「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる表象と役 割 : 一九二四(大正一三)年同志社女学校皇后行啓 に注目して
著者 宇都宮 めぐみ
雑誌名 同志社談叢
号 30
ページ 73‑113
発行年 2010‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013008
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七三
「外国」 ・「植民地」出身留学生をめぐる表象と役割 ─一九二四(大正一三)年同志社女学校皇后行啓に注目して─
宇 都 宮 め ぐ み
【目次】 はじめに (一)問題の所在 (二)同志社女学校の留学生 一 貞明皇后同志社女学校行啓の意味付け (一)一九二四年の皇后関西巡啓の意図 (二)同志社にとっての意味と解釈 (三)メディア
・
イベントとしての皇后行啓 二 皇后行啓の具体的様相から (一)一九二四年一二月八日、貞明皇后同志社女学校へ (二)学生たちは皇后行啓にいかに参加したか「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七四
三 留学生の果たした役割──行啓の現場と言説の場と (一)行啓の現場における同志社女学校の戦略 (二)「流暢な日本語」という言葉がもつ意味 (三)「大いなる他者」と「内なる他者」 おわりに
はじめに
(一)問題の所在 一九〇〇年代から一九四五(昭和二〇年 ((
()年頃の日本の女子教育機関には、台湾、朝鮮半島、中華民国、「満洲」の各地域から集まった留学生 ((
(が多数在籍していた。彼女たちは、各地域と日本との間の様々な影響関係を背景に来日していたと考えられるが、とりわけ台湾と朝鮮半島出身者のそれは、植民地宗主国日本による可視/不可視の両面をもつ社会・文化的支配構造に強く規定されたものであるため、近年はそのような文脈からも留学生に関する精力的研究が行われつつある(後述)。 これまでも、男子学生については、山室信一 ((
(の成果を含め一定の蓄積が見られるが、一方で女子学生については未解明の部分が多く、議論は端緒についたばかりである。というのも女子の場合は、近代教育の享受をめぐる性差の問題がそもそもあるため、その全体数も少なくきわめてまれな存在であった。また親族の来日・在
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七五 日に伴う付随的留学などによる中退・編入も多く、留学で得た資格や経験を「活かす」機会も比較的乏しかったと考えられるため、男子学生を中心として行われてきたこれまでの研究とは異なった方法や視座をとる必要がある。 そのようななかで近年行われ始めている女子留学生に関する研究を挙げるとするならば、それは大きく分けて三方向から整理することができる。つまり、学校種別・地域別などの統計調査を主とした研究 ((
(、各女子大学史料室などを中心とした学校史という立場からの研究 ((
(、そして出身地域別の研究である ((
(。とりわけ、日本留学を「帝国的文化支配構造が作り出した社会文化的現象 ((
(」と定義した朴宣美の研究は、出身地域別研究としても留学生全体をめぐる議論としても、その白眉である。近代教育階梯に魅了された「朝鮮女性」たち自身が日本留学を望み、結果、彼女たちが近代的ジェンダー制度や「帝国」の知を朝鮮に広める役割を果たしたとするその議論は、「朝鮮女性」の近代を鋭く問うものである。 一方で、そこで朴宣美が浮き彫りにしようとした「帝国意識を前提とした日本の社会文化的環境や日本人の対応 ((
(」をめぐる課題については、管見の限り、それ以上に踏み込んだ議論は行われていないようである。それは、留学生をめぐる研究が、各地域における「(植民地)近代」をめぐる議論と関わりながら行われてきたことが影響を与えていると考えられるが、各地域と彼女たちにとっての日本留学の意味を問うそれらの研究成果を積極的に参照しつつ、それとともに、彼女たちを取り巻いていた日本人や日本社会、そしていわゆる「内地」という政治的・思想的文脈に重点を置いた分析も行う必要があるだろう。その両者をあわせて考えることによりはじめて、日本留学の意味を根底から問うことができるのではないだろうか。 そこで本稿では、具体的な一学校──同志社女学校に注目して議論を行うことで、「内地」において彼女た
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七六 ちが置かれていた状況を明らかにしてみたい。というのも、近代教育が学校を土台として行われたものである以上、各校が持っていた役割やそれぞれが置かれた状況・文脈に留意した議論が必要であるためである。さらに、その一校とそこに在籍していた留学生を取り上げることで、出身地域別研究では見えにくかった、台湾、朝鮮半島、中華民国、「満洲」と日本との、それぞれの関係性をも議論の俎上に載せることができると考えている。 くわえて本稿が目指すのは、留学生対学校・社会・国家の関係性を紐解くことだけではなく、留学生をめぐっていかなる認識が生み出されたのかを明らかにすることにある。次章以降では、その関係性や認識がより極端に表れる場であったと想定される皇后行啓 ((
(という国家儀礼を取り上げて分析を行うが、いかなる形でそれぞれの関係性が表出したのか、また彼女たちをめぐってどのような認識が生み出されたのか、具体的かつ慎重に問うことで、近代日本の歩みを一歩ずつ問い直すよすがとしたい。
(二)同志社女学校の留学生 議論の前提として、ここでまず同志社女学校の留学生について概観しておく。在籍者数や留学生像については先行研究 (((
(ですでに論じられているため、それらも参考に整理を行うこととする。 同志社女学校への最初の留学生は、一九一四(大正三)年の台湾出身学生(家政科・選科生)である。その後三〇年間(一九一六年を除く)、少なくとも専門学部には、毎年いずれかの地域からの留学生が在籍している。そして、一九四四(昭和一九)年に朝鮮半島出身者三名、台湾出身者一名を迎え、一九四六年(昭和二一)年四月三〇日に中退・帰国した台湾出身者一名をもって、一九四五年以前の制度による最後の留学生とさ
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七七 れている。暫定的な数であるが、同志社女学校専門学部(およびのちの同志社女子専門学校)の在籍留学生数は、計一一九名(朝鮮半島出身者八二名、台湾出身者二四名、中華民国出身者一三名)であり、これに普通学部(およびのちの同志社高等女学部)の五五名(朝鮮半島出身者一九名、台湾出身者一五名、中華民国一五名、「満洲」出身者四名)を加えると、一七四名となる (((
(。 一九四五年までの日本全国の女子教育機関における在籍留学生数に関しては、管見の限り未だ総括的調査はなく、とくに女性の場合、中退・編入等もかなりの割合を占めていたため、全体像の把握には困難が伴う。そのようななかでも、先行研究 (((
(を参考に同志社女学校の位置付けを行うと、まず全国の女子高等教育機関のなかで、留学生の受け入れ数において上位一〇校 (((
(に入ると考えられる点が挙げられる。男女ともに留学生の大多数が東京へ向かうなかで、奈良女子高等師範学校とともに在西日本の主要受け入れ校であり、また上位校では唯一の宗教を教育の基本とする学校であったことも注目される。 さらに、同志社女学校の特色を挙げると、キリスト教主義が二つの点で意味を持つと言える。一つは、信仰に関わる意味でのキリスト教主義である。先行研究では、留学生に熱心なクリスチャンが多かったことが指摘されているが (((
(、同志社女学校がキリスト教主義校であったことは、留学という行動の選択をスムーズに行わせるうえで、少なからず影響を与えたと考えられる。とくに他校と比べて同校に特徴的であったことは、専門学部(および女子専門学校)における朝鮮半島出身者の比率の多さである。前掲の一一九名中、朝鮮半島出身者八二名(六八・九%)、台湾出身者二四名(二〇・一%)、中華民国出身者一三名(一〇・九%)と、朝鮮半島出身者が約七割を占めており、安易な議論はできないが、ここには朴宣美も指摘するように、キリスト教主義学校間のつながりがその一因として推測される。専門学部の朝鮮半島出身留学生の出身校を見ると上位三校が
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七八 キリスト教主義校であるが (((
(、具体的にいかなるつながりがあったのか、アジアのキリスト教ネットワークとそれが果たした役割もあわせて考える必要があるだろう (((
(。 特色としてもう一点押さえておくべきことは、キリスト教ネットワークを背景とする具体的かつ説得的な西洋近代文化である。それは例えば、本格的な英語教育と先進的な家政学、そして専門的な音楽教育が挙げられるが、一八八七(明治二〇)年に四名のアメリカ人女性教師によって「別科」として始められた音楽科・割烹科・裁縫科・編物科・英語会話 (((
(という科目が、のちにそれぞれ正課となり、同志社女学校の特色となったと考えられる。そして、それらの授業を中心として、学校生活を送るなかで学生たちが常に触れていた西洋近代文化とは、施設や設備・教材も含め、まさしく具体的な技術 (((
(や文物であったと言える。抽象的なものではなく、具体的な「近代」──それこそが同志社女学校で学び、得ることができるとされたものであった。さらにそれらを学ぶうえで看過できないことは、アメリカン
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ボードおよびウーマンズ・
ボードの人脈を用いて招聘したと思われるアメリカ人教員と、アメリカの大学で学位を取得した日本人教員の存在である ((((。一九四〇(昭和一五)年頃でも、両者をあわせて全教員の三割程度を占めていたようであり、その存在感は軽視できない。ここで重要なことは、これらがキリスト教ネットワークを背景として可能となったものであり、かつ人的影響も含め、アメリカ文化を土台としたものであったことが推測される点である。このことによって、同志社女学校が提示する「近代」に具体性と説得力が付与されたであろうと考えられ、それは学生たちにとってきわめて魅力的なものであり、独特かつ強烈なものとして享受されえたと言えるだろう。 これらの点は、留学生たちがなぜ同志社女学校を選んだかという問いとも密接に関わると言えるが、一方でそこに議論をすすめるにはより慎重な検討が必要である。なぜなら、先述のように、女子学生の場合は必ずし
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象七九 も本人の意向によって留学が可能となったわけではなく、親族や配偶者などの来日・在日に伴う付随的留学が多かったであろうことが想像に難くない。それは、私学であればこそ尚更、ある種の流動性を持っていたことが推測される。例えば現時点で把握している限りでも、専門学部(および女子専門学校)に在籍していた留学生の中退率は六割を占めており (((
(、編入も多くなされていたことが判明している。よって、上に挙げたような同志社女学校の特色をそのまま留学動機として解釈できるとは言い切れないが、少なからず影響を与えていたとも考えられるため、女性たちを留学へと導く、一つの関係構造として提示しうるだろう。 以上、同志社女学校の留学生について、同校の特色にも着目しながら整理を行ってきたが、これらを念頭に置きつつ、本稿では、一九二四(大正一三)年に行われた、大正天皇の皇后、節子(以下、貞明皇后または皇后とする)による同志社女学校への行啓に着目して考察を行うこととする。まず同志社にとって重要な意味をもつ出来事であったと考えられる行啓の位置付けと具体的様相を明らかにしたうえで、行啓の現場とその後の報道それぞれにおいて、留学生がいかなる関わり方をしていたのかを明らかにしたい。以下、皇后行啓という場が様々な思惑が交錯する場であったことに留意し、まずは国家・学校・社会それぞれのレベルから、この行啓の位置付けを把握することから試みる。
一 貞明皇后同志社女学校行啓の意味付け
(一)一九二四年の皇后関西巡啓の意図 同志社女学校への貞明皇后の行啓は、一九二四年に行われた京都・大阪・奈良の各所をめぐる関西巡啓の一
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八〇 部である(後述)。では、そもそも行巡啓とは何であるのか。先行研究を参考に、まず国家という文脈から、この行啓の位置付けを探ることとする。 天皇が外出することを行巡幸、皇后が外出することを行巡啓と言うことはすでに注で触れたが、原武史は、明治・大正・昭和に一貫して行われていた、行幸啓という政治空間を利用した支配のあり方について、「イデオロギーのような抽象的で観念的なものではな」く、「あくまで個別の天皇や皇太子の身体を媒介とする、視覚的で具体的なもの (((
(」として、「視覚的支配」と表現している。行き先は植民地も含む全国に及び、それは「支配の主体(天皇や皇太子など─引用者。以下同様)を訪問した地方の人々、狭義の政治から疎外されていた女性や外国人、学生生徒を含む人々に視覚的に意識させることを通して、彼らを「臣民」として認識させる戦略 (((
(」であり、とくに万単位の人間を集めての大規模な行幸啓は、明治期よりもむしろ大正後期以降にしばしば行われたとされている。 貞明皇后も、皇太子妃時代から一九五一年に亡くなる前年まで、毎年のように行巡啓を行っている。日赤総会、愛国婦人会総会、東京慈恵会総会や各種病院への行啓も含め、慈善・救済事業が皇后の大きな役目の一つであったことは言わずもがなであるが、さらに女子教育の庇護者という役割も担い、皇后在位中は例年女子教育機関への行啓を行っていた。一方、本稿で取り上げる関西巡啓が行われた一九二四年とは、大正天皇の容体悪化に伴い、皇太子や皇后がその役目を補う様子が頻繁に見られるようになった時期である。そのような切迫した状況でありながら、というよりもむしろそうであったからこそ、皇后はしばしば単独で東京府外に行巡啓を行っていたと考えられる。同時に、大正天皇在位中ながら裕仁皇太子を主役とする大規模な行巡啓が盛んに行われるようになっており、それは視覚的支配の主体が大正天皇から裕仁皇太子へと移ったことを意味してい
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八一 たという。 そのような状況下で行われた一九二四年の関西巡啓は、明治天皇陵および昭憲皇太后陵のある伏見桃山への参拝がその主目的であったようであり (((
(、天皇の病気平癒祈願のために行われたとされている (((
(。日程にして一一月二七日〜一二月一一日の一五日間 (((
(、滞在中には、伏見桃山陵のほかに仁徳天皇陵等諸陵、九条家の菩提寺であるという東福寺、上賀茂・下賀茂両神社、大徳寺、貴船神社、鞍馬寺など寺社仏閣にも参拝している。なかでも注目すべきは、この滞在中に、同志社女学校を含む宗教系の私立女学校三校の訪問が含まれていたことである。三校とはすなわち、神道家である篠田時化雄によって創設された精華高等女学校、仏教精神にもとづく教育を行う京都高等女学校、そしてキリスト教主義校である同志社女学校である。なぜこの時期にこの三校への巡啓が行われたかについては、未解明な部分も多いため、慎重に議論する必要があるが、片野真佐子は、当時の東京帝国大学法科教授筧克彦による同年二〜五月の皇后への進講を挙げ、その成果としての、皇后の宗教──とくに神道とキリスト教との関係など──に対する関心と「理解」について指摘している (((
(。いずれにせよ、この巡啓には、皇后個人の関心にくわえて、政府の宗教政策もその色濃い背景として考えることが可能かと思われるが、現時点では推測の域を出ない。しかし、皇后の「御旨として宗教と教育の関係如何 (((
(」という意向があったとされている点は重視すべきであるだろう。 この三校への巡啓は、「今回特別の思召を以て前例なき私立高等女学校行啓仰出され (((
(」と、少なからぬ驚きをもって報じられたようであるが、精華高女と京都高女へは一二月五日に、そして同志社女学校へは京都滞在中最後の外出日程であった八日に訪れている。 すでに、皇后の行巡啓が果たした役割については軽く触れたが、しかし、同志社女学校への行啓を、そのま
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八二 ま原武史の前掲の議論にあてはめて解釈するだけでは不十分である。原の議論の焦点は、「一君万民」を成立させうる支配主=天皇(または次期天皇たる皇太子)に置かれているが、同志社女学校に行啓したのはあくまで皇后であり、そして訪問先は学校、そのうえキリスト教主義校である。皇后に対する奉送迎の参加者数は職員・生徒合わせて四〇〇〇人程であったといい、それ自体大変な数ではあるが、雑多な身分・立場の人々が万単位で集い、天皇・皇太子と直接相対した大正末以降の行幸啓とはやはり様相が異なる。また当然ながら、次期天皇たる裕仁を主役とする支配戦略であった万歳三唱や日の丸の旗行列など、大正末期から昭和初期にかけて「日常化する光景 (((
(」も不在であったようであり、翌年の皇太子関西巡啓 (((
(とは別の文脈から考える必要があるだろう。 よって、本稿ではとくに、学校行啓であった点に重点を置いてこの行啓を位置付けたいと考えている。つまりこの皇后行啓とは、国家儀礼であっただけではなく、同志社女学校にとっては国家のみならず社会に対してもその立場や特色をアピールする場であり、同時に職員・生徒が同じ場を共有する学校行事でもあったということである。そういった意味で、国家と学校それぞれの思惑がせめぎあう場であったと言え、そのようなきわめて特殊な状況であるからこそ、より極端にその意図が表出されたと考えられる。そして、留学生をめぐる認識枠組みを探るためにこの行啓を取り上げることの意義も、この点にこそある。 なお、貞明皇后の行巡啓先を学校に注目して整理すると、学習院以外の私学への行啓はまれであったこと、さらに西日本の私学への行啓はきわめて異例であったことが分かる。また、皇太子を含む皇族は度々京都を通過、もしくは立ち寄るなどしており、その都度、学校から職員・生徒が動員され、駅や道路などで奉送迎を行っている。そういう意味では、職員・生徒ともに、すでに「一君万民」を目指す国家儀礼の作法に触れ、人に
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八三 よってはそれを内面化しうる機会を得ていたと考えられるが、そうであるとは言え、やはり「我が校 (((
(」に皇后が訪れるという経験は、留学生にとってしても尋常ならざることであったであろうことは想像に難くない。
(二)同志社にとっての意味と解釈 以上、国家という視点を中心にこの行啓を位置付けてきたが、次に同志社側の反応を見ておきたい。 当時の総長海老名弾正は、行啓前に発行された『同志社時報』第二二五号(一九二四年一二月)の社説「国母陛下を迎へ奉らんとして」において、「之(行啓の通達)を承り、且喜び且懼れ、光栄の感に充ち溢れて居る。(略)因りて端なく時代の変遷に想ひ到り、更に責任の重きを考へ、自ら省みて緊張せざるを得ない」とし、その意義について述べている。「時代の変遷」とは、キリスト教のおかれた状況の変化を指しており、続けて、同志社開校当時のキリスト教に対する世間の邪教視と学校の苦節、翻って現在の同志社の繁栄ぶりを追って回顧した後、「之は社会が教育を重んずるやうになつたことヽはいへ、基督教に対する思想の変遷に原因するものも亦多大であらう。世間が如何に人格主義教育を貴重するやうになつたかは、吾々の想像以上」と述べ、「感慨に堪へない」と結んでいる (((
(。ここからは、この行啓をキリスト教主義学校にとっての画期として捉える見方が表されていると言えるが、このような見方は、行啓までに生徒にも度々伝えられていたようである。
行啓の前から海老名先生が、幾度となく繰返して言はれた言葉は、「同志社は基督教主義の学校だ。然し、折に触れ時にふれ、何か事ある毎に邪魔になつたのは、この基督教だ、一時はこれが為に殆んど同志社の存在を全うする事さへむづかしい状態に陥つた事さへあつた(略)。然るに此度、皇室が是を認め給ふた事に
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八四 より、永らく陥つてゐた陋習から脱する事ができた。」といふ事であつた (((
(。
このような解釈とともに皇后を迎える準備は行われたわけであるが、ここには、キリスト教主義校であるばかりに負わされてきた「むづかし」さや「陋習」から、「皇室が是を認め給ふた事」により解放されるというあり方が示されていると言える。皇后行啓とは、皇室がキリスト教主義を認めることと同義として解釈されており、そのためにも最善を尽してこれを成功させる必要があったのである。 行啓前には、女学校卒業生からも様々に激励の声が届いたようであるが、その一つには、「此の際(皇后の)御随行の方々に良き感動を御与へする事は母校の価値を国家的に認めらるヽのみならず大なる伝道」でもあり、「多少危険視せられしキリスト教の真の値を現はす(略)唯一の機会」と意気込む文言も見受けられる。しかし、それに続けて、「いさゝかも不敬じみた事なきやう伏して願 (((
(」うとされていることからは、改めて当時のキリスト教をめぐる緊張感が伺えると言えるだろう。いかなる方法で、国家や社会との関係における「むづかし」さや「陋習」、「危険視」にまつわる緊張をとき、むしろ肯定的評価へと転じさせていくのか。「宗教と教育の関係 (((
(」をどう提示していくのか。行啓の現場とは、その後の報道も含めて、きわめて戦略的な場として構想されたであろうことは、言うまでもないだろう。
(三)メディア・イベントとしての皇后行啓 最後に、改めて指摘しておきたいことは、皇后行啓とはメディア・イベントであったという点である。それには二つの次元があると言えるが、一つは、皇后の身体および実際に皇后と接する職員や生徒たちの身体その
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八五 ものを指す。行啓とは、「臣民化」の対象たる彼女ら彼らが、皇后を見る/皇后に見られるということも含め、様々なレベルにおける具体的・身体的経験を通じて、ある意識を形成するよう意図されていたと考えられる。身体を介してということが不可欠であった以上、皇后も含めた人々の身体は、ある意味で紛れもなくメディアであると言えるだろう。 そして二つ目は、また異なる次元のメディアである。つまり行啓前後にそれを報道・報告することで行啓をめぐる情報を伝えるという意味のメディアであり、新聞はもちろん、学友会・同窓会誌もそういったものとして考えられるだろう。天皇や皇太子の動向を新聞各紙が伝えたように、この関西巡啓も大なり小なり各紙で連日のように報道がなされている。一方、学友会・同窓会誌は、卒業生を含む学校関係者のみならず、外部の人々に対しても一種の広報誌としての役割を担っていたと考えられ、そしてこの行啓とは、その現場のみならず、その前後においても同志社女学校と同志社をアピールする絶好の機会であったと言える。もちろん、新聞と学友会・同窓会誌では、その性格も想定される読者や規模も異なるため、安易に同列に論じるべきではない。しかし、それらが生み出す言説には、表象をめぐる政治が深く関わっていると考えられるため、それぞれの意図や性格を考慮した上でともに分析対象とすることは、可能であり、また必要であると言えるだろう。くわえて、新聞記事に関しては、その情報源が同志社側にあると考えられる場合でも、やはり国家や同志社とは異なる表象の論理・展開をもっていたと考えられ、むしろその差にも着目して議論を行ってみたい。 なお、この同志社女学校行啓を報じたものとして、新聞は『京都日出新聞』(一二月七日夕刊、八日夕刊 (((
()、『大阪朝日新聞』(一二月九日付 (((
()、『大阪毎日新聞』(一二月九日付 (((
()を含め、四紙 (((
(を確認している。また学友会・同窓会誌は、『同志社時報』(行啓前の一二月一日付第二二五号、および行啓後の一九二五年一月一日付第
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八六 二二六号。なお、二二六号は行啓記念号である。以下、本文では二二六号を指して『同志社時報』とする)、および『同志社女学校期報』(行啓記念号、第五〇号。一九二五年三月一日付 (((
(。以下、本文では『行啓記念号』とする)に記事が掲載されており、これらを史料として扱う。 次章以降では、皇后行啓がどのようなものであったかについて具体的様相を明らかにしたうえで、実際の現場において留学生がいかなる役割を担ったのかについて探る。また行啓後の学友会・同窓会誌や新聞記事というメディア言説に注目し、学校を舞台とする国家儀礼の場において、留学生をめぐるいかなる認識枠組みが見られるのかを解明することを目指す。
二 皇后行啓の具体的様相から
(一)一九二四年一二月八日、貞明皇后同志社女学校へ 以下、同志社女学校への行啓について、その前後も含めた具体的様相を整理する。 まず行啓前であるが、国家儀礼はその準備段階から参加者の身体的・精神的動員を求めるものであったことは言うまでもない。ここでは簡単に述べるに留めるが、京都府庁学務課から女学校へ行啓の旨が伝えられた一〇月一八日から、行啓までの二ヶ月足らずの間、松田道校長が「思ひ起すさへ涙を催さしむ (((
(」と述べるほどに、関係各所や職員間での打ち合わせ、生徒も動員しての大掃除や参観授業予行演習も含めた各種練習、そして健康診断が幾度も重ねられたことが、当時の『庶務日誌』や『行啓記念号』・『同志社時報』掲載記事から明らかである (((
(。また先述のように、皇后が京都入りしてからは、府下を巡啓する皇后の奉送迎にも、学部・学年毎に
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八七 分担して参加していたようである。 そして、一二月八日、いよいよ貞明皇后を女学校へと迎えることとなる。『行啓記念号』および新聞記事によると、御所に滞在していた皇后は、当日午前九時半に今出川御門から出発し、女学校に車で乗り入れ、総長海老名弾正の先導でジェームス館内の御便殿にて少憩をとり、その後講堂における朝拝式に参加したという。式後、女学校長松田道の先導により、まずは普通学部各学年の授業を巡覧した後、いったん御便殿に戻り、新島八重をはじめとする女学校の主要人物との面会を行っている。その後再び授業見学に戻り、専門学部の各教室を巡った後、最後に展覧室にて生徒作品を観覧し、予定時刻を一時間半ほど過ぎた午後一時頃、全同志社の職員・生徒の奉送をうけながら御所へ戻ったということである。 行啓内容は、一〇月二〇日の宮内事務次官や府学務課長らとの打ち合わせ時にはほぼ決められていたと考えられるが、「御旨として宗教と教育の関係如何 (((
(」という皇后の意向を受けて、どのような方向性で計画されたのであろうか。それは、キリスト教に対する世間の視線に苛立つ女専教授の「何故に欧米の文化を輸入することに汲々としながら其文化の基礎たる徳育的方面を理解することを勉めぬか (((
(」という言葉に端的に表れている、「欧米の文化」と「徳育的方面」の両面を志向していたと考えられる。 具体的には、「欧米の文化」は、とくに御前授業との関わりで指摘できるだろう。御前授業は全一五学級で行われたが、以下科目と学年を皇后の巡覧順に挙げておく。⑴国語科─普通五年、⑵英語科─普通四年、⑶修身科─普通三年、⑷歴史科─普通二年、⑸英語科─普通一年、⑹英文学科─専門・英文三年、⑺仏蘭西語科─専門・英文三年、⑻修身科─専門・英文予科、⑼英語科─専門・英文一年、⑽漢文科─専門・英文二年、⑾割烹科─専門・家政三年、⑿和裁縫科─専門・家政一年、⒀洋裁縫科─専門・家政二年、⒁家事科─普通四年、
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八八
⒂化学科─専門・家政二年である。 本稿では、各授業内容まで踏み込んだ議論は行わないが、各「英語科」および「英文学科」、「仏蘭西語科」、「洋裁縫学科」はもちろん、⑾のM・F・デントンが担当したマーブル
・
ケーキ製作を行う「割烹科」、⒁の「西洋洗濯実習室 ((((」において洗濯実習を行った「家事科」、⒂の「繊維(木綿、絹、羊毛)の識別 (((
(」を主題とした「化学科」まで、下線で示した実に九科目が、先述した具体的かつ説得力をもつ西洋近代の技術および文物を学ぶものとして考えられよう。なお、⑵、⑹、⑾をアメリカ人女性教員が、⑼はアメリカで学位取得の日本人女性教員が担当している。 一方、「徳育的方面」については、やはり朝拝式が挙げられよう。千人もの参列者があったという朝拝式のプログラムは以下の通りである。⑴君が代、⑵賛美歌(三七三番)、⑶聖書朗読(海老名弾正総長による)、⑷祈祷(同じく海老名総長による)、⑸合唱隊の祈りの歌、⑹専門部英文科一年、普通部四・五年による唱歌である。くわえて、先に挙げた御前授業のうち、⑶の普通学部三年「修身科」では、「国民教育と基督教との関係を勅語及び聖書を引照して教授する (((
(」という内容であったと言い、これもまさに、海老名弾正の言う「基督教主義の徳育 (((
(」教育の実践として提示されたものと考えられるだろう。
(二)学生たちは皇后行啓にいかに参加したか 以上、行啓のスケジュールとその内容について、同志社女学校の特色に注目しながら概観してきたが、皇后行啓を、そこに参加する人々と支配主体との「見る/見られる」という直接的・身体的経験を通して「臣民化」へと誘う支配様式であったと考えるならば、留学生も含めた学生たちは、その場にいかに参加し、皇后と
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象八九 接したのであろうか。 当日の行啓スケジュールについては大まかに記したが、『行啓記念号』における記述を参考にすると、まず皇后の到着前後に関しては、恐らく朝拝式直後に授業巡覧を受ける普通学部の各学級は教室で待機し、それ以外の者は正門から御便殿のあるジェームス館まで皇后が通る経路に沿って並び、奉迎を行った後、講堂で行われた朝拝式に参加したようである。つまり、奉迎および朝拝式にて皇后に接する者と、それとともに御前授業の場で接する者、御前授業の場のみで接する者とに分かれていたということである。奉迎・朝拝式参加組は、講堂および隣接する体操場で「君が代」を歌い皇后を迎えた後、賛美歌、聖書朗読、祈祷、祈りの歌、学生唱歌というプログラムを、皇后とともに過ごしている。朝拝式を行啓スケジュールに組み込んだのは、同志社側の意向であったと考えられるが、キリスト教の宗教儀礼に従ってふるまう皇后の姿は少なからず驚きをもって迎えられたようである (((
(。朝拝式のプログラムに目をおとし、賛美歌をともに口ずさむ姿、海老名による聖書朗読と祈祷の折に首を垂れる姿などは学生や職員に目撃されており、それぞれが驚きと感動をもって所感を『行啓記念号』に寄せている (((
(。 一方、普通学部・専門学部あわせて全二八学級中一五学級が御前授業に該当していたが、恐らく普通学部の五クラスほどは先述の通り奉迎には参加せず、皇后到着時は、「皆さん静かにして下さい。ぷつつとも云はない様に決して窓の方へ顔を向けてはいけない (((
(」といった教員の言葉に従いつつ、教室で待機していたようである。授業巡覧時には、職員会議で予め申し合わせがなされていたように、皇后が「教室ヘ御入御ノ時ハ生徒ハデスクヨリ一寸出デ教師ト同時に敬礼スル事 御出御ノ時モ同様 (((
(」にするも、皇后が教室へと足を踏み入れた時や「敬礼」後着席してからなど、皇后の「御様子を、ありありと拝することができた (((
(」という。
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九〇 授業巡覧中の皇后は、授業風景や授業担当教員が指名した生徒の受け答えを眺めるだけでなく、自ら案内役や担当教員に質問を投げかけたりしたようである。なかでも御前授業を行った一五クラスのうち、新聞記事や『行啓記念号』・『同志社時報』の報道・報告記事において、巡覧中の皇后の「御下問」とともに組み合わせて具体的にその内容が取り上げられたのが、普通学部五年の「国語科」、専門学部英文科三年の「仏蘭西語科」、デントンが担当した家政科三年の「割烹科」、家政科二年の「洋裁縫科」である。「仏蘭西語科」・「割烹科」・「洋裁縫科」は、まさに「欧米の文化 (((
(」であり、そのまま同志社女学校の特色として受け取れるが、「国語科」とはいかなる意味で注目されたのか。後述のように、そこには留学生が関わっており、これもまた女学校の特色として提示されたものであったと考えられる。 その後、全予定を終えた皇后を御所へと見送るため、校庭から正門までほぼ全ての職員・学生が参列したようである (((
(。行啓後、皇后より、直接面会者(拝謁者)に布や菓子が、生徒には菓子料が下賜された。『行啓記念号』によると、授業中の皇后の言動や拝謁者への言葉はその日のうちに生徒に伝わり、幾度となく噂されるとともに、教室や寮でも教職員によって語られ、寮生にはデントンが受け取った菓子が分け与えられるなどしたという (((
(。
三 留学生の果たした役割──行啓の現場と言説の場と
(一)行啓の現場における同志社女学校の戦略 以上、学生たちがいかに行啓に参加したかについて述べてきたが、そこにはもちろん、本稿の主たる関心で
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九一 ある留学生もともに参加していた。当時、同志社女学校には二〇名の留学生が在籍していたとされているが (((
(、御前授業に関して、その科目や内容等は判明しているものの、該当学級が一部不明なため、朝拝式や授業巡覧などそれぞれに誰がどのように参加したかを詳細に把握することは、現時点では難しい。もちろん、『行啓記念号』に寄せられている感想文からその一部を伺うことは可能であるが (((
(、本稿の問題関心は、彼女たちがいかに参加したかということよりもむしろ、彼女たちの参加にいかなる役割と意味が付与されたかを探ることにある。よってここでは、行啓の現場、そしてその後の新聞報道や『行啓記念号』・『同志社時報』報告記事を通じて、留学生たちがどのように取り上げられたかに注目して議論を行うこととし、そのあり方から、留学生が担った役割の重要な一面を明らかにすることを目指す。 以下は、当日の様子を報告した「行啓当日の記」(『行啓記念号』)における、朝拝式以降の記述である。重要な箇所であるので、長くなるが引用したい。
(朝拝式を終えて)礼拝堂を出でまし給うた 陛下は、第五学年の教室に御なり遊ばされた。御説明役(略)は、つつしんで「五年生百二十六名のうち只今御前には、四十名をります。その中六名の支那留学生がをりますが二名はここに出席してをります。その学力は本邦女学生に遜色はございません。本人達が学なり業とげて帰国の後は、ぜひ日支親善の為に力をつくし、皇国の為にも中華民国の為にも努力する決心でございます。本校の生徒は沖縄県を除き、三府一道四十二県より集つてをります。其他朝鮮より七名、台湾漢民族七名、支那より六名まゐつてをります。各々父兄の信用を受けて、職員は日夜努力しつつなほ力の足らぬを気づかつてをります」と申上た。
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九二 王秀生は銀糸の刺繍の支那服をまとうてゐたので、すぐ御目を注がせ給うたが、侯玉芝は普通のセーラーを着てゐた事とて、「他の一人は何処にゐるか」と御下問になつた。 それより順次各学年の授業を御満足げに御予定時間以上御台覧に相成り、十時半、再び御便殿にゐらせ給うた (((
(。
まず確認しておくべきことは、朝拝式直後から行われた授業巡覧は、言うなれば学校行啓の中心行事であったということである。そのなかでも、最初に訪れた教室で、実際どのように説明が行われたかはともかくとして、少なくともこの報告記事では、まず「支那留学生」の紹介がなされたとされている点は、注目に値するだろう。さらに、沖縄県を除くも、いわゆる「内地」全国から生徒が集っているという表現に続けて、「朝鮮」、「台湾漢民族」、「支那」の学生を挙げている点は、「内地」から外へ外へと勢力を広げる近代日本のあり方を踏襲しているようでさえある。 また、皇后の目にとまった「支那服」であるが、奉送迎の記録写真には、「セーラー」や和洋服とともに、「朝鮮服や支那服 (((
(」姿の者も写り込んでいる。この日にどのような服を身にまとうかについては、恐らく当人の判断に任せられていたと推測されるが、ここで皇后が「支那服」によって王秀生を見つけたように、どうあれ民族服とは、「朝鮮」、「台湾漢民族」、「支那」を表す目印であったであろうことは指摘できるだろう。 なお、当時女学校には普通学部・専門学部あわせて一三二九名(うち留学生は二〇名)が在籍していたとされているが (((
(、『行啓記念号』・『同志社時報』、新聞各紙ともに、行啓記事において学生の個人名が挙げられているのは、この王秀生と侯玉芝のみであることも、あわせて指摘しておく。
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九三 さて、この普通学部第五学年の教室で行われていた授業は、先にも述べた通り「国語科」である。そしてこのことと関わって、王秀生や侯玉芝は「支那服」とは別の要素によって新聞記事上でクローズアップされることとなる。 以下は、一二月八日夕刊の『京都日出新聞』からの引用であるが、陛下には続いて普通部教室清和館に入御先づ第五学年国語科厨川白村著「象牙の塔を出でヽ」を材 マ題 マとせる塚本乙女女史の教授振りを御覧あつたが、其の際在学生中華民国人王秀生嬢は流暢な日本語でその一文を朗読したので陛下には特に御目を止めさせられ教育上につき種々御下問があつたので山中普通学部教頭は 本校には中華民国生徒六名、朝鮮並に台湾の新領土生徒各七名あり何れも成績頗る優秀である旨の御説明を申上げた処いと御満足の御様子であつた。
(改行、段落下げママ (((()
本記事から指摘できることとして、まず留学生の紹介に至る経緯が、先に引用した「行啓当日の記」(『行啓記念号』)と若干異なっている点が挙げられるが、それ以上に重要なことは、「中華民国人王秀生嬢」が「流暢な日本語でその一文を朗読した」ことである。 遅ればせながら強調するに、単に日本語を流暢に話しただけでなく、これが「国語科」の授業であったことは、きわめて象徴的である。それが偶然であったとは考えにくく、そこで留学生の紹介を行い、さらに朗読をさせることに明確な狙いがあったであろうことは想像に難くない。その狙いとは端的に言うと、行啓の現場に
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九四 おける、「皇国」に対する戦略であったと言えるだろう。少なくとも皇后行啓の場においては、彼女たちの存在によって、「日支親善のために力を尽す」人材を育てることができる同志社に、さらにはその「欧米の文化」と「徳育的 (((
(」教育という特色に、いっそうの肯定性を与えることが期待されたと考えられる。そして、ひとまずこの二人の中華民国出身留学生は、その役割を果たしたと言えよう。
(二)「流暢な日本語」という言葉がもつ意味 さらに興味深いことは、この王秀生の朗読については、『行啓記念号』・『同志社時報』ではともに記載がないにも関わらず、一方で、同志社女学校行啓を報じた新聞各紙では全紙で報道されている点である。この差が何を表すのかという問いを残しながら、ひとまずここで注目しておきたいことは、先に引用した『京都日出新聞』の記事では、「頗る優秀」な「中華民国人王秀生」が「流暢な日本語」で朗読を行ったことと、皇后が「御目を止めさせら」たこととが結び付けられて記されていることである。 言うまでもなく、彼女たちが皇后の目にとまることは予め決められた流れである。先述のようにそれが御前授業の最初の教室であったことや、経緯はどうあれ、説明役が留学生の存在と人数について皇后に紹介したであろうことは、『行啓記念号』や新聞各紙で共通しており、恐らく実際に行われたことであるだろう。そして、「行啓当日の記」にあるように、恐らく二名の「支那留学生」が「ここに出席して」いることもあわせて紹介されたであろうし、そうでなくとも、職員会議において「教員ノ質問ニ応答スル生徒ノ氏名ノ順番ヲ判然スル事 (((
(」という申し合わせがなされていたように、王秀生が「応答スル」ことはもちろん予定されていたことであっただろう。よって、案内役の紹介であれ、朗読であれ、「支那服」によってであれ、彼女が皇后の目にとま
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九五 ることは、それ自体行啓スケジュールの一つであったと考えられる。 そして、このことは、「予告」もされている。『京都日出新聞』は、この関西巡啓について連日関連記事を掲載し、ことに京都府下の行巡啓については前日夕刊または当日朝刊で予定を報じ、当日夕刊または翌日朝刊で報告記事を掲載しているが、一二月七日の夕刊では、翌日の同志社女学校行啓について詳しく報じられている。そこでは、女学校における行啓スケジュールとともに、御前授業科目・担当者・内容などが箇条書きにされた後、以下のように記されている。
尚同校には中華民国学生六名朝鮮並に台湾の新領土学生各七名の在学者があるが何れも成績頗る優秀で此点に於ては他校に其の例を見ず本校の誇りとしてゐる、殊に当日第五学年国語科に在学の中華民国人王秀生さんは御前に於て「象牙の塔を出でて」を朗読するとの事であるから特に陛下の御眼に止まるであらうと恐察される (((
(。
「中華民国女学生/御前朗読の誉」という見出しが打たれている本記事では、「中華民国学生六名朝鮮並に台湾の新領土学生各七名の在学者」と、留学生数までが先んじて報じられているが、「成績頗る優秀」な彼女らが、他校との比較の視点も交えて「本校の誇り」とされている点が興味深い。 一方、行啓後の『大阪朝日新聞』の記事では、「(皇后は)普通部五年生の国語教授(略)で塚本教諭の(略)質問に中華民国留学生(略)王秀生嬢や侯玉芝嬢が明瞭な日本語で元気よく答へる様子を御感深く御覧になり (((
(」と、王秀生のみならず侯玉芝についても報じられているが、ここでもやはり「中華民国留学生」と「明瞭
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九六 な日本語」がセットで用いられている。このセットは、『大阪毎日新聞 (((
(』でも同様であり、行啓を報じた三紙で共通していることである。他方、先に問いを残したように、『行啓記念号』・『同志社時報』では、この朗読について触れられていない。それは、各メディアがもつ性格とも関わって、どのような情報をいかに報じるかという問題であるが、両者の差に何を見出せるだろうか。 言うまでもないことであるが、新聞記事からは、マス・メディアたる新聞が、同志社女学校と皇后行啓、そしてその現場における留学生をどう捉えたかということが伺える。前節で、留学生の存在が、行啓の現場における「皇国」に対する戦略であったと述べたが、各紙記事における「中華民国女学生」とその「国語」(日本語)朗読への注目は、キリスト教主義校である同志社女学校への皇后行啓と、その行啓において「中華民国女学生」が「流暢な日本語」で朗読を行ったことという、幾重にも重なったセンセーショナルさが生み出したものであったと言えるだろう。 さらに、「流暢な日本語」という情報の有無が表すのは、同志社女学校に対する視線の差であると思われる。つまり端的に言うと、同志社の戦略であったと考えられる彼女たちの「優秀」さが何に担保されているかという点で、新聞各紙と『行啓記念号』・『同志社時報』とは異なっていたと言えるのではないだろうか。『行啓記念号』・『同志社時報』では、同志社女学校そのものが彼女たちの「優秀」さを担保しているが、一方で新聞各紙では、「流暢な日本語」がその「優秀」さの担保となっているという構造になっており、その差は決して些細なものではなく、看過できない。 とは言え、恐らく、同志社女学校への行啓は成功であったと言えるだろう。行啓後、皇后は「同志社の特色を見て満足に思ひます (((
(」と海老名総長に声をかけ、さらに一二月一〇日には、京都府知事を通して、「各学校
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九七 の特色ある教育を施してゐる事を満足に思ふ。今後も努力していよいよ盛にするやうに望む (((
(」という皇后の言葉が伝えられている。また、新聞各紙では、「中華民国女学生」の日本語朗読だけでなく、朝拝式や「生徒の洋服裁縫と洋菓子の製造 (((
(」などを含む様々な「同志社の特色」が紹介され、行啓がつつがなく終えられたことが報じられている。 行啓後の一二月一七日には、海老名総長はじめ職員一同が集会して行啓の記録編纂が行われ、それをもとにした各種記事が、先述のように『同志社時報』(第二二六号、一九二五年一月)と『同志社女学校期報 行啓記念号』(第五〇号、一九二五年三月)にそれぞれ掲載されている。それらには、行啓前に見られた以上に感慨深さを滲ませる関係者の言葉が並んでおり、とくに同志社女学校や同志社のみならず、キリスト教主義校にとって、さらにより広く日本のキリスト教徒全体にとっての意味をこの行啓に与えようとする記述が見受けられる点は、興味深い (((
(。そして、皇后の「御勇断 (((
(」により実現されたと意味付けられるこの行啓は、これまでも述べてきた通り、キリスト教主義学校にとってアピールと評価の場であったことは疑いようがないが、翌年には、入学志願者の増加と結び付けてその「恩恵」が解釈されている (((
(。
(三)「大いなる他者」と「内なる他者」 以上、前節では、「中華民国女学生」への注目を手がかりに議論を行ってきたが、ここで改めて思い出しておきたいことは、皇后行啓が「臣民化」のための国家儀礼であったということである。そうであるならば、なぜクローズアップされたのが、植民地である朝鮮半島や台湾の出身者ではなく、中華民国出身者であったのか。「臣民化」儀礼において、「中華民国女学生」がクローズアップされたことをどう考えるべきだろうか。
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九八 御前授業として、普通学部第五学年のなかで中華民国出身者二名のいるクラスが選ばれた理由については、現時点ではほとんど推測に頼るしかない (((
(。一方、新聞紙上における彼女達への注目は、先述のように、同志社女学校への皇后行啓であったことと、「中華民国女学生」の日本語朗読という、センセーショナルさが生み出したものであると考えられる。しかし、少なくとも行啓の現場でも言説の場でも、「臣民化」儀礼と中華民国出身留学生の存在は何ら矛盾せず両立していたことは明らかであり、このことからは、むしろそれが、「中華民国女学生」であったことにこそ意味があったのだという論点を導きうると言えよう。つまり、「皇国の為にも中華民国の為にも努力する」ことが期待された「支那留学生 (((
(」とは、同志社にとってのみならず、むしろこの国家儀礼にとっても必要な存在であったのではないかということである。このように考えると、そもそも「臣民化」とは何かという議論が改めて必要になるが、彼女たちは、協力的な隣人、もしくは友人として国家儀礼たる皇后行啓の参列者であるとともに、「大いなる他者 (((
(」としてその外部に立つ目撃者でもあるという、そのような構造のなかにあったと考えるべきではないだろうか。そして、さらに付け加えるならば、他でもなくそれが「学なり業とげて帰国 (((
(」する立場である留学生であったことが、一層重要であったと言えるだろう。 では、皇后行啓にともに参加していたと思われる朝鮮半島出身者および台湾出身者は、いかなる役割を与えられていただろうか。以下は、『大阪朝日新聞』(一二月九日付)からの引用であるが、『行啓記念号』なども含めた行啓関連記事のなかで唯一、朝鮮半島出身学生が可視化されている箇所である。
陛下には先づ講堂に於ける朝拝式に臨ませられた。/君が代に賛美歌の合唱、聖書朗読に次いで海老名総長は(略)熱誠籠めた祈祷をあげる、満堂感激して水を打つた如き静粛の裡に陛下は十数名の朝鮮服や支那服
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象九九 の美しい女 マ生 マ達に御目を注がせられ、当局者から日本教育の国際化を試みる同志社の努力を御説明申上げた (((
(
行啓当日、民族服を着ていた学生が見られたことはすでに述べたが、普通学部第五学年の教室で、皇后が「支那服」によって王秀生を見付けたように、ここでは「朝鮮服や支那服」が留学生を浮かび上がらせていると言える (((
(。この記事の後半では、すでに引用したように、「(皇后は)中華民国留学生(略)王秀生嬢や侯玉芝嬢が明瞭な日本語で元気よく答へる様子を御感深く御覧になり (((
(」という記述が続くが、この二つの描写の対比は、朝鮮半島および台湾出身者と中華民国出身者とのあり方の差を表しており、興味深い。つまり、協力的な隣人たる「中華民国留学生」は個人名やその様子が具体的に記されているのに対し、「朝鮮服」は、名前も顔もなく、ただ「十数名」の「美しい」、言わばマス(
mass
)として描かれている。それは日本人学生についても同様であると言え、『行啓記念号』には彼女たちによる感想文は掲載されているが、それ以外の全ての行啓報道・報告記事では具体的記述はなされず、当たり前に参加する存在として、当然ながら記事に記される対象にもならない。「臣民化」の内実は簡単に議論できるような問題ではないが、しかし少なくとも、表象のレベルにおけるこのマス的なあり方と重なるものがあることは確かであるだろう。 このように考えると、『行啓記念号』巻頭の「刊行の辞」をしめくくる以下の一文は、きわめて象徴的であると言える。国母陛下を我が同志社に迎へまつり、内地朝鮮台湾は勿論中華民国の姉妹達と供に光栄、感謝、歓喜、希望の念に浸ることのできました事を、お互ひに永く記念したいと存じます。
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象一〇〇 朝鮮半島と台湾の「姉妹達」が、「内地朝鮮台湾は勿論」として「内地」に内包されるあり方は、先に引用した『京都日出新聞』(一二月七日夕刊)では、「朝鮮並に台湾の新領土 (((
(」という表現でより明確に表されている。そして、「朝鮮台湾」も「内地」も、ともに「勿論」という一言でいともスムーズに、「国母陛下」の娘たちへと取り込まれるのである。 また、先の『大阪朝日新聞』の記事において、彼女たちの存在が「国際化」という語によって「同志社の努力」として意味付けられている点は、注目に値する。というのも、「朝鮮台湾」は「内地」に内包される一方で、やはり、この講堂における「朝鮮服や支那服」に象徴されるように、「大いなる他者」とともに言わば「内なる他者」であり続けるということを示唆していると考えられるためである。但し、ここで言う「国際化」について議論をすすめるには、同志社にとっての「国際化」と、新聞などを含む当時の日本社会にとっての「国際化」という両面から考察する必要があり、紙幅の都合もあるため、稿を改めたい。ひとまずここでは、『行啓記念号』と新聞記事との両方で、「内地朝鮮台湾」と「中華民国」という構造にあり、その役割と表象の構造に差が見られること、しかしその一方で、「朝鮮台湾」は「中華民国」とともに「他者」であり続け、それは「国際化」という言葉と結び付けられうるあり方であったということを指摘できればと思う。
おわりに
以上、一九二四年の貞明皇后の同志社女学校行啓を手がかりとして、留学生が担った役割と、彼女たちをめぐって生み出された認識の一端を捉えようと試みてきた。それぞれの思惑が交錯する場である皇后行啓につい
「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象一〇一 て、現場レベルから表象レベルまでを射程におさめて議論しようとしたが、改めて整理すると次のようになるだろう。 まず行啓の現場に関しては、授業巡覧の冒頭の学級で留学生の紹介を行い、さらに「支那留学生」に「御前朗読」をさせたことについて、それが、「日支親善のために力をつくす」人材を育てる同志社や、その特色であるキリスト教主義の「徳育的」教育と「欧米の文化」にいっそうの肯定性を与えるための戦略であったということを指摘した。 次に、行啓後の報道・報告記事に関しては、とくにマス
・
メディアたる新聞において、キリスト教主義校への行啓ということにくわえて、「中華民国女学生」の「流暢な日本語」による朗読がセンセーショナルさとともに報じられたこと、さらに「流暢な日本語」によって留学生たちの優秀さが意味付けられていたことを指摘した。その上で、国家儀礼たる皇后行啓における中華民国出身者とは、協力的な隣人として、参列者であるとともに、外部からの目撃者としての役割を与えられていたこと、一方で「内地朝鮮台湾」は当たり前に国家儀礼に組み込まれ、マスとして描かれていたことを、表象という側面から明らかにした。 以上の点から、学校を舞台とする国家儀礼の場において、中華民国という「大いなる他者」と、「朝鮮台湾」という「内なる他者」の両者が、それぞれ異なる役割を付与されながら、ともにこの行啓に必要であったということが指摘できるだろう。それは同志社にとっても国家にとっても、そして恐らく社会にとってもそうであったと考えられるが、「学なり業とげて帰国」する留学生たちとは、その「他者」性を保持することが求められながら、一方では「国母陛下」の娘たちとその友人として、他方では「国際化」の証として、必要不可欠な存在であったのである。これまでの留学生をめぐる議論では、批判的視座であれ、もっぱら留学生やその出身「外国」・「植民地」出身留学生をめぐる役割と表象一〇二
地にとっての日本留学の意味が問われる傾向が強かったと言えるが、むしろ日本国家や日本社会と学校、日本人にとっての意味をこそ問うていく必要があり、両者をともに考えてこそそれを問題化できるということをここで主張したい。 そして、先に引用した「朝鮮台湾は勿論中華民国」という言葉と関わって、改めて注意を促しておきたいことは、すなわち、これが「植民地」と「外国」という区分に対応していたと考えられる点である。本稿ではこれまで、留学生の出身地について、台湾、朝鮮半島、中華民国、「満洲」と並列して記してきたが、それは、昨今様々に用いられつつある「東アジア」という枠組みについて、その可能性や有効性を積極的かつ肯定的に認めつつも、やはり、一九四五年以前の上記地域を分析するために援用することには慎重でありたいと考えているためである。なぜなら、少なくとも留学生に関して言えば、文部省による通達といったレベルから、「外国」・「植民地」という区分が明確に存在していたことが推測されるためである。それが実際の教育現場にどの程度影響を与えていたかについては慎重に議論していく必要があるが、この皇后行啓を含め、効果的に用いられうるものであったということは主張しうるだろう。「外国」と「植民地」、それぞれに付与された役割があり、表象の構造にも差があったということはすでに述べてきたが、とくに「植民地」については、ある時には「内地」に、ある面では「外国」にと、両者に準じる存在として、常に一方的に意味付けられてきたと考えられる。「国際化」という言葉を隠れ蓑にしながら行われたであろうそのあり方は、本稿で取り上げた皇后行啓だけではなく、様々なレベルで具体的かつ批判的に検討していく必要があるだろう。その意味では、「外国」・「植民地」をめぐる枠組みの存在や内実の一端を明らかにするだけでは不十分であり、その差別性がいかなる構造からどのように生み出されたのかを問うていくことが求められている。本稿はそのための試論であり、今後さら