雲崗などと肩を竝べ、或は凌謝する規模と芸術性の高いことが明らかとなり、
麦積山石窟寺院について
町田是正
麦職山石窟耀・瑞応寺 わが国では﹁麦積山石窟寺院﹂の名称、そ して所在は余り知られてはいない。従来、中 国に於ける石窟寺院と云えば甘粛省の敦鰹 a目目“侭︶・炳溌寺︵匡眉冒頤色・ 山西省の雲崗︵冒口呂口巴・天竜山含の口 旨目の冒巳。河南省の竜門信。眉目①巳。 河北省の響堂山合の厨愚冒晶呂目︶など の経営が知られてきた。 一九五二年と五四年の二度に亘って北京中 央美術学院・北京師範大学・天津大学を中心 とする﹁麦横山石窟寺院勘察団﹂︵十五名︶ の学術調査が実施された。その成果は、文化 部社会文化事業管理局編﹁麦積山石窟﹂︵一 九五四年・北京︶として刊行され、麦積山の 全貌が公開された。その結果、敦爆・竜門・ 中国仏教芸術史上に占める意義が高く評価される (77)後になると響堂山石窟儘 代まで工事が続けられた。 に至った。 筆者が前記の麦積山調査報告番を北京直翰で入番して既に二十年の歳月を経た。いよいよ本書の資料的価値は高まっている。 我国では麦積山の研究と調査とは未開拓の領域である。しかし、将来かならず大々的に研究がすすめられる領域であると信ずる。 此処に紹介を試み関心を喚起する所以である。但し、この小論では、中国仏教史上の意義、芸術史上に占める位置の評価につい ては、余りふれないこととする。後日の研究にまちたい。
◇◇◇
かいさく 中国の石窟寺院の開鑿を促したものは、印度の厨吊冨目︵クシャーナ︶王朝のの目鼻胃画︵ガンダーラ︶仏像 彫刻と、の5国︵グプタ︶王朝の塁自国︵アジャンタ︶並に国ざ国宝ローラ︶の石窟芸術の伝来である。 しんきょう 印度の石窟文化は西北インド・アフニガスタン・新副省を経て四世紀には甘粛省西端の敦煙識鑑輔垂鍜味十藝晒極 どんよう 総弱唱︵千︶に達し、それから一世紀後の五世紀中葉︵穀︶に北魏の文成帝のもとに僧曇曜が中心となり、首都大 同︵平城︶から遠くない所に雲崗Gし︾池痘溶琵”“毒華維導︶石窟金柳を開堀したのが中国内地に於ける最初の石窟であ る。洛陽遷都晶惣に伴って近くの竜門石窟晶慨醗噸率顎銅垂誕執奎奔靴癖や識瓢埋鰄也に工事の重心が移り、五○○年前 きょうけん 後からは義県万仏堂石窟晶熱︶・下花園鶏鳴山石窟嬬騨ル︶・河南省誰県石窟などが開かれ、北斉の五五○年以 後になると響堂山石窟命鍼か銅南︶・天竜山石窟知蝿噛・山東省の諸窟錆癖蝿職壺確叫諏銅雛蓉が始められて階・唐 ※中国石窟寺のインドと異る点は、純粋の僧院窟︵ぐ夢胃画85m︶がなく、また塔婆窟︵呂凰ご“8ぐ$︶も僅かに雲崗にみるだ けで、悉とが仏像彫刻︵石刻と塑像︶であることである。 従来、中国仏教史︵芸術史︶に於て、石窟芸術の伝来と開盤の経緯は大略して前述のようである。そこには麦積山麦積山に石窟が最初に開鑿されたのは、北魏宣武帝の景明三年晶惣のことと思われる。即ち、麦積山西雌の最大 級の規模である﹁万仏堂窟﹂︵碑洞︶の壁面に、景明三年九月張元伯の窟鑿の発願文が残されている。やや下って、 北周の保定年間金蕊J・天和年間金蕪I︶に秦州の大都督李允信が、亡父追善のため七仏寵︵散花楼上七仏閣︶ を造っているのが最初期のものである。 ※玉堂間話︵五代時代・作者未詳︶には﹁麦積山者、北跨清澗、南漸両当、五百里崗密、麦積処其半、堀起一石塊、高百萬尋、望 之団団、如民間積麦之状、故有此名。其青雲之半、蛸壁之間、鍜石成仏、石寵千室、錐自人力、疑其神功﹂とある。五代は九○ &吻酵調二︶に穏棲したとす︾ 弟子を育成したと伝えられる。 石窟の名称は一切でてはこない。当に麦積能の開窟は古く、話題は新しいの一語につきるのである。 ※麦積山石窟の名称は、昭和二十九年より以前の出版物︵事典・美術全集・地図︶には一切記職がない。
◇◇◇
ばく栓きざん 麦積山石窟寺院は、甘粛省天水県の東南に開鑿されている。秦嶺山脈の西端に位置し、天水県から四五キロメート ル、当に辺境の地と云ってよい。麦積山へ至るには、天水県から東南へ三五キロメートルの比較的平坦な道を進んで 麦積峡の入口に到達する。さらに滑水河支流の渓谷に沿って蛇行する細道を約一○キロメートル進めば山麓に到達す る。この山は特異な形状をしており、円郷形の奇峯で農村の麦穂を積み重ねた形状に似ている。このことから麦積山 の呼称がある。 麦積山開創の年代は的確にとらえることはできないが、およそ、五世紀初頭と思われる。釈曇弘が宋の武帝時代 吋吻解調二︶に穏棲したとする記録砿庫高︶があり、また数年後には釈玄高が来たって曇弘と相い会し、三百余人の (79)七年から九六○年であるから、十世紀初頭すでに、麦種山の所在は相当広く知られていたと思われる。
◇◇◇
麦積山は地上から一四二メートルの高さがある。恰も麦穂を積み重ねた円錘状の奇峯である。麦穂崖石窟の入口に は、観音菩薩を祠る塑造の瑞応寺があり、麦積崖の管理に当っている。また山頂には、階代建立の舎利塔が一基建っ ている。既に冒頭にも述べたように、一九五二年.一九五四年の両度にわたって﹁麦積山勘察団﹂によって、寵窟︵塔 窟彫刻︶と磨崖寵︵磨蟷彫刻︶とについて精細な学術調査が実施された。 ※麦積山勘察団による調査は一九五二年の冬期から進められ翌年七月から本格的に開始された。垂直的な絶壁の寵窟の調査は困難 と危険を伴った作業であった。しかし夫々専門部班に分れ、絵画班は石窟壁画を百五十幅描写、彫刻班は石膏をもって実体模型 十九躯をつくり、撮影班は一千枚以上の写真を撮り、測量班は九二の篭窟のすべてについて細密な測致をした。その結果は﹁麦 積山石窟内容総録﹂として縄集され、そのダイジェスト版として﹁麦積山石窟﹂︵文化部社会文化事業管理局編︶として公刊さ 東崖の寵窟で最も重要なものは、浬藥窟・千仏廊・散花楼上七仏閣・牛児堂・中七仏閣などの窟である。これらの 寵窟はすべて規模は大きい。以下に少しく紹介を試象よう。 麦積山は粗く脆い泥土質の山である。永い年月の風雪にさらされ、その蛸壁は風蝕と雨水の浸蝕におかされ、さら に地震などのために所々に亀裂と崩壊が見られる。とくに麦積崖は中央の部分で縦に大きな亀裂︵岩壁が大きく崩れ ●●●●●●●●●●●
裂けている︶が象える。この大亀裂をもって麦積崖を便宜的に東崖と西崖の二つの部分に分けられている。側・東崖の舘窟について。
れた。㈹浬梁窟⋮釈迦の浬樂塑像があ
り、その後側の壁には十大弟子の結 珈跣坐の塑像が彫られている。この 寵窟は魏代晩期︵六世紀初頭︶に開 鑿されたものである。窟内の塑像は 明代に修塑されているが、それでも 魏代の特徴綿謬謬の︶を伝えている。 また龍窟の入口に立つ四本の石柱は、 遠く古代ギリシャの列柱僻か︾秘榊 却ァ︶を想わしめるものがある。窟 内の長さ七八七センチメートル・奥 伝えているものがある。 け散花楼上七仏閣.例散花楼上七仏閣・ に分かれて二五八躯の坐像が隙間なく並座している。後世に幾度か修復されてはいるが、少数の塑像は魏代の作風を ㈲千仏廊:魏代︵五世紀︶に開盤された磨崖龍である。龍廊の長さは三二メートルあり、岫壁の磨醗は上下二段 行二八九センチメートルである。 ・・七つの篭窟から成り麦積山石窟中、最も規模の大きいものである。地上より五○メートル余 の高さに鑿窟されている。蛸壁上に七ケ処開盤されている龍窟は、悉ど規模は同じで、窟の高さは八八○センチから W 一一 一麹?一一一…一一一一一 一一一 / K・協錫“綴亭葡閥 』 1 一 一 通・雛。蝉蝿溺 拷雲雲弓寧"‐黛蕊辱舗ラーデー-l ・審議幽凄淺澱鋪溌
。 ‘ Ⅲ §蕊位鍛I 撫.‘,…‘?_,,震. ・緯‘率。 蔚鏡騨身再毒瞬
蝿印肉春■▽ ,v…nA熱“ −−‐一手一 麦積山東崖・混桑窟実測絵図 (81)これら壁画は附か初唐の頃の作とぶられる。七仏穂窟の内部には合せて七五躯の仏像と脇侍像がある。ことに左端と ●●● 右端の寵窟の入口に立つ天王像︵仁王像︶は、見事な彫りの塑像である。左端廊の天王は口を開いた阿形像、右端廊 のものは口を閉じた畔形像で、いずれも筋骨たくましく仏国土に至る門を守護するにふさわしく、力感にゑち岩坐の 上に立っている。彫塑年代は魏或は北周の頃で、宋代に補修がなされている。 ※塑像とは泥土づくりの仏像のこと。荒い土の中塗りから細かい泥土による上塗り、表面はふるいにかけた上質の泥土に雲母を混 入した土を使って仕上げをする。ときに彩色をすることもあり、唐代に流行した。中国の石窟では敦耀千仏洞と麦積山の彫塑が ー ヨョL 認 ↓ 制 , I 鷺
鎌v靹州
’ ー 凶、〃 Fァ3︲塔■醗忠丸でF公爵亭f於律ゆ 1 1 綴誇職11
《 編、渉獄
鍔灘辮
~ L具 ー I . 季毎今44白 墨多寸 WRf、競騒鵜織騒 一一一 上仏閣・散花楼崖閣長廊右端天王像絵図 八九○センチメートルある。各窟の入口には八角 の石柱が支えをなしているが、その直経は一○五 センチメートルある。この七仏寵窟は、秦州の大 都督李允信が亡父の追善のために創寵したもので 有名な作家庚信は﹁秦州天水郡麦積雄仏寵銘﹂と 一篇の書を残している。呈抵蚕釦帷﹂︶これら七寵 窟の天上壁は色彩豊かな壁画で飾られている。壁 画の図柄は、四人の伎楽天人が羽衣をまとい音楽 を奏し、散華のなかを遊泳する姿であり、その舞楽 天人の姿は僅美で巧みな筆致で表現されており、 壁画とは思えぬ程に原形がよく保存されている。㈲牛児堂.:この寵窟は前記の七仏閣 龍のやや上方に位置しいてる。牛児堂は 三個の寵窟と前廊とから成り、その中央 窟の入口前廊に立つ﹁脚踏牛児の天王﹂ 塑像のあるところから、牛児堂の呼称が ある。小牛を脚で踏まえた立像は凡そ四 二○センチメートルあり、威厳に象ちた 彫塑である。寵窟は高さ六○○センチ・ 奥行四一五センチメートル。窟内中央に
奥行四一五センチメートル。窟内中央に
I
は結珈鉄坐の如来像、その左右には六体の脇侍一 代に修補され、明代に塗粧が加えられている。錠 の柱頭にある石刻の科拱である。我が国の寺院唾 でふっと せは出三科の様式と全く類似している。ことに一 さて、東蟻にはこの他にも多くの寵窟がある。 ・六世紀を下らない彫塑である。 来像、その左右には六体の脇侍立 知られている。 像が彫られている。脇侍像はいずれも柔和・優美の彫りで、共に宋 明代に塗粧が加えられている。それから、牛児堂窟で注目されるのは、寵流の入口に立つ四本の石柱 刻の科拱である。我が国の寺院建築の組物の原流を想わしめ、柱上の大料・肘木上の巻斗・その組合 式と全く類似している。ことに石刻である点に興味がもたらされる。 はこの他にも多くの寵窟がある。それらの窟内の塑像は魏時代の原型を良くたもち、いずれも紀元五 七仏閣崖閣・長廊左端天王塑像 (83)の規模は、奥行二七○センチメートル、窟内の最大柵は一四九四センチメートル。最も高いところで天上壁まで五 九七センチから六一○センチメートルである。 ※玉堂間話には﹁由西閣懸梯而上、其間千房閏屋、縁空鰯虚、登之者不敢回顧。将及絶頂、有萬菩薩蛍、鑿石而成、勝古今之大殿 其離梁画拱、雛棟雲楯、並就石而成。麓鴨稗薩、列於一堂。﹂︵﹁太平暦記﹂第三九七巻より︶とあり、潤仏堂と呼称される由其離梁画拱、雛棟雲楯、 玉堂間話には﹁由西閣岬 西殿の蛸壁には三個の寵窟がある。それらは 麦積山寵窟のなかでも重要なものである。いず れも魏代晩期の六世紀初頭に開鑿されたもので ある。 价万仏堂窟⋮西窟媛中で最も規模が大きく、 別称﹁碑洞﹂とも云う。寵窟内の構造は極めて 複雑である。寵窟は入口が一ヶ所で、窟内に入 ると大きく開けており、さらに左︵甲窟︶と右 ︵乙窟︶に洞窟が分かれている。万仏堂窟全体
側・西崖の蕊窟・塑像
古くから万菩薩堂とか万仏堂と呼ばれているか、それは瀧窟の四壁に文字通り無数の小型の﹁賢劫千仏﹂が彫りと 来についてのべている。 凸 4 1 t f 9 I H q 0 2 K O リ 心 沮 且 甘 I 吸 炉 学X息”季 凝轡膏S鉱 鏑鰯●、'岬 鍔狭山義塩湖繊圏 麦横山石窟・牛児堂寵実測絵図術が盛行した唐代の作品で、僅かに後の宋代に一部修復がなされている。当に衆生を極楽浄土へと引導する仏の姿が らいごういんじようがん 表現されている名作と云うべきで、余力があれば、我国の平安朝期の阿弥陀如来の来迎引接願との関連性について、 追究するのも興味あるところである。万仏堂洞は浸蝕が甚だしく、塑像の破損がはげしく姿態が判然としないものが 多いのはおしまれる。特に四壁の賢劫千仏の彫塑が大部分剥奪されているのは、残念なことである。 伺天堂洞.:万仏堂より更に上へと桟道を渡って登れば、西雌の最高処にある天堂洞に至る。 ※玉堂間活には﹁自此室之上、更有一寵、謂之天堂。空中椅一独梯、發縁而上。至此、則蔑中無一人敢登者。於此下願、其蘂山皆 牛児堂第三寵右脇侍像 まれているからである。賢劫千仏と は、成住壊空の四劫中、住劫の荘厳 劫︵過去︶・星宿劫︵未来︶・賢劫 ︵現在︶の三時の賢劫の間に千仏が 現われると云うに由来している。正
面窟室が左右に分れる入口を﹁迎
門﹂と呼称しているが、その入口に じよういんぶつ 立つ﹃接引仏﹂は高さ三五○センチ メートルあり、慈味恩顔・姿態も優 美であり、大理石彫像を想わしめる 美しさがある。此像は中国の塑像芸 (85)天堂洞には北魏時代の塑像が沢山残っており、その篭窟 には麦積山としては珍らしい硬質の石刻彫像二尊が安置さ れている。明らかに他処から移し来ったものである。窟内 の天上には一面に疾駆する馬上に騎士が互に攻伐し合う戦 の場面が描かれている。処食剥落があり色が槌せているが 騎上の勇士の姿を生なと伝える手法は見事である。 この他にも、西崖には第一二七号窟。第一二三号窟・第一 例第一二七号窟⋮西崖窟中の最も小さいもので、唐代或は五代時代の製作になる海草の美しい模様の壁画で飾ら れ︵藻井壁画︶、正面寵には魏時代の坐仏塑像と、左右に脇侍立像がある。左右の室にも坐仏と二寵侍︵供養人像︶ ︾ 。 。 如培域。王仁裕時独能登之、価題詩於天堂西上日・蹄尽懸空 茂 偲 梯 、 等 間 身 共 白 雲 斉 。 誉 前 下 視 肇 山 小 、 堂 上 平 分 落 日 低 ・ 絶頂路危人少到、古厳松健鶴頻棲。天辺為要留名姓、払石股 勤手自題。﹂とあり、五代詩人・王仁裕︵八八○’九五六、 天水県の人、唐末秦州節度判官、後漢のとき翰林学士・更に 兵部尚醤となる。﹁仁裕遺民の口に採撫す、国史を以って証 する能はず﹂と伝えられる人物である︶が麦積崖に遊び、情 感を墨餓に托して洞内にとどめたと伝うるも、今はみること が出来ない。 六○号窟・第一六五号窟など幾つかの燕窟が知られてい q▼4 9?β角も#1配私妙I珊唾欽肺嘩蝿“’吋準唾磁 V~ 蜘蝿戦争■屍 = .、、−ぞ 、一口一雨一… 麦積山西崖・万仏堂寵平面図
術の高さを知ることができる。 ○一噂︲IlQgj.︾ 〆一 ら ◇ I 謡一一Mツ0− 一一 毎−−−−ぅ蓉 第I懇毅聞闘¥一V 1−ー ー 麥漁幽履漁綱繍闘 4拾 西崖万仏堂寵甲窟(左) 彫塑群図 があり、脇侍は右手掌中に供養の品を捧げ持ち、坐仏は双肩着衣 で半珈跣坐の形をとっている。 ㈲第一二三号窟:.この寵窟は魏時代に開鑿され、そこには同 時代の供養童男・童女の塑像が各一体ある。その形像と着衣を承 るとき、他の窟に承られる供養人像とは大いに異なっている。頭 永ずら 髪が角髪調に結っており、衣裳は今様で云えば丸首のワンピース を着した姿であり、明らかに西域の胡人の風俗を示している。坐 仏塑像︵魏代︶にしても、袈裟もなく、何かセーターを羽織った 感じがする。ともかく、この麦積嵯寵の芸術伝達経路を知る上で 大きな示唆を与えるであろう。 ㈹第一六五号窟⋮この窟は北魏時代に開鑿され、宋代に大登 的に改修が行なわれ、窟内の塑像も悉ど宋代の彫塑である。窟内 の二体の女性供養人像は、目が極端なまでに吊上り、頬は豊満な 肉づきで生をとしている。中国の石窟彫像のなかで、これ程の優 れた塑像は発見されてはいない。明らかに十二世紀宋代の彫塑技 ◇ ◇ (87)
麦積山石窟の調査と研究が開始されて日も浅く、いまだその緒についたばかりである。しかし、麦積山は中国仏教 史上に於て極めて重要な意義を有し、その規模に於て、彫塑の芸術性に於て、また場所的意味に於て、決して無関心 曾って、一九二○年以降、中国大陸は列強諸国の侵略に相遇した。そのとき、この地域の人々は麦積雌の洞窟内へ と避難するものもあり、洞内で焚火・炊事をした事もあって、窟は薫灼と破壊がもたらされ、貴重な彫塑に損傷が加 えられたことは残念なことである。加て、地震と風蝕などの自然災害による破損も大きかった。 中国政府は現在、中国人民の偉大な芸術遺産として、その保存には万全の対策を進めている。 以上、卿か麦積山石窟寺院について紹介を試ゑた。今のところ、我国に於てはこれ以上の内容を知ることは不可能 である。今後の調査と研究にまつ所、大いなるものがある。 ではいられないのである。 ◎参考文献 昭和二九年以前、我国で刊行された雁史事典・芸術蒋・地図・には、麦横山の名称を探すことは困難である。 ①文化部社会文化事業管理局編印﹁麦積山石窟﹂︵一九五四・北京︶ ②万有百科大事典﹁美術﹂︵昭和四八年・小学館︶ ③世界美術全集七﹁中国古代I﹂︵昭和二九年・平凡社︶ ④世界美術全集八﹁中国古代Ⅱ﹂︵昭和二九年・平凡社︶ ⑤岩波写真文庫﹁中国の彫刻﹂︵一九五八年・岩波書店︶