Title
「振興開発計画」下の沖縄の障害児教育行財政−1979年度
養護学校義務制実施の問題を中心にして−
Author(s)
谷口, 正厚
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 3(1): 59-81
Issue Date
1977-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6683
「振興開発計画」下の沖縄の障害児教育行財政
1979年度養護学校義務制 実施の問題を中心にして-谷口正厚
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1979年度養護学校義務制実施の問題を中心にして……・……..…60 第1節復帰前の沖縄の障害児教育における2つの流れ…………62 第2節「振興開発計画」下の障害児学校整備計画………64 第3節県の障害児教育行政の問題点・…・………・……77 -59-「振興開発計画」下の沖縄の障害児教育行財政
-1979年度養護学校義務制実施 の問題を中心にして- 1973年11月20日、文部省は「1979年度から養護学校を義務制に する」旨の政令をだした。これまで、「就学猶予、免除」制度によって多くの 障害児が教育を受ける権利を奪われてきた。今から30年前の1947年に、 「学校教育法」の制定によって盲・ろう学校が義務化されたときも、精神薄弱 ・肢体不自由・病虚弱の児童を対象とする養護学校の義務化は行なわれず今日 に至っている。 障害児が教育の対象からしめだされるということの問題点は、それによって、 障害児が社会の主権者として成長していくための基礎学力を育てる重要な条件 が奪われているということのみにとどまらない。学校教育においては、発達段 階の同じ集団や異る集団あるいは教師集団が形成されるが、子どもがそうした 様々の集団の中で生活し学ぶということは子どもの人格の形成を含む全面的な 発達を保障する不可欠の条件である。しかし学校から排除され家庭の一室にと じこめられた障害児には、発達の退行現象さえ起り、ただ死を待つばかりの生 活が強制されることになる場合さえある。その上に、学校で行なわれる健康診 断や予防注射なども受けられないために、少しのことがきっかけで簡単に死に 至る。このような意味で障害児にとっては、学校教育からしめだされるという ことは生きる権利力簿われているということでもあるといわれている。196 7年から1972年にかけて行なわれた福井市、鯖江市の不就学児の調査によ ると、在宅不就学児の死亡率は一般学齢児のそれの約66倍から550倍に達 していたことが明らかにされている(注1)。 しかし最近の十数年間にこのような障害児の実態が明らかにされまた教育 関係者等の実践と研究によって、十分な条件が整えられるならばどんな重い障 害児でも発達していくことが明らかにされるなかで、1960年代の終りごろ -60-から、「すべての障害児に教育を保障せよ」という要求と運動が革新自治体 下をはじめとする全国各地で急速に高まってきた。そしてこの運動の力が義務 教育制度施行後およそ10o年ののちに、ついに、冒頭にあげた政令をひきだ したのである。 しかし、これまで障害者から教育を受ける権利を奪うことによって生きる権 利をも奪ってきた政府・文部省は、この政令をだしたあとも、養護学校の設置 義務を自治体に負わせはしたがそのための十分な財源保障をしてこなかった。 自治体には過重の財政負担がかかり、地方財政危機の進行ともあいまって、養 護学校建設は十分に進まず、1979年度での完全就学は不可能だといわれる 状況が生みだされている。 このような全国的状況のなかで、沖縄の障害児教育はどのような問題をかか えているだろうか。沖縄は今、復帰後6年目を迎えようとしている。戦後27 年間にわたる米軍支配のもたらした様々なゆがみを解消し、「本土との格差」 を解消するために、政府の「沖縄振興開発計画」が実施されてきたが、この計 画期間のちょうど前半期が過ぎたところである。 障害児教育の分野でも、この計画の一環として、養護学校の建設を中心とす る障害児学校の整備計画が進行中である。しかしそれでも、沖縄においてもま た、1979年度時点での義務教育の完全実施は不可能な状況になっている。 ところが一般には、障害児学校の整備計画は順調に進んでいるといわれており、
その問題点の方にはあまり関心がむけられていない。まだ沖縄では障
害児教育に対する関心が弱く、そのために問題があるにもかかわらずそれが見 過ごされているように思われる。 1979年度まであと2年を残すだけとなった会障害児教育の問題点を明らかに することは緊急の課題となっている。そこで、ここでは、沖縄県における障害 児教育行財政の問題点を、とりあえず、順調に進んでいるといわれている「文 教施設整備計画」を中心にして、国の政策、県の政策、就学権保障運動の3者 の関係からとりあげて考察してみたい。 前文『との子らの生命輝く日』(河添邦俊o清水寛。藤本文朗著、新日本新書、1974 年)参照-61-第1節復帰前の沖縄の障害児教育における
2つの流れ
まず最初に、復帰前の沖縄の障害児教育の特徴をふまえて、日本への復帰が どういう意味をもっていたのかを明らかにしておこう。 沖縄で民立法による統一的な「教育基本法」「学校教育法」が制定されて盲 ・ろう学校が義務化されたのは、「本土」より10年遅れた1958年であっ た。その後、アメリカの沖縄支配政策の再編成のなかで、日本政府の経済「援 助」や行政指導等を通じて「特殊教育の振興政策」が導入されてくる。これは 1960年頃から「本土」でとられてきた政策で、国民の障害児教育に対する 要求の高まりに対して、障害者を経済の「高度成長」のための労働力の予備と して位置づける立場から対応した政策であった。したがってそれは、安あがり の行政ですむように、障害児を教育「効果」のあるものとないものとに選別し、 後者を切り捨てて前者に対してのみ教育措置をとるというものであった。 さらに教育内容においても、ある障害児については他人のじゃまにならないた めの身辺自立の能力がつけばよい、他の障害児については賃金労働者として雇 い主の役にたつ能力を身につけさせることを目標にするというように、子ども の能力についても一面的・固定的にとらえるという限界をもっていた。このよ うな方向での障害児教育の「拡充」が、沖縄においても1950年代の終りか ら1960年代にかけてすすめられていった。 しかし、米軍占領下という沖縄の特殊な条件は、このような「特殊教育の振 興政策」に対しても、「本土」におけるのとはちがった、より厳しい影響を及 ぼした。それは第一に、日米両政府の経済「援助」力小さかつたことと琉球政 府の財政力の弱さとから生ずる、教育の物質的諸条件の劣悪さである。たとえ ば復帰直前の1970年においても、「特殊学校」における生徒1人あたりの 公教育費を「本土」平均と比較するとわずか59%でしかなかった。(注1) 第2に、対米、対「本土」研修・交流も思想差別による渡航制限下で行なわ れたため、教育観から内容・方法までアメリカや日本政府。文部省などの影響 -62-が大きかったことである。「本土」研修は、当初はアメリカへの研修に対して 沖縄の教育関係者からでてきた要求でもあったが、思想差別のもとではそれも ゆがめられざるをえなかった。文部省の指定研修などで、出発時には組合が歓 送会を行ったが帰ってきたときには組合との関係は切られてしまっているとい う例も多く、教育活動家の中には民主的な立場を堅持するために、「研修には 絶対行かない」という形での抵抗さえもみられたといわれている。 第3に、以上のような状況の下で、本来公的な形で行なわれるべきである福 祉域南方同胞援護会などの半政府機関や民間の慈善団体・米軍の将校夫人ク ラブ等に依存し、そのために、障害児が慈恵思想に影響されて自らの要求を自 己規制せざるをえない状況におかれていたことである。 しかし、「特殊教育の振興」という形での障害児教育の「拡充」のなかから、 「復帰運動」をはじめとする民主主義的運動の発展と絡みながら、そして、本 土の民主的教育運動・研究者との交流の拡大に促進されて、障害児教育におけ る新しい流れが生まれつつあった。それは1967年に結成された高教組障害 児学校部等をはじめとする、「すべての障害児に教育を保障せよ」という要求 であり、障害者が人間として生きるために必要な発達を保障するための権利と して教育をとらえ実現していこうとする運動であった。 沖縄の日本復帰は、先にあげた軍事占領による障害児教育の発展の制約条件 をとり除く役割を一定程度果した。しかしまた復帰は、沖縄の社会と行政がよ くも悪くも日本の社会と行政の一環に組みこまれることであった。軍事占領下 で特殊な制約を受けていた沖縄の障害児教育にとって、復帰は政府の側からの 「特殊教育の振興政策」がより推進される条件を作るものでもあった。こうし て、復帰は、政府の「特殊教育の振興政策」と権利としての障害児教育の実現 をめざす要求と運動という、障害児教育の2つの流れが対立しつつ進行する新 しい場を形成したといえよう。 注1.『地方教育行財政調査報告書(第21回)』(沖縄県教育庁企画室、1976年 3月)20ページ。 注2本節と第3節に関して「民族基本権の侵害と障害児問題一戦後沖縄の障害児教司 (両角正子、『児童問題講座7』収録、ミネルヴテ書房、1975年)参照。
-63-第2節「振興開発計画」下の障害児学校整備計画
政府は沖縄の日本復帰にあたって、沖縄の自治体に対する財政対策として、 「振興開発計画」が実施される1972年から1981年までの10年間、国庫負担 金.補助金の負担率・補助率をひきあげる措置をとった。表1はそのなかから 教育関係の主なものをとりだして示したものである。 表1国の負担・補助の特例(教育関係) 資料、『総合事務局報』第1号(1973年4月15日)から。 また政府は、「教育振興事業」、「保健衛生等対策」、「農業振興」および 「公共事業」の4項目に関する予算を「振興開発事業」予算として沖縄開発庁 に一括計上し、この一括計上予算には他省庁計上の政府予算を上回る増大率で 予算をつけてきた(表2)。それとともに県の財政規模も年々増大してきたカミ そのなかで「特殊学校費」もまた急速に増大し、1970年度と比べると19 75年度では約8倍になっている(表3)。同じ比較を試みると決算総額では 2.6倍、教育費総額では33倍、土木費をとってみると41倍、民生費で3.1 倍となっている。また、全国の都道府県決算の平均値をとって1970年度と 1974年度の「特殊学校費」を比べると後者は前者の約32倍である(沖縄 の場合には約6.9倍)。いずれの面からみても、復帰後の沖縄県の「特殊学校 -64- 事業 国の負担 補助の割合 「本士」  ̄ 般 公立小中学校建物(校舎・屋内運動場) 特殊教育学校小中学部教室、寄宿舎、屋内運動場 公立小中学校一般教材(特殊学校も含む) 公立小中学校水泳プール 公立高校危険校舎、寄宿舎、屋内運動場 その他 9lm9lm 3’43’4 3’4 1’2 1’31l21l21l31l3
責」の財政支出の増大率は著しいといえる。 表2沖縄開発庁一括計上予算の推移(単位百万円) 1972 1973年 1974年: 1975年 1976年 37290 64067 79688 86137 94313 3000 2327 4090 4826 6385 42617 68157 84514 92523 35223 77840 68157 ■ 84514 92523 101480 丁975年度までは補正後予算、1976年度は当初予算。但し1972年度は106口 力月分。資料、『総合事務局報』第1号、12号、23号、36号。 表3沖縄県決算における特殊学校費の推移 復帰以前は沖縄の財政会計年度は7月1日~6月30日であった。そのため1972
年度は復帰前が1971年7月1日~1972年5月14日、復帰後が1972年5月
15日~1973年3月31日となった。通貨の換算は1971年度以前は1ドル= 360円、復帰前の1972年度は1ドル=308円として計算した。 資料、琉球政府、沖縄県決算書。 -65- 項目 年度 1972年 1973年 1974年: 1975年 1976年 L振興開発計画事業 37,290 64,067 79,688 86,137 94,313 ①公共事業 ②教育振興事業 ③ ④農業振興事業 9849 0808 9246 9J , 04 1 3 9937 6676 4154 ,, , 55 1 5 4858 9323 8414 ,9 9 97 1 6 73,910 9,744 653 1,830 79,956 11,605 685 2,067 2.開発金融公庫出資 3,000 0 0 0 0 3;開発庁行政経費そのHil 2,327 4,090 4,826 6,385 7,167 計 42,617 68,157 84,514 92,523 101,480 4.復帰対策費 35,223 再計 77,840 68,157 84,514 92,523 101,480 年度 額(百万円) 指数(1970-100) 1970年 1971年 1972年(復帰前) 1972年(復帰後) 1973年 1974年 1975年 6865502 7692104 2337392 , , 9 112 0333682 0346781 1112468このような財政支出の増大は一面では復帰前の水準がいかに低かったかを示 すものであるが、それだけに復帰後障害児学校の文教施設整備はある程度進ん できたといえる。復帰前の1971年度現在では盲・ろう学校各1校、養護学 校3校が設置されていたのが、1976年5月までに養護学校力噺たに2校増 設され、(表4)さらに1976年度予算で養護学校1校(1977年度開校 予定)、1977年度の国と県の予算案でろう学校1校(1978年度開校予 定)の建設費が計上されている。また障害者関係の福祉施設をみても、197 6年8月1日現在の施設の定員の約半数は復帰後増加したものである(表5)。 表4復帰前後の障害児学校設置状況の比較 1972年に新設された美咲養護学校が含まれているが、この時点ではまだ生徒数0 である。資料、1972年度、1976年度『学校一覧』。()は分校。 -66- 1972年5月1日 学校数 生徒数(人) 1976年5月1日 学校数 生徒数(人) 盲学校 ろ > つ 学校 養護学校 精神薄弱 肢体不自由 病虚弱 ※ 11③422③0 J j 83890980 0610651 12く513く j 11G532③0 j j 31088000 2410371 12く843く 計 ③6 (18) 880 1 37 ! (10) 1,172
表5障害者関係の福祉施設の設置状況についての復帰前後の比較 施設数 定員(人) 1224 11 684 23 注資料「社会福祉施設名潮(沖縄県生活福祉部1976年度)。 ところで、「振興開発計画」について、昨年秋に「計画」の「中期展望」を まとめた「沖縄振興開発計画審議会」はその展望の中で 「振興開発計画のハードな部分である公共施設の整備については、行政が 直接的に実施の手段をもっている分野であり、現在までのところ特別措置も 有効に機能している分野であると考えられる」 と述べている(注1)。また『琉球新報』も、「文教施設整備計画」は順調に 進んでおり、「昭和53年度で本土なみに達するメドがついた」と報道してい る(1977年1月28日)。障害児教育は順調に進んでいる分野の典型であるかのよ うにみえる。たしか(&この分野で復帰前と比べると急速に施設整備が進んでおり、 これが復帰後の大きな特徴のひとつである。しかし、へ障害児教育の分野に -67- 施設の種類 1971年12月 施設数 定員(人) 1976年8月 施設数 定員(人) 肢体不自由者更生施設 重度身体障害者更生援護施設 身体障害者援産施設 重度身体障害者援産施設 精神薄弱者更生施設 精神薄弱児施設 精ネ申薄弱児通園施設 肢体不自由児施設 肢体不自由児通園施設 重度 、 ノLj、 身障害児施設 肢体不自由者補装具製作所 点字図書館 111011311010 40 50 50 0 40 84 220 170 30 0 113143411121 4517485738 0000040000 1 2121 計 11 684 23 1,224
対象を限定してもう少し検討してみよう。 第1に、表6は1979年4月1日時点を目標とした県教育庁の「義務教育 年齢障害児の教育措置計画」である。これによると、計画どうり進んでも19 79年度で不就学児がなお57人残ることになっている。しかも就学者数の中 には訪問指導を受ける児童が含まれている力入これが1979年度で160人 に達している。教育庁ではこの訂問教育制度は一時的な措置として位置づけ、 1981年度には解消したいと述べているが、訪問指導が真に教育の保障とな りうるのかという議論が全国的になされている今日、1979年度時点での措 置計画自体が問題をもっているといえよう。 表6養護学校義務化時(54.4.1)における措置計画 資料、沖縄県教育庁 第2に、「県立学校編成整備計画」(1976年3月)の障害児教育の部分 をみると、1981年度までに養護学校6校、聴覚障害児学校1校の新設が計 画されている(表7)。しかし、この6校の養護学校のうちの半分の3校は 1980年度と1981年度の開校予定であり、1979年度にはまにあわな■ い。したがって1979年度時点での不足分を補うために、この計画では4つ の障害児関係の児童福祉施設内に分校を設置して障害児を措置し、それぞれの -68- 障害別 対象者数
護墓|鰯三
特殊学級 就学者数 訪問指導 実施者数 差引未 措置数 精神薄弱 肢体不自由 病弱 計 4,020 350 950 5,320 813 280 120 1,213 813 280 120 1,213 特殊3,050 普通70 特殊O 普通770 3,890 50 70 40 160 37 0 20 57表71976年3月現在の障害児学校新設計画 資料、沖縄県教育庁 地域の養護学校が開校された時点で、その分校を解消することになっている。 今、この「計画」にだされている数字をもとにして、1979年度時点で児童 福祉施設内に新設される養護学校の分校の小・中学部(1976年5月1日で は3分校に10人の障害児が在籍している)に在籍が予定される障害児の数を おおまかに計算してみると、それは少くとも精神薄弱児で268人、病弱児で 97人を下らない(注2,3)。 つまり、この計画は「昭和56年度における予想全国平均水準」を目標とす ると述べているように、目標達成期限を1979年度ではなく1981年度と している。がその内容は、1979年度には完全就学を達成し、その上で 「振興開発計画」の最終年次にむけて教育内容をより充実させていくというも のではなく、1979年度目標達成を延期してそこから生ずる施設整備の不足 -69- 学校名 場所 開校年度 開校時の学級・生徒数 名護養護 名護市 1976年 小学校12学級70人 中〃3〃20” 宮古養護 平良市 1977年 〃〃 53 41 〃〃 92 〃〃 小中 聴覚障害校 中頭 1978年 中〃26〃180 〃 八重山養護 石垣市 1979年 〃〃 00 44 〃〃 89 〃〃 小中 島尻養護 南風原村 1980年 幼稚部2 " 10 小学部15〃125 中学部11〃75 〃 〃 " 中頭養護 宜野湾市 1981年 幼稚部2〃10 小学部8〃40 中〃5〃30 高等部6〃40 〃 〃 〃 〃 病弱養護 中頭 1981年 小学部 ●● 8 。〃 60 ″ 中〃 5〃 40〃
を訪問指導や児童福祉施設内分校設置によって補おうとするものである。その 意味て1,1979年度養護学校義務制実施にむけて「すべての障害児に教育を 保障しよう」という“内容”の実現よりも数字をあわすことが先行していると いってよいだろう。しかもその上でもなお57名の完全な不就学者を残してい るのだから、数字の面からだけみてさえも県は1979年度完全就学の目標を 放棄しているのである。 しかし、現行「計画」の基礎になり、2年前の1974年3月にだされた 「計画(案)」では、新設養護学校5校、新設ろう学校1校をすべて1979 年度までに開校するという立場から計画がたてられていた(表8)。この基本 姿勢は、同年8月にだされた「沖縄振興開発計画県事業計画」のなかでも変っ ていない。現行計画で当初の計画が後向きに大きく修正されたのである。 表81974年3月現在での沖縄県の障害児学校新設計画 直場所 1978 1978年 1979年 八重山 1979 資料、沖縄県教育庁 以上、養護学校新設計画の後退について考察したが、ここでつけ加 えておかねばならないことは、新設校設置と比べて既設枚の整備がす すんでいないということである。そのために、既設校で新たに重度の 障害児をうけいれようとしても、設備の不備から非常に困難になっ
ている。また1976年5月1日現在の『公立学校施設一覧』から、
障害児学校の校舎と屋内運動場の必要面積に対する保有面積の比率をとりだし てみても、「表9」のように極めて不十分である。 -70- 学校名・種別 設置場所 開校年度 開校時の学級・生徒数 病弱養護学校 中頭 1976年 ノ」、学部8学級60人 中”5〃40 〃 精神薄弱児養護学校 島尻 1977年 21〃141 〃 ろ  ̄ つ 学校(風疹) 中頭 1978年 32〃232 〃 精ネ申薄弱養護学校 国頭 1978年 25〃160 〃 精神薄弱養護学校 宮古 1979年 26〃168 " 精神薄弱養護学校 八重山 1979年 16〃87 〃表91976年5月1日現在における障害児学校の施設充足率(%)
資料、『公立学校一覧』(1976年5月1日現在)最後に、障害児学校の生徒1人あたりの公教育費をみる、と、1970年から
1976年まで、52万円、62万円、78万円、124万円、180万円、
202万円、255万円と増大し、1975年では]970年の、約4倍になっ ている(物価上昇を考えると実質約2倍だが)。しかしこれを全国平均水準と比較すると、1974年で全国平均が247万
円に対して沖縄はその約73%にすぎない。沖縄がこの1974年の全国水準
に追いつくのは2年後の1976年であり、しかもそれでも、この2牛間の物
価上昇を考えると実質においてはまだ下回っている。 以上のことから、「振興開発計画」の進行下で、復帰前と比べると障害児教 育に対する財政支出が増大し、養護学校の新設もこれまでのところは現行の計 -71- 校舎 屋内運動場 寄宿舎 沖縄盲学校 小・・中 _▲--局 幼 79.2 713 0 0 0 107.9 88.9 沖縄ろ  ̄ つ 学校 小・中 _■-局 幼 920 35.9 125.0 74.6 0 107.0 716 美咲養護学校 小・中 _■-局 86.2 0 94.8 0 大平養護学校 小・中 高 96.5 58.8 42.0 0 119.4 57.2 那覇養護学校小・中 23.5 0 同分校小・中 29.3 0 鏡ケ丘養護学校 小。中■_ 局 55.6 52.6 43.1 0 202.2 62.7 同分校小・中 76.7 0 同分枝ノ|、・巾 39.0 0 名護養護学校小・中 54.7 0 150.2画に沿って進んでいるが、その目標を「振興開発計画」の最終年次をまたず 1979年度をめざしてすべての障害児に教育を保障するというところにおけ ば、この財政支出の増大と施設整備それ自体もまだ不十分であり、大きな問題 を含んでいるといわねばならない。
このような事態をもたらした原因の第1は沖縄県の財政力の弱さであり、そ
れに対して政府が十分な対策をとってこなかったということにある。沖縄の復 帰に際して、各方面から、自治体が自由に使いうる財源保障の必要性が強調さ れたが、政府はその対策をとらず、国庫負担・補助の率の特別措置をとったに とどまった。しかもその際、国。県道港湾、空港などの大型公共工事について は10割の国の負担・補助と定めたのに対し、教育関係では公立小中学校建物 で9/、その他はほぼ7.5/lqそして福祉施設整備についてはほとんどが 2/3~3/4と格差づけを行った(注4)。 さらに超過不担の問題を考慮すると、県支出金の比率はかなり大きくなる。 例えば1975年度の養護学校の施設整備費(美咲養護学校と名護養護学校関係)についてみると、総事業費3億1935万6千円に対し、国庫支出金は2
億1126万5千円であり、その比率は9/10ではなく2/3になっており、
「自主財源」がわずかに15.8%(1976年度歳入予算)という全国一財政 力の弱い沖縄県財政への圧迫要因となっている。すでに、農業基盤整備関係では、農林省の関係当局がもっと予算をとりたい意向をもっていても、県の対応
費の限界によって制限せざるをえない状況があるといわれている。この点では 地方自治体に財源を保障する問題の重要性が改めて強調されねばならない。 全国的課題となっている超過負担の解消とともに地方交付税の交付率のひきあ げの実現、および、沖縄の地理的・歴史的条件にふさわしい特別の措置の実現 一先程沖縄の財政調査に来沖した都留調査団による「特別都道府県制」(沖縄にのみ関係するものではないが)の提案などがだされている三また、県のレ
ベルでの財政運営の適正化(自動車税の未徴収額が復帰後年々増大し、1975年度決算で10億3714万円、課税額の255%に達していることなど)が
必要であろう。 しかしもうひとつの問題として自治体の行政姿勢の問題が無視できない。困 -72-難な財政事情のなかでも、-投下された多額の国家資金をより住民の利益に沿う 方向で執行するためにも、また現在の行財政制度による限界を明らかにしなが ら、住民の要求を掘りおこし運動の発展を促進し制度そのものの変革を実現す る力を育てていくためにも自治体の姿勢力埴要な意味を持っている。しかし、 障害児教育の分野における県の行政はそのような意味で積極的なものとはいえ
ず、そしてこのことが1979年度養護学校義務制実施時点での完全就学を困
難にしているもうひとつの要因であるように思われる。次節でその問題につい て考えてみよう。注1「復興開発計画の中期的展望のとりまとめ」(『自治沖縄』242号61977年
新年号)20ページ。注2「県立学校寝成整備計画」には、児童福祉施設内に設置される分校に籍を頤〈障害
児の数字はあげられていない。しかし、1976年8月以後に股.置される学校に
ついては1976年度時点での定員数が示されている(これをAとする)。
これに対して1976年3月以前に設置されている既設校については1976年度現
在の定員と1981年度の定員しか示されておらず.しかもこれら既設枝については
定員を減らすことによって学校規模の適正化をはかる計画になっているので、定員は大部分が減少することになっている。1979年度現在の既設校に在籍する障害児を
多く見積ってG1976年度と1981年度の大きい方の数字をとってこれをBとす
る。このA+Bには新設される児童福祉施設内分校に在籍する障害児は含まれていな
いが。表6の「措置計画」における「養護学校就学者数」はそれも含んだ数字である
から、これから“+B)を差し引いた数字を児童福祉施設内に新設された分校に籍
を置く1979年度時点での障害児数とした。肢体不自由児についてはこの数字がマ
イナスになったがこのことが児童福祉施設内分校に在籍する障害児がゼロであること を意味するわけではない。注3.しかし、この児童福祉施設内分校段丘計画は、1979年度設置予定のゆうな学園
をはじめとして計画どうり進んでいない。注4.福祉施設整備費については笹政府予算は開発庁一括計上ではなく厚生省計上とされ
ている。予算がどこに計上されるかというととそれ自体は技術的・形式的な問題であ
ろうが.開発庁F-括計上分の服興開発事業」予算と比べると予算の増大率に格差が
生じるという実質的なちがい弧生じている(表I)。また1974年8月の
-73-『県事業計画』に示された社会福祉施設整備の前半期目標(1972~1976年度) と実績(但し、1977年4月1日から定員増となるものも含めた)との比較を障害 者関係をとって試みると表Ⅱのとうりである。これノでみると、精神薄弱児施設か同通園 施設、肢体不自由者更生施設を除けば、当初の前半期目標を運しておらず問題である。 但し、同じ数値を、対「本土」平均、対九州平均で比較してみると沖縄の方が上回っ ているものもかなり現われており、この点を含めて検討を必要とするように思われる。 厚生省計上の「社会福祉施設整備費」と開発庁 計上の「振興開発事業費」の予算の推移の比較 (単位百万円) 表I 資料、『総合事務局報』 -74- 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 比 19761972 厚生省予算 ‐ つ ち社会福祉 施設整備費 開発庁賑興事業」予算  ̄ つ ち教育振輿 うち保健・衛生等 81144 組別拠躯如 調「4 1 7765 羽Ⅱ妬別 弱5 1 5 7 3 1,526 71, 955 830 6,624 521 2,119 623 77,033 9,509 659 8535 羽朗剖帥 、9 2 41 91 5 8 6 組乃帥閉刀 11221
(鍋橿揮蝿仙弾箪駆紳脚酸)繍橿鋼e魅血悪升温「画布蝦遜圏蝋」・自脚 -75- (畔虐s)瀞濁契約 P咽,偶 遥三巨涙一丑HH涙 マ園。「 つ0つのト ”滝② つ。[》【 『、、国 .m函、「 、ご』 、。@『『 ⑩.・囚『 『②、函 ○ つ つ 。b① 、.』ぬ ①、園司[ 寸岸[函 ⑰。国①【 、。□つ[ 》。⑩@m の函司[ 』.の①[ の、トの CCm「 つどC「 C C C 」0mm 国。画□ (S『×ご\囚) 鵠掻鋼 C ①.CC[ 【。、国 ○・○m つ.○○[ 中◇ぬ叩 C C ○ 国。』① CoC」 や・ぬの ①寸因 つ。◎C「 ◎。つ@ つロ⑭ 。 ③守の 》.の国 、因め「 (唄卜)輕脈遡叶①トヨ 咽般国一類 ずっ・・・・・・・・・・● L○Cコピー[-CVっ鄙司ぱっ[~【●IDL。u〕 CqCY〕=戸叫R Cq ※ 【 『 く寸囚※※ く」 [※ 【 『 、 [ [ { 山 の 懸回遡叶@」①[ 皿唄『一輔 << CqCq・・●●● ̄・・・・●OOCJ・・・・● 。、00●。U。●LP■印CY9ODCCYDt-U。L○マLC旬●。、 閂(VつCu門戸CqC.□う 雛、麹叶[の⑤[ 皿順一瓢總橿 国つめ 。①[ 。①の ◎『口 ○m[ ◎① つ、 ◎Cぶ ○○[ ①『 つ⑪[ C@ Cm{ mmm m」 ○m ◎の つぐ つの Cい 墳画臼 搾劃◎昌 つ山国 CO →cqu。~門戸戸司cq百m司胄cq司戸戸司司司<く 、P CV。uつ 總橿鯛蝋珊賦紳馳蝕牡輸遡鰄 綴橿虫掲心幻獅 (鵠繍鯛)鍋壇釧凪御掲いぬ 鍋橿圏潤堅瞬徽鮮漣 皿型柵幽踊紳螂叱還一鐘錨 嘔型柵幽踊虫脚酸輔ロ ー砧八鼎圏鯛鴎帥酸輔・ 鯛糧繍鰻撫舶酸辻疎 縄壇虫哨題血 鍋漫虫瞬圏 鍋穏磯恕露騏虫脚赴蕊延 縄漫虫慨禦郷塩遡陣剣 鍋橿星脚酸輌ロ《唄綱 鍋橿側鞠紳獅酸赴轍遡綱 總漫倒塑珊賦榊馳赴巷輌倒綱 縄穏制瓢撫馳酸赴輌 顯穏矧剛押田皿侍牡坦 縄橿国潤虫田皿時牡坦 縄壇堅田皿儂赴一翼 腿繍鯛榊瞬蝕拝鱈 鎚橿倒鄭榊瞬鍵樺鱒遡綱 縄.壇側鞠撫瞬徽樺襲 顯穏釧凪御瞬徽拝鱈囲綱 弱穏珊凪榊瞬域緯鍵 鵜漫四隅蝕稗露囲倒 總橿里瞬鍵稗
LL
*1976年度で予算がついたが1977年2月に工事発注で翌年度くり趣事業と
きれる。J **1975年度の数字である。資料、県生活福祉部総務課および障害課資料、『沖縄県硴祉1976年』.『社会
福祉施設名簿(1976年)』(ともに県生活福祉部) -76-第3節県の障害児教育行政の問題点
冒頭で述べたように、文部省は1979年度養護学校義務制実施を定めた政 令をだしたあとも、これまでの障害児教育行政の基本を変えていない。一方では自治体 に対して十分な財源保障を行なわず〈他方では自治体が安あがりの行政を行おうとする ことを奨励指導している。以頂文部省の奨励・指導のもとで全国的に行わオTている安 あがりの行政の様々な方法との関連で、県の障害児教育行政を概観してみよう。 まず第1に、沖縄においては国庫負担・補助の特例という形で国の財政負担 が行なわれているという特殊な条件がある。しかし、これもよくみると「対応 費」の不足という制限によって限界づけられており十分な措置とはいえない。 そして施設整備は順調に進んでいるといわれているかLその中身は1979年 度に障害児の完全就学を実現するに足るものとはとうていいえない。これらの 点については第2節でみてきたとうりである。 第2に、教育諸条件の不備を前提にして、訪問教師制度によって、教育保障 の実質は伴なわなくても学籍だけは形式的に与えて「教育保障」をしたものと みなす方法が拡大されつつある。教師が訪問指導する時間は、多くの場合1 週間に1~2回数時間程度にすぎず、対象児は1週間のほとんどの時間を1人 で放置されたままの状態にとどめられている。 教育から全くしめだされていた子どもたちに対して訪問指導を行うこと自体は ひとつの前進ではあるが、子どもに対しては生徒集団および系統的な教育内容、 十分な設備と教材を保障せず、訪問教師に対しては身分保障、日常的な研修と 教師集団を保障しないという二重に安あがりの訪問指導にたよって「教育措置」 をしたとみなすのは行政の怠'慢の合理化でしかない。沖縄県の場合にも、「障 害児の教育措置計画」は訪問指導制度に大きくたよっていることも先にみたと おりである。第3に、独自の養護学校を作らないで、既存の国公立病院・医療施設あるい
は『児童福祉法』にもとづく各種の障害児の社会福祉収容施設の一部分を削り とって養護学校を新設したりすることで安あがりにすませろという方法が進め られているd沖縄県も「それぞれの地域の養護学校力穀置されるまでのあいだ」 -77-との位置づけのもとに福祉施設内分校の設置を計画しており、この点について も多くの問題がある。 第4に文部省は、1979年度に養護学校の義務制が実施されたとしてもな お「就学猶予・免除」の措置を「子どもの生命を守るために」という口実で存 続させる意向である。この点についても県は、「まず医療が必要で教育をおし つけることはできない児童が残る」という立場から、1979年4月1日時点 で57名の不就学児を残した「教育措置計画」をたてている。しかし、日 教組などを中心にして、すべての障害児に教育を保障するという見地から、 「療育=教育的配慮をした医療」という新しい教育分野の研究と実践に真剣な とりくみが進められている会重度の障害児を医療優先という理由で教育の対象 外として捨てさるのは養護学校義務制実施を形骸化するものである(注1)。 以上みてきたことから、県の障害児教育行政は、すべての障害児に十分な教 育保障を行うという点からみると多くの問題点を含んでいるといえる。これら の問題はいずれも少<ない財政支出を必要とするものであり、それだけに政府
文部省に対する要求と運動のもつ意味が大きいといえる。これに対して県13勺
障害児教育に対する県民の要求を掘り起こし運動を促進させることによって地 方自治を拡大する方向で問題の解決の方向を示し、その運動の一翼を担うこと ができよう。そしてそれが革新県政の目指すべき方向でもあろう。しかし、現 在、県の姿勢はこの点で消極的であるように思われる。 この点について、以下2つの問題をとりあげて考えてみよう。第1は「適正就学指導委員会」の問題である。1976年2月現在、この委
員会が県と全市(10市)および県下43町村のうち8町村に設置されている。障害児の就学を保障するためには、まず障害児の実態を正確に把握し、障害の
軽減・克服に必要な就学形態を科学的に判断し、必要な教育諸条件の整備を進
めながらも、就学をひきのばすのではなく、現在ある条件のもとでも最も適切 な形態での就学を指導し保障することが重要である。このような機能を果すも のとして「適正就学指導委員会」が積極的に活動することが期待されている。 しかし、沖縄県下の委員会はほとんどこのような機能を果していない。その仕事の内容は、教育条件の整備を進めつつ就学を保障するということではなく就
-78-学形態の判定作業中心になっており、また「就学猶予・免除」の措置をとるこ
とがひとつの措置として肯定されてさえいる。判定作業も申請のあったものに
限られており、しかもそのなかのかなりの部分カヘ障害児ではなく、普通学級
でふり落された子どもの特殊学級への入学申請であるといわれている。委員は
非常勤で、年間数回会議を開くにとどまっていたり、あるいは実際に機能して
いない委員会もあるといわれる。こうした多くの問題点を現在の沖縄の「適正
就学指導委員会」はかかえており、県の指導不足が指摘されている(注2)
第2は実態把握の問題である。障害児教育においては学校に子どもをあわせ
て子どもを選別するのではなく、子どもにあわせた学校を作ることが、とく
に必要であることを、各地の就学権保障の運動が示してきているが、そのため
にはまず障害児の実態を具体的に把握していなければならない。しかし沖縄で
は、復帰後5年をすぎた今日でも、正確な実態調査は行なわれていない。
「県立学校施設整備計画(1976年3月)」の基礎資料となっているのは、
文部省が1967年度に行なった全国調査(沖縄は調査対象に含まれていない)
の障害児別出現率から計算によって割りだしたものである(この計算にもとづ
いて、1975年現在で4,259人の義務教育年令不就学児がいるといわれて いる)。 これまで県の行った調査は、各市町村の教育委員会が把握した数字を集計したものにとどまっている。それによれば、1975年7月1日現在、不就学児
数は495人といわれているが、実際に不就学児が住んでいるのに0人と報告した
村教育委員会もあるといわれ実態のごく一部分しか反映されていない(注3,4)。
1976年5月、名護養護学校が開校した。「振興開発計画」にもとづく養 護学校新設の第1号である。しかし名護養護学校の開校にあたっていくつかの 問題点が現れた。第1の問題点は、開校に際して、設備の不備および寮母の定数が少いという
ことで重度の精神薄弱児や重複障害児が受けいれられないという事態が生じた ことである。 第2の問題点は寄宿舎の宿泊室が狭く、寄宿生は寝るだけがやっとで着がえ -79-の置き場もないといわれるような状態に詰めこまれることになったということ である。押しいれを除けば約15㎡のところに4~5人が入って、それでも6
部屋で合計28人の収容能力である。既設の学校では宿泊室が大部屋であり、
生徒定数をふやすことによって寮母定数をふやすという融通性もあったがそれ
も不可能だということで重度、重複児のしめだしの原因ともなっている。 これは基本的には寄宿舎の基準面積自体が低いことに問題があるといえようが、一面.では食堂兼プレイルームを広くとったという設計の結果でもある。
このことをはじめとして名護養護学校は、1973年に、国立特殊教育総合研究所が行う重度の障害児の教育の研究に協力する目的で設立された国立久里浜
養護学校の設計を基礎にして設計されたといわれているがこの後者は従来の学
校とは違った様々な試みを設計にも導入している。第3の問題ととして、ここでとりあえず指摘されうることはこうした試みの沖縄
への適用力え行政の側から一方的に行なわれ現場の教育関係者等の専門家や 障害者の父母との話しあいのなかで、障害児にあわせた学校をどう作っていく かという議論を煮つめていくという過程を経て行なわれたものではなかったと いう問題である。 しかしここにはもうひとつの問題点が含まれている。それは父母の会、教育関係者の運動の側の問題である。養護学校建設をめざして父母の会の運動が進
められてきたけれども、そこではまだ、どのような学校を作るのかということ を問題にするには至らなかった。それは専問家・教育関係者の協力を必要とす る問題である。そしてこの父母の会の運動の限界ともなった最も大きい問題点は、高教組障害児学校部カミ名護養護学校建設に関して具体的なとりくみを何
もなしえなかったことである。同部は、1974年3月にだされた「県立学校
編成整備計画案」に関して県教育庁と交渉をもって様々な批判・提案を行なっ
たが、それ以後、これらの課題で具体的なとりくみを行っておらず、1976
年3月にだされた計画についても、それが大きな修正=後退の内容を含んでい るにもかかわらず、組織的な意見表明もまだ行っていない。県の障害児教育行政の不十分さは、このような、運動の側の不十分性.たち遅れの反映でもある
といえるのではないだろうか。 -80-しかし、復帰後の5年間は、多くの障害児、父母、教育関係者をあらたに教 育の現場になげいれている。そこには様々な困難と矛盾があるが、同時にそれ は新しい要求と運動を生みだすものでもある。この要求と運動の発展こそ県の 行政姿勢の不十分さを克服し、「振興開発計画」を真に障害者のためのものに、・ 県民本位のものに変えていく力である。復帰後、父母の会の組織も広がりつつ あるなかで、そして1977年度宮古養護学校、1978年度中頭ろう学校と 新設校の開校が予定されているなかで、高教組、沖教組かく全障研沖縄支部等 の民間教育団体との対等平等の連携のもとに、新たに発展していくことを期待 して積を終える。 注1最近の文部省と自治体の政策の特徴については「養護学校義務制実施と学校設置の 、現状について」(河添邦俊、『障害者問題研究会』第6号、1976年4月)を参考 にした。 注2.政府は「養護学校教育義務制等準備費補助」という項目で「就学指導委員会設置運 営費」の補助を1974年度から、都道府県および市町村に対してだしているがその 額は極めて低い。都道府県対象の場合、「判定および就学指導に係る事業」で補助対 象の最高限度額は35万円(1都道府県あたり)であり補助率は1/2である(19 76年度)。ここでも国の低文教政策がみられるのだ力唄の方にも問題がある。例え ば上記事業のほかに「教育相談の事業並びに特殊教育の啓発のための講演会及び映画 会の事業」に対して78万4千円を最高限度としてその1/2の補助がだされること になっている。しかし沖縄県の場合1976年度予算で18万2千円計上、国庫補助 は9.1万円にすぎなかった。その理由は教育庁における人員不足で予算執行のメドが 態いということだといわれているが、こうしたことは沖縄県における障害児教育振興 政策が.-見して目だつ学校建設などを別とすれば低い位置づけしかなされていない のではないかという疑問,をいだかせる。 注3.『学校いちゆん、勉強すん』(全障研沖縄支部、1975年)P、32 注4.教育庁では、これまでの調査の不十分さから、1977年度に800万円の予算で 沖縄市.名護市、知念村を対象に実態調査を行う意向であった力唄予算案ではゼロ査 定になっている。, 付記 本稿をまとめるにあたって、大平養護学校の砂川嘉瀧大城正大両教諭、県教育庁学校 指導課の金城順亮主戦筆者の妻るり子等の諸氏に貴重な意見や資料をいただいたことを 記して感謝したい。 -81-