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清教主義の一考案--十七世紀新英洲---香川大学学術情報リポジトリ

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香川県東犀利大学学術報賢

清 教一 主 義 の 一 考 察

130

−−一十七世紀新′英洲一

大 西 鋭 作 A study of Puritanism

−The17th Century NewEngland−

By Eisaku ONISHI

(AssistantProfessor・Of Hisぬryト (Received April16,1954) t

清教主義は十:六一瓢紀後半英国教会内の・一つの運動として始まった.それほ英由教会制度の改車の為

の遊動であった.小1530年代に.英由教会ぬロ−マ法王と蘭係を断ち;エリザべス渦世の始め吏せぬ革新

の方向に威軽度進み,プロテスタントとなっていた.滑教主轟は,改革は尚継続きれるべきであり,残

存の弊風ほ賽周教会ふら排除されるべきであり,カ−トライトの青菜を用うれば−その昔粟ほ清教

徒の痍言善となり,反対者に封じては椰旅的な意味に朋せられたが一−q一選督教会は‘pureandunspotted’

に.復帰されるぺきであると主張した.(1)これに.対しで,アング.リカニズムは.エリザべスの行った改革

に満足し,改革ほ.現状で止まるべきとした. かくして始まった滑教主義ほ英国宗教改革の改革と宏われて;アングリカニズムと特別対立サるも

のと考えられるが,然し両者は共にプロテスタンモである点を除けほ,中世的伝統の上に・立つ教会文

化で多くめ点で一致していた∴一腰に.十六郎己・十七世紀のプロテスタソテズムほ,十七郎己末以来

の近代プロテスタンチズムと区別して考えられるべきで,両者のプロテスタンチズムの性格につき,

トレルチほ次の様た、説明する.「ルター派及びカルダィン派の竜い生粋めプロテスタシチズムは,全

現象としてみれば,その反カトリック的救政教義にもか⊥わらず,徹頭徹尾中世の意味に・おいで教会

的文化なのであつ■て,ノ∵国家と社会・教義と科学・経済と/法律を啓示の超自然的な規準に則つ′て秩序づ

けようとし,中世のように到るところで自然法をも,神の法と同じものとして組織化している・(2?」こ

の規定ほ十・六世紀。十七世紀初期の酒教主義及びアングリカニズムにも,多かれ少なかれあノては篭る二

清教主義はアングリかユズムと共に,目に見える世界ほ神の直接のそして絶えざる導きの下にあ

り,結果は自然の原因一所謂第二次因一によって作り出されると見えるが,例えば太陽の昇ること:・

右の落ちること・心臓の戟働と云った事件でさえ,実際の支配は神の直接の管理する所であると尚信

じていた..又両者は,すべての知識ほ一・つであり,生命ほ統一・されて屠りi科・学・経済学i政治理論・

央的標準・膵辞学・芸術のすぺでは.,創造の実在即ち神の光栄え向っての価値のヒエラルキ・−・的等級

に於いて,組織されていると信じ,すべての人間活動ほその日標把よって規制されると考えたJ、ン彼等

は,宗教は学問と論理的説明によって解されるとし,神から直接に啓示を受けることが出来ると一主張

した所の彼等の所謂「狂信.」・「熱狂」なるものに対しては,断乎反対した・彼等ほぅ翌性と信仰・科

学と宗教・地上の支配と神の統治との完全な調和を求めていた・(S)

かゝる中世的思惟の上に立つ両者は本質的に多くの点で−一・致していた.ミラ・−の見解によれば,清

教徒の文化を全体としで見る時,その知的生活・科学的知識・道徳・慣習・観念・偏見の約90%ほす

べての英国人のそれであった。(4)かくして清教主義は先ず何よりもスチェア」−=時代の社会の子であ り,その文化思想の多くほ/アングリカンのそれと同じであったことに注目されねばならぬ・従ってそ

(2)

第牒巻第1号(1954) 131 の改革運動はその時代の英国の文化と国家の限度内での改革を目的としていたのでありこ、その教義の 基礎的観念咋当時ゐ・【■叔プロテスタントに共通したものであった. 清教主裁とアングリカニズムと・はかく本欝的軋多くの点で∵致していたが,然し滑教主義をして清 教主義たらしめたものがなければならぬ・ミラ」−の云う残りの10%の相異点とほ何を意味したか・ 者は共通の地盤の_上に相革んで進んだ後,如何なる処で,最後的な宗教的思想的分裂を釆たしたか・ ミラ・−・の見解(汚〉によ皐とその相異点は聖膚の権威に対する考え方の相輿にあった. 清教徒は,聖書即ち神の啓示の言葉がすべてについての神の青菜であり,′完全な法律であり,すべ てについての絶対の法典であると.考えた・彼等に・とっては,聖書は十分に.明白なものであ し串もの上考えられ,正しい学問のある者ほ,推断と解釈との正しい法則に・従って,すべてのも鱒に 閲し.,即ち神学のみならず,倫理・衣裳・利益・粧婚・裁判に於いて,その意味とl彗包を確証する との出来るものであった アングリカソ鱒ピ.コ∴−リタンの考え方を,厳しい純理論的なそして全く不当な聖膚の権威の拡張と 考えや・神はすべて れを∧周の敵性の判断軋任せた巾楓過と妥当性の考慮に,調和と適当性の決定する所に任せるこ、とを 意図したり 神の摂汚牝於いて,神が人間に与えた理性を通じて,白然を支配する法則を通じ耳−ノ,神は

A償・教冬やことが出発るし,又教えている・神ほ聖畜に・ついては・,それによらなければ,人が知るこ

辛の出来ない事柄のみに干与している1・アングリカンに・とっては神の意志の啓示は多様性であ1?た・ 神は偉大な光即ち太陽の光線の如きもので,▲いろいろの光線をいろいろの方向に・発している・その年 々ほ神の神格の一つの部分的啓示であるい その−∵つほ理性の法であり,自然の法であり,実の概念で あり,又神の目口の摂理であるハそして聖書ほその中の−一つに過ぎない・即ちアングリカンにやって は,聖者は撮小の啓示にまで限定きれる.か⊥る考え方が十七世紀アングリカンの思想の基礎をなし ていた所で,又その点が取り分けピコ・−リタンの信ずることの出来ない所であった 以上の両者の相異点が単にアカデミ ックな論争にJi:.まっていたならば,所謂‘Puritan Exodus,は 起らなかったであろラ・然しピュ嶋リタンが聖酋研究の中に・発見した患要な一つは,聖書が日常見え る教会組織に=対する完全な形式を含んでいたことであった・アングリカンほ此を否定した∩ リチャL− ド・フ・−−か−は云う,「人々がいろいろの結合をするに当つて従うべき多くの種類の法則がある.教会 政体に於いてほ,人々は聖書に・全然従うこと・はない・基督ほ教会の形式を,政治的考慮なり各軍?そ れぞれの伝統によって決せられる様に任したn」 かくしてミラー一によれほ,‘Pu‡・itan取odus,の理論的支柱ほ,彼等が英国教会に対する彼等自体の 教会制度や具体的綱領(Congregationalism)を持つ紅至った単にありと為す.(6)ビュqリタンがコ ングレゲインヨナリズムに到達していたことは,これこそ両者の大きな相異点をなした所であった. 江 清教徒がコングレダイショナ・リズムに到達したことはアングリカソとの訣別を意味し,彼等が移住 して行った準英洲の社会に・,彼等の抱いた難しいスコラ約数義よりも,大きな影響を及ぼしたもので あった. コングレディシ′ヨナリズムは元来セパラチス=こ起源を有するもので,それほルーテルの所謂the priesthood of・al1believers の教義に・含まれる論理の決定的表現であった・・その性格についてパ1−リ ソトンは云う,「彼等は聖書の原文に固執して基督教のデモクラレイ・−の概念紅真直ぐに向った・若 し其の教会が聖徒の集合であるとするなら,若し聖徒が神の目から見て平等であるなら,何が故に・平 等の原理がコングレゲイ㌣ヨソの管理に行われないか・真の教会が,王の主に対する忠節を認めた,キ ク子トを中心とした兄第の集りであるとすれば,如何なる聖乱上の権利によって,世俗の権威が兄弟

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132 香川県立頗科大学学術報告 のやさしい良心を支配するかい(7)」 清教徒の到達したコングレダイショナナグムほ,彼等白身としてほ自らの撃溶解承による遡肇づけ を持っていたが,それほ明らかに」セパラチ′云†の流れを引くものであった.然しセパラチ・ストの有し た革命的原理は彼等の中世的性格の包容出来ない所であった. コングレゲインヨナ・リオムの古典的理論せ最初に公表したのはロバーl・プラクソであも.ブラウ ンの思想から1630軒までをこ清教徒はアングリカンとの闘争の間に如何鱒・彼等の思想を発展さし,新夷 討寸けンクレダイショナ・リズムめ理論を作って行ったかけこれについて主としてワー・テンペr−か⊥め見 解把従っ七その思想の発展を見る プラクソの思想の要点ほ,褒め僑徒の団体ほ自ら結合し神との契約によって基督の教会せ構成す る.僧械授与0Ⅰ・dinふtionは必要でなく,各コングレザインヨジは自ら牧師を選ぶ権限を盛者から 与え.られている‖世俗政府との関係についてほ,役員は何等宗教上の権威を持つぺきでなく,優等は 普通のキ ら起る弱点を匡正する方法としてご 各コングレダイションの代表者から成る総会が必要である.然し 各ゴ 見ほ歓迎されるぺきである. ブラウンの後継者ヘンリL−・バロ−・ほ,ブラウンより倉族的な考えを発展さした.占ングレタィジ ョンほ独立でなければならないと云う点でほブラウンと同意見であったが,コングレゲインヨン紅あ つては魔或は信徒の団体に・あるのでなく,思慮ある牧師・長老・教師の宇ヤ濫眉かれるべきである左 した.此等の役僧ほ神の教えが真紅教.えられ,実行きれるべく,又人民ほ進んで服従されるべく,注 意しなければならない… バロニーほプラクンの抱いたコ′ソグレダイショケルなデモクラレイ−−・に.対し て,プレスビデリアニズムの長老の曽族主義を取り入れた.(8) 然し英国の措教徒の大多数ほセパラチヌ1ではなかった.彼等に.とってほ英国教会が如何に腐敗し セし、ようと,それほ神の教会であり,璃て去ることも触祝することも出来ないものであった∴すべて の書き人ほ寧ろ強力にあらゆる手段によって,・その改革に努力すべきである.かゝる清教徒め指導者 ほ有名な学者であるトー・マス・カートライトであつた.彼はプラクソの独立組合教会の概念には何等 の共鳴も感じなかムた.そしてピ.ユ−リタンが英国教会で支配権を獲得サも可能性を信じ七し、た.儀 し改革運廟が遅々として−進まヂ,国立教会ほ依然として主により大司教・司教を通じで支配されてい る乳尖は,カ−・トライ†をして乎コングレディレヨナリズムとも云うぺき方向を取らざるを得ぎらし めた⊥即ち各コングレダイソヨンほ牧師の選択に.参与すべきである∴役職に.不適任な者l礼拝に閲し共 鳴由来ない者を上から押しつけられない為に,各コングレゲイレヨンほ牧師の選択に参与すべきであ る∴汐.ェームズー・世即位後のHampton Co11Ⅰ・七会議に失望した消教徒はいやいや乍らコングレダイシ ョナリズムに.その保護を求めざるを得なくなった∩かくて司教が聖徒の日を遵守し祈祷者を用うるこ とを命じた時,コングレダイションの権利を侵害していると考え.られる様に.なり,更に.一・歩進んで, コ1/グレゲイシ/畠∵ンが国立教会の権威に.よって存在することを否定するに至ること.ほ.必然的であ・つ た.彼等の中転ほセパラチズムにはっきり反対し乍らも,ブラウン,バロー・に拠り所を求めて,神と の直接の契約を結ぶ人達が出て来た ウイ.リアム・アムスは十七世紀の始めに.おいて清教徒の意見を形成するに.当って,指導的地位たい た.彼ほ斯業洲コングレゲインヨナ・リズムの父と考えてよい.(りアムフけ匡艮離乳圭を主権痘肴す るコングレゲ 仰を告打する者の団体なり,コングレゲイシ′ヨ∴ソがあれば,それだけの教会がある..」教会を意味す るギリシャ語ほ国とか州と、か戎ほ監督管区.の一つの団体を指したものでなく,唯一つのゴングレゲイ シ仁ヨン/Cことを言っている.「此の故に.同じ国川、lのいろいろのきまったコングレゲインヨソほ複数

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東伝藩第1巧(i954) 王33 で教会と滞ね呼ばれるこ小さなコングレゲイン畠ソの依存すべき大きな教会の制度把ついては,癖如 虫歯転ほ何も凝れてい′ない.然、し個々め教会ほ共同に.事をする必質がある為に,相互の聯合と/協カを 索敵会議の形七結んせよいし,又しばしばそうずべきである小かくして個々の教会ほお茸の同意と相 互め療助を適彗な聴許で為すととが既発る.然しその結合ほ・一つの教会の新しい形式を作り由すこと 匪,な,ろ、ては‥ならないし∴又基督が彼の)教会濫与えた自由と権力を奪い去ってほならない。.」又牧師任 命に.ついてはそのコングレゲインヨソに.属すペきものであり,正しくほコングレゲイジョンの選挙紅 よるべ・軒である∴ かTトライト匿とつてほ僕国教会ほ神の−〔ユつの教会であった.然しアムスに.とっては・それは神の多 くめ教会のゆ、るやかな聯・合に.過ぎなか一っ・た.然し奴等ほ,教会の結合力とカほ世俗政府によって達壷 らミるべきであること.、う即ち世俗政府の義務ほその権威檻よつて,すべてめ虚偽の牧師,自由意志ゐ栄 教▲\虚偽由礼拝を抑え根絶し,神の言葉のあらゆる点をその接伴によっで確立し支持することである と云う点では\←致しヾでいた. 訝、主」「ム、ス∴▲楳む治世の終る前に.,英国のコングレゲインヨナ・リLズム即ち新英洲へ・移植されたコy グレゲイレ表プリズム軋 其の儲彼の形態を取った.その考えほ次の如きものである′.各コングレ ダイショソはそれ自体で一つの教会を作るl・その権威は何等国の或ほ国際的な団体から得たもので 額く■,直接神から得産ものである−・英国教会ほ承認す、るも,・それはコングレダイショソのゆるやかな 聯食紅引せ下げられた..ゴングレゲイジョンほ宗教会議に支持と.勧告を受け・与える鄭こ代襲を速畠 こ\′どが出来るし∴又しかあるぺき七ある.此のゆるやかに二結ぼれた団体は然し世俗政府の支掩によ り\;敬隊な正統な倍著たる役員により・−−一彼等の義繋ほ其の信仰を支持’しすべての他のものを鎮圧す るこ∴とである−÷統・■を得るのであ・む 教会法のみならず市民法は聖顔に基づかなければならない. 神のり音盤ほ大小あらゆる瀞の決定に於いこてぅ人間の音柴に.取って代るべ計であるから..真の教会にと つ■て本質的なものほ敬虔な学識ある牧師である∴ヒエ・クルキ−・は.あってはならないしノ,又礼拝上の儀 式・・偶像の使用・自法衣の着用は放菜されるぺきであるいく1(,〉 甘 γア」ムス紅よ八つて細織された清教主義の新英洲の代弁者ほ,ボストンの汐ヨン・コIン,ドチェスタ ・−のリチャ十ド・マサ−−;ニ芯.−・ヘブンの、汐ヨン・ダベンポ一千・,コネチィカットのト叫・マス・、フ −・カーであった.彼等は英国の批評家の非炸に対して,新英洲コングレゲイジョナリズムを弁護して いた、が,ハ1646年の、‘Ca血bI■まdge Synod,に於いて彼等の立場を明確にした.此の会議はマサチ.ユセタ ツの総会議が召集し,マサチ.ユ.セッツ,プリマス,ニ.ユ.−−・ヘブン,コネチィカッI諸植民地の教会 が計の牧師なり一代表者を,イ彼等が必要であり適当と、考える様な教会政体及び紀律の問題を,神の言 落K:射っlで議論し明確にする鄭こ其処に」−送る様に確かれた.Ⅳ此の宗教会議濾所謂‘Cambridge 印atf9f■m,としこて←知られる綱衡を起草しぅ 彼等のコングレゲイジ▲甘ナリノズムの在り方凌宣言したことか 瀾領は単にそれまでの新英洲コングレゲイシ′ヨナリズムの父祖達の実行して釆た凝験をまとめた’、も のであり,又アムスの理論の公認でもあった・即ちその綱領ほ地方教会の契約的起源・コング㌢ダイ ショソゐ肖酸性・聖蜃め藤一・の権威・諸教会の協力・佃俗政府の義揺を規定していた。(11)

薪如けソグレゲイン去ナリズムほふパラチズムから多くの理論を借りていた.・その契約諭・コン

グレゲイシ′ヨンの自律性ほ・,形式的に・はセパラチズムのそれと・一・致する・そしてその契約原偲は政治 社会の契約思想に.発展し,新英洲の社会に.大きな影響を及ぼすものであった.然しそのコングレゲイ シ′ヨナリズムほセパラチズムとほ本賀を異にしていた. 先ず第一・にセパラチズムほ国家教会を否定し教会と世俗政府の分離を主張して居り,そのコツグレ ゲイ〆・昂ンの璃式ほ眉製の信条と教会の統一せ否定していた.これに.対し新英洲コングレゲインゴナ

(5)

香川県立慶科大学学術報告 134 リズムは明らかに国家教会を認めた・選挙権を教会員に限ったこと,教会の出嘩ほすべての住民に強 制されたこと,牧師の維持ほ世俗政府の負担であったことは此のことを明らかに・示している・ 府の役員の義務ほ真の信仰を支持し,すべての他のものを鎮圧することであるが,彼等の義務咋骨す るに信仰の統一であり,それに.違反するものを世俗の権力を以て鋲庄することであった.Cambridge P坤foImほこれを明瞭に・述べて−いる・即ち「偶像崇拝・漬神・異端・不正な有害な意見を洩らすこ とは,∴世俗当局者によって抑制され罰せらるべきである。」く12) 新英洲コングレディレヨナ・リズ、ムは教会の契約説を認めた.然しその実体はデモクヲチックなもの でなかった.その契約は神の道を歩くこと.を契約するのであって,その契約の意味する所は教会的規 律と道徳の強化となって現われた・信徒は教会?役僧を選挙した・けれども彼等は唯役僧を、選んだだ ゆであって,役僧を抑制する仁とは出来なかった・教会統治の中将機関咋.長老であった・滴教徒の考 えによれば,「教会統治咋役僧の手中に置かれている・役僧とほ長老である・コングレディ、ジヨンを 統治するものほ基督の意志であるが,基督ほその意志を長老に層示し教会員に碓示さなかづた.」(13) 教会に於ける役僧の地位が以上の如く神権的なものであったとすれほ,かゝる教会ほ.コ、ソグレダイシ ョナリズムの本質から離れたプレ∵スビテリアニズムと.云わねほなら斡.教会の資族主義は.更笹教会層 の選択に㌻於いて・一層轡底したものが示された・ 教会貞は此の国の政治笹発言権を持ち,その教会の役僧を遥ギ権利があるとすれば,清教徒にこと、云 てほ誰れでもを教会員にすることほ,彼等の亘/オクラレイーーの基礎を脅かすものであった.かくて有 権者である教会員の選定にほ厳しい高い標準が置かれ■た.教会員は聖徒saintであることが要求され た.聖徒とほ如何なる程度のものであるか.「宗教の教義の知識を持ち,態評判のない着であることは 勿論,信仰と峨悔の告白をなし聖酋の言葉に.恩賞に従う着である.かゝる者が神の思し召し、に.よって 聖徒とされる.」(14)経れが聖徒であり真の信仰の人たるかは,実際にほその教会の役僧即ち牧師′・長 老の決定する所であった・長老が推薦した時ほその者の加入ほ確実であった・形式的に・ほ兄弟の同意 がなければ艮老のみの力でほ加入出来なかった..然し実際の決定は役僧が行い,コングレゲイふ十オン ほ同意することが義濡と考えられた.(15) 新英洲清教徒は教会の自律性を認めた.然し一・方諸教会のゆるやかな聯合による「兄弟の助言と授 助」の為に,宗教会議の必夢を認めた.この宗教会議ほ,「個々の教会の自由を侵害する為に意図、さ れたものでなく,個々の教会を神の言葉の正しい英行に於いて指導し強める為の神の言葉から,」(16〉 意図・されたものであった.かく諸教会の白樺性を認め,宗教会議ほ権威なき形式を取ったが,(17)諸 教会の意図と宗教会議の意図が−一山致レていたとすれば,その概念に.於いて宗教会議ほ一一・つの教会の象 徴であり,中世的統一の性格を持つものと云わねはならない. かくて十七世紀新英洲コングレダイショナリズムほ,セパラチ・ズムの進歩的要素を取り入れ乍ら, その中世的性格はセパラチズムを単正形式化した(矛盾を含み乍らも)と云うべく,新英洲清教徒の 代襲者の一人の云った次の言葉“aspeakingAristocracyinth已faceof a silentDerrMXraCy”(18)はよ くその性格を示したものと云うことが出来る. 註(l)さur・itanの言動ミ最初英靴現われたのは1566年頃で,叫外国人の目撃者が1568に・ロンドンから,「それ匿

属する人達から‘Pure or stahiessIeligきon’と呼ばれた新しい宗派が,発見されキl」と通信したh Ency− Clopaediaof the SocialScience(Seligman),Puritanism

(2ノトレルチ(西村貞二訳)近代世界とプロテスタンチズム38,39頁 (3)Miller andJohnson,ThePur律ans,pp9−15参署

(4)1bid,pい7

(5)1bid・,ppl・41−55参看

(6)

第6巻第卜号(1954) 135 斯英洲植民地の最御の開拓署であっ喪こ≒と,その後の節男洲諸般民地の教会生活紅及ぼした影響であると し,コングレダイショナルな教会別院及び礼拝の方法がマサチコ∴セッツ及びコネチイカッtに於いて認めら れる様になったのほピルグリムズ匿負うていた、」(TbeFather■SOfNew王王領g】and,p・19.)と云う・ヌPa工■r’ington もボストンの指導者が新大極で社会秩序を新に建てようとする問題にぷっつかった時,彼等はプリマスのコ ングレダイショナリズムの形式を承認したとして,ピルグ.リムズの彩轡によって始めてピユ−リタンがコン グレゲイVヨj−Lリズムの傾向を採用したとしている(Main Curren七S童n AmerjcanThought,pp・16−17h) マサチ.ユセッツ植民地で,最初にコングレゲインヨナリズムの形式を教会制度に揺用したのほサレムであっ たタレムはゃuI■itan ExodlユS’に先立.って,1628年に建てられた植民地であったが,その冬多くの病人が出 で非常に.困却した際,当時新英洲の唯一・■・の医者であったプリマスの執事deaconサムエル。プラ一に.援助を求

めざるを得なかったサレムの知‡罫エンデイコツ=′ま,フヲ【の親切な処露に感激し,以前からプリマスの セパラチス†・に抱いていた偏見を改め,コングレダイショナ・リズムを採用したこれが新英洲に.普及したコ

ングL/ゲイVヨナリズムの始めである(HL Osgood,The Amer5can Colonラesin飽e17th Centtlry,

pp.2041−205;W..W.Sweet,The StoIy Of ReligioninAmerjca,p.49;J.TlAdams,Fourldingof New Er唱1and∴p.131参看 ㈹ Ⅴ.L.PaI■rington,MairlCuIIentS,P・9 (8)汐ヨン・コIンは後に,新英洲のコングレゲインヨナリズムはブラウン或ほバロー・に・,何物かを負うていろこ とを否定し串が,彼の教会は勿論マサチーユセッツの教会は部分的にブラウンのコングレグ・インョデリズムの 契約論とバロ・−の長老主義に立脚していた 担)斯業洲に.行われたカルダイユズムの形式ほ所謂契約神学であるが,その英国の指導的主唱者はウイリアム・ ァムメであり.新英洲に於ける最も有名な代表者ほジョン・コIンであるr・R.B・Pe工工・y,P血王anismand Democracy,p.93 師 ブラウン,バロ・−のコングレディレヨナリズムから新英洲コングレダイショナリズムえの発展については主 としてWertenbaker,The PuIitan Oligarchy,pp.20−−27参看

叫.Sweet,Op・Citい,P・55;Parrington,Op・Cjt,pp一 23,2臭参訝

由 PaIrington,p.25;Aり BMacLear,TheEarly New Eng7andTowns,ChapVIr参宥 鯛 Wertenbaker,Op Cit′,p・63 タウンの役人汰毎年選挙されたが,役僧ほ一便選定されたら,その地位に.−・生就いたMacLeaI■,p145 掴 W●er■tenbakeI■,p64 個1bid.,pp66−−67参看 (脚1bidL.,p,73 α男 プレスビデリアユズムにあってほ二つ成ほ二つ以上の教会ほ結合して’長老会P工eSbytery を構成し,長老会 の上にほ地方宗教金閣があり,更にその上に全国完ぞ教会議即ち総会議があったl個々の教会ほ直接戎ほ間接 に:代表されている上位の権威によって支配された‖R.BPerry,Op.Cit,p.105

個 CF、Adams,Mass..;itsI王istorians andits Hjstoy,in PuIまtan言smin EaIly America by Amherst

College。p”5?・その清教徒はHa∑tfordのRev・SamuelStoneである・

Rく−Sum仝

Pur’itanism and Anglicanism were both based on the culturaltr.aditions of the Middle Age畠 So,the chief elementsin Puritan culture and the foundatior].S Of Puritallthought are those of

Anglicanism.But whatthen was the essence of Puritanism?The mostimportant difference

between Puritanism and Anglicanism was thatthe Puritans discovered through their study

Of the Bible thatit contained the perfect constitution for the organization of the visible

Chur’Ch−Congregationalism,butthe Anglican8denied that.

Congregationalismoriginatedin Separatismand wasthe expression of thelogicaldedudions

fromthe revolutionarypremiseof the Reformation.The congregationalism which the Puritans

gainedandtransplantedinNewEngland wasessentia11y differentfromthat of theSepar・a鮎t$ NewEnglandCongregationalismwas“aspeakingAristocracyinthefaceofasile此Democracy.”

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