遠山因幡入道坐像について
戦国期鎌倉日蓮宗の檀越
寺尾
英
智
はじめに
在地の寺院が発展していくヒで︑有力檀越は重要な存在である
開基檀越や中興など︑様々な形を取り寺院の歴史に名を刻んでいる
ことも多い.︑このような檀越を具体的に示すものの一つに︑画像や
彫像による檀越像がある一︺蓮宗における彫像の事例を掲げると︑
川崎市妙遠寺
鎌倉市妙隆寺
横須賀市大明寺
厚木市妙純寺
海老名市海源寺
千葉市本寿寺
身延町久遠寺
身延町端場坊
京都市常徳寺 小泉次太夫像千葉胤貞像石井則次夫妻像本間重連像大島正時像酒片定隆像波木井日円像
四条金吾夫妻像
後藤長乗夫妻像
福山市常國寺 渡辺氏歴代像
小 城市光勝寺 r葉胤貞像
ワなどがある 本稿では︑このような檀越として︑戦国期鎌倉の遠山
因幡入道を取り上げ︑その坐像について紹介したい︑
遠山氏は︑鎌倉長勝寺に御堂を建立した檀越である一一長勝寺には︑
この遠山氏の夫妻像が安置されていたことが江.戸時代の地誌一新編
鎌倉志一に記録されている一一方︑現在長勝寺に程近い安国論寺に
は︑日朗坐像が所蔵されるが︵以下︑安国論寺像という︶︑この安国
論寺像こそ︑記録された遠山因幡入道坐像であると考えられるので
あるそこで︑同像の特徴について検討を加えて位置づけを明らか
にし︑更に遠山氏の活動についても言及したい
安国論寺と共に日蓮の松葉谷草庵跡の一つであると伝承される中 ハノこ 長勝寺は︑京都本閣寺の旧地であるといい︑その発祥は妙法寺・
世 の
鎌倉において︑同寺は六条門流の拠点であったといえる一遠山
因幡入道坐像は︑同寺を支えた檀越︑さらには戦国期の鎌倉におけ
︐呈川因幡人道坐像について丁ソ厚ご
法華之化研究︵第四卜六号
マちザる日蓮宗のあり方を検討するための史料を提供することになるt︐
ペユリ
安国論寺像は︑法衣に五条袈裟を着けた法体の姿で合掌した坐像
である一法衣の形状は︑襟が三角状に立ち上がった僧綱襟がある僧
綱衣ではなく︑通常のものである︑寄木造で玉眼を嵌入し︑彩色仕
上
げとするが︑現状では彩色のかなりの部分が剥落する︵写真1二
像高は二九・ニセンチメートルを測る.脚部裏には︑次のような墨
書銘が存する︵写真2︶.
︵脚部裏・墨書︶
鎌倉名越谷
︵l/︷︶ 御堂
石井山口勝寺
建 立 大 檀那 俗名 遠山因幡
法名妙助尊儀
三寸 永禄ヒ牛二年
卯月廿二乱翌オ 施主敬
日口︵花押︶ 白
この銘文によれば︑鎌倉名越谷に所在する長勝寺の御堂を建立し
た遠山因幡法名妙助が︑永禄七年四月二十二日の巳刻︵午前十時こ
l
ろ︶に七十五歳で没したこと︑また︑口口が施主となり安国論寺像
を造立したことも分かる 造立の趣旨は︑遠山因幡の供養のためで
ヘニじあると理解される 施主となった目﹇11﹈は︑遠山因幡の近親であるな
ど関係が深い長勝寺の僧⌒住持に限らない︶が想定されようが︑未
詳である.
安国論寺像は︑m朗像であるとされるー.遠山因幡の供養のために
日朗像を造立するのであれば︑その趣旨が銘文に示されることがあっ
て良い しかしながら︑この像が日朗像であることは︑銘文に示さ
れ て いる訳ではなく︑専ら遠山因幡の事績のみが示されている従っ
て︑本像の像主は日朗ではなく︑遠山因幡であると考えられる法
体姿であることから︑入道していたことも分かる.法名は死去に際
して授けられたものではなく︑入道としてのものであろう
安国論寺像の衣体は︑前述したように通常の衣に五条袈裟を着け
て
いる︒日朗は日蓮の直弟子六老僧の一人であり︑池上本門寺・鎌
倉比企谷妙本寺の両山を本拠とする比企谷門流の祖である 日朗の
画像や彫像のうち︑年代的に遡るものには︑次のものがある
○
日朗画像 鎌倉時代・十四世紀 読経像 京都市本満寺所
へいゴ
蔵
︵ !︶ 日朗坐像 南北朝時代・十四世紀 合掌像 大田区本門寺 け−厄 丁主︐v
両像の衣体は共に僧綱衣に七条袈裟・横被を着けており︑天台
宗系として高位の僧の姿を取っている.さらに︑日朗を含め本山・
有力寺院の開山や歴代住持などの高僧の坐像について︑江戸時代初
期までの年次が明確なものを︑鎌倉を中心とした東国地域に求める
と︑
エトザ 1 日祐坐像 法華経寺三世 僧綱衣︑七条袈裟・横被 合掌 像 文和三年二三五四︶ 市川市法華経寺所蔵 ロリロ 2日栄坐像大明寺六世・中興開山僧綱衣︑じ条袈裟・横
被 禅定像 文安五年︵一四四八︶ 横須賀市大明寺所蔵
3 田卑
4 5
6 F〆
8
﹇﹈蟷静娘王価隊 ﹈只︹卸帥木千四囲土寸m凹世
告疋像 ⁚玉徳二年 ︵一四五〇︶
日朝坐像 身延久遠寺十一世
経像 明応四年二四九五︶
﹇±坐像 京都妙満寺開山
活仏像 ・永ず止十︷ハ年 ︵一五一
﹇輪坐像 池上本門寺・
袈裟・横被 説法像
ハ し所蔵
日常坐像 中山法華経寺初祖
掌像 天正十三年
日詔坐像 池上本門寺
条袈裟・横被 合掌像
遠山因幡・人道坐像についt
天正
・1一
年 比企谷
妙ltl:本± 九
T
←w.
僧綱衣︑七条袈裟・横被 ト い
批慎須加貝古川十八㎝明+寸工川茸概
僧綱衣︑じ条袈裟・横被 読
ヘコ 身延町覚林坊所蔵
僧綱衣︑七条袈裟・横被 説
ニ
︷朱 ±胱扮+寸工川+厩ハ
僧綱衣︑じ条
︵一π 二︶鎌倉市妙本寺
僧綱衣︑ヒ条袈裟・横被 合
へ り
(
一五
八五︶修理 多古町日本寺所蔵
比
企谷妙本寺十四世 僧綱衣︑七
元和三年二六一七︶鎌倉市妙本
三﹂呈二 ニ ザ
寺所蔵
9 日朗坐像 僧綱衣︑七条袈裟・横被 合掌像 元和五年ニ
ハじワ
六一九︶ 鎌倉市光則寺所蔵
10
ニ ザ 日英坐像 妙隆寺開山 僧綱衣︑七条袈裟・横被 合掌像 寛永十一年二六三四︶ 鎌倉市妙隆寺所蔵
11
ざし ﹇親坐像 京都本法寺開山 僧綱衣︑七条袈裟・横被 説 法像 寛永十.年二六三四︶鎌倉市妙隆寺所蔵
などがある︵裸形着衣像は除いた︶諸像は︑何れも僧綱衣に七条袈
裟・横被を着ける高位の衣体である 僧桐衣にヒ条袈裟・横被を着
けるという衣体は︑多くの日蓮像と共通するものであ阜﹈上記の諸
像は︑祖師やそれに準じる人物として︑理想化された姿に造形され
て いるといえよ・つ 安国論寺像の彩色はか6 .り剥落二︑いるが︑衣は薄墨色︑袈裟は や
や暗い緑色︵縁・威儀など︶に茶褐色︵条部分︶であり︑何れに
も紋所や地紋などは見られない 後世の修理も考えられ︑現在の彩
色は造立当初のものではYナい可能性があるが︑彩色から窺える衣体
は平僧のものであり︑高位の衣体を表したものではない
法体姿の檀越像で江.口時代以前に遡るものに︑横須賀市大明寺の
開基である石渡則次坐像がある 本像は︑永享七年二四三五︶十
二月付の墨書銘があり︑造立年次が明確である 衣体は通常の法衣
に五条袈裟を着け・合掌三亡゜沁安国論寺像と共通す転↓
二五
長勝寺の御堂を建立した遠山氏については︑貞享二年二六八五︶
刊行の﹃新編鎌倉志﹄に記述がある.同書は︑徳川光囲が延宝年間
a
六 七
二−八1︶に臣下の河井恒久らに命じて編纂させた︑鎌倉に
関する地誌である.同書の長勝寺の項には︑
本堂は︑小田原北条家の時︑遠山因幡守宗為建立す.則夫妻の
︵=
木像あり
とある.ここに記される遠山因幡守宗為が︑安国論寺像の遠山因幡
入道妙助と同一人であることは︑明瞭てあろう. ・三.辛†ヘル止研元九
この様に︑安国論寺像の衣体
の姿には相応していないといえ
・あつOこレ三τ支一江ーごよ︐り
安国論寺像の面貌は︑額には
ており︑えらが張るという︑特
因幡が没してからシ︷Jほど年月を
物が主導して造像が行われたこ
ものであろう 銘之に巳刻とい・
同様に考えられる 安国論寺像
期から桃山期の作風をよく伝え
な年代観とも整合する
るは硫と隔徴三 擦雇 1匡ξ;窮 あ造たりいも雛るや時・時のが き塑望塗巴2i習
禦竃》fl{・:llr
るな(がをEせ
が:ど ㌢ 反 よ で て
一 三 映 く あ 頬
そ室vさ知るが 裟覆ζ㌧《浩言
見るに
以ら上れ のるこ特 と徴もは、 、
遠 LI
因と川朗 幡いのう 像高で僧
に
(陰
奉寄 ︵二 H
とあり︑を比定し
他の史料
遠山因 ニニ に.不される天文二年︵一五.1111︶ころに建立年代
いう.なお︑寄進者である小泉外記助については︑
い
安国論寺像の銘丈から延徳..年二四九〇︶生、
幡所てこ入見よの 道はい銘はなと文︑
進刻願追 主銘相 州
鎌倉住人小
泉外 記助敬
日 天±年
巳癸±万
ハ
遠山因幡入道の事績として︑安国論寺像の銘丈や 新編鎌倉志﹄
に建ウ.が伝えられる長勝寺の御堂⌒本堂︶は︑同寺に現存する法華
堂に想定されている 法華堂の建立年代は︑内部頭貫木鼻や拳貫な
どよりみて︑卜五世紀末ないし十六世紀中期ころと推定されている
「法華堂﹂の名称を.小す扁額の刻銘に
⌒裏面陰刻︶
名越松葉谷
右井山
止行院口虚代
延徳.︐年
庚vート︒ h又ノa L−
とあり︑ここに.ボされた延徳二年二四九〇︶を建立年代に比定す
ることも可能であるが︑その一方で︑法華堂に掛けられていた鰐口
まれであることが分かる.従って天文二年には四十四歳であったか
ら︑建立の施主であるとする安国論寺像銘丈や﹁新編鎌倉志﹂の記
事とも整合する
小田原北条氏の家臣に遠山氏﹁族がいたことは︑永禄二年︵一五
ヒし
五九︶二月の一﹁.北条氏所領役帳︵小田原衆所領役帳こにより確認さ
れるが︑遠山因幡守︵入道︶の記述は見られない一遠山因幡入道の
活動については︑現在のところ﹁ .鶴岡御造営日記﹄所載の永禄六年 ニニ
ニ 五
六三︶ヒ月七z付北条氏康判物が確認されるのみである 本書
は
御社中掟条々︑
御社中少破之時︑修理肝要候︑御造作不入様︑致分別︑其
時々以書立可遂披露事︑
︑毎月十五日︑晦日御掃除除可致之︑此人足計人︑鎌倉谷七
郷積而可申付事︑
︑社人中妄之儀有之者︑可申上事︑
︑御社中枝木成共有取者者︑見逢可搦捕事︑付而︑池之葦相
計時節︑為+列普請之用可召仕事︑
︑御社中二繋馬事井往来之者︑致不浄儀︑堅可禁事︑
右︑今度改而普請奉行被仰付条︑院家中︑神主︑少別当相
バ カニ
談︑於何事モ無沙汰可被走廻者也︑仰状如件︑
永禄六年ヒ月L日 氏康在判
︐哩山囚幡人道坐像についてTdけ二
てし 土遅山因幡・人道
後藤右近将監
というもので︑遠山因幡入道は鶴岡八幡宮の法度を後藤右近将監と
共に氏康から受けている 両名は同宮の普請奉行として︑供僧・神
主らと相談してこの五箇条を執行するよう命じられていた 後藤右
近 将
とが知られている 遠山因幡入道も︑北条氏の家臣として後藤右近 るニ 監は︑鎌倉代官大道寺盛昌・周勝の許で小代官を務めていたこ
将監と同程度の地位にあったのではなかろうか
前述したように︑﹃新編鎌倉志﹄では長勝寺に遠山因幡守夫妻の木 像 の 所
在を伝えていた現在の長勝寺には︑記事に相応する様にg
妻像であるとされる法体姿の坐像二躯が伝来しており︑法華堂に安
へいザ置されている︑
この内の妻像は寄木造︑彫眼の坐像で︑法衣に五条袈裟を着し︑
頭巾をかぶり合掌する一額には級が刻まれており︑老体であること
が分かる.像高は三〇・五センチメートルを測る︵写真3︶彩色は
ほとんど剥朴16しているが︑衣はは薄墨色である 像高を見ると︑安
国論寺像と夫妻像として釣り合う 指先や︑衣の袖から出る小袖の
表現など︑彫刻の細部や衣体の処理のしかたも︑安国論寺像と近似
している 一方の夫像であるとされるものは︵写真4︶︑法体姿であ
るものの︑像高四〇・五センチメートルと妻像より10センチメー
トルも大きく︑夫妻像としては大きさが釣り合わない 五条袈裟に
じ
−川口梁﹂ーへ化研川九花 ︵富杉田︑ーtへ﹁ハニ
へ
写真一
写真二
写真三
写 真四
遠い□苫へそ三ぽ.三二︑一三三
L,、軍
k化
研
「1÷
パ
︐
は︑丸に卍の紋が付けられている 衣体の処理のしかたにも妻像と
相違が大きいことから︑別人物の像であると考えられる.︑
妻像は︑夫像とされるものと共に江.戸時代の作であるとされる
安国論寺像と妻像が本来の夫妻像であるとすれば︑長勝寺において
夫が御堂建立の重要な檀越であるとしても︑時代を隔てた後代にそ
の妻の像を造り添えたと見ることは困難である妻像も︑安国論寺
像と同時期の造立であると考えて大過なかろう.東国における戦国
シ期の夫妻像としても︑注目される
なお︑長勝与に所蔵される︑同寺の開基檀越である石井長勝坐像
の台座には︑
(台座上墨書︶
日朗菩薩像
相州鎌倉名越谷
奉造栄御衣替 石井山長勝寺 本尊也
現當二世所願成弁
延實第八庚p歳
五月卜句一!1日
1威十Wt
、II三柾衛右
門一
寄進之施︸三 iit1
寛:完﹁1遠成 勧
進蚕
頭
とあり︑﹇朗像を延宝八年︵.六八〇︶
(花押︶
この台座は安国論寺像の旧台座であるとされるが︑
はない.︑石井長勝像は︑僧綱衣に七条袈裟
に修理したことを記録する
﹇︶
根 拠は明らかで .横被を着け合掌する︑
目
高僧の姿である 従って︑台座に記されるように︑石井長勝像は日
朗像であるとすべきであろう.であるとすれば︑夫像とされるもの
は︑石井長勝像の可能性もあろうか
安国論寺像は︑﹁新編鎌倉志=に長勝寺所蔵を伝える夫像に比定し
て良いと考えられる..安国論寺像は何らかの事山により長勝寺から
安国論寺へと移され︑その後︑法体姿であることから同寺開山の日
朗像であるとされて安置されたものであろう 安国論寺に安置され ニニ
て
いた旧来の日朗像が何らかの事由により失われたためであろう
か
長勝寺所蔵夫妻像は昭和十九年二九四四︶に修理が行われて
おい㌧安国論芋像の移動はそれ以前のこAlになるが︑明確な資料を
見出せない.
おわりに
鎌倉長勝寺に法華堂を建立した遠山因幡入道妙助は︑小出原北条
氏
の家臣であったその活動はほとんど明らかではなく︑わずかに
永禄六年︵一五六=︑︶に鶴岡八幡宮の普請奉行を命じられているこ
とが知られるのみである 法華堂は桁行五問︑梁問六間の規模をも
ヘコこ
つ仏堂である 建立を伝えるからといcて︑遠山因幡入道が単独で
費用をまかなったという訳ではなかろうが︑富裕な経済力を有して
いたことは間違いない
日什門流の本興寺︵江戸時代に鎌倉から保±ヶ谷に移転︶の場合
には︑文明十1一.年︵﹇四八=の御堂建立にヒ総の酒井清伝が大檀 那となり︑永禄二年二五五九︶の修造ではその子孫である胤治と
ニ シ嫡了政茂父.仁が施主となっている この御堂は現存せず規模は不明
ながら︑やはり伽藍の中心的な堂宇であったと思われる一
]方︑小旧原北条氏の家臣にHを転じると︑西郷右京亮と多米新
左衛門尉時信が天文二十一年︵﹁五五二︸に行われた日陣門流鷲津
ハトザ本興寺の本堂建立の奉加に応じていることが指摘されている一北条
氏
の家臣には三河出身が多いことから︑同地に展開した各門流との
師檀関係を継続していた者もいたのである..
遠山因幡入道坐像は︑この様な鎌倉の日蓮宗寺院と檀越との関係︑
或いは北条氏と日蓮宗との関係について検討を進めるヒで︑Iつの
確実な史料を提供するものといえよう.また︑同像の転変は︑流転
るし
する諸像の事例としても興味深いものがある一なお︑近世初頭に至
るまでの長勝寺の変遷については︑史料の制約もあり不明な点が多
ぼ今後の課題である・
註
〔1 実査︑並びに各種の図録・仏像調査報告書等による
⌒2 長勝寺の禄起については︑寺尾英智・安中尚巾べ・本間俊文一U蓮聖人史 跡の再発見と顕彰の歴史﹂二.鎌倉 :不パール研究紀要.=立正大学研究推進・
地域連携センター︑VO1九︶参照.
〔3︶室町・戦国期の鎌倉における日蓮宗の展開に関しては︑永享法難が著名
遠山因
巾斎 へ 道 坐像
)
じ
尾
である二U正大学日蓮教学研究所編一.日蓮教団へE史 ヒ 平楽輻書店︑ 一 九六四︑二五四頁以下 都守基﹁三.伝燈紗﹂と﹁永享法難﹂覚書﹂﹁平成 卜九年度 京都本法寺宝物虫払い出展U録﹄1IOこ七一 松尾剛次氏は︑永
:rr+八年二四一二六︶の開創を伝える鎌倉本覚寺の檀越に町衆︷商人・職人︶
が いたことを推測する二﹁.中世都市鎌倉の風景﹂一吉川弘文館︑一九九三︑一
L五・zt月1 ︶
⌒4 ⁚女国人㎜れ寸像については︑ぽ鎌合亘巾ヶへ化財総人口目録︑桶身ごん委口目人ぶ緬..鎌へ科⁚巾
足化財総ざ:日録 書跡・絵画・彫刻・L芸篇 ﹈︵同明舎出版︑.九八L三 安国・︑燗い寸の項︻執筆は山田泰弘氏∵︑新倉日﹂U監修一鎌倉ひ甘越松葉谷 安国 論寺資料輯=⌒安国論寺︑ 一九九九︶工霊像の部⌒執筆は山田泰弘氏︶︑神 奈川県立歴史博物館編一一.特別展 鎌倉の日蓮聖人 中世人の信仰世界=日 蓮宗神奈川県第二部宗務所︑二◎三︶九ン四八号二列ロ叩解説の執筆は薄井和 男氏︶に図版・銘文・解説等が収録される.
U⊃ .﹈=.鎌倉名越松葉谷 安国論寺資料輯﹂.︑.︹.二.頁 山田泰弘氏は︑安国論寺 像について﹁当銘は後書か ﹇朗像てある点も未詳だが︑もと長勝h寸安置 像であることは恐らく事実であろう﹂と指摘するが二鎌倉市文化財総合目 録書跡・絵画・彫刻・τ芸篇 =二六五頁︶︑﹁鎌倉名越松葉谷 安国論 寺資料輯︑=ではこのことに触れない一.
(6︶千葉市美術館編一﹁.仏像半島.﹁三千葉市美術館・美術館連絡協議会︑二︵.二
ID 1六六頁︑池上本門寺霊宝殿編一一.第七百遠忌報恩 日朗菩薩.=⌒池ヒ本
門寺︑二〇一九﹂.一−..︑ぶ
二〆 二弔Lド日ば圧己心皿W因心 日削川伊江見隆防﹄ 閲﹈ーパユ百ハハ
{s︸中山法華経芋誌編纂委員会編﹁中山法華経寺誌゜=同朋舎出版︑.九八
=二﹂11.〜四二vl︑八三頁︑中尾尭兀・浅見龍介・淺漱毅・緒方啓介編﹁図
説 日蓮聖人と法華の至宝.=第四巻彫刻︵同朋舎メディアプラン︑二︵ニ
111︶ 1ヒ八〜九頁
⌒9︸﹁﹁特別展 鎌倉の日+逗聖人 中世人の信仰世界﹂ヒ九号︑横須賀市編﹃新
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篇 本十寺過去帳ごや﹁妙本寺人堂常什過去帳﹂︵﹃大出.区史︵資料編︶寺 社2三にも︑記述は確認てきない..
(28︶下山治久編﹇戦国遺文 後北条氏編﹄補遺編︹東京堂出版︑11C﹈ O ︵︶︶
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i) l.戦国人名辞典﹂﹁後藤右近将監﹂の項︵佐脇栄智氏執Wき
(3︶ ﹇.鎌倉市文化財総合目録ー書跡絵画・彫刻・L芸篇1°=二じ一頁
(31︸本稿﹁はじめに﹇において..︑.口及した石井則次夫妻像︵横須川11川大明仁寸︸
も︑夫像は永享﹂年二四 .一五︸造L白二.\あるこヒが明らかであるが︑友像 は江戸時代の夫像の修理と同時期の造⊥げジ︑・あるとされるd特別展 鎌倉の 日蓮聖人 中世人の信仰世界﹄八〇号︑﹁新横須賀市史 別編 文化遺産﹂
八 八 三ー五百二..しかし︑妻像に存する銘文は︑造立銘ではなく︑夫像と同 様に修理銘であると理解できる.妻像も︑夫像と同時期に造立されたと考
えられよう
(32︶ ies倉市文化財総合目録 書跡・絵画・彫刻・工芸篇 ﹄二七〇頁︑﹈部 を改めた なお︑il.十世と自記する登遠院日成は︑現在の歴代譜ではニト 九冊﹂となっている︵日i連︷示土寸院大鑑編工采乗女昌父再絹=日特連ら示土寸院大鑑﹄大本 山池上本門寺︑ 一九.八一︑ 一二︑八頁︸
(33︶﹃鎌倉市文化財総合目録 書跡・絵画・彫刻・工芸篇ー﹂二七巳頁..
(34︶安国論寺にH朗像が安置されていたことは︑嘉永七年二八五四二.安國 寺什物帳﹄に記載がある︹三.鎌倉名越松葉谷 安国論寺資料輯.=四C︶ Fz:︶・
なお︑大正十年二九..一︶の﹁寺院由緒等申告書﹂にも﹁.朗師霊像 一 躯﹂が安置y・︶れたいたことが記録されるか⌒同ヒ書︑四.一=日o︑
什物g.﹇1記載の像との関係は未詳である
(35︶夫妻像の各台座裏に次の墨書銘⌒疋字配置に小異があるが同一文︶があ るt﹈﹇鎌倉市文化財総合目録1書跡・絵画・彫刻・工芸篇.﹂二七=貝参 照.
(妻像台座裏︶
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奉修補鎌倉.長勝寺 法華堂安置僧形像 二躯 昭和十九年十月日 当山五卜三世日燦代 修造者 日本丈術報国会第.︐.部
会員
鎌倉文化聯盟美術部理寮 斎 田 秀 晃
⌒印一
〔36>一鎌倉市文化財総合目録 建造物篇.﹂五〇九百三
「訂︶永禄二年二五五九﹇九弓七口付棟札二﹁大田区史︹資料編︶寺社2﹄五 四五頁 黒田基樹・佐藤博信・滝川恒昭・森本昌広編﹇﹁.戦国遺文 房総編﹈
第二巻︑東京堂出版︑.∵二一︑九九五号︶
〔38︶ド山治久﹁北条早雲と二.河武七﹂﹃戦国遺文 月報.=七︑二◎︹×﹇ 下山 氏は天文二十一年に行われたのは仏殿修復であるとするが冠賢一氏は本 堂 建 立 であると指摘する︵冠賢一一東海日蓮教団の展開−遠州鷲津本興寺 を中心としxJ− 1影山圭兀雄編﹁中世法華仏教の展開﹄平楽寺書店︑一九七
四︶︑
(額︶鴨川市誕生寺所蔵の日家坐像は︑︺朗像とし一︑万治二年二六五九 に 造立されたが︑誕生寺に伝わると日家像となり︑ 一日.日朗像に戻されるも 再び11家像とンTJれた︵拙稿 口家卜人像の転変﹁=こみなレニ.平成二卜五年
川四月口万.一︑万津小④溌の神仏像調水且報王口坐日﹂ ヂへ西午小治溌町︑ 二ρ二.︶m四︑ 1l⁚ハ九
号︶..淺漱毅一理由ありて日蓮宗寺院の尊像となれり.=﹁図説 日蓮聖人と 法 華 の至宝﹄第四巻彫刻 参照
(40︸長勝寺の濫膓である名越松葉谷法華道場については︑都守基一﹁妙龍院 ﹇静聖人遺芳一︑同﹁抄龍院日静聖人関係芋院.覧・伝記集・年譜﹂︵共に
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Summary
AStudy of the Seated Statue of T6yama Inaba NyUd6
AMember and Contributor of the Nichiren−shti in Kamakura during Sengoku Period
Eichi TERA(。)
T6yalna Inaba Ny〔ld61遠山因幡入道l was ol/e of rhe dependable Inembers of the
Nichiren−sl1〔l in Sengoku period, He donated the main haU ro Ch6sh6Ji Telnple(長勝寺l in Kamakura and the temple has placed a statue of Mr. and Mrs. Toyama to honor his
contribution. T6yan〕a Inaba xvas a vassal of Odaxvara HOj6 c]an 〔・」・日]i;;[.iヒ条⊥k i who −as
in charge of mal〕aging the construcrk)n of Tsurugaoka HachimangCi Shril〕e・鶴岡八幡宮 in Kamakura.
This paper is intended to explain thatτhe seared statue of Ank(:}kuron−ji Temple 安[:司
論寺)in Kamakura, which has been said to be the statue c)f Venerable Nichir6{H朗),is actually a statue ⊂)f T6yalna Inaba by pOilltillg oしlr some features and historical docし11nenrs of the statue.