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いわき・龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像

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Academic year: 2021

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著者 若林 繁

雑誌名 東京家政大学博物館紀要

巻 17

ページ 55‑63

発行年 2012‑02

出版者 東京家政大学博物館

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010335/

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〔東京家政大学博物館紀要 第17集 p.55〜63, 2012〕

Sitting Wooden Statue of Kokuzou-bosatsu in Iwaki · Ryumonji Temple Shigeru W

akabayashi

若林 繁

いわき・龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像

はじめに

 現在の福島県いわき市域には、中世を通して好嶋庄があった。「岩城八幡宮縁起注進状案」(註1)

によれば、八幡宮は文治 2 年(1186)7 月に岩清水八幡宮より御正躰を捧げ、8 月に好嶋郷に下着、

御社を赤目崎見物岡(平城跡の地)に建立したのに始まる。好嶋庄は八幡宮御領であった。しかし これは名目上で、実質は関東御領と考えられている。岩城氏は常陸大掾平国香の後裔安忠を始祖と し、岩城氏を名乗るようになったのは、その子孫則道、または成衡といわれている。成衡は初め隆 行と称し、後に成衡につくるともいわれている。初祖については、いくつかの説がある。代々いわ き地方に根を張り、文治5年(1189)の源頼朝による平泉の奥州藤原攻めに際し、戦功をあげ、所 領の安堵が認められ地頭として好嶋庄の実権を握っていた。そして好嶋庄を岩清水八幡宮に寄進し ている。(註2)龍門寺はいわき市平下荒川の地にあり、「岩城世家」(註3)によれば朝義(応永14 年<1407>卒)より親隆(文禄3年<1594>卒)に至る9代の岩城氏の菩提所となったという。岩 城氏と縁の深い寺院で、木造虚空蔵菩薩坐像は開山堂に安置されている。この像は小像ではある が、岩城氏及び当寺の創建とも関わりのある尊像と考えられ、ここに紹介するものである。なおこ の像は東日本大震災により、大きな損壊を蒙った。あわせて被害の状況についても報告しておきた い。

1 像の概要

 像高が 24・6㎝(註 4)である。垂髻とし、宝冠を戴く。天冠台(二条の紐)を彫出し、頭髪を 毛筋彫とする。鬢髪が一条耳上をわたる。白毫相をあらわす。耳朶を貫く。三道を彫出する。胸飾 をつける。腹前に下衣の一部をあらわす。右肩、右腕に覆肩衣をかけ、右胸下で一度衲衣にたくし 込み、右前膊部にかかり体側に垂下する。衲衣は左肩を覆い右肩に少しかかり、右腋下を通り、再

造形表現学科 日本・東洋美術史研究室

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び左肩から左上膊部にかかり背面に垂下する。左手屈臂して前に出す。右手屈臂して膝上におき、

五指をまげて剣をとる。右足を上にして結跏趺坐する。

 割矧造で、玉眼を嵌入する。肉身部に漆箔、衣部には盛上彩色を施す。白毫水晶製嵌入。宝冠、

胸飾はそれぞれ銅製透彫鍍金で、剣は銅製鍍金とする。詳しい構造は、頭体幹部を通して一材で彫 出し、頭頂より両耳後、体側を通る線で前後に割矧ぐ。内刳を施す。三道下で頭部を割矧ぐ。両体 側腰部で前後材とも一部を彫り残して、束をあらわし緊結する。両肩先より地付きまで通して、竪 に各一材を体側に矧ぐ。脚部は横に一材を矧ぎ、脚部の造形に沿って像底より浅い内刳を施す。深 さは右膝部で最大 2・6㎝。裳先を矧ぐ。左前膊袖口部は一材を脚部材の上に矧ぎ、左手首を袖口 に差し込み矧ぎとする。右前膊袖口部上半も一材を脚部材の上に矧ぎ、右手首を袖口に差し込み矧 ぎとする。垂髻部は一材で彫出し、頭頂に竹釘で矧ぐ。像底に蓋板をあてる。衣部の盛上彩色は現 状では背面によく残り、田相部は無文であるが、条葉部には唐草文、卍繋ぎ文が施され、左肩部に 花文がみられる。

 保存状態は、肉身部の漆箔、宝冠、胸飾、右手持物、像底の蓋板などは後補で、左手首より先は 失われ、垂髻部の矧ぎ寄せははずれる。

2 龍門寺の創建

 「磐城風土記」(註 5)によれば、龍門寺は曹洞宗で荒川村にあり、岩城常朝が創建し、珠鷹がこ こに住んだと、簡単な記述があるに過ぎない。『寛政重修諸家譜』の「岩城系図」の朝義の条には、

龍門寺 木造虚空像菩薩坐像 正面 龍門寺 木造虚空蔵菩薩坐像 背面

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いわき・龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像

朝義は応永14年(1407)に岩城において卒し、荒川の龍門寺に葬るとあり、

  龍門寺は朝義が開基する所なり

と記されている。「岩城世家」には、龍門寺の草創についてやや詳しく書かれている。ここでは隆 行を岩城氏の祖としており、この代に常陸の府中から奥州に移り、藤原清衡に身を投じ、その女を 娶ったという。隆行の卒した後、妻は出家し徳尼といい、白水阿弥陀堂を建立したと伝える。『寛 政重修諸家譜』の「岩城系図」では隆行の卒した年を永暦元年(1160)としている。『続群書類従』

第 6 輯上所載の「磐城系図」も、隆行についてほぼ同様の内容を伝えている。さらに「岩城世家」

には隆行は虚空蔵薩埵を城の西に安置して、国城の鎮護とし祈ったという。

 隆行の 6 代の苗裔が朝義で、明徳 3 年(1392)正月に病気に罹ったとき、また同様に虚空蔵大士 に病気平復を祈ったという。そして夢のお告げがあり、青岑という高僧が好間の地にあり、早く彼 地に梵刹を建てて我が像を安置すれば、所願を満足させるのみならず、彼地は仏門の霊場となり、

子孫も幸福になり武運も悠久になるであろうといわれたとある。その後、龍門寺を下好間の内之草 に造営したが、青岑の教えにより応永 11 年(1404)に寺を今の龍之沢の地に移したという。とこ ろが落成する前に朝義は卒してしまう。応永 14 年(1407)11 月のことであった。朝義の跡を継い だのが常朝で、父の志を継いで応永16年(1409)に龍門寺を龍之沢に落成させたという。そして   本山の殿堂門廡一として公の力に憑らざる莫きなり

とあり、龍門寺の伽藍は一つとして常朝の力によらないものはないといっている。応永 14 年に朝 義が卒して後、常朝が造営事業を継承し、同 16 年に完成させたのであるが、龍門寺の実質的な造 営は常朝が行ったといえるであろう。応永 17 年(1410)年 8 月に常朝は卒する。「岩城世家」の記 載内容は伝説的な部分も多く、すべてを信じることはできないであろう。しかし古くより岩城氏に は虚空蔵菩薩に対する信仰があったこと、龍門寺の草創に関しても朝義が造営を始め、常朝が応永 16 年に完成させ、虚空蔵菩薩像を安置したことなどは、ある程度認めてもよいのではなかろうか。

さらに虚空蔵菩薩像は、朝義が病気平癒を祈願した尊像で、朝義の個人的な信仰の対象であったこ とが推察される。それが祖隆行の安置した虚空蔵菩薩像ではないにしても、岩城氏、あるいはいわ き地方に虚空蔵菩薩信仰が代々受け継がれ定着し、朝義もその信仰を保持していたことは十分に考 えられるところであろう。

 いわき地方には、平下高久や平塩の虚空蔵堂に虚空蔵菩薩坐像(註 6)が伝えられている。下高 久虚空蔵堂像は像高が 86・2㎝で、寄木造、彫眼、彩色で、像根幹部の構造は単髻上より両耳後、

体側を通る線で、頭体通して地付きまで前後に二材を矧ぎ合わせ、地付きより 9・5㎝の高さで上 底式の像底をつくる。もっとも単純な寄木造の技法でつくられており、造形にも地方的なところが ある。しかし両頬の肉付けをそいだような顔貌には充実感があり、体躯の奥行もあり重厚さがみら れる。鎌倉時代の13世紀後半の造立と考えられるのである。塩虚空蔵堂像は像高が67・4㎝で、一 木造で彫眼とし、現状では胡粉地が残るが、これは後補のものと考えられ、当初は素地仕上げで あったものであろう。両肘より先も後補である。基本的な構造は宝冠及び髻頂より頭体通して、両 手上膊部をも含んで地付きまで一材で彫出する。内刳は像底より脚部の高さまで施される。脚部は

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横に一材を矧ぎ、像底より浅い内刳を施す。この像には像底より施された内刳の腰部背面や脚部裏 に墨書銘があり、康永4年(1345)の年号が記されており、この年の造立と考えられる。一木造の 技法からもわかるように、この像は地方的作風を示す。下高久虚空蔵堂像より一層地方化が進んで いるようである。両頬の張った顔貌には厳しさがあり、古様でさえある。条帛や裳に細かな衣文を 刻まないところも地方的である。両像は技法や造形がともに在地化し、鎌倉時代から南北朝時代に かけて虚空蔵菩薩像の在地化した遺品があらわれてくることは、この時代に虚空蔵菩薩信仰がこの 地方に根付いていたことを示唆しているものといえよう。朝義も、このような信仰的環境の中で、

虚空蔵菩薩像への祈願を深めたものと思われる。

 なお『岩城郡誌』(註 7)にある龍門寺の縁起では常朝が龍門寺を創建し、修造なかばにして逝 去したので、子の清胤が継いで竣工したとある。しかし『寛政重修諸家譜』の「岩城系図」にも朝 義が開基したとあり、「岩城世家」には詳しく創建の経緯が述べられている以上、朝義、常朝の代 に龍門寺が建立されたと考えるべきであろう。「磐城風土記」も常朝の創建としているが、これは 実質的な造営が常朝の代であったところから導き出されたものと考えられる。

3 造立年代について

 龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像は小像ではあるものの、両頬の肉付けにはふくよかな張りがあり、

表情を引き締めている。体躯は横幅もあり、がっちりとして安定感がある。脚部をめぐる衣文も太 い襞と細い襞を配し、複雑な曲線を描きながら太い襞は粘り強く彫られている。複雑な衣文の彫出 であるにもかかわらず、破綻なくまとめ上げられている。頭体幹部通して一材で彫出し前後に割矧 ぎ、内刳し、三道下で頭部を割矧ぎ、両体側腰部で束をあらわす割矧造の技法も洗練されている。

さらに背面に残る盛上彩色も、唐草文や卍繋ぎ文が明確に強い線をもって描かれる。この像の作者 は、中央の仏師と考えられるのである。

 いわき市小名浜住吉の保福寺本堂本尊の木造薬師如来坐像は、像内に墨書銘がある。一部判読で きないところもあるが、干支などから正中3年(1326)と解され、この年の造立と考えられる。仏 師は「院誉」と読める。この像は像高が50・8㎝で、割矧造で、玉眼を嵌入し、盛上彩色が施され る。詳しい構造は頭体幹部通して一材で彫出し、両耳後より体側を通る線で前後に割矧ぐ。内刳を 施し、襟の線で頭部を割矧ぐ。地付きより 1・7㎝の高さで像底部を棚状に彫り残し、上底式の像 底をつくる。両肩先より地付きまで通して、竪に各一材を体側に矧ぐ。脚部は裳先をも含んで横に 一材を矧ぎ、像底より脚部の造形に沿って浅い内刳を施し、深さは頭体材と同じ高さに及ぶ。脚部 材は左右各一本の長方形の通い枘で体躯に緊結し、右体側材も脚部側と体幹部側に各一本の長方形 の通い枘で緊結する。左体側材も同様と考えられる。両手前膊袖口部は各別材を脚部材の上に矧 ぎ、両手前膊部下半を各袖口に差し込み矧とし、両手首をそれぞれ矧ぐ。

 麻布貼錆漆地盛上彩色とし、衲衣条葉部には草花文を盛上彩色であらわし金泥を塗る。田相部に は切金で雷文繋ぎ文をあらわし、衲衣の左肩から左上膊部にかかるところに鳳凰文を盛上彩色であ らわし、その裏に切金で立涌文を施す。覆肩衣の右手外側垂下部には切金の七宝繋ぎ文を地文と

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いわき・龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像

し、団花文を盛上彩色であらわす。おとなしい静かな表情で、体躯をめぐる衣文は複雑に彫出され る。衣文の彫り込みは深く、太さもあり、写実的に仕上げられる。背面も同様で、やや固さはある ものの全体に神経の行き届いた造形がうかがえる。それは表面の仕上げにもあらわれており、盛上 彩色や切金などが多用され、精緻さをみせている。鎌倉時代末期の正統的な仏師の作であること が、造形や仕上げなどから了解できるであろう。

 須賀川市護真寺の木造釈迦如来坐像(註 8)は宝冠を戴き、法衣の裾や袖先を台座に垂らす法衣 垂下形式の像である。像高が31・8㎝で、同じく割矧造で玉眼を嵌入し、錆漆地に盛上彩色を施す。

根幹部の構造は、垂髻より頭体幹部通して地付きまで一材で彫出し、両耳後、体側を通る線で前後 に割矧ぎ、内刳を施す。三道下で頭部を割矧ぐ。両肩先より地付きまで通して、竪に各一材を体側 に矧ぎ、両体側材は像底を彫り残して上げ底式とする。脚部は横に一材を矧ぎ、像底より脚部の造 形に沿って浅い内刳を施す。衲衣の左肩から左上膊部にかかるところに鳳凰文が盛上彩色であらわ され、衲衣条葉部には六弁小花文がある。切れ長の両眼は薄く開き、鼻梁が短く口も慎ましく彫出 される。おとなしい表情で、気品さえ漂う。撫で肩の体躯はやや細く、衣文の彫出は浅い。胸部か ら腹部にかかる衣文には複雑な流れがあるものの、脚部の衣文表現は大まかで単調に彫出され、衣 は重々しく表現される。おとなしい気品のある表情は保福寺像と同様で、割矧造の技法、盛上彩色 を施すところも等しい。しかし護真寺像は衣文表現などが単調に流れ、形式的な側面もみられる。

造形や技法などから保福寺像の系統に属すものとみなされるが、造立年代は法衣の垂下形式や造形 から14世紀後半から末頃と考えられるのである。

 龍門寺像も保福寺、護真寺諸像の系統上にある遺品と考えられる。三像とも割矧造、玉眼嵌入、

盛上彩色の技法、仕上げは共通する。しかし造形には多少の相違も認められる。おとなしい表情は 保福寺 木造薬師如来坐像

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相通ずるが、保福寺像の両頬の肉付けはしまり、龍門寺像にはそこに豊かさがあり、幼さも加わ る。護真寺像に至ると弱々しさがあらわれてくる。体躯の造形では、保福寺像が自然なすがたにあ らわされており、背面では衣を通して肉身部の起伏がとらえられている。龍門寺像はがっちりとし て、台形状に角張っており固ささえみられる。護真寺像は撫で肩で細くなっている。体躯をめぐる 衣文表現においても、保福寺像が複雑に深く太く彫出され写実性に富むのに比べ、龍門寺像は複雑 さを保ちつつ彫りの深浅はつけられているが、形式化が進み、背面にそれが著しくあらわれてい る。護真寺像は衣文の彫出が一層浅くなり、特に脚部では大まかで単調さが目立つ。これらの違い は造立年代が異なることを示しているものと考えられ、龍門寺像は正中3年(1326)造立の保福寺 像よりは後で、14 世紀後半から末頃の造立とみられる護真寺像よりは先行する、南北朝時代の 14 世紀中頃の造立と考えられるのである。そこで次にこの時代のいわき地方と岩城氏を概観し、龍門 寺像の歴史的な位置について考えてみたい。

4 南北朝時代のいわき地方と岩城氏

 すでに好嶋庄内の各村々に地頭として力を扶植していた岩城、白土、好島などの岩城一族は、こ の時代に入ると大いに発展する。文和3年(1354)に岩城惣領隆泰は岩城郡国魂村内の田在家につ いて、国魂行泰とその妹及び岩崎高久新左衛門尉との相論を審理し、管領府に申告している。(註 9)応安 3 年(1370)には浦田好嶋田打引の田七町、ならびに在家六間につき、岩城惣領隆泰が伊 賀光政と好嶋隆義との相論を和与させている。(註10)応安6年(1373)には、「陸奥国岩城郡拾五 丁目内東之境ニ付、幷北目の境ニ付、合田十町、幷壱宇幾津禰か在家壱宇、六郎次郎入道か在家合 弐間」につき、伊賀光政と白土隆弘との相論を隆泰の籌策によって和与させている。(註 11)文和 3 年の頃に、隆泰は岩城惣領であるとともに、岩城郡の守護を伊賀盛光に代わってつとめていたと 考えられている。(註 12)さらに応安の頃には、伊賀氏の惣領光政に対しても、好嶋隆義や白土隆 弘との相論を和与させ、ここに伊賀氏と岩城氏の地位は逆転し岩城惣領がいわき地方を治めること になる。

 『寛政重修諸家譜』の「岩城系図」には常朝の初名を隆弘としている。この隆弘が応安 6 年に伊 賀光政と和与した白土隆弘とも考えられている。そして応永 17 年(1410)8 月に将軍足利義持が

「岩崎隆綱退治」について、岩城氏に与えた感状(註 13)の宛所が「岩城平次郎」となっている。

次郎は代々白土氏の襲名とも考えられており、これは白土氏で、白土氏はこのとき岩城一族を代表 する位置にあったといわれている。白土常朝(隆弘)は応安6年以後、卒去する応永17年までの間 に白土氏より岩城惣領家の地位についていたと推察されている。(註14)『続群書類従』第6輯上の

「磐城系図」には常朝について   應永十一爲當家郡主

とあり、応永 11 年(1404)に岩城氏の郡主、すなわち惣領となったことが記されている。先述の

「岩城世家」にも、同様のことが記されている。これは常朝が、応永17年までに惣領家の地位につ いたことを証明する一助となるであろう。

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いわき・龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像

 さて龍門寺の草創は朝義の造営着手に始まり、その遺志を継いで常朝が応永 16 年(1409)に完 成させた。応永 16 年の頃は、常朝が岩城惣領となりいわき地方を統治し、高揚した時期であった ことが知られる。応安6年以降に常朝は岩城惣領家の地位に昇っていき、応永17年までに岩城一族 の代表となっている。これから常朝の活躍した時期は、14 世紀の後半から 15 世紀初期の頃と考え られる。龍門寺の虚空蔵菩薩坐像の造立は、14 世紀中頃と考えられた。常朝の前の代の造立とい うことになり、『寛政重修諸家譜』の「岩城系図」などにある朝義の代にあたる。「岩城世家」によ れば、朝義の龍門寺の創建の動機を病気平復としている。これは伝承としても、岩城氏、あるいは いわき地方には鎌倉時代より虚空蔵菩薩信仰が定着し、朝義もそれを受け継いでいたと考えられ た。朝義は明徳3年(1392)に病気に罹ったとき、日頃より信仰していた虚空蔵菩薩像に平復を祈 願したということになる。現虚空蔵菩薩坐像こそ、朝義が造立し信仰していた虚空蔵菩薩像と考え られるのである。像高が24・6㎝で、これは一寺の本尊としては小さく、個人的な礼拝の対象とし てはふさわしい大きさといえるであろう。「岩城世家」の朝義の虚空蔵菩薩信仰、龍門寺の草創に ついての内容に、一応信頼を置くとすれば、この像は龍門寺建立の根本となった尊像といえる。こ の像を安置するために龍門寺の造営が始まり、それが朝義の代で、朝義の個人的な信仰から出発し たのであるから、当初の計画は大きな規模のものではなかったのかもしれない。最終的に一大寺院 として完成させたのが跡を継いだ常朝で、大寺院としての体裁を整えるに至るのは、常朝の岩城惣 領としてのいわき地方で頂点を極めた威勢を誇示するものと考えられるのである。

おわりに

 護真寺の釈迦如来像は、南北朝時代に白河から岩瀬郡にまで勢力を伸ばした結城氏との関わりか ら造立安置されたものと考えられた。結城氏のような在地の有力領主層は、この場合院派仏師と考 えられるが、中央仏師の手になる尊像を安置していたことが知られる。(註 15)龍門寺の虚空蔵菩 薩坐像も、岩城氏の力を強めていくときの造像で、やはり中央仏師の作と考えられた。保福寺や護 真寺の諸像とも技法や造形などに通じるところがあり、院派系の仏師とも考えられる。岩城氏も在 地の有力領主層で、結城氏と同様、中央仏師に造像を依頼していたことが知られるのである。特に いわき地方は中世には好嶋庄があり、鎌倉との繋がりが深いところであった。歴史的にも、中央、

鎌倉との交流に恵まれた環境にあったといえるであろう。岩城氏は代々当地方に勢力を保ち、南北 朝時代に大いに発展した。岩城氏の勢力の充実は中央との関係を強め、仏像彫刻にもそれが反映し ていったものと考えられる。中世の岩城氏に直接関係する具体的な遺品は多くはない。そのような 中で当虚空蔵菩薩坐像は貴重な尊像といえる。それが岩城氏に縁の深い龍門寺に伝えられてきたこ とに、価値がある。

1) 飯野文書 『福島県史』7 昭和41年3月

2) 『福島県史』1 第3編中世第1章武士団の成立第2節武士団と村落 昭和44年3月 註

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3) 高祖隆行より天正年中(1573 - 92)貞隆の病死までの記録 『福島県史料集成』第 2 輯 昭和 27 年 9月

4) 詳しい法量は以下の通りである(単位㎝)。

  髪 際 高 19・2 胸  奥 6・6   髻頂―顎 10・9 腹  奥 7・2   髪際―顎 4・9 肘  張 14・8   面  幅 4・6 膝  張 16・5   耳  張 5・3 膝  奥 13・3   面  奥 5・9 膝  高(左)   3・8   肩  張 11・5 (右)   4・2

5) 寛文9年(1669)頃平城主内藤帯刀の儒臣葛山為篤著 『福島県史料集成』第2輯 昭和27年9月 6) 拙稿 企画展『浜通りの仏像』 福島県立博物館 平成3年10月

7) 大正11年 磐城郡役所刊 歴史図書社再刊 昭和54年5月

8) 拙稿「宋風彫刻の地方への伝播―福島・長沼町護真寺の釈迦如来坐像―」『東洋美術史論叢』 平成 11年2月 雄山閣

9) 『福島県史』1 第3編中世第2章南北朝の動乱第2節動乱と各地域 昭和44年3月 10) 「伊賀光政和与状案」〔飯野文書〕『福島県史』7 昭和41年3月

11) 「白土隆弘請文」「伊賀光政請文案」〔飯野文書〕『福島県史』7 昭和41年3月 12) 註9参照

13) 「足利義持感状案」〔岩城氏累代之伝記所収文書〕『福島県史』7 昭和41年3月

14) 『福島県史』1 第3編中世第3章大名領主制の形成第2節大名領主の形成と各地域 昭和44年3月 15) 註8参照

〔付 記〕

 龍門寺木造虚空蔵菩薩坐像はもとより左手首より先を欠失し、垂髻部の矧ぎ寄せがはずれるなど、多 少の損傷はあったが、東日本大震災により全壊した。平成23年5月28日と同8月10日の2回にわたり調 査し、全壊の状況の記録、破損した各部材の整理などを行った。この像は開山堂の須弥壇上に安置され ており、そこより落下して全壊したのである。須弥壇の最下段までの高さが90・7㎝で、像の落下して いた場所は須弥壇より約 180・0㎝前方で、開山堂の入り口付近に達し、ここで一面に各部材が散乱し ていた。すなわちここまで飛んで、落下したものと思われる。

   損傷の状況

 一頭部の割矧ぎ部のうち前部ははずれ、後部は緩む。

 一体躯の各部の割矧ぎ部、矧ぎ寄せ部はほぼすべてはずれる。

 一体躯前後部材とも、ほぼ中央で左右に割損。

 一右体側部の束は折損。

 一光背、台座の矧ぎ寄せはほぼすべてはずれる。

 一光背周縁部はほぼ中央で左右に折損、同先端部も折損。

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いわき・龍門寺の木造虚空蔵菩薩坐像

龍門寺 木造虚空蔵菩薩坐像 被害状況(1)

同(2)

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参照

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○片谷審議会会長 ありがとうございました。.

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