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自閉症者における他者のなりたち -感情的なつながりを持つことの重要性-

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Academic year: 2021

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(1)Title. 自閉症者における他者のなりたち −感情的なつながりを持つことの重 要性−. Author(s). 川﨑, 惣一. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 61(1): 1-10. Issue Date. 2010-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2262. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第61巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducadon(HumanitiesandSocialSciences)Vol.61,No.1. 自閉症者における他者のなりたち 一感情的なつながりを持つことの重要性−. 川 崎 惣 一. 北海道教育大学釧路枚哲学研究室. OnFormationofOtherinPeoplewithAutism −ImportanceofEmotionalConnectionwithOthers−. KAWASAKI Soichi. DepartmentofPhilosophy,KushiroCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本論の目的は,自閉症者における他者のなりたちについて,論者なりの見通しを示すことにある。自閉症 者は他者の視線を認知しているが,他者としての認知は不十分なものにとどまっている。これは,自閉症者 が他者との感情的なつながりを持つことができないか,あるいはそれを非常に苦手としているためである。 したがって,自閉症の人たちが他者への関心を示さず,「自閉的」であるように見えるのは,まずは,他者 との感情的なつながりを持つことができず,他者がまだ「他者」ではないからであり,また,ある程度の感 情的なつながりができ始めた後でも,まだそうしたつながりが弱いために,これまで取り上げてきたいくつ かの要因に由来する不安や恐れがあり,それがそうした人たちの対人関係の基調をなしているからではない か,と推測することができる。. 1 はじめに 近年,自閉症に対する興味関心がとみに高まっている,と言えるだろう。その背景には,発達障害をめぐ るさまざまな歴史的経緯があるのだろうし,いっそう直接的には,平成17年に施行された「発達障害者支援 法」の影響もあるのだろうが,ともかく,学習障害(LD),注意欠陥・多動性障害(AD/HD),自閉症,ア スペルガー症候群といった言葉が,世間一般にもかなり浸透してきていると言える。 では,ここから自閉症に話を限定するとして,こうした趨勢のなかで自閉症に関する理解がどの程度深まっ. たのかといえば,必ずしもはっきりしない。たしかに自閉症について論じた文献は数多く出版されるように なっており,社会的なサポートもおそらく充実してきているのであろう。(たとえば学校教育において,平. 平成22年8月 August,2010.

(3) 川 崎 惣 一. 成19年度より「特別支援教育」がスタートした等々。)しかし,自閉症をもつ人たちの示す症状とその対処 法が広く知られるようになったことが,自閉症の理解の深まりを意味すると言えるかどうかは定かではない。. 近年,脳科学の進歩発達によって,自閉症の原因となる器質的な障害を突き止めようとする試みも少しずつ 成果をあげつつあるようであるが,このことがかえって自閉症を「医療化」してしまい,一人の人間として 自閉症の人とかかわるという営みがおろそかになっているのでは,という指摘もあることから,こうした成 果を留保抜きで歓迎することはできない。そこでさしあたっては,自閉症研究はまだまだ発展途上のものと 理解しておくのがよさそうである。. さて,こうした趨勢を受けて,というわけでもないのだろうが,哲学の分野において,自閉症に注目し, 哲学のさまざまな成果を活用しながら,自閉症の人たちの経験を解明しようという非常に意欲的な試みが現 れている。そのもっとも豊かな成果が,村上靖彦氏の近著『自閉症の現象学』(2008)である。本論の目的は, この著作の豊かな成果を踏まえつつ,自閉症者における他者のなりたちについて,論者なりの見通しを示す ということにある。したがって,この著作の解釈や批判を行うわけではない。何より,村上氏の著作は自閉 症のさまざまな側面をとりあげていることから,限られた枚数のなかでその著作全体を相手にすることはと うていできない。. ところで,私たちの他者理解のしくみがどのようになっているのか,という問題は,哲学において非常に 大きな問題であり,自閉症者における他者のなりたちを考えることは,定型発達の人にとっての他者理解を 考察するうえで何らかの示唆を与えてくれるのではないか,と期待してよいように思われる。村上氏もまた, 自閉症の分析を踏まえつつ,独自の「他者の現象学」を提示している。すなわち,氏は著作のなかで,他者 経験を「視線触発」,「間身体性」,そして「対人志向性」という三つの段階で発達するものとして提示して いる。. 「視線触発」とは「相手からのベクトルの受容」(村上[2008:36])のことであり,特に視線に限定され るわけではなく,スキンシップや声かけも含まれるとされている(村上[2008:3])。著作のなかではこう 説明されている。「視線触発は,(1)こちらに向かってくる視線や呼び声・接触のベクトルの直接的な体験で あり,(2)感性的体験に浸透するが,それ自体は感性とは異なる次元で,(3)自我や他者の存在が認識されるに 先立って作動している」(村上[2008:3])。また別の箇所ではこう記されている。「定型発達(非自閉症者). の日常において,他者経験とは他者身体の認識である以前に,まずもって日があったり声をかけられたりと いう出会いの経験である。この経験固有の成分が視線触発である。」(村上[2008:37]) 「間身体性」とは,「視線触発が形成する固有の次元の中で,相手の身体性が生成し,体験される」(村上 [2008:18])という次元のことを指す。そしてこの次元においては,「相手の運動や感情が私の身体におい て直接体験される」とされている。このあとで,相手の感情や運動などの次元が浸透しあって,身振りや表 情といった統一的な事象が現出するようになる。村上氏はこれを「図式化」と呼んでいる。 「対人志向性」は,「相手へと向かってゆく志向性」のことであり,これによって「他者が私の外部で狼 立した存在となる」(村上[2008:36])のだ,とされている。これによって,たとえば,独り言にしかなっ ていなかった自閉症児の言葉が,誰かに対する語りかけになる。 そして,これら三つの段階は次のようにまとめられている。. 「私と他者を客体として認識し,定立するのは発生的には事後的な作用である。その意味で,『匿名 的に見られる』視線触発が,『相手の動きや感情を感じ取ってしまう』間身体性と『私があなたを見る』. 対人志向性に先立つ。ただし間身体性を構成する視線触発と共鳴動作は,独立した機能であり互いに優.

(4) 自閉症者における他者のなりたち. 劣はない。」(村上[2008:47]). つまり,客体としての他者の認識よりも前に,まず「『匿名的に見られる』視線触発」があり,さらにこ れとは独立に,感情の共鳴が生じる「間身体性」があって,最後に「対人志向性」が加わることで他者の認 識が成り立っている,ということになる。 本論はこの三つの段階を念頭に置きつつ,しかし必ずしも明示的に言及しないという仕方で,論を進めて いきたい。. 2 自閉症の人たちにとっての他者 では,自閉症の人たちにとって,他者とはどのような存在なのであろうか。. 自閉症の人たちが,他者に対して,定型発達の人たちとはかなり違った態度をとる,ということは,早く から知られていた。自閉症についてのもっとも有名な定義は,自閉症とされる子供たちの症例を初めて報告 したカナ一によるものであるが,彼は自閉症児について,「普通なら皆もつことのできる人々との感情的接 触が生来的に形成できない」(カナー[1978:55])と記していた。つまり「自閉的autistic」という言葉が 示しているとおり,そうした子供たち,他者との感情的なつながりにおいて障害があるために,自分の中に 閉じこもってしまっている(ように見える)のだ,というわけである。 このほか,一般に自閉症児について指摘されるのは,小さい頃から親の呼びかけに反応することが乏しく,. 日を合わせることができない,感情を示さない,抱っこすると嫌がる,といった態度である。こういった子 どもは,一人にしておいてもそれほど甘えたり泣き出したりすることがないために,ある面「育てやすい」 赤ん坊であった,と言われることもある。乳児の感情的な表出がないということは,特に誰かに甘えたり助 けを求めたりしない,ということだが,こうした態度は母親に代表される周囲の人間との感情的な交流を作 り上げていくうえで非常に重要である。そこで,自閉症の人たちは乳児のときから,感情レベルでのコミュ ニケーションをとることが困難だったのだ,とまとめることができる。 (とはいえ,ここで注意を促しておけば,自閉症の症状はスペクトラムをなしており,重度な場合から軽度の場合まで症状 はさまざまで,さらに個人差も大きいことから,すべての自閉症者に共通の症状というのがあるわけではない。したがって, 本論が述べている事柄が自閉症のすべての人にあてはまる,と言うことはできないし,本論で紹介する例も典型的な例とは言 えず,本論の論旨は一定の制約にあるということを強調しておきたい。). そこで自閉症を理解するためにも,自閉症の人たちにおいて他者との感情的なつながりはどうなっている のかを問わなければならないのであるが,そうだとすれば,同時にまた,そのときの「他者」とはどのよう なものかを考えなければならない。というのも,感情的なつながりがないことによって,自閉症の人たちに とっては,どうやら,「他者」の現れ方が定型発達者とは異なっているらしいからである。. このことを考えるうえで,まずは,自閉症児の他者理解について論じた別府(2001)を参照してみよう。 別府は他者理解を三つのレベルに分けて考えることで,自閉症児の他者理解を解明しようと試みている。順 に,まず「行為者としての他者理解のレベル」,次に「他者の心の存在を理解するレベル」,最後に「他者の. 心の内容の表象的理解を行うレベル」である。彼がこれらのレベルを区別する理由は,自閉症を「心の理論」 の障害として理解するならば,「自閉症の人たちはいかなる他者理解に対しても困難を抱えている」という 印象を広めてしまうことになり,それは適切ではないと考えるからである。そして別府によれば,自閉症児 は「『心の理論』課題やあるいはふり遊びなどに示される,他者の心の内容の表象的理解はいまだできないが,. しかし発達の中で,行為者としての他者理解や心的世界を有する主体としての他者理解は,自閉症児でも成.

(5) 川 崎 惣 一. 立する」(別府[2001:165−166])。彼の考えでは,このことは,「自閉症児は,他者の心の理解そのものが 欠けている障害なのではなく,発達の中で少なくともあるレベルまでは獲得していける存在だということ」 を示唆している。つまり自閉症児は,三つのレベルのうち二つ日のレベルまでの他者理解を持つことができ るのだ,というのである。 こうした意見はまことにもっともだと思われる。近年,自閉症者たち自身による手記が数多く出版される ようになっているが,実際にそれらを読むと,彼/彼女らは,「私と同じ資格で行動するような他者が存在 するのだろうか」「私以外の人間たちは,そもそも心を持っているのだろうか」といった問いを立てること はない。そうではなく,「他の人たちの行動や発言の背後には意図や感情があること」は分かってもその内 容を読み取れないためにどうしてよいか分からず,不適切あるいは的外れな応答をしてしまうことに苦しん でいるのである。 とはいえ,別府の碇示している第二のレベルと第三のレベル,つまり「他者の心の存在を理解するレベル」. と「他者の心の内容の表象的理解を行うレベル」との間に,さらに段階があるのではないか,と考えること もできるかもしれない。すなわち,「心の内容の表象的理解」の手前に位置づけられるべき,「心の内容の非. 表象的理解」のレベルである。自閉症の人たちは一般に,これらの両方が苦手なので,一括してしまっても 議論としては大きな支障はないのかもしれないが,別府が目指すようなボトム・アップによる自閉症理解を 実現するには,自閉症の人たちにおいてなぜ「心の内容の非表象的理解」がうまくいかないのか,という問 題について考えておく必要があると思われる。. 3 他者の視線 そこで,自閉症者にとっての他者のなりたちを考えるために,視線の認知の問題を取り上げる。その理由 は,視線の認知は「他者」を「他者」として認知することがなりたつ一つのメルクマールとなる,と考えら れるからである。つまり,視線が他ならぬ「他者の視線」として認知されるということが,他者の成立と深 く関わっているように思われるのである。視線の認知がなければ,「他者」にそなわる「限」は,「他の人間」 の単なる「眼球」「目玉」に過ぎないことになる。さらに,「日は心の窓」とも言うように,視線は定型発達. の人たちにとって,他者の意図や感情を推測するうえでの有力な判断材料を提供してくれる。何より,お互 いに「相手の日を見る」ことで視線が交わされるとき,お互いが,そこに感情的なやりとりが生じるための 場を共有したのを確信することができる。視線は触れるのとは違って,それが誰かに向けられたとき,直接 に接近の意図を伝えることはできないが,にもかかわらず,それを見る者に,向かってくる「力」のベクト ルを感じさせるものである。. では,自閉症の人たちは,視線というものをどのように認知しているのだろうか。先にも触れたように, 自閉症の人たちは「自分に話しかけている相手の顔を見ない」「視線を合わせるのを嫌う」といったことが 指摘されており,視線によって他人の意図を感じ取ることができない,と言われている。. 順に検討してみよう。まず,視線が向けられている方向そのものの認知は,自閉症と定型発達とではそれ ほど違いがない,というデータがある。自閉症児たちは他者の視線の方向を探知することができる,という のは実験で証明されている。. 千住らが行った実験はこうである(Senjuetal.[2004])。乳児の視線がコンピュータ画面中央の固視点 に向けられたとき,左右いずれかに視線を向けた顔の写真を見せて,そのあとに画面の左右にターゲット刺 激が碇示されたとき,乳児がその刺激の方向に向く時間を計測した。これは健常児と自閉症児の両方で計測 されたのだが,いずれの場合も,視線の方向がターゲット刺激のある方向と一致しているとき,そうでない.

(6) 自閉症者における他者のなりたち. ときよりも有意に早く,ターゲットを同定することが分かった。健常児の方が自閉症児よりもやや早かった のだが,こうした自動的な注意の移行という点で両者に同じ傾向が見られた,というのである。. さらに,人が頭や日を特定の対象に向けているときに,その人が何を見ているのかを尋ねられた場合,3 ∼4歳の自閉症児はそれが何かを示すことができる,という芙験結果がある。(Leekametal.[1997:78]) とすれば,自閉症児において視線を認知することそれ自体の能力が劣っているわけではないように思われる。 とはいえ,後者の実験では,自閉症児が自発的に他人の視線を探知するということはない,ということも 指摘されている。「自閉症児は人が見ることのできるものを算定する幾何学的なスキルを用いることができ. るが,このスキルを,他人の眼差しが向けられているものを自発的に探るために用いることはない」 (Leekametal.[1997:85])。その原因としては,「動機に関する損傷」あるいは「自発的にそうするのに 必要なインセンティブの欠如」があるのではないか,と示唆されている(Leekametal.[1997:92])。つ まり,視線の認知がなされているものの,目の前にいる誰かがどちらを向いており,何を見ているかについ ての関心があまり働かないので,あえてそれを探ってみようとはしない,ということである。. とすれば,自閉症の人たちは,視線が自分に向けられている場合についても,そのことを事実として十分 に把握していることになる。しかし,一般に指摘されるように,自閉症の人たちと日を合わせることは非常 に困難であり,こちらから無理に視線を合わせようとしても,日が合ったように感じられないか,あるいは,. 巧みに視線をそらされてしまう。おそらくそれは,視線を合わせることに対する動機づけがうまく働いてい ないか,あるいは(後で論じるように),自閉症の人たちにとって他者の視線が侵襲的で不安を与えるもの と感じられているかの,いずれかであると考えられる。前者の場合の「動機づけ」という言い回しはいささ か曖昧ではあるが,他者との感情的コミュニケーションに対する開かれた態度が形成されていないために, 他者からの視線をそのようなものとして積極的に受け入れることがない,ということだと考えられる。. さらに,自閉症の人たちとのジョイント・アテンション(共同注意)行動が困難なのは,視線の先を探る 能力ではなく,視線の探索の動機づけとなる感情的な基盤が欠けているからだ,と考えることもできる。た とえば次のような指摘がある。. 「定型発達の赤ちゃんの共同注意の発達の研究によれば,『赤ちゃんと大人がしっかり視線を合わせて』. から『大人がほかのものに日を移す』と赤ちゃんもその大人の視線の方向を追って自分の視線を移す, ということが分かってきました。『ふたりで視線を合わせる』ことが『視線的共同注意』の成立に必要 なのです。. 自閉症スペクトラムの子たちの『日が合わない』『しっかり日を合わせられない』という障害が,そ の先の共同注意の発達を可能にし,ことばの獲得をも困難にするのは無理もないことと思えます。」(中 川[2009:143]). ほかにもたとえば,幼児が母親の見ているものを見ようとして,母親の視線が向いている方向に自分も視 線を向け,母親が何を見ているかをおおよそ突き止めた後で,それを確認するために母親の顔を振り返った りする,という行動があるとのことである。こうした行動は,特に幼児と母親との関係に限らず,大人同士 でも同じようなことが起こる。つまり,相手が何を見ているかを確認するのだが,それは単なる「相手が見 ているもの」の確認だけではなく,「相手がなぜ,どういう気持ちでそれを見ているか」の確認でもあるわ けである。. つまり,ジョイント・アテンションが成立するうえで重要なのは,まずは感情的なつながりの確認であっ て,それによって,相手の視線の方向へと見やるという動作が動機づけられることになる。とすれば,やは.

(7) 川 崎 惣 一. り,他者との感情的なつながりが根本的だ,ということになりそうである。 (本節で記した内容が,村上氏のいう「視線触発」と「間身体性」の議論と同じことを別様に説明しただけのことなのかど うか,といえば,やはり違っているように思われる。まず,「視線触発」には,単に「視線がこちらを向いていること」に気 づいていること以上の意味,つまり,他者の意図なり感情なりを備えたベクトル,ただし「誰の,どのような」という内容を 欠いたベクトルが「こちら」へ向かってきている,という意味が込められている。論者なりの理解では,この「視線触発」の 時点で,ある種の感情的なつながりがすでに作動している。そしてそのつながりは「間身体的に」作動するが,視線の例が示 すように,人間の身体が認知されるときつねに作動しているとは限らない。さらに,自閉症の人のなかには,事物に対するあ. る種の感情移入を示す人もいるようである。たとえばニキ・リンコは述べている。「無機物的なモノに表情の豊かさとかを感 じることがあるんです。たとえば水道の取っ手とかが笑ってる,とか。モノの方が人に近く見えていることもあります」(ニ キ/藤家[2004:121])。これを「間身体性」のバリエーションとして理解することができるだろう。「間身体性」は,身体以 外のものに対しても作動するわけだ。「こちらを見ている」と感じさせるような視線や,こちらに向かって発せられた声は, すでに一定の「表情」を持つものとして感じられているのであり,それに込められた意味は理解できなくても,一定のインパ クトをもたらす。村上氏のいう「対人志向性」が生じるのは,「私があなたを見る」の「あなた」をどう理解するかによるが, 段階としてはだいぶ後になってから,ということになりそうである。). 4 他者との感情的なつながり 自閉症の人たちが,他者の感情を理解するのを非常に苦手としているという事実を,どのように理解すれ ばよいだとうか。もちろん,自閉症の人たちが感情を持たないということはないし,症状や発達の度合いに もよるが,他の人たちが感情を持つことを理解していないということもない。ただ,他者との感情的なつな がりが成立しておらず,したがってまた,このつながりを基盤として他者の理解へと進むことができていな いために,他者のなりたちという点で定型発達の人とは異なっているらしい,と考えられる。こうしたなか で,他者とのやりとりのなかで示される他者のさまざまな感情は,自閉症の人たちにとっては理解しがたい もの,精神的な安定を脅かすもの,不安をかき立てる要因となってしまっている。これは,定型発達の場合 に,乳児が母親とのアタッチメントの関係を形成し,安心感,安定感を獲得しているのとは正反対である。. 芙際,他者の感情の表出は,自閉症の人たちにとっては,予期しえない突然の変化として受け止められて いるようである。これに関連して,自閉症の人たちは極端に過敏な神経を持っていることがしばしば指摘さ れる。定型発達者は,日常,それと意識することなしに情報の取捨選択を行っているのに対して,自閉症の 人たちは極端に過敏な神経を持つことから,たえず雑多な情報の洪水にさらされて,うまく処理することが できないでいる,というのである。. 「私の耳はすべての音をそのまま拾い上げるマイクロフォンみたいなものだから,二人の人が同時に しゃべっていると,片方の声を意識外に押し出し,もう一人の声に耳を傾けるということが難しい。普 通の人は,聞くべき音だけを拾い上げる高指向性マイクロフォンのような聴覚を持っているが,私は環 境音を締め出すことができないので,喧騒な場所では,人の話が理解できない。子どものころは騒音と 人声が入り混じっている場所では,よくかんしゃくを起こしたものである。」(グランデイン[1997:83]). そこで,自閉症の人たちが示すいわゆる「常同行動」というのは,その人たちにとって安定した世界を作 り出すための手段という意味合いが強い行動なのだ,と理解することができる。.

(8) 自閉症者における他者のなりたち. 「原因が何であれ,自閉症である私は,自分の極度にぴりぴりしている神経組織に与えられた興奮を 抑えるために,決まりきった行動パターンで反応していた。」(グランデイン/スカリアーノ[1994:98]). 「騒音に耐えられなくなると,私はロッキング(身体をリズミックに前後に揺する行為)や,スピニ ング(くるくる回る行為)に逃げ込んだ。ロッキングは私の神経が高ぶるのを抑えてくれた。それはちょ うど,中毒症状をもたらす薬を服用するようなものだった。」(グランデイン[1997:52]). こうした理由から,自閉症の人たちは,予測のつかない変化を嫌う。なぜなら自閉症者にとって,変化と は予測不可能な激変であり,やや大げさな言い方をすれば,世界の転覆に匹敵するほどの事態だからである。. 彼らの鋭敏な感覚は,変化によってもたらされる刺激にとうてい耐えることができない。 他者との関係についても,同じことが生じている。だからこそ,他者と相対することは,それだけで多く の緊張や不安をもたらす。目の前にいる他者が家族など識別可能な人,行動パターンや性格等がある程度分 かっている人であればまだよいのだが,見知らぬ人の場合は,その緊張や不安は否応なく高まることになる。. つまり,過敏な神経によってもともと不安定別犬態に置かれている上に,さらに,他者を目の前にするこ とでいっそう緊張と不安が高まると,自分の精神的な安定を守るという目的で,他者への関心は固く閉ざさ れてしまうことになるのである。. したがってまた,他者の感情の表出は,自閉症の人たちにとって,予測もつかない不意打ちとなって,恐 怖や不安を引き起こすもとになっているようである。. 「私は大人たちが笑うのが嫌いだった。突然のことで予測がつかないし,恐怖だった。何の前ぶれも. なく顔が割れて,口が巨大化する。突然たくさんの歯が現れ,大音響が響く。微笑は多少ましだった。 不安を引き起こすことに変わりはなかったが,現れかたがゆっくりしているから。」(ガーランド[2000 :15]). 定型発達の人の場合でも,目の前にいる誰かが何の前触れもなく急に笑い出したり怒り出したりしたら, とても驚いてしまうにちがいない。しかし,問題をさらに深いものにしているのは,こうした他者の感情の 表出そのものが,自閉症の人たちにとってはそもそも理解しづらいものだだ,ということである。つまり, そうした表出のいわば内面ないし裏面にある,他者の感情が理解できないのである。 他者の意図や感情が理解できないというのも,彼らが「自閉的」と見なされる態度をとる大きな要因となっ ている。定型発達の人たちにとって,他者の意図や感情は相手の態度や表情において直接に読み取られるも のであるが,自閉症の人たちにとってはそうではない。先に,視線に関して,視線の方向の読み取りについ ては自閉症者の場合も定型発達者の場合と大きな違いはない,という実験結果を紹介したが,単なる視線の 方向というだけでなく,目元も含めた仕方での,いわば「日の表情」の読み取りということになると,自閉 症をもつ人たちの抱える困難さが際立つ。バロン=コーエンはこれを心理化のテストにした (Baron−Cohen,S.etal.[2001])。男女の俳優による36枚の表情の写真の,目元のところだけを切り取って 被験者に見せ,それぞれについて,「真剣な・恥ずかしい・当惑した・恐れを抱いた」といった四つの選択 肢のなかからふさわしい形容詞を一つ選ばせる,というテストを行ったところ,大半の健常者の成人にとっ て表情からの心の読み取りは容易であったのに対して,自閉症をもつ人たちにとってそれは困難だったので ある。. 他者の意図や感情がうまく理解できないことで,自閉症の人たちは,それを知的に処理しようとする。そ れはある程度,成功することもあるが,つねに不確かなものにとどまるために,自閉症者の他者理解はいつ.

(9) 川 崎 惣 一. も不安定なものであり続ける。. 「私の行動は「知」に導かれているので,今でも複雑な感情生活を営んでいる人を理解したり,その 人とかかわったりするのは難しい。」(グランデイン[1997:115]). 自閉症の人たちは他者の感情というものをうまく理解できないが,他者が感情を持つ存在だということは 把握しているようである。このために,その感情がどのようなものか理解できないということで,不安やあ せりが呼び起こされることになる。. 「わたしは感情というものを,理解したかった。さまざまな感情について,ほとんどは辞書の上での 定義を知っているし,マンガ的なイメージも持っている。だがそれらはどれも前後関係のないものだか ら,自分の身体的な感覚に,結びつけることができない。. わたしの場合,心の中の地図もばらばらに被れてしまっているから,人がどう感じているかと読み取 るのも,難しいことだ。だが少しなら,それを『翻訳』することはできる。たとえば,もし人の声が大 きくなったり,早くなったり,語尾が上がり調子になったりしたら,それは怒っているということだ。 もし顔に涙が流れたり,口元が下がってしまったりしたら,それは悲しいということだ。もし震えてい たら,怖がっているのか,気分が悪いのか,寒いかだ。にこにこしていたら,それは笑っているのだ。」 (ウィリアムズ[2001:232]). こうしたことから,すべては,他者理解の基盤となる感情的なつながりがないことによるのだ,と言えそ うである。. 5 まとめに代えて 自閉症の人たちが他者への関心を示さず,「自閉的」であるように見えるのは,まずは,他者との感情的 なつながりを持つことができず,他者がまだ「他者」ではないからであり,また,ある程度の感情的なつな がりができ始めた後でも,まだそうしたつながりが弱いたいめに,これまで取り上げてきたいくつかの要因 に由来する不安や恐れがあり,それがそうした人たちの対人関係の基調をなしているからではないか,と推 測することができるように思われる。つまり,定型発達の人たちが自然に他者との感情的な呼応関係の実現 を達成しているのに対して,自閉症の人たちはそれが弱いために,その後の相互理解の基盤を構築し損ねて いるからだ,ということである。(この点に関連して,自閉症者における他者の表情理解に関して基本感情の処理過程に 非定型性が見られるという研究報告がある。Cf.神尾&十一[1998],神尾ら[2003]). とはいえ,自閉症の人たちが文字通りに「自閉的」であって,他者への関心をいっさい欠いているかとい えば,そうではないようである。たとえば小林は自閉症児の対人回避傾向の背後に「強い関係欲求(甘え)」. が潜んでいると指摘している。「他者(主に養育者)と関わりたいという思いと同時に,そのことによって 自分が傷つく恐れを抱いて回避的になってしまうのです」(小林・鯨岡[2005:59])。自閉症児が他者の識 別を行い,特定の他者のみに愛着や甘えた態度を示すという指摘は数多い。もっとも,そうであるからといっ. て,自閉症児に対して,周囲の定型発達の人たちの方から積極的にかかわりを持とうとしても,必ずしもう まくはいかない。なぜなら,たとえば笑顔は「奇妙にくずれた顔」としか理解してもらえなかったように,. 基盤となる感情的なつながりができあがっていなければ,他者からの接近はかえって自閉症の人たちの恐怖.

(10) 自閉症者における他者のなりたち. や不安の原因になってしまうからである。. 村瀬は自閉症児の対人関係を,この不安という観点から次のように説明している。 「自閉症児が『親に関心を示さない』と言われてきたのは,関心を示さないのではなく,動き回る人 間に一定の規則性を見つけることが,上手にできにくいのである。その分『不安』も高くなり,『親』. に抱かれても泣き叫ぶ子どもが出てくる。親だけではなく,兄弟や周りの子どもたちにも関心を向けな いように見える。『対人関係がとれない』と言われてきた行動である。/しかし,『関係がとれない』の ではないし,『対人関係に無関心』なのでもないのだ。『人間の行動』の規則性が読み取れにくいゆえの 不安が先立っているだけなのである。」(村瀬[2006:71]). 自閉症の人たちの対人関係について,すべてをこの不安という要因で説明できるかどうかは,. まだ多くの. 検証が必要であろう。ただ,自閉症の人たちが示す他者への態度を,単に無関心と特徴づけて済ませるので はなく,いっそう細やかな分析が必要なことは間違いない。ガーランドは次のように書いている。. 「私は,ほかの人たちが自分と何か関係があるとは考えていなかった。特に,両親は自分と無関係な のかと思っていた。だから,言いつけに従う必要があるとも思わなかったのだ。(…)/私は平穏を求 めていた。でも同時に,愛してもほしかった。私はただ,親子の関係とは普通どんなものだということ になっているのか,それを知らなかっただけなのだ。」(ガーランド[2000:22]). この引用箇所では,他者への無関心とともに,愛情の欲求についても記されています。他者との感情的な つながりということで言えば,. 自閉症の人たちの愛情生活についての分析も必要であろう。いずれにせよ,. 自閉症者のうちに他者へと向かうベクトルがまったくないわけではない,ということは十分に理解される。 だとすれば,自閉症の人たちは−一個人によって症状にかなりの違いがあるので,すべてのケースにあては まるとは言えないかもしれないにせよ−まったき意味では「自閉的」ではないのである。. 参考文献. Baron−Cohen,S.,Leslie,A.M.,andFrith,U.(1985).Doestheautisticchildhavea‘theoryofmind’?,Cog71ition,21,37−46. Baron−Cohen,S.,Wheelwright,S.,Hill,J.,Raste,Y.,andPlumb,Ⅰ.(2001).The“ReadingtheMindintheEyes’’TestRe− visedVersion:AStudywithNormalAdultswithAspergerSyndromeorHigh−functioningAutism,Journalq/Child 食ycゐ0わgyα〃d食ycゐあJ叩,42,241−51. 別府哲(2001)『自閉症幼児の他者理解』,ナカニシヤ出版。 グニラ・ガーランド(2000)『ずっと「普通」になりたかった。』,ニキ・T)ンコ訳,花風社。(原書:GunillaGerland,A. RealPe7TOn,London:SouvenirPress,1997) テンプル・グランデイン//マーガレット・M・スカリアーノ(1994)『我,自閉症に生まれて』,カニングハム久子訳,学習. 研究社。(原著:Grandin,T.andScariano,M.M.,Eme7評〃CeLabeledAutistic,Washington,ArenaPress,1986.) テンプル・グランデイン(1997)『自閉症の才能開発 自閉症と天才をつなぐ環』(カニングハム久子訳,学習研究社。(原. 著:Grandin,T‥ThinkinginPictures,NewYork,BantamDellPubGroup,1995.) 神尾陽子,十一元三(1998)「高機能自閉症における感情理解の過程に関する研究」,『児童青年精神医学とその近凛領域』, 第39巻4号,340−351頁。 神尾陽子,Wolf,J.,andFein,D.(2003)「高機能自閉症とアスペルガ一障害の児童青年の潜在的な表情処理:表情は認知を プライムするか?」,『児童青年精神医学とその近凛領域』,第44巻3号,276−292頁。.

(11) 川 崎 惣 一 レオ・カナー(1978)「情動的交流の自閉的障害」,『幼児自閉症の研究』,十亀史郎・斎藤聡明・岩本意訳,黎明書房所収。(原. 著:Kanner,L.(1943).Autisticdisturbancesofaffectivecontact,NirvousChild,2,217−50.ReprintedinL.Kanner, Childhood月汐Chosik:inith71StudiesandNeu)1hsなカts,WashingtonDC:Ⅴ.H.Winston,pp.1−43.) 小林隆児・鯨岡唆(2005)『自閉症の関係発達臨床』,日本評論社。. Leekam,S.,Baron−Cohen,S.,Perrett,D.,Milders,M.,andBrown,S.(1997).Eye−directiondetection:Adissociationbe− tweengeometricandjointattentionskillsinautism,BritiihJoumalq/Devel(妙menial且汐Cho10g:)′,15,77−95. 村上靖彦(2008)『自閉症の現象学』,勤草書房。 村瀬学(2006)『自閉症 これまでの見解に意義あり!』,ちくま新書。 中川信子(2009)『発達障害とことばの相談 子どもの育ちを支える言語聴覚士のアプローチ』,小学館101新書。 ニキ・リンコ//藤家寛子(2004)『自閉っ子,こういう風にできてます!』,花風社。. Senju,A.,Tojo,Y.,Dairoku,H.,andHasegawa,T.(2004).Reflexiveorientinginresponsetoeyegazeanda Childrenwithandwithoutautism,Joumalq/ChildP汐ChologyandP汐Chiat7T,45:3,445−458. ドナ・ウイT)アムズ(2000)『自閉症だった私へ』,河野万里子訳,新潮文庫。(原書:DonnaWilliams,Nbboめ,Nou)here:. The励t7mrdina7TAutobiogYt4)hyq/anAutistic,NewYork,AvonBooks,1992) ドナ・ウイT)アムズ(2001)『自閉症だった私へⅡ』,河野万里子訳,新潮文庫。(原書:DonnaWilliams,Someboめ,Some・. u)here:Breaking伽eEyomthel粕rldq/Autism,HilaryRubinsteinBooks,1994). ※ 本論は,哲学会第四十八同研究発表大会ワークショップ(2009年10月31日,於東京大学)において発表 された尿稿に加筆・修正を行ったものである。. (釧路校准教授). 10.

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参照

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