名 同志社商学

巻 56

号 5‑6

ページ 1‑24

発行年 2005‑03‑15

権利 同志社大学商学会

ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007318

(2)

はじめに││課題の設定││ 蠢

仲買人の新市場開設と魚市場の対応

魚市場の協調と魚商人の組織化

新市場の開設と魚市場の協調

展望

はじめに││課題の設定││

日本の卸売市場制度の歴史研究において︑明治期の研究は比較的その

蓄積の少ない時代となっている︒その理由の一つとして︑当該期の記録

史料の残存状況が他の時期と比較して少ないことが挙げられる︒しか

し︑この時期の記録を意識的に探索し研究を進めようとする姿勢も弱い

ように思われる︒

この明治期の市場の歴史について︑研究史を振り返れば︑中村勝氏の

東京府を事例にした研 究を別にすれば︑その他の地域の研究は全く進展

していないというのが現状であろう︒

本稿では︑かかる研究史の欠落を埋める作業として︑地方市場の事例 の一つとして福井県武生町の魚市場の明治期における歴史的展開過程を

跡付けることを目的とする︒これまでの市場史研究の成果を前提にすれ

ば︑本稿の課題は以下の諸点に設定されよう︒

まず第一は︑府県市場取締規則に関するこれまでの研究が明らかにし

たように︑市場政策において一地区一市場一営業者制が地域レベルで政

策︑実態とも如何なる背景により実現するのか︒この問題は中央卸売市

場制度の特質を明治期に遡り歴史的に検証することになるので︑その意

味でこれまでの研究でも重視されてきた︒一地区一市場一営業者制は︑

福井県については︑すでに拙稿で明らかにしたように︑一九一八年に県

の政策に採用され︑本稿の対象とする武生町でも同年に実現し た︒その

ため︑この一地区一市場一営業者制については︑本稿でも意識的に検討

することになる︒

第二の課題は︑明治維新後の商工業の混乱の中で魚類の流通について

いえば︑最終的に魚市場あるいは魚問屋が主導権を掌握し︑市場流通組

織を組織化していくことである︒この点については︑多くの先行研究が

指摘してきたように思われるが︑しかし︑その際︑組織化の対象とした

││福井県武生町の魚市場を事例にして││

原 田 政 美

1(786

(3)

のは生産者あるいは産地商人︑換言すれば︑市場よりも川上に対する組 織についてこれまでの研究は語ってきたように思われ る︒明治中期に

は︑消費地であれば︑魚市場あるいは魚問屋の取引相手である魚商人が

当該消費地に多数形成されており︑かかる消費地の組織化も研究上当然

明らかにされる必要がある︒

あわせて︑第三に︑本稿では魚市場が産地及び消費地の商人に対して

どのような対応をしていくのか︑この点を具体的に明らかにすることを

課題とする︒福井県では︑明治期の県の市場政策は︑一八八三年五月と

一八八五年一一月に県の規則が出されたのみで︑その内容も商人による

団体自治を前提にその届を県庁に提出して市場の開設の認可を行うもの

にすぎなかった︒福井県で市場の取引方法や開設について具体的な規制

を行うことを明示したのは一九一四年に制定された魚市場取締規則が最

初のものである︒したがって︑福井県では明治期は総じて商人による団

体自治の下に市場の実質的な規制や運営が行われたものといわねばなら

い︒それだけに商人つまり魚市場の問屋による取引や流通組織に対す

る具体的な組織化の過程が明らかにされる必要がある︒

要するに本稿は︑市場政策の前提をなす商人を中心にした団体自治︑

つまり魚問屋による流通の組織化について解明しようとするものであ

る︒尚︑本稿は︑前稿﹁近世末期魚市場における競争と独占︱越前府中

の魚市場を事例にし て││﹂の続稿となっている︒

本論に入る前に予めいくつかのことを指摘しておきたい︒

幕末から明治期において︑本稿の対象とする武生の魚市場は二〜三あ ったが︑いずれも一軒の個人の魚問屋が開設する魚市場であった︒した

がって︑どの魚市場も個人の魚問屋が開設︑営業し︑一魚市場

一魚問

屋という関係が成り立っていた︒したがって史料においても魚市場と魚

問屋という言葉について余り正確な区別がない場合がある︒その魚市場

について本稿の対象とする明治中期に関して現在確認できる限りの状況

を示せば第1図のごとくである︒魚市場の名称は︑この時期︑橘町魚市

場︑泉町魚市場と呼ばれたり︑

後には個人の名称を取って例え

ば池上魚市場と呼ばれたりもし

た︒また明治初期には三軒の魚

市場について上︑中︑下の名前

を使って︑例えば上︵魚︶問屋

と呼ばれることもあった︒この

うち中︵魚︶問屋は大柳︵池

上︶の魚市場であっ た︒したが

って明治中期の武生の魚市場は

名称が必ずしも固定しておら

ず︑そのためひとまず第1図で

は魚問屋業者の名前を示すに止

めた︒

第二は︑本稿で頻出する武生

町という名称についてである︒

第1図 明治中期、武生町の魚市場

大柳助三郎……

1887. 3… 大柳彦三郎… 1893. 10

池上栄治郎… … 関 市………… 平

1892. 3

小川右近右衛門… … 大柳大助…

1885. 12 河合弥一郎………

注:(1)点線は魚市場の家督相続もしくは権利相続を示す。

(2)名前の左上の数字は家督相続もしくは権利相続の年月を示す。

資料:池上和子家文書、『福井県統計書』。

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (785)2

(4)

武生町という名称は正確には一八六九年に府中町を改称して成立した自

治体の名称であり︑そのご付近の農村部を合併することで︑一八八八年

の町村制に基づき翌年に成立した自治体の名称でもある︒本稿の史料の

中で魚市場の開設場所について橘町あるいは泉町という地名が登場する

が︑いずれも一八六九年から一八八九年の間に武生町内にあった地名で

ある︒本稿では︑こうした時代の変化による地名の変更についてはその

煩瑣を避けるため︑史料以外の本文では基本的に一八八九年に成立した

自治体名つまり武生町︑あるいは慣例に従い武生と呼ぶことにする︒

Ⅰ仲買人の新市場開設と魚市場の対応

明治維新以後の混乱の中で特筆すべきは︑消費地の﹁仲買人﹂が新た

に魚市場を開設したことである︒

この仲買人は魚問屋との関係において幕末の段階には以前よりも魚問

屋に対して発言力を強めていたようである︒その直接的な背景として︑

一八四四〜一八四五年にかけて行われた府中︵武生︶の魚問屋と越前海

岸の産地との争論において魚問屋側が敗退したこと︑あわせてその敗退

のために魚問屋側は経営的な危機をより深めてしまったことがその主要

な理由の一つとして挙げられる︒このような事実を背景に一八六三年に

は武生では﹁仲買共ニ於て私共︵

魚問屋︶之零落ヲ見込︑旧来之規法

押破リ勝手儘之無体相働﹂くようになったと記録されるようになる︒ま

た︑魚問屋側は仲買の行動を﹁取押へ﹂ようとしたが︑全くそれができ

第1表 仲買人の問屋への差入れ一札

年月日 概 要 誓 約 事 項

1870年 3月

「今般」「魚仲買仲間加入」して「市場へ相立」

ことを願い認められたので「指上申一札之事」

(市)

嘉吉→中魚問屋御仕場中

(1)「市場御規定条々」を守ること、(2)「日々 買物代日現銀」で支払うこと、(3)支払いが延 滞した場合は保証人が支払うこと

1870年 4月

「今般」「魚仲買仲間江加入致度候ニ付則御市場 ヘ相立申度奉願上候処、速ニ御聞済被成下」の で「差上申一札之事」若狭屋 傳吉→両問屋

(1)「御市場規定之条急度可相守」こと、(2)

「日々現銀勘定」のこと、(3)もし代金支払い が滞った場合は保証人が支払うこと

1870年 5月

「今般」「魚仲買仲間へ加入」し「御市場へ相 立」ことを願い認められたので「指上申一札之 事」鯖口清水町 □屋喜三郎→武生町中御問屋

(1)「御市場御規定」を 守 る こ と、(2)「買 物 代」は「日々現銀」勘定とすること、澆勘定が 滞った場合は保証人が支払うこと

1870年 6月

「親代々之魚商売」の継続を願い「差上申一札 之事」魚屋弥三八→御肴屋助左衛門

(1)「日現銀」で支払うこと、(2)「残銀」がで きた場合は保証人が支払うこと

1871年 2月

「今般 御鑑札頂戴仕候而仲間江加江入仕候付 市場立」ので「差入申一札之事」細物屋嘉兵衛

→御肴屋忠左衛門、しほ屋太助

(1)「日々買物代銀」は「日現銀」払いとする こと、(2)もし支払いが滞った場合は保証人が 支払うこと

1877年 8月27日

「今般」「市場ニテ買物仕度候ニ付」「約定証」

大山町鯖江谷仁吉(さくや仁吉)→大柳助三郎

(1)「買 物」代 は「日 勘 定」と す る こ と、(2)

支払いが滞った場合は保証人が支払うこと 1879年

12月4日

「今度」「魚市場相立」ことを許されたので「差 入一札之事」幸町 重所藤吉→魚市場大柳助三 郎

(1)「魚代金」は「日現金」で支払いとするこ と、(2)「代金相滞」った時は保証人が支払う こと

注:概要の最後の部分は最初が差出人の住所、名前、矢印(→)の後が宛名人を示す。

史料:池上家文書

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

3(784

(5)

なかったことも同時に記録されてい る︒このような事実は︑魚問屋と仲

買人との関係において仲買人側が以前よりも強い立場に立つようになっ

たことを示している︒

さらに明治維新後には仲買人を規制する仲間組織︑さらにその仲買人

と問屋を含めた組織が消滅し︑問屋と仲買人との取引を規制する共通の

規則が消滅した可能性がある︒第2表は︑﹁魚仲買﹂あるいは魚仲買と

想定される者が魚問屋と取引を開始するにあたって差し入れた一札の概

要とそこに記された誓約事項を示したものである︒同表によれば︑一八

七〇年五月までは︑すべての事例において

漓魚仲買は仲間に加入してい

ること︑

滷﹁こるす守遵を﹂定規場市は魚てったあにるす引取と屋問と

を誓約していることが確認できる︒ところが︑一八七〇年六月以降にな

ると

漓︑ 滷り消が織組間仲くらそお︑なのくなが述記も項事のれずい滅

したこと︑同時に﹁市場規定﹂も消滅したことが推測される︒尚︑誓約

事項の内︑仲買人の代金支払いは即日現金払いとすること︑もし仲買人

の支払いが滞った場合には保証人が支払うとした条項は︑断定すること

はできないが︑おそらくこの頃より導入された取引方法と推測され る︒

要するに︑この一八七〇年の中頃には株仲間は消滅し︑問屋と仲買人の

取引を規制した﹁市場規定﹂も消滅したものと考えられる︒そのためこ

のような株仲間の廃止は営業の自由を促進し︑仲買人による魚市場の開

設を可能とする条件を産み出したものといえよう︒

そのため一八七四年一二月︑武生の﹁仲買人﹂は一団となって︑それ

まであった魚市場以外に新たに魚市場を開設することになった︒その 際︑仲買人は﹁申合﹂を行った上で一人として既存の魚市場へは売買に

参加しなかったのであ る︒

このような仲買人側の行動に対して︑既存の魚市場は産地の商人に対

して対抗措置を取るよう要請を出した︒この要請に対して︑越前海岸の

一四ヶ浦の産地商人は︑それまでの取引を重視し︑この既存の魚市場を

支持することを決定した︒同年一月に産地商人が決定した主要な対抗策

は次のようなものであった︒

一︑新規魚市場へ魚類運送致間敷候事

一︑新規魚市場へ行く棒手共ニ魚一切売払不申事

一︑三問屋表へ浦方魚市商店之表札張出し可申

10

この決定事項によれば︑産地商人は新市場へは魚類を出荷しないこ

と︑また︑産地の商人以外に産地からは棒手により武生に魚類が出荷さ

れていたため︑この棒手への魚類の販売も中止して︑新市場への魚類の

供給を全面的に阻止しようとしたのである︒このような産地側の対抗措

置により︑新市場は実際には魚類が入荷せず︑新市場の開設は短期間の

うちに消滅したものと思われる︒

その後︑魚問屋と消費地の魚商人との関係を知る上で重要となるの

は︑魚商人の代金支払いの延滞問題である︒この問題は︑おそらく一八

八〇年頃には魚問屋側には意識化されていたものと推測されるが︑翌一

八八一年一月には︑当時の武生の二つの魚市場︑大柳助三郎︵後に大柳

彦三郎︑さらに池上栄治郎に継承される︶と関市平の間で以下のような

約定書が取り交わされた︒

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (783)4

(6)

為取換約定書

一︑頃日魚買方ノ内情ヲ察スルニ︑買方中若シ甲方ニ魚代金淹滞シテ

之ヲ返済スルニ困却スル時ハ︑乙方ニ入リテ買物ヲ為シ︑又乙方

ニ代金延引スレバ甲ニ入リ出入時ナク︑私利是射リ義務是欠キ︑

人情少シモ頓着スル事ナシ︑之レ必竟スルニ貴殿及当方ノ利益ト

ハ為ラズ

!

ニ肥腹ノ等彼謂所︑リ陥段︑手黙奸ノ商姦ノ彼テ却ト

ナル所以也︑故ニ双方示談ノ上︑至誠至実ナル約定書ヲ確定シ

テ︑右等ノ所為アル者ニハ一切売渡ヲ停止セント欲ス︑其約定ス

ル左ノ如シ

一︑双方ノ内何レカ若シ魚買方ノ中代金留滞スル者アリテ其売渡ヲ停

止セラレ候時ハ︑直ニ被其停止者ヲ筆記シ是ヲ報道ニ相成レバ︑

当方ニ於テモ其人員ヘハ売渡ヲ停止候事

但シ代金皆済スル者ハ此限ニ非ズ

一︑前ニ因リテ代金留滞者ノ中︑其半金ヲ返却シテ又半金ヲ残シ置キ

!

ニア道報テシ記筆ヲ者其テ中買ノ方双ハ時ルア者フ願ヲ入ル

ベシ︑然ル時ハ当方ニ於テモ売渡ヲ停止スベシ

一︑双方ノ中何レノ市場ニ於テモ代金留滞者ニ

!

他ノ市場ニ立入ラン

ト欲シテ故更ニ他人ノ名前若クハ其下男弟子ノ号ヲ以テ為スモ一

旦他ノ市場ニテ差留ラレタル旨ヲ申越サレタル上ハ一切差許サヾ

ル事

一︑双方約定ノ上ハ若シ何レナリトモ違背スル時ハ違約金トシテ金三

十円ヲ差出ス事 但シ壱人ニ付三十円之事

右明治十四年一月ヨリ施行スベキ事

泉町魚市場本人関市平

証人津田吉三郎

明治十四年辛巳一月九日

橘町大柳助三郎

11

殿

上記の約定書によれば︑当時二つあった武生の魚市場は︑魚商人が代

金の支払いを十分に行わずに他の魚市場との取引を開始したことが述べ

られている︒こうした魚商人の行動の背景には︑

漓魚商人と魚問屋との

取引について両市場で共通した規制が何らなかったこと︑さらに

滷消費

地の二つの魚市場では魚商人の数を確保するために市場間の競争が働い

て︑結果として魚商人の代金支払いに関して延滞を助長してしまうよう

な事実があったことが推測される︒いずれにせよ魚商人は代金支払いを

延滞し︑なかには支払を十分に果たさずに他の魚市場に出入りして取引

を行う者がいたようである︒そのため魚市場側は︑かかる事態の発生に

対して︑支払いを延滞した魚商人に関しては相互に通知して魚市場での

取引を停止することにしたのである︒こうした魚商人に対する実質的な

罰則行為を導入することで魚市場側は代金回収を確実にしようとした︒

魚市場側は︑翌年にもほぼ同様の内容の約定書を取り交わしている︒し

かも翌年の約定書では︑既存の武生町の二つの魚市場のみならず近辺の

鯖江町の下深江町魚市場︑幸原吉三郎も加わってい

12

た︒このことは魚商

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

5(782

(7)

人の代金支払い延滞問題が武生町を越えて地域的な広がりをもっていた

ことを示している︒また︑この時期の武生の魚市場で取引していた魚商

人には鯖江の魚商人も一部加わってい

13

たので︑このことは︑武生での魚

商人に対する規制をより実効あるものにするためには鯖江の地域も加え

て規制を行うことが必要であったことを意味していよう︒

ここで︑武生の二つの魚市場のうち大柳の家︵現池上家︶に残された

借用文書を考察することで︑この魚商人の代金支払い問題について検討

を加えておこう︒同家に残された借用証文は年次順に集計すれば第2表

のような結果となる︒借用証文に記録された住所︑氏名︑記述内容︑さ

らに同家に残された他の文書と照合すると︑借用証文の性格は︑

漓消費

地武生町を中心とする魚市場での取引先となる魚商人への貸付を内容と するもの︑

滷るを付貸のへ︶人商︵地産い主に村漁の岸海前越てしと内

容とするもの︑

澆へ場市魚りまつ︑付貸の人親商の隣近はいるあ︑族の

営業とは直接関係のないもの︑の三つに分類できる︒これらの内︑第2

表には明白に

澆あるいはほぼ

澆と断定できるものは排除してあ

14

る︒した

がって︑第2表に含まれる借用証文は︑その多くが

漓及び

滷の性格のも

のに限られている︒しかし︑借用証文にはすべのものに住所が記録され

ているわけではない︒そのため︑第2表では︑︵A︶欄に全体の集計︑

︵B︶欄には産地への貸付と判明するもの︑そして︵C︶欄には消費地

の魚商人に対する貸付と推定されるものを集計してある︒尚︑現当主か

らの聞き取りによれば︑大柳家はいわゆる一般にいわれるような金融業

は行っておらず︑そのような借用証文はありえないとのことであ

15

る︒あ

第2表 借用証文の状況 全体(A) 内産地に対

する貸付(B) A−B(C)

年 件数 金額 件数 金額 件数 金額 1873

1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910

1 3 5 5 12 6 7 7 8 10 17 19 16 3 4 3 8 7 1 3 3 3 2 1 1 1

1 1

1 4 40 47 97 197 100 102 129 240 213 367 244 195 88 38 49 127 55 3 50 70 183 53 40 10 14

300 10

10 1

1 6 2

1

2

1 1

1 20

18 44 8

5

33

300 10

10 1 3 5 5 12 6 7 6 8 10 17 18 10 3 2 3 8 6 1 3 3 1 2 1 1 1

4 40 47 97 197 100 102 109 240 213 367 226 151 88 30 49 127 50 3 50 70 150 53 40 10 14

注:(1)年次不明のもの、1872年以前のもの、

及び返済延期による書替の借用証文は 除いてある。

(2)円未満切り捨て。

(3)空欄は件数もしくは金額がなかったこ とを示す。

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (781)6

(8)

わせて︑この借用証文の性格については︑これらの借用証文を整理して

残した人物は池上栄治郎である可能性が高いとのことであ

16

り︑その栄治

郎は一八九三年の家督相続の時点で財産の一部として産地及び消費地の

魚商人への貸付金の債権を引き継いでおり︑その時点で両者をあわせて

合計金額は五〇〇円であると記録されてい

17

る︒おそらくその後の借用証

文も含めて残されたのが︑本表に示した借用証文と推定される︒

第2表の結果から︑大柳家に残された借用証文は一八七〇年代後半に

次第に件数︑金額とも増加しその後一八八〇年代前半に全体のピークの

時期を形成して︑ほぼ一八八〇年代後半には若干の変動を伴いつつも次

第に減少傾向に転じていることが確認できる︒このうち産地に対する借

用證文は件数︑金額とも少なく︑全体の傾向を支配していたのは地元の

魚商人に対する貸付であったことが明らかとなる︒こうした借用証文の

あり方で注目すべき事実は︑一八八一年初頭に表面化する魚商人の代金

支払い問題については︑それまで魚問屋側が消費地の魚商人に対して貸

付を行うことで金融機能を有していたこと︑あわせてその金融機能とし

ての貸付が返済されずに終わってしまったことが多々あったと推測され

ることである︒ここでは魚商人の代金支払い問題が表面化する直前の二

年間の貸付の内容について検討することで︑その実態を見ておこう︒一

八七九年の借用証文六件のうち五件はいずれも地元の武生町の魚商人に

対する貸付であったとほぼ断定できる︒その五件については半数以上の

三件が︑いずれも﹁売買仕入金ニ差支申候ニ付﹂あるいは﹁商売元手金

ニ指支﹂たため借用金を申出るというものであった︒その一例を示せば 以下のようである︒

金子借用證

一︑金高拾円也

内弐円六銭右午年

!

申八月迄前金ニテ正ニ受取申候

右者私し商売元手金ニ指支前顕之金辻正ニ借用申所確実也︑然ル所

返却之儀者本年十月ヨリ来十三年七月迄月々判賦ニ金壱円ツヽ月晦

日限リ返却仕候所無相違返還可申候所︑万一壱ヶ月ニ而モ及滞候

ハヽ受人方ヨリ急度返却可致候︑為後日受人加判確證差入申所︑依

而如件

明治十二年十月一日

深草町借受人木村孫吉

同町受人石田弥太郎

大柳助三郎

18

殿

一八八〇年の七件については︑少なくとも四件が武生町内のものであ

り︑おそらくその多くが魚商人に対する借用証文であったと推測され

る︒ただし︑これらの証文には直接その点を語る文言は残されていな

い︒

以上の事実から︑一八七〇年代後半には消費地の魚商人に対する貸付

が増加し︑その結果︑借用証文︑換言すれば︑借用金を返済できなかっ

た魚商人が増加したものと推測される︒また︑第2表において一八八〇

年代前半に借用証文の件数︑金額とも全体のピークを形成していること

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

7(780

(9)

については︑おそらくこの時期︑消費地の魚商人に対する貸付が増加

し︑かつその返済が果たされなかった事例が増加したものと推測され

る︒その点は︑同期の借用証文の中に﹁仕入金ニ差支候ニ付﹂︑あるい

は﹁商売仕入金指支候ニ付﹂といった文言が散見されること︑またいわ

ゆる松方デフレの影響を受けて一八八五年には﹁仲買人﹂の﹁倒産﹂が

多数発生したと記録されているこ

19

とから︑上記の点はほぼ間違いないも

のと思われる︒いずれにせよ︑第2表から引き出される事実は︑

漓この

時期︑魚問屋にとって魚商人の代金支払いが重要な問題となったこと︑

滷フし化刻深リヨりよに響影のレデそ方松は題問い払支金代なうよのた

こと︑

澆か商魚の地費消は屋問魚︑ら方一りあの文証用借たしうこ方人

に対しては︑かかる資金の提供により︑金融機能を有していたことが明

らかになることである︒

さて︑一八八一年に表面化した魚商人の代金支払い問題に対して︑魚

市場側は︑三年後の一八八四年一〇月には︑魚商人に対する取引方法を

以前にも増して強化することで対応することになった︒その内容は︑以

下に示す﹁魚商鍵入証﹂の制度であった︒その制度は以下のようであ

る︒

差入契約書

一︑我等魚商一同者︑魚市場ニ対シ明諾確認之上︑左之条々ヲ堅ク相

守可申事

一︑魚市場ニ於テ買入之代価ハ急度日現金ニ而即日御勘定可仕候︑若

又一ヶ月中八分已上之入金不致場合ニ於テハ︑其入金品々ニ応シ テ分合割戻シ被下候者勿論︑御都合ニ依リ鍵入差止被下候共異議

申間敷事

一︑仲間鍵止之ものヘハ一切市場ニ於テ直接ニ又買致間敷︑且従来弟

子と称スルものも同断之事︑万一斯カル時ハ鍵止相成候共異議申

間敷事

一︑魚商鍵入保証券ヲ紛失候時者︑一名已上之保証人ヲ相立テ新証之

附与ヲ請フハ勿論ナレ共︑若杜撰ニ投擲スル時︑該証所有者之効

力ヲ失シ候共異議申間敷事

一︑如何成事故有ルモ休業五ヶ月ニ渉ル時ハ該証ノ効力ヲ失シ候とも

異議申間敷事

一︑該鍵入証ヲ他江譲リ渡候節者︑必魚市場ノ承認ヲ可申請︑然ラサ

レハ其効力ナキハ勿論之事ニ候事

一︑鍵入差止ヲ請ケ或ハ鍵入証ノ効力ヲ失シ候時ハ︑直ニ該保証ヲ還

付候者当然之義ニシテ︑若吃度他ニ譲与︑貸与等致間敷︑若然ル

時ハ勿論該証ノ効力ハ無用之事

一︑其他魚市場及魚商双方利益ノ為メ臨時約定之儀者魚市場之張出シ

ニ従違背致間敷事

右者毛頭相違無之︑依而連署之契約書差入申候

20

ここに示した﹁差入契約書﹂及び﹁魚商鍵入証﹂制度に関係する史料

によれば︑同制度の特質は︑

漓魚商人は保証金二

21

円を魚市場側に差し入

れることで魚市場での取引を許可されること︑

滷魚商人の代金支払いが

滞らないようにするためその支払いを原則として即日現金払いとするこ

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (779)8

(10)

と︑

澆は止し差をり入出のへ場市魚合も場たっ滞がい払支の人商魚しめ

られることがあるなどであった︒また

潺魚商鍵入証の譲渡については魚

市場側の承認を必ず必要とした︒要するに︑この制度は︑魚商人の魚市

場への参加と取引︑さらにその魚商鍵入証の譲渡も含めて︑その制度化

において魚市場側が主導権を掌握し魚商人を規制できるようになったこ

とを表している︒この魚商鍵入証の制度は︑のちの史料から見ても︑二

つの魚市場がそれぞれ別々に組織したことは明らかである︒

さらに︑注目すべきは︑魚商人の代金支払い問題を契機に︑魚市場間

で協調する動きが次第に強まったことである︒この協調行為は︑ひとま

ずこれまでは消費地の魚商人に対して行われたが︑その後は産地に対し

ても行われるようになった︒以下︑この時期の魚市場にとって重要な問

題であった︑

漓魚商人の代金支払い問題と︑

滷新市場の開設問題につい

て検討しておこう︒

Ⅱ魚市場の協調と魚商人の組織化

一八八四年一〇月に魚商鍵入証の制度を導入した魚市場側は︑翌月代

金支払いを滞らせた魚商人に対して魚市場への出入りを拒否することを

取り決め︑その規制を開始した︒同年一一月︑魚市場間で取り交わされ

た契約書は以下のようであった︒

為取替契約書

一︑我々ハ我魚市場及貴魚市場双方ノ利益及営業之安寧ヲ保全セン 為︑左之契約ヲ取結候事

一︑今般魚商共売掛代金ノ負債ヲ免レントスル奸策ヲ防ガン為メ︑貴

市場ニ立込︑魚商ノ内貴方之代金弁償ヲ為サズ︑吾魚市場ニ立込

マントスル者アルモ︑吃度立込ム事ヲ拒ムベシ︑若シ此約ニ背ク

時ハ︑壹人ヲ立込マシメバ金参拾円宛ヲ違約金トシテ曲者ヨリ差

出ベク約定ノ

22

魚市場側の魚商人に対する規制は︑翌一八八五年四月になると︑さら

に強化されることになった︒その内容は︑以下のようである︒

為取替契約証

一︑貴魚市場及我魚市場ハ従来ヨリ其双方ニ於テ定メタル魚商仲買人

ノ鍵入根帳ノ如ク︑双方市場ニ定メタル仲買人ノ外︑濫リニ甲乙

仲買人濫鍵入ナス時ハ︑双方金銭取引上ニ付意外ノ妨碍損耗トナ

ルハ目前ノ理ナレバ︑茲ニ市場組合規約認可ノ有無ニ拘ハラズ左

ノ契約ヲ為取替置ク事

一︑仲買人ニ於テ双方市場ニテ鍵入売買ヲナサント欲スル者アル時ハ

双方市場ニ於テハ可成的之ヲ防グベシ

一︑前条ノ場合︑万々止ムヲ得ザル時ハ双方市場協議ノ上︑其仲買人

ノ身元金ヲ定メ之ヲ徴収スベシ

一︑総テ仲買人身元金ノ金額ハ双方市場主協議ノ上︑之ヲ定ムルハ勿

論ナレ

!

収ニ場市乙ハ金元身ルムニ前場市甲ハテ於ニ合場ノ条預

ケ置キ乙市場ニ収ムル身元金ハ甲市場ニ預リ置クベシ

但シ利子ハ八朱ト定ム

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

9(778

(11)

一︑右契約ヲ履行セズ竊カニ仲買人ヲ鍵入セシムル時ハ︑其壹人毎ニ

金三十円ノ違約金ヲ相渡スベ

23

この契約証によれば︑それぞれの魚市場で取引しうる魚商人

﹁仲買

24

人﹂について今回初めて具体的に規制を導入したことが明らかとなる︒

その方法は︑

漓人れ入け受に的本基は﹂買両仲﹁るきで引取で場市魚な

いこと︑

滷合らか﹂人買仲﹁のそ︑は場しいなれらけ避がれそ︑しか保

証金︵﹁身元金﹂︶を差し出させ︑その保証金を相手方の魚市場が預かり

置くというものであった︒この時点で︑両魚市場に登録された魚商人

は︑大柳の方が四一名︑関の方が六九名︑合計一一〇名であっ

25

た︒今回

の契約証に基づき大柳が﹁仲買人﹂の保証金として預かったのは二一名

であっ

26

た︒この二一名は本来関の魚市場の魚商人であったから︑このこ

とから関の魚市場の魚商人六九名の内二一名︑つまりおよそ三割が大柳

の魚市場でも﹁仲買人﹂として取引するようになったことが判明する︒

この関の事例から推して︑およそ三割の魚商人が実際に相互の魚市場に

出入りして取引を行ったものと推

測されよう︒

この﹁仲買人﹂の保証金は第3

表に示したように︑最低金額は五

円︑最高金額は四〇円となってい

た︒この保証金額の多寡は取引額

の﹁多寡﹂を反映したものであっ

27

た︒第3表から明らかとなるの は︑

漓がす較比ととこたっあで円二額一金の証入鍵商魚の人商魚の般る

ならば︑両市場で取引した魚商人つまり﹁仲買人﹂はその取引金額が一

般の魚商人よりも高額であったこと︑

滷しかし︑その保証金額は一〇円

以下が全体の半数以上を占め︑高額な保証金額を差し入れるものは相対

的に少数であったこと︑

澆﹂に額引取もで中の人し買仲﹁︑てっがた相

当な較差があったことが推測されることである︒この契約書が取り交わ

された一八八五年には﹁仲買人﹂の﹁倒産﹂が﹁多数﹂発生したという

から︑魚市場側の経営的打撃は大きかったものと考えられ

28

る︒しかし︑

この契約証で注目すべきは︑魚市場側は﹁仲買人﹂が両市場で自由に取

引することはもとより︑両市場での取引も基本的には容認したくなかっ

たこと︑

滷買保にた新はてし対に﹂人仲そ﹁るす引取で場市両めたの証

金を要求し規制を強化したことである︒このような魚市場側の対応は︑

要するに魚市場側が︑

漓題よし制抑を生発の問直い払支金代はに的接う

としたこと︑

滷﹁そもていつに﹂人買仲るさすり入出に場市両はにられ

ぞれの魚市場において分断的に組織し支配しようとしたこと︑したがっ

澆限でとこたしとうよし制抑りな両能可を争競るうし生発で場市あ

る︒こうした魚市場側の対応は︑上記の契約証でも触れている魚市場側

による組合設立の動機を見ることでその意図するところがより明確にな

る︒すなわち︑この時期︑魚市場側は︑一八八四年一二月の県の布達

﹁同業組合準則﹂︵県令甲第一一六号︶に基づき翌年二月に同業組合を組

織しようとしたが︑その申請に関わる書類によれば︑魚市場側が組合を

設立しようとした意図は以下のようであった︵傍線は引用者︑以下同

第3表 市場身元金の金額と人数 金額(円) 人数

5 10 15 20 30 40

8 6 2 2 2 1

計 21

資料 池上家史料より集計。

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (777)10

(12)

様︶︒

具申書

一︑今般私共本県御布達明治十七年甲第百十六号之御達ニ基キ南條郡

同業ニテ武生橘町魚市場ニ於テ売買ヲナス者三十二名四分ノ三以

上ノ仝意ヲ以テ別紙ノ如ク仝盟組合設候ニ付テハ︑其地区内同業

者一団ニ組合可仕筈ナレ

!

ノ他其及上織組場従市両生武リヨ来ニ

付テ規模趣向之異ナリ居候事者勿論︑随ツテ其魚商等久於テハ自

然気質趣向之不相同儀有之候而因襲之久シキ暗々之内ニ含之居

リ︑且又魚商市場利害之点ヨリ愚考仕候而も到底一朝ニシテ此習

慣ヲ破リ一団之同業組合ニ仕候テハ容易ニ実行難相成候︑其故ハ

今仮リニ一団之組合ニ仕両市場ニ立込ム事ト候時者外面皮相ヨリ

観察ヲ下シ候得者成程適当ノ規約ニヨリ履行セハ多事平穏ニ相成

候様相見ヘ候得共︑其実如斯ニ運ヘハ市場ト市場ハ互ニ商売上ヨ

リ自然競争ヲ起シ不測之間ニ軋轢ヲ生シ偶々風波動揺ヲ機トシテ

奸ヲ其間ニ為サントスル者ニ階梯ヲ与へ毛頭良仲買市場等之幸福

トハ不相成︑結局其双方必要之眼目タル金銭取引部合部引上ニ忽

チ影響ヲ来し︑延テ同業上之紛雑ヲ醸シ濫悪之弊害続起シ魚商市

場四分五裂之勢ニ至リ︑又々維新前田時代之旧轍ニ復シ紛々擾々

トシテ

鐚座利福之上業営而却而候御藤ニ理之前目ハルサケ解之ヲ

却歩セシメ濫悪之弊害ヲ増生セシヲルノ媒介トナリ必竟組合組織

之本旨ニ矛盾仕候ト存候間︑私共組合之者共ハ深ク当時之実況ト

将来之結果トヲ熟慮仕︑只管営業上之無事ヲ渇望仕候︑仍而市場 魚商集議決定之上橘香組ト称シ同号御布達第四条但書之事項ヲ遵

奉シ同盟組合組織仕候間︑実情御明察之上御許可被下度奉懇願候

南條郡同業橘香組組合長池上栄治郎

29

この具申書によれば︑当時武生町にあった二つの魚市場はそれぞれ

﹁組織﹂や﹁規模﹂が異なっており﹁一朝ニシテ此習慣ヲ破リ一団之同

業組合﹂を結成することは困難であるとして︑二つの魚市場にそれぞれ

別の同業組合を設置することを魚市場側は要請していた︒もし同一の同

業組合を結成すれば︑その結果︑魚商人が両魚市場に出入りすることに

なり︑そのため発生する﹁競争﹂によって弊害が起きてしまうと述べて

いる︒つまり魚市場側は︑魚商人による両魚市場への出入りを放任すれ

ば魚市場間の競争が発生し︑かつての﹁維新前田時代﹂に回帰して﹁濫

悪之弊害﹂に陥ってしまうので︑したがって︑かかる競争を排除するた

めには別個の同業組合を組織することが望ましいと訴えたのである︒要

するに魚市場側は︑別々の同業組合を設立することで︑魚商人を分断的

に組織し続けること︑そのことにより市場間の競争を排除することを意

図したのである︒

しかし︑こうした同一地域内で別々の同業組合を設立することは同業

組合準則において基本的に認められるものではなかった︒そのため魚市

場側は︑その後︑魚商鍵入証の制度を維持しうる組合の設立を模索した

ようであるが︑現時点で史料上確認しうるのは︑形式上一つの同業組合

とし︑その下に元々あった二つの魚市場の魚商鍵入証制度を組み込んで

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

11(776

(13)

同業組合設立の認可を受けようとしたことであ

30

る︒この同業組合は︑結

局︑認可を受けることはできなかったものと推測される︒そのため魚商

鍵入証制度は一八九〇年頃には名称を﹁水交組﹂と変えその後大正時代

まで存続することにな

31

る︒いずれにせよ︑この同業組合設立をめぐる魚

市場側の対応は︑魚市場側が消費地の魚商人によって引き起こされる競

争を排除し︑その魚商人を分断的に組織しようとしたことは明白である

といわねばならない︒

他方︑魚市場側のこうした協調行為は︑産地側に対しても行われた︒

その点はすぐ後に詳述するが︑魚市場側のこのような協調行為に対し

て︑産地側は新市場を開設して対抗しようとした︒そのため︑魚市場側

において再び新市場開設に対する対応策が打ち出されることになる︒

まず一八八四年一一月︑魚市場側は新市場の開設について︑次のよう

な契約書を取り交わし︑新市場の開設を阻止しようとした︒

一︑如何ナル時ト如何ナル場合トヲ問ハズ︑双方市場ノ在ラン限リ

ハ︑双方ノ利益及営業ノ安寧ノ為メ︑若シ新魚市場ヲ創立セント

企ツル者アル時ハ︑如何ナル者ノ発企ニ係ハラズ之レガ株主或ハ

輔助或ハ仲間入等之関係ハ少シモ不致事︑若シ此約ニ背ク時ハ違

約金トシテ金五百円宛ヲ曲者ヨリ直者ニ出ス事

一︑若シ新魚市場之如何ナル者ト雖

!

創立スル時ハ︑我々及貴方之両

魚市場其時宜之相談ニヨリテ必ズ双方合併堅固ナル魚市場ヲ共同

シテ営ム

32

ここでは魚市場側は︑自分たち﹁双方ノ利益﹂と﹁安寧﹂を優先して 新市場の開設を阻止しようとしていることが注目される︒そのため︑魚

市場側は新市場の開設には互に関わらないこと︑もし契約に違反した場

合には﹁違約金﹂五〇〇円を支払うこと︑さらにはもし新市場が開設さ

れることがあれば魚市場は﹁合併﹂して新市場に対抗することを申し合

わせていた︒

翌一八八五年三月︑魚市場側は︑新市場の開設を阻止するため︑改め

て契約書を取り結んだ︒

一︑武生ニ於テ両市場ノ外ニ新ニ市場ノ創起スル時ハ啻営業ノ大不利

益而巳ナラズ到底共ニ永続ノ見込ナキヲ以テ︑万一其場合ニ運ベ

バ両市場合併スル事︑若シ両市場ノ外ニ新ニ創起スル市場ニ竊カ

ニ与ミシ︑或ハ保庇スル等ノ形跡アル時ハ︑実ニ双方ノ利益安寧

ヲ徒ラニ好ンデ妨害スル者ナレバ︑違約金トシテ金壹千円ヲ曲者

ヨリ直者ニ渡ス

33

今回の契約書は︑前回とほぼ同様の内容のものであるが︑違約金は前

回よりも二倍の一︑〇〇〇円となっており︑そのことから魚市場側には

新市場開設の危機感が強まっていたことが窺われる︒そのため︑魚市場

側は︑再び翌月︑新たに内容を更新する契約書を取り結ぶことで対抗策

を強化した︒

為取替契約証

一︑我魚市場ハ貴魚市場ト今般組合規約ヲ結ビ候ニ付テハ︑其御認可

ノ有無ニ拘ハラズ双方市場営業上将来ノ維持安寧ヲ鞏固ニセンタ

メ熟議和談ノ上左ノ契約ヲ為取替置ク事

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (775)12

(14)

一︑双方市場ニ於テハ武生市街及該近傍ニテ新ニ魚市場ノ創立

スル時ハ勿論︑其他双方ニ於テ従来ヨリ定メタル慣例双方

市場ニ於テ予テ定メタル仲買人根帳ニ拠リ双方市場ノ仲買

人ヲ定メ置ク事︑即チ双方ノ利益ヲ妨碍スルノ場合ニ遭遇

シタル時ハ︑何時ニテモ双方協議ノ上︑双方ノ会計出納ヲ

合併スベシ

一︑右ノ場合ニ於テ其利益ノ配当及損害ノ負担其他出納ニ関ス

ル負担ハ双方市場ノ売上高満壹ヶ年ノ金額ヲ比較標準トナ

シ︑双方ノ歩合ヲ定ムベシ

一︑此契約ハ向十ヶ年間保存シ置キ︑其期限ニ至リ右ノ妨碍無

之時ハ︑復ビ此契約ヲ保存継続スベシ

但︑十年毎ニ契約証ヲ清書シテ字句ノ増減ハナス

!

主意ノ

変換ハナサヽルベシ

一︑右条々決シテ違背ナサヽルベシ︑若シ違背スル時ハ違約金

トシテ壹千円ヲ曲者ヨリ直者ニ相渡スベ

34

今回の契約書も︑それまでの契約書とほぼ同様の内容のものであっ

た︒しかし︑より仔細に見れば︑次の二点で異なっている︒一つは︑そ

れまでは契約の期間を設定していなかったが︑今回はそれを一〇年間と

いう具体的な数値を表記したことである︒おそらく魚市場間の協調関

係︑つまり新市場開設に対する対抗策をより強固にするために契約期間

を明示したものと思われる︒もう一つは︑新市場開設対抗策として﹁合

併﹂の具体的方法を明記したことである︒したがって︑ここに至って魚 市場側は︑それまでよりもより踏み込んだ対抗策を打ち出したことにな

る︒しかし︑その合併策については限界があったことも指摘されねばな

らない︒つまり︑その具体的な方法は﹁会計出納﹂のみに限定した合併

であり︑経営資本の合併は全く含まれていなかったのである︒おそら

く︑このような限定的な合併方法を選択せざるをえなかったのは︑この

時期︑魚市場の経営者にとって︑その経営は家業の相続と密接に関係し

ており︑合併のために家業の相続を断念することはできなかったからで

ある︒あわせて注目すべきは︑この契約書では﹁仲買人﹂のことについ

て触れていることである︒その意味するところは︑それぞれの﹁仲買人

根帳﹂に基づき︑それまでと同様に分断的に支配し続けることであっ

た︒したがって︑魚商人を分断的に支配することは︑魚市場側にとって

依然重要であったことが改めてここでも確認できる︒

以上︑明治維新から一八八〇年代の武生町での魚市場と魚商人との関

係をみてきたが︑そのことからひとまず確認できる事実は︑

漓維新混乱

後の時期に消費地では﹁仲買人﹂が新市場を開設するという行動に出た

が︑魚市場側は産地側の協力をえて︑この新市場を実質的に破綻に追い

込むことができた︒

滷に払不・滞延金代るよ人一商魚はで地費消︑方い

問題が発生し魚市場側にとって深刻な問題となったが︑この問題を介し

て︑魚市場側は魚商鍵入証の制度を導入することで魚商人を分断的に組

織することが可能となった︒

潺引﹁︵人商魚るす取さで場市魚両にら仲

買人﹂︶に対しては保証金の制度を設け︑その場合もそれぞれの魚市場

で分断的に組織しようとした︒したがって︑

潸以上のような消費地での

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

13(774

(15)

魚商人に対する組織化は︑魚市場側にとって︑その意図するところは︑

魚商人の代金不払い問題を抑制するのみならず︑魚商人との関係におい

て魚市場間の競争を可能な限り排除することであった︒しかし︑こうし

た魚市場側の協調行為は︑産地側から改めて激しい反対の運動が展開さ

れることになる︒その点は次章において詳述しよう︒

Ⅲ新市場の開設と魚市場の協調

一八八五年四月︑越前海岸の甲楽城浦︑米ノ浦︑厨浦の産地商人三名

の名前をもって﹁新規魚市場設置願﹂が県に提出された︒この新市場開

設願は︑産地商人が︑消費地武生に新たに魚市場を開設しようとしたも

のである︒その方法は︑武生の橘町にある河合弥一郎の建物を魚市場と

して使用し産地側の意向に即した魚市場を開設することであった︒産地

側は︑武生の魚市場における取引に不満を抱いており︑消費地の河合と

共同して組合を設立して︑武生に共同の魚市場を開設することにしたの

である︒換言すれば︑産地側は︑武生の魚市場で行われていた独占的行

為を批判し︑自らの利益を追求するために消費地に魚市場を開設するこ

とを申請したのである︒

この新市場開設の申請に加わっていたのは︑甲楽城浦︑糠浦︑米ノ

浦︑高佐浦︑茂原浦︑厨浦の六ヶ浦であった︒この新市場開設願につい

ては︑翌月︑さらに﹁規約追加御届﹂と﹁具申書﹂が提出され︑その中

で新市場開設を計画するに至った具体的な理由が述べられることにな る︒ここでは産地側が新市場開設を企てた理由を︑まず﹁新規魚市場設

置願﹂からみておこう︒

新規魚市場設置願

福井県南条郡甲楽城浦糠ノ浦漁業人并ニ魚商人兼惣代

甲楽城浦小高俊蔵

同県丹生郡米ノ浦高佐浦漁業人并ニ魚商人兼惣代

米ノ浦中西治郎左衛門

同県丹生郡茂原浦厨浦漁業人并ニ魚商人兼惣代

厨浦第十四号六番地内田太郎右衛門

右浦方漁業人并ニ魚商人兼惣代ノ者共奉願上候︑私シ共営業之義ハ従

来当浦々ニ於テ捕獲スル魚類ヲ武生地方ヘ運搬シ︑而カ

!

之ヲ魚市場

ヘ持出ス慣例ニシテ︑該市場ハ買方ナリ︑即チ其地方之魚商人等ヘ

日々糶売シ︑其売上ヶ金高百分ノ拾ヲ市場口銭トシテ引落シ其残額ヲ

私共ヘ領手シ︑幾分カノ利潤ヲ得テ自己ノ営業ト相立居候︑然ル処現

在ノ市場タル一己人亦ハ数十百人聯合之組織ニ関スル者モ有候ヘト

モ︑其組合員ハ総テ該地方ノ魚商人等ガ創立ニ係リ︑私共ノ為メニハ

則売先ナリ︑故ニ魚類ヲ糶売スルノ際ニ当リ或ハ彼我ノ利害得失無シ

トセザルナリ︑依テ私共

陷欲仕慮苦々種︑シト々ンセ良改ヲ害弊其候

ヘ共︑如何ニセン私共ハ売方ナリ︑市場ハ買方ノ組織ニ係ルヲ以実際

上自カラ利益ヲ恣ニセント欲スルハ人情ノ然ラシムル処ニシテ又自然

ノ勢ヒナリ︑茲ヲ以テ考フレバ到底私共ガ幾分ノ利ヲ失フ事ヲ防クハ

甚ダ難事ニシテ幾度改良ヲ加フルモ得テ好結果ヲ見ル能ハサル義ト発

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (773)14

(16)

明セリ︑依テ今般私共浦方同業者申合セ︑明治十七年本県甲第百十六

号ノ御布達之御趣意ニ基キ︑更ニ南条郡武生橘町第廿五番地河合弥一

郎居宅ニ於テ新規魚市場開設シ︑各自ノ利益ヲ増進仕度希望仕候︑最

モ該建物持主ヘモ協議相遂ケ承諾上他ニ聊カ障碍ノ廉モ無之ニ付︑別

紙組合規約書加添上願仕候︑御慈諒之上ハ御規則堅ク相守税金上納可

仕候︑勿論万事不取締無之様深注意可仕候間︑本願御許容被成下度此

如奉願上者

35

この願書によれば︑産地側は武生の魚市場に対してその﹁弊害﹂をた

びたび申し立て改良を要請したようであるが︑その点は実現されなかっ

た︒そのため武生の河合弥一郎と共同して新たに魚市場を開設すること

にしたと述べている︒この願書では︑武生の魚市場の﹁弊害﹂につい

て︑その具体的な事実は語られていない︒ところが︑続いて提出した

﹁具申書﹂では︑その弊害について︑以下に示すように具体的な事実を

指摘している︒

具申書

私共魚市場新設願之義ニ付本月八日附ヲ以該願書并規約書ヲ進達之際

!

三仕庁出付ニ候成相喚召御日十月廿本︑処候仕呈捧ヲ書申具日四候

処︑勧業課栗多千本殿曰ク︑該市場設置之願之旨略了解スト雖トモ上

局ヘ進達ノ都合モ有之ニ付□□□□□サルトモ□□□ニ具申書ヲ認メ

目下浦方ノ困難ナル事情ヲ逐一上申可致旨御口達相成候ニ付左ニ奉上

申候

一︑抑モ浦方魚商ニ二種アリ︑一ハ敦賀港ヘ運送スルモノ︑一ハ武生 町ヘ運搬スルモノ︑此二者合シテ浜直︵浜直トハ漁夫ト魚商人ト

取究ムル直︶確定ス︑然ルニ近来武生ノ魚価甚タ廉ニシテ敦賀ノ

魚価最至当ナルガ故ニ武生ト敦賀トノ相場平均セズ︑依之武生通

ノ魚商人ハ常ニ魚商魚類ヲ廉直ニ買求ント欲スルニ反シテ︑敦賀

行ノ魚商人ハ至当ノ相場ニ買ヒ取リテ自己ノ営業ヲ為シ来リ︑然

ルニ輓近奸商輩出シテ武生ノ魚価ヲ以テ相場ト定ムルヨリ魚価ハ

頓ニ廉直ニシテ独リ奸商等ガ利ヲ占ムルニ至ル︑茲ヲ以テ漁夫共

大ニ奮恕シ︑仮令武生ノ魚価廉ナリト雖トモ︑何ゾ敦賀ノ魚価廉

ナルニ非ズ︑然ルニ奸商等一己ノ営利ヲ謀ント欲シテ村々漁夫共

ヲ瞞着スルノ甚シキ何ゾ如斯ヤ︑仮令餓死スト雖トモ彼ノ奸商等

ノ為メニ捕魚スルヲ得ズト之レヨリ漁夫共其ノ職務ヲ怠リ為メニ

漁額僅少ナリ︑漁額僅少ナレバ随テ村内存弊ス︑是レ外ナラズ現

今武生魚市場ノ行為弊害ヨリ醸生スルモノナリ︑何トナレバ彼ノ

魚市場ナルモノハ他ヨリ見レバ真ニ二個ノ性質ニ見ユレトモ︑風

説ニ拠レバ其ノ内情ハ一致団結スト︑之レ浦方ノ者共信シテ疑

ズ︑何トナレバ左ノ成行ニ至リテナリ

第一新問屋︵則チ関市平︶ニテ鯛壱尾価拾銭ナレハ御肴屋モ︵大柳

助三郎︶拾銭︑而シテ御肴屋ニテ鯖壱枚弐銭ナレバ必ズ新問屋

モ弐銭ナリ︑依之一致シタルモノト思考ス

第二武生仲買人御肴屋︵則大柳助三郎︶ヨリ魚類ヲ買求メ其日夕方

満金ヲ払ヒ得ザレバ︑翌日ヨリ一尾ノ魚類ヲ糶買セザルハ勿

論︑新問屋︵則チ関市平︶ニテモ之ニ販売スルヲ許ズ︑然リ而

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

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(17)

シテ又仲買人新問屋ニテ魚類ヲ買取其日夕方満金ヲ払ヲ得ザレ

バ翌日ヨリ魚類ヲ販売セサルハ勿論︑御肴屋ニテモ之レ等ニ応

シ魚類ヲ糶売スルヲ禁ス︑之ニヨリテ之ヲ見レバ全ク談合シタ

ルモノト思考ス

夫レ斯ノ如ク二款ニテ︑彼ノ二個ノ問屋ガ一致結合シタレハ表面ニ現

出セリ︑果シテ然ラバ︑仮令外形ハ二個ニ分立スト雖トモ裏ノ内情一

致セバ︑則チ一問屋ト見ルモ可ナリ︑依之彼等カ専断ヲ以テ自己ノ私

欲ヲ逞シ浦方魚商人ヲ籠絡シ武生仲買人ヲ瞞着スルモ亦計リ難シ︑然

リト雖トモ之レ等ハ私共ノ想像セシモノヲ実際彼等ガ行フタルニアラ

ザレバ敢テ外ニスベキモノニアラズ︑乍併今茲ニ一問屋ト二問屋以上

ノ利益ヲ上申仕候

抑モ明治先年頃武生ニ於テ三問屋アリ︑茲ノ時ニ当リテ売買人ノ便益

ハ実ニ云ベカラズ︑又問やト雖トモ利益ナキニアラズ︑之レ聊モ現今

敦賀福井ノ魚市場ニ異ナラズ︑而シテ一問屋ト雖トモ敢テ売買人ヲ束

縛スルノ理ナケレトモ︑之レヲ照合スル力ナケレバ売買人共疑ヲ容

ルヽハ人情ノ然ラシムル処ニシテ︑又奈何トモスル能ハザルナリ︑然

リ而シテ現今武生ノ魚市場タルヤ其弊害最モ多シ︑左ニ明示仕候

第一何レ問屋ヲ問ズ年始ニハ年始書ヲ発シテ客ノ安否ヲ誰問ス︑然

ルニ武生問屋ニ限リ年始状ヲ発セザルハ之レ客ヲ蔑致スルナリ

第二浦方魚商人冬天ニ魚類ヲ運搬シテ其寒威凌キ難ヨリ暖ヲ求ンガ

為メ薪炭ヲ消費セバ大ニ魚商人ヲ詰責スル事往々之レアリ︑之

レ客ヲ軽蔑スルモノナリ 第三魚商人市場ニ宿泊スル料ハ敦賀無料︑福井ハ弐銭︑然ルニ武生

魚問屋ハ三銭ヲ請求ス︑是レ浦方魚商人ノ困難ナリ

第四市場口銭ハ福井ハ百分ノ八︑然ルニ武生問屋ハ百分ノ十ヲ引去

ルハ之浦方魚商人最モ困難ナリ

第五魚商人問屋ニ対シ魚価ノ高廉ヲ論ズルハ之レ営業上最モ緊要件

ナリ︑然ルニ彼ノ問屋ニ対シ斯ク言ヲ吐露セバ彼レ等大ニ憤

リ︑已来此問屋ニ来ルナ︑是レモ甚シキニ至リテハ物品ヲ糶売

スルヲ禁ズ︑之レ最モ浦方困難ナリ

第六浦方魚商人譬ハ鯖百尾ヲ運搬スレバ︑最モ精撰ナルモノ七十ヲ

引去リ卅尾ヲ糶売シ︑此ノ直段ヲ以テ精撰ナルモノヲ同一ニ取

扱ナリ︑之レ最モ浦方困難ナリ

嗚呼斯ノ如ク魚商人ヲ束縛ス︑単ニ魚商人ヲ束縛スルニ止マラズ︑其

影響六ヶ村人民五千有余人ノ活路ニ関スル処︑而シテ現時漁業人ノ捕

魚ヲ怠ルモ魚商人ノ困難モ皆武生問屋ノ行為ニ起源ス︹以下断

36

簡︺

この具申書によれば︑越前海岸の漁村は魚類を武生と敦賀に出荷して

いた︒ところが︑近年では出荷した魚類の価格は︑敦賀よりも武生の方

が安く仕切られることが多くなっている︒その理由は︑武生には二つの

魚市場があるにもかかわらず︑実際にはこの二つの魚市場が﹁一致団

結﹂して﹁談合﹂行為を行っているからである︒その根拠として︑産地

側は︑

漓切︑とこるいてし致一が格価仕武はで場市魚のつ二るあに生つ

まり両市場において価格の協定が行われていること︑

滷武生の﹁仲買

人﹂が一方の魚市場で買入を拒否された場合には︑必ずもう一方の魚市

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (771)16

(18)

場でも買入を拒否されていること︑つまり両市場において協調行為が行

われていることを指摘したのである︒要するに武生の魚市場は表面的に

は二つの魚市場となっているが︑実質的には﹁一問屋﹂とみなすべきで

あり︑いわば独占による弊害が起きていると産地側は主張したのであ

る︒

この具申書では︑さらに具体的な﹁弊害﹂も指摘している︒第一は︑

武生以外のどの問屋も﹁年始書﹂を送って来るが︑武生の魚市場は送っ

てこない︒第二は︑冬季に魚類を運搬する時には武生の魚市場で暖を取

るために薪炭を使用するが︑魚市場側は︑その消費を切り詰めようとす

る︒第三は︑産地商人が魚市場で宿泊する場合︑敦賀では無料であるの

に対して武生では有料である︒第四は︑魚市場の手数料︵

口銭︶が福

井市と較べて高い︒第五は︑産地商人が魚価について言及すれば︑魚市

場側は﹁憤リ﹂︑甚だしきは魚類の販売を拒否する︒第六は︑運搬した

魚類のうち品質の比較的低い商品をもって全体の価格を決定する︒以

上︑産地側が指摘する事実は︑要するに独占に伴う具体的な﹁弊害﹂を

指摘したものといえよう︒ただし︑産地側の指摘した個々の事実が実際

に行われたものであったか︑その点は現時点では俄かに断定することは

できない︒それでも︑すでに見た魚市場間で取り交わされた複数の契約

書︑つまりこの時期の魚市場が行った協調行為を前提にすれば︑産地側

の指摘する弊害は︑その多くが事実であった可能性が高いといわねばな

らない︒いずれにせよ︑魚市場間における協調行為の発生に対して︑産

地側は︑その具体的な取引の場で起きる﹁弊害﹂︑つまり独占的行為に 不満を抱き︑自らの利益を追求するために独自の魚市場を開設すること

を申請したのである︒

しかし︑この魚市場の開設の請願は︑結局︑県当局の認可を得ること

はできなかっ

37

た︒おそらく市場の開設請願者の居住地と市場の開設地の

場所が一致しなかったことがその最大の理由の一つと推測される︒その

ため︑この魚市場の開設については︑河合個人の名義をもって改めて申

請が行われたものと考えられる︒この河合の申請は認可を受け︑一八八

五年一二月には魚市場が開設されたものと推測され

38

る︒ただし︑その開

設にあたっては︑一八八七年二月に越前海岸の六ヶ浦と河合との間で取

り交わされた﹁契約証

39

書﹂によれば︑一八八五年三月には﹁共同魚市

場﹂の創立事務を開始したとあり︑﹁共同魚市場﹂の運営総務全体を河

合が担当し︑生産地である越前海岸の六ヶ浦は魚類をすべて﹁共同魚市

場﹂へ出荷すること︑また市場の創設にかかった費用は︑産地側の出荷

した魚類の売上げ口銭の二〇分の一を﹁共同魚市場﹂側が積み立て︑そ

れをもって弁済に充てることとしていた︒したがって︑新市場の開設に

ついては︑産地側は主導権を完全に掌握することができず︑むしろ消費

地の商人に依存することで市場の開設を果たすことができたといえよ

う︒

以上︑産地側は︑消費地の既存の魚市場における独占行為を批判する

ことを目的に︑新市場の開設を目論んだ︒しかし︑その計画も県の認可

を取り付けることはできず︑結局︑消費地の商人に依存することで︑よ

うやくその目的を達成するができた︒したがって︑このような市場の開

同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)

17(770

(19)

設の経過は︑以後その市場の性格を考える上で重要な点となる︒

展望

新市場の開設は︑武生町の魚市場で新たな競争が開始されたことを意

味する︒その点は何よりも産地側が望んだことであった︒

そのためであろう︑この時期の大柳家の借用証文には産地に対する貸

付が増えたことを示唆する状況が観察される︒つまり新市場が開設され

る以前の一八八五年には第2表に示した借用証文全一九件のうち一件は

少なくとも南条郡糠浦に対する貸付であったが︑翌年には全一六件のう

ち少なくとも六件︵南条郡糠浦︑丹生郡高佐浦など︶が産地に対する貸

付であったことが判明する︒

この産地への貸付については︑新市場創設直後と思われる一八八六年

一月︑市場の創設に関わった一部の産地の商人から大柳に対して次のよ

うな資金貸与の申出があった︒

謹テ奉賀新年

其表御家内皆々様益々御清福ニ被遊候︑陳者貴殿御存じ魚市場

鐚藤ニ

付多分費用有之︑就テハ今般米ノ浦ニテ精算ニ相成候処貮百五拾円程

有之︑右費用尤六ヶ浦ノ割合ニ御座候︑就テハ右費用難出来候故︑今

回六ヶ浦組合之規約ニ基キ候テ其御地塩屋ノ宅ニテ厨や浦内田太郎右

衛門之名ニテ御認可出願之説モ有之︑又色々ノ説モ有之候得共︑当浦

ハ漁市一統貴殿ヘ向後総テノ魚類参送之積リニ相成候故︑右六ヶ浦割 合ノ金員何等ノ法方ヲ立被下候テ︑右金員貴殿ニテ御取換被下候得

者︑速ニ六ヶ浦之組合規約ニ免シ貴殿ヘ魚類悉皆運搬相定メ︑依テ御

聞取ニ相成候得者︑小生カ又ハ他ノ者ニテモ慥成者ヲ以テ御参送為

致︑委細ノ義ハ面談ノ上万可申述候也

明治十九年一月十九日

糠ノ浦清水三五郎

壁下孫四郎

竹内長次郎

武生橘町

大柳助三郎

40

殿

要するにこの申し出は︑糠浦について新市場創設の費用分担二五〇円

を大柳が負担してくれるならば︑今後は新市場の規約から離脱し︑大柳

の魚市場へ総て魚類を出荷してもよいというものであった︒この申し出

が実際に実現したのか︑その点は史料上直接確認することはできない︒

しかし︑残存する借用証文の中で同年一一月二六日付の糠浦の竹内長左

衛門に対する借用金一〇円については上記史料に登場する壁下孫四郎が

保証人となっており︑上記の申し出は何らかの形で実現した公算が大き

いものと推測される︒また︑この時期の借用証文の中で上記糠浦に対す

る借用証文が散見されるのは︑かかる事情を反映してのことと思われ

る︒と同時に︑このような産地への貸付は︑当然魚市場間での競争を助

長するものとなったことは間違いない︒

明治中期魚市場における競争と独占、及びその組織化(原田) (769)18

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