開泰寺石造三尊仏立像の研究―新たな統一王朝高麗 の出現と仏教彫刻―
著者 崔 聖銀, 芹生 春菜 訳
雑誌名 美術研究
号 385
ページ 23‑46
発行年 2005‑02‑04
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006108/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
開泰寺石造三尊仏立像の研究
新
たな統
一 王
朝高麗の出現と仏教彫刻
序言
一︑高麗の後三国統一と開泰寺の創建
二︑開泰寺石造三尊仏像の分析
(二
現状と様式
(二 )
開泰寺三尊仏像と慶北・忠北一帯の石仏たち
(三 )
彫刻匠人についての推論
(四)開泰寺三尊仏像に見られる外来的要素
(五 )
開泰寺三尊仏像の図像問題
結ぴ序言
(補註1)
ワ ン ゴ ン イ ル リ チ ヨ ン キ ヨ ン サ ン プ ク ト ソ サ ン
即位十九年となる九
三
六年九月︑高麗太祖王建は
一利天(慶尚北道善山
シ ン ゴ ム ( 補 ノンサン註2)
の東辺)の戦いで後百済の神剣軍をうち破って完勝をおさめ︑論山へと敗走
ホアンサンする後百済軍を追撃して︑黄山ボル(原)でついに後百済の降伏を受け入れる
こととなり︑ここに後三国統
一の大業が完成した︒その最後の勝利の舞台と
チ ユ ン チ ヨ ン ナ ム ド ヨ ン サ ン
なった黄山ボル︑すなわち︑今日の忠清南道連山に戦勝を記念して建てら
開泰寺石造三尊仏立像の研究
在
銀
耳口三E
芹
生
春
訳 菜
ケ テ サ
れた開泰寺は︑後三国統一を象徴する記念碑的な寺院であると同時に︑国家
(1)
の発願によって建てられた高麗朝の代表的な国利であった
︒
同寺は太祖十九年(九三
六)
よ
り造成が始められ
︑
満四年を経た同二十
三
年(九四
O)
に落慶の華厳法会が執り行われた
︒
このとき︑太祖王建は﹁泰 平の時代を開く﹂という意味で寺を開泰寺と名付け︑その寺地を﹁仏と天が
チ ヨ ン ホ サ ン
守護するところ﹂との意から天護山と命名し︑さらに自ら発願文をつくる
(2)
など︑この寺が後三国統一の象徴であることを広く世に知らしめた
︒この閉
す ギ ヨ ン
泰寺は太祖が開京以外の地に建てた唯
一の寺院であり︑もとは後百済の領
土であったこの地域の遺民たちに高麗の勝利を知らせると同時に
︑後百済の
残存勢力を統制し︑その動向を把握するという政治的︑軍事的な目的を持つ
とも考えられる︒
したがって︑その創建の意義は単に信仰的な次元を越えた
ものと理解される︒
こうした創建の背景を持つ開泰寺では︑その後︑毎年春と秋に華厳法会が
(3)
催され︑その初回には太祖親製の﹁華厳法会疏﹂を発願文としたのである
︒
チンジョンサウォン
また︑開泰寺は太祖の真影を杷った王室の真殿寺院としても重要な位置を
美 柿j
研
究
Eコ 可
)¥ 五
忠南・連山 開泰寺
挿図 1石造三尊仏立像と創建基壇
コンミンワン保持しながら存続してきた︒
恭慰王の代に紅巾賊の乱によって国家の危機に
(4)コンアノ
7/
直面した折には︑還都・遷都の吉凶をこの真殿において占い︑恭譲王三年
チ ヤ デ オ ン イ チ ヨ ム
(一
三
九こ
には国家より開泰寺に左代言の李倉を派遣し︑
チ エ サ ( 補 註3 ) (
5)いて祭杷を行ったという記録も残る︒
太祖の真殿にお
また
︑ 高麗末に和冠がはびこると︑し
(6
)
ばしば開泰寺を侵犯し略奪を行ったという記録があり︑これらによって開泰
寺の歴史的な浮沈を知ることができる︒それでも太祖の真殿は朝鮮時代初期
(7)
パ ン ジ ヤ デ ジ ョ ン チ ヨ ル
まで存在したと思われ︑現存する開泰寺の金銅塔や盤子(金鼓)︑大鼎(鉄
(8) 護)などの遺物は寺の規模を推量させる︒ 二四
開泰寺は朝鮮時代のいつの頃からか廃寺となっていたが︑
158
一九三四年の時
ポプタプ(補註
点では石造三尊仏立像の場所に幅五問︑奥行き三間の木造保護閤(法堂)が
建てられており︑その後︑一九八六年に保護閣の補修工事を行ったところ︑
(9)
創建当時の基壇があらわれた(挿図
1)
︒
また︑工事の過程で左脇侍菩薩の
頭部が発見され︑それまで取りつけられていた後補の菩薩頭部と替えられた︒
開泰寺跡の発掘および地表調査は一九八六年以降︑継続して進行しており︑
(叩)
開泰寺についての理解の助けとなっている
︒
とくに開泰寺に遺る石造三尊仏
立像(図版2︑
3)
は︑高麗初めの代表的な石仏として韓国彫刻史において 非常に重要であると認められ︑研究が進められた
︒
これによって︑後三国統
一の舞台となった歴史的な地に国家的な発願をもって創建された開泰寺の三
尊仏像が︑高一嵐石仏彫刻の嘱矢となる作例として韓国彫刻史に占める重要性
(日)
と意義が明らかとなったのである
︒
しかしながら︑いまだ本像の彫刻的水準 や様式および図像面については未確定の問題も残されている
︒この問題を明
らかにするために︑本稿ではこれまでの研究成果を足がかりとし︑開泰寺が
チヨガク
創建された当時の高麗の状況と︑開泰寺三尊仏像の造立にたずさわった彫刻
チャンイン(補註
5)
匠人たちの性格︑三尊像を通じて類推される高麗初期彫刻界の傾向などに
ついて探ってみることにする︒
この一文が高麗初期仏教彫刻についての理解
の一
助となることを願い︑資料の限界と力量不足のために論を進めるうえで 誤謬があればご叱正を願うものである
︒
一、
高麗の後三国統一と開泰寺の創建
太祖王建が後三国を統一しようとする頃︑高麗では全土にわたって寺院の
チ ユ ン チ ャ ン ( 補 註6)
創 建 と 重 創 が 大 々 的 に 行 わ れ た
︒
太祖の在位期間中に開京で建立された 寺のうち︑その創建年代が確実なものは
二十五箇寺に及ぶが︑これは高麗時
(ロ) 代に開京に造られた重要な寺院の実に
三分の二に相当する︒
太祖は風水地理
ポ ( 補 註7)
にしたがい︑禅補寺院を全土に建立して国家の祥福を祈ったと伝えられ︑
太祖
二年(九一九)に開京に十利を建立し︑その後︑二
十五箇寺を創建した が︑さらに五百もの寺についても︑多分に伝説的ながらも太祖創建の伝承が
(日)
文献に残されている
︒
とくに開泰寺の建立が始まる同十九年
(九三六)
には
︑
ク ア ン プ ン サ ネ チ ヨ ン ワ ン サ ヒ ヨ ン ソ ノ サ ミ ル ク サ
開京においても贋興寺︑内天王寺︑現聖寺︑禰勅寺が創建されている
︒し
プ ル サ
たがっ (補註8)
て︑開京の寺院の多くは開泰寺の仏事と同時期に成立したようであ
る︒
地方に国家的な次元で建立された寺院としては開泰寺が唯一のものとい
チ ヨ ン ド ウ ン ム ン サ キ ム チ ヨ ン チ ク ジ サ ト ン ヘ サ ム ホ ア
えるが︑太祖王建と関係のある清道・雲門寺︑金泉・直指寺︑東海・三和
サ寺などをはじめとする様々な寺院においても創建︑(U)
うである
︒
重修の仏事が行われたよ
タ プ ピ 潟 註
9)
長らく行われなかった高僧たちの塔碑カ各地に建立され
(日)ている点も注目される︒
その
他︑
したがって︑
この時期の高麗は建築と彫刻を含む建
設事業がブl
ムとさえ言える時代を迎えていたと思われる
︒
こうしたなか︑開泰寺は太祖十九年(九
三六)末に造立が始まり四年後の
同二十三年(九四
O)
十二
月に完成したが︑満四年という驚くべき短期間で
工事を終えている︒一
般に︑高麗時代に国家発願の大寺院が建立される場合
フンワンサ
一例
と し て
︑ 文 宗 時 代 に 建 て ら れ た 興 王 寺 には十年以上の期間を要する
︒
は十二
年間
( 一
O五
六
i一O
六七
)
の工期の末に完成したという記録が残つ
(日)ている︒ ただし︑開泰寺がそれ以前から存在した寺院であったとも考えられ
キヨンフォン(補註叩)る︒
後百済
王の瓢萱
は︑後
三
国統 一の直後に背中の療のため﹁黄山の仏寺﹂(口)で世を去っ たが︑彼の止住した寺はまさに開泰寺に当たる可能性がある
︒開
泰寺が既存の後百済寺院を重創したものであると考えるならば︑工期の短さ についても説明がつくであろう
︒
開泰寺の落慶供養で太祖が自ら書いた﹁華 厳法会疏﹂では︑新たに建てられた寺の雄壮なる姿の描写が自につく
︒
開
泰寺石造三尊
仏立像の
研究
(前略)
陣営のあった所に伽藍を開き︑仏聖の維持に応え︑山霊の賛助 に報い︑とくに司局に命じて寺を建てさせることをお許し下さい
︒い宇品
漸く完成し︑宝利を
一新しました
︒
仰いで天佑をお受けし︑伏して神々
の功徳にあずかり︑天下が清く︑
国家が安らかに治まるよう天護をもっ て山号とし︑開泰をもって寺名とします
︒いまや回廊は幾重にもめぐり︑
仏殿は層をなして釜え︑寺域の峯々は修行の地にふさわしく︑松柏の広 大な杜は膜想の場となるでしょう
︒
永く華厳の道場として︑多くの高僧 が輩出するよう︑かねてより華厳の名僧である論言と承談の
二名の大徳
を招いて住持させてきましたが︑まさに深奥な作法にしたがい︑ここに
初めて法座を開き︑華︑厳の教えを講じて︑その要文を説き︑論言に要請
して説法を行わせます
︒
広く高僧を招き︑高座に迎え︑幡随は晴天には
(時)
ためき︑党唄は青空に響き渡っています
︒
この疏文から見て︑開泰寺は︑すでにあった寺院を重創し︑高層の仏殿と 幾棟もの建物や回廊で構成される寺院へ拡充されたもので︑完工以前からす
でに二
名の華厳大徳に住持を委ねていたとすれば︑後百済の頃から寺があ
っ
たと考えられよう
︒
とくに華厳大徳を住持させていることから︑この寺が華
(悶)
厳宗寺院として創建されたと判断されるが︑これは華厳の説く統
一と和合の
一乗思想が︑後三国統一を‑記念して建てられた開泰寺の創建意義と通じるも
のであったためとも考えられる
︒
しかしまた︑太祖が統
一を記念した象徴的
な寺院を華厳宗寺院として創建したことには︑太祖自身の信仰的な傾向と︑
羅末麗初の当時の
一般的な信仰の趨勢が︑ともに反映していると見るべきで あろう
︒
太祖王建は︑当時盛行していた禅宗はもちろん︑華厳宗︑法相宗︑神印
二五
美
耳 パ
γお い
)¥
Eコ 1ヲ
" ' "
プレ
五 術
ンヨン(
補 註 日
)キヨシヨン(
補 註 ロ
)
宗などの教宗に対しても緊密な関係を持ち後援していた︒
しか
し︑
華厳宗 との関係は︑他宗派に比べて遥かに積極的であったと考えられている︒よく
へ イ ン サ ナ ム プ ク
7 7
パ
知られているように︑羅末麗初の海印寺僧たちは南北岳派に分かれて瓢萱と 王建を支持した
︒
このとき王建を支持した北岳派の希朗祖師は華厳神衆三昧 を得たと伝えられている
︒
この時期には﹃華厳神衆経﹄が成立して華厳神
ジユ
‑ J (補注目)
衆の信仰が盛行したが︑これは羅末麗初の戦乱期に華厳神衆信仰によって 戦勝を求めようとする状況があり︑そのなかで華厳宗が影響力を持つように
(初)
なったためではなかったかと推量される
︒
それゆえ︑この時期の仏教美術に
四天
王︑
八部衆などの神衆の表現が流行したことは︑このような信仰の傾向 とは無関係でないように思われる
︒
王建に戦術上の助言をして関わりを持つ
ポヤン
た禅僧賓壌は︑後三国統一の直後に太祖の経済的援助を受けて雲門寺を創建 したが︑この雲門寺に伝わる浮彫四天王像(挿図
2)
は︑当時の信仰の潮流
(幻)
を反映したものと見ることができる︒また︑華厳経に説かれる曇無掲菩薩の
クムガノサ/ベシヨム
住 処 で あ る と い う 金 剛 山 の 拝 帖 で 王 建 自 身 が 曇 無 掲 菩 薩 に 会 っ た と い う 伝
(詑 )
説も残っており︑華厳宗と太祖の関係を示唆している︒
後三国統一に孤軍奮闘する王建にとって︑現実の様々な戦闘において勝利 をおさめようと積極的に力を注いだのが華厳信仰であり︑統一後の国家安寧 の祈求も華厳信仰によるものであった︒こうした背景のもとで︑開泰寺が華 厳宗寺院として創建され得たものと解されるのである︒
一
、
開泰寺石造三尊仏像の分析
( 二 現 状 と 様 式 現在︑開泰寺は忠清南道論山郡連山面天護里天護法山に位置しており︑寺 域は相当に広い地域を占めている︒寺域はおおよそ三箇所に分けられ︑石造
一工 ハ
芸 門 寺 慶 北 .i青道 高麗
挿図 2 石造浮彫四天王像 三尊仏像が伝わる今日の開泰寺のある場所と︑ここから北に四
0
0メートル
ほどの地点にある開泰寺跡︑さらに東へ一五
0
メートルほどの距離にある山 の中腹地域の三区で構成されている︒開泰寺の石造三尊仏像(挿図
3)
は ︑
チヨンガ
h J
(お)
もとは正面五問︑側面三間つ二・五メートル×
一0・三メートル)の殿閣に
南面して杷られていた巨大な石仏で︑寺院跡の発掘によって奉安当初の位置
( μ
)
を動かずに伝来していたことが明らかとなった︒
中尊の如来立像は約四
・
一五メートルと丈六像に近い大きさで︑左脇侍菩 薩像は三
・五メートル︑右脇侍菩薩像は約三・二一メートルである︒中尊像
(挿
図
4)
は羅末麗初には珍しい偏祖右肩に大衣をまとう石造の如来立像で︑
広い方形の蓮華座上に立ち︑頭部は高く飛び出した肉警をあらわす︒当初あ らわされていた螺髪は︑今はほとんど落ちてしまっている︒大きく丸い面相 は額がとりわけ狭く︑眼は横長につくり︑両頬は広く︑鼻筋は短く︑
口元 に は柔らかな微笑をたたえ︑顎には縦に溝を刻んでいる︒耳はかなり長く︑耳
采が前方へ蛸牛のように曲げられているが︑これは菩薩像などに時折認めら れる垂髪が耳をわたる表現と混同したものである
︒
顔の大きさに比べて肩は広いとは言えないが︑仏身は堂々とし︑胸部は平
らで︑偏祖右肩にまとった大衣の衣文は広い帯状にあらわされており︑下に
着ける祐の衣文も一定の間隔で縦に帯状に垂下している
︒右手は三
本の指を 補修するが︑肩の高さに挙げて施無畏印をつくる
︒
左手はほとんどの指が後 補で︑腹前に当てる形とする
︒
全体として仏身は量塊的で︑首が太く︑手が あまりにも大きな感じを受けることに馴染みがないのも事実である
︒し
かし
︑
描き起こし図 開泰寺三尊仏立像
口元に微笑をたた
コルクルアム
えた顔だちは羅末麗初の仏像に多く見られる特徴であり︑骨窟庵摩崖如来立
チヨンリヤンサ
像(挿図5)
︑ 清 涼 寺 石 造 如 来 坐 像 (挿図6)
のような羅末麗初の石造如来 像や︑高麗初期の原州出土の鉄造如来坐像
(挿図7)
などにも見出されるも
広い帯状の衣文をはじめ︑鋭さのない短い鼻︑短い人中︑
のである︒
八角蓮華座上に立つ左右の脇侍菩薩像
(挿図
8
a︑
8
b)
は ︑ やはり中尊
挿図 3
像のように量塊的かつ鈍重で︑身体は全体的に平板であるが︑天衣の表現や
陣同釧︑祐の花文などに繊細さがあらわれており︑顔だちは中尊像に比べてあ
挿図 4 石造如来立像 (三尊仏立像のうち) 忠南・連山 開泰寺
どけなさがあり︑柔らかい
︒
その表情にはそれぞれ少しずつ差異があるが︑
短い鼻と人中︑微笑した口元︑広い頬といった基本的な形態は同じで︑顎に は縦に溝が刻まれている点も
一致する︒
細かく彫られた髪際の部分には段
差
があり︑当初は金属製の宝冠が取りつけられていたと考えられる
︒
両手を挙
げ︑指を軽く曲げて施無畏・与願印の通印を結んでおり︑後補部分もあるが︑
丸々とした手の造作は武骨でありながらも愛らしい
︒二
菩薩像のうち︑近年 新たに発見された左脇侍菩薩像の頭部は︑土中に長年埋ま
っていたためか状
態が良好であるだけでなく︑顔の表現にも生気が感じられ︑細部表現におい
開泰
寺石造
三尊
仏立像の
研究
七
美 術
研
ゲ巴アし
)
¥、 五
t=l
す
二八
ても右脇侍菩薩像より優れている
︒
このことは︑三尊仏像の規模が巨大であ
統一新羅
り︑様々な彫刻家たちが一緒に建立にたずさわるなかで生じた結果であると
(お)理解される︒
羅末麗初の菩薩像がほとんど残っていないため比較できるだけの資料がな
挿図 5摩崖如来立像 慶 北 ・ 慶 州 骨 窟 庵
いが︑脇侍菩薩像は統一新羅時代の一般的な菩薩像とは異なる独特な表現が 目を引く
︒
まず︑上半身の胸に触れる条吊が際立
って幅広にあらわされ︑左
脇侍菩薩像においてはその半ばに折り畳まれた衣端をのぞかせており︑天衣 の先は両手首をわたって脚の左右に細長い袋をつくって垂下し︑地面にまで
届いている︒
また︑腰部前面に前掛けもしくは腰布のような丸い衣端を垂ら し︑左脇侍像ではその上に小さな花文が刻まれている
︒腰から二
条の結
︑び房
羅末麗初
飾りが両脚の聞に垂下してのち︑左右に分かれ︑その下には裾の打ち合わせ があらわれて︑両脚上に衣文が
U
字形に刻まれている︒
こうした菩薩像の類
ト ン ホ ア サ ビ ロ ア ム
型と完全に一致する例はいまだ見い出せないが︑桐華寺毘慮庵三層石塔内よ
七司
︒司 J
‑ノ
り発見された金銅四方仏装飾舎利函(八六三年)に刻まれた菩薩立像や︑慶
ジ ユ ナ ン サ ン
州・狼山西麓の畑堤から国立慶州博物館へ移された石造菩薩立像
(挿
図
9)
︑
ポ ギ ヨ ン サ
高麗初めの十世紀頃に造られ後に補修されたと見られる賓慶寺塑造毘慮舎
挿図 6 石造知来坐像 慶南・峡川 清涼寺 挿図7 鉄 造 如 来 坐 像 高 麗 初 期
江原道・原州出土 韓国国立中央博物館
那三尊仏の脇侍菩薩像(挿図叩)などに︑
いわゆる腰布のような前垂れがあ らわされた像が伝えられている
︒
賓慶寺像は旧新羅地域の像で︑同時代の他
(お)の彫刻よりも保守的で伝統的な彫刻の傾向を一不すものと考えられており︑全
体的に身体と衣文の表現が開泰寺脇侍菩薩像より流麗であるが︑上体を斜め に広く横切る条吊の半ばで衣端を外に掛ける様子が︑開泰寺左脇侍菩薩像と 基本的に類似する︒なお︑これら羅末麗初の菩薩像よりも︑中国・唐末五代 の菩薩像の類型に認められるやや異国的な像に︑より近い例が見出される
︒
このことは後述することにする
︒
キ ヨ ン プ ク チ ユ ン ブ
hノ(二)開泰寺三尊仏像と慶北
・忠北
一帯の石仏たち
開泰寺三尊仏像は︑ごつごつとした足の表現︑手袋をつけたように大きく 丸い手︑平板な背面の彫刻︑また︑巨大な石柱のような体躯の洗練されてお らず武骨に見える造形性のために︑退歩した彫刻という印象を与えるのも事 実である︒さらに︑高麗初めの当時としてはあまり多くない偏祖右肩に大衣 をまとう石造知来立像であるうえに︑華厳宗寺院の本尊仏でありながら手印
開泰寺石造三尊仏立像の研究
開泰寺 挿図8a 石造左脇侍菩薩立像
(三尊仏立像のうち) 忠南・連山 連J 山 開泰寺
込 晶
立 水
南 瓦 薩 忠
み 並 口
ぷ 侍 ) 手 脇
﹂ ち コ
λノ
造 の
P
石 鵡 b L
口δ A l
u
尊郁三 が明確でない点も︑一般に知られる高麗初期仏教彫刻の範曙の中でそれを理解することを難しくしている
︒
また︑高麗初めの国家的な発願によりつくら 以下︑様々な問題に対してひとつずつ探っていくことにする
︒
れた像にしては︑彫刻技法が決して優秀ではないという点も指摘されよう
︒
開泰寺が後百済の旧領に建てられた寺であることから︑開泰寺
三尊仏像は
後百済の彫刻様式と関連があると考えられるが︑後百済地域の仏像の中で︑
高麗初期 挿図10塑造脇侍菩薩像
(毘慮舎那三尊仏像のうち) 慶 北 ・ 浦 項 賓 慶 寺
挿図9 石 造 菩 薩 立 像 統 一 新 羅 慶州狼山出土 韓国国立慶州博物館
九
美 術
研
人
Eコ 可
究
五 開泰寺三尊仏像以前の時代には︑量塊的で重々しい様式の仏像はこれまで発
テ ポ ン ( 補 註
H)
見されていない
︒
高麗(泰封)の中央地域といえる開京をはじめ︑今日の
キ ヨ ン ギ ド カ ン ウ オ ノ ド
京畿道・江原道一帯に遺る石仏や摩崖仏の中にも︑この三尊仏像と比較し
(幻)
得る作例は見当たらない
︒
開泰寺
三
尊仏像に認めた石柱のごとく量塊的で巨大な仏身の造形感覚に似
イ エ チ ヨ ン ト ン ボ ン ド ン
た彫刻を現存する羅末麗初の石仏に探してみると︑躍泉・東本洞石造如来
ポ ン ホ ア 千 ヨ ノ ソ ノ サ
立像(挿図日)や奉化・
千聖寺石造如来立像(挿図ロ)といった︑今日の慶
(犯 )
(慶北)地域の石造如来像に見出される︒これらの石造如来像は中国
で八世紀後半から九世紀にかけてあらわれた中唐彫刻様式の影響を受け︑量 尚北道 感と体躯の肥満が強調された仏像様式を見せる︒こうした彫刻様式は石仏の 伝統が絶えることなく行われてきた慶州をはじめ︑慶北地域において新羅末 まで続けられていたようである
︒
この様式を示す石造如来像としては︑興味 深いことに前に例としてあげた礎泉・東本洞像や奉化・千聖寺像のほかに︑
ウ ブ ネ リ
礎泉
・欣孝里石造如来立像︑同
・臥龍洞石造如来立像︑順興・口巴内里石造 如来立像などが現存し︑それらはおおよそ九世紀から十世紀初めに至る時期
の作例である︒
これらの石造如来像はすべて通肩式に大衣をまとい︑片手を 上に挙げて施無畏印の手印を結び︑もう一方の手を下げて与願印を結ぶか︑
ヨン リン ユ
大衣を執っており︑種泉︑奉化︑順興︑楽州など︑ほぼすべて慶北北部一帯
に分布している︒
これらの像の中で︑保存状態が比較的良好である東本洞像と千聖寺像を開 泰寺中尊像と比較してみると︑大きな塊(マッス)のような重々しい量塊感 において互いに通じ︑頭部を大きくする身体比例︑手足を厚ぼったくあらわ す彫刻技法などで一致する
︒
ただし︑開泰寺像が偏祖右肩に大衣をつけるの
は異なる点である︒ 二O羅末麗初挿図11 石 造 如 来 立 像
慶北・嘘泉 東本洞
挿図12 石 造 如 来 立 像 統一新羅 慶 北 ・ 奉 化 千 聖 寺
開泰寺三尊仏像の全体的な造形感覚以外に︑細部表現においても慶北地域 の菩薩像との関連性が認められる
︒
ア ン ド ン イ チ ヨ ン ド ン
した肉警の表現は︑安東
・泥川洞摩崖如来像や骨窟庵摩崖如来立像(挿図
5)
一例として︑開泰寺中尊像の高く飛び出
のような︑新羅末から高麗初めに至る時期の新羅地域の彫刻に見られるもの
である︒
とくに開泰寺三尊仏像の顔だちの︑鼻筋が短く︑顎に縦の溝を刻む
チ ヨ ン リ ヨ ン サ
表現は︑骨窟庵摩崖如来立像をはじめとして︑礎泉
・青
龍 寺 石 造 毘 慮 舎 那
7 ミ ケ ム オ サ ノ
慶北大学校石造毘慮舎那仏坐像︑亀尾・金烏山石造菩薩
(補註日)
立像など新羅末から高麗初めの慶北地域の作例に見出されるほか︑中部地域
ウ ォ ン ジ ユ ポ
においては開泰寺三尊仏像をはじめ原州出土の鉄造如来坐像(挿図
7)
や普
ウ ォ ン サ カ ク ヨ ン サ
願寺跡の鉄造如来坐像(九四九年頃)︑覚淵寺石造毘慮舎那仏坐像(挿図
U)
仏坐像
挿図
臼)
︑ などの高麗初期彫刻に認められるもので︑慶北地域を中心にあらわれて中部
(却)地域に広がったものと考えられる︒
如来像の顎に刻まれた縦の溝のほかにも︑全体的な顔だちゃ体躯の表現︑
造形感覚において開泰寺像と近く比較し得る像は︑前述の覚淵寺石造毘慮舎
チ ユ ン ジ ユ ウ ォ ン ビ ヨ ン ド ン
や忠州・院坪洞石造如来立像(挿図日)
那坐仏像
(挿
図比
)
である︒この
うち︑資淵寺像の目鼻だちを見ると︑膨れた頬︑際立って短い鼻と長く引い
7 7ン JY ヨン
た眼の表現が開泰寺像とよく似ていることがわかる
︒
覚 淵 寺 に は 光 宗 代 に 建てられた通
一大師碑(九五八1九六O年頃の造立)が伝わっており︑摩滅し
て一
部しか判読できないものの︑中国に留学した通一大師が帰国して太祖の
(初)
帰依を受けたという内容が読みとれる
︒この寺は高麗初期に通一大師によっ
て重創され︑恵宗の時代
(九
四
=7
1九四五)に重修されたと伝えられており︑
像の制作時期は開泰寺創建の前後であろうと推定される︒
開泰寺像に見られるような量塊的な造形感覚を一不す像としては︑忠州・院
坪洞石造如来立像
(挿図日)をあげることができる︒
この像は現在︑頭上に 八角の宝蓋を載せているが︑これは後代に置かれたものと考えられ︑肉付き のよい方形の顔と腫れたような限︑短く鋭さのない鼻︑横長に閉じられた口 元︑四等身ほどの柱のような体躯は前述した種泉・東本洞石造如来立像とよ く似ており︑同じ系統の彫刻家グループによってつくられた蓋然性を強く示
唆する︒
さらに︑大衣には羅末麗初の彫刻の典型的な要素である広い帯状の 繋が刻まれており︑桔が広い縦壌をあらわすことも開泰寺像に類似する
︒こ
開泰寺石造
三尊 仏立像の研究
の像のある院坪洞の寺跡は︑光宗五年(九五四)に︑母后である太祖の第二
ス ン ソ ン サ (出)
王妃・神明皇后の冥福を祈るため光宗が創建した崇善寺と近い場所にある
︒
山麓に位置する崇善寺と異なり︑平地伽藍である院坪里の寺跡は崇善寺より なりの規模の寺が経営されていたと思われる
︒
先んじて建立された可能性が高く︑この仏像の大きさからわかるように︑か
このように︑開泰寺三尊
仏像に認められる様々な要素の中には︑当時は新
挿図13石造毘慮舎那仏坐像 高 麗 初 期 慶 北・ 櫨 泉 青 龍 寺 挿図14石造毘慮舎那仏坐像
高 麗 初 期 忠 北・椀 山 賀 淵 寺
美 fホf
jへ
仁コ 可 dc プL
五
研
羅の辺境であ
った慶北北部地域における羅末麗初の彫刻の特徴がはっきりと
ム ン ギ ヨ ン ケ サ ン
あらわれており︑同じ時期にこうした彫刻的要素が忠州︑聞慶︑塊山など
チ ユ ン チ ヨ ン プ ク ト ケ リ プ
今 日 の 忠 清 北 道
(忠北)
地域の彫刻にも見ることができる
︒
これは︑鶏立 嶺路を通れば稽泉から聞慶︑そして忠州への移動が容易であり︑また︑条
チユクリヨン
by ン ヤ ン チ ヨ ン プ ン
州 か ら 竹 嶺 を 越 え れ ば 丹 陽 へ
︑ そ し て
︑ 水 路 で 清 風 を 経 て 忠 州 へ 至 る こ
(詑)
とか
ら︑
両地域の往来が緊密となり︑慶北北部の匠人たちもたやすく忠州へ
移動して活動することができたためと思われる
︒
さらに︑前述した忠北地域 の高麗初期彫刻の制作年代が︑おおよそ開泰寺創建を前後する時期であると 考えられるので︑三
地域︑すなわち慶北北部︑忠州・椀山
一帯 ︑
山・開泰寺
一帯の︑相互の影
響関係まで想定することができよう
(挿図凶
) ︒
こうした地理的条件以外で︑趨泉︑楽州︑奉化など慶北北部の仏教美術が 忠州︑梶山
一帯の忠北地域に活発に影響を及ぼしうる決定的な契機とな
った
慶北地域の豪
族たちが高麗に帰附したという政治的な出来事と関連す
ヨ ン プ ン キ ヨ ン チ ヨ ン ジ ヤ ジ ヨ ク
る︒
そ の 代 表 的 な 例 と し て
︑ 慶 北
・ 築 豊 に 伝 わ る 境 清 禅 院 慈 寂 禅 師 碑 に
のは
︑
高麗初期 回
お 挿図15石造如来立像 忠北・忠、州 院坪洞
および連
韓半島地図 挿図16
ホノジユシ
よれば︑後三国統
一以前の九二0
年代︑慈寂禅師洪俊
(八
八
二1九三九)
が ︑
チヨングアン
高 麗 の 官 職
・ 正 匡 の 位 を 持 つ 壇 越 と 趨 泉 で 会 い
︑ し ば
らく止住したのち︑
(お)
太祖十七年
(九二O)
に開京へ入って太祖に謁したとあり︑すでに九
二O年
代には新羅辺境の豪族たちが高麗に帰附し︑この地域の文化を高麗へと結ぶ 橋渡しの役割を担っていたものと考えられる
︒さらによく知られた例として︑
チ ェ ア ム ソ ン チ ヨ ン ソ ン チ ン ポ ソ ン
Jピ
ル
太祖十
三年(九三O)
年には戴巌城
(慶北青松郡虞賓面
)
の善弼が高麗に帰
(M) 附したことがあげられる︒
善弼は高麗が新羅と接触した際に仲介役を担うほ
(お)ど︑この一
帯で政治的にかなりの影響力を持つ人物であ
ったようである︒そ
の影響力は青松周辺のみならず慶北の北部地域である栄州付近にまで広く達
プ ン ギ ピ ロ サ チ ン ゴ ン
していたらしく︑豊基
・毘慮寺の真空大師
(八五五1九三七)の碑文(九三
では大師の壇越として善弼について
言及し︑﹁園父崖善弼大将軍﹂
(部)
と称して惜しみなく賞讃している
︒ 九年銘)
このように︑地理的に見ると慶北北部の楽州︑奉化︑積泉地域は竹嶺や鶏 立嶺を通じて忠州へと繋が
って
おり
︑ 古 家 族たちの高麗への帰附によ
って慶北
地域の仏教文化が高麗に積極的に影響を与えるようになり︑この地域の彫刻 匠人たちが︑新たな仏事が多く行われる中部地域へ大挙して移った可能性が
大きい︒
前述した忠州・院坪洞石造如来立像や覚淵寺石造毘慮舎那仏坐像な どから確認されるように︑開泰寺
三尊仏像が示す慶北北部地域︑および忠北 地域の仏像との類似性は︑当時の政治︑社会的状況や地理的条件とともに理 解されなければならないと思われる
︒
(三
) 彫刻匠人についての推論 すでに後
三国が統一
される以前から︑新羅地域の彫刻匠人たちは中部地域
ク ン イ エ ( 補 註 凶)に移住して活動していたものと考えられる︒この時期には弓喬が泰封を建て
た九
O O年以来の新都建設など︑建築事業が活発に行われていた中部地域へ
キ ヨ ン エ ワ ン
の移動が始まっていたようである︒
景哀王四年(九
二七)︑慶州に侵入した
(訂)
瓢萱が﹁百工﹂を奪って帰ったという記事からも知られるように︑後三国の 君主たちは慶州文化に対する憧憶が大きかったと考えられる︒高麗初めにつ
ハ ナ ム ハ サ チ ャ ン ド ン ソ ク ク ル ア ム
くられた河南市下司倉洞出土の鉄造如来坐像(慶
州鉄仏
)に
︑石窟庵本尊 像の形式がそのまま再現されていることを見てもそれがわかる
︒これは地方
の豪族たちゃ有力家門の場合も同様だったらしく︑工匠たちが新しい需要の
(犯)
ある場所へと移って活動したものと思われる
︒
前述した太祖王建の疏文には︑﹁司局(官司)に命じて寺(開泰寺)を建て
させ﹂たとあった︒
ここで官司というのは国家的機関を意味すると考えられ るが︑はたしてどこのどのような性格の官司であったのか考えてみる必要が
ある︒
首都開京で寺院の建立を担った機関なのか︑あるいは地方の官司であ
ったのかはわからないが︑開泰寺創建当時の状況を見ると︑同時期に開京に
おいても四つの国利の創建工事が進行していたことから︑開京の匠人たちを
開泰寺石造三
尊仏立像の研究
開泰寺の工事に投入することは︑距離から見ても︑人力需給の問題において も無理があろう
︒
したがって︑もし太祖が地方の官司に開泰寺仏事の任を負 わせたとするならば︑当時これを請け負う最も有力な地域は忠州であったで あろう
︒
ク7ウォンギヨンチユンウォンギヨン
忠 州 は 新 羅 五 小 京 の 一 で あ る 園 原 京 ( 中 原 京 )
ハ ン カ / ナ ク ト ン カ ン
であり︑漢江と洛東江
(却)
が水系を交える地理上の要衝であるのみならず︑鉄と塩を産出し︑戦略的に
(判)
も経済的にも明らかに重要視されており︑ことに高麗王室の外戚として相当 の勢力を持った豪族・忠州劉氏の本拠地でもあった
︒
ポ プ キ ヨ ン ヒ ヨ ン ヒ
四 ) に 中 国 か ら 帰 国 し た 法 鏡 大 師 玄 輝
太祖は即位七年
(九二
チ ヨ ン ト サ
(八七九1
九 四 こ を 忠 州
・ 浄 土 寺
﹁親近なるところ﹂
という表現で忠州に対する気持ちをあら
にとどまらせ︑
(担)
わしているが︑この玄障の碑文(浄土寺法鏡大師玄陣碑文)に彼の壇越と記
ユグオンソル
さ れ る 劉 権 説 は 忠 州 劉 氏 の 家 門 の 出 身 で
︑ 贋 評 省 侍 郎 を 経 て 侍 中 を 歴 任
ヨ チ ヨ ノ ン ヨ ン
している︒
また︑劉権説の娘で太祖の第
二妃・神明皇后の生んだ莞(定宗)
パ ク ヨ ン ギ ユ (
位)は︑瓢萱の娘婿である朴英規の二人の娘を妃に迎え︑
ナ ク ラ ン ゴ ン ジ ユ キ ヨ ン ス ン ワ ン キ ム プ (
必)
楽浪公主は新羅・敬順王の金停と婚姻を結ぶなど︑
さらに太祖の娘である
後三国統
一の頃に高麗
王室が忠州を介して新羅︑後百済系の勢力と結びついている
︒玄障の碑文に
チ ヨ ン ジ ユ チ ユ ク チ ユ
は清州︑原州︑塊山︑竹州などの出身人物の名が見え︑また塊山・覚淵寺 の通一大師碑文にも忠州出身の人物たちの名が認められることから︑忠州の
(叫
) ソ ン ジ ユ サ ン
影響力が周辺地域に広く及んでいたことが知られる
︒
さらに︑玄障は聖住山
ム ン ( 補 註
幻)
門出身であるが︑楽浪公主が金惇と結婚し︑この聖住寺に隠居して
一生を
(必)
終えたと伝えられており︑忠州劉氏の影響圏が中部地域一帯に広がっていた
(必)と推定される︒
このように多大な影響力を持つ忠州の官司において開泰寺の仏事を主導し たとすれば︑忠州で寺院建立の公的財源を集めて連山へ送り︑忠州影響圏内