石 山 寺 ・ 塑 造 淳 祐 内 供 坐 像 の 造 像 に つ い て
髙 梨 純 次
は じ め に 滋賀
県大 津市 石山 寺辺 町に 建つ 総本 山石 光山 石山 寺は
︑天 平十 九年
︵七 四七
︶に 聖武 天皇 の勅 願と して
︑良 弁僧 正 が 建立 した と﹃ 石山 寺縁 起﹄ など に記 録さ れ︑ 名刹 が集 中す る近 江で も屈 指の 古刹 であ る︒ 秘仏 とな る如 意輪 観音 を 本 尊と する 国宝 の本 堂の 東側 には
︑天 然記 念物 に指 定さ れる
︑寺 名の 由来 とも なっ た硅 灰石 が路 頭す る奇 観を 目に す る こと が出 来る
︒そ の平 地の 一角 に建 つ御 影堂 は︑ 三間 四方 の方 形造 にな るも ので
︑南 北朝 時代 から 室町 時代 にか け て の 建 造と さ れ︑ 重 要文 化 財 に 指定 さ れ てい る⑴
︒こ こ で取 り 上 げ る塑 造 淳 祐内 供 坐 像︵ 以 下﹁ 本 像﹂ と す る
︶は
︑ こ の堂 の奥 の中 央一 間に 設え られ た厨 子の 中に
︑木 造弘 法大 師坐 像を 中央 に︑ 左脇 の木 造良 弁坐 像と とも に︑ 右脇 に 安 置さ れて いた
︒ 本像 は︑ 昭和 三六 年︵ 一九 六一 年︶ 六月 に重 要文 化財 に指 定さ れた
⑵
︿写 真1
│4
﹀︒ 本像 は︑ 既に 昭和 三十 年代 に国 指定 の列 に連 なり
︑中 世塑 造の 一作 例と して 知ら れる こと にな った が︑ その 詳細 に つ いて 記述 され てい るの は︑ この
﹃解 説 版重 要 文 化財 3彫 刻
﹄が 唯 一と い っ て よか ろ う︒ そ の後
︑二
〇 一 二 年秋 に
︑
― 399 ―
写真1 塑造淳祐内供坐像 写真3 塑造淳祐内供坐像 左側面
写真2 塑造淳祐内供坐像 背面 写真4 塑造淳祐内供坐像 右側面
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 400 ―
滋 賀県 立近 代美 術館 で開 催さ れた
﹃石 山寺 縁起 絵巻 の全 貌﹄ 展に 御出 座頂 き︑ 写真 撮影 を行 い︑ 現状 が詳 細に 検討 さ れ た⑶
︒ また
︑山 内で 継続 して 行わ れて いる 聖教 類︑ 文献 史料 類の 総合 調査 をは じめ
︑種 々の 文化 財調 査が 進展 する とと も に
︑新 しい 事実 が確 認さ れる に及 び︑ 屈指 の古 刹石 山寺 に伝 わる 文化 財に つい ても
︑従 来の 認識 を再 検討 する 必要 に 迫 られ てい る︒ 本像 につ いて も︑ 詳細 な検 討が 行わ れな い中 で︑ 後記 する よう に︑ 関連 する 木造 弘法 大師 坐像 など に 刮 目す べき 新知 見が 得ら れた こと もあ り︑ ここ で取 り上 げる こと とし た︒ しか し︑ 与え られ てい る情 報は 限ら れて お り
︑ま た紙 数の 都合 もあ るの で︑ ここ では
︑概 要を 記述 する に留 めた い⑷
︒ 一
像 の 概 要 本像
は︑ 塑造
︑彩 色︑ 玉眼
︑像 高七 七・ 六
!
⑸
︑重 要文 化財 に指 定さ れて いる
︒ 僧形 で︑ 頭頂 をや や尖 らせ て表 し︑ 額に 長く 三 筋の 横 皺 を表 し
︑眉 を 大き く 湾 曲 させ る
︒半 眼 には 玉 眼 を 嵌入 し
︑ 瞳 は墨 彩し て周 囲を 内か ら朱 と墨 で括 り︑ 白目 を塗 り︑ 目尻 と目 頭に 色を さす
︒鼻 孔を 表し
︑小 鼻か ら左 右に 皺を 振 り 分け
︑頰 を筋 肉質 にみ せる とと もに
︑両 頰を 痩け るよ うに 表す
︒唇 は朱 彩と し︑ やや 太め に表 して 閉口 する
︒耳 輪 は 大 き く廻 ら せ て︑ 耳孔 を 前 よ りに 表 す︒ 首 には 皺 や 筋肉 を み せ て痩 身 に 表し
︑首 を 鎖 骨の 下 に く ぼ め る よ う に 表 す
︒ 衣は
︑内 衣二 領を
︑胸 前で 左を 外に して 打合 せ︑ 大衣 が左 肩か ら右 脇腹 を通 って 背面 を斜 めに 横切 る︒ 左は 大衣 の 袖
︑右 は内 衣の 袖が
︑そ れぞ れ手 首ま でを 覆う
︒背 面左 側と 正面 左胸 前の 紐で
︑袈 裟を 吊上 げる
︒袈 裟の 下端 は︑ 両
― 401 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
手 首か ら結 跏座 する 右脚 など を覆 い︑ 両腰 脇か ら畳 座上 に広 がる
︒裳 を着 けて
︑曲 䇚の 天板 に敷 かれ る畳 座に
︑右 脚 を 外に して 結跏 座す る︒ 両腕 は垂 下し
︑右 手を 右大 腿部 に載 せ︑ 掌を 上に して 全指 を曲 げて 独鈷 杵を 握る
︒左 手は 左大 腿部 に載 せ︑ 掌を 上 に して 全指 を曲 げて 念珠 を握 る︒ 畳座 上に
︑袈 裟や 裳の 先端 が広 がる が︑ 袈裟 の袖 は︑ 左右 の幅 から して
︑畳 座よ り 外 に出 る︒ 表面 は︑ 木屎 漆で 塑形 し︑ 麻布 で覆 って いる よう で︑ 厚く 錆地 のよ うな 下地 を作 り︑ 白地 の上 に彩 色す るよ うで あ る
︒な お︑ 袈裟 の釣 紐の 結び 目に 釘跡 があ り︑ 結び 紐先 端付 近に も釘 穴と みら れる 痕跡 があ る︒ 彩色 につ いて は︑ 肉 身 部は 黄土 系の 肉色 彩色 かと みら れ︑ 内衣 は朱 など の彩 色が 想定 され る︒ また
︑袈 裟に は金 泥か とみ られ る色 料が か け られ てい るが
︑こ れに つい ては 補彩 の可 能性 があ ろう
︒ 構造 につ いて は︑ 現状
︑全 くこ れを 明ら かに は出 来な いの で︑ とり あえ ず︑ これ も前 記し た﹁ 報告 書﹂ の記 述を 要 約 して おき たい
︒前 後に 三材 寄せ た底 板に 井桁 を組 み︑ 前面 三材
︑背 面三 材を 左右 に寄 せ︑ 肩下 がり に向 かっ て狭 く な る様 に組 み︑ 体側 左右 に各 一材 をあ てる 形で 体幹 部の 心木 が構 成さ れて いる
︒頭 部に つい ては
︑体 部心 木の 頂上 に 渡 され た横 木に 釘付 けさ れた 材を 頂上 に伸 ばし て心 木と して おり
︑藁 縄を 巻い て材 も用 いて 紙苆 を混 ぜた 塑土 を厚 く 一 回で 盛上 げ︑ 布張 りす る︑ とし てい る︒ やや
︑理 解に 苦し むと ころ もあ るが
︑底 板に 材を 立ち 上げ て心 木と し︑ そ れ に塑 形す ると いう こと であ る︒ なお
︑そ の図 解に おい ても 頭部 の詳 細が 記録 され てい ない が︑ 体部 の心 木に よっ て 首 以上 の部 位の 視認 がで きな いと いう こと に よる の で あろ う
︒﹁ 報 告書
﹂に あ る 修 理以 前 の 側面 写 真︑ ま た現 時 点 で の 観察 にお いて も言 える ので ある が︑ 右側 面の 耳の 前後 や左 側面 の耳 寄り 前の 上部 と耳 後ろ など に剥 離線 がみ える こ と から して
︑頭 部も 前後 に心 木の ある 可能 性が 想定 され よう
︒
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 402 ―
畳座 はヒ ノキ 材製 で四 材製 とし て︑ 周縁 部を 各々 別材 から 造る
︒曲 䇚も 木製 で︑ 各部 位を 別製 とす る︑ 通常 の構 造 と なっ てい る︒ 以上
︑﹁ 報 告書
﹂の 記載 に基 づい て︑ 概要 を述 べて き た︒ 現 存作 例 と して は 珍 し い︑ 中世 塑 像 の本 格 的 な遺 例 で あ り
︑極 めて 貴重 な作 例で ある こと は言 うま でも ない
︒さ らに
︑こ の修 理に 際し て︑ 後記 する よう な多 数の 納入 品も 確 認 され てお り︑ それ には 明徳 三年 から 四年
︵一 三九 二│ 三年
︶の 年記 など も見 いだ され てい る︒ さら に︑ 畳座 裏面 に は
﹁ 応永 五年
戊 寅
閏四 月廿 七日
戊 時
普賢 院御 影 開 眼供 養訖
座 主僧
正 守快
春 秋四 十一
﹂ 写真5 畳座裏面
写真6 畳座裏面墨書
― 403 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
の 墨書 があ り︿ 写真 5・ 6﹀
︑ 応永 五年
︵一 三九 八年
︶に 開 眼 され た こ とが 判 明 す るの で あ り︑ 基準 作 例 とし て 重 要 度 もま すこ とに なる
︒ この よう な概 要と 評価 を踏 まえ つつ
︑本 像に 関わ る検 討を しよ うと して いる のだ が︑ 続い て︑ この 修理 に際 して 取 出 され た納 入品 につ いて 触れ てお きた い︒ 二
納 入 品と 銘 記 の概 要 納入
品が 取出 され た状 況は
︑写 真 のよ うな もの であ り︑ 良好 なも の と は 言 え な い︿ 写 真 7・ 8﹀
︒ 納 入品 は︑ 新た な木 箱を 設え
︑す べ てを その 中に 納め て︑ 修理 完了 後 に 像 内に 戻 さ れ て お り⑹
︑こ れ を 実見 する こと は出 来な い︒ 畳座 裏 面の 墨書 も︑ その 場所 には 底板 が 張ら れて おり
︑こ れも 実見 する こ とは 出来 ない
︒ 納 入 品 の 内 容 に つ い て
︑﹁ 報 告
写真7 納入品の状況
写真8 像底
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 404 ―
︵ マ マ︶
書
﹂に は
︑﹁ 納 札二 四 点︵ 完 存の も の 十 七 枚︑ 破 損 の も の 五 枚︶
﹂ と
︑地 蔵 印 仏一 巻 と して い る︒
﹃ 重 要文 化 財
﹄編 纂 委 員 会 編
﹃解 説 版重 要文 化財
3 彫 刻﹄ では
﹁地 蔵摺 仏︵ 明徳 三年
︶一 括/ 塔 婆形 木札
︵明 徳四 年︶ 二十 二点
/種 子陀 羅尼
・願 文等
︵明 徳四 年
︶一 括﹂ とし てお り︑ 現場 写真
︿写 真7
・8
﹀な どか ら判 断す る に︑ こ の よ う な 理 解 が 実 体 に 近 い よ う に 思 わ れ る⑺
︒当 稿 で は
︑こ の理 解に 基づ いて 進め るが
︑幸 いに して 塔婆 形木 札二 四点 の う ち 二三 点 の 写真 が 残 さ れて い る︿ 写 10真 11・
﹀︒ ま た 地 蔵 摺 仏 は︑ 再納 入に 際し て巻 子装 に仕 立て 直さ れた よう だが
︑巻 頭の 写 真︿ 写真 9﹀ など が︑ 種子 陀羅 尼・ 願文 等は 断片 の写 真が 残さ れ てい る︒ いず れも
︑全 容の 把握 には いた らな いが
︑概 要を 理解 す るこ とは 出来 るよ うに 思う ので
︑以 下で は︑ 判読 でき る墨 書に つい て列 記し てみ たい
︒ 1
塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 明徳 四年 七月 四日 善性 敬白
﹂ 2 塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 敬 カ︶
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 尼妙 円聖 霊明 徳四 年七 月四 日善 性□
□﹂ 3 塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
写真9 地蔵菩薩像印仏(部分)
― 405 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
写真10 塔婆形木札 表
写真11 塔婆形木札 裏
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 406 ―
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 迎良 尊聖 霊□
︵ 白カ
︶
第三 年造
□□
□良 快敬
□﹂ 4 塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 一切 衆生
明 徳四 六廿 四日 平等 利益
良 快敬 白
﹂ 5 塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 一切 衆生
明 徳四 六廿 三 平等 利益
良 快敬 白﹂ 6 木札 断簡
︵表
︶﹁
︵ 種字 陀羅 尼︶
﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
□□
□ 右 志者
□□
/
□□
﹂ 7 木札 断簡
︵表
︶﹁
︵ 種字 陀羅 尼︶
﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
"
﹂ 8 木札 下部
︵表
︶﹁
!
□ 南 無地 蔵大 菩薩南 無地 蔵大 菩薩
﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 右志 者為
明 徳四 年
□□ 聖霊
清 義敬 白 法界 衆生 也
七 月六 日
﹂ 9 木札 下部
︵表
︶﹁
!
□ 南 無地 蔵大 菩薩南 無地 蔵大 菩薩
﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 右志 者為
! "
明徳 四年
― 407 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
︵種 字︶ 衆生
!
"
清義 敬白
︵種 字︶
!
"
七月 六日
﹂ 10
塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 一切 衆生
明 徳四 年六 月廿 六日 平等 利益
金 剛仏 子良 快敬 白﹂ 11
塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 本カ
︶
︵ 阿 カ︶
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
□為
□
□尊 霊也 明徳 四年 七月 四日 善性
﹂ 12
塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 一切 衆生
明 徳四 年六 月廿 七日
︵ 良快 カ
︶
平等 利益
金 剛仏 子□
□敬 白
﹂ 13
塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 明 徳 カ︶
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
! "
聖霊
□□ 四六 廿也
! #
"
﹂ 14
塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 廓 カ
︶
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 為□ 尊霊 明徳 四年 七月 二日 金剛 仏子 良快
!
﹂ 15塔婆 形木 札
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 一切 衆生
明 徳□ 年七 月三 日 平等 利益
金 剛仏 子良 快敬 白﹂
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 408 ―
16 塔婆 形木 札下 部
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
一 切衆 生 明徳 四年 七月 四日 平 等利 益 金剛 仏子 良快 敬白
﹂ 17
塔婆 形木 札下 部
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
為 俊祐
#
師 御世 明徳 四年 七月 二日 金剛 仏子 良快 敬白﹂ 18
塔婆 形木 札断 片
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
!
"
﹂ 19
塔婆 形木 札下 部
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 為法 界衆 生□
□□
□
□清 義
︵ 恩カ
︶
!
"
□
﹂ 20
塔婆 形木 札下 部
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶ 為法 界衆 生明 徳二 二年 七月 六日 清義 敬白
﹂ 21
塔婆 形木 札下 部
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
□界 衆生
明 徳四 年七 月二 日 平等 利益
金 剛仏 子良 快敬 白﹂ 22
塔婆 形木 札下 部
︵ 表︶
﹁︵ 種 字陀 羅尼
︶﹂
︵ 裏︶
﹁︵ 種 字︶
!
"
﹂
― 409 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
種字 陀羅 尼・ 願文 等 納入 紙片 1墨 書
︻ 種字 真言 の間 に以 下の よう な墨 書が 散見 され る︼
﹁ 為志
□霊
﹂
﹁
□隆 然追 善也
﹂
﹁ 為せ うけ 追善 也﹂
︵ 追 善 也 カ
︶
﹁ 為□
□大
□□
□﹂
﹁ 右志 者為 清義 逆修 追善 明 徳四 年七 月五 日 清﹂
﹁ 為心 覚逆 修追 善也
﹂ 納入 紙片 2墨 書
﹁
!
"
半蔵
□□ 本 恵
性 一
︻種 字真 言︼ 金 剛
!
﹂ 納入 紙片 3墨 書
︵ 所化 カ
︶
﹁ 奉□
□
!
西 国三 拾三 所!
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 410 ―
納 明治 十八
﹂ 納入 紙片 4墨 書
﹁
!
"
□ 年到 来
!
# "
為 志者 成恵 追善
□
!
﹂ 納入 紙片 5墨 書
︵ 仏 カ
︶
﹁
!
□ 師杲 仁敬 白
!
歳 卅 六﹂ 納入 紙片 6墨 書 いず れも 断片 の最 下段 のみ 現存﹁ 等利 益也
/□
/法 界/
□/ 法界
/□
/利 益也
/□
/□
/益 也﹂ 納入 紙片 7墨 書 いず れも 断片 の最 下段 のみ 現存
︵ 死 ヵ
︶
﹁
"
/
"
/
"
/
"
/
!
不 浄/!
光 眼/!
乃 至/□□
/
!
無/!
□□/
!
夢/
!
故/!
羅 蜜/!
哉/
!
羅蜜/
"
﹂ 地蔵
菩薩 立像 印仏 巻墨
書︵ 入手 写真 判明 分︶
﹁ 明徳 三年 正月 一日
﹂
︵ 地蔵 菩薩 立像 印仏 六体
︶
― 411 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
﹁ 二日
﹂
︵ 地蔵 菩薩 立像 印仏 六体
︶
﹁ 三日
﹂ 地蔵 菩薩 立像 印仏 巻断 簡墨
書︵ 入手 写真 判明 分︶
﹁ 六月 一□
﹂
﹁ 三月 一日
﹂
﹁ 九月 一日
﹂ 提供
を頂 いた 写真 等を 判読 した 結果 は︑ この よう なこ とで ある が︑ 図版 でも 示し てい るよ うに
︑塑 土の 断片 とと も に
︑納 入品 も断 簡状 にな って いる こと もあ っ て︑ 全容 に つ いて は 掴 みき れ て い ない
︒ま た
︑難 読 にな る も の も多 く
︑ 解 釈に は隔 靴掻 痒の 感も ある が︑ 簡単 に気 にな ると ころ につ いて 指摘 して おき たい
︒ まず
︑塔 婆形 木札 の真 言に つい て︑ これ を各 木札 につ いて 詳細 に判 読す る事 は行 わな いが
︑概 要だ けを 述べ てお き た い︒ 表の 面に つい ては
︑胎 蔵大 日如 来の 真言
﹁ア
・ビ
・ラ
・ウ ン・ ケン
﹂を 上下 逆に して 記し
︑そ の下 には 光明 真 言 を記 すも のが 主流 とな る︒ 裏面 につ いて は︑ 金剛 界五 仏を 上に して
︑如 意輪
・薬 師・ 毘沙 門を 配し たも の︑ 阿弥 陀 三 尊︑
﹁ カ﹂ を六 個記 した 六地 蔵と 推測 され るも の︑ そし て五 大 明 王か と み られ る 五 字 が上 か ら 下に 記 さ れる も の が 多 い︒ 漠然 とし た見 通し から する と︑ 表裏 で金 胎 両部 の 大 日如 来 を 表し
︑光 明 真 言 や阿 弥 陀 三尊
︑そ し て 六 地蔵 と
︑ 死 者追 善に 関わ る木 札で ある 可能 性が 高い
︒
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 412 ―
種子 陀羅 尼・ 願文 等の うち 納入 紙 片三 に は︑
﹁ 明治 十 八﹂ の 年記 が あ る︒ と なれ ば
︑本 像 は︑ この 時 期 に一 度 解 体 さ れた 可能 性が 求め られ よう が︑ 他に この 種の 納入 品や 解体 につ いて の証 左が 得ら れな いこ とか らし て︑ これ は︑ 参 詣 者に よっ て持 ち込 まれ た紙 片が
︑紛 れ込 んだ よう なも のと 解釈 して おき たい
︒こ の年 記を 外し て考 える と︑ 地蔵 菩 薩 立像 印仏 巻墨 書の 最初 にあ る﹁ 明徳 三年 正月 一日
﹂が 初日 の日 付で あり
︑8 と9 の木 札下 部に ある
﹁明 徳四 年七 月 六 日﹂ が最 終日 とな る︒ 現状 につ いて いう と︑ 明徳 三年
︵一 三九 二年
︶か ら翌 年の 七月 六日 あた りに
︑こ れら 一連 の 納 入品 が作 成さ れた とい うこ とに なる
⑻
︒こ れら を納 めた 本像 は
︑応 永 五 年︵ 一三 九 八 年︶ 四月 二 七 日に
︑石 山 寺 座 主 僧正 守快 によ って 開眼 供養 され たの であ るか ら︑ その 間に も何 らか の事 業が 行わ れて いた 可能 性も ある
︒ 一連 の納 入品 は︑ 本像 に納 めら れて いた ので ある から
︑当 然と いえ ば当 然の こと なが ら︑ 本像 の造 像に 関わ って の 事 業と いう こと だが 17︑ 塔婆 形木 札の 墨書 に﹁ 為俊 祐
!
師御 世明 徳四 年七 月二 日﹂ とあ るこ とか らし て︑ やや 意味 を 解 しか ねる 点も ある が︑﹁ 俊祐
!
師﹂即 ち淳 祐祖 師の 造像 を 目 指し て の 事業 で あ る こと を 確 実に し て くれ て い る︒ そ し て︑ この 塔婆 形木 札に は︑ 善性 や清 義と いう 署名 があ るが
︑頻 出す るの は良 快で ある
︒確 実に 良快 の署 名が 読み 取 れ るの は九 点で あり
︑可 能性 があ る一 点を 含め ると
︑六 月二 三日 から 七月 三日 まで の間 の十 点と なり
︑約 半数 近く の 数 字に のぼ る︒ 十四 世紀 末か ら十 五世 紀初 頭の 記録 には
︑良 快と いう 名乗 りの 僧が 複数 みら れる
︒石 山寺 と関 係が 深い 真言 系の 僧 侶 につ いて みる と⑼
︑ まず 東寺 領播 磨国 矢野 庄の 記事 に登 場す る学 衆方 公文 の 伊 予 良快 が あ げら れ る︒ 伊 予良 快 の 筆 跡 につ いて は︑ 東寺 百合 文書 など に残 され てお り︑ 比較 検討 が出 来る
︒例 えば
︑永 和元 年︵ 一三 七五 年︶ 四月 三日 付
﹁良 快 八条 院 々 町給 主 職 請 文﹂⑽
の 花押 を 伴 っ た 謹 直 な 署 名 を は じ め
︑そ れ に 近 い 康 応 二 年︵ 一 三 九
〇︶ 二 月 一 日 付
﹁籠 衆方 試講 布施 支配 状﹂⑾
など から
︑嘉 慶二 年︵ 一三 八八 年︶ 三月 日付
﹁山 城国 拝師 庄未 進 年 貢注 文
﹂⑿
や
︑よ り 略 筆
― 413 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
に な る 応 永 二 年
︵一 三 九 五 年
︶十 二 月 三
〇 日 付
﹁勧 学 会 試 講 布 施 支 配 状
﹂⒀
な ど に 共 通 す る
︑﹁ 良﹂ の 最 終 二 画 を
﹁く
﹂の 字状 に強 く打 つ点 や︑
﹁快
﹂の 第二
・三 画 を横 に 連 続す る 線 で表 す 点 な ど︑ 極め て 近 いも の が あ る︒ しか し
︑ こ の時 期の
﹁良 快﹂ と署 名す る場 合︑ 僧侶 など であ れば
︑別 人で あっ ても 比較 的近 い筆 跡が 想定 され るよ うに も思 わ れ るか ら︑ この こと のみ から 同一 人と 結論 づけ るの は早 計で あろ う︒ 因に
︑こ の伊 予良 快は
︑応 永十 二年
︵一 四〇 五年
︶四 月十 一日 に他 界し て い る が⒁
︑ この 後 に も良 快 な る僧 は 記 録 に 現れ る⒂
︒ この 良快 は︑ 応永 十四 年︵ 一四
〇七 年︶ など の後 七日 御修 法の 伴 僧 と して 記 録 され て い るが
︑伊 予 良 快 の 極位 が法 眼で あっ たの に対 して
︑こ の良 快は 法橋 位で ある こと から して も︑ 伊予 良快 より 若い 別人 とい うこ とに な ろ う︒ この よう にみ てく ると
︑同 名異 人が 存在 する のは 当た り前 のこ とで あり
︑筆 跡か らの 判断 が必 ずし も同 一人 を指 す と はい えな いが
︑世 代的 な観 点か らし ても
︑伊 予良 快は 覚え てお く必 要が ある かも しれ ない
︒ 納入 品の 墨書 につ いて は︑ 検討 すべ き点 も多 いが
︑紙 数の 都合 もあ り︑ 詳細 な検 討は 今後 の課 題と して おき たい
︒ 三
本 像 をめ ぐ る 課題 近年
︑本 像に も関 わる 大き な発 見は
︑並 んで 安置 され てい た木 造弘 法大 師坐 像の 修理 に際 して
︑像 内か ら墨 書が 確
︵ カ︶
︵カ
︶
︵ カ
︶
︵カ
︶
認 され たこ とで あろ う⒃
︒ 頭部 内面 の墨 書に は
﹁大 宮
/戋 川/ あ さ川
/作 者
/祐 善﹂ と﹁ 明 とく 二 年/ 八 月廿 一 日 時 正
/中 日 也
﹂と あ り
︑明 徳 二 年
︵一 三 九 一 年
︶に 造 像 さ れ た こ と が 判 明 し た⒄
︒ こ の 弘 法 大 師 坐 像 は
︑﹃ 石 山 要 記
﹄ 第 二仏 像 部 に よる と
︑御 影 堂に 弘 法 大師 像 と 淳 祐内 供 像 が安 置 さ れて い る と 記録 し て いる
⒅
︒﹃ 石 山 要記
﹄に 記 録 さ
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 414 ―
れ る︑ 江戸 時代 後期 の尊 賢僧 正の 時代 にお ける 安置 状況 は︑ 前記 した 近年 まで の状 況と 同じ であ る︒ さら に︑ 伏見 宮 貞 成の 日記
﹃看 聞御 記﹄ 永享 三年
︵一 四三 一 年︶ 十月 二 三 日条 に
﹁一 堂 ニ弘 法 大 師 御影
︑石 山 内 供淳 祐 御 影 等拝 見
︑ 障 子ニ 石山 縁起 絵図 之︒ 殊勝 也﹂ とあ る︒ 伏見 宮貞 成は
︑何 度か 石山 寺に 参詣 して いる が︑ 永享 三年 秋の 参詣 に際 し て
︑弘 法大 師像 と淳 祐内 供像 を一 堂で 拝見 した とし てい る︒ これ につ いて は︑ 諸般 の事 情か らし て︑ ここ で取 り上 げ て いる 弘法 大師 像と 本像 をさ す蓋 然性 が極 めて 高い
︒ こ の﹃ 看聞 御 記﹄ の 記録 も 視 野に 入 れ る と︑ 明徳 二 年︵ 一 三九 一 年︶ 八 月 頃に 木 造 弘法 大 師 坐 像 が 造 立 さ れ て い る
︒そ して 翌三 年元 日か ら本 像に 納め られ てい る﹁ 地蔵 菩薩 立像 印仏 巻﹂ の押 捺が 始め られ たと みら れ︑ 九月 にも 継 続 され てい るこ とが 分か る︒ さら に︑ 翌明 徳四 年︵ 一三 九三 年︶ 六月 から 七月 にか けて
︑同 じく 本像 に納 めら れた 塔 婆 形木 札が 作ら れて いる
︒こ れら を納 入し た本 像は
︑石 山寺 座主 守快 によ って
︑応 永五 年︵ 一三 九八 年︶ 閏四 月二 七 日 に開 眼供 養さ れた
︒そ して
︑そ の三 三年 後の 永享 三年
︵一 四三 一年
︶に
︑両 像が 一堂 に祀 られ てい るこ とを
︑伏 見 宮 貞成 が記 録し てい るの であ る︒ この よう な経 緯を 辿っ てみ ると
︑明 らか に弘 法大 師と 淳祐 内供 を同 じ堂 に祀 るこ とを 前提 とし て︑ ひと つの 計画 と し て両 者は 造像 され たと して よか ろう
︒い ずれ も︑ 石山 寺の 長い 歴史 の中 で︑ 特に 真言 系寺 院と して の名 刹と いう 点 に おい てい えば
︑こ の二 人の 高僧 が果 たし た役 割の 大き さは 自明 であ ろう
︒さ らに
︑高 野山 奥の 院の 弘法 大師 御廟 で の 奇瑞 によ って
︑大 師の 聖な る薫 りが 淳祐 に移 り︑ 一生 涯そ の薫 りが 消え ない ばか りか
︑そ の写 経に も移 り︑ 世に 淳 祐 に よ って 写 さ れた 一 連 の 写経 を
﹁薫 聖 教﹂ と呼 び 習 わし て い る 伝説
⒆
が 注目 さ れ よう
︒﹃ 看 聞 御 記﹄ に﹁ 障 子 ニ 石 山 縁起 絵図 之﹂ とす る縁 起絵 のシ ーン も︑ ある いは 高野 山に おけ る淳 祐の 奇瑞 譚を 図画 化し たも ので あっ たか もし れ な い︒ この
︑奇 瑞譚 は︑ 現状 にお ける 史 料の あ り 方か ら す ると
︑﹃ 古 事 談﹄ や﹃ 平 家物 語
﹄な ど が編 集 さ れた 頃 に は
― 415 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
流 布 し て い た と み ら れ る が
︑﹃ 扶 桑 略 記
﹄な ど に は
︑高 野 山 の 弘 法 大 師 廟 堂 に 関 わ る 別 の 奇 瑞 譚 が 記 録 さ れ て い る⒇
︒こ れは
︑藤 原 教 通 が高 野 山 に参 詣 し たお り の 記 録と し て 語ら れ て いる が
︑扉 の 開 閉に つ い ての 奇 瑞 譚 であ り
︑ 淳 祐が 弘法 大師 廟に 関わ る古 い段 階の 説話 とし て注 目さ れよ う︒
﹃ 石山 寺 僧宝 伝
﹄! に よ る と︑ 淳 祐︵ 八九
〇
│九 五 三︶ は︑ 菅原 淳 茂 の子 で 菅 原 道真 の 孫 とし て 生 まれ
"
︑昌 泰 二 年
︵八 九九 年︶ に観 賢に 師事 して 石山 寺で 出 家︑ 延 喜三 年
︵九
〇 三年
︶に 如 意 輪 軌儀 を
︑五 年 に金 剛 界 大法
︑七 年 に 大 悲 胎蔵 大法 を受 法し た︒ 延喜 十二 年︵ 九一 二年
︶に
︑観 賢に 伴わ れて 高野 山に 赴い たお り︑ 前記 した 奇瑞 が現 れた と す る
︒延 長 三年
︵九 二 五 年︶ に観 賢 よ り 般若 寺 道 場で 両 部 灌頂 を 受 法 し︑ 後に 内 供 奉十 禅 師
︑伝 灯 大 法 師 に 補 任 さ れ
︑観 賢の 跡を 継い で石 山寺 第三 代座 主に 就任 して いる
︒そ して
︑天 暦七 年︵ 九五 三年
︶七 月二 日に 入滅 した と記 録 さ れて いる
︒付 法の 弟子 とし て︑ 元杲
︑真 頼︑ 寛忠
︑救 世な どが あげ られ てい る︒ また
︑系 脈を とわ ない とい う事 で は
︑比 叡山 延暦 寺の 座主 を務 めた 良源 にも 付 法し た と 記録 さ れ︑
﹃ 石山 寺 縁 起 絵巻
﹄に は
︑台 密 事相 の 大 成者 と さ れ る 皇慶 から も指 導を 求め られ たと して いる
︒そ して
︑当 然の 事な がら
︑薫 聖教 とよ ばれ る自 筆の 写経 をは じめ
︑後 世 に 筆写 され
︑継 承さ れた 淳祐 関係 の経 軌類 は膨 大で ある
︒聖 宝︑ 観賢 の後 継者 とし て三 代目 の石 山寺 座主 に就 任し た 淳 祐は
︑高 い学 識に よっ て教 学の 発展 に尽 力し
︑そ して 有力 な真 言寺 院と して の石 山寺 の確 立に 果た した 功績 は︑ 群 を 抜い てい る︒ こ
の淳 祐 の 姿に つ い ては
︑仁 和 寺 に 伝来 す る﹃ 三 国祖 師 影﹄# に
﹁内 供 淳 祐/ 石山 普 賢 院﹂ とし て 白 描 図 像 が 残 さ れ てい る︒ 右前 方を 凝視 して
︑右 手は 表さ ず︑ 胸前 で左 掌に 念珠 を載 せて 座す る形 で描 かれ るが
︑本 像で は︑ 両手 を 膝 の上 にの せ︑ 右手 で独 鈷杵
︑左 手で 念 珠を 握 っ て座 し て いる
︒本 像 は
︑﹃ 三 国祖 師 影﹄ の 図様 と は 異な る が
︑異 な
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 416 ―
っ た古 い図 様が 残さ れて いる とい うこ とは
︑そ のよ うな 肖像 が作 られ てい たこ とが 想定 され よう
︒も し古 像が 作ら れ て いた とす れば
︑そ れに 相応 しい 場所 は石 山寺 であ っ たと い う こと に な ろう が
︑そ の よ うな 想 定 がで き る と すれ ば
︑ 本 像は 原像 を違 えて 造像 され たと いう こと にな る︒ 尤も
︑多 くの 肖像 が造 られ たと は思 われ ず︑ 一般 化し て準 拠す べ き 図様 が固 定さ れて いな かっ たの であ ろう
︒本 像を 観察 する に︑ やや 理想 化さ れた 表情 とは いえ
︑迫 真的 なそ の表 情 な どか らし て︑ モデ ルの 存在 が想 定さ れよ うか
︒モ デル を想 定す るな らば
︑本 像は 応永 五年
︵一 三九 八年
︶に 石山 寺 十 九代 座主 であ った 守快 によ って 開眼 供養 され てい るの であ り︑ この 守快 の周 辺が 注目 され よう
︒ 守快 は︑ 洞院 公賢 の子 息で
︑兄 であ り師 でも あっ た杲 守を 継い で石 山 寺 座 主と な る!
︒ こ の時 期 の 石山 寺 は
︑東 寺 一 長者 も務 めた 十六 代座 主守 恵︑ 十七 代座 主益 守な ど洞 院家 の出 身者 が連 なっ てい る︒ 杲守
・守 快の 兄弟 には
︑慈 守 や 慈昭 など 天台 僧と して 活躍 する 人物 もい るが
︑特 に東 寺・ 仁和 寺に 連な る石 山寺 にお ける 立場 は格 別で あっ た︒ 守 快 は︑ 応永 元年 に杲 守の 七回 忌追 善の 為に
﹁大 孔雀 明王 経﹂ を書 写供 養 し て いる が"
︑と す れば
︑前 石 山 寺座 主 杲 守 は 嘉慶 二年
︵一 三八 八年
︶に 没し たと いう こと にな る︒ 紙数 の都 合も あり
︑杲 守の 詳細 な履 歴を 述べ る事 は控 えた い が
︑そ の 事 跡に つ い ては
︑﹃ 石 山 寺 縁起 絵 巻﹄ の 筆者 と し ても 研 究 が 進ん で い る#
︒ 杲守 も 洞 院公 賢 の 子 息 で︑ 貞 治 二 年︵ 一三 六三 年︶ には 東寺 長者 とな るが
$
︑折 から 権門 寺院 の内 外で 起き る抗 争 の 余 波が 石 山 寺に も 及 ぶこ と に な り%
︑貞 治七 年︵ 一三 六八 年
︶に は︑ 座 主杲 守 も 寺 僧に よ っ て幽 閉 さ れる な ど の 憂き 目 に あう 事 に もな る&
︒こ の よ う な
︑兄 で あり 師 で もあ っ た 杲 守の 存 在 は︑ 守快 に と って 格 別 の もの で あ った と 推 測さ れ る
︒塔 婆 形 木 札 の 真 言 に は
︑光 明真 言や 六地 蔵な どの 種字 があ り︑ 一面 にお いて 死者 追善 を目 指し たも ので もあ ろう から
︑十 年ほ ど前 に他 界 し た杲 守に 関わ るも のと 推測 する こと は許 され よう
︒理 想化 され た迫 真的 な人 物表 現の 追求 は︑ 守快 の意 図に よる 兄 で あり 師で もあ った 杲守 を︑ 石山 寺の 隆盛 に尽 した
︑ま さし く祖 師で あっ た淳 祐に なぞ らえ ての 造像 であ った と考 え
― 417 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
ら れる
︒ とこ
ろで
︑一 連の 事業 とし て計 画さ れ︑ 同じ 堂 に安 置 さ れて い た 弘法 大 師 像 と本 像 に つい て
︑前 記 し た︑
﹃石 山 要 記
﹄で は﹁ 大師
・内 供共 以塑 像也
﹂と して いる
︒実 際は
︑木 像と 塑像 と︑ その 技法 を違 えて の造 像で ある が︑ 一連 の 事 業に つい て技 法を 大き く違 える のは 不審 とい えば 不審 であ ろう
︒そ れも あっ て︑ 学識 高い 尊賢 僧正 も︑ 両者 の技 法 を 見分 けず にい ずれ も塑 像と 認識 して いる
︒ 近江 にお ける 中世 塑像 とい うこ とに なる と︑ 貞治 六年
︵一 三六 七年
︶に 示寂 した 湖東
・永 源寺 の開 山︑ 寂室 元光 の 頂 相彫 刻と して 康暦 元年
︵一 三七 九年
︶に 供養 され た寂 室和 尚坐 像を はじ め︑ 湖東 三山 のひ とつ 西明 寺に は︑ 応永 十 二 年︵ 一四
〇六 年︶ の刻 銘が ある 錫杖 を抱 える 魍魎 鬼人 像が 知ら れて おり
︑同 じく 本堂 後陣 に祀 られ る慈 恵大 師坐 像 な ども 塑像 の可 能性 があ る︒ 近江 には
︑こ の十 四世 紀 を前 後 す る頃 を 中 心に
︑中 世 塑 像 の作 例 が 確認 さ れ て いる が
︑ こ こで その 詳細 につ いて 述べ てい る余 裕は ない
︒し かし
︑い ずれ もが 高僧 の肖 像や 冥界 に関 わる 像な ど︑ 死者 追善 を 目 指し ての 造像 とみ られ る︒ そこ で︑ 塑造 とし て造 像さ れた 本像 に関 して 想像 を逞 しく する なら ば︑ 前記 した よう な 杲 守と の関 連か らし て︑ その 骨灰 が塑 土に 混入 され てい るの では なか ろう かと いう もの であ る︒ 近年
︑骨 灰が 塗布 さ れ てい るこ とが 確認 され た像 とし て︑ 高野 山金 剛峯 寺の 不動 明王 立像 と奈 良・ 金峰 山寺 の釈 迦如 来立 像が ある が︑ い ず れも 木彫 に塗 布さ れて いる
︒中 世に おけ る遺 骨や 骨灰 につ いて の研 究は 様 々 な 成果 を 生 み出 し て いる が!
︑基 本 的 に 中世 が木 彫の 時代 であ るこ とか らす れば
︑木 彫を 基本 とし てそ こに 塗布 する こと や︑ 納入 する とい うこ とも 当然 と い えば 当然 の手 法で あろ う︒ 金剛 峯寺 像に つい ては 像高 二五 八
!
の巨 像に 納入 され てい る像 に骨 灰と 見ら れる 白い 塗 布 物が かけ られ てい る︒ 金峰 山寺 像に つい ては︑像 内の 内刳 り面 に広 く塗 布さ れて いる もの で︑ 光明 真言 土砂 加持 と
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 418 ―
の 関連 が推 測さ れて いる
!
︒ この よう にみ てく ると
︑弘 法大 師像 を木 像と し︑ 本像 を塑 像と した につ いて は︑ 開眼 供養 をし た守 快が
︑杲 守の 追 善 を︑ ある 意味 では 壮大 な形 で遂 げよ うと
︑杲 守を 淳祐 内供 にな ぞら える 形で
︑そ の骨 灰な どを 用い なが ら造 像し た の では ない かと 想定 する
︒一 連の 事業 の中 で︑ 技法 を大 きく 違え る理 由は
︑ま さに 守快 によ る杲 守へ の敬 愛が 現れ た も のと 解し てお きた い︒ 結び
に か えて 近年
︑中 世の 石山 寺に 関わ る研 究が
︑総 合調 査の 進展 など によ る資 料の 公示 によ って
︑進 みつ つあ るが
︑多 くの 古 代 彫像 が現 存す る石 山寺 の美 術研 究が
︑古 像を 中心 とし て 進め ら れ てき た に つい て は 致 し方 の な いこ と で あ ろう し
︑ そ れは 当然 の事 なが ら︑ 優れ た成 果を 生み 出し 続け てい る︒ 当稿 は︑ 木造 弘法 大師 坐像 の墨 書の 確認 によ って
︑本 像 の 位置 づけ も再 考さ れる 必要 が生 じる と考 え︑ 蛮勇 をふ るっ て仮 説を 提示 して みた
︒ 中世 にお ける 石山 寺の 研究 が︑ 古代 にお ける その 創建 など に関 わる 研究 と比 較す るな らば
︑決 して 進ん でい ると は い え な い︒ その な か で︑
﹃石 山 寺 縁 起絵 巻
﹄が 制 作さ れ る につ い て の 事情 が
︑中 世 石山 寺 研 究 の 先 端 を 進 ん で お り
︑ 絵 巻物 研究 など に︑ 多く の業 績が あげ られ てい る︒ 同時 に︑ 真言 寺院 や東 大寺 など との 関係 を視 野に 入れ た研 究な ど も 現れ てい るが
︑そ れら を総 体と して 捕え てゆ くよ うな 視点 が必 要と なろ う︒ 当稿 は︑ 資料 研究 の限 界も ある とは い え
︑ま こと に中 途半 端で
︑推 測に 推測 を重 ねな がら
︑証 明の 難し い仮 説を 提示 する よう な仕 儀と なっ たが
︑よ り精 度 の 高い 本像 の研 究を 目指 すこ とと した い︒ 論点 は多 岐に わた るも ので あり
︑識 者・ 先学 のご 教示 を待 ちた い︒
― 419 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
註
⑴ 大 本 山 石 山 寺
﹃ 石 山 寺 の 古 建 築
﹄︵ 二
〇
〇 六 年
︶︒
⑵
﹃ 重 要 文 化 財
﹄ 編 纂 委 員 会 編
﹃ 解 説 版 重 要 文 化 財 3 彫 刻
﹄︵ 一 九 八 一 年 毎 日 新 聞 社
︶︒ 重 要 文 化 財 指 定 に つ い て は
﹁ 塑 造 淳 祐 内 供 坐 像
︵ 所 在 御 影 堂
︶ 一 軀 像 内 に 明 徳 三 年 地 蔵 摺 仏
︑ 明 徳 四 年 塔 婆 形 木 札 及 び 願 文 経 巻 等 を 納 め る 台 座 裏 面 に 応 永 五 年 閏 四 月 廿 七 日
︑ 普 賢 院 御 影
︑ 開 眼 供 養 訖
︑ 座 主 僧 正 守 快 の 銘 が あ る 滋 賀 県 大 津 市 石 山 寺 辺 町 石 山 寺 像 高 七 七
・ 六! 室 町 時 代
﹂ と あ る
︒
⑶ 展 覧 会 場 で の 検 討 な ど に よ っ て
︑ 現 在 表 面 の 剥 落 留 め な ど を 中 心 と し た
︑ 保 全 の た め の 文 化 財 修 理 が 行 わ れ て い る
︵ 二
〇 一 五 年 十 一 月 時 点
︶︒
⑷ 当 稿 を な す に つ い て は
︑ 石 山 寺 当 局 と
︵ 公 財
︶ 日 本 美 術 院 国 宝 修 理 所
︑ 滋 賀 県 教 育 委 員 会 文 化 財 保 護 課 の ご 協 力 に よ り
︑ 昭 和 三 七 年 度 に 実 施 さ れ た
︑ 本 像 の 修 理 報 告 書 な ど を 披 見 で き た
︒ 拙 稿 の 本 像 に 関 わ る 概 要 記 述 は
︑ 大 半 を こ の
﹁ 重 要 文 化 財 修 理 報 告 書
﹂︵ 以 下
﹁ 報 告 書
﹂ と す る
︶ に 負 っ て い る
︒ た だ し
︑ 本 稿 で の 文 責 が 筆 者 に あ る こ と は い う ま で も な い
︒
⑸ 法 量 の 細 目 は
﹁ 報 告 書
﹂ の 数 値 を 記 し て お く
︵ 単 位 は!
︶︒ 像 高 七 七
・ 八
︑ 頂
│ 顎 二 五
・ 七
︑ 面 幅 一 四
・ 二
︑ 耳 張 一 八
・
〇
︑ 面 奥 一 九
・ 二
︑ 胸 奥 二 二
・ 八
︑ 腹 奥 二 五
・
〇
︑ 肘 張 五 七
・ 二
︑ 袖 張 九 一
・
〇
︑ 膝 張 六 四
・ 九
︑ 膝 奥 四 二
・ 六
︑ 膝 高 二 二
・ 八
︒
⑹ こ の 新 調 箱 の 写 真 が 残 さ れ て お り
︑ 蓋 表 の 墨 書 は 以 下 の と お り
︒
﹁ 明 徳 四 年 の 小 塔 婆 十 七 枚 破 損 五 枚 大 徳
/ 淳 祐 内 供 尊 像 大 修 理 の 際 体 内 よ り 発 見
/ せ り 今 回 新 調 の 箱 に 入 れ 体 内 に 納 む 令 法 久 住 利 益 萬 人 国 家 安 全 を 守 護 し 給 へ 座 主 大 僧 正 光 遍
﹂
⑺
﹁ 報 告 書
﹂ に は
︑ こ の 納 入 品 に つ い て 以 下 の よ う に 記 述 し て い る
︒
﹁ 胎 内 よ り 明 徳 四 年 の 墨 書 あ る 納 札 二 四 点
︵ 完 存 の も の 一 七 枚
︑ 破 損 の も の 五 枚
︶/ 大
︑ 長 三
〇
・ 八!
巾 一
・ 九! 厚
〇
・ 四!
/ 中 1
︑ 長 二 四
・ 九!
巾 一
・ 三!
厚
〇
・ 三!
/ 中 2
︑ 長 二
〇
・ 七!
巾 二
・ 二!
厚
〇
・ 三!
/
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 420 ―
小
︑ 長 一 五
・ 六!
巾 一
・ 五!
厚
〇
・ 五! 地 蔵 印 仏
︑ 明 徳 三 年 正 月 一 日 の 墨 書 一 巻 を 発 見 す
︒
/ 一 張 の 長 さ 四
・ 一!
巾 七! 巻 い た 径 四!
﹂
⑻ な お
︑ 15 塔 婆 形 木 札 に は
﹁ 明 徳 二 年 七 月 三 日
﹂ と 判 読 で き る も の が あ る が
︑ や や 難 読 で あ り
︑ こ の 年 の 遺 物 が み ら れ な い こ と も あ り
︑﹁ 二 二
﹂ の よ う な 記 述 で あ っ た か と 推 測 し た
︒ 従 っ て 作 成 時 期 は
︑ 前 記 し た 約 一 年 半 と 理 解 し て お く
︒
⑼
﹃ 大 日 本 史 料
﹄ の 索 引 等 に よ っ て 検 索 し た 結 果 に よ っ て い る
︒ 以 下
︑ 出 典 を 特 に 断 ら な い 場 合
︑﹃ 大 日 本 史 料
﹄ に よ っ て い る
︒
⑽
﹁ ト 函
/ 六 四
/ 良 快 八 条 院 々 町 給 主 職 請 文
﹂︵
﹃ 京 都 府 立 資 料 館 東 寺 百 合 文 書 W E B
﹄︶
︒ 以 下
︑ 良 快 署 名 の 比 較 検 討 に 関 す る 東 寺 百 合 文 書 の 出 典 は
︑ す べ て こ の W E B サ イ ト に よ る
︒
⑾
﹁ ノ 函
/ 九 六
/ 籠 衆 方 試 講 布 施 支 配 状
﹂︒
⑿
﹁ チ 函
/ 四 九
/ 山 城 国 拝 師 庄 未 進 年 貢 注 文
﹂︒
⒀
﹁ よ 函
/ 八 九
/ 勧 学 会 試 講 布 施 支 配 状
﹂︒
⒁ 応 永 十 二 年 五 月 十 八 日 条
﹁ 伊 予 法 眼 良 快 跡 家 沽 却 事
/ 彼 小 庵
︑ 今 度 刻良
快 法 眼
︑ 去 月 十 一 日 他 界
立 之
︵ 以 下 略
︶﹂ と あ る
︒ 伊 藤 俊 一
・ 近 藤 俊 彦
・ 富 田 正 弘
﹃ 東 寺 廿 一 口 供 僧 方 評 定 引 付
﹄ 第 一 巻
︵ 二
〇
〇 二 年 思 文 閣 出 版
︶︒
⒂
﹁ 応 永 十 四 年 真 言 院 後 七 日 御 修 法 請 僧 等 事
﹂ に
﹁ 大 行 事 法 橋 良 快
﹂ と あ り
︑﹁ 応 永 十 六 年 真 言 院 後 七 日 御 修 法 請 僧 等 事
﹂ に
﹁ 大 行 事 法 眼 良 快
﹂ と あ る
︵﹁ ふ 函
/ 五
/ 一 五
/ 真 言 院 後 七 日 御 修 法 請 僧 交 名
﹂﹃ 京 都 府 立 資 料 館 東 寺 百 合 文 書 W E B
﹄︶
︒
⒃ 長 谷 法 壽
﹁ 石 山 寺 の 弘 法 大 師 坐 像 に つ い て
│ 南 北 朝 時 代 の 在 銘 彫 刻 の 一 例
│
﹂︵
﹃ 大 法 輪
﹄ 六 九
│ 八 二
〇
〇 二 年
︶︒
⒄ な お 玉 眼 内 部 の 紙 裏 に
﹁ 再 䌡 康 英 敬 白
/ 于 時 慶 長 七 年 八 月 吉 日
﹂ と あ り
︑ 少 な く と も 慶 長 七 年 に 頭 部 が 解 体 さ れ た と み ら れ る
︒
⒅
﹃ 石 山 要 記
﹄ 第 二 仏 像 部
︵ 石 山 寺 文 化 財 綜 合 調 査 団
﹃ 石 山 寺 資 料 叢 書 寺 誌 篇 第 一
﹄ 二
〇
〇 六 年 法 蔵 館
︶
﹁
・ 法 華 堂 祖 師 像
/ 今 御 影 堂 所 安 置 者
︑ 中 央 弘 法 大 師
︑ 右 良 弁 僧 正
︑ 左 内 供 淳 祐 也
︑ 往 古 以 普 賢 院 為 御 影 堂
︑ 安 置 祖 像 修 行 影 供
︑ 其 院 顛 倒 之 後
︑ 以 法 華 堂 為 御 影 堂
︑ 但 近 世 大 師
・ 内 供 二 祖 像 許 而
︑ 於 良 弁 僧 正 者 近 世 加 之
︑ 大 師
・ 内 供 共 以 塑 像 也
︑ 良 弁 像 木 像 也
︑ 何 時 代 造 立 歟 不 詳
︑ 年 序 推 移
︑ 破 壊 尤 甚
︑ 早 可 加 修 理 者 也
﹂︒
⒆
﹃ 古 事 談
﹄﹁ 巻 第 三
﹂︑
﹃ 平 家 物 語
﹄﹁ 巻 十 高 野 の 巻 の 事
﹂ な ど
︒ 因 に
︑﹃ 古 事 談
﹄ の 記 事 は
﹁ 弘 法 大 師 御 入 定 之 後
︑ 経 八 十 余 年
︑ 般 若 寺 僧 正 観 賢 参 入 奥 院
︑ 御 衣 ヲ 奉 令 着 改
︒ 被 奉 剃 御 髪 ケ リ
︑ 其 時 僧 正 弟 子 石 山 内 供 奉 淳 祐 ハ 不 奉 見 云 々
︑ 仍 僧 正 淳 祐
― 421 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について
ノ 手 ヲ 取 テ サ グ リ マ 井 ラ セ マ イ ラ レ ケ ル
︑ 其 手 ハ 一 生 之 間 カ ウ バ シ カ リ ケ リ
︑ 其 後 更 無 臨 参 廟 院 之 人 云 々
追 記 云
︑ 石 山 聖 教 ハ 于 今 薫 香 甚 也 云 々
︑ 是 淳 祐 之 手 ヲ 触 之 故 也 云 々
︑
﹂ と あ る
︒
⒇
﹃ 扶 桑 略 記
﹄ 治 安 三 年
︵ 一
〇 二 三 年
︶ 十 月 二 三 日 条
﹁ 僧 正 被 申 云
︑ 大 師 入 定 之 後
︑ 漸 欲 二 百 年
︑ 廟 堂 殊 不 開 闔
︑ 而 先 季 有 石 山 僧 淳 祐 者
︑ 安 住 一 念
︑ 斯 以 百 日
︑ 午 時 廟 堂 之 戸 無 人 少 開
﹂ と あ る
︒
!
﹃ 石 山 寺 僧 宝 伝 甲 本
﹄︵ 石 山 寺 文 化 財 綜 合 調 査 団
﹃ 石 山 寺 資 料 叢 書 寺 誌 篇 第 一
﹄ 二
〇
〇 六 年 法 蔵 館
︶︒
"
淳 祐 の 出 自 に つ い て は
︑ こ れ を 菅 原 氏 と す る 一 方 で
︑﹃ 尊 卑 分 脈
﹄︵ 国 史 大 系
︶ や
﹃ 五 八 代 記
﹄︵ 大 日 本 史 料 一
│ 九
︶ で は 嵯 峨 源 氏 に 出 自 を 求 め て い る
︒ ま た
︑﹃ 石 山 寺 縁 起 絵 巻
﹄ の 巻 第 二 の 第 六 段 で は
﹁ 普 賢 院 の 内 供 淳 祐
従 五 位 下 漑 男 也
﹂ と し て い る が
︑ こ れ は
﹃ 尊 卑 分 脈
﹄ に 淳 祐 の 父 と さ れ る
︑ 源 融 の 弟 勤 の 子 激 と 同 一 人 で あ ろ う
︒ 当 然
﹃ 尊 卑 分 脈
﹄ に は
︑ 菅 原 淳 茂 の 子 や そ の 周 辺 に 淳 祐 の 名 前 は 見 い だ さ れ な い
︒ 即 ち
︑﹃ 石 山 寺 縁 起 絵 巻
﹄ で は
︑ 淳 祐 内 供 は 菅 原 道 真 の 孫 と は 認 識 さ れ て い な い と い う こ と に な る
︒
#
﹃ 三 国 祖 師 影
﹄︵ 大 正 新 脩 大 蔵 経 図 像 一
〇
︶︒
$
﹃ 尊 卑 分 脈
﹄ な ど
︒﹃ 石 山 寺 年 代 記 録
﹄︵ 石 山 寺 文 化 財 綜 合 調 査 団
﹃ 石 山 寺 資 料 叢 書 寺 誌 篇 第 一
﹄ 二
〇
〇 六 年 法 蔵 館
︶ で は 守 快 に つ い て
﹁ 杲 守 僧 正 附 法 同 舎 弟 也
﹂ と し て い る
︒
%
﹃ 石 山 寺 の 研 究 校 倉 聖 教
・ 古 文 書 篇
﹄ 第 一 函 一 二
︵ 石 山 寺 文 化 財 綜 合 調 査 団 二
〇
〇 六 年 法 蔵 館
︶︶
︒
&
こ こ で は
︑ 以 下 の 先 学 の 論 考 を 参 考 に し た
︒ 梅 津 次 郎
﹁ 石 山 寺 縁 起 絵 に つ い て
﹂︵
﹃ 日 本 絵 巻 物 全 集
﹄ 第 二 二 巻 一 九 六 六 年 角 川 書 店
︶︒ 吉 田 友 之
﹁﹃ 石 山 寺 縁 起 絵
﹄ 七 巻 の 歴 程
﹂・ 木 下 政 雄
﹁﹃ 石 山 寺 縁 起
﹄ の 筆 者 に つ い て
﹂︵ 小 松 茂 美 編
﹃ 日 本 絵 巻 大 成 第 一 八 巻 石 山 寺 縁 起
﹄ 一 九 八 八 年 中 央 公 論 社
︶︒ 相 澤 正 彦
﹁ 石 山 寺 縁 起 絵 巻 の 五
〇
〇 年
﹂︵ 滋 賀 県 立 近 代 美 術 館
﹃ 石 山 寺 縁 起 絵 巻 の 全 貌
﹄ 二
〇 一 二 年
︶︒ '
﹃ 東 寺 長 者 補 任
﹄︵ 群 書 類 従
︶︑
﹃ 石 山 寺 年 代 記 録
﹄ な ど
︒ ( 西 尾 知 己
﹁ 弘 安 徳 政 と 東 大 寺 別 当 の 性 格 変 化
﹂︵
﹃ 史 観
﹄ 一 五 六 二
〇
〇 七 年
︶︑ 西 田 友 広
﹁ 鎌 倉 後 期 の 石 山 寺 と 権 門 寺 院
﹂
︵﹃ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 研 究 紀 要
﹄ 一 八 二
〇
〇 八 年
︶︒ )
﹃ 愚 管 記
﹄︵ 大 日 本 史 料 六
│ 二 九
︶﹁ 六 月 十 八 日
︑ 丁 巳
︑ 晴
︑ 伝 聞
︑ 石 山 座 主 杲 守 僧 正 輿 満 寺 々 僧 確 執
︑ 去 十 三 日 夜 僧 正 坊 人 数 輩 為 寺 僧 被 殺 害
︑ 大 略 無 残 所
︑ 於 僧 正 者 被 幽 閉 寺 中 云 々
﹂︒
* 当 稿 で 参 照 し た 文 献 に つ い て は 以 下 に よ る
︒ 狭 川 真 一
﹁ 中 世 の 火 葬
︑ そ の 初 期 の 形 態
﹂・ 藤 澤 典 彦
﹁ 中 世 に お け る 火 葬 受 容
石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について ― 422 ―
の 背 景
﹂︵ 狭 川 真 一 編
﹃ 墓 と 葬 送 の 中 世
﹄ 二
〇
〇 七 年 高 志 書 院
︶︒ 大 喜 直 彦
﹃ 中 世 び と の 信 仰 社 会 史
﹄﹁ 第 一 部 第 五 章 生 命
・ 身 体 と し て の 遺 骨
│ 親 鸞 遺 骨 墨 書 発 見 に よ せ て
│
﹂︵ 二
〇 一 一 年 法 蔵 館
︶︒ 近 江 の 遺 跡 を 扱 っ た も の と し て
︑ 多 賀 町 教 育 委 員 会 編
﹃ 敏 満 寺 遺 跡 石 仏 谷 遺 跡
﹄︵ 二
〇
〇 五 年 サ ン ラ イ ズ 出 版
︶ が あ る
︒
! 神 田 雅 章
﹁ 金 峰 山 寺 釈 迦 如 来 立 像 に つ い て
│ 修 理 報 告 を か ね て
│
﹂︵
﹃ 鹿 園 雑 集 奈 良 国 立 博 物 館 研 究 紀 要
﹄ 一
〇 二
〇
〇 八 年
︶︒ 追 記 当 稿 を な す に あ た り
︑ 大 本 山 石 山 寺 座 主 鷲 尾 遍 隆 猊 下 よ り 格 別 の ご 高 配 を 賜 っ た
︒ ま た 石 山 寺 鷲 尾 龍 華 師 に は
︑ 塔 婆 形 木 札 の 真 言 等 に つ い て そ の 判 読 を し て 頂 き
︑ ま た 種 々 の ご 教 示 を 賜 っ た
︒ そ の 墨 書 の 判 読 に つ い て は
︑ 滋 賀 県 立 琵 琶 湖 博 物 館 橋 本 道 範 氏
・ 渡 邉 潤 子 氏 よ り ご 指 導 を 得 た
︒ ま た
︵ 公 財
︶ 美 術 院 国 宝 修 理 所 所 長 藤 本 菁 一 氏 を は じ め
︑ 修 復 部 長 岩 下 淳 氏
︑ 技 師 門 脇 豊 氏 に は
︑ 現 在 修 理 中 の 現 場 で ご 教 示 を 賜 る と と も に
︑ 前 回 の 修 理 に つ い て の 資 料
・ 報 告 書 に つ い て も ご 高 配 を 賜 っ た
︒ 関 連 す る 諸 像 に つ い て は
︑ 高 野 山 霊 宝 館 宮 崎 隆 仁 師
︑ 奈 良 県 教 育 委 員 会 神 田 雅 章 氏 よ り
︑ 貴 重 な 情 報 を ご 教 示 頂 い た
︒ 末 筆 に て 恐 縮 な が ら
︑ 心 か ら お 礼 を 申 上 げ た い
︒ 重 要 文 化 財 塑 造 淳 祐 内 供 坐 像 1
│ 4 の 写 真 は
︑ 寿 福 滋 氏 の 撮 影 に よ る
︒ そ れ 以 外 は
﹃ 報 告 書
﹄ の 写 真 を 用 い た
︒
― 423 ― 石山寺・塑造淳祐内供坐像の造像について