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会津・恵日寺の木造僧形坐像

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(1)

著者 若林 繁

雑誌名 東京家政大学博物館紀要

巻 20

ページ 99‑113

発行年 2015‑02

出版者 東京家政大学博物館

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00010364/

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はじめに

恵日寺は現在真言宗で、磐梯山の峰続きの古城ヶ峰の麓、福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯字本寺上 に位置する。江戸時代に成立した当寺の縁起や諸書によれば、恵日寺は大同 2 年(807)に空海が 建て、その後徳一(徳一は得溢などとも記されるが、ここでは「徳一」に統一する)に託したとあ る。しかし 12 世紀初期に成立したと考えられている『今昔物語集』巻 17「陸奥国女人依地蔵助得 活語」(註1)や徳一の伝記などによれば、恵日寺を建てたのは徳一であるとしている。恵日寺が徳一 によって建てられた寺であることは、これらの記事によって明らかで、当初は法相宗であったと考 えられる。往時はかなりの伽藍を有していたことが、応安4年(1371)から応永25年(1418)頃の 製作と考えられている「恵日寺絵図」(恵日寺蔵)によってうかがえる。しかし火災などにより次 第に衰え、それぞれの時代で復興されてきたとはいえ、最終的には明治2年(1869)に廃寺となっ てしまう。そこで当時衰退していた恵日寺の末寺である観音院の名称を恵日寺に移し維持していく が、由緒ある恵日寺を復興させるためには、観音院の名称では目的を達することができないとし て、当時の住職、総代ほかの人々は恵日寺の寺名の復旧を願い、これが認められて大正2年(1913)

に寺号が復興する。これが現在の恵日寺である(註2)

現在、恵日寺本堂内陣の左右の壁側に真言八祖坐像、中興実賀坐像などの肖像彫刻が安置されて いる。須弥壇上には多くの仏像が安置されるが、最上段中央に本尊である千手観音立像が安置され る。そして向かって右脇壇に弘法大師坐像が納められ、同左の脇壇に安置されているのが、ここで 取り上げる僧形坐像である。左右の脇壇に安置されるこれらの像は、いずれも江戸時代の造立と考 えられる。真言宗の寺院で、弘法大師像とともに本尊の脇壇に安置されるのは、通常興教大師像で ある。興教大師覚鑁は平安時代後期、新義真言宗の開祖であるとともに真言宗中興の祖といわれ る。円頂とし、法衣を着け、左肩より袈裟を懸ける。両手は屈臂して胸前にあげ、袖の下で組み結 跏趺坐するすがたが一般的である。ところが恵日寺像はまったく違った印相で、興教大師像とは考

会津・恵日寺の木造僧形坐像

若林 繁

Sitting Wooden Statue of Buddhist Priest in Enichiji Temple, Aizu Shigeru W

akabayashi

造形表現学科 日本・東洋美術史研究室

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えられない。ここには恵日寺独自の縁起が反映され、真言宗の通常の安置尊像とは異なる高僧の肖 像が選択されたものと考えられるのである。本稿では江戸から明治時代の恵日寺の歴史を踏まえな がら、当肖像の対象となった僧を明らかにすると同時に、現恵日寺に伝来した経緯について考察し てみたい。

1.各像の概要

現恵日寺本堂には、僧形坐像以外にも多くの肖像彫刻が 安置されている。僧形坐像を考察する上で関連すると思わ れる諸像について、 それぞれの概要からみていくことに する。

木造僧形坐像は像高が68.7㎝である(註3)。円頂とする。法 衣を着け、左肩より袈裟を懸ける。左手は屈臂して膝上に おき、掌を上に向け第 1,3,4 指をまげ、第 2,5 指を軽く まげ経巻をとる。右手も屈臂して膝上におき、掌を上に向 け第 1,3,4 指をまげ、第 2,5 指を軽くまげ数珠をとる。

結跏趺坐する(両脚は衣に覆われる)。台座は曲彔上の畳座 で、畳座右前隅に水瓶をおき、曲彔正面下に沓をそろえる。

寄木造で、玉眼嵌入、胡粉地彩色とする。詳しい構造は 以下のようになる。頭部は両耳前を通る線で前後に二材を 矧ぎ、襟の線で差し首とする。体幹部は前後に二材を矧ぎ、

前後材とも像底より 9.0〜10.5㎝の高さまで刳り上げ、中央 部に底板をあてる。両肩先より地付きまで通して体側に竪 に各一材を矧ぎ、体幹部と同じ高さまで像底より刳り上げ 底板を残す。脚部は横に一材を矧ぎ、脚部の造形に沿って 体幹部と同じ高さまで像底より刳り上げる。両手前膊袖口 部上半は各一材を脚部材の上に矧ぎ、両手首をそれぞれ袖 口に差し込み矧ぎとする。裳先を矧ぐ。

同時に安置される弘法大師坐像は、 像高が 68.2㎝であ

(註 4)。円頂とする。法衣を着け、左肩より袈裟を懸け左

肩前で結ぶ。左手は屈臂して膝上におき、掌を上に向け第 3、4 指をまげ、第 1,2,5 指を軽くまげ数珠をとる。右手 は屈臂して胸前にあげ、掌を上に向け5指をまげて五鈷杵を とる。結跏趺坐する(両脚は衣に覆われる)。台座は曲彔上 の畳座で、曲彔正面下に沓をそろえるのみである。左手に 数珠、右手に五鈷杵をとる弘法大師像の通常のすがたにあ 2. 木造弘法大師坐像

1. 木造僧形坐像

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らわされている。

寄木造で、玉眼嵌入、胡粉地彩色とするが、細部の構造において僧形坐像とは多少異なる。頭部 は胸部肉身部まで一材で彫出し、面部及び後頭部に各一材を矧ぎ、襟の線で差し首とする。体幹部 は前後に二材を矧いでいるようである。像底より刳り上げ底板を残す。両肩奥より地付きまで通し て竪に各一材を体側に矧ぎ、体幹部と同じ高さまで像底より刳り上げ底板を残す。脚部は横に一材 を矧ぎ、脚部の造形に沿って体幹部と同じ高さまで像底よ

り荒く刳り上げる。左前膊袖口部上半は一材を脚部材の上 に矧ぎ、左手首を袖口に差し込み矧ぎとする。右前膊袖口 部も一材を脚部材の上に矧ぎ、右手首を袖口に差し込み矧 ぎとする。裳先を矧ぐ。その他、細部に小材を矧ぎ足す。

左肩前の袈裟の結び目が欠損し、彩色が一部剥落するなど、

多少の損傷が認められる。

弘法大師坐像は若々しい表情で、それに対して僧形坐像 は壮年の相貌がうかがえる。弘法大師坐像の脚部の衣文の 彫出は整理され、堅苦しさがみられる。これは弘法大師像 のすがたが確立され、定型化してしまっていることによる ものかもしれないが、僧形坐像では袈裟が舌状に脚部にか かり、いくらか自由に衣文が処理されている。構造におい ては多少相違するものの、衣文の彫出などが鈍く、顔貌表 現も力強さに欠け、形式化した造形は両像に共通するもの で、同時期の造立と考えられる。

さて両像の造立年代を考えるとき、同じく内陣の奥に安 置される木造実賀坐像が参考になるであろう。像高が 46.5

㎝である(註 5)。円頂とし、燕尾帽をかぶる。法衣を着け、

左肩より袈裟を懸ける。両手は屈臂して胸前で合わせ、各 第2指を屈して甲を合わせる。畳座上に結跏趺坐する(両脚 は衣に覆われる)。寄木造、玉眼嵌入、胡粉地彩色とし、詳 しい構造は以下のようになる。頭頂より頭体通して両体側 部をも含んで地付きまで、両耳後ろから体側を通る線で前 後に二材を矧ぎ合わす。前後材とも像底より6.5㎝の高さま で刳り上げ、底板を残す。脚部は横に一材を矧ぎ(裳先も 共木か)、脚部の造形に沿って 5.5㎝の高さまで刳り上げる。

両腰脇先に各一材を矧ぎ、体躯と同じ高さまで像底より刳 り上げる。両手前膊袖口部は各一材を脚部材に上に矧ぐ。

両手首より先を一材で彫出し、各袖口に矧ぐ。燕尾帽は帽

3. 木造実賀坐像

4. 木造実賀坐像 畳座背面中央木札刻銘

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子部は木造彩色、肩にかかる垂下部は紙製彩色である。この像で貴重なのは、畳座の背面中央に木 の札(高45.5㎝ 幅12.2㎝ 厚1.6㎝)が立っており、ここに以下の刻銘があることである。

  [畳座背面中央木札刻銘]

  所生二本松領玉井邑折井本主安藤義重之八男 恵日寺

    両寺中興 五十六世法印実賀之像 観音院 元禄十三辰年三月十二日入院     享保六辛丑歳十一月令隠居者也

この刻銘により当像が、恵日寺、観音院両寺の中興の祖である実賀とわかる。さらに実賀は元禄 13年(1700)に入院し、享保6年(1721)に隠居したことが知られ、江戸時代の恵日寺の中興に中 心的な役割を果たしている。

本堂内陣の壁面左右に安置される真言八祖像のうち、第7祖の恵果阿闍梨坐像(註6)の像底に以下 の墨書銘がある。

5. 木造恵果阿闍梨坐像(真言八祖像のうち) 6. 木造恵果阿闍梨坐像 像底墨書銘

  [像底墨書銘]

中興法印実賀為菩提 享保十一午天 㐧        七七

これによりこの像が実賀の菩提のために、享保 11 年(1726)に造立されたことがわかる。他の真 言八祖像も同時の造立と考えられる。実賀は享保6年に隠居した後、同11年までには示寂したもの であろう。恵果阿闍梨坐像と実賀坐像の形式化した造形は共通するもので、実賀坐像もほぼ同じ頃

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に造立されたものと考えられる。すなわち隠居した享保6年から同11年頃の造立とみなされる。弘 法大師坐像、僧形坐像も実賀坐像や恵果阿闍梨坐像と平面的で鈍さの残る造形は同様で、両像もほ ぼ同じ頃の造立と考えられるのである。ただし3像の構造を比較してみると、実賀坐像は頭体通し て両体側部をも含んで前後に二材を矧ぎ合わせるもっとも単純な寄木造の技法で、在地的色彩が強 い。弘法大師坐像は頭部を一材で彫出し、細部に小材を矧ぎ足すなどやや荒さのある在地的な寄木 造の技法を示す。それに対して僧形坐像は規則性のある寄木造の技法で、他の2像に比べて洗練さ がみられる。各像とも技法においては相違があるものの、造形には大きな隔たりはない。会津で造 立されたものと思われるが、技法上の相違は作者の違いと考えられる。

2.江戸時代の縁起にみる恵日寺の創建

江戸時代に成立した恵日寺の縁起や同じく編纂された諸書に記載される縁起などにおける、恵日 寺の創建事情についてみてみたい。最初にあげられるのは、「恵日寺縁起」(註 7)であろう。寛文 5 年(1665)の成立で、恵日寺の縁起についてもっとも詳しく、以後の諸書に影響を与えたものと考 えられる。すでに恵日寺は完全に真言宗となっており、その始まりを大同2年(807)、空海の創建 としている。すなわち昔、会津山は魔物が崇りをなす山で病悩山と呼ばれていた。大同2年、

  (前 略)

釈空海奉詔来而加持於八田野稲荷森駆縛鬼魅于烏帽嶽改山号磐梯海手執三鈷杵祈日願 此杵先占霊区便向空中擲之其杵飛入雲中降懸紫藤(中 略)乃就其処建寺置丈六薬師 金像脇士日光月光十二神将四天王等為密法興繁之勝場也

  (中 略)

弘仁元年海付嘱寺得溢而帰京矣(下 略)

とあり、空海が詔を奉り当地に来て、八田野の稲荷森で加持し魔物を烏帽嶽に駆縛し、山の名を改 めて磐梯と号した。空海は三鈷杵を投げて霊区を占うと、その杵は雲中に飛び入り降って紫藤に 懸った。すなわちその処に寺を建て丈六薬師如来像、脇士日光・月光菩薩像、十二神将像、四天王 像等を安置し、密教興繁の勝場としたという。そして弘仁元年(810)に空海は寺を徳一にたのみ、

京都に帰ったとある。

寛治3年(1089)第8代弟子経範が記したと序にある『弘法大師行状集記』(註8)は「恵日寺縁起」

にも引用されているが、その「陸奥国恵日寺条第七十八」には

大師普令修行東国。夷狄之輩致帰依。其威徳力自然及遠近。而陸奥国合津郡。越後出羽三ヶ 国之境也。訪択殊勝閑寂之地。建立一伽藍。題恵日寺。其堂。瓦葺五間四面金堂一宇。有礼 堂庇。奉安置皆金色丈六薬師如来。脇士日光月光菩薩。彩色十二神将等各一体。四面廊僧 房皆具足。(中 略)于今住僧三百余人。修行密教。為霊験殊勝伽藍。但彼国自本有聖人。

号名徳壹菩薩。大師此菩薩付嘱寺。大師皈洛。(下 略)

とあり、大師が夷狄を帰依させ、陸奥国会津郡に殊勝閑寂の地を選び、一伽藍を建立し恵日寺と題 し、丈六薬師如来像以下の諸像を安置し、密教修行の霊験殊勝の伽藍としたという。続いて会津に

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はもとより聖人がおり、名を徳一菩薩と号し、大師はこの菩薩に寺をたのみ、京に帰ったとあり、

「恵日寺縁起」と同様の内容を伝えている。「恵日寺縁起」は創建時について、『弘法大師行状集記』

を基本としたものと考えられるのである。同じく弘法大師の伝記である『弘法大師御伝』(註 9)は、

その末尾に

成蓮院兼意阿闍梨集三巻文。所引之文。全同此書。然則今本兼意之本作歟。但三巻二巻可 撿尋。或是本脱中巻歟。

とあり、仁平2年(1152)成蓮房兼意の撰といわれる。ここにも『弘法大師行状集記』と同内容が 記され、やはり

但彼国自本有聖人。其名徳壹菩薩。大師此菩薩付属此寺。大師帰。

とある。『弘法大師行状集記』や『弘法大師御伝』では、徳一が弘法大師以前より会津に住してい たことを認め、徳一を「菩薩」と称し尊んでいる。古くより会津で布教活動を実践していた徳一の 存在を無視することができなかったと同時に、実際に恵日寺を建立したのが徳一であるという歴史 的事実を否定しきれなかったのであろう。整合性をはかるために弘法大師創建、徳一菩薩付嘱とい う構図が成立したものと考えられる。寛文12年(1672)、会津藩主保科正之の命により、向井吉重 が編集した『会津旧事雑考』(註10)に至ると、

  (前 略)

海師居数年有詔帰洛時法相宗徳一先来住当郡故海師附此山一伝密法(下 略)

とあり、弘法大師が詔により京に帰るとき、法相宗の徳一がまず会津に来て住んでいたので、空海 は徳一に恵日寺を付し密法を伝えたと、より整理されてくる。その後、文化6年(1809)に会津藩 の撰になる『新編会津風土記』(註 11)にも、この縁起が踏襲されていく。先の「恵日寺縁起」の

「恵日寺代々先師」の条では弘法を初祖とし、二代を徳一とする。三代は金耀となっている。

さて「恵日寺縁起」によれば、その後徳一は筑波山に寂すとある。寺僧が伝えるところとして 得溢寂于筑波山時有奇異之告而金耀固豪力遂取溢首来葬于此矣自来溢忌日筑波十一月八日 行之此山十一月九日行之

とある。徳一が筑波山で寂したことを知った弟子金耀は強引に徳一の首を取り、恵日寺に葬ったと いう。それより徳一の忌日は筑波では 11 月 8 日、恵日寺では 11 月 9 日に行うとある。13 世紀中頃 の成立といわれる『南都高僧伝』(註12)の徳一の条では

天長元年七月廿七日自恵日寺下着常陸国。年七十六。徳一寺常陸国御建立。山寺名中禅 寺。

と、徳一は 76 歳、天長元年(824)に恵日寺より常陸国に下着し、常陸国に寺を建立したことに なっている。「恵日寺縁起」の記載は、このような徳一の伝記とも関連するのであろう。縁起では 筑波山に寂すとあるが、元亨2年(1322)虎関師錬著の『元亨釈書』(註13)巻第四の徳一伝では

一闢常州筑波山寺。門葉益茂。而嫉沙門荘侈麁食弊衣恬然自怡。終慧日寺。全身不壊。

とあり、徳一は常陸の筑波山寺を開き、僧のおごることをにくみ、粗末な食事と弊衣を自から喜 び、恵日寺に終わるとある。『元亨釈書』の内容の方が信憑性は高いと思われるが、江戸時代の恵

(8)

日寺では縁起の説が信じられていたようである。貞享2年(1685)に恵日寺の年中行事を書き上げ 役所に差し出した「磐梯山金剛院恵日寺書上写」(註14)には

  (前 略)

一 七月朔日より同十四日迄 衆徒中集会 唯式論之頌並盂蘭盆経ヲ読誦シ 徳溢之御墓ニ 廻番ス

  (中 略)

一十一月九日 徳溢之忌日 八日之晩ヨリ於御堂ニ法事有   (下 略)

とあり、徳一の墓とは現在の徳一廟のことであろう。7 月には徳一の墓への供養があり、11 月 9 日 の忌日には前日の晩より法事のあったことが知られる。江戸時代の恵日寺にとって、徳一は縁起上 の開山である弘法大師と同様に、重要な存在として尊崇されていたことがわかるのである。「恵日 寺縁起」では初代と2代という順序となっているが、むしろ徳一は弘法大師と同等に恵日寺の初祖 としてとらえられていたものと考えられる。

3.江戸時代における恵日寺の中興と諸像

江戸時代の初め恵日寺は火災にあい、衰退していく。「恵日寺縁起」や『新編会津風土記』には、

寛永 2 年(1625) の火災のことが記されている。 そして「恵日寺縁起」(註 15)では明暦年中

(1655~58)に、藩主保科正之により復営されたとある。すなわち   (前 略)

寛永二年寺又火亦惟薬壺免焉明暦年中保科正之復営焉

と記され、「薬壺免」とあるのは薬師堂(金堂)本尊薬師如来像の左手の持物である薬壺が、寛永 2 年の火災でも焼け残ったことをいっているのである。恵日寺はこれ以前にも、応永 25 年(1418)

と天正 17 年(1589)に罹災している。しかし復興されたとはいえ、時を経て薬師堂(金堂)や本 尊薬師如来像などの損傷が激しくなっていったようである。正徳 3 年(1713)2 月の「恵日寺本尊 再興之覚」(註16)には

当寺本尊丈六薬師尊像脇士日光月光十二神之像 万治元年中両度之火災ニ仏躰不残焼失仕 候 併本尊の左手薬壺焼残りを致基と申右本尊之像耳再興随有之 膠漆も離候故 尊像及 破壊候 依之拙小僧当寺入院以来所希者開山祖師為報恩謝徳別ハ為報国恩本尊脇士之 像再興仕度存候へ共 無福ニ年来罷過候処 去年四月中より存立 本尊御城下へ奉送当 四月迄之内再興出来仕候 脇士之像者時節を以彫刻仕度奉存(下 略)

とある。ここで「万治元年中両度之火災」と、万治元年(1658)に二度火災にあったように記され ているが、「恵日寺縁起」で明暦年中に復営されたとあるところから、両度の火災とは天正17年の 伊達政宗による兵火と寛永2年の火災のことで、万治元年は本尊薬師如来像の再興の年をいってい るものと考えられる(註 17)。焼け残った左手と薬壺をもとに唯一万治元年に再興された薬師如来像 も膠・漆も離れ、破壊に及んだのである。ここで再興を願って尽力したのが、先述の肖像彫刻の実

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賀であった。「拙小僧当時入院以来所希者」とあるのは、元禄 13 年(1700)に入院し、享保 6 年

(1721)に隠居した江戸時代の恵日寺の中興の祖実賀自身である。困難をともなったようであるが、

正徳2年(1712)の4月より本尊を若松城下へ送り同3年の4月までのうちに再興が出来る。そして 正徳4年(1714)に本尊以下の諸像が完成する。同年2月の「恵日寺本尊再興開眼供養」(註18)には、

以下のようにある。

  (前 略)

一 丈六薬師   壱躰

一 日光菩薩像  壱躰  長七尺 一 月光菩薩像      長七尺 一 十二神像   十二躰 長三尺 一 磐梯明神像  壱躰  長二尺五寸 一 天神像    壱躰  長壱尺 一 賓頭盧像   壱躰  長壱尺五寸 一 大黒像    壱躰  長三尺 一 弘法大師像  壱躰  長弐尺 一 徳溢大師像  壱躰  長弐尺  〆 弐拾壱躰

 右之仏躰来ル三月中再興造立出来仕候

 依之当四月七日より十二日迄入仏開眼供養法則仕度存候 (中 略)

  正徳四年午二月

恵日寺  御奉行所

恵日寺から御奉行所へ差し出されたこの文書により、正徳4年の再興時に薬師堂(金堂)の本尊 薬師如来像の再興が成就したことがわかる。それ以下の諸像は先の正徳3 年 2 月の「恵日寺本尊再 興之覚」に「脇士之像者時節を以彫刻仕度奉存」とあるように、後に彫刻されることになるが、こ れは修復ではなく新たに造立されたことを示しているものと考えられる。ここで注目されるのが、

同じ大きさの弘法大師像と徳一大師像がともに造立されていることである。大きさも等しいところ から、両大師像は一具のものとして安置されたものであろう。実賀の恵日寺に入院以来願っていた 本尊や脇侍の像を再興する動機として最大のものは、「恵日寺本尊再興之覚」で「開山祖師為報恩 謝徳」といっているように、開山、祖師への報恩謝徳のためであった。ここで開山とは、弘法大師 に他ならない。このことは江戸時代の恵日寺の縁起をみても明らかであろう。さらに正徳 6 年

(1716)3月の「恵日寺中興実賀書上」(註19)のうち、「陸奥会津磐梯山恵日寺寺役記」に 開山弘法大師任遺法月次寺役無怠慢令勤行之条

と、開山弘法大師の遺法により毎月の寺役を怠ることなく勤行させることを述べる条で、弘法大師

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を「開山」と明記している。実賀にとって、弘法大師が開山であることは当然のことであった。一 方、「祖師」の方はやや後の記録ではあるが、享保 18 年(1733)2 月の「大寺恵日寺略縁起」(註 20)

溢ハ法相宗の祖師なり 藤原左府恵美第四男為 本西大寺僧修円和尚の弟子なり

と徳一の略伝を載せているなかで、徳一を法相宗の「祖師」と称している。当略縁起は従来の縁起 の範囲を出るものではないが、実賀の2代後の58世実弁が書き上げたものである。この頃、恵日寺 において開山が弘法大師であるならば、祖師は縁起でその後を継承したといわれる法相宗の徳一で あった。すなわち実賀が報恩謝徳の対象とした「開山祖師」とは、弘法大師と徳一大師であったの である。両大師像を薬師堂(金堂)に造立し、ともに安置することによって、実賀は両大師への感 謝と尊崇の念を表わしたものと考えられる。

4.明治時代初期の恵日寺と諸像

江戸時代後期になると、恵日寺はかなり衰えたようである。『新編会津風土記』(註21)巻之53恵日 寺の条には

今は昔の形なけれども、古蹟遺蹤四方の原野に棊布し、其余舞師田・笛吹田・大皷田・香 田・油田・四十坊・数万灯等の字田圃の間に遺り、古の全盛想像するに堪たり、薬師の霊 像は今に存して霊験多く、古器文書等猶少からず、

とある。今は昔の面影はないけれども、古蹟や遺跡は四方の原野に碁石のようにちらばり、その他 は寺に関わる字名が田畑の間に残り、古の全盛期を想像するには堪えられるとし、薬師如来の霊像 は今に存して霊験が多いという。多くの堂宇は廃れたが、薬師堂(金堂)及び本尊である薬師如来 像をはじめとして、中興時に造立された弘法、徳一両大師像ほかの諸像も健在であったことがうか がえる。恵日寺にとって決定的な打撃となったのは、明治時代に入ってからの神仏分離であった。

大正2年(1913)10月の「恵日寺寺号復興報告式表白文復興願」(註22)によれば   (前 略)

此に端なくも明治二年中 神世は仏分離の結果 恵日寺廃寺となり終わり(下 略)

とあり、恵日寺は明治 2 年(1869)に廃寺となってしまう。同 5 年(1872)には薬師堂(金堂)も 焼失したといわれている。明治4年3月「神仏分離につき壇家の歎願書」(註23)には

  (前 略)

此度神職内匠殿何様御心得ニ而被為有候哉磐梯大神之御神躰本宮ヲ差置 薬師尊ハ脇方ニ 片付 御神躰ハ仏堂ニ入混合ニ神事被成候義ニ御座候(中 略)

とあり、薬師堂(金堂)に磐梯大神の御神体を置き、薬師如来像は脇にかたづけられ、御神体が堂 内に入り混ざって神事が行われた様子がうかがえる。このとき正徳4年に実賀によって再興造立さ れた諸像も、薬師堂(金堂)の脇に押し込められたものであろう。そこで恵日寺の檀家たちは訴え るのであるが、同文書は引き続いて

仏寺 仏堂 仏品凡寺附之分ハ観音院御渡被下度 尤観音院先年類焼ニ院家も無御

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座候間 寺附之分ハ不残観音院御渡被下 前文申上候通御神躰ハ本宮引直シ 神事ハ 本社ニ被成(下 略)

といっており、恵日寺のものはすべて観音院へ渡し、御神体は本宮へ引き直し神事は本社で行うよ う願っている。ところが観音院はこのときすでに焼失していた。このことは明治3年(1870)10月

「恵日寺門末寺院経費割付回章」(註24)にも   (前 略)

本寺観音院当時伽藍も無之ニ付 門徒大寺村能満寺仮住居仕候由御届之上入寺致当十五 日入院之式相整候(下 略)

とあるように、明治3年には観音院は伽藍もない状態であった。先の「観音院先年類焼」とは、明 治3年頃の罹災と考えられる。そこで檀家は一時的に同じ大寺村の能満寺へ入ることになる。

観音院が恵日寺とともに実賀によって再興されたことは先述の通りで、『新編会津風土記』(註 25)

巻之53恵日寺の条に観音院について

恵日寺二王門の前にあり、真言宗恵日寺の末山なり、山号を厩嶽山と云、恵日寺の衆徒と 称す、草創の初伝はらず

とあり、観音院は恵日寺の門前にあり末寺であった。明治 35 年(1902)「恵日寺寺号復興願副 書」(註26)によれば

  (前 略)

右観音院ハ 前記同村旧恵日寺ノ末寺(恵日寺ハ末寺二十二ケ寺ヲ有セリ)ニ有之候処  明治二年恵日寺住職観住 復飾スルト同時ニ恵日寺ハ廃寺トナリタルヲ以テ 更ニ本宗総 山大和国式上郡初瀬町長谷寺ノ末寺ト相成候所 元来有名無実ノ貧寺ナルヲ以テ維持上大 ニ困難ヲ極メ居候(中 略)

とあり、前述の恵日寺廃寺の事情とともに観音院について記している。有名無実の貧寺といってお り、観音院の名のみはあるが、伽藍等はなかったことがわかる。同文書には、さらに

恵日寺ノ殿堂及敷地買受ケ参百年来衰頽ニ属シタル観音院ノ名称ヲ之ニ遷シ 開祖以下歴 代ノ墳墓及古跡ヲ僅カニ維持シ以テ今日ニ至リタル次第ニ候(下 略)

とあり、廃寺となった恵日寺の殿堂や敷地を買受け、衰えていた観音院の名称を恵日寺に遷して、

開祖以下歴代の墳墓及び古跡をわずかに維持してきたという。すなわち廃寺となった恵日寺の名称 を改めて、観音院と称したのである。これはあくまでも名目上のことであった。明治35年に至り、

観音院の名称では、由緒ある恵日寺を復興することは困難として、恵日寺の寺号を復旧し、観音院 の名称を改めて恵日寺と称したいと願ったのである。この文書は、そのときのものである。そして 大正2年(1913)に恵日寺の寺号は復興される(註27)

恵日寺のものはすべて観音院へ移すことになったのであるが、観音院は明治3年には伽藍もない 状態にあったのであるから、恵日寺の薬師如来像以下の仏像は相変わらず薬師堂(金堂)に安置さ れていたことになる。寺名のみが観音院と称されていた。しかし明治4年までに薬師堂(金堂)に は磐梯大神の御神体が置かれ、薬師如来像などは脇に片付けられており、堂内が混乱していた。薬

(12)

師堂(金堂)内には、弘法大師像、徳一大師像を含む実賀が再興造立した 21 躯もの仏像が安置さ れていた。明治28年(1895)7月の磐梯村役場の「古社寺取調書」(註28)の観音院の安置仏は

  (前 略)

三 本尊仏

本尊千手観音仏 金胎両部大日如来 八租大師 弘法大師 徳一大師 興教大師  実雅

四 事由

(前略)明治二年神仏混淆改メラレルノ際神祠仏堂トヲ区別シ座主観住復飾シテ磐梯 明神ノ神職トナル 依テ在来ノ恵日寺道場並ニ諸仏躰凡テ当院ヘ譲与セラル(下略)

とある。旧恵日寺の諸像はすべて観音院に譲与され、ここに記される諸像は旧恵日寺、すなわち薬 師堂(金堂)の安置仏ということになる。ただし本尊は千手観音像となっている。旧恵日寺内で千 手観音像を本尊としているところは、本坊である。『新編会津風土記』(註29)巻之53恵日寺の条に

本坊 △総門 二王門の前の通りより西に折れ北に向て橋を渡り此門に至る、二間に一間 二尺 (中略)△客殿 十一間に八間南向、これより廊下ありて庫裏に通ず、本尊千手観 音の立像長三尺徳一作と云、空海作の不動・毘沙門・愛染明王・聖徳太子の像あり、外に 秘仏の薬師・日光・月光幷十二神将あり

とあり、ここに記される諸像が本坊本来の安置仏である。現恵日寺は千手観音立像を本尊とする。

像高が93.6㎝で、頭上に十一面を戴き、合掌手、宝鉢手を合わせて四十二臂像である。一木造、彫 眼、素地仕上げとする。構造の概略は、頭頂より頭体通して合掌手の肘まで含んで地付きまで彫出 し、内刳は施さない。頭上面は各枘で差し込み、合掌手の肘より先や宝鉢手、脇手、両足先などを それぞれ矧ぐ。垂髻部、頭上面、合掌手及び宝鉢手の各肘より先、脇手のすべて、台座、光背など は後補のもので、これらは実賀による当寺の中興期のものと考えられる。いかめしい鄙びた表情 に、衣文表現は省略され在地性の強い個性的な造形であるが、体躯は太く、条帛や裳などの衣は厚 く彫出され重厚さもある。室町時代初期、15 世紀の初め頃の造立と考えられる。現恵日寺の本尊 が本坊本尊と考えられ、現恵日寺はもとの恵日寺の本坊であったのである。『新編会津風土記』に 記載される本坊の安置仏のうち、本尊は「古社寺取調書」の観音院の安置仏と一致するが、八祖大 師、弘法大師、徳一大師、実賀の諸像は本坊にはない。現恵日寺本堂には八祖大師、弘法大師、実 賀の諸像が安置され、観音院安置仏をほぼ伝えている。先述のように旧恵日寺の諸像は観音院に移 されることになるが、そのとき観音院の伽藍はすでに焼失していた。そこで具体的な移転先となっ たのが、本坊であり、現恵日寺であったのである。現在、観音院の場所の詳細は不明であるが、恵 日寺の仁王門の前にあったことは確かで、本坊とは近い位置にあった。また「古社寺取調書」に載 る観音院の見取り図と、『新編会津風土記』記載の本坊、すなわち現恵日寺との位置関係は一致す る。本坊に移った恵日寺は、明治 35 年に「恵日寺寺号復興願」が出されるまで、観音院と称して いた。

恵日寺薬師堂(金堂)は、明治5年に焼失したといわれている。本尊薬師如来像は丈六像であっ

(13)

たため、移すことはできなかったのであろう。光背化仏を残して堂と運命をともにした。その他の 仏像の何躯かは観音院、すなわち恵日寺本坊、現恵日寺本堂に焼失前、明治4年(1871)3月の「神 仏分離につき壇家の歎願書」が出された頃には移座されたものであろう。ここで現恵日寺本堂に弘 法大師像とともに安置される僧形坐像こそ、先の正徳 4 年(1714)の「恵日寺本尊再興開眼供養」

に弘法大師像と併記される徳一大師像と判明するのである。弘法、徳一両大師像の大きさは「長二 尺」と記され、現恵日寺の弘法大師像の像高が68.2㎝、僧形坐像が68.7㎝で、ほぼ合致する。そう すると弘法大師像と徳一大師像は、正徳4年に実賀によって造立された像ということになる。造形 からみてもこの頃の造立と考えて、大きな齟齬はない。

恵日寺において弘法大師像と並んで安置される尊像が徳一大師像であることは、恵日寺の江戸時 代に成立した縁起と深く関わっていると考えられる。「恵日寺縁起」や『弘法大師行状集記』など では弘法大師が寺を創建し、後事を託されたのが、弘法大師より先に会津に住し布教活動に従事し ていた徳一であった。弘法大師の継承者を『弘法大師行状集記』では、「徳壹菩薩」と尊称してい る。恵日寺は真言宗化しても、徳一を真の創建者として尊崇していたことが、このような縁起の記 載からもうかがうことができるであろう。徳一は恵日寺において、弘法大師と対等の存在であった のである。恵日寺の年中行事からも、徳一への供養を怠ることはなかったことがわかる。実賀が

「恵日寺本尊再興之覚」で、「開山祖師」といっているように、開山は弘法大師で、祖師は徳一大師 であった。江戸時代、恵日寺を再興した実賀にとって、徳一は弘法大師とともに恩に感謝しなけれ ばならない尊い祖師であったのである。このことは法相宗から真言宗へ改まった恵日寺の歴史の反 映でもある。恵日寺が真言宗になったのは平安時代に溯ると考えられるが、このことは別に稿を改 めるとして、真言宗になっても恵日寺における徳一の足跡は、江戸時代に至るまで消えることがな かったのである。

徳一の肖像彫刻としては、河沼郡湯川村の勝常寺の木造僧形坐像(註 30)が徳一といわれている。

像高が86.9㎝で、円頂として、右肩、右腕に覆肩衣を着け、衲衣は左肩を覆い上縁を折り返して右 腋下を通り、再び左肩に懸る。結跏趺坐する。左手は屈臂して膝上におき、第 3,4 指を軽く曲げ 余指を伸ばす。右手も膝上におき、第1,3指を捻じ、第4指を曲げ余指を伸ばして坐すすがたであ る。両手には持物があったようであるが、現状では見当たらない。頭体通して、両手前膊部から脚 部まで木心を脚部中央やや右寄りにこめた一材で彫出し、内刳は施さない。両手首より先を各袖口 に差し込む。脚部まで一材で彫出する一木造の技法は古様で、衣の輪郭のみをあらわし衣文を彫出 しない造形も素朴である。脚部の厚い堂々とした体躯の造形などからも、この像は平安時代の造立 と考えられる。老貌で、胸部には肋骨をあらわし、苦行に堪えたすがたが特徴的である。

いわき市遠野町入遠野にある徳溢大士堂には、本尊として木造徳一大師坐像が安置される。像高 が44.5㎝。円頂とし、右肩、右腕に覆肩衣を着け、衲衣は左肩を覆い上縁を折り返して右腋下を通 り、再び左肩に懸る。結跏趺坐する。現状では、両手前膊袖口部より先を欠失し、印相はわからな い。木心を像前面中央やや右寄りに半分こめた一材で、頭体幹部通して地付きまで彫出する。内刳 はない。両体側部先端に肩先より地付きまで通して、各一材を矧ぎ足す。脚部は横に一材を矧ぐ。

(14)

一木造の素朴な像で、体躯はやや細く力強さに欠ける造形から、室町時代の造立と考えられる。こ の像も老貌で、胸部には弱々しくはあるが肋骨を彫出し、勝常寺像に近いすがたに造られている。

堂内には昭和 36 年 3 月の「徳益大士堂 建立」と書かれた棟札がある。「益」は「溢」の誤りであ ろうが、この堂が徳一大師を本尊とする堂であることがわかる。この像もやはり、苦行のすがたに 表わされている。会津とともにいわき地方も、多くの徳一の足跡が残されているところである。両 像とも、技法などからそれぞれの地で造立されたものと考えられる。このような両地方に伝えられ ている江戸時代以前の徳一像、あるいは伝徳一像がいずれも老貌の痩身のすがたに表わされてい る。それに対して恵日寺像は壮年の相貌で、法衣と袈裟を着け、両手を膝上におき左手に経巻、右 手に数珠をとるすがたである。勝常寺や徳溢大士堂の諸像とは大きくすがたを異にする。このよう な徳一大師像のすがたの根拠については、現状ではよくわからない。徳一の伝記中にも、このよう なすがたの原形らしきものをみつけることはできない。法衣と袈裟は一具となる弘法大師像に倣っ たものと推察される。壮年の相と経巻と数珠をとるすがたは、あるいは実賀の創案によるものかも しれない。「恵日寺縁起」(註31)では「大師行状起云」として

  (前 略)

大師遂付寺得溢而帰京矣溢因大師遺戒不容放逸者也

とあるように、徳一は弘法大師の遺戒を守り、気ままに遊び修行を怠るようなものは恵日寺にいれ なかった。弘法大師の後を継いで、恵日寺の基礎を築いた祖師とみなされていた。実賀は徳一に対 して、創建時の恵日寺を経営する活力のある僧としてのすがたを思い浮かべていたのではなかろう か。また弘法大師を継承したとはいえ、徳一は会津で弘法大師以前より活動していた。その縁起上 の事実を示すために、弘法大師像の表情が若く、徳一大師像の顔貌が壮年と、両大師像の年齢差を 表わしたものとも考えられるであろう。実賀が両大師像を造立するにあたって、『弘法大師行状集 記』や江戸時代の「恵日寺縁起」などが参考にされたものかもしれない。それらが壮年の徳一大師 像へと結実していったものと考えられるのである。

結 び

現在、恵日寺本堂の左右の脇壇に弘法大師像とともに安置されている僧形坐像は、徳一大師像で あった。両像は江戸時代の恵日寺及び観音院の中興時に、その祖実賀によって正徳4年(1714)に 造立されたものである。このとき本尊である薬師如来像が修復されている。御城下へ送って修復し ており、脇侍日光・月光菩薩像以下はやや遅れて彫刻している。御城下とは若松城下のことで、脇 侍像以下の諸像は若松城下で造立されたのである。21 躯もの仏像を修復、造立するにはかなりの 労力が必要であったであろう。正徳2年(1712)4月より同3年の4月までのうちに、丈六の薬師如 来像の修復を完了させ、続いてそれ以外の諸像を彫刻し、同 4 年 3 月中には出来、4 月にすべての 像の開眼供養を行っている。すべて若松城下の仏師によって造立が遂げられている。おそらく複数 の仏師に造像が依頼されたものと思われる。両大師像の技法や造形に相違がみられるのも、このよ うな造像の事情によるものであろう。

(15)

徳一大師像は江戸時代に恵日寺の中興を成し遂げた、実賀の構想によって造立されたものであっ た。徳一の確実な肖像が少ない中にあって、たとえ江戸時代の徳一のすがたで、実賀個人の構想の 中から生まれたものであったにしても、この像は恵日寺の創建期からの歴史の中から創出されたも ので、同時に真の開祖が徳一であることを証明する遺品として、当寺及び会津の仏教史において重 要な位置を占めるものと考えられるのである。

1) 『日本古典文学大系』24 昭和36年3月 岩波書店.

2) 拙稿「慧日寺金堂の歴史と仏像」『徳一菩薩と慧日寺 Ⅱ』 平成21年3月 磐梯町.

3) 詳しい法量は以下の通り(単位㎝)。

  頂―顎    23.0   腹 奥    26.3   面 幅    15.7   肘 張    46.5   耳 張    17.9   膝 張    55.6   面 奥    19.2   膝 奥    44.1   肩 張    33.7   膝 高 (左) 12.0   胸 奥    21.7       (右) 11.9 4) 詳しい法量は以下の通り(単位㎝)。

  頂―顎    22.5   腹 奥    23.0   面 幅    14.6   肘 張    45.5   耳 張    17.6   膝 張    55.2   面 奥    18.7   膝 奥    38.7   肩 張    34.8   膝 高 (左) 11.8   胸 奥    20.6       (右) 11.8 5) 詳しい法量は以下の通り(単位㎝)。

  頂―顎    16.8   腹 奥    17.8   面 幅    10.6   肘 張    32.4   耳 張    12.5   膝 張    40.3   面 奥    13.2   膝 奥    28.2   肩 張    25.3   膝 高 (左) 8.1   胸 奥    14.8       (右) 8.0

  畳座高    21.5   縦 41.1  横 52.2

6) 像高が37.5㎝で、円頂とし、法衣を着け、左肩より袈裟を懸け左肩前で結ぶ。両手屈臂して腹前におき左 右を組み、結跏趺坐する。寄木造と考えられるが、彩色のため詳しい構造は不明である。

7) 会津寺社縁起中より抄出。『会津資料叢書』下 昭和48年6月 歴史図書社.

8・9)『続群書類従』第8輯下伝部.

10) 『会津資料叢書』下 昭和48年6月 歴史図書社.

11) 『大日本地誌体系』27 昭和59年12月 雄山閣.

12・13)『大日本仏教全書』101 昭和62年1月覆刻版 名著普及会.

14) 『磐梯町史資料編Ⅳ 近世の磐梯町』磐梯町の寺院 二寺院史料 恵日寺 平成5年3月 磐梯町.

15) 註7)参照 16) 註14)参照

(16)

17) 註2)参照

18・19・20)註14)参照 21)註11)参照

22・23・24)註14)参照 25) 註11)参照

26) 註14)参照

27) 大正2年(1913)10月「恵日寺寺号復興報告式表白文復興願」『磐梯町史資料編Ⅳ 近世の磐梯町』 磐 梯町の寺院 二寺院史料 恵日寺 平成5年3月 磐梯町.

28) 『磐梯町史資料編Ⅳ 近世の磐梯町』 磐梯町の古社寺取調書 平成5年3月 磐梯町.

29) 註11)参照

30) 『湯川村史』第一巻 第二章解説第三節勝常寺の仏像 昭和60年3月 湯川村.

31) 註7)参照

付記

恵日寺住職故伊藤泰雄師には調査などに際して、種々御教示を賜りました。記して謝意を表するととも に、御冥福をお祈り致します。

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参照

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