悲歌「パンとぶどう酒」におけるキリストとディオ ニーゾス : 苦悩するヘルダーリンの一面
その他のタイトル Christus und Dionysos in der Elegie ?Brod und Wein : Eines der Leiden des Dichters
Holderlin
著者 勝田 泰弘
雑誌名 独逸文学
巻 19
ページ 121‑141
発行年 1974‑04‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00017834
悲歌「パンとぶどう酒」における
キ リ ス ト と デ ィ オ ニ ー ゾ ス
ー苦悩するヘルダリーンの一面—
勝 田 泰 弘
( 1 )
本稿は, 1 8 0 0 年から 1 8 0 1 年にかけて作られたといわれているヘルダリー ンの悲歌「バンとぶどう酒」 ( E l e g i e, , B r o d und Wein") をとり上げ,
とりわけ,この詩の最後の部分である第 8 詩節,第 9 詩節を中心にして,
彼の魂のさすらいを浮きぼりにしたいと思う.それは,キリストとディオ ニーゾスとの間をはげしく行きかい,やがてはキリストヘと傾倒して行く ヘルダリーンの迷い,かつ苦悩する姿でもあるだろう.
この詩は,生来のエレギー詩人とさえいわれるヘルダリーンの,数ある エレギーの中でも最大の作品といわれるものである.全篇は 9 詩節 1 6 0 詩 行から成り立ち,詩形の上からいえば,二行詩節 ( D i s t i c h o n ) を連ねて 用いた古代ギリシア・ローマの悲歌 ( E l e g i e ) の形式をとる.しかし,本 稿では詩形には全く触れないで,この詩のもつ思想内容のみに限定して論 を進めて行きたい.即ちこの詩のあとでひき続いて作られた,いわゆるキ リスト賛歌 ( C h r i s t u s h y m n e ) , 「平和の祝い」 ( , , F r i e d e n s f e i e r " ), 「 唯 一者」 ( , , D e rE i n z i g e " ) , 「パトモス」 ( , , P . a t m o s " ) , 「宥和するものよ...」
( , , V e r s o h n e n d e r . . . ")へ至る一つの過程とさえ思えるこの詩の思想的意義 を明らかにしようと思う.
‑121‑
( 2 )
先ずこの詩の表題についてであるが,初稿においては, , , D e rW e i n g o t t
I An H e i n z e . " となっているのに対して,約 1 年 後 の 第 3 稿では突然,
, , B r o d und W e i n . / A n / H e i n z e . " に変更されている.最初の表題にある , , D e r W e i n g o t t " はイエス・キリストではなく,酒神ディオニーゾスを 指すことは明らかだといえるだろう. また,, Brodund Wein . . . "とい えば誰しもキリスト教の聖餐として大きい意味をもつ「パンとぶどう酒」
に思いを馳せるのが自然ではなかろうか.しかしまた,ディオニーゾスは ローマでは豊穣と酒の神リーベルと同一視されていることから考えれば,
この表題の意味するものは,キリストに関連するものとも,ディオニーゾ スのそれともとれるのではなかろうか. (どちらかといえば,前者の可能 性の方が大きいとは思われるが.)或いはまた,第 8 詩 節 第 1 3 7 , 1 3 8 詩行 に歌われているように,パンは「地の実りであり,だが,天の光りによっ ても祝福されている.」即ち,これによって地上の人と天上の神との仲保 者 ( M i t t l e r g e s t a l t 神と人との間の宥和媒介をなす者)としてのキリスト を意味し,ぶどう酒は「雷電の神から来て」いてディオニーゾスを意味す るとすれば,「バンとぶどう酒」は 「キリストとディオニーゾス」と解し 得ないだろうか?何れにしても,ヘルダリーンは最初この詩を作るに当っ て,ディオニーゾスを念頭においていたことは十分想像されるだろう.し かし,その後何故彼は最初の表題を,, Brodund Wein . . . "に変えねばな らなかったか?ディオニーゾスヘの思いが,キリストヘの思慕へと,どの ようにして変化し転移せざるを得なかったか?これについては後述 ( 3 ) にゆ ずることとする.
次に第 1 詩節から第 7 詩節までの内容の概要に簡単に触れてみよう.な ぉ,各詩節の表題は J o c h e nS c h m i d t , かっこ内のそれは EmilP e t z o l d のものである.
‑122‑
1 . S t r o p h e n t r i a s 夜 1) (霊感 2))
第 1 詩節夜の到来(夜の始まり)
満天に星をちりばめた夢みるような ( s c h w a r m e r i s c h ) 夜.人の世に超 然と, t r a u r i g にして p r a c h t i g に輝き出る驚嘆すべき ( e r s t a u n e n d ) 夜 の到来.
第 2 詩節夜の本質と作用(夜の情緒)
人間の魂を,世界を動かす崇高な ( h o c h e r h a b e n ) 夜の wunderbar な 恵み.自由な精神をもち自立する夜は,我々に聖なる忘却と記憶,陶酔を 贈り奔放な生と言葉を恵む.即ち, 暗黒の夜ともいうべき現代において も,われら人間にいくらかの人間的なもの(生への支え)が与えられるよ うにと.
第 3 詩節夜の霊感(霊感への権利)
万人に共通なひとつの尺度はつねに存在している.しかし,人はそれぞ れおのれに固有なものを与えられている.それを見つめ,それを清めるた めに行こう! ギリシアの地へ! テーベの泉の湧< d i e F i c h t e n ( 唐 檜)の下へ! d i e Trauben (ぶどうの房)の下へ! そのさまよえる神 ( d e r kommende G o t t ) は,そこからやって来て,そこを Ursprung と して指し示す.
ここで,この詩節の最後である第 5 4 詩行の d e rkommende G o t t は ,
J . S c h m i d t も指摘するように a ) , ディオニーゾスを指すことは疑う余地 はないだろう.何故ならディオニーゾスは,ぶどう作りの神であり,また 彼は女神ヘーラーに追われてエジプトとシリアをさまよい,後テーベに来 てその地の女たちを狂乱舞させたといわれているからである.
2 . S t r o p h e n t r i a s ギリシアの日々,文化についてのヘルダリーンの イデー(ギリシアの生活)
第 4 詩節 文化のはじまり(ギリシアの今と昔)
かつての神々の家であった, あの s e e l i g なギリシアは,一体何処にあ
‑123‑
るのか?VaterAether1この叫びを万人が分け合うとき, solchGut は喜びとなる.かくて神々は人の世に降って来るのだ.
第5詩節文化の生成(人類の覚醒)
神々が人の世に降って来ても,幸福が余りにも明るくまぶしいため,初 めは人々は神々をはばかる. しかし, やがて彼らは神々自身の存在に慣 れ,その結果神々からの賜物を知らないし,また見もしない.
第6詩節文化の完成と結末(文化生活の全盛)
今や人々は心から至福な神々を崇め,また神々を前にして,恥ずかしく ないものになるため立派な秩序を立てて起ち上り,壮麗な神殿と都市とを 打ち建てた. しかし,今そのギリシアは一体何処にあるのか?
ここで, この詩節の第105詩行以下4詩行を引用すると,
Warumzeichnet,wiesonst, dieStirnedesManneseinGott
nicht, 105
DriiktdenStempel,wiesonst,nichtdemGetroffenenauf?
OdererkamauchselbstundnahmdesMenschenGestaltan Undvollendet'undschlo6tr6stenddashimmlischeFest. 108
はじめの2詩行は,弟アベルを殺したカインの額にStempelを押し当て た│日約聖書の神エホバに触れているが, その後の2詩行は, 「神みずから が人間の姿をとって,慰めをそそぎつつ天の祝祭を完成し終結させた」神,即ちイエス・キリストを意味すると見て差支えなかろう.古代ギリシアの 神々,エホバ,そしてキリストと,神々が次々に姿を消して行った現代,
祝祭なき夜の時代をヘルダリーンは歎いている.
3. StrophentriasAbendlandの夜(我々の生活)
第7詩節ZwischenzeitとしてのAbendlandの夜(期待の時代)
神々は我々とは別の世界で生き,直接われらに触れない.なぜなら,人 間は神々を容れるには余りにも弱い器であるから. しかし,人は困窮と夜 とによって強められHerzenanKraftは大きくなる. ,,Donnerndkomg
−124−
「
mensiedrauf. (その後,神々は雷鳴をとどろかせながらやって来る.) . . .Abersiesind,sagstdu,wiedesWeingottsheiligePriester,/
WelchevonLandezuLandzogeninheiligerNacht."(君はいう,
しかし,彼ら詩人たちは,聖夜に国から国へさまよい歩いた酒神の聖なる 僧侶たちのようであると.)
ここで, この詩節の後半に雷鳴と共にやって来る神々は,ディオニーゾ スを含むギリシアの神々と見るのが至当であるだろう.
さて次に,本稿の核心ともいうべき第8詩節,第9詩節に入り論を進め ることとする.なお, ここで以下に示す和訳は原詩の雛訳というようなも
のではなく,私なりの逐語訳的な散文訳であることを断っておかねばなら ない.
第8詩節パンとぶどう酒,夜における光り輝く神々の足跡(保証)
Nemlich,alsvoreinigerZeit,unsdiinketsielange,
125
Aufwartsstiegensieall,welchedasLebenbegltikt, AlsderVatergewandtseinAngesichtvondenMenschen,UnddasTrauernmitRechtiiberderErdebegann, AIserschienenzuletzteinstillerGenius,himmlisch
Tr6stend,welcherdesTagsEndeverkiindet'undschwand,
130
LieBzumZeichen,daBeinsterdagewesenundwieder . Kame,derhimmlischeChoreinigeGaabenzuriik,
Derermenschlich,wiesonst,wirunszufreuenverm6chten, DennzurFreude,mitGeist,wurdedasGr66rezugroB UnterdenMenschenundnoch,nochfehlendieStarkenzu
hOchsten l35
Freuden,abereslebtstillenocheinigerDank.
BrodistderErdeFrucht,dochistsvomLichtegeseegnet,
I
|
−125−
Und vom donnemden G o t t kommet d i e Freude d e s W e i n s . Darum denken w i r auch d a b e i d e r H i m m l i s c h e n , d i e s o n s t
Da gewesen und d i e kehren i n r i c h t i g e r Z e i t , 1 4 0 Darum smgen s i e auch m i t E r n s t d i e S a n g e r den W e i n g o t t
Und n i c h t e i t e l e r d a c h t t o n e t dem A l t e n d a s L o b . すなわち,少し前,我々にはそれは遠い昔のことと思われるが,
生を幸せにする神々がすべて,天上へ去って行ったとき,
天上の父が人類からその顔をそむけ
悲しみが当然のように地上に満ちはじめたとき,
そして最後に一人のもの静かな精霊が現われ,神のように慰めをそそぎ つつ
昼の終りを告げて姿を消したとき,
天上の合唱がひびきいくつかの賜物が残された.彼がかって存在し また再来するというしるしとして.われわれはそれらを
人間として日常的存在として喜ぶことができた.
というのは,霊気に溢れて喜ぶのには,より大いなる恩寵は人類にとっ ては余りにも大き過ぎた,そして最高の喜びに堪え得る強者らは まだまだ存在していないからだ.しかしひそやかにまだいくらかの感謝
は生きている.
パンは地の実りであり,だが天の光りによっても祝福されている.
そしてぶどう酒の喜びは雷電の神から来ている.
それゆえわれわれもまた,そのパンとぶどう酒によって,かつて存在し ていて時が来れば
かえって来るはずの神々を思う.
それゆえ詩人たちもまた熱心に酒神を歌う,
そしてそのほめたたえは, その老いた神には空しくはひびかないだろ
ぅ.‑126‑
第8詩節第125詩行から第132詩行にかけては,古代ギリシアの神々が 去り, またその神々の最後のものである 「一人のもの静かな精霊」 (ein stillerGenius),即ちキリストが出現し「神のように慰めをそそぎつつ」
(himmlischtr6stend),「昼の終りを告げ」(desTagsEndeverkiinden) て姿を消す.そしてその際,やがてまた復活するであろうとの約束のしる しとして, 「パンとぶどう酒」を残したと理解すべきであろう. このこと は,キリストカヌその弟子たちにいった次の言葉からも首肯できるであろ う. 「あなたがたは, このパンを食し, この杯を飲むごとに,それによっ て主がこられる時に至るまで,主の死を告げ知らせるのである.窪)」(コリ ント人への第一の手紙,第11章第26節)それはまた先に述べた第6詩節の 最後,第107, 108詩行「神みずからが人間の姿をとって,慰めをそそぎつつ 天の祝祭を完成し終結させた」神を,キリストと見たことと矛盾しないで あろう.また第129詩行のein.stillerGeniusについては,E.Petzold も次のように述べている. 「それはヨハネによる福音書,第9章第4節『わ たしたちは,わたしをつかわされたかたのわざを昼の間にしなければなら ない.夜が来る.すると,だれも働けなくなる.わたしは, この世にいる 間は世の光である.』の言葉で,昼の終りを告げるイエス・キリストであ る.5)」と. キリスト賛歌「唯一者」において, キリストを指して「ひと りの者を」(Einen), 「おんみらの種族の最後の者を」(denletzteneures Geschlechts)と歌っていることからも,上のPetzoldの言葉は何ら疑 う余地はなかろう. J.Schmidt,6)F.Bei6ner7)そして手塚富雄博士8) らも異口同音に, einstillerGeniusはキリストを指していると述べてい る. また, J.Schmidtは,,Stille@$について,独特で一層高度な存在様 式のしるしとしてヘルダリーンの詩における中心主題であるとも言ってい る9).
次に第137詩行からの6詩行は, J.Schmidtの言葉を借りれば, 「文体 的にも,内容的にも賛歌的性格が強い10)」部分である.第137, 138詩行
−127−
に「パンは地の実りであり,だが,天の光りによっても祝福されている.
そしてぶどう酒の喜びは雷電の神から来ている.」 とあるように, ぶどう 酒は雷電の神,即ちZeus,従ってその子であるディオニーゾスを経て来 ている. 「それゆえ我々もまた,そのパンとぶどう酒によって,かつて存 在していて時が来れば帰って来るはずの神々 (dieHimmlischen)を思 う.」ここにおけるdieHimmlischenはキリストをも含めた神々を指す と思われる.そして,更にひきつづいて「それゆえ詩人たちもまた,熱心 に酒神を歌う.」となっていて, この詩節の前半でクローズアップされて いると思われたキリストは,後半ではたちまち神々や酒神の影にかくれて しまった感が極めて強い.
第9詩節Orkusそれは極楽だ(ぶどう酒)
Ja!siesagenmitRecht,ers6hnedenTagmitderNachtaus, FiihredesHimmelsGestirnewighinunter,hinauf,
Allzeitfroh,wiedasLaubderimmergriinendenFichte,
145
Daserliebt,undderKranz,denervonEpheugewahltj WeilerbleibetundselbstdieSpurderentfiohenenG6tterG6tterlosenhinabunterdasFinsterebringt.
WasderAltenGesangvonKindernGottesgeweissagt,
Siehe!wirsindes,wir;FruchtvonHesperienists! 150 WUnderbarundgenauistsalsanMenschenerftillet,
Glaube,weresgeprtjft!abersovielesgeschieht, Keineswirket,dennwirsindherzlos,Schatten,bisunser
VaterAethererkanntjedenundallengeh6rt.
AberindessenkommtalsFakelschwingerdesH6chsten
l55
Sohn,derSyrier,unterdieSchattenherab.SeeligeWeisesehns;einLachelnausdergefangnen Seeleleuchtet,demLichtthauetihrAugenochauf.
−128−
S a n f t e r t r a u m e t und s c h l a f t i n Armen d e r E r t l e d e r T i t a n , S e l b s t d e r n e i d i s c h e , s e l b s t C e r b e r u s t r i n k e t und s c h l a f t . 1 6 0 その通りだ! 彼ら ( S a n g e r たち)が次のようにいっているのは正し
ぃ.彼は昼を夜と和解させ,
空の星の運行をば永遠につかさどる,
彼が愛する常磐のドイツ唐檜の葉のように
また彼がきづたから選んで編んだ花冠のように,いつも彼は喜びに満た されている.
何故なら彼は地上にとどまり,のがれ去った神々の足跡を 神々のいない 暗愚な人々の間へ自らもたらすからだ.
古代の人々の歌が神の子供らについて予言したことは,
見よ
1それは我々なのだ.我々,西洋の果実なのだ!
それは人間において素晴らしくまた確実に実現されている.
それをためした人は信じよ! しかし非常に多くのことが起っているが,
真に働いているものは一つとしてない.何故なら我々は心なき存在,即 ち暗闇に過ぎないから,
我々の父なるエーテルが認められてどの人にも,すべての人に属するま で .
しかしそうするうちに,たいまつを振り回して最高者の息子,
あのシリア人が我々暗闇の間へおり立って来る.
心ある賢者たちはそれを見る.とらわれた魂から 微笑が輝き,その眼もその光にとける.
巨人たちは大地の腕の中で一層安らかに夢みまどろむ.
あのねたみ深いツェルベルスさえ飲みかつまどろむ.
さて,ギリシア神話によれば,ディオニーゾスは宗教的な狂乱を伴う儀 式をもつ神で,彼を熱狂的に崇拝した女たちは,狂気のように山野をさま
‑129‑
よい,たいまつなどを振り回して乱舞した.彼はぶどうの木を発見した酒 の神であり豊穰神でもあった.彼はヘーラーに欺かれて死んだ母親セメレ ーを,冥界から連れ戻すために地獄に降りたといわれる.また,彼はった などで編んだ冠をかぶっていたようである'').従って第9詩節の前半(第 148詩行まで)は, このディオニーゾスを歌っているに違いないと思われ るが,後半の第155詩行から以降については,それを読む人により,キリ ストか,ディオニーゾスか, さまざまに見解の分れるところである.以下 に, この部分について少し詳しく触れてみたい.
J.Schmidtはその著「ヘルダリーンの悲歌『パンとぶどう酒』−悲 歌的詩作における賛歌様式の発展一」 (H61derlinsElegie ,,Brodund Wein($,DieEntwicklungdeshymnischenStilsinderelegischen Dichtung)の中で,問題の個所について次のように述べている. 「ここで,
どの仲保者が話題に上っているのか?キリストかディオニーゾスか?−
それは論争点である.その解答に対して次の四つの陳述が試みられる.即
ち,次のような名称「たいまつをふり回す者」 (,,Fakelschwingef:6),
「最高者の息子」 (,,desH6chstenSohn"), 「シリア人」(,,derSyrier"), そして最後に, 「ツェルベルス」 (,,Cerberu"l) という名の者の地獄での 働きとの関連である'2).」と.
そこで先づ,私はSchmidtの指摘する上述の4点のそれぞれについて 論を進めることとする.第1点の「たいまつをふり回す者」 (Fakelsch‑
winger)についてであるが, E.Petzoldはその著「ヘルダリーンの『パ ンとぶどう酒』,解釈上の一つの試み」 (H61derlins,,BrotundWein", einexegetischerVersuch)の中で次のように述べている.即ち, 「たい まつはManadenfeier(酒神ディオニーゾスに仕える巫女たちの祭り)の 際,およびJakchoszug'3)の際なくてはならなかった.アリストーファ ネスの"Fr6sche"(「かえる」)におけるJakchosの歌では,神が,奥義 に通じた人たちによって,たいまつをふり回しながら彼らに道を照らすこ
−130−
とを要求される.それはディオニーゾスに彼のたいまつでペンテウスの宮 殿に火をつけさせるところの,ェウリービデースのバッカスの合唱におけ
る場合と同様である.—しかし Holderlin の場合は,酒神が自分の降り立つ夜をたいまつで照らしている. 14) 」と.上に述べたように, F a k e l s c h ‑ w i n g e r はキリストではなくディオニーゾスを指すという P e t z o l d の考え に同調して, S c h m i d t は「 F a k e l s c h w i n g e r はギリシアの詩においてデ ィオニーゾスの別名である....エウリーヒ°デースのバッカス,第 1 4 5 詩 行に『われら両手をあげてバッカス(ディオニーゾス)に祈りをささげ,
たいまつのように松の木に火をともす.』ディオニーゾスの祭りがそこに 叙述されているところの,テーベ人のためのピンダルの酒神賛歌,第 1 0 詩 行には『また,ディオニーゾスの礼拝に用いられたカスタネットの演奏を,
私たちは,ずたずたに切られた松の枝によってともされたたいまつの燃え る火と共に喜んだ.』... 15) 」と述べている. これに対して F .B e i B n e r は「新しい稿(第 3 稿)では,酒神に代ってキリスト,即ち最高者の息子,
あのシリア人が F a k e l s c h w i n g e r として登場する 16). 」 と述べ全面的に キリスト説の立場をとる.しかし, BedaAllemann は F a k e l s c h w i n g e r の言葉に関して,同様に「オノイディプース王」の第 2 1 9 詩行を引合いに出 して,次のように F .B e i B n e r に反論している.「 F a k e l s c h w i n g e r がデ ィオニーゾスのみを暗にさすということが,オイディフ゜ースの醗訳におけ るその個所に照して真実のようである.それが反対であるという証明が,
現存する資料に基いて提出されないので,その同じ個所で依然としてディ オニーゾスが話題に上っている. そしてこの見解と異なるというどんな 理由も恐らく存在しないであろう 17). 」 と. Romano G u a r d i n i は , F . B e i B n e r と同様に全面的にキリスト説をとる立場から次のように述べてい
る . 「この悲歌の最後の詩節は,引き離されたものの統一,上のものと下
のもの,明るみと暗闇との統一をはたすところの宥和者としてディオニー
ゾスを賛美する.この性質において彼(ディオニーゾス)は,ギリシアの
日々の消失後の世界の夜において,Fakelschwingerとして暗闇の下へお り立つところのキリスト,即ちそのシリア人,最高者の息子と対等の地位 にある'8).」以上に述べて来たようにキリスト説をとる者も多いが,ディ オニーゾス説を否定するに足る確証がない限り,それに固執するのは妥当 を欠くのではないだろうか?J・Schmidtは先に述べたように,一応はデ ィオニーゾス説をとるのであるが,次の彼の最終的な見解が最も当を得た ものといえるだろう. 「Fakelschwingerの名称はディオニーゾス神話か ら出ているが, しかしそれは,ディオニーゾスをと同様にキリストをもさ すかも知れないのであるユ9).」第2点の「最高者の息子」(desH6chsten Sohn)については,次のSchmidtの見解が代表的なものだろう.即ち,
「キリストは神の息子である.ディオニーゾスも同様である.両者は最高 の神を父に持ち,人間の母マリアとセメレーを持っている.キリストが聖 書において最高者の息子と呼ばれるように,ディオニーゾスはギリシア文 学において,,ぐ冗α庵l@ (Zeus神の息子)と呼ばれる20).」また第3点 の「シリア人」 (derSyrier)については, F・BeiBnerはPetzoldと共 に,Weingottと見なすことは殆んど不可能だと断言して,キリスト説に 立つ. これに対してAllemannは「キリストとディオニーゾスのどちら も,古代の運命の下にある半神として東洋の火からやって来る.従ってシ リア人ということができる2').」と反駁している.また,新約聖書全体を 通じて見ても,キリストをシリア人と呼んでいる個所もなければ,そう呼 ぶにふさわしい情景も見当らぬように私には思われる.最後の第4点につ いてであるが,Cerberusの詩行は,ディオニーゾスの地獄行きの神話的 背景の上に立って理解すべきであって,キリストとの関連は少ないと見る のが自然であるだろう. というのは,キリストは十字架につけられ,死ん で葬られ陰府に下り3日目に復活したといわれているが,キリストのこの 碧獄行きをこの詩行で想定することは適切だとは思われぬからである.
次に,今まで問題としてきた,,FakelschwingerdesH6chstenSohn,
−132−
(
derSyrier"の個所は,第2稿においては"Freudenbote, desWeines G6ttlichgesandterGeist22)"(喜びの使者,ぶどう酒の神の使者である
聖霊)であったことも無視すべきではなかろう.即ち, この事実は,先に 述べた初稿の表題,,DerWeingott…と共にヘルダリーンがはじめに酒 神ディオニーゾスをのみ念頭においていたことを明らかにするものだと言 い得るだろう.
(3)
この悲歌の主題をなす神(厳密な意味では半神)は一体誰を暗示するの か?ディオニーゾスか?イエス・キリストか?この問題は以上に述べてき たように,何れか一方だと断定を下すことは困難なことではないだろう か?この悲歌の一年程後に作られたと推定される賛歌「唯一者」においては,
「お公,キリストよ…」と明確に歌われている. しかし,そのような形 では歌われていないこの悲歌の場合, しかも上述のようなあいまいな表現 がなされている限り,その主題の神を明確に指摘することが可能であるだ ろうか?この詩における神が,ディオニーゾスかキリストかの何れか一方 でなければならぬとする理解の仕方に対して, もっと自由に,一層開放的 に,即ちディオニーゾスであると同時にキリストを意味するという考え が絶対に許されぬものだろうか?勿論,それはディオニーゾス即キリスト
という意味ではない.否,むしろ両者は互いに相容れぬものさえあるだろ う.即ち,一方は古代ギリシアの神々の一代表であって,若かりしへルダ リーンの汎神論的世界観に基くものであるし,他方は, イエス・キリスト を唯一の神の子とするキリスト教的信仰に基くものであるからである.即 ちヘルダリーン自身, この詩の初稿から第3稿をかき終えるまでの間に,
前者の世界観から後者のそれへと急激に傾倒して行ったと想像される. こ の前者から後者への転移を,彼は理論によってではなく詩によって歌い出 そうとした.それがこの詩「パンとぶどう酒」ではなかろうか. この詩の中
−133−
で二つの異なる世界観をオーヴァーラップ(Doppelbelichtung)すること により,その調和統一を図り,然もその実現の容易ならざるを知って苦慮 し悩む.そしてその結果「お公,キリストよ'わたしはあなたに愛着してい る,あなたはヘラクレスの兄弟であるのに.そしてわたしは思いきって告 白する,あなたはまた酒神(Evier)の兄弟なのだ.」と賛歌「唯一者」の 中で歌っているのを,彼自身の苦悩を物語るものだとするのは言い過ぎで あろうか.キリストの場合,父はヨセフであり霊の父はエホバであるとい われる. これに対しヘラクレスやディオニーゾスの父はZeusである.従 って, この両者の父を同一視することは,余りにも大きい観念の飛躍であ り,無理な牽強附会であるといえないだろうか?ギリシアの神々とキリ スト教の神とは全く異質のものである.
EdwardCairdは,その著「宗教の発展」 ,,TheEvolutionofReli‑
gion"(1893)の中で次のような意味のことを述べている. 「神の理念が自 己意識と世界意識との統一としてそれらの成立に前提されるという立場か ら,宗教が客観的宗教,主観的宗教,精神の宗教という三つの類型を通し て進化する.客観的宗教はヘレニズムによって代表される如き, 自然と民 族を神化する自然宗教であり,汎神論に帰着し,主観的宗教はユダヤ人の 宗教によって代表される如き,徒と正義のうちに神の意志を見る宗教であ り,倫理的一神論に帰着するが,真の神観は汎神論の内在的な神観と倫理 的一神論の超越的な神観との結合にのみ成り立つ. これがキリスト教によ って実現されている精神の宗教である23).」と.従って, この意味からす れば,ヘルダリーンはCairdのいわゆる客観的宗教,それと主観的宗教と の総合であるところの精神の宗教,その両者の調和統一を企図したといえ るだろう.また神学者ThorleifBoman(1894〜)も指摘するように24), キリスト教は,異質のギリシアとイスラエル両民族の精神的な努力の結 晶が相互に影響し合い,全く新しく生み出された総合であると見なせば,
キリスト教とヘレニズムを統合しようと試みたヘルダリーンは,その実現
−134−
の困難さを思わぬわけにはいかなかっただろう. 「唯一者」第 1 稿,第 3 詩節における彼自身の声が,彼のこの悲哀と苦悩,そしてキリストヘの強 い愛着を物語っているだろう.
おんみら古代の神々よ,また 神々の勇気ある息子たちょ,
なお「ひとりの者」をわたしは愛し,
それをおんみらの中にさがし求める.
そこでは おんみら一族の最後のもの,
おんみら一門の宝が見知らぬ 客のわたしから隠されているのだから.
わが主よ!
ぉヽ
わたしの師よ!
どうしてあなたは 遠く隔っていたのか?
古代の人々のもとで わたしが半神たちゃ
神々に尋ねたとき,なにゆえ
あなたは現われなかったのか,そして今 わたしの魂は悲しみに満ちている.
わたしがひとりのものに仕えれば,
他のものを なおざりにするとて
おんみら天の神々が ねたむかのようだから.
だがわたしは知っている,それは わたしの罪なのだ,あまりにも
‑135‑
FII
おム キリストよわたしはあなたに愛着している あなたはヘラクレスの兄弟であるのに.
そしてわたしは思いきって告白する,あなたはまた 酒神(Evier)の兄弟なのだ.
旧約聖書,出エジプト記,第20章および申命記第5章に「あなたはわた しのほかに,何ものをも神としてはならない.あなたは自分のために刻ん だ像を造ってはならない.…あなたの神,主であるわたしは,ねたむ神で あるから,わたしを憎むものには父の罪を子に報いて三,四代に及ぼし25)
…」とある. これは神がモーセを通じてイスラエルの民にいった契約の 言葉,即ち神意の啓示であって,キリスト教道徳の基礎である,いわゆる モーセの「10戒」の一部である. これによれば,神は唯一であり,偶像崇 拝は極力避けられねばならぬ.それに神はねたみ深いため他の神をも同時 に礼拝することは許されない.従って古代ギリシアの神々とキリスト教の 神とを同居させたり,同族と見なしたりすることは,ヘルダリーン在世当 時の宗教観からすれば不可能に近いだろう.それ故異質の両者を何とかし て調和統一しようとした彼の強い執念にもかかわらず,遂にそれは果され ず,ただ単に両者の混在,両者のオーヴァーラップという形しかとらざる を得なかったのではなかろうか?二者択一であるべきものを,そうしなか
ったところに大いなる誤算があったのではなかろうか?
ヘルダリーンは,その論文「宗教について」 (,,UberReligion$0)の中で 宗教の統一について次のように述べている.「多くの宗教を一つの宗教へ統 一することについて語ることができる.そこでは各人が彼の神を敬い, ま たすべての者が一つの共通の神を詩的な表象において敬うのであり,また そこでは各人がその高次の生を,またすべての者が一つの共通な高次の生 を祝い,即ち生の祝いをmythischに行うのである.26)」さてここで,彼 のいわゆる「一つの共通な神」が果して存在し得るだろうか? また,たと
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いそれが存在するとしても,各人が彼自身の神を持つと同時に,それらの 統一された神をも詩的表象によって礼拝することがどの程度可能であるだ ろうか? しかしまた彼はいう.人間が純化され高められた共同の領域を もつ限り,彼らは一つの共有の神性をもつと.象徴化の傾向をたどりつつ ある現代神学の立場からすれば,或いはそれも可能であるかも知れない.
宗教学者管井大果氏が,ハーヴァード大学のスミス(WilfredCantwell
Smith)教授の見解について次のような意味のことを述べておられるのは 注目に値しよう27).宗教的象徴の仲保的機能は,一つの宗教をその特殊な 伝統の中に限定することができると同時に,その信仰の言語は必ずしも一 つの特殊な宗教的な枠組みの内に限定される必要はなく,それはより統合 的な機能を果すものである.即ち宗教的象徴は「個人的信仰」を形成する と同時に, 「蓄積された伝統」において諸宗教を統合するというのである.
この見解は,上記のヘルダリーンの宗教観と一脈相通ずるものがあって興 味深いといえるだろう.
またヘルダリーンは,親友であったヘーゲルやシェリングから哲学的刺 戟を受け,少なからず影響されたことは疑いないであろう.ヘーゲルによ れば,宗教は彼のいわゆる「宗教の概念」 (derBegriffderReligion),
「限定された宗教」 (diebestimmteReligion), 「絶対的宗教」 (dieab‑
soluteReligion)の3段階を経て弁証法的に発展する28).換言すれば,
「限定された宗教」の一つである古代ギリシアの宗教は, 「絶対的宗教」
へと,即ち「宗教の概念」が歴史的現在と完全に同化し,両者が止揚され て生れる真実の宗教としてのキリスト教へと発展するのである.かかる思 想からの何らかの影響をヘルダリーンの詩において見出そうとすれば,そ れは悲歌「パンとぶどう酒」におけるよりも,むしろその後に作られた賛 歌,就中「唯一者」においてであるだろう.即ち,その詩の第3稿の終結
部には,
ヘラクレスは王侯のようで,バッカスは公共の精神のようだ, しかしキ
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リストは
究極のものだ.おそらく彼はもっと別の本性であろう, しかし他の 天上のものたちが現存していても
なお彼らに欠けているものを彼は満たすのだ. このたびは. . . と歌い終っているように,彼はキリストをギリ.シアの神々より次元の高い 神,より完全な神とみなし,ギリシア的世界を高めることにより,それを 嶺上の高みにあるキリスト教的世界,高次の愛の世界へ吸収させ,かくて 両世界の統合を果そうと試みているといえるのではなかろうか?それはヘ ーゲルのいわゆる弁証法的発展統一であるとはいえぬだろう.だが,それ に一歩でも近づかんとするヘルダリーンの涙ぐましい努力であり,試みで あるとはいえぬだろうか?なお, ここで彼がキリスト教の神をギリシアの 神々より次元の高い神と見なしたのは,手塚富雄博士の言葉を拝借すれ ば, 「彼の今までの思考の歩みは, 自然を中心に立てたもので, そこでは 生命,力の充溢,美,大きい調和等々の価値を目ざす世界,つまり一言で いうならギリシア的世界の中のことである. しかし,真の愛は価値の成就 を越えた次元のものである.貧しき者,病める者へもそそがれるキリスト の愛は,その最も高い現われ29)」であるからであり, しかも,彼へルダリ ーンがそのキリストに強いあこがれを覚えるようになったのは,彼が正し
く 「愛の詩人」ヘルダリーンであったからに外ならぬだろう.また,同じ 詩「唯一者」の途中ではキリストをヘラクレス,酒神らと兄弟だと歌いつ つも,他方では,終結部で彼らとは本性が異なると歌う. この大いなる矛 盾, この激しい心情の動揺を思うとき,また刀折れ矢つきてすべてを断念 しペンをおいた感があるのを思うとき,我々はヘルダリーンの深い苦悩を 身近に感ぜざるを得ないだろう.
さて,先に述べた(2)における,,FakelschwingerdesH6chstenSohn, derSyrier!:の個所で全面的にキリスト説の側に立つ30)手塚富雄博士
は,問題の宗教の統一について次のようなユニークな見解を持っておられ
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る.即ち,ヘルダリーンの心情は相反する二つの極,即ち,一つはキリス トその人への傾愛,他の一つはキリスト,ヘラクレス,ディオニーゾスの 三者を同一の至高の父から発した兄弟とみなす心的態度,この二つの極の 間に流動しゅれ動く.そしてその流動の中で生れた,ヘルダリーンのいわ ゆる「平衡」 ( G l e i c h g e w i c h t ) においてのみ,その時点における彼の心情
を把握できるとする考えである 31)•この考え方によれば,本稿でとり上 げた「パンとぶどう酒」はキリストから大分遠去かった一平衡点であり,
賛歌「唯一者」はその反対側のキリストに非常に近い平衡点と見なし得る だろう.今この「平衡」説において,私は二つの極の内容を変更し,一方 をキリスト,他方をディオニーゾスとすれば,悲歌「パンとぶどう酒」に おける詩人の心情は,この二つの極のちょうど中間で平衡を保っている場 合といえるだろう.したがって,その平衡点からは二つの極が等距離にあ るゆえ,両極における神は同じ大きさに見え,そしてそこでは両者の調和 が見られるが,決して統一されているのではない.即ち,調和は可能であ っても統ーは不可能であるといえるのではなかろうか?これが即ち,私の いわんとする二つの神的存在のオーヴァーラップ ( D o p p e l b e l i c h t u n g ) の現象とでもいうべきか?かかる意味での「平衡」説に立てば,「パンと ぶどう酒」そのものの中でさえ,時にはげしく,時にゆるやかに,その平 衡点が流動するのを目のあたりに見る思いがするのは,まことに興味深い
ことではある.
注