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トーマス・マンと神話的なもの : 『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』

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(1)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

2号

(1997)

トーマス・ マ ン と

一 『詐欺師フェーリクス

神話的なもの

・ クルルの告 白』―

ドイツ語教室

三 枝 圭 作

1 トーマス・マンが『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(以下『クルル』 と略す

)を

書 き始め たのは1909年のことであるが

,書

いているうちに別の構想が浮かんできたために

,1911年

に執筆は 中止された。『クルル』の執筆が本格的に再開されたのは40年後の1951年になってか らであった。 この年の秋

,マ

ンは仕事を再開して続編の中心 となる「クックック対話」を書 き始めるが

,結

局完 成するに至 らず

,こ

の断片が現在の形で上梓されたのは1954年である。中断中

,作

者によってとき に仕事の再開や

,こ

の詐欺師小説の神話的なものへの変質がほのめかされているが

,作

者はその際 休止中に書かれた大作 『ヨゼフとその兄弟たち』(以下『ヨゼフ』 と略す

)の

趣 きが [クルル』 に 加えられることを示唆 している。 マンは仕事再開後

,1951年

11月 6日付のヨーナス・ レッサーあての手紙で次のように述べている。 あなたがさしあたって『クルル』について言わなければならないことを

,ヨ

ゼフに関するあな たの章に組み入れるのは

,

きっと正 しいです。後者 (ヨゼフ

)は

前者 (『クルル』

)よ

り前に存 在 していたのですが

,い

まやあのヨゼフは生 きかえってお ります。(1)(括弧内は筆者) 著者 自ら『ヨゼ フ』 による『クルル』の変容 を伝 えているのである。 また

,Fク

ルル』 断片 が刊行 されたす ぐあ と

,1954年

10月17日付 の手紙で

,マ

ンはカール・ケ レーニイにあてて次の ように書い ている。 40年前 にこの仕事 を始めた とき

,私

はヘルメス トリスメギス トス風 の長編小説 を書 くことは全 く考 えてお りませんで した。… ようや く続 きを書いているときに

,fヨ

ゼフ』 の接近 によつて, ある種 の連想が滑 り込 んで きました。そ してこの神の名前が浮び上が りました。(2) 上記の引用では

,[ク

ルル』へのヘルメスの登場が指摘 されている。 これ らの手紙でわかるように, 『クルル』 においては

,ま

ず 『ヨゼ フ』が復活 し

,続

いてヘルメスのモティー フが と り入れ られ る のである。

(2)

三枝圭作:トーマス・マ ンと神話的なもの つ ∠ ところで

,論

をすすめる前 に

,こ

こで トーマス・マ ンの作品に見 られる「旅のモ テ イー フ」

,

も しくは「出発 のモテ イーフ」 について触れてお きたい。 これについてはハ ンス・ ヴイース リングが 見事 に論 じている通 りであるが,(3)マ ンの主人公 たちはよく運命 にかかわる極 めて重大 な旅をする。 彼 らはそれによつて 自らの人生 を変 えて しまうのだ。かの文士 グスターフ・ フオン・ アシェンバハ は「何 か外国風でその場か ぎりの もの」(Ⅷ-457)(4)を求めて旅 に出る。 単純 な青年ハ ンス・ カス トルプは,「故郷ハ ンブルクを発 って

,グ

ラウビユンデン州 ダヴォス

=プ

ラッツヘ向つた。」(Ⅲ

ll)

ひ とり旅の男 アルブ レヒ ト・ フアン・デル・ クヴアー レンは

,名

も知 らぬ町へ「ひどく不思議 な」 (Ⅷ

-152)旅

をする。未亡人 ロザー リエ・ フオン・テュムラーは

,死

の直前 ホル ターホー フ離宮ヘ の死の旅

/愛

の旅 を試みる。アシェンバハはこの未亡人 と同様 にアケロンを渡 り,(5)ハンスは「魔 の山」で タナ トス とエロスを体験す る。(6)ァルブ レヒ トの旅 はカロンに出会 う旅(7)だったのであ り, ロザ=リ エの旅 は途中で「黒い白蔦」 を見 る旅だつたのである。 一方

,

ヨゼ フはエジプ トヘ赴いた。 しか し

,彼

はここ死の国エジプ トで娘難 に耐 え

,逆

に童話的 な上昇 を呆たす。本論の主人公 フェー リクス・クルルはポル トガルに出発す る。「列車 はパ リを6 時 に離れていた。夕間が追 った。」(Ⅶ-529)こ うしてフエー リクスのオリユンポス とハデイスヘの 旅(8)が始 まるのだが

,彼

は現代の リスボンで神話の世界 を体験することになるのである。 3 冒頭で触れたように

,長

編 [クルル』 は

,ま

ず大作 『ヨゼ フ』 によつて変質するのであるが

,両

作品の主人公 たちのあいだにかな りの対応が見 られるのはそのことを示 している。以下

,そ

れ らの い くつかを挙 げてみ よう。愉快 な詐欺師 フェー リクス・ クルルは, ヨゼフの父ヤ コブに類似 してい る。ヤ コブが 自分の兄であるエサ ウに対 してはた らいた喜劇的「詐欺」(Ⅳ

-201)に

ついては,「ヤ コブ物語」の第

4章

で「大がか りな茶番劇」(Ⅳ-201)な る標題の もとに物語 られてい る通 りであ るが

,こ

の標題 はヤコブヘの非難 とい うよりは

,だ

まされたエサ ウヘの嘲笑 を表わしている。また, 同 じく第

7章

の「まだ ら羊」(Ⅳ

-349)の

標題であつかわれている

,ヤ

コブに よる自分 の伯 父 ラバ ンに対するH楠着 は,「機智 に富 んだ羊飼いの発明にかかる策略の傑作」(Ⅳ

-353)で

あるとされ

,当

のヤ コブに名誉 さえもた らすのである。 更 に

,ヤ

コブの息子 ヨゼ フに至 って も

,そ

の若々 しい美 しさはフェー リクス と共通 している。美 少年 ヨゼ フに関す る次の箇所 は

,そ

のままフェー リクスにもあてはまる。 若 さには愛嬌があるのだが

,愛

嬌 とは美の一形相で

,そ

の性質上

,男

性的なもの と女性的なも の との中間にたゆたつている。… ラケルの息子がそ うであつた

,だ

か ら

,彼

は人間の うちで最 も美 しい人間であった, と言われているのである。(Ⅳ-349) この ように風貌 にす ぐれた ヨゼフとフェー リクスは

,他

方で

,夢

想家であった。彼 らは早 くか らそ れぞれの生れ よりはるか に高い社会的地位 を夢見 る。お互いの歩みには明暗のちがいはあるものの, いずれの夢 も実現 される。両者はめでた く上昇志向を全 うする。 この成功 に際 して大 きな力 を発揮

(3)

1

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

2号

(1997) したのが

,彼

らの弁舌のオであったことも疑いない。 ヨゼ フはそれによって

,他

の多 くの兄弟たち の反感 をかうが

,エ

ジプ トでは

,そ

のおかげでファラオと侍 臣ポテ ィファルの信頼 を得るに至るの である。 ファラオによって

,エ

ジプ トの穀倉地帯の主 に任ぜ られた ヨゼフは

,豊

かな地域か らは, ず るいや り方で搾取 しなが らも

,貧

しい人民 にはひそかに施 しを与 える。 このようなぬけめのなさ も

,ヨ

ゼフとフェー リクスに目立つ特徴のひとつであろう。 ヨゼ フはおそ らく最初か ら

,こ

の神話的な人気 を獲得 しようと狙 ってお り

,事

実 また獲得 した のだが

,こ

の人気の因はなん といって も

,

ヨゼフの とった措置が虹の ように多彩な混ざり合い, 眼で もって咲笑す るといった意味の二重性 を持 っていたことにある。 こうしてその措置は魔術 師の ような機智 をもって全 く個性的 にさまざまな目的や 目標 をひとつに結び合せたのである。 (V-1758) 最後に

,両

長編小説の主な女性像に視点を移 してみよう。『ヨゼフ』において

,

ポティファルの 妻が美 しいヘブライ人の下男 ヨゼフを追いかけまわすように,『クルル』 にあって も

,美

青年 フェ ーリクスは

,デ

ィアン・フィリベールなる女流作家ウプレ夫人に誘惑される。彼女たちはともに相 手の青年 より年上で

,

ともに彼 らより社会的地位が高 く

,

しか も倒錯的である。こう見ただけで も 両女主人公の類似は明 らかである。 但 し

,こ

こでわれわれは,『ヨゼフ』 と『クルル』における大 きな相違点を見逃すわけにはいか

ない。つまり

,そ

れは青年 フェーリクス・クルルがいわゆる “ein keuscher Joseph"「純潔 なヨゼ

フ」でないということであるが,(9)滑稽な詐欺師小説にあってはそれ も当然のことではなかろうか。 4 前章で『クルル』への『ヨゼフ』の影響

,そ

れに基づいて顕著になる主人公たち

,特

にフェーリ クス とヨゼフとの類似点について述べたが,『クルル』の主人公 フェーリクスに

,

ヨゼフのみなら ず

,更

にヘルメスが導入 されることによって

,こ

の作品はいっそうゆたかに開花する。 トーマス・ マンのヘルメス

=モ

ティーフは

,そ

の歴史をたどればかの『ヴュニスに死す』まで胡る。ポーラン ドの美少年タ ドゥッィオの姿

,つ

まり「塑像 と鏡」(Ⅷ

-490)は

,後

の『クルル』 におけるヘルメ スに,TOtentthrerたるアッシェンバハは,『クルル』 におけるハデスに通 じるものがあるが

,彼

ら は未だこれらギリシアの神々の本領を発揮するに至っていない。続いて,『魔の山』 をさまよって いるヘルメスは

,ゼ

ッテムブリーニによれば,「文字の発明者」,「あらゆる精神活動の奨励者」(Ⅲ―

723)と

しての人文主義の神であ り

,ナ

フタによれば,「死 と死者 との神」(Ⅲ

-723)で

あった。 ハ ンス・ヴィースリングは『ヨゼフ』 においてもヘルメスの姿を認めている。彼 によれば,「若 いヨゼフ」の第

5章

,「野の男」(Ⅳ

-535)の

項で

,野

をさまよい歩 くヨゼフの前に突如出現 したベ ドウインの少年は

,道

の神ヘルメスに他ならない。ヘルメスは『ヨゼフ』の別の場所でも現れる。 ヨゼフは後年

,フ

ァラオから異国の神についての話を聞 く機会があるが

,わ

れわれは王の語るこの 神 にヘルメスの面影 を見てとることができる。楽器のラウテを示 しながら

,フ

ァラオはヨゼフに言 う。 見受けるところお前は トトの諸芸に通 じた書記であるらしい。それは

,下

界の深みの拘束的な

(4)

332 三枝圭作:トーマス 。マ ンと神話的なもの 典型が実現する場 としての 自我の尊厳 と関係 のあることなのだろう。… しか しこの楽器は

,単

に優雅 と善意 との しる しであるばか りでな く

,そ

れ とは別の ものの しる し

,つ

ま り

,あ

る異国 の神のず るさを表わす しる しなのだ。その神 はあの嶋の頭 をした神 の弟であるか

,あ

るいは鵜 頭の神 の別の現 われであるが

,

とにか く

,そ

の神が子供の ときにある動物 に出会って作 つたの が この楽器なのだ。」

(V-1424)(傍

点著者) 上記引用文 中の傍点の部分 を含めて

,こ

れに続 くファラオの長い説明には,「抜 け目のない子供神」, 「いたず ら」,「いたず らな神」,「盗みをはた らくこの子供」

(V-1425)等

の言葉 が散見 され るが, これ らのいずれ もヘルメスの姿 を彿彿 とさせ なが ら

,す

べては同時に

,ヘ

ルメス としての ヨゼ フ自 身を暗示 しているかの ように見 える。 フアラオが ここでほのめか しているヘルメス

,つ

ま リゼウス の息子が

,ア

ルカデ イアはキュレーネ山中の洞穴で生れ

,生

れ落 ちるとか ら悪狡 こ く

,生

れたばか りの赤 ん坊 に して

,ア

ポロンの牛の群れを盗 むなど神 々をはらはらさせ なが ら

,名

誉ある盗賊の守 り神 になることは周知の通 りである。 この ような神ヘルメス とヨゼ フとの関係 については

,作

中で 次の ように語 られている。 この身軽 く機敏 な

,気

持の よい調停者 としての仲介者の精神 は

,ヨ

ゼ フが客 となった黒土の国 においてはまだ しかるべ き名前 を持 った神格 となっていなかつた。強いて言 えば

,書

記であ り 死者の案内者である トト

,さ

まざまな老練 さを柔出 した トトがここに言 う (ヘルメスのこり 神 格にもっとも近い存在であった。ただフアラオだけは

,処

々方々か らあらゆる神のことを伝 え られていたので

,

よりいつそう完成 した形を持つたこの神格について知識があつて

,

ヨゼフが フアラオの恩寵にあずかれたのも

,主

として

,フ

アラオが ヨゼフを見てあの洞穴の抜け目のな い子

,つ

まりいたず らの榊の特徴 を認めたという事情のおかげなのである。(V-1758) 本章では

,い

ままでマンのヘルメス

=モ

テイーフと考えられるものを

,初

期の作品にまで胡って 数えあげてきたが

,上

の引用 を見るかぎり

,こ

の時点で

,作

者がこのモテイーフの使用 を明確 に意 図 していたとは必ず しも断定できない。フェーリクス

=ヘ

ルメス観念連合が『クルル

Jの

仕事再開 前には存在 しなかったということは多 くの研究者 も指摘 している。t。 そうすると

,こ

れまで見 て き たような

,1951年

以前に執筆 された部分ですでに現れている悪者神ヘルメス

,つ

まり詐欺師フェー リクス・クルルとは一体何だったのか。恐 らくそれは

,ま

だ神話小説執筆の意図のなかつた作者に よるヘルメスの無意識な先取 りと理解 してよかろう。 に響

;;脇

績 吃 誘 気ガ 五 墓 野 注 メ 争穐こ

t壌

亀七寺

TttΥ

腺紺 手 客全 うな胸

,す

んな りとのびた腕

,愛

らしい肋骨

,ひ

きしまった腰

,そ

して

,あ

,ヘ

ルメスの足…」 (Ⅶ

-444),更

に続 けて

,彼

が「美の立像」,「泥棒 たちの神様」(Ⅶ

444)で

ある と。 マ ンの仕事再 開後のヘルメスは

,こ

の ようにはつきりとした姿 になる。 クックック教授 は リスボンヘの車中で, クルルを前 に

,ヘ

ルメスにも話題 を向ける。「優美な神 です。…それに体格 はほ どよ く

,小

さす ぎ もしなければ大 きす ぎもしないので

,人

間 と同 じ尺度で測れます。」(Ⅷ

-540)そ

の際

,教

授 の口か ら「巧妙 に」 とか「抜 け目のない」(Ⅶ-540)と いつた言葉 もとび出す。 ヘルメスは盗人稼業の神

,詐

欺師・博徒の神,う そつ きの神

,そ

して美 しい輝 きの神 であった。 その美 しさはプラクシテ レスの作 といわれる

,ヘ

ルメス神像の優雅 さが示 している。

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

2号

(1997) 彼は風のように大地や大海をわたっていき

,足

にはおおむね羽のはえたサ ングルをはいている。 彼はまた多 く路傍に立っていたことか ら

,わ

が国の道祖神の如 く道路の神である。このように交通 の神 としてのヘルメスには

,従

つて通商の神の一面がある。ヘルメスは現世の交通 を守る神である ばか りでなく

,眠

りと夢 とを司 り

,地

下の世界 とも関係 を持っている。彼は死者をハデスに導 くの である。 オリェンポスの青年神ヘルメスをこのように概観 してみると

,

ヨゼフやクルルがこの神の役を演 じていることは明 らかであろう。彼 らはヘルメスによつて結びつけられている。このオリユンポス の神ヘルメスは代父 として詐欺師クルルのいたず ら

,盗

みを見守つている。(なお

,

クルルの代父 には悪漢のピカロもいるが

,こ

こでは触れない。

)員

の代父シンメルプレース ターが 目を細 める少 年クルルの「神々はか くもあろうかという身体つ き」(Ⅶ…

284)は

,ゼ

ウスの贈 り物であるかのよ うに見える。更に

,ク

ルルの眠 りと夢 とのオ能の背後には

,眠

りと夢 とを司る神ヘルメスが浮びあ がる。ヨゼフやクルルの旅の背後には

,道

の神・旅行の神ヘルメスが現れる。クルルはリスボンで テエス用のシューズとして「羽のはえた くつ」(Ⅶ-616)を 買 うが

,そ

れはヘルメスの羽のはえた サンダルに他ならない。 ヘルメスの子クルルは神秘的に出世する。彼の操作するエレベーターは彼の社会的上昇を暗示 し ている。彼の職場セン ト・ジェイムズ・ アン ド・アルバニー・ホテルはパ リの「天上への梯子街」 (Ⅶ-408)と いう奇妙な名前の通 りにあり

,こ

の名のように彼のホテルの梯子はいわば「天上」 の 別の一流ホテルに通 じている。クルルはこの高級ホテルのテラス食堂で知 り合ったヴェノスタ侯爵 と役割を交換 し

,た

くみに社会のハー ドルを越えて

,ポ

ル トガル王に謁見するに至るのである。 5 『クルル』小説の後半で重要な人物が登場する。それは古生物学者・ リスボン博物館長のクック ック教授である。フェーリクス・ クルルはポル トガルヘの列車のなかでこの学者 と知 り合 う。教授 のフルネームはアン トニオ・ホセ・クックックというのだが

,筆

者がここにあえてフルネームを挙 げたのは

,こ

れらの名前のひとつひとつがその神性を象徴 しているか らである。アン トニオはカ ト リックの聖人アントニウスと見てよかろう。ホセ

,即

ちヨゼフは

,キ

リス ト教の聖母マリアと結婚 している男の名前である。ちなみにクックック教授夫人は

,正

式にはマリア・ ピア・ダ・クルース と呼ばれている。■か教授の姓クックックは鳥のカッコウを意味するが

,こ

の鳥はあのオオライチ ヨ ウと同 じく

,悪

魔の鳥 と見なされている節がある。ゼウスはカッコウの姿に身をかえてヘラを誘惑 したといわれている。 カッコウ

,即

ち ドイツ語の Kuckuckは 婉曲な表現 としては悪魔の代 りに用 い られている。例 え ば

,次

の ような慣用句がある。“h01 dich der Kuckuck!"「 お前 なんか くたばって しまえ」,常das

weiS der Kuckuck!"「そんなことを誰が知るものか」“zum Kuckuck,h6r auf mit der BrullereJ"「 や いこら

,

どなるのをやめにせんか」,“zum Kuckuck"「畜生」,“alles ist zum Kuckuck"「 すべて残 ら

ず消え失せた」。クックック教授 の講義を聞きなが ら

,フ

ェーリクス・クルルはうっか り次のよう

に口をすべ らして しまう。「 Vヽやはや (zum Kuckuck)一 これは失礼

,悪

用する気 じゃああ りま せんで した。一 しか し

,そ

ういうことを考 えてはいけないで しょうが一」(Ⅶ

-541)(括

弧内の ドイ

ツ語は筆者)。 zum Kuckuckと いう呪いの言葉がクルルの口をついて しまったのである。 しか しな

(6)

三枝圭作:トーマス・マ ンと神話的なもの しくなぶるような感 じ」(Ⅶ

-531)が

あ り

,彼

が クルルの リスボンヘの旅 を「現在 の住民 の真会とな 視察」(Ⅶ-531)と呼ぶ とき

,彼

は「子供 に向って語 りかけている」(Ⅶ

-531)か

の ようで

,ク

ルル も彼 の話 を聞いている と

,自

分が子供 になったように思 われるのである。 この ように見 ると

,ク

ッ クックは根 っか らの悪魔 とい うよりも

,メ

フイス トフェ レスの ようないたず らの悪魔であるのか も しれない。 いずれにせ よ

,ケ

レーエイはクックック教授 の本質に

,カ

ソコウの一面のみならず神 ゼウスのそ れを認めてお り

,彼

によれば

,

リスボンの場面 は神話の世界 に置 き換 えられることがで きる。 フェ ー リクス・クルルが

,教

授 の話 しを聞 きなが ら「心 にひ どく茫漠 とした ものを感 じた」(Ⅶ-531) り,「とりとめのない茫漠感」(Ⅶ

-533)に

襲 われた りす るのは

,ク

ルルがすでに神話の世界 に陥っ ていることを示 しているのではなかろうか。か くして

,ヘ

ルメス としてのクルルは

,万

物の父 クッ クック

=ゼ

ウスが君臨する現代 のパ ンテオンで

,ク

ックック

,つ

ま リプル トンとしてのゼウスの息 子 となる。 クックックの妻マ リア・ ピアは

,デ

メーテル としてのヘ ラとな り

,そ

の娘ズーズーはペ ルセポネとなる。 クルルをめ ぐるこれ ら神 々の家族 は

,い

ずれ もハデスの面影 をただよわせてお り, クルルはその冥界 をさまようのである。 クルルが ここで学 んだことを思いつ くままに列挙 してみると

,存

在 について

,無

について

,生

命 について

,時

間について

,存

在 の始め と終 りについて

,老

年 と若 さについて

,処

女性 と母性 につい て

,保

護 と破滅 について

,生

と死 について

,カ

オス と形式 について

,全

肯定 と全否定についてなど, 数 えあげれば きりがないほどである。 クルルはこれ らの問題 に共感 を寄せ なが ら

,ク

ックックに導 かれて宇宙 に昇 り

,銀

河系の旅 をす る。 また

,自

然誌博物館の半地下では

,

自分の起瀕 を求めて時 代 の深淵 に沈み

,ハ

デスの旅 をする。彼 はポル トガル国王 に謁見 し

,神

々の山オリュンポスに登る。 また

,牡

牛 を犠牲 にする大衆の祭祀のなかへ降 りてい く。結末の神聖な結婚式では

,神

々の母 と諸々 の対立 を見渡 しているヘルメス とが

,豊

穣 と美の ように結 びついている。t0 6 トーマス・マ ンの [クルル』断片が

,彼

の一切の問題 を含んでいる大作で

,彼

が生涯 にわたって それに取組んだ とい う点 において

,ゲ

ーテの 『フアウス ト』 になぞ らえることがで きることは言 う まで もない。 ところで

,マ

ンの創作活動の終 りに近 く

,1950年

代 に至 って

,神

話小説 『ヨゼフ』4 部作が,『クルル』小説 に与 えた影響 には極 めて大 きな ものがある。[クルル』への 『ヨゼフ』 の復 活 によって

,文

字通 リマ ンのすべての問題が ここに出そろうとともに

,神

話 に特有の世界観が展開 されるのである。現実の個別的な ものや表面的な ものは超越 され

,典

型が提示 される。1942年

,マ

ンは自作 についての講演 『ヨゼフとその兄弟 たち』 のなかで

,

この辺 りの事情や 自己の神話への転 換 について

,次

の ように述べている。 年齢 に応 じて さまざまの傾向

,要

,好

尚がある。あるいはまた能力

,才

能がある。ある年月 を閲す ると

,い

っさいの単 なる個人的な もの

,特

殊的な もの

,個

々のケース

,言

葉の最 も広い 意味 における「市民的なもの」

,そ

ういった ものへ寄せ る好尚が失われて しまうこ とは

,

お ら かわ く通例のことであろう。それにかわって

,典

型的なもの

,楡

ることなく人間的なもの

,常

に回 帰するもの

,超

時間的なもの

,要

するに神話的なものが

,関

心の前景にあらわれて くるのであ る。なんとなれば

,典

型的なものとは

,事

,そ

れが生の原規範

,原

形式であるかぎり

,ま

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第

2号

(1997) それが超時間的図式であ り

,過

去 よ り与 えられた公式であるか ぎり

,神

話的な ものだか らであ る。そ して生は

,無

意識か らおのが諸特質 を再生 しつつその過去 よ り与えられた公式の中へ踏 み込 んで行 くのである。た しかに

,神

話的・典型的な ものの観方 を育成せ しめるものは

,作

家 の生涯のエポ ックなのであって

,こ

れは当の作家の芸術的ムー ドの独特な昂揚であ り

,認

識 と 造形の新 たなる晴れやか さである。 この ような晴れやかさは

,す

でに述べた とお り

,生

涯の後 年 に留保 されることを常 としている。なぜ な らば

,榔

話的な ものは

,な

るほど人類の生涯にお いては初期の原始的な形式 をあらわす ものであるが

,

しか し個 々人の生涯 においては後年に成 熟せ る形式 をあ らわす ものだか らである。(xI-656) マ ンが上で述べている「認識 と造形の新たなる晴れやかさ」は『クルル』の随所で見 られる通 り である。 この明るさはこの小説のパロディとしての性格 を鮮やかに特徴づけている。ウプレ夫人は 泥棒神 クルルに彼女の宝石箱 を盗 んだことを白状 されると

,か

えって喜 び

,自

分 の眼の前で彼 に現 金や宝石類 を盗 ませてそれをすべて彼 に与える。彼女による幻想 と現実 とのこのように愉快な混交 はその一例である。マ ンはまた,『リヒアル ト・ ヴァーグナー と「ニーベルンゲ ンの指輪」』 と題す る講演のなかで

,ゲ

ーテを引 き合いにだ して言 う。 彼 は神話でいかめ しい儀式 を行 うのではな く

,そ

れ と戯れるのであ ります。彼 は心 をこめて, 親 しげに神話 と遊ぶのであ ります。 きわめて小 さく

,は

るか縁のない ものに至 るまで彼 は自在 にあつかい ます。そ して神話 を荘重 さよりは滑稽 さ

,い

ゃ細やかな心づかいの戯画の タッチ さ えある正確 さで

,晴

れやかな

,機

智 に富む言葉 を用いて描 きだ してい ます。これは神話 による 慰み とで もい うべ きもので,『ファウス ト』全体 の世界探訪的特徴 にまことにぴった りした も のです。(Ⅸ-507f) 以上の ようなゲーテの神話観 は

,そ

の ままマ ンのそれ と見 な して よかろ う。『クルル』 はマ ンの 「ユーモラスな神 々の芝居」,「ユーモラスなパ ンテオン」tり である。 そ して神話 の登場 によって押 しのけ られているかに見 えたかつての「市民」 と「芸術家」の問題 は

,そ

のパ ロデ ィとしてここに 再 び浮び上 っているのである。

(1)Thomas Man■ :Briefe,1948-1955。S.Fischer Verlag,Frankfurt a,M.1965,S.228.

(2)ThOmas Mann―Karl Ker6■yi/Gesprach in Briefe■.Rhein―Veriag AG,Zurich 1960,s.193/195. (3)Hans wySling:Thomas Mann heute,A.Franke AG Verlag Bera,1976,S,44.

(4)トーマ ス・ マ ンの著 作 の底 本 と して は,Thomas Man■ Gesammelte Werke in drdzehn Banden.Frankfurt am

Ma 1974を 用 い た。 本 文 中の引用 に はそ の巻 数 とペ ー ジ を (Ⅷ-457)の形 で記 して い る。 なお,邦訳 「 トー マ

ス・ マ ン全 集 」(新潮社)1972年に,引用 箇 所 の訳 が あ る場 合,それ を借 用 して い る。

(5)Hans、vySling:Thomas Man■ heute.A.Frante AG Verlag Bern,1976,S.45.

(6)Ebd. (7)Ebd. (8)Ebd.

(8)

=枝

圭作:トーマス・マンーと神話的なもの

M14Cheni Wien;Ztrithi SChOningh,1984,S,731

(10)Ebd,,S,75, (11)Ebd.,S,77:

(12)Tho4as Manば BёkenatnisSe des HoCistapleFs腱 1転I Krun,1988 RF Oldeibo■rg Venag Gmbi.MJlche■,&67. (13)Eb■

(141 HaiS Wysling:Tho■ as‐Mann heuts A.Frankё AG Verlag Berni 1976,S,62,S.21.

参照

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