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古典學の自己辯護
副 島 一 郎
數年前のある日、琵琶湖畔で偶々知り合つた工學部の教授から質問を受け た。「古典學とはどういふことをするものなのですか?」
自分の仕事の内容を問はれて即答できないやうではプロとは言へないが、
僕の專門分野を人樣にわかつてもらふのはなかなか難しい。本人にしてから が學生時代は自分の專門分野の意義について皆目わからなくて惱んでゐた位 である。何せいい若い者が一日どころか何日も部屋か書庫に閉ぢこもりきり で、古典の讀めない箇所の解明に明け暮れるのである。さうして仲間と集ま つては、一字一句づつ、ここはどんな意味だ、いやあんな意味かと議論に耽 るのだ。太平の逸民ならいざ知らず、大不況の世の中で將來の見通しもまる で立たない中、何とも浮き世離れした學生時代だつた。
古典を一字づつ讀むのが古典學の仕事です、といふのが一番素直な回答だ けれど、まさかそれで工学部教授は納得されまい。かういふ時はわかりやす い具體例を出すのが一番なので、『三國志演義』『西遊記』『水滸傳』につい てお話をする。ストーリーも作者も成立時期も異なる作品ですが、一つ共通 点があります。主人公がそろつて無能なことです。でも史實としては劉備、
玄奘、宋江らは無能どころか、相當な傑物だつた。それがなぜか小説の主人 公になると、周圍の有能な人物に助けられてばかりの無能な人物になつてし まふ。實はこれら三作品だけではなく、他にもかういふパターンの作品がい ろいろある。これは一體どういふわけだ?といふことが古典を讀んでゐると わかつてくる。結論から言ふと、これは宋代以降の易學と關係があると考へ られます。宋代以降、世界の支配者たる皇帝は『易經』で言ふ萬物の根元・
太極に擬せられるやうになつた。太極は萬物を創造し活動させますが、それ 自身は虚無なのです。だから皇帝自身は無、つまり無私無欲そして無能でな ければならない。自らは無爲であることによつてこそ他人を動かす強大な權
古典學の自己辯護 201 力をふるへると考へられました。そのリーダーかくあるべしといふ理念が社 會に浸透したせゐで、史實が小説になるとき、主人公たちはいつしか揃ひも 揃つて無能な人物、即ち太極に「成り上がつた」わけです。また宋代以降の 中國皇帝が絶對的權力者なのに、暴君がゐないこともこの理念抜きには考へ られません。北京の故宮に「無爲」と書いた扁額があちこちに掲げられてゐ るのも、この理念を常に意識してゐたことの表れです。こんな風に時を超え ても變はらない社會の本質やら人間の本質は何なのかと追求するのが古典學 なのです、と概ねこのやうにお答へ申し上げたのである。
尤も、いつもこんな大風呂敷を廣げられるわけではない。僕が昨年取り組 んだのは「文者傳道而明心也(文とは道を傳へて心を明らかにするなり)」
の「心」の一字だつたと言つてもよい。小學生でも知つてゐる「心」の字の、
この文脈における意味が普通に考へられる意味(筆者の心)ではないのだと 明らかにするために、延々三萬字程も費やしたのだから、我ながら實に浮き 世離れしてゐると苦笑ひしないでもない。ただ、宋代以降の文章が簡潔平明 を重んじるやうになる根源的理由の解明は、この「心」一字の解釋にかかつ てゐると僕は考へたのである。
文章を簡潔明快に書くのは今でこそ當たり前になつてゐるが、昔はなかな かさうでもなかつた。だから、いつ頃から何故に簡潔明快に書かうとする意 識が生まれたかは、考へてみる値打ちのある問題なのである。つまり、客觀 的合理性を第一として思考して表現することが必要となり、價値あることに なつてはじめて文章は簡潔明快に書かれるのだ。そのことは呪術的思考の下 では不合理であることに意味があつたことを思へばよくわかるだらう。典型 的には日本の祝詞(神主が神に奉る文章)は、態々よくわからないやうに書 いたものだが、それはわからないことに意味があつたからなのだ。
さてここまで書いてきて、僕は工學部教授の質問の意圖を見抜いてゐなか つたのかも知れないと氣がついた。その先生ではないが、某教授は「金にな るのが良い技術」と仰せであるよしだし、文系でも某學會では「次はどんな 本を書いたら賣れるか」といふ情報交換が隠れた主目的であるといふ。琵琶 湖畔の質問は、古典學が何の役に立つのかを紳士的に尋ねられたものかも知 れない。まあ、金にならないと言へばこんなに金にならない学問もない(金
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にするつもりもない)。そんな古典學の存在理由をお尋ねとならば、先づは「人 の生くるはパンのみに由るにあらず」とお答へしておかうと思ふ。人間とい ふのは風變りな動物で、暖衣飽食できても幸せになれない。一方粗衣粗食で あつても幸せになれることもある。孔子も釋迦もキリストも、通常の人間の 欲望には無縁の、或は叛逆した人生だつたわけだけれど、彼らは不幸だつた らうか。我々凡人はとりあへず腹が滿たされ、雨風をしのげることを願ふも のだが、それが叶へられただけでは精神は滿たされない。我々はどこから來 たのか?我々は何者か?我々は何處へ行くのか?この問題は繪畫ではなく、
古典學こそよりよくアプローチできると思ふ。また我々の社會はどのような 成り立ちなのか、この社會の不變の本質は何かも古典から解明することがで きるし、それなしに私たちがより良く生きて行くことはできないのではない か。ずいぶん肩肘を張つてしまつたけれど、古來、人は三聖人の言葉に生き る意味と方向性を與へられてきたのである。古典學がなければ、あんな大昔 の人の言葉の意味などわからないのだから、それだけでも古典學は必要不可 缺だと胸を張るのである。