論説〉
田 中 義 一 内 閣 ( 一 九 二 七 、 四 、 二 〇 一 九 二 九 、 七 、 二 ) 論
「政党内閣」におけるビジネスと政治松浦正孝
一はじめに二旧システムの崩壊と田中内閣による新たなゲームの模索三田中義一内閣誕生を支えた政治勢力四田中義一内閣組閣による政友会の変質五田中内閣におけるビジネス出身の政治家六第一回普通選挙と政友会の変質七田中内閣の孤立八おわりに
一はじめに
時間の審判を経ることで、あの時が歴史の分かれ目だったとわかることがある。戦前日本の議会政治や対外関係
における一つの大きな分岐点は、田中義一内閣期であった。中国など東アジアとの関係、政軍関係、政党政治などいくつもの領域において、田中内閣期は一つの大きな転換点であった。本稿は、近年蓄積を増してきた戦前日本の政党内閣に関する先行研究を参考にしながら、歴史の転換点としての田中義一内閣を論じようというものである。田中内閣で外務政務次官(外務大臣は田中首相兼摂)となった森恪や田中内閣の研究で知られる小山俊樹は、山東出兵をめぐる田中首相のリーダーシップを検討した最近の論文「田中義一と山東出兵」において、「昭和の動乱は、政治的軍人・田中義一の失敗をもって始まる」と断じている。即ち、「食言や二枚舌を繰り返し、自身の真意を隠すことで広範な支持を取りつけた田中の政治手法」が政策対立を広げ、莫大なカネを撒くことで党総裁としての支持を固めようとする一方で、「軍隊式の『上意下達』を前提に「朝令暮改」や「責任転嫁」を繰り返す中で」、田中は、政友会のみならず、出身基盤の陸軍からの信頼を損なった。それが最も顕在化したのが、田中による政略目的のための山東出兵における軍事力動員の方法であり、よく知られる張作霖爆殺事件とその処理をめぐる昭和天皇の信任喪失とは、それら田中の無責任かつ保身のためのリーダーシップの結果であったと言うのである〔小山2018〕。従来の研究とは違った角度から、陸軍内部と田中との対立、森恪ら「強硬派」と田中との疎隔に焦点を当て、最新の史料を駆使してこのプロセスを解明した小山の分析は見事であり、読者には実際に味読されることをお勧めしたい。小山の論文で特に注目したいのは、「田中外交」が、旧来の外務省による外交に不満を持つ田中が外相を兼務することで「首相官邸主導の外交」を目指した、と指摘していることである。小山は、田中が対中外交において外務省をᷖ回する「官邸 (
所在が明確でないと陸軍や外務省の反発する「官邸外交」や、同じ「長州」出身者との私的関係に頼ろうとしたの 420業家で政治家に転身し田中の資金源でもあった久原房之助らを示唆している〔同)〕。なぜ田中は、政治責任の 外交」のルートとして、満鉄総裁の山本条太郎や、日銀総裁の井上準之助、同じ長州出身の実 1)
であろうか。彼が、従来とは違う政治的枠組みを模索した時代的背景とは、どのようなものだったのだろうか。それが、本稿が検討したい第一点目である。本稿の関心の第二点目は、田中内閣におけるビジネスと政治との関係である。戦前の首相の中で、田中は、同じく立憲政友会の総裁であった伊藤博文、原敬と共に、財界人や実業家を積極的に登用しようとした政治家であった
〔松浦2015、3-15〕。それは何故だったのか。また、このことが田中内閣のあり方にどのように現れ、それがどのような影響を残したのか。その意味するところは何だったのかについても、検討を加え (
たい。 2)
二旧システムの崩壊と田中内閣による新たなゲームの模索
一九二五(大正一四)年に高橋是清に代わって立憲政友会総裁となった田中義一は、二七(昭和二)年第一次若槻憲政会内閣が金融恐慌をめぐる政局により総辞職したのを受けて、内閣を組織した。この時期は、通常、政友会と民政党(憲政会)の二大政党による「政党内閣」期と考えられている。しかし実際には、原敬が確立しかけた政党政治システムが崩れ始め、それに代わる政党や国家の新たな方向が模索された過渡期でもあった。原敬がクライエンタリズムを通じ精緻に作り上げようとした古い政党政治システムが毀れるなか、それに代わる新しいゲームが試行されたのである。国内の政党政治のみにとどまらず、東アジアを中心とする国際環境においても第一次世界大戦前後における世界秩序再編が進み、国家を単位とする世界経済競争が強く意識された。内外における従来の体制・システムが崩れるなかで、田中内閣は、軍事外交・司法・財政金融・文教・思想などの分野において、大蔵省や陸軍省、外務省などの正規の専門官僚制のルートをᷖ回して、「政治主導」「官邸主導」の下に田中首相との私的なネットワークを持つ実業家らに頼り、新たな秩序の構想を模索しようとした。いわば内外におけるシステムの移
行期にあたり、田中内閣は私的ネットワークによって対応し、新たなシステムを作ろうとしたのである。それは、次のようなことであった。
一東アジア外交と金融・経済まず東アジアにおいては、一九一一(明治四四)年の辛亥革命で清帝国が崩壊し、その後中華民国が成立したが、内部分裂や軍閥割拠、列強の介入が続いた。一方、ロシアでは一九一七(大正六)年のロシア革命によりロマノフ王朝が倒れソヴィエト政権が成立したが、内戦と干渉戦争があり、ソヴィエト連邦が二二年末に結成された後も権力闘争や混乱が続いた。東アジアにおける二つの帝国が衰え亡びると、満洲、蒙古、新疆、シベリアなどの外縁部が権力真空となり、日本はここに触手を伸ばした。国際政治においては第一次世界大戦を通じてアメリカが台頭し、その戦後には秘密外交による「旧外交」から公開外交による「新外交」への移行が行われ、いわゆるワシントン体制が成立したが、それは中国とソ連を除外したものであった。二つの帝国の崩壊と共に流動化した満蒙・シベリアなどの北東アジアに対して、日本帝国は、従来の帝国や主権国家の枠組みを超えた「大陸を俯瞰した外交」を展開し、朝鮮植民地など自らの帝国の枠組みを修正・強化すると共に外へと拡げようとした。原内閣が、戦後国際秩序の中心となったアメリカとの協調を重視し、満蒙問題を政治問題としてではなく国際金融資本を通じての経済問題として解決しようとした〔三谷2009、第二部〕のは、その一つの現れである。田中内閣は、満洲にアメリカ資本を導入しようとすることでこの地域に影響力を拡大するアメリカとの協調を模索しつつ〔同第二部第五章〕、中国およびソ連という新たな国家主体との関係をも調整しようとした。前者を担うことを期待されたのがモルガン商会などの国際金融資本とのパイプを持つ「国際金融マフィア」の一員である井上準之助であり、後者を期待されたのは中国での豊富なビジネス経験を持つ山本条太郎や、長州閥で
実業界から転身した久原房之助であった。中国に対しては、中国本土における蒋介石と満洲における張作霖と、それぞれに日本の権益を守らせながら域内の政治支配を認めることで融和関係を形成しようとした。その際、張作霖との関係においては、満蒙鉄道網の整備を中心とする「経済提携」が一つの柱となった。田中内閣において、田中首相との私的関係を持つビジネス出身の政治家が存在感を持ったのは、主権国家間の枠組みとは異なるグローバルな背景を持つ経済的アプローチが必要とされたためでもあった。なお、表向きは金融恐慌の処理をめぐって(実際には対中国政策をめぐる問題が大きな原因となり)第一次若槻憲政会内閣が倒れ、田中政友会内閣に代わったこともあり、昭和期になると金融・経済問題が政治において持つ意味が極めて大きくなった。後述するように、田中義一は、池田成彬や井上準之助など財界の中心人物との関係を重視した。特に田中は、参謀長時代(一九一五~一八年)から金融界の中心である三井銀行筆頭常務の池田と親しく、大命降下以前から大蔵大臣人事などについて相談していた。そして組閣にあたっては、まず池田に蔵相就任を打診するほどであった。「オラが大将」としても知られる田中義一が、気さくで庶民的な人柄であったことは、よく知られている。池田も田中について、金融問題について説明してくれと言うので説明したが「何を話しても分らない。話し様がないので私も呆れたが、実際のところ『肥料の公平なる配分』程度の頭だったのだろう」と後に語っているが、しかし、細かいことにこだわらず「時代離れした」「明るく、サッパリした人柄」であり、「いつでも上機嫌だった」とその人となりについては高く評価していた〔池田1951、250-254〕。先述したように伊藤博文、桂太郎、原敬と共に、田中義一は財界やビジネスとの関係を重視した政治家であった。それは、金融経済問題に暗かった田中が、外部から総裁となったため政友会内部に腹心と呼ぶべき存在を持たず、党内の財政通や大蔵官僚などよりも、個人的な関係にある財界人や実業界出身者に依存したためでもある。