NOTES
NOTES
FIVE DAYS AT MEMORIAL
原注
以下の注記は、本文に記されなかった引用元や原典
をあきらかにすること、重要な論点について詳細を伝え
ること、さらなる情報を求める読者の手引きとなることを
目的にまとめたものである。インタビューで取材した人々
は章ごとに名前を明記し、ページ番号は記していない。
アンナ・ポー医師に関する情報には、本項に詳述す
るとおり、さまざまな出所がある。アンナ・ポー医師本人
も出席した、彼女のために開かれた2度の支援資金集
めのパーティと会議、ルイジアナ州議会での聴聞会な
ども、それに含まれる。ポー医師には長時間のインタ
ビューもおこなったが、彼女は不法死亡訴訟と訴訟を
起こさなかった人々への配慮を理由に、患者の死に言
及することをあくまでも拒んだ。
注1 :【注記】の部分の行頭の数字は本書のページ数を示し ています。 注2 : 記載の各URLは、原著の取材・執筆、発行時において の情報の原典・資料を示したもので、現在は経年によりアクセ ス不能となっているものが若干数あります。 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
第 1 部
死の選択
プロローグ
●インタビューした人々
Dr. Horace Baltz;Essie Cavalier family (John Hazard, grandson);Donna Cotham family (Rosemary Pizzuto Cotham, mother);L. René Goux;Carrie Hall family (including Kimberly Rivers Roberts, granddaughter);Martha Hart family (James Harris “Judson” Hardy, Stephen Chalaron Hardy, and Jane Molony, cousins);Dr. Faith Joubert;Dr. John Kokemor;Dr. Daniel G. Rupley;Dr. John Thiele, Patricia Thiele;Karen Wynn. 【参考文献】
•既刊文献
Meitrodt, Jeffrey, “Katrina Nurses Called Victims of Justice;‘Their Performance Has Always Been Exemplary,’”Times-Picayune, July 23, 2006.
•未発表文献
ティール医師からホレス・ボルツ医師への書簡(2006年12月22日付);Memorial Medical Center Disaster Critique Mass Casualty Drill (sarin gas scenario) surveys, April 8, 2005;テネット・ヘルスケア社とアヴィエーション・サービス社で交わされたリース契約 及び電子メールの記録;パイロットの日誌のコピー;ニューオリンズ地方裁判所民事 法 廷の 記 録(petition to probate will of Martha Hart, case no. 2007-06959; Hall, Kevin, et al. v. Memorial Medical Center, et al., case no. 2006-00127)。
•その他 病院2階と医局の写真;エアボート出発時のビデオ映像;2009年8月に、筆者がスーザン・ マルデリックの弁護人と交わした電子メール。 •インターネット情報 〔訳注 掲載記事は執筆当時のもので、すでに期限切れのものもある〕 ジョン・ティール医師の死亡記事(Daily Comet;Times-Picayune)とそこに寄せられたコメ ント、家族のFacebook投稿記事やトリビュートサイト(Lake Lawn Metairie Funeral Homeのウェブサイトhttp://lakelawn.tributes.com/our_obituaries/John-Stephen-Thie PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES le-M.D.-90423470及び www.legacy.com)、www.vitals.comのジョン・ティール医師に 関する記事、ハリー・トンプソン・センターのウェブサイト(www.harrytompsoncenter. org)、食品医薬品局(FDA)ホームページ上のミダゾラム(ベルセド)関連の記述及び 医薬品警告の歴史ページ。 【注記】 20 「注射を打つジェスチャーをした」:ティール医師は2008年、2009年におこなった筆 者とのインタビューで、コケモール医師がこの仕種をしたことを思い出したが、コケモ ール医師は2009年のインタビューで「絶対にそんなことはない」と否定している。コケ モール医師はティール医師とER前のスロープにいたこと(「彼はタバコを2、3本分け てくれた」)は覚えていたが、2013年に、医師の脱出が最後になるのは「船長が最後 に脱出するのと同じだ」と思ったと言った。 ●インタビューした人々Dr. Ewing Cook;Minnie Cook;Curtis Dosch;Cathy Green;Dr. Faith Joubert;Eric Yancovich.
【参考文献】 •既刊文献
Greene, Glen Lee, The History of Southern Baptist Hospital, revised edition(New Orleans: Southern Baptist Hospital, 1976, and original 1969 edition).
サザン・バプテスト病院発行の雑誌〈トライアングル〉に掲載されたハリケーン・ベッツィ関 連記事(1965年9月)、Raymond C. Wilson, “Thinking Out Loud”;J. Doak Marler, “How We Rode Betsy Out”;“Baptist Bears Betsy’s Brunt.”ほか。
“Ivan Knocked, Memorial Stood Ready,”Connections, September 2004. “Baptist Hospital Admits First Patient, Mrs. Cotey,”Item-Tribune, March 9, 1926. “Baptist Hospital Gives Treatment to First Patient,”Times-Picayune, March 9, 1926. アイテム・トリビューン紙 Item-Tribune の記事及び広告(1926年3月14日付)。“Hospital
Is Ready for Use”;“Facts About Baptist Hospital”;“Hospital Head Directs Work”; “Hospital Staff Comprises 127”;“Baptist Hospital Will Not Differ in Charity Cases.” ほか。
“Ideal of Christian Healing Voiced at Formal Opening of New Baptist Hospital,” Times-Picayune, March 14, 1926.
“Report of General Superintendent”ほか、ニューオリンズ市 排 水 組 合 Sewerage and Water Board の半年次報告書、1908年12月31日号及び1926年から1930年より。 “City Park Is Gaily Garbed for Great Festival Sunday,”New Orleans States, May 2, 1926. 1926年5月2日付の、嵐とその後についての記事: the Times-Picayune (May 3, 4, 7, 9;
August 26; September 12);New Orleans Item (May 3-5, 8, 11, 14);Item-Tribune (May 9);New Orleans States (May 3).
第
1
章
1926
年、
1927
年の嵐
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
1927年4月15、16日付の、嵐とその後についての記事:New Orleans Item (April 16 and 23)、Times-Picayune (April 16-21, 23-24, 26-29).
Barry, John M., Rising Tide:The Great Mississippi Flood of 1927 and How It Changed America (New York:Simon & Schuster, 1997).
•記録文書
“The 1927 Great Mississippi Flood: 80-Year Retrospective”(Newark, CA:Risk Management Solutions, Inc., 2007).
Southern Baptist Historical Library and Archives所蔵の小冊子及び報告書:Marvin W. Johnson, “Report of the Baptist Hospital at New Orleans,”1925;Louis J. Bristow, “Southern Baptist Hospital,”1926;“Proposed Program Structure, Southern Baptist Hospitals,”undated; Louis J. Bristow,“The Heart of Healing, Unto the Least,”ca. 1930sほか。Louis J. Bristow,“Hospital Stories:Indicating How the Southern Baptist Hospital Is Fulfilling Its Task of Healing Humanity’s Hurt,”ca. 1930s. Issues of the Annual of the Southern Baptist Convention (1928, ’29, ’36, ’42, ’43, ’62, and ’68) for reports of the hospital’s work, philosophy, and finances.
Maygarden, Benjamin D., Jill-Karen Yakubik, Ellen Weiss, Chester Peyronnin, Kenneth R. Jones, National Register Evaluation of New Orleans Drainage System, Orleans Parish, Louisiana, 1999. Chapter 4, “History of the New Orleans Drainage System, 1893-1996.”
【注記】
28「317床」:テネット社資料“Tenet to Create New Health Network in New Orleans,” October 24, 2005.
30「差し迫って必要なのは……」:Greene, G., The History of Southern Baptist Hospital, pp.29-30. 34「病院の損害は4万~6万ドルと見込まれ」:この引用元は地元新聞だが、実際の数字 はおそらくもっと小さかったと思われる。1936年5月発行サザン・バプテスト代表者会 議年次報告書の10年報告には次のように記されている。「1926年及び27年の水害に より、4万3220ドルの修繕・修理費を拠出」 現在の価値への換算は、2013年5月にミネアポリス連邦準備銀行の換算表で算出 した(52万8000~79万2000ドル)。 39「1927年のミシシッピ川大洪水は翌年の水防法の制定につながった」:1928年水防法。 アメリカ合衆国第70議会第1会期中に制定された。“An Act for the Control of Floods on the Mississippi River and Its Tributaries, and for Other Purposes”; http://www.mvd.usace.army.mil/Portals/52/docs/MRC/Appendix_E._1928_Flood_ Control_Act.pdf . PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES ●インタビューした人々
Gina Isbell;Robbye Dubois. 【参考文献】
•刊行文献
Landphair, Juliette, “‘The Forgotten People of New Orleans’:Community, Vulnerability, and the Lower Ninth Ward,” Journal of American History, no. 94 (December 2007): 837-45.
•未発表文献
“Tenet Healthcare Corporation to Acquire Mercy†Baptist Medical Center,” May 17, 1995, Mercy†Baptist Medical Center (press release);病院の平面図; 全患者をシャ ルメットから避難させた旨を報告する、2005年8月28日付のライフケアの電子メール。 【注記】
42「ハリケーン注意報が湾岸の広い地域に発令された」:ニューオリンズを含む地域を対 象とする「ハリケーン・カトリーナ注意報 第17」は、2005年8月27日(土)午前10時 (中央部夏時間)に発令された(http://www.nhc.noaa.gov/archive/2005/pub/al1220 05.public.017.shtml)。ほかに、以下も参照。Richard D. Knabb, Jamie R. Rhome and Daniel P. Brown, “Tropical Cyclone Report―Hurricane Katrina.” NWSTPC/ National Hurricane Center,2005;http://www.nhc.noaa.gov/pdf/TCR-AL122005_ Katrina.pdf. 注意報は対象区域で「36時間以内に」ハリケーンが上陸する可能性のあることを 意味し、カトリーナのときは「カテゴリー4まで発達する可能性がある」という内容で発 令された。カトリーナ後にメモリアル病院を含む病院関係者の被告人のために作成 された鑑定人報告書で、気象学者ランドフ・J・エヴァンスは、嵐は「上陸前の3日間で 急速に勢力を増し」たために、国立ハリケーンセンター(NHC)の注意報及び予報には、 堤防越水警告の遅れなど「省略や不確実、不正確な要素」が含まれていたと述べ、N HCがハリケーンの進路としてニューオリンズ地域が予想されることを確信を持って公 表したのは金曜日の夜(8月26日)がはじめてだったと書いている。2010年、NHCはハ リケーン・シーズンに先立ち、注意報における予想範囲を36時間から48時間に、警報 の予想時間を24時間から36時間に変更したほか、2013年には熱帯低気圧の暴風 域予想も早く出すようにした。 42「カテゴリー3に分類された」:2005年8月27日(土)午前10時(中央部夏時間)に注意 報と同時に発表されたNHC第17審議資料(http://www.nhc.noaa.gov/archive/2005/ dis/al122005.discus.017.shtml)には、上陸前にカテゴリー5に発達することもありえる との記述があり、「48時間から60時間以内、すなわち8月29日(月)までにルイジアナ州 南東部に上陸する」との予報が公式に発表されたことも確認されている。 46「注意。カトリーナは勢力と危険度を……」:NHCマイアミ支局が2005年8月27日(土) 午後11時(東部夏時間)に発表した、第19審議資料より。
第
2
章
カトリーナ
襲来前夜
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
●インタビューした人々
Dr. Horace Baltz;Joanne Cardaro;Dr. Ewing Cook;Minnie Cook;Dr. Richard Deichmann;Dr. Barry Faust;Faye Garvey, family of Jannie Burgess (Linette Burgess Guidi, Bertha Mitchell, Gladys Smith, Johnny Clark);Gina Isbell;Dr. John Kokemor; Gov. Richard Lamm;Grayson Lovick;Dr. Jeffrey N. Myers;Dr. Daniel W. Nuss;Dr. Anna Pou;Karen Wynn;John Zimmerman.
【参考文献】 •公文書
“NOAA Hurricane Katrina Advisory Archive,”National Hurricane Center, 2005 ; http:// www.nhc.noaa.gov/archive/2005/KATRINA.shtml?.
•記録文書
Johnson, Brig. Gen. David L., “Service Assessment:Hurricane Katrina August 23-31, 2005” (Silver Spring, MD: NOAA’s National Weather Service, 2006);http://www. weather.gov/os/assessments/pdfs/Katrina.pdf;ニューオリンズ避難命令;アンナ・ポ ー医師署名の2004年4月2日付移転同意書、雇用申出書及び受諾書のコピー。 【注記】 48「この地域は大半が……居住不能になるでしょう」:国立測候所ルイジアナ州ニューオ リンズ支所による、2005年8月28日(日)午前11時(中央部夏時間)発信の緊急気象 通報より(http://celebrating200years.noaa.gov/events/katrina/side_katrina.html)。 また、NHCは嵐の上陸から約24時間前に、5.5メートルから6.7メートル(さらに、ハリ ケーンの中心が直撃した場合には、8.5メートルまで)の高潮が発生することを予想し はじめていた。 49「従来のやり方で対応できる」:ジェファーソン郡長のアーロン・ブルサードが、午前11 時(中央部夏時間)にWDSUテレビ局の番組でした発言(http://www.youtube.com/ watch?v=Mk64s3xT8W8)。 49 ネイギン市長が避難命令の発令権をめぐって混乱していたことについて:US Congress, Senate Committee on Homeland Security and Governmental Affairs, Hurricane Katrina:A Nation Still Unprepared, Chapter 16,“Pre-Storm Evacuations,”footnotes 59-60, pp. 264-265. (Washington, DC:109th Congress, 2nd session, S. Rept. 109-322 GPO, 2006.i);http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/CRPT-109srpt322/pdf/CRPT-109srpt322.pdf.
51 電話会議:電話会議のある出席者によれば、発電機と受電装置を地上に設置してい た2カ所の病院とは子ども病院とメソジスト病院だった。しかし、メソジストも市が水没 した際に停電した。当病院の元管理部長はカトリーナの3年前に市の保健局長に対し、 主な発電機のうち1台と燃料供給装置の重要部分は洪水の水位以下の場所に設置 しており、その保護には750万ドルが必要になることを伝えていた(Fink, Sheri, “The New Katrina Flood: Hospital Liability,”New York Times, January 1, 2010)。死亡患
第
3
章
カトリーナ
襲来と
メモリアル
病院
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES 者の家族に訴えられたことで退任に追い込まれたメソジスト病院のラリー・モーガン・ グレアムCEOは、発電機の1台は洪水の水位よりずっと高い位置にあったが、燃料ポン プが水没したのだと説明した。メソジストでは、発電機が止まって18時間後に、ようや くスタッフが「人力でディーゼル燃料を屋根まで運びあげて」再稼働させたという (Stephen B. Lacoste, et al. v. Pendleton Methodist Hospital, LLC, Civil District Court for the Parish of Orleans, case no. 2006-2347, deposition taken May 2, 2008)。その 後も洪水帯にある病院で燃料ポンプの脆弱性の問題は解決されなかった。2012年 10月、ハリケーン・サンディによりニューヨーク市のベルヴュー病院では地下にあった 燃料供給ポンプが使えなくなり、発電機を止めないためにスタッフが人力で階上まで 燃料を運ぶという事態に陥った。 51「1700万ドル超」:ルイジアナ州保健医療局に対する連邦保健福祉省からの病院対策 プログラム助成金に関する、ルイジアナ病院協会のデータより(2002-2005;http:// www.lhaonline.org/displaycommon.cfm?an=1&subarticlenbr=138)。51「予想される水位では……使えなくなるだろう」:US Senate, Hurricane Katrina:A Nation Still Unprepared, Chapter 24,“Medical Assistance,”p. 399, p. 427 (reference 7):フィリップ・ネイヴィンが2005年8月29日午前6時58分に、市の委員会に送信した 電子メールより。
54「治療を受けることは許されていなかった」:以下を参照。Baker, Robert B., Harriet A. Washington, et al.,“African American Physicians and Organized Medicine, 1846-1968,”JAMA, vol. 300, no. 3 (July 16, 2008): 306-314. 南部の病院における人種分 離は、「分離すれど平等」主義を合憲とした1896年の合衆国最高裁判所判例(プレッ シー対ファーガソン裁判)や、白人と黒人の患者の分離を求めた南部諸州の法令など の法的根拠を有していた。1946年のヒル・バートン法(病院の調査と建設のための 法律)は、連邦政府が人種分離をおこなう病院の建設と改良に補助金を出すことを 認めていた。1954年に教育における分離平等主義を違憲とした最高裁判決(ブラ ウン対教育委員会裁判)が出たあとも病院における人種分離は続いた (Quadagno, Jill and Steve McDonald, “Racial Segregation in Southern Hospitals:How Medicare ‘Broke the Back of Segregated Health Services’”in Green, Elna C., ed., The New Deal and Beyond: Social Welfare in the South Since 1930. [Athens, GA: University of Georgia Press, 2003])。1964年の公民権法第6編は、人種差別をおこなう民間組織 が連邦政府の補助金を受けとることを禁じている。だが、実際に補助金をもらってい た民間組織で、差別撤廃という条件に縛られていたのは病院だけだったようだ。 1965年にメディケアが成立したときに、病院では差別を撤廃していないかぎり、連邦 政府の補助金は受けとれないこととされた。 54「実際、バプテストはサザン系列の……1つだった」:サザン・バプテスト病院のレイモン ド・C・ウィルソン管理部長は1967年5月、トライアングル紙掲載の自身のコラム 「Thinking Out Loud」で、ある官僚から政府の補助金なしで運営している病院は全国 で300に満たず、「サザン・バプテストはそうした自力運営グループで最大級の病院だ と言われた」と書いた。また、政府の医療機会均等局から、メディケアに参加するニュ ーオリンズの病院はそれぞれ、各医師より照会のあった患者と照会先の病院のリスト を提出せよとのお達しが出たとも記している(おそらく、続いている人種差別をあぶり 出すことが目的だろう)。ウィルソンいわく「こうした方策は、各患者に最適の病院を決 定するという医師の特権をいちじるしく妨げかねない」 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
54-55「これにはニューオリンズ市民も支持の声をあげた」:ウィルソンの前記コラム(1966 年9月)より。また彼は、「貧困撲滅政策や政府による都市の再開発計画、低所得者向 け住宅政策、美化計画などに向けた何百万ドルもの助成金」を拒否したカリフォルニ ア州サンリアンドロ市を、「地域の問題に対する政府の支配」に抵抗しているという理 由で賞賛した。 55「病院は黒人の受けいれをひっそりと始めた」:ウィルソンは前記のコラム(1969年6月) で以下のように書いている。「人種、信条、肌の色、出身国、支払い能力にかかわらず、 すべての人々に医療を提供することが、わが病院の信念であり仕事である」。同月、ニ ューオリンズで開かれたサザン・バプテスト代表者会議は、同病院委員会の役員に 対し、「その方針と実務を合致させるべくすみやかにこの問題にとり組む」ことを求 める「ニューオリンズ病院の人種統合決議案」を採択した (http://www.sbc.net/ resolutions/amResolution.asp?ID=888)。人種統合策が採択されたのは前年の1968 年6月、代表者会議の年次総会においてであり、同じ週にロバート・F・ケネディ上院 議員が暗殺されている。その総会で、サザン・バプテスト系列の病院は1962年に採択 した「人間の尊厳と価値の維持が可能な方法で支払いができる人々に、病院の全リ ソースを提供する」という看板をとりさげた。サザン・バプテスト病院は代表者会議の 新しいモットーを、黒人患者の治療を始めることから実践した(Greene,Glen Lee,The History of Southern Baptist Hospital;New Orleans: Southern Baptist Hospital, 1976, and original 1969 edition)。1968年6月13日付バプテスト・メッセージ誌〔訳注 ルイ ジアナ・バプテスト代表者会議の隔週ニュース雑誌〕のある記事は、同病院が代表者 会議に提出した年次報告書によると、「ニューオリンズのバプテスト病院はこの年、最 初の黒人患者を受けいれた」と記されている。1960年代なかばから同病院に勤務し ていた白人のホレス・ボルツ医師は筆者に、「とにかくひっそりと始まった」と言い、その ときバプテスト病院で働いていなかったボルツ医師と同世代の黒人医師ウィンザー・ デニス外科医は、それ以前に同病院で治療を受けた黒人は知るかぎり1人(著名な 学校長)だけだと言った。ボルツ医師は、病院の方針に影響を与えたかもしれない人 物として、一流の医師で、ニューオリンズでも非常に熱心な人種差別主義者だったエ メット・リー・アーウィン(1965年に交通事故で死亡)の名前をあげた。前記の資料で アーウィンは1926年のサザン・バプテスト病院創立時の医療スタッフとして記され、ほ かの資料にも、アーウィンは大ニューオリンズ白人市民会議の創立者であり、初期の 指導者だったという記述がある(The Citizens’ Council:Organized Resistance to the Second Reconstruction 1954-64;Champaign, IL: Illini Books,1994)。白人市民会議 は学校の人種差別廃止に抵抗するための団体で、アーウィンを議長に迎えた1950年 代なかばには、「南部連合国旗を振る観客をニューオリンズの市立公会堂に集め、人 種差別撤廃を共産主義者の陰謀だと非難する演説や、人種戦争が迫っているとい うおぞましい予測を聞かせた」という(Mohr, Clarence L. and Joseph E. Gordon: Tulane:The Emergency of a Modern University, 1945-1980. Baton Rouge, LA: Louisiana State University Press, 2001)。アーウィンはそれ以前には、ルイジアナ愛国 社会連合の創立者でありリーダーを務めてもいた(Mohr and Gordon、同上)。アーウ ィンは学校の人種差別撤廃反対運動として、白人の子どもと顔を黒く塗った白人の子 どもを舞台に立たせてキスをするよう指示し、聴衆に向かって、「学校の人種隔離を撤 廃するとは、こういうことなのです」と言った(Bush v. Orleans Parish School Board and the Desegregation of New Orleans Schools. Federal Judicial Center; http://www.fjc.PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES gov/history/home.nsf/page/tu_bush_narrative.html.)。創立初期に出されたサザン・ バプテスト病院の声明は、少なくとも書類上はもっと柔軟な姿勢を示していた。1935 年の病院報告書に次のような文章が見られるのだ。「我々の方針は、長年一貫して従 ってきたとおり、人種、信条、地位に関係なく、病気で訪れる者に治療を施すことであ る」。「肌の色」ではなく「人種」と言及しているところが、おそらく重要なのであろう。 1969年、ウィルソン管理部長は以下のようなメッセージを発信したが、当時、サザン・ バプテスト病院はいまだメディケアに参加していなかった。「私が懸念するのは、一部 でメディケアへの参加が公民権問題と混同されていることだ」とウィルソンは書いてい る。「そうした批判者に対して、私はきわめて実際的な見地から申しあげたい。意義あ る努力を続けているわが病院が……貧困者ばかりを特別扱いしていては、遠からず 機能しなくなってしまうだろう」。彼は、連邦政府がすでにメディケア償還の2%減額を 発表していることを指摘した。「我々はこれまでメディケアに関しては『様子見』をして きたが、長く待てば待つほど、問題が顕在化しているように思われる」 55「病院は……メディケアに参加することに決めた」:“SBH Joins Medicare”(The Triangle)。サザン・バプテスト病院は1969年11月1日にメディケアに参加した。ウィル ソンは、老人患者は11月3日時点で31名だったのが、11月10日には52名、11月18日 には86名に増えたと書いている。1970年1月には123名になっていたという(Greene, p. 209)。55「緊張関係は残った」:Johnie Montgomery v. Southern Baptist Hospital, EEOC charge no. 062-79-1208; Sheila Bass v. Southern Baptist Hospital, EEOC charge no. 1282;Issac Frezel v. Southern Baptist Hospital, EEOC charge no. 062-79-1905 and 062-80-0316;Tyronne Smith v. Southern Baptist Hospital, EEOC charge no. 80-0819;Rita Robertson v. Southern Baptist Hospital, EEOC charge no. 0845;Dorothy Nelson v. Southern Baptist Hospital, EEOC charge no. 062-80-1464)。病院は1980年、7件の事案の捜査資料のコピーを求めてEEOC(雇用均等委 員会)と会長のエレノア・ホームズ・ノートンを訴えた(Southern Baptist Hospital v. Equal Employment Opportunity Commission, et al., US District Court, Eastern District of Louisiana, 80-3972)。EEOCの弁護士は、捜査資料の提供は「雇用者が 被雇用者に威圧、攻撃、報復する機会を与える」と同時に、病院に対する進行中の訴 訟の妨害になると主張した。病院側は後者の理由で敗訴した。人種統合政策導入 に際し、保健医療分野で抵抗が続いたことに関しては、以下を参照。Smith, David Barton, “Racial and Ethnic Health Disparities and the Unfinished Civil Rights Agenda,” Health Affairs, 24, 2(2005): 317-324. http://content.healthaffairs.org/ content/24/2/317.full.
55「連邦地方裁判所にも提訴した」:Issac E. Frezel v. Southern Baptist Hospitals, Inc., US District Court, Eastern District of Louisiana, 80-4603 (1980).
56「フリント・グッドリッジ病院」:“The History of Flint-Goodridge Hospital of Dillard University,”Journal of the National Medical Association, 61, no. 6 (November 1969):533-536; “Medicine: Negro Health,”Time, April 8, 1940; http://www.time. com/time/magazine/article/0,9171,763801,00.html (要登録)などを参照。 56「手術と抗ガン剤治療により進行が止まっていたが」:ジャニー・バージェスの家族のご 厚意により、彼女の医療記録やカルテを閲覧できた。 57「黒人初のバニーガール」:リネット・バージェス・グイディ本人の言。 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
57「シフトに入っていたスタッフは」:メモリアル医療センターの非公開メモ“HURRICANE KATRINA―AUGUST 28, 2005”より。 57「アンナ・マリア・ポー医師だけは例外で」:アンナ・ポー医師の経歴に関する記述は、 ポー本人ほかに対するインタビューに加え、彼女の家族、病院の同僚、2007年5月に テキサス州ヒューストンで開かれた支援資金集めのイベントの参加者などから提供さ れた情報を参考にした。ヒューストンのイベントについては、本書の執筆を知らせにポ ーの弁護士リック・シモンズにはじめて会ったときに、彼から聞いた。私も主催者の許 可を得て出席したが、ジャーナリストとしての倫理基準に従い、自分の食事代は自分 で支払った。ポーの支援者の多くは、彼女にまつわる話をしたがり、私に対して、彼女 の容疑ばかりをとり沙汰し、医師としての、人間としての彼女を尊重しない性急なテレ ビ番組とは異なるとりあげ方をしてほしいと訴えてきた。 59「友人たちは小学生の頃から」:セント・リタ小学校の同級生という「ウエストウィーゴ ーのティム・バレイン」のブログ(2006年7月31日)より。59「自宅とは離れた地域にある労働者階級の」:Kolb, Carolyn,“Life Along St. Claude Avenue,”New Orleans Magazine (August 2008); http://www.myneworleans.com/ New-Orleans-Magazine/August-2008/Life-Along-St-Claude-Avenue. 60「1970年代後半のある暑い日」:2007年7月23日、溺れて蘇生してもらったジョン・ジマ ーマン本人から筆者が聞いたエピソード。 63「連邦政府から指名手配され」:連邦麻薬取締局ニューオリンズ支局最重要指名手配 者リストに、フレデリック・アンソニー・ポー・ジュニアの名前が載っている(NCIC# W603770132;http://www.justice.gov/dea/fugitives/no/24B099BA-E9B1-4EDA-982C-C01C8C83D102.shtml)。フレデリック・ポー・ジュニアはアラバマ州及びルイジ アナ州の連邦大陪審より起訴されていた。アラバマ州では、コロンビアから約1.2トン のコカインを密輸した容疑をかけられていた。以下も参照。USA v. Pou, et al. 1:89-cr-00072-BH, US District Court Southern District of Alabama, May 9, 1989; USA, et al., v. Land Baton Rouge, 2:89-cv-02289-MLCF, US District Court Eastern District of LA (New Orleans), May 22, 1989; United States v. Ricou Deshaw, 974 F.2d 667 (5th cir.), no. 91-3131, October 14, 1992).
63「病院は支払い能力のない患者に対する治療を制限しはじめた」: Wysocki Jr., Bernard, “Hospital Sets Strict Rules to Limit Costs,”Wall Street Journal, January 12, 2004; Kinonen, Judie,“A Tale of ‘Rational Rationing,’”UTMB Magazine(Spring 2005); http://www.utmb.edu/utmbmagazine/archive/05_spring/pog.
66「病院近くに家を買った」:不動産記録はnexis.com から入手。
67「アメリカ南東部で救急カート……を導入した最初の病院」:Wilson, quoted in “Hospital Adds New Lifesaver,” The Triangle (March 1967), a reprint of a February 16, 1967 Times-Picayune article. また、以下の記事では病院の発展と、「未来の病 院」が酸素供給装置や予備電源をはじめとするハイテク機器を導入することにつ いて論じている。Wilson, Raymond C., “Thinking Out Loud,” The Triangle (June 1967).
67「我々の多くは、医学に……抵抗がある」:“Dr. Baltz:Excellence Is Our Strength,” The Triangle (February 1984).
68「クラレンス・ハーバート」:Lo, Bernard,“The Death of Clarence Herbert:Withdrawing Care Is Not Murder,”Annals of Internal Medicine, no. 101 (1984): 248-251.ほか。
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES
68「死に方、死ぬ方法」:“The Ethics of Life and Death,”Spectrum (Spring 1985):23. 69「 我 々に は …… 死 ぬ 義 務 が ある」:1984年3月27日のColorado Health Lawyers
Association におけるリチャード・D・ラム州知事の発言(デンヴァー・ポスト紙提供の テープ起こしから)。ほかにKass, Leon R., “The Case for Mortality,” The American Scholar vol. 52, no. 2 (Spring 1983):173-191. 当時、日刊紙で最大の購読者数を誇 っていたニューヨーク・デイリー・ニュースもラム州知事の言葉を「年寄りは死ね。それ は義務だ、と州知事は語った」という見出しで掲載した。ラム州知事のもとには悪意に 満ちた電報が殺到し、今日で言う「炎上」状態に陥った。デンヴァー・ポスト紙の元記 事は二人称を一人称に置きかえており、またラムが老人や末期患者を特定して死ぬ 義務があると言ったと連想させる見出しも不正確だった。のちにニューヨーク・タイム ズ紙が訂正記事を掲載し (“Correction,” November 23, 1993)、8件の記事で曲解し て伝えていたことを報告した。ラムは自分の発言が注目された機に乗じ、「ハイテク機 器やハイテク治療」に巨額が投じられているせいで予後不良の患者が「生ける屍」と 化している例があまりにも多いために、本当に必要な者に医療が与えられていない、 という持論を展開した(Lamm, Richard D., “Long Time Dying:When ‘Miracle Cures’ Don’t Cure,” New Republic [August 27, 1984])。2010年のある会議で、私は 75歳となったラム元知事に、以前と同じ考えであるかどうかと聞いた。彼は笑みを浮 かべて、自分が治療の必要な体になったら、這ってでも病院に行く、と答えた。2011 年10月7日におこなった補足インタビューでも、意見は変わっておらず、彼は「病人が 治療を切望するのは当然のことだ」と言った。「だからこそ、医療システムはそうした人 間の要求に良識を持つべきなのだ」
69「 救 急カートが登 場し」:‘Orchestration’ of a Death,”April 19, 1983;and “A Final Judgment on Quality of Life,”April 20, 1983. をはじめとする、終末期医療に関する Washington Post 紙の Benjamin Weiser による執筆記事を参照のこと。ほかに、 Kleiman, Dena,“Uncertainty Clouds Care of the Dying,”New York Times, January 18, 1985.
73「 売 却 手 続きを始めた」:“Tenet Announces Major Restructuring of Operations,” press release, Tenet Healthcare Corporation, January 28, 2004. See also, Klaidman, Stephen, Coronary (New York: Scribner, 2007).
73「祝うべきことはたくさんあった」:Goux, L. R.,“Memorial Achieves‘Full Compliance’ in JCAHO Survey,”Connections (July 2004);“Memorial Shines in JCAHO Survey,” Connections (June 2005);and “You’re Tops, and We Have the Stats to Prove It!,” Connections (October 2004). Also:“Birthplace of New Orleans Cuts Ribbon on Renovation,”Connections (November 2004);“New Orleans Cancer Institute Celebrates Opening, Health Fair,” Connections (February 2004);and“New Orleans Cancer Institute Building Nears Completion,”Connections (August 2003). 75「ハリケーンが接近するなか」:ここで示した数字は、患者数調査と病院指導者らがや りとりした電子メールの写しにもとづいた最良推定値である。被災中に入院、退院、死 亡した患者がいたため、数字は変化している。 75「地元ラジオ局……午前2時台のニュースは」:WWLは放送時のデジタル録音を提供 してくれた。文字起こしには2011年、シンクタンクのニュー・アメリカ・ファウンデーショ ンの研究員であるレベッカ・ラビノヴィッツの協力を得た。その写しは、本書で引用した 2005年8月29日から9月1日のWWLに関する記述の根拠となった。 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
76-77「マルデリックは、たまたま……現場指揮官となった」:スーザン・マルデリックはエル ミラ・プレストンほか対テネット・ヘルスケア・システムズ・メモリアル医療センターの集 団訴訟の裁判で、数度の証言と訴訟上の合意において病院との長年のつきあいに ついて述べた(Orleans Parish Civil District Court, 2005-11709)。メモリアル医療セ ンター方針E‐19「災害対策システム」(2002年6月21日付)には、災害時の指導システ ムについて記述がある。しかしながら、スタッフへのインタビューによれば、この計画は 記述どおりに実践されておらず、本書ではスタッフ各人の職業観が垣間見られる。 77「休暇らしい休暇もとらないで」:Diane Loupe, “5 Lucky Women Were Bumped from
Plane,”Times-Picayune, July 11, 1982.
78「ニューオリンズのカトリック系病院マーシーと……買収された」:Harrell, Byron R. and Sister Barbara Grant,“Memorandum to: Employees of Southern Baptist Hospital and Mercy Hospital,”September 1, 1993;“Mercy and Baptist Hospitals Announce Plans to Merge,”news release, Peter A. Mayer Advertising, Inc., September 1, 1993;Pope, John,“Baptist, Mercy Joining Forces,”Times-Picayune, September 2, 1993;Rubinow, Marisa,“The Merger,”Healthcare New Orleans, October 1993; “Mercy†Baptist Joins Tenet Louisiana Health System,”Tenet Louisiana Health System(bimonthly employee newsletter), November 1995.“Another Shift Toward Tomorrow,”Collaborations (health and wellness magazine from Mercy†Baptist Medical Center), Summer 1995.
78「クリスマスの飾りつけコンテスト」:The Triangle (January 1971).(1970年にはホイル 製のマドンナ人形や「美しく染色された敷物糸で描いた絵画」などが賞をとった)。信 仰が常に病院のニュースレターのテーマとなり (「ときには祈りが鎮静剤の役割をす ることもある」The Triangle, May 1967)、すべての土台となっていた。サザン・バプテ スト系列の病院が1962年に採択した計画書では、次のように謳っていた。「バプテスト 病院は、イエス・キリストを信じることで人々が神に救済されるよう導くために存在する。 信仰を得る機会は、個人が神を感じる体験をすることであり、病気や障害、大切な人 の死を経験したときに、そうした経験に対するキリスト教の肯定的な解釈を知ることで ある」。とはいえ、この時期にあっても最終的な収益への関心はあった。医療費を払え ないバプテスト派の人々には、「病院の経済的健全性を損なわない程度に」対応した (サザン・バプテスト代表者会議年次報告書, 1962, pp. 61-62)。この代表者会議は 同病院と1970年6月に袂を分かったが(Wilson, Raymond C., “Thinking Out Loud,” The Triangle, July 1970)、それはフロリダ州ジャクソンヴィルのバプテスト・メモリアル 病院も傘下に収めている組織の下で「独立したキリスト教団体として」ひきつづき運 営したかったからだった。 82「主任薬剤師」:メモリアル病院薬局局長、カーティス・ヘバートが2005年8月28日(日) 午後7時に送信した電子メールより。 82「レネは……懸念しています」:2005年8月29日(月)午前9時3分送信の電子メールより。 84「エヴァレットは妻の携帯電話がつながらず」:エヴァレットのカルテに記された看護師 の記録より。 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES ●インタビューした人々
Knox Andress;Dr. Horace Baltz;MAJ Betty Bennett;Kamel Boughrara;Keith Brisbois;LT Shelley M. Colbert;Dr. Ewing Cook;Minnie Cook;Marc Creswell;Dr. Richard Deichmann;Rebecca DeLasalle;Dr. Windsor Dennis;Hugh Eley;John Ferrero;Faye Garvey;Dr. Juan Jorge Gershanik;Cathy Green;LT Catharine Gross; LCDR Russell Hall;Dr. Robert Hendler;Gina Isbell;Dr. Bryant King;CDR Scott Langum;Wayne Leche;Father John Marse;CDR (ret.) William F. McMeekin;Therese Mendez;LT/O3E Sean Moore;Dr. Susan Nelson;Dr. Paul Primeaux;Dr. Angela Reginelli;Michael Richard;AMT2 Randal Ripley;Karen Sanford;Rodney Scott;Mike Sonnier;Dr. Kevin Stephens;Dr. Robert Wise;Karen Wynn;Eric Yancovich.
【注記】
88「発電機を使って放送を続けている地元ラジオ局WWL」:Moody, Reginald F.,“Radio’s Role During Hurricane Katrina:A Case Study of WWL Radio and United Radio Broadcasters of New Orleans,”PhD diss., University of Southern Mississippi;Ann Arbor, Mich.:UMI Microform, 3268460, 2006.
88「戒厳令が発令された」:2005年8月29日午後11時(中央部夏時間)ほかの放送より。 91「生き残る魂……」:2007年6月23日の〈オーラル・ヒストリー・プロジェクト〉〔訳注 災 害などの体験談を集め、データとして残す運動〕におけるリンゼイ・ルイス4世の 話より。“Surviving Hurricanes Katrina and Rita in Houston Collection”(AFC 2008/ 006), Archive of Folk Culture, American Folklife Center, Library of Congress, Washington, DC (Interview SR012, Accession # SKR-CJ-SR02).
93「熱帯低気圧アリスン」:“Tropical Storm Allison, June 2001: RMS Event Report” (Newark, CA: Risk Management Solutions, 2001);“Lessons Learned from a Hospital Evacuation During Tropical Storm Allison,” Suburban Emergency Management Project, Biot Report #216, May 21, 2005 (“Lesson 1:Flooding will occur on a flood plain. Don’t be surprised when it happens, especially when your hospital is built on a flood plain...”)などより。アリスンによる被災後、病院を相手どっ た訴訟が何件も起こされた。原告には、治療中に病院が停電になり死亡したチャール ズ・ブルンケンホーファーの家族(172nd District Court, Jefferson County, TX, no. E-169,673)や、となりの病院とつながっていたトンネルに地上の水を流した疑いでメソ ジスト病院を訴えた、テキサス・ウィメンズ大学などが含まれている(151st District Court, Harris County, Texas, no. 2003-31948)。
98「医療施設認定合同審査会(JCAHO)」:2007年に組織名を合同審査会(TJC)に変 更した。メモリアルに対するJCAHOの医療施設認定プログラムと在宅医療プログラム (May 17-19, 2005, organizational ID no:8778)。
98「特に多い数ではない」:2010年のローバート・ワイズ博士との個人的な会話より。 98「州の免許」:ルイジアナ州では、JCAHOの認定は州による年次再調査に代わるものと
して、保健局から認められていた(“9309. Exceptions,” Louisiana Register, vol. 29, no. 11, November 30, 2003, p. 2404)。
第
4
章
停電と洪水
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
100-101「2005年までには……10億ドル超の予算」:“Hospitals Rising to the Challenge: The First Five Years of the U.S. Hospital Preparedness Program and Priorities Going Forward,” UPMC Center for Biosecurity(now known as the UPMC Center for Health Security), March, 2009;(http://www.upmchealthsecurity.org/website/ resources/publications/2009/2009-04-16-hppreport.html). 2002年は1億3500万ドル、 2003、2004年の2年間で5億1500万ドルだった。 101「連邦政府の必要条件よりはるかにきびしかった」:アメリカ・メディケア・メディケイ ド・サービス・センター(CMS)は、提案されていた非常時対策に関する規則案を 2013年7月の時点でも発表していない。「全米の医療機関が非常時対応計画を策定 し、実際に対応することに不安を抱いているために」、CMSが2010年秋の政府公報で、 2012年はじめに公表する予定だと告げていた(CMS Spotlight,“Emergency Preparedness Requirements for Medicare and Medicaid Participating Providers and Suppliers: CMS-3178”; http://www.cms.gov/Regulations-and-Guidance/Legislation/CFCsAndC oPs/Spotlight.html)。この規則案では、ハリケーン・カトリーナ時に露呈した準備不足 が反省材料の1つとなり、病院も含む医療機関がメディケアとメディケイドに参加する には、非常時の備えが一定水準に達していることが必要条件になるだろう。観測筋に よれば、採択が遅れているのは、条件を満たすにはコストがかさむので、抵抗が強い ためらしい。医療機関によって対策が異なる「システム上の溝」はいまだ埋まっていな い。 107「本社のアーヴィンには危機管理の経験がなかった」:2010年8月26日におこなわれ たプレストンほか対テネット社の裁判で、マイケル・アーヴィン本人が証言した。 109「 以 前 は バ プ テスト系 列 」:Greene, Glen Lee, The History of Southern Baptist
Hospital, revised edition (New Orleans:Southern Baptist Hospital, 1976, and original 1969 edition), p. 24.
111「病棟診療医として」:“Hospitalists Now on Staff,” Connections (May 2005)より。 111「この階の責任者は私だ」:クック医師本人から聞いた話より(2007、2008、2009、 2013年のインタビューにて)。キング医師はこのときの回想が正しいことを2009年、 2013年のインタビューで認めている。キング医師は、自分の患者には遠隔モニタリング 装置が必要だと考えていたという。「患者に必要なものを提供できるのであれば、でき るかぎりそうするべきだと思ったのです」。彼はまた、このやりとりをしたのは被災初期 だったと思うと言った。 114「錆びついたヘリパッド」:メモリアルのスタッフは沿岸警備隊に、古いサザン・バプテ スト病院時代のヘリパッド配置図を送った。スペクトラム誌は1985年、建設中のヘリパ ッドほか6階建てのクララ棟と発電ビルの建設も含む「プロジェクト2000」建設計画に ついて詳細に掲載した(“Growing to Serve You Better,” Spectrum ;Spring 1985, p. 19)。 116「重量5トン以上もあるブラックホーク」:空虚重量は多くの仕様書で公表されている (http://www.sikorskyarchives.com/S-70A%20(UH-60M%20Black%20Hawk,%20 HH-60M).php)。副操縦士のキャサリン・グロス大尉によれば、メモリアルに着地した ジェイホークの1機は燃料が半分以下の状態で総重量は8.4トンだった。 117「ある看護師の夫」:ショーン・ムーア大尉(階級は2013年7月現在)。
119「1人の看護師の夫が椅子に座り」:Bernard, Marirose and Pamela R. Mathews, “Evacuation of a Maternal-Newborn Area During Hurricane Katrina,” MCN (July/
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES
August 2008)の写真より。新生児ICUの赤ん坊救出に関する描写は、前記を含めさま ざまな資料を参照した。StoryCorpsによるパメラ・マシューズ、その夫のエドウィン・ロ イ・マシューズ、ジョー・リンクス看護師へのインタビュー(interview MBX006447, March 18, 2010, archived in the Library of Congress’s Folklife reading room);メモ リアルのスタッフ撮影による救助活動の写真;Gershanik, Juan,“EVACUATE! My Katrina Experience”(2005年12月27日付の4ページにわたるファックスより);Feiler, Alan,“God’s Hands in the World,”Baltimore Jewish Times, September 9, 2005; ほか にゲルシャニク医師をはじめとするスタッフへのインタビューなど。
120「市外から派遣されたパイロット」:筆者がインタビューした複数の沿岸警備隊パイ ロットが、メモリアル病院の位置が特定しにくかったと述べた。その様子は、公表 されていない沿岸警備隊の文書にも報告されている(“Summary of Action for the Distinguished Flying Cross: LCDR SCOTT LANGUM,” covering August 28 to September 4, 2005.など)。「ラングム少佐は闇にまぎれた障害物のあいだを器用に縫 い、指定された位置に向かってヘリを飛ばした。しかし、病院の場所は不正確だった。 積極的誘導がないなか、ラングムは低空飛行で探索し、各ビルの標識を読みながら 病院の位置を特定した」 120-121「お願いです、リチャード」:このやりとりはゲルシャニク医師の記憶にもとづく。 2013年6月にダイヒマン医師に確認したところ、覚えていなかった。 121「ヘリパッドに着いてから、もう1時間が経過し」:Gershanik, Juan,“EVACUATE! My Katrina Experience.” 122「外科ICU担当看護師のローリー・ブドー」:懐中電灯のエピソードは、ローリー・ブド ーの回想記にくわしく記されている(Katrina Through Our Eyes: Stories from Inside Baptist Hospital ;Lexington, KY: CreateSpace, 2010)。ブドーはその序文(p.9)で次 のように書いている。この本は「ハリケーン・カトリーナ襲来後にICUスタッフやその家 族が体験したことを物語風に書いたものである。……これは知り合いや愛する人た ちの、私たちの物語である」。この回想記ではブドー本人と、結びのエッセイを書いた キャシー・グリーン以外は、すべて仮名で通しているが、その記述は他の情報源やイン タビューなどとかなり合致しているため、本書でも一部を使わせてもらった(使用した 箇所はこの注記で示した)。筆者はそれらの事実関係の調査の過程でブドーにイン タビューを申しこみ、本書の出版前にも彼女にかかわる話や細部の確認のために彼 女と接触したが、弁護士のエドワード・J・キャスティング・ジュニアを通して断られてし まった。 123「ヘレン・ブレッケンリッジ」:ヘレン・デニス・ブレッケンリッジの死に関しては、彼女の 兄とICUスタッフへのインタビューを根拠とした。スタッフはブレッケンリッジ夫人の名 前を出さなかったが、死亡記録と患者数調査と比較すると、災害で死亡したICUの女 性患者は2名しかいなかったため、容易に特定できた。以下の資料も参考にした。彼 女の兄であるウィンザー・S・デニスがニューオリンズ郡地方裁判所民事法廷に対して おこなった申し立て(“Petition in suit for temporary and, subsequently, permanent interdiction”case no. 2005-11439)関連の記録、委任状、宣誓供述書、判決など。ナシ ョナル・メディカル・サービス社が2006年1月13日に提出した薬物検査報告書、2005 年10月20日におこなわれた検死(Orleans Parish coroner’s office #KAT-J-0322-05)、 2005年10月27日付タイムズ・ピカユーン紙の死亡記事。
124「蘇生禁止指示は……生前遺言とは別ものである」:“Louisiana Advance Directives:
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
Legal Documents to Assure Future Healthcare Choices,”Peoples Health. また、内科 医、老年病専門医、ホスピス/緩和医療医であり、医療上の事前意思決定問題に関 するルイジアナ州の構想について関心を高めるための組織であるLaPOSTで議長も 務めるスーザン・ネルソン医師などの専門家へのインタビューも参考にした。 128「空軍大尉でもある看護師」:空軍予備役のベティ・ベネット(現在は少佐)。 129「行き先はパイロットに任せて……」:このやりとりは、Bernard and Matthewsの記事
の引用である。2013年6月、ダイヒマン医師に確認したところ、彼はこの会話を覚えて いなかった。
130「心電計の波形は……」:Settlement approval petition filed in Evelina Barnes and Jeffrey Blackmore o/b/o Samuel Barnes v. LifeCare Hospitals, Inc., in Civil District Court, Orleans Parish, Louisiana, December 3, 2008.
130「呼吸療法士にライフケアの様子を聞いた」:ライフケアの呼吸療法士チャールズ・リ ンデルが、州の捜査員に話したこと、2005年11月10日。 132-133「FEMAが救助活動をしてくれると期待した」:マルデリックは2010年8月16日、プ レストンほか対テネット社の裁判で、サンドラ・コードレイがライフケアに対して支援が 必要かと聞いていたと証言した。「ライフケアは患者を避難させるために、本社だか経 営陣だかと連携していると言いました」。2013年6月の筆者とのインタビューで、アケイ ディアン・アンビュランス社のキース・ブリスボイスは避難の決断が下された直後にラ イフケアに行き、アケイディアンからの支援を申し出たことを思い出した。そして、ライ フケアから搬送契約について本社に確認中だと告げられて、ブリスボイスは驚いたと いう。なぜなら、彼はライフケアとアケイディアンが契約を結んでいると考えていたか らだ。テキストメッセージ及び電子メールのやりとりから、その日遅く、ライフケアのスタ ッフがメモリアル、テネット社、アケイディアンに避難援助を依頼したことがわかってい る。 133「このアンドレスは……看護師で」:プレストンほか対テネット社の裁判におけるアンド レスの証言と、本人へのインタビューより。
141「物資の供給から患者の搬送まで」:US Senate, Hurricane Katrina:A Nation Still Unprepared, Chapter 24,“Medical Assistance.”カトリーナ時に医療面での準備や対 応に失敗した件に関しては、以下が簡潔明瞭に記している。Bergal, Jenni,“Health Care” in City Adrift: New Orleans Before and After Katrina(Baton Rouge, LA: Center for Public Integrity, Louisiana State University Press, 2007).
142「とても劣悪な状況だった」:WWLラジオ局、2005年8月30日午後7時の放送より。 142「ブランコ州知事は夜の記者会見で」:WWLラジオ局、2005年8月30日午後10時の 放送より。 142-143「アーヴィンは……コードレイには電子メールの返信で」:マイケル・アーヴィンが 2005年8月30日午後10時39分に送信した、サンドラ・コードレイほかメモリアル及びテ ネット社への電子メール。 143「沿岸警備隊が……今後もヘリ……を派遣する」:このときの様子は、関係者の記憶 に深く刻まれている。ルイジアナ州アレクサンドリアの沿岸警備隊災害対策本部にい た者は、複数が2013年の筆者のインタビューで、メモリアルのスタッフに夜通し救出さ せてくれるよう説得したと言った。ポール・プリモー医師は2008年のインタビューで、メ モリアルの対策本部にかかってきた沿岸警備隊の電話をとり、徹夜で救出活動をお こなうことを熱心に勧められたため、ヘリパッドにいたリチャード・ダイヒマン医師に伝 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES
えたところ、夜間の救出活動は危ないと言われた、と話した。ダイヒマン医師はこのプ リモー医師とのやりとりを覚えていなかったが、その回想記(Code Blue:A Katrina Physician’s Memoir,Bloomington, IN:AuthorHouse, 2006)で、同様の決断を下し たと書いている。その様子は本書の第5章に記した。
144「アケイディアン・アンビュランス社のフライト・コーディネーター」:マーク・クレスウェ ル (2011年と2013年にインタビューした)ほか、ルイジアナ州ラファイエットのアケイデ ィアン社の基地から派遣された同僚の証言。カトリーナ被災中のアケイディアンの活動 ぶりは、以下を参照。Judice, Ross, The Katrina Diaries: First Hand Accounts from Medics and Miracle Workers(2011); http://www.scribd.com/doc/101037393/Ross-Judice-Acadian-Ambulance-The-Katrina-Diaries。
民間ヘリコプター会社による病院救出活動は、以下に記録されている。“Air Medical Community Response to Hurricane Katrina Disaster: Hospital Evacuation and Patient Relocation by Helicopter and Fixed Wing Aircraft,”Association of Air Medical Services, January 9, 2006.
144「沿岸警備隊の巨大ヘリ、ジェイホーク」:LTJG Catharine Gross(now LT)report of HH60J aircraft no. 6017 search-and-rescue activities for Aug 30-31, 2005.
●インタビューした人々
Dr. Bill Armington;Dr. Frederick“Skip”M. Burkle Jr.;LT Shelley M. Colbert;Dr. Ewing Cook;Minnie Cook;Dr. Richard Deichmann;Robbye Dubois;John Ferrero; Linda Gagliano (stepdaughter of John Russell);LT Catharine Gross;LCDR Russell Hall;Dr. Edmund G. Howe, III;Gina Isbell;Dr. William LaCorte;Larry Lafayette and Samuel Lafayette (sons of James Lafayette);AST2 Jaason Michael Leahr;Mark LeBlanc;Sandra LeBlanc;Wayne Leche;Father John Marse;CDR (ret.) William F. McMeekin;Therese Mendez;Stephanie Moore;LT Sean Moore;Angela McManus; Michelle Pitre-Ryals;Cheri Pizani;Dr. Anna Pou;Michael Richard;AMT2 Randal Ripley;Karen Sanford;CDR Mark Vislay;Stella Wright;Karen Wynn;Eric Yancovich. 【注記】 146「看護師2名が徹夜で世話をした」:ICU担当看護師のデイヴィッド・フェイツィンガー が2006年1月11日に州の捜査員にした話。その夜、彼ともう1人の看護師で蘇生禁止 患者2名のケアをした。筆者も2007年にICU担当看護師カレン・サンフォードにインタ ビューしたときにその話を聞いた。 147「映画化してもいいくらいね」:映画化されたときの話とネコの話は以下による。Lori Budo, Katrina Through Our Eyes:Stories from Inside Baptist Hospital (Lexington, KY:CreateSpace, 2010), pp. 73-76.
147「ダイヒマンが起こされて」:Deichmann, Richard, Code Blue:A Katrina Physician’s Memoir (Bloomington, IN:AuthorHouse, 2006), pp. 61-62. ダイヒマン医師は午前1 時半頃のことだと記憶している。スーザン・マルデリックは2006年に州の捜査員に対
第
5
章
電源喪失と
トリアージ
PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
して、4階にあるメモリアルの災害対策本部に、沿岸警備隊による避難の件でライフケ アのスタッフがやってきたのは午前1時半頃で、発電機が止まる前だと答えている。そ の時点までに、患者を動かすためにスタッフを集めることが「責務になっていた」とい う。なぜなら、スタッフは病院内に分散していて、コミュニケーションがとりづらくなって いたからだ。ライフケアのダイアン・ロビショーは2005年に捜査員に対して、病院から 脱出したあとすぐにライフケアの管理職たちが作った時系列表によると、会話はもう少 し早く、前日の午後11時半頃だったと話している。 150「予備発電機を止めない闘いが続けられていた」:予備発電機を動かしつづける闘 いはさまざまな情報源による。メモリアルの施設管理スタッフが筆者のインタビューと 州捜査員の聴取で話した内容(COOのショーン・ファウラーは捜査員に対して、祈り ながらスイッチを切り替えたエピソードを語った)、プレストンほか対テネット社の裁判 に提出されたメモリアルの発電機の維持修理記録、設備の写真、電源喪失に関する 専門家の報告や図表。 電源喪失の決定的原因が洪水なのかどうかは専門家でも意見が分かれた。以下 を参照:Fink, Sheri,“Trial to Open in Lawsuit Connected to Hospital Deaths After Katrina,”New York Times and ProPublica, March 20, 2011;http://www.nytimes. com/2011/03/21/us/21hospital.html. 原告に依頼された専門家のジェリー・ワッツは、 施設管理責任者のヤンコヴィックが予想していたように、洪水が電気切り替えスイッチ や多くの配電パネルをショートさせたと結論づけた。一方、テネット社に依頼されたCC RDパートナーズ社のグレゴリー・ゲルトは、3台の予備発電機は洪水よりも高い場所に あり、機械的な問題が電力喪失につながったと考えた。当時の基準では、電気システ ムの設計にあたっては、洪水などの災害について「充分に配慮する」ことを求めてい るだけだった。2012年のNFPA(全米防火協会)の基準ではこの点が改善され、シス テムを災害から守るよう「設計するべき」とされた。しかし、2013年6月現在で、病院 を管轄する機関はこの基準を採用していない。たとえば、以下を参照:Fink, Sheri, “NYU Hospital’s Backup System Undone by Key Part in Flooded Basement,” ProPublica, November 1, 2012;http://www.propublica.org/article/nyus-backup-system-undone-by-key-part-in-flooded-basement. 病院の発電機は毎月の試運転が 義務づけられていたが、動かす時間は短かった。NFPAは医療機関に求める具体的 な基準も含め、アメリカ国内で求められる電気システムの基準をまとめた本を出版し ている。その〈NFPA 99, Standard on Health Care Facilities(医療施設の基準)〉は、 ほとんどの州の厚生部門や許認可機関で採用されてきた。〈NFPA 110, Standard for Emergency and Standby Power Systems(緊急時及び予備電力システムの基準)〉は非 常時の電力システムのあり方を定めている (“Compendium of Health Care Electrical References,”Nash Lipsey Burch, LLC, Nashville, TN, undated, unpublished document)。カトリーナから1年後に、JCAHOは〈センチネル・イベント警戒態勢〉〔訳 注 センチネル・イベントとは、医療現場における治療行為自体とは無関係な事故の こと〕を出 版した (“Preventing Adverse Events Caused by Emergency Electrical Power System Failures,” issue 37 (September 6, 2006);http://www.jointcommissi on.org/sentinel_event_alert_issue_37_preventing_adverse_events_caused_by_e mergency_electrical_power_system_failures/)。そこでは、NFPAの基準を満たすこ とは「スタート地点にすぎ」ず、「予備電力システムがこの基準を満たすだけでは、大 規模災害には不充分かもしれないことは、最近の経験からわかる」と注意喚起してい PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
NOTES る。そのため、2007年にJCAHOは予備発電機の試運転は、従来の毎月1度、1回30分 の試運転に加えて、36カ月ごとに最低4時間は動かすことも求めるようにした。それ でも、ハリケーン・グスタフ(2008年)、アイザック(2012年)、サンディ(2012年)のとき に停電が長引くと、病院や介護施設の発電機は止まってしまい、予備電力システムの 多くは不充分であることがわかっている。 153「アラームパネルを操作して」:Budo, Katrina, p.76. 154「3機のヘリを送ったのに」:以下の者へのインタビューによる。ミッシェル・ピトレ・ライ アルズ、沿岸警備隊のラッセル・ホール大佐、同シェリー・M・コルバート大尉(旧姓デ ッカー)、補助隊員のマイケル・リチャード;Michelle Pitre-Ryals, “Fair TreatmentProcess Dispute Resolution Form,” October 22, 2005 (ハリケーンのすぐあとに書か れた日記も含む);Shelley Decker, “Katrina AAR”(2005年10月3日という日付のある バージョンとないバージョンがある);2005年8月31日の沿岸警備隊の部隊日誌。これ らの情報源では、ヘリはメモリアルのヘリパッドで「追い返された」と書いている(ヘリ の数については沿岸警備隊の3機、それに加えて/あるいは、海軍の5機と数字が分 かれる)。2013年にインタビューした者は、当時の出来事をまだよく覚えていた。 155「どこかに行かれるのですか?」:2008年と2009年に筆者がカレン・ウィンにおこなっ たインタビューより。タオ・ラムはインタビューを拒否した。
157「脳 卒 中 や 脳 の 損 傷……」:Zimmerman, J. L., Hanania NA. Chapter 111, “Hyperthermia,”in:Hall, J. B., G. A. Schmidt, L. D. Wood, eds., Principles of Critical Care, 3rd ed. (New York:McGraw-Hill, 2005);http://www.accessmedicine.com/ content.aspx?aid-2282701. 158「付き添いの女性」:マークとサンドラのルブラン夫妻は、筆者のインタビューに何年に もわたって応じてくれた。2人はプレストンほか対テネット社の集団訴訟の原告であり、 ライフケアへの単独訴訟の原告になっていた。2人の記憶はほぼ一致していたが、違 いがあるときは初期のインタビューの話を重視した。エルヴィラ・ルブランの付き添い として雇われていたジル・ウィルソンはインタビューに応じてくれなかったが、2012年 10月10日にオリンズ郡地方裁判所民事法廷に対して、テネット社への集団訴訟の解 決策に反対する短い証言を提出し、そこでメモリアルにおける体験を語っている。そ れはルブラン夫妻の証言と一致していた。ルブラン一家が世間の関心を引いたのは、 以下のジャーナリストの報道によってだった。Kathleen Johnston and Drew Griffin, “Family Blames Hospital for Mother’s Death,” CNN, May 25, 2006; http://www. cnn.com/2006/US/05/25/johnston.memorialdeath/, Jeffrey Meitrodt’s remarkable five-part series, “For Dear Life: How Hope Turned to Despair at Memorial Medical Center,” Times-Picayune, August 20-24, 2006;http://www.nola.com/katrina/index. ssf/memorial_medical_center/for_dear_life/. 160「スーザン・マルデリックは……ヘリパッドに上った」:2006年1月6日、州捜査員のスー ザン・マルデリックへの聴取;2013年7月、沿岸警備隊の機上整備員、降下救助隊員 のランドル・リプリーへのインタビュー、2005年8月30~31日に捜索救助活動をしたキ ャサリン・グロス中尉による報告書(HH60J aircraft no. 6017)。マルデリックの記憶は リプリーのそれと一致しているし、すぐに書かれたグロスの報告書とも一致している。 マルデリックとリプリーはお互いに相手の名前は出さなかったが、会話の内容からこの 2人が話したようだ。しかしながら、マルデリックは捜査員に対して、彼女が夜間の救 助を中断した理由の1つは、ヘリの乗組員から救助した患者はバトンルージュの野原 PP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1
に降ろされると聞いたからだと話した。リプリーも、アレクサンドリアで調整任務にあた っていた補助隊員のマイケル・リチャードも、夜に救助者を野原に降ろすことはなかっ たと言った。当時、リチャードは患者を搬送する病院の手配を手伝っていた。 163「ライフケアの呼吸療法士」:チャールズ・リンデルが州の捜査員に話した (2005年 11月)。 165「ジョン・ラッセルは朝鮮戦争に従軍した」:ジョン・ラッセルに関する記述は、医療記 録(継娘のリンダ・ガグリアーノから提供された)と、ガグリアーノと、ラッセルのケアを した医療従事者の回想にもとづく。 166「病院に酸素がないというのは真実ではなかった」:実際には足りていたが、酸素タン クがないか、不足している、と一部の病院スタッフが思いこんでいたのは不思議だ。考 えられる理由は、混沌とした状況で、各人の役目も混乱した結果、スタッフが酸素タン クを探していることを、そのありかを知る者が知らなかったことだ。ヘリによって酸素タ ンクが届けられたが、それがヘリパッドから運ばれることはなかったというスタッフの証 言もある。さらに信じられないことには、メモリアルとライフケアのスタッフは、タンクの バルブを開ける「レンチか何かを持っていなかった」というのだ(アンドレ・グレミリオ ンは2005年12月30日に州捜査員に対して、自分の腕時計でバルブを開けようとして、 時計を壊したと話している。チャールズ・ジャローも2008年10月29日の筆者によるイン タビューで、レンチがなかったと言っている)。 州の緊急医療システムの1部隊から本部への連絡は午前11時15分にあり、アケイ ディアン・アンビュランス社の責任者から、酸素タンクの不足を伝えてほしいと頼まれ たと報告してきた。 167-168「ポーも2階でライフケアの患者のために……生きて病院を出ていけないだろうと 考えていた」:2008年7月、ポー医師へのインタビュー。 171「点滴と……が必要なはずだ」:プレストンほか対テネット社の集団訴訟の記録による。 エルヴィラ・ルブランも原告の1人に名を連ねた。彼女は呑みこむことが困難だったが、 栄養チューブを装着していて、液体を摂取することができた。それでも被災前から脱 水症状を見せていた。 173「看護師がサインペンで紙に1から3までの数字を書き」:2、3人の医師はのちに、DNR (蘇生措置拒否)の患者には、重病のカテゴリー3と区別するために、カテゴリー4に分 類したことを思い出した。患者は下に降ろされる前に病棟で分類されることも多く、の ちに再分類される者もいた。その場でおこなわれたトリアージ法は同一ではないが、 似たものだった。 173-179「ポーたちのしていた『トリアージ』というのは、……誰が決定するかはきわめて重 要なのだ」:トリアージに関するすぐれた分析には次の文献がある。:Sztajnkrycer, Matthew D., Bo E. Madsen, and Amado Alejandro Báez,“Unstable Ethical Plateaus and Disaster Triage,”Emergency Medicine Clinics of North America 24, no. 3 (2006):749-68;Veatch, Robert M., “Disaster Preparedness and Triage:Justice and the Common Good,”The Mount Sinai Journal of Medicine 72, no. 4 (July 2005): 236-241;Iserson, Kenneth V. and John C. Moskop, “Triage in Medicine, Part I: Concept, History, and Types,”Annals of Emergency Medicine 49 (2007):275-281. Moskop, John C. and Kenneth V. Iserson,“Triage in Medicine, Part II:Underlying Values and Principles,”Annals of Emergency Medicine 49 (2007):282-287;Baker, Robert and Martin Strosberg,“Triage and Equality:An Historical Reassessment ofPP2 DTP RNOTES 製版者 訂正回数 色 数 1 製 版 課 興野 1 12458148 0091 興野 1