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カトリン・シュミット『きみは死なない』第一章「瞬く間に、あるいは」

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Academic year: 2021

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︻翻

カトリン・シュミット﹃きみは死なない﹄

第一章

  ﹁瞬く間に、あるいは﹂

寄川

 

真弓

ド イ ツ の 作 家 カ ト リ ン・ シ ュ ミ ッ ト︵ Kathrin Schmidt, 1958︲ ︶ が 二 〇 〇 九 年 に 出 版 し た 小 説﹃ き み は 死 な な い︵ Du stirbst nic ht ︶﹄ か ら、 第 一 章﹁ 瞬 く 間 に、 あ る い は︵ W impernschläge oder in the Twinkling of an Eye ︶﹂を訳出した。 こ の 小 説 は、 脳 血 で 倒 れ た 四 十 代 半 ば の 女 性 を 主 人 公 に、 彼 女 の 病 気 が 快 復 し て い く 過 程 を、 さ ま ざ ま な エ ピ ソ ー ド を 交 え な が ら 描 い た も の で あ る。 シ ュ ミ ッ ト 自 身 が く も 膜 下 出 血 で 倒 れ て お り、 そ の 体 験 を も とに書かれたため、とくに病院内の描写はリアルで生々しいところもある。 訳 出 し た 第 一 章 は、 集 中 治 療 室 に 眠 る 主 人 公 の 朦 朧 と し た 意 識 か ら 始 ま る。 現 実 と 幻 覚 が 交 錯 す る 彼 女 の 意 識 や、 記 憶 喪 失、 失 語 症、 半 身 不 随 な ど の 病 状 が、 と き に ユ ー モ ア を 交 え な が ら 描 か れ て い る。 集 中 治 療 室 に い た の は 三 週 間 だ が、 主 人 公 に と っ て は ご く 短 い 間 の こ と に 感 じ ら れ、 そ れ が﹁ 瞬 く 間 に ﹂ と い う 副 題 となる。 な お、 ﹃ き み は 死 な な い ﹄ は 二 〇 〇 九 年 に ド イ ツ 書 籍 賞 を 受 賞 し て い る。 ノ ー ベ ル 文 学 賞 に 輝 い た ヘ ル タ・ ミュラーの作品を抑えて選ばれたため、当時話題となった。 キーワード 現代文学   翻訳   闘病記   発展小説   ドイツ書籍賞 * ­ よりかわ   まゆみ ­ 文教大学文学部外国語学科・非常勤講師

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彼女の周りでカチャカチャ音がする。 妹が結婚したときに、母はブリキ製のボウルにアル ミ箔をしいて、その上に銀のカトラリーをのせた。そ れから熱い塩水を注いだ。 しばらくして、 きれいになっ たカトラリーをボウルから取り出し、乾かした。同じ ようにカチャカチャ音がしたのだった。いったい誰が 結 婚 す る の か?   彼 女 は 目 を 開 け よ う と す る。 失 敗。 目を開けようとしているだけなのに。それだけで十分 だ。 それにしてもはっきりと母の声が聞こえる。 ああ、 やっぱりカトラリーだ!   母は何て言っているのか? ﹁ 右 の 手 は 本 当 に 左 よ り ず っ と 冷 た い わ、 右 の 足 も 同じよ﹂と母は言う。 どうして母は冷たい右手なのだろうか、と彼女は不 思議に思う。 自分で両足の体温を計るのを想像すると、 彼女は口元がほころんでしまう。 ﹁笑っているわ﹂と母が言う。 ﹁ただ顔を歪めているだけだ﹂ 父が言ったのか?   もちろん、疑いもなく彼女の父 親の声だった。今こそ彼女は目を開けたいのだ。両親 の こ の 台 所 で、 彼 女 は 何 を 探 さ な け れ ば な ら な い の か?   そ こ で は カ ト ラ リ ー が カ チ ャ カ チ ャ 音 を 立 て、 手や足の体温が調べられ、彼女は目を開けることがで きない。 ◆◆◆ ﹁ ま あ、 ど こ か ら 来 た の?   ロ ン ド ン か ら?︵ O,

where do you come from? From London?

︶﹂ 彼女は自分の娘に話しかけた。彼女が言ったのか?   片目を開けることができる。彼女はやってみる。その 女 の 子 は 十 四 歳 で、 今 日 語 学 研 修 旅 行 で イ ギ リ ス へ 行 っ た。 ど う し て 娘 は も う こ こ に 戻 っ て い る の だ ろ う?   彼女はうめく。何らかの理由があって、彼女は うめく。娘を励ますつもりで、そのつもりで英語を話 そうとしたのだった。嬉しそうにしていることは何の 役にも立たないようだ。女の子は悲痛な面持ちだ。何 が悲しいのか?   誰に尋ねたらいいのだろうか?   視 線 が 泳 ぐ。 そ こ だ!   娘 の 横 に 夫 が 立 っ て い る。 ﹁ 私 の 夫︵ My husband ︶﹂ と 彼 女 は 言 う。 そ れ を 笑 っ て く れたらいいのに⋮⋮。 何も言ってくれない。 少なくともその男は微笑んでいる。彼をじっと見れ ば見るほど、その微笑が珍しいものに見えてくる。頬 骨の間で、まるで塩漬けキュウリのように、その微笑 は杭で固定されてぶら下がっている。 ﹁塩漬けキュウリ︵ Salt cucumber ︶﹂と彼女は言う。 そんな英語がそもそもあるのだろうか? ◆◆◆ ﹁⋮⋮一九七二年十二月三日生まれ、 ヒュッケルホー フェンに住んでいて⋮⋮﹂ 待て!   それは彼女じゃない!   どうして言いたい ように、大きな声を出してそう言えないのか?   こん ちくしょう、できるはずなのに!   ﹁ さ あ ち ょ っ と 落 ち 着 い て く だ さ い、 わ た し た ち は すぐにあなたのところへ行きますから﹂ 誰 が 言 っ た の か?   そ こ に い る 若 い 男?   で き る、 両目を一度に開けられる、と彼女は思う。それは少し 難しくて、何かがまぶたの上に乗っているような気が する。若い男は微笑むが、それで彼女が落ち着くこと はない。 そ れ は 彼 女 で は な い ん だ っ て ば!   十 四 歳 年 上 で、 ヒュッケルホーフェンには住んでいない。 ﹁わたし⋮⋮ではない。わたし⋮⋮ではない ︵ I don ʼt ⋮ I don ʼt ⋮︶ ﹂ どうして文が続かないのか?   そのときその若い男 が青い外衣を着た男たちに、ときおり意識が戻って以 来、ほとんど彼女は英語でしゃべろうとしているよう だ、 と 言 う。 男 た ち は 笑 う。 彼 女 は 女 の ひ と を 探 す。 男たちの後ろに一人の女が立っているが、何かで忙し そうである。 男たちの一人が彼女の上に身をかがめる。 ﹁私の言うことが聞こえますか?﹂ 聞こえるかどうか、彼女は応えやしないだろう。 かまわず大声でわめき続ければいいよ。 目を閉じる。 ◆◆◆ その声を彼女は知っている。それはインガだ。イン ガ は 誰 か を 連 れ て き た よ う だ。 ﹁ 遠 慮 な く お 入 り く だ さい!﹂と低い声がでて、物が落ちるようなガラガラ 声が続き、そのあとに薄笑いが浮かぶ。なぜ彼女は目

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少なくともその男は微笑んでいる。彼をじっと見れ ば見るほど、その微笑が珍しいものに見えてくる。頬 骨の間で、まるで塩漬けキュウリのように、その微笑 は杭で固定されてぶら下がっている。 ﹁塩漬けキュウリ︵ Salt cucumber ︶﹂と彼女は言う。 そんな英語がそもそもあるのだろうか? ◆◆◆ ﹁⋮⋮一九七二年十二月三日生まれ、 ヒュッケルホー フェンに住んでいて⋮⋮﹂ 待て!   それは彼女じゃない!   どうして言いたい ように、大きな声を出してそう言えないのか?   こん ちくしょう、できるはずなのに!   ﹁ さ あ ち ょ っ と 落 ち 着 い て く だ さ い、 わ た し た ち は すぐにあなたのところへ行きますから﹂ 誰 が 言 っ た の か?   そ こ に い る 若 い 男?   で き る、 両目を一度に開けられる、と彼女は思う。それは少し 難しくて、何かがまぶたの上に乗っているような気が する。若い男は微笑むが、それで彼女が落ち着くこと はない。 そ れ は 彼 女 で は な い ん だ っ て ば!   十 四 歳 年 上 で、 ヒュッケルホーフェンには住んでいない。 ﹁わたし⋮⋮ではない。わたし⋮⋮ではない ︵ I don ʼt ⋮ I don ʼt ⋮︶ ﹂ どうして文が続かないのか?   そのときその若い男 が青い外衣を着た男たちに、ときおり意識が戻って以 来、ほとんど彼女は英語でしゃべろうとしているよう だ、 と 言 う。 男 た ち は 笑 う。 彼 女 は 女 の ひ と を 探 す。 男たちの後ろに一人の女が立っているが、何かで忙し そうである。 男たちの一人が彼女の上に身をかがめる。 ﹁私の言うことが聞こえますか?﹂ 聞こえるかどうか、彼女は応えやしないだろう。 かまわず大声でわめき続ければいいよ。 目を閉じる。 ◆◆◆ その声を彼女は知っている。それはインガだ。イン ガ は 誰 か を 連 れ て き た よ う だ。 ﹁ 遠 慮 な く お 入 り く だ さい!﹂と低い声がでて、物が落ちるようなガラガラ 声が続き、そのあとに薄笑いが浮かぶ。なぜ彼女は目

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を開けることさえできないのか!   そこで何が起きて いるか、つじつまを合わせなければ。友人のインガは 彼女を見舞うつもりだった、頑張って中に入ろうとし たのだが、ドアの向こうには深い落とし穴があるにち がいない。インガたちは中に落ちていった。彼女は動 揺 し て く る。 本 当 に 横 た わ っ て い る の か?   な ぜ?   腕、足、頭を持ち上げようとするができない。それが 自分をもっと不安にさせているのだと気づく。友人に 何が起こったのか、友人の声を彼女は正確に聞き取っ たのだろうか?   ああ、やっぱりまただ、彼女はもち ろん落ち着かなくなる。穴からい出るのは確かに簡 単なことではないよね?   ﹁遠慮なくお入りください﹂ と低い声がでる。 し ば ら く し て か ら、 や っ ぱ り 彼 女 は 驚 い て し ま う。 インガはいったいどこにいるのだろう?   インガはま た穴に落ちてしまったわけではないよね? ◆◆◆ 彼 女 は 進 む。 ま る で 小 さ な ヘ ー ヴ ェ ル マ ン ︵ 注 一 ︶ の ように彼女は現れる。小さなヘーヴェルフラウ。それ はすてきだ。いつもそんな風に進んで行けたら。明か りだけがまぶしく照らしている。近くから照らす月が こんなに明るいのを、本当は知っているべきだったの に。でもそんなこと、 これまでに一度も考えなかった。 彼女は進む。 彼女は進む!   また片目だけ開けられる。 何て運がいい、 女の人よ!   そ の 人 は 微 笑 ん で い て、 彼 女 と 並 ん で 進 ん で い く よ うだ。その上半身は彼女とは対照的にまっすぐ立って いる。彼女はその人に、あなたも横になってごらんな さい、こんな風に走るのはすてきよ、と言いたい。彼 女は口の中に何かを入れている。口を閉じることが全 くできない。口の中に何が挟まっているのか、その女 性に聞きたいが、その人は彼女の腕を取り、管にはめ る。ネットワークで他人に制御されるのか?   どうし よう、 不安だ。彼女は抵抗したいのだが、 目は閉じる。 ◆◆◆ 頭蓋骨がはずされる。慎重にロボットが赤い血の色 をした肉片を取り除く。そこは埋め合わせなければな

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らない。そこでロボットがとてもきれいな、ライトブ ルーの石片を挿入しようとする。その石はいったい何 という名前だったか?   彼女には思い浮かばないだろ う。彼女の娘がそんな石片を持っていたが、色がつけ られているから、それは偽造品だと言っていた。なる ほど、それならここにあるのはちょっと違うのかもし れない。ロボットは彼女の頭に偽造品を詰め込もうと はしないだろう!   その石片が中に入ると、また暗く なる、それまでは不快なほど明るかったのに。つかの 間の薄暗さ。そのとき彼女は、薄くて、長くて、可動 式のプラスティックの管が、まだ自分の上にあるのを 見る。その管はどこまでのびて、どこからくるのか?   頭を動かせないのは残念だ、彼女はその管を目で追う ことすらできない。黒ずんで、赤茶色の液体がその中 を流れていく、グルグル音をたててしたたり落ちる。 ◆◆◆ 少しまえから、大声を出して、若い女が彼女の周り で忙しく作業している。その女は途切れることなく話 し て い る。 誰 と そ ん な に た く さ ん 話 し て い る の か?   ここにはまだほかに誰かいるのか?   でも彼女は頭を 動かせやしない、そのとおりだ⋮⋮。さあもう本当に 目を開けなければ、だって何かが変わっているのだか ら。彼女は起こされ、持ち上げられ、座らされる。気 分が悪くなる。そのとき彼女は何かとても変なものを 食べさせられたにちがいない。 そ の 女 の ま く し 立 て る 言 葉 が だ ん だ ん 近 づ い て く る 。 ﹁ ⋮⋮ 聞 こ え ま す か、 ヘ レ ー ネ?   そ う ね、 何 か 話 すのは難しいわよね?   いずれにせよ、あなたをとき どき立たせる練習をもうすぐ始めなくちゃならないの よ。 これは今日最初の練習だったの、 聞いていますか?   聞いていますか?   聞いていると思うけど⋮⋮﹂ それは彼女に向かって話されていたのか?   わから ない。眠たい。へとへとだ。 彼 女 は 自 分 が ヘ レ ー ネ と い う 名 前 な の を 奇 妙 に 思 う 。 ◆◆◆ そこにいる男は手に何を握っているのか?   彼女の ペースメーカーのように見える。実際に、彼はペース ペーカーを彼女の鼻先に突きつけて、それをようやく

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見つけて取り出したのだと言う。いったいどうしてあ いつらはペースメーカーを取り除くのだろうか?   彼 女がその問いを発することはない。その男はおもしろ がり、ほくそ笑む。彼はそれを手に持っている、彼女 の鼓動を。彼女は抵抗しないといけない、せめて眠り 込まないようにと。絶対に夜は暖房がつけられる、そ う、 昨夜は、 もうあまりにも熱くて、 火事なのかと思っ た。だから彼らはペースメーカーを取り出したのに決 まっている、 なぜなら彼女はただ一人まだ生きていて、 彼らはそれを驚いていたのだから!   ペースメーカーをつけている人というのは、身体は もう死んでいたとしても、その心臓はドクドクと鼓動 する。とても愛想よく、ここにいる人たちはみな、お まえに微笑みかける、ここにいるのは殺人者の集まり で、ほかの全ての人と同じように、彼らはおまえを殺 すつもりでいる、そのことはなんとしても夫に言わな くては。 夜になるまえには来てくれるといいけど。 いっ たい全体彼女はどこにいるのか?   本当にずいぶん長 い間、もう両目を開けたままでいるが、自分がどこに いるのかなんて、彼女は分かろうともしない。 ◆◆◆ ま た 彼 女 の 両 親 が そ こ に い る!   起 き 上 が り た い、 誰が結婚したのか聞きたい。どうしてあなたの右の手 は冷たいの、お母さん。だめだ。起き上がれないし尋 ねることもできない。 集中してみる。 口は結んでいる。目は開いている。 本当だ、両親だ。父親は、彼女の妹がスケートボー ドでガイセンベルクを滑り降りていったその当時と同 じ よ う に み え る。 あ れ か ら ど の く ら い 経 つ の だ ろ う。 計算する。今は二〇〇二年なのか?   妹は一九六一年 生まれで、 スケボーツアーのときは六歳くらいだった。 だから一九六七年。三十五年経っている。そんなに長 く!   父がどんな風に見えたか、どうして彼女は覚え ているのか?   お父さん、悲しまないで、と彼女はそ の当時ささやき、父は彼女を抱いて、医者が彼らのと ころに、家に帰すよう妹を連れて戻ってきたとき、喜 びのあまり涙を流した。いいえ、彼らは妹を病院に入 院させたくなかったのだ。

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病 院 の な か に?   彼 女 が 滞 在 し て い る こ の 建 物 も ひょっとして⋮⋮。 母親の声に遮られる。母は隣にいる女性に、娘がい つまた食べられるようになるのか聞いている。 典型的、 母はいつも食事のことを気にしている。彼女はぜんぜ んお腹が空いていないのに。 ﹁ ま だ か か り ま す。 さ し あ た り、 ゾ ン デ で 栄 養 は 与 えられます、おわかりですね﹂とその女性は言う。 ゾンデでね、わかるわよ。満足して彼女は目を閉じ る。 ◆◆◆ 左に若い男が、右にも若い男がいて、彼女をじっと 見ていている。彼らのことは知っているような気がす るが、彼女はその顔をまともに見ようとしない。 まあね、 本当は彼らが誰なのか知りたいのだけれど。 彼 ら は、 彼 女 の 頭 を は さ ん で、 静 か に 談 笑 し て い る。 彼 女 は 考 え る。 左 に 立 っ て い る 若 者 に お 願 い し た い、 ⋮⋮をもう少し奥に引っ張ってと、そうすればそれが もっと腰にぴったりとあたるのだけど、そのいまいま しい単語が見つからない、それはいったい何というの だろう?   彼女は若者たちに、その二人に、合図を送 る、自分がして欲しいことを、つまり⋮⋮を少し奥に 引っ張ってほしいのだと。彼らにはそれが分からない ようだ。 そもそも何を使って二人に合図を送ったのか?   手 を 使 っ て?   左 の 手 は し っ か り 管 で 止 め ら れ て い る。 彼女はネットワークかなんかにまだ繋がっていて、い まだに遠隔操作をされているのか?   右手で不安を伝 えたいのだが、右手はただそこにあるだけで、動かせ ない。奇妙だ。どうして彼女は手を動かせないのか?   きっとネットワークを使ってあいつらが動きを全部コ ントロールしているのだ。 それで若者たちは?   そのネットワークに関係して い る の か?   彼 女 は 若 者 た ち を も っ と 厳 密 に 眺 め る。 安。知っているよ。それは息子たちだ。名前は思い 出 せ な い が、 そ れ は 今 問 題 で は な い。 彼 女 は 信 じ て、 笑う。息子たち!   どうしてもっと早く二人をよく見 なかったのか?   そうしたらもっと長く喜んでいられ たのに!   彼らのうちの一人は大学生だ。いったいど

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こ で 勉 強 し て い る の か?   ワ イ マ ー ル だ。 オ ー ボ エ。 そうだ、オーボエだ。オーボエの息子は彼女の鼻のま えにCDをかざしている。自分で録音したもので、何 かその上に書いてあるが、 彼女はそれを認識できない。 彼はそのCDを小さなプレイヤーに挿入し、彼女の耳 にヘッドホンをつける。あー、いいわね、なんて美し い音楽なの。オーボエ。きっとこの上なく安らかに見 えるはずだ、と彼女は思っているにちがいない。 つまり、自分がどう見えるのか、彼女は考えている ところだ。どう見えるのだろう?   それはもうわから ない、自分の写真は持っていないのだ。あいつらが写 真を盗んだのだ!   それは地獄の前段階で、本当の苦 しみのまえに来る。そして本当の苦しみは、夜、暗く なるとやってくる。どうにかして、息子たちはそれを 知るべきで、二人は彼女をここに残しておいてはなら ないし、さっさと行ってはならないのだ!   あんたた ち 聞 い て る?   ね え、 あ ん た た ち は ど こ に い る の?   彼女は疲れて目を上げる。 男の子たちは行ってしまう。 何も危険を察することなく。 ◆◆◆ 金髪の女が入ってきて、ヘレーネの周りにあるもの をあれこれ操作する。彼女は頭だけでも少し動かそう としてみる。金髪は彼女を嫌そうに眺めるが、仕事を 片 付 け て、 た く さ ん の 画 面 が 重 な り 合 っ て い る モ ニ タ ー を 見 る。 金 髪 は 泥 色 の お か ゆ が 入 っ た 袋 を 手 に 持っている。彼女はそのおかゆを鉤に引っかけて、そ れ に 管 を 取 り 付 け る。 ﹁ 昼 ご は ん ﹂ と、 彼 女 は 言 っ て 笑う。 ◆◆◆ いやだ、彼女はその金髪が好きではない。その金髪 は好きじゃない。彼女はあの若い女、ひっきりなしに しゃべるあの若い女が好きだ。髪の毛は黒だ。彼女が 来ると、 不安は去る。 金髪だと不安がやってくる。 行っ た り 来 た り だ。 金 髪 と 黒 髪 の あ い だ に も う 一 人 い る。 そ の 男 は ち ょ う ど 彼 女 の 大 便 を 拭 き 取 っ た と こ ろ だ。 惨めだった。しものほうで何が起こっているのか、と にかくわからない。何がそこで起こっているのか。あ

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あ、 またその男がこっちに来る。掛け布団を横に置き、 彼 女 の 足 を 広 げ る。 待 て、 そ れ は し て は な ら な い!   待て!   しかし彼は微笑んでいる、ここではいつでも みな微笑んでいるように。この犯罪者が。彼は彼女を 洗っているのか?   彼は洗っている。それは実を言う と気持ちのいいもので、彼女は抵抗するのをあきらめ たのかもしれない。どっちみち彼は抵抗に気づかない でしょう?   だから洗ってもらいましょう。どうして あいつらは彼女にやらせようとしないのか、彼女はそ れをはっきりとは知りたくない。きっと彼らは次の夜 のあとにきれいな死体を望んでいるのだ。糞尿で汚れ た、こんな血まみれの人形は望んでない。彼女は血を 流しているのだ。おむつは血でいっぱいだった。でも 痛くはない。血を流すことはそんなに悪いことにはな らないだろう。いったい全体何日なのか?   わからな い。なんとなく、彼女の娘は、最近語学留学で旅立っ たようだった。それは七月十日だった。でも娘はその 同じ日にもうここにいたのだ!   彼女はしっかり熟考 してみても、どういうことかわからない。七月十五日 か十六日だろうか。 そうたぶん。 だいたいのところは。 こ れ は 生 理 な の?   答 え は で な い。 最 後 に 生 理 が あったのはいつ?   彼女の父が三十五年前にどう見え たかは思い出せるが、いつ最後に生理があったかはわ からない。 ち ょ う ど そ の 男 が 彼 女 に 新 し い お む つ を つ け て い る。 彼女は眠りたい。 ◆◆◆ 夜にまたたくさん人が集まり、上へ下へと動きまわ り、ベッドのきしむ音がして、荷台が運ばれた。きっ と 彼 ら は 死 体 の 運 搬 が ど う に も う ま く い か な い の だ。 あ い つ ら が そ の 人 た ち に 何 を し よ う と し て い る の か、 いまやっと彼女はわかる。電気をその人たちの体に流 し て、 想 像 を 絶 す る 熱 さ で 水 分 を 全 て 取 り 除 く の だ、 そのあとに残るのは乾いてしわの寄った角石だ。そん な四角い石を彼女は以前どこかで見たことがある。そ れは角石で作られた壁だった。ひょっとしたらこの角 石で彼らは家を建てるのかもしれない!   彼女はそこ に送られるのか。まるで乾燥機の中にいるように、彼

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女は緊張していた。操作していた男が、彼女はどうも 太りすぎていて、うまくいかないと言い、機械を止め て彼女を戻した。 ◆◆◆ 確 か に 彼 女 は と て も 不 安 だ が、 で も 悲 し く は な い。 そ の こ と に 彼 女 は び っ く り す る。 人 は 死 ぬ 間 際 に ほ と ん ど 全 て を 知 る と い う が、 本 当 に そ う い う も の だ ⋮⋮。何かがまだ抵抗しているが、それは徐々に小さ くなっていく。昨晩はここから逃げ出せるという希望 が あ っ た。 若 い お 尻 拭 き の 男 が 彼 女 の 隣 に 座 っ て い た。彼女が死にたくないのを彼はなんとなく理解して いた。夜になったら隠してあげましょう、 物置部屋に、 そして朝になって仕事が終わったら、そこから出して あげましょう、と彼は彼女にほのめかした。彼女は喜 んだ。 もちろん、 そんなことは起こらなかった。 彼は朝やっ てきて、それでさようならだった。ただ、わずかなま ばたきで、うまくいかなかったことを彼女にほのめか した。 それがどうした。彼女をここから運び出すようなリ スクを冒して、 彼は仕事と生活を失うことはできない。 ◆◆◆ あの金髪の女がやってくると、彼女は落ち着かなく なる。金髪は、いつもモニターのまわりをいじくり回 していて、遠隔操作するあいつらの一味に決まってい る。金髪が袋を彼女の頭の上の鉤に掛けるときは、彼 女 は 眠 っ て い る。 眠 り た く な い の だ が、 眠 っ て い る。 さまざまな袋を金髪はつぎつぎと彼女の上に掛けてい く。 ◆◆◆ 彼 女 が 元 気 な と き は、 と き お り 男 性 陣 が 立 ち 寄 る。 相変わらず、少なくとも一人は、彼女に聞こえるかど うか尋ねる。相変わらず、彼女は応えるのに意固地に なってしまう。とにもかくにも彼女は一九七二年生ま れではないし、 ヒュッケルホーフェンに住んでいない。 その人たちがもし取り違えをしていなかったら、ここ から抜け出すチャンスがひょっとしてあったかもしれ

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ない。 口を開いて頑張ってみてもそれは無駄なことだ。 どっちみち彼らは信じないだろうから。 ◆◆◆ アーファージー。 もちろん彼女はこの言葉を知っている。でもそれは どんな意味だというのか?   どうしてそれが思い出せ な い の か?   ど う い う わ け か 彼 女 は そ れ を 知 っ て い る。 青 色 の 外 衣 を 着 た 男 性 が そ の 言 葉 を 発 し た と き、 彼 女 は す ぐ に わ か っ た。 ア ン フ ァ ン ク ジ ー ベ ン ︹ ア ン フ ァ ン ク は ド イ ツ 語 で﹁ は じ め ﹂、 ジ ー ベ ン は﹁ 七 ﹂ を 意 味 す る。 ︺ 、 そ う 声 に 出 し た か っ た。 そ う だ、 ア フ ァ ジ ー は アンファンクジーベンの短縮形かもしれない!   七時 頃からここでは夜が始まる。液体の詰まった袋で意識 を奪い取られると、きっと人々はまたぎゅうぎゅうに 押し込められて、螺旋状に並べられるだろう。誰が死 ぬか、彼らは外側からガラスを通して眺めている。彼 女はとても落ち着いてきた。もし今夜死ぬべきだとし ても、それでもいいだろう、彼女は死に抗わないだろ う。どうしてなのか?   彼女は最後の秘密をもう知っ たではないか。つまり、彼らは人々から角石を作りだ し、それを風景に添えるのだ。 そう、七時頃に。 彼女は別れを告げる。時はやってきた。 ◆◆◆ なに、彼女はいまなお生存中? 暗 い。 夏 は 夜 の 間 だ け 暗 く、 朝 や 夕 方 は 暗 く な い。 だから夜なのだ。どうして他の人たちと一緒に大きな 螺旋の中に彼女は横たわっていないのか?   ひょっと してまた、予期せず唯一の生き残りなのか?   もしア ンファンクジーベン運動が始まったのなら、九時頃に はもうおしまいだろう。それで彼らは彼女を元の場所 に戻したのだ。 頭 の 上 に あ る 何 か が む ず む ず し て 我 慢 で き な く て、 彼女は掻こうとする。右手も掻こうとするのか?   い や、するつもりはない。右手は掛け布団の上にだらり と横たわっている。だから彼女は左手でやってみなけ ればならない。左手をあらゆる抵抗に逆らって引っ張 りあげる。本当に、髪の毛を触れそうだ。でもむずむ

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ずするところには、髪の毛がない。髪の毛はどうした の だ ろ う?   そ れ で 彼 ら は 写 真 を 盗 ん だ の か!   へ ん、それは奪い返すよ、と彼女は誓う。あらゆる力を こめて、自分の指を頭に持っていき始める。近くまで 持ってくる。金属製の小さなタンクトラップが頭蓋骨 に刺さっている。彼女は、二、 三個取り外そうとする。 突然液体が流れるのを感じる。味見をする。それは血 だ!   タンクトラップを打ち込む権利をあいつらはど こから得たのか?   彼女は叫び始める。ベッドのなか で、彼女が紛れもなく横たわっているそのベッドのな かで、のたうちまわり始める。 誰かが来る。金髪の女?   ほんとうに。ついてない なあ。むっつりと金髪は彼女をのぞき込む。 ﹁ な ん て こ と、 や ら ず に は い ら れ な い っ て こ と?   さ あ 私 が あ な た を ま た 洗 っ て 着 替 え さ せ ま し ょ う ね。 罰としてあなたをしっかり固定して、布団はとってお きましょう。まだほかに何をしでかすか、わかったも のじゃない!﹂ 彼女は文句を言い続けながら、まわりをきれいにし ていく。タンクトラップを付けなおす。血にまみれた 指の爪をきれいにする。作業が終わると、彼女は左腕 と左足を白い布でベッドの縁にしっかり結びつける。 そら、彼女はまたもや袋をひとつ鉤にひっかける!   ◆◆◆ 目が覚めると、寒い。とても寒い。ここは冷えてい る。あの金髪は本当に布団をとってしまったのだ。い ま金髪は同じく青い外衣を着た女に報告している。二 人はベッドから少し離れて立っている。 ﹁キーリング、 イボンヌさん、 交通事故による肺断裂﹂ とその金髪が言う。 またもや。彼女はいまだに取り違えられている。金 髪は、イボンヌ・キーリングは夜静かに眠っていたと 言う。 もちろん、金髪はそんな嘘を吹聴するとき、彼女を 一度も見ることはない。 つまり、金髪は彼女については全く話さないという のか?   ゆっくりと、 金髪の視線に沿って動いてみる。 ベッドの反対側の柵、もう一人の女がいる方に目が届 く。 そ の 女 は 意 識 が あ る よ う に は 見 え な い。 口 と 鼻、

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腕とそけい部には管が通っている。 そ の 人 は い っ た い ど こ か ら 突 然 や っ て き た の か?   彼女はひょっとして夜に生き残った唯一の人というわ けではないのか? 次から次へと疑問。 ◆◆◆ 次から次へと疑問。目が覚めると、頭のなかでカタ カタ音がする。なんとなくいまは目覚めている時間が 長くなっている。だからもっと長くカタカタ音がして いるのかもしれない。 イ ボ ン ヌ・ キ ー リ ン グ!   一 九 七 二 年 生 ま れ で ヒュッケルホーフェン在住!   いまわかった!   彼女 は大声で笑い、見抜いたことを喜んでいる。彼女はそ の黒髪の女に言うつもりだ。その人はちょうどイボン ヌ・キーリングの身体をストレッチしている。でもそ の女は意識不明のはず!   いったいいつから意識不明 の人の身体を動かせるのか!   ああ、しまった、何も 話せない。いったい全体どうして話すことができない のだろう?   頭のなかでは、言いたいことはあらかじ め形になっているのだ。 でも口からそれがでてこない。 彼 女 は 管 を つ け た 左 手 を 口 元 に 持 ち 上 げ る。 鼻 に も。 なんだって、イボンヌ・キーリングと同じような管が 彼女にもついているのか?   もうたくさんだ。思いっ きり彼女は引っ張る。痛くない。引っ張る、 引っ張る。 黒髪の女が突然叫び声を上げる。彼女のベッドにやっ てくる。おいしくなかったのかと、黒髪は悲しそうに 聞く。 ﹁おいしくなかったのですか?﹂ でも黒髪もまた、少しだけ微笑んでいる。 ◆◆◆ ノックの音がする。 ﹁ご主人がいらっしゃっていますよ、 ヴェーゼンダー ルさん﹂ ヴ ェ ー ゼ ン ダ ー ル ⋮⋮。 ご 主 人 が 来 て い る。 彼 も ヴェーゼンダールと言うのだろうか。そう考えるより 早 く、 彼 女 の 夫 は 洗 面 所 に 向 か っ て 足 を 踏 み 入 れ る。 彼 は 絆 創 膏 を は が し、 右 の 目 か ら 包 帯 を と る。 な に、 一体どうしたの。彼女は聞きたかった、本当に。彼は

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ベッドまで来ると、泣いている。彼女が子どもを産ん だとでもいうのか。最後に彼が泣いているのを見たの は、一番下の娘が生まれたときだった。それは五年前 の こ と で、 彼 は ま さ に 今 と 同 じ よ う に ベ ッ ド の 脇 に 立っていた。彼女は念のため、自分の胸に赤子がいる のかどうか確かめてみる。 いない。 ほらね、まあ念のためってことだったわけよ。 彼は目の病気なのか?   それなら涙がでる説明にな るだろう。 彼女はここに来てから、どうしてまだ五歳の娘のこ とを考えなかったのか。それから︱︱まだもう一人い る!   そ れ か ら も う 一 人!   五 歳、 十 四 歳、 十 八 歳、 二十歳、二十三歳︱︱そう、本当に、五人も子どもが いる!   一度に全員思い出すなんて、驚きだ。 ◆◆◆ 三百二十七引く八掛ける十七。引き算はカッコのな か。三百十九掛ける十七になる。三百二十掛ける十七 は⋮⋮五千四百四十。そこから十七を引くと、答えは 五千四百二十三。 ◆◆◆ 彼女の足元から少し離れて、部屋の隅に机が一つあ る。 その上にヨーグルトが二つ。 フルーツヨーグルト。 メ モ 書 き。 そ し て 写 真。 彼 女 は 身 体 を 伸 ば し て み る、 興味津々だ。あらこれわたしよ!   それは彼らが盗ん でいた彼女の写真ではないか!   彼女はそれを取り返 すと言わなかったか。紛れもなく黒髪で、面長、ふっ くらした唇が見える。瞳の色は?   写真は白黒で、そ れは見分けられない。瞳は青ではなかったか。自分の 瞳の色を思い浮かべようとする。青。晴天だと水色が かった色、曇りのときは濃い色がまだらに混じる。自 分の写真を取り戻して、彼女はとても嬉しい。 これをどう思う、リシー? そう聞けたなら、何てすてきなことだろう!   つ ま り リ シ ー は そ こ に い る の だ。 リ シ ー は ナ タ ー シャと来ていた。 リシーは彼女の十八歳の娘で、 ナター シャは夫の娘だ。そうだ、一緒になる前に、夫は一度 結婚していたのだ、と彼女は思う。彼女はナターシャ のこともリシーとほとんど同じくらい好きだ。それと も思い違い? 二人は車椅子を持ってきた。それで彼女を家に連れ て帰るつもりだ。絶対に二人は彼女を家に連れて帰る つもりだ。でもどうして車椅子は彼女が目を閉じたと きにだけ見えるのだろう?   彼女にはわからない。目 を再び開けると、車椅子は消えている。ああ、リシー と ナ タ ー シ ャ ま で も も う 行 っ て し ま っ た!   残 念 だ ⋮⋮。 彼女はもう一度写真のほうへ身体を伸ばすが、写真 ももうない。 それは黒い喪章をつけていた、と彼女は思う。 ◆◆◆ 彼女は食事にヨーグルトをもらう。 ﹁胃のゾンデを引き抜いてしまったの???﹂ 信じられないと金髪は黒髪に聞いた。 だから彼女に食事を与えなければならない。 彼女はいい気味だと思ってにやにやする。 ﹁どうしてそんな風ににやにやしているの?﹂ なぜにやにやするのか、彼女はわかっている。 金髪にそれを言いやしないだろうけど!   ◆◆◆ 黒い喪章で縁取られた写真が、長くて白い天幕のな か、 最 前 列 の 机 の 上 に あ る。 そ の 後 ろ に 椅 子 が 並 ぶ。 一体どこから彼女は見ているのか。天幕の屋根の下を 漂っているようだ。 だ ん だ ん 列 が 埋 ま っ て い く。 一 番 前 に 彼 女 の 両 親。 そこには舅と姑もいる!   あなたたちに会えるなんて すてきだわ。彼女の子どもたち。彼の子どもたち。三 人 は 二 人 の 子 ど も で、 ほ か に そ れ ぞ れ 二 人 ず つ い る。 ヴィリィおじさんが来る。彼はもう八十歳を超えてい る。おじさんの妻ウルテ。おばのシュテッテル、従姉 妹のタベア、おばのウシュ︱︱ああ、でもウシュおば さんはずっと前に亡くなったはずでは?   彼女はびっ く り す る。 カ ー ル お じ さ ん。 カ ル ラ お ば さ ん。 お ば さ ん の 娘 の キ ー ラ と カ ー ヤ。 そ こ に は マ ッ ク ス が い る。二人目の息子の父親だ。息子の名前をやっと思い 出した、ビルだ!   ああ、ビリィ、小さなビルちゃん

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のこともリシーとほとんど同じくらい好きだ。それと も思い違い? 二人は車椅子を持ってきた。それで彼女を家に連れ て帰るつもりだ。絶対に二人は彼女を家に連れて帰る つもりだ。でもどうして車椅子は彼女が目を閉じたと きにだけ見えるのだろう?   彼女にはわからない。目 を再び開けると、車椅子は消えている。ああ、リシー と ナ タ ー シ ャ ま で も も う 行 っ て し ま っ た!   残 念 だ ⋮⋮。 彼女はもう一度写真のほうへ身体を伸ばすが、写真 ももうない。 それは黒い喪章をつけていた、と彼女は思う。 ◆◆◆ 彼女は食事にヨーグルトをもらう。 ﹁胃のゾンデを引き抜いてしまったの???﹂ 信じられないと金髪は黒髪に聞いた。 だから彼女に食事を与えなければならない。 彼女はいい気味だと思ってにやにやする。 ﹁どうしてそんな風ににやにやしているの?﹂ なぜにやにやするのか、彼女はわかっている。 金髪にそれを言いやしないだろうけど!   ◆◆◆ 黒い喪章で縁取られた写真が、長くて白い天幕のな か、 最 前 列 の 机 の 上 に あ る。 そ の 後 ろ に 椅 子 が 並 ぶ。 一体どこから彼女は見ているのか。天幕の屋根の下を 漂っているようだ。 だ ん だ ん 列 が 埋 ま っ て い く。 一 番 前 に 彼 女 の 両 親。 そこには舅と姑もいる!   あなたたちに会えるなんて すてきだわ。彼女の子どもたち。彼の子どもたち。三 人 は 二 人 の 子 ど も で、 ほ か に そ れ ぞ れ 二 人 ず つ い る。 ヴィリィおじさんが来る。彼はもう八十歳を超えてい る。おじさんの妻ウルテ。おばのシュテッテル、従姉 妹のタベア、おばのウシュ︱︱ああ、でもウシュおば さんはずっと前に亡くなったはずでは?   彼女はびっ く り す る。 カ ー ル お じ さ ん。 カ ル ラ お ば さ ん。 お ば さ ん の 娘 の キ ー ラ と カ ー ヤ。 そ こ に は マ ッ ク ス が い る。二人目の息子の父親だ。息子の名前をやっと思い 出した、ビルだ!   ああ、ビリィ、小さなビルちゃん

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⋮⋮。 ふ た り の リ タ、 ピ エ ト ロ、 エ ル ケ、 カ ル メ ン、 イヴォンヌ、 インゴ︱︱こんなにたくさんの人がいて、 ここはいっぱいになるだろう!   いったいここで何を 祝っているのか? 好奇心に満ちて彼女は入り口を覗くが、何も起こら ない。人々は黙っていて、 互いに話さない。まったく。 彼らはなんだか悲しそうに見える。 誰 か が 彼 女 の 足 を ひ っ ぱ る。 彼 女 は ま わ り を 見 る。 ああ、夫だ。彼は天幕の正面の壁にある小窓から彼女 を引きずり出そうとしているが、その必要はない。彼 女は自分で天幕からすり抜ける。夫は彼女を抱きしめ る。人々は葬式を待っているが、でもそれは大間違い だった、葬式は行われないよ、と彼は言う。 ほら、誰を連れてきたと思う? 彼 女 は 振 り 返 る。 喜 び で ま っ た く 身 動 き で き な い。 それはスラニャだ!   去年インドで彼女はスラニャを 知 っ た。 ス ラ ニ ャ は 五、 六 歳 だ ろ う か、 正 確 な 年 齢 は わからない。なぜなら、首には蛆虫に食われた傷をつ けて、路上で発見されたからだ。彼らはスラニャを養 子にするつもりだったのか?   ああ、スラニャ、あな たいまここにいるのね⋮⋮。 彼女はスラニャを抱きしめたかった、でもスラニャ はきっぱりとした態度をとる。スラニャは両手を挙げ て 彼 女 と の 距 離 を と り、 一 本 の 指 を 口 元 に あ て る。   スラニャがそんなふうに誘導するなんて、どういうこ と?   するとスラニャは彼女の身体を伸ばして床に横 たえ、その右足を両手で少し上げてしっかりとつかん でいる。スラニャは待っている。夫が張りつめた顔を して少し離れたところに座っている。突然、何かが彼 女 を 天 幕 の な か に 引 っ 張 ろ う と し て い る の を 感 じ る。 天幕の布にあいた小窓だけが、彼女を自分の葬式から 切り離している。彼女は笑う。吸引力は段々強くなる が、 ス ラ ニ ャ は 静 か に 座 り、 彼 女 の 足 を つ か ん で い る。それにしてもなんという力がこの少女にあるのだ ろう!   吸引力はこの小さな女の子には全く歯が立た ない。本当のところ、どういう結果になろうと彼女に はどうでもいいことなのだが。 一体どのくらいの時間がかかるのだろうか。もう一 眠りするべきなのか。 ◆◆◆ スラニャはやり遂げたようである。いまだに彼女は 生きている人たちのなかにいるではないか? も ち ろ ん マ テ ス が ス ラ ニ ャ を 家 へ 連 れ て 帰 っ た の だ。だから彼らには六番目の子どもがいる。 マテス?   彼はマテスと言うのだ!   ﹁マッズ﹂ 彼女は両目を開けて黒髪の顔をじっと見る。 ﹁ ま あ、 最 初 の 言 葉 を 言 い ま し た ね。 さ あ 次 の 言 葉 もでるでしょう﹂ ﹁マッズ?   マッズ!   マッズ、 マッズ、 マッズ、 マッ ズ⋮⋮﹂ これがしゃべった言葉なのか?   声はしわがれてい る。テの音は聞こえないし、そのテのあとに続くはず のスの音は濁った有声音のズになっている。 ◆◆◆ マテスは頻繁にやってくるようになった。 それとも彼は以前からいまと同じように頻繁に来て いて、ただ彼女がいつも寝ていただけだったのか。何 一つ記憶がない。 マテスはやって来るといつも、彼女のベッドに近づ く前に、右目の眼帯をとる。 どうして自分がここへ来たのか聞きたい。何もかも わからないのだ。でもそんな複雑なことは話せやしな い。 彼女が言うのは﹁へー、マッズ!﹂か、 それとも ﹁マッズ、こんちは﹂だ。 彼は理解している。理解しているのだ!   彼女の野 心がかきたてられる。   ﹁ビストオイレン? ︵あんたふくろう?︶ ﹂ ︵注二︶ と彼 女は尋ねる。彼が見る。考え込んでいるのか? 突 然 叫 ぶ。 ﹁ そ う だ、 ぼ く は オ イ レ ン︵ ふ く ろ う ︶ だよ!   そう、そう!﹂ ﹁ ヤ ン ド ル ﹂ だ っ た ら 発 音 で き な い だ ろ う、 と 彼 女 は思う。 ﹁マイレッカー﹂ ︵注三︶ も言えないだろう。 運 が 良 か っ た。 ﹁ ビ ス ト オ イ レ ン?﹂ は と て も 簡 単 に口からでた。

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◆◆◆ スラニャはやり遂げたようである。いまだに彼女は 生きている人たちのなかにいるではないか? も ち ろ ん マ テ ス が ス ラ ニ ャ を 家 へ 連 れ て 帰 っ た の だ。だから彼らには六番目の子どもがいる。 マテス?   彼はマテスと言うのだ!   ﹁マッズ﹂ 彼女は両目を開けて黒髪の顔をじっと見る。 ﹁ ま あ、 最 初 の 言 葉 を 言 い ま し た ね。 さ あ 次 の 言 葉 もでるでしょう﹂ ﹁マッズ?   マッズ!   マッズ、 マッズ、 マッズ、 マッ ズ⋮⋮﹂ これがしゃべった言葉なのか?   声はしわがれてい る。テの音は聞こえないし、そのテのあとに続くはず のスの音は濁った有声音のズになっている。 ◆◆◆ マテスは頻繁にやってくるようになった。 それとも彼は以前からいまと同じように頻繁に来て いて、ただ彼女がいつも寝ていただけだったのか。何 一つ記憶がない。 マテスはやって来るといつも、彼女のベッドに近づ く前に、右目の眼帯をとる。 どうして自分がここへ来たのか聞きたい。何もかも わからないのだ。でもそんな複雑なことは話せやしな い。 彼女が言うのは﹁へー、マッズ!﹂か、 それとも ﹁マッズ、こんちは﹂だ。 彼は理解している。理解しているのだ!   彼女の野 心がかきたてられる。   ﹁ビストオイレン? ︵あんたふくろう?︶ ﹂ ︵注二︶ と彼 女は尋ねる。彼が見る。考え込んでいるのか? 突 然 叫 ぶ。 ﹁ そ う だ、 ぼ く は オ イ レ ン︵ ふ く ろ う ︶ だよ!   そう、そう!﹂ ﹁ ヤ ン ド ル ﹂ だ っ た ら 発 音 で き な い だ ろ う、 と 彼 女 は思う。 ﹁マイレッカー﹂ ︵注三︶ も言えないだろう。 運 が 良 か っ た。 ﹁ ビ ス ト オ イ レ ン?﹂ は と て も 簡 単 に口からでた。

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◆◆◆ イヴォンヌ・キーリングはもうそこにいない。彼女 はまた一人だ。 また? ◆◆◆ お尻拭き係は今日彼女の管を抜いた。   膀胱から管を引き抜いた。 手 に 付 い て い る 管 は 外 さ れ た。 ︵ で も カ ニ ュ ー レ は 残っている!︶ そけい部からいくつかの管が外されたような気がす る。 お尻拭き係が息を吹きかけるための装置を渡す。そ の中には球がいくつか入っていて、息を吹きかけて次 に高い場所に移していく。彼女は試してみる。哀れに も失敗に終わる。 さらに、四つのバネがついた小さな板がある。それ を手にとって、それぞれの指でひとつずつバネを押し つぶすように言われる。 彼女は右手で掴もうとするが、 それはうまくいかない。 ﹁できない﹂ ﹁どうしてできないのですか?﹂ ﹁右手はできない﹂ ﹁左手でとってみてください!﹂ ﹁どうして?﹂ 彼は質問を理解したのだろうか?   彼女に答えてく れるだろうか?   どうして右手を動かせないのだろう か? 彼は答えてくれない。その代わり彼は微笑みながら 彼女の左手を取り、バネを押す。彼女の指で。 ところでカニューレって何なの? ◆◆◆ 医師団がやって来る。 ﹁今日あなたは移されますよ﹂ 移される?   移されるって、どういう意味なのか?   廃棄物のように処理するために移して、その後は、そ んなことは思い出せないというようなそぶりをするつ もりなのだろうか? 彼女は不安に︱︱また不安になる。 こんにちは、不安。 わたしに会いに来てくれてうれしいわ。 不安は親しげな挨拶に耳を傾けない。不安はすぐに 肝 心 な 用 件 に 取 り か か る。 部 屋 の 片 隅 で 大 き な ハ ン マーを叩こうとしている。 ﹁ 二 十 一 病 棟 に 行 き ま す。 あ な た の ベ ッ ド を 使 い ま すよ﹂ ほっとする。移すというのは、廃棄処理するためで は な く て、 単 に 別 の 場 所 に 移 す だ け を 意 味 す る の だ。 本当は不本意だとしても? ◆◆◆ お尻ふき係が車椅子を持ってくる。彼女はそこに座 らされ、部屋から出て行く。突然の暖かさに彼女は驚 く。外は最高の夏だというのに、どうしてドアの向こ う側はそんなに寒いのだろう? お尻ふき係は、彼女が病棟をもう一度見られるよう に、二回りしてあちこち動かして、個室までのカーブ を走らせる。 お別れ。 彼女は笑顔で覗こうとするが、別離の思いが珍しい ことに彼女の目から涙を流させる。 ﹁ あ れ あ れ、 ヴ ェ ー ゼ ン ダ ー ル さ ん、 成 功 し た の を 喜んでくださいよ。集中治療室は三週間もいたのだか らもう十分ですよ!﹂ 集中治療室? またカチャカチャする音が頭の中で聞こえてきそう だ。どうしてここにいたのだろうか、 彼女は考えるが、 答えは出てこない。 ︻訳注︼ 一   テ ー オ ド ー ア・ シ ュ ト ル ム︵ 一 八 一 七 年 ︲ 一 八 八 八 年 ︶ の童話﹃小さなヘーヴェルマン﹄ ︵一八四九年︶の主人公。 二   ビ ス ト オ イ レ ン?︵ Bist Eulen? ︶  オ ー ス ト リ ア の 前 衛 詩 人 エ ル ン ス ト・ ヤ ン ド ル︵ 一 九 二 五 年 ︲ 二 〇 〇 〇 年 ︶ が 制 作したCDのタイトル。自作の詩を朗読している。 三   ウ ィ ー ン 生 ま れ の 詩 人 フ リ ー デ リ ケ・ マ イ レ ッ カ ー ︵ 一 九 二 四 年 ︲ ︶。 ヤ ン ド ル の パ ー ト ナ ー で あ り、 一 緒 に 執 筆した放送劇は高い評価を受けた。

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彼女は不安に︱︱また不安になる。 こんにちは、不安。 わたしに会いに来てくれてうれしいわ。 不安は親しげな挨拶に耳を傾けない。不安はすぐに 肝 心 な 用 件 に 取 り か か る。 部 屋 の 片 隅 で 大 き な ハ ン マーを叩こうとしている。 ﹁ 二 十 一 病 棟 に 行 き ま す。 あ な た の ベ ッ ド を 使 い ま すよ﹂ ほっとする。移すというのは、廃棄処理するためで は な く て、 単 に 別 の 場 所 に 移 す だ け を 意 味 す る の だ。 本当は不本意だとしても? ◆◆◆ お尻ふき係が車椅子を持ってくる。彼女はそこに座 らされ、部屋から出て行く。突然の暖かさに彼女は驚 く。外は最高の夏だというのに、どうしてドアの向こ う側はそんなに寒いのだろう? お尻ふき係は、彼女が病棟をもう一度見られるよう に、二回りしてあちこち動かして、個室までのカーブ を走らせる。 お別れ。 彼女は笑顔で覗こうとするが、別離の思いが珍しい ことに彼女の目から涙を流させる。 ﹁ あ れ あ れ、 ヴ ェ ー ゼ ン ダ ー ル さ ん、 成 功 し た の を 喜んでくださいよ。集中治療室は三週間もいたのだか らもう十分ですよ!﹂ 集中治療室? またカチャカチャする音が頭の中で聞こえてきそう だ。どうしてここにいたのだろうか、 彼女は考えるが、 答えは出てこない。 ︻訳注︼ 一   テ ー オ ド ー ア・ シ ュ ト ル ム︵ 一 八 一 七 年 ︲ 一 八 八 八 年 ︶ の童話﹃小さなヘーヴェルマン﹄ ︵一八四九年︶の主人公。 二   ビ ス ト オ イ レ ン?︵ Bist Eulen? ︶  オ ー ス ト リ ア の 前 衛 詩 人 エ ル ン ス ト・ ヤ ン ド ル︵ 一 九 二 五 年 ︲ 二 〇 〇 〇 年 ︶ が 制 作したCDのタイトル。自作の詩を朗読している。 三   ウ ィ ー ン 生 ま れ の 詩 人 フ リ ー デ リ ケ・ マ イ レ ッ カ ー ︵ 一 九 二 四 年 ︲ ︶。 ヤ ン ド ル の パ ー ト ナ ー で あ り、 一 緒 に 執 筆した放送劇は高い評価を受けた。

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︻解説︼ 本 稿 で 訳 出 し た の は、 Kathrin Schmidt: Du stirbst nic ht. M ün ch en : B tb V er la g, 2 01 1 ( K öln : K ie pe nh eu er & W itsch, 2009) の 第 一 章﹁ 瞬 く 間 に、 あ る い は ︵ W

im-pernschläge oder in the

Twinkling of an Eye ︶﹂ で あ る。こ の小説は六章に分かれ、全部で三百四十八頁ある。今 回訳した第一章は六頁から二十六頁までの二十頁余り で、最も短い。なお、両版に内容の異動はない。 作者カトリン・シュミットは一九五八年、東ドイツ ︵現ドイツ︶のテューリンゲン州、ゴータに生まれる。 イェーナ大学で心理学を学び、最初の詩を雑誌﹃新ド イ ツ 文 学︵ Neue Deutsche Literatur ﹄ ︵ 東 ド イ ツ の 文 学 雑誌で、一九五二年から二〇〇四年まで発行︶に発表 する。卒業後は、大学の助手、臨床児童心理士、編集 者などの仕事を転々としながら、執筆活動を続けた。 一 九 八 二 年 に は 最 初 の 詩 集 が﹃ ポ エ ジ ー ア ル バ ム ︵ Poesiealb um ︶﹄︵東ドイツで毎月出版されていた詩集︶ 一 七 九 号 と し て 発 行 さ れ る 予 定 だ っ た が、 ﹁ 政 治 的 に 不快な箇所﹂があるとして、一九八八年まで延期され ている。一九八九年、ドイツ東西を分断していた壁が 崩 壊 し た と き に は﹁ ベ ル リ ン 円 卓 会 議 ﹂ に 参 加 す る。 一 九 九 〇 年 に は、 女 性 誌﹃ イ プ シ ロ ン︵ Ypsilon ︶﹄ の 編集をし、またベルリンの比較社会学研究所で研究員 として働く。一九九四年から作家業に専念して、詩の みならず、小説、散文、物語など多岐にわたる文学作 品を発表し、これらの業績により数多くの文学賞に輝 いている。 詩作から始めたシュミットが初めて小説を上梓した のは一九九八年になってからである。その後、詩、S F小説、散文を書きながら、二〇〇二年に二冊目の小 説を書き上げる。だが、同じ年に彼女はくも膜下出血 で倒れてしまう。一命は取りとめるものの、右半身の 麻痺と言語障害が残る。それでも彼女は一年も経たな いうちに少しずつまた書き始め、二〇〇五年には三冊 目の小説が出版される。さらに二〇〇七年になってか ら、シュミットは病院での体験をもとに小説﹃きみは 死なない﹄を起稿し、二年の歳月をかけて二〇〇九年 に上梓する。 以上のように﹃きみは死なない﹄はシュミットの体 験がもとになっているため、自伝的小説とみなされる こ と も あ る。 実 際 に、 草 稿 は 一 人 称 で 書 き 始 め ら れ、 年齢や職業、五人の子どもがいるところなど、作者と 主人公ヘレーネの共通点は多い。だが、シュミット自 身は﹁わたしの物語﹂ ︵注一︶ であることを否定し、 この 小説のフィクション性を強調している。 当初の一人称から三人称に形式を変えたのは、自伝 的 に 読 ま れ る こ と を 避 け た た め か も し れ な い。 だ が、 三人称にしたことにより、主人公の内的独白は﹁わた し﹂という主語を使うよりも客観的になり、隔たりが 感じられる。たとえば、小説の最初の場面では、眠っ て い る よ う に 見 え る 主 人 公 の 内 面 の 声 が 綴 ら れ て い る。 いったい誰が結婚するのか?   彼女は目を開け ようとする。失敗。目を開けようとしているだ けなのに。 それだけで十分だ。 それにしてもはっ きりと母の声が聞こえる。ああ、やっぱりカト ラ リ ー だ!   母 は 何 て 言 っ て い る の か?︵ 61   (32)頁︶ ﹁ そ れ に し て も は っ き り と 母 の 声 が 聞 こ え る ﹂ と 訳 し た が、 ド イ ツ 語 で は﹁ 彼 女 は ﹂ と い う 主 語 が 入 る。 直訳するなら﹁それにしてもはっきりと彼女は母の声 を聞くことができる﹂となる。ただ、この場面は語り 手による主人公の描写というよりも、主人公の内的独 白 と 読 め る だ ろ う。 集 中 治 療 室 で 目 覚 め た 主 人 公 の、 混沌とした意識からでる声を描いている。日本語訳で は主語を省くことで、内的独白を表し、かつドイツ語 で読んだときの距離感を表すため、中性的な語調にし た。つまり、 女らしい言葉遣いで訳すことも可能だが、 そうすると主人公との距離がなくなり、媒介のない一 人称の独白と同じになってしまう。そうならないよう に、あくまでも語り手を通して、主人公の心のなかの 動きを追うことを試みた。 ち な み に、 第 一 章 で は 二 箇 所 の み、 ﹁ 彼 女 ﹂ で は な く﹁わたし﹂が用いられている。たとえば、主人公の 幻覚なのだが、部屋の隅の机に自分の写真を見つけて ﹁あらこれわたしよ!﹂ ︵ 49   (44)頁︶ と声を上げる。主人公が自分の容貌を思い出す場面 である。意識がよりはっきりし、 外見だけではあるが、

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験がもとになっているため、自伝的小説とみなされる こ と も あ る。 実 際 に、 草 稿 は 一 人 称 で 書 き 始 め ら れ、 年齢や職業、五人の子どもがいるところなど、作者と 主人公ヘレーネの共通点は多い。だが、シュミット自 身は﹁わたしの物語﹂ ︵注一︶ であることを否定し、 この 小説のフィクション性を強調している。 当初の一人称から三人称に形式を変えたのは、自伝 的 に 読 ま れ る こ と を 避 け た た め か も し れ な い。 だ が、 三人称にしたことにより、主人公の内的独白は﹁わた し﹂という主語を使うよりも客観的になり、隔たりが 感じられる。たとえば、小説の最初の場面では、眠っ て い る よ う に 見 え る 主 人 公 の 内 面 の 声 が 綴 ら れ て い る。 いったい誰が結婚するのか?   彼女は目を開け ようとする。失敗。目を開けようとしているだ けなのに。 それだけで十分だ。 それにしてもはっ きりと母の声が聞こえる。ああ、やっぱりカト ラ リ ー だ!   母 は 何 て 言 っ て い る の か?︵ 61   (32)頁︶ ﹁ そ れ に し て も は っ き り と 母 の 声 が 聞 こ え る ﹂ と 訳 し た が、 ド イ ツ 語 で は﹁ 彼 女 は ﹂ と い う 主 語 が 入 る。 直訳するなら﹁それにしてもはっきりと彼女は母の声 を聞くことができる﹂となる。ただ、この場面は語り 手による主人公の描写というよりも、主人公の内的独 白 と 読 め る だ ろ う。 集 中 治 療 室 で 目 覚 め た 主 人 公 の、 混沌とした意識からでる声を描いている。日本語訳で は主語を省くことで、内的独白を表し、かつドイツ語 で読んだときの距離感を表すため、中性的な語調にし た。つまり、 女らしい言葉遣いで訳すことも可能だが、 そうすると主人公との距離がなくなり、媒介のない一 人称の独白と同じになってしまう。そうならないよう に、あくまでも語り手を通して、主人公の心のなかの 動きを追うことを試みた。 ち な み に、 第 一 章 で は 二 箇 所 の み、 ﹁ 彼 女 ﹂ で は な く﹁わたし﹂が用いられている。たとえば、主人公の 幻覚なのだが、部屋の隅の机に自分の写真を見つけて ﹁あらこれわたしよ!﹂ ︵ 49   (44)頁︶ と声を上げる。主人公が自分の容貌を思い出す場面 である。意識がよりはっきりし、 外見だけではあるが、

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自分が誰であるかを自覚する場面となっている。 第一章は、ヘレーネが集中治療室からでる場面で終 わっている。彼女の闘病生活は始まったばかりで、こ のあと第二章から第六章まで続くことになる。さまざ まな治療を受け、徐々に快復していく過程が、病院で のエピソード、また彼女の記憶による物語とともに描 かれていく。 ところで、 ﹁きわめて独特な﹂という限定付きだが、 こ の 小 説 は﹁ 発 展 小 説 ﹂ ︵ 注 二 ︶ と 紹 介 さ れ て い る。 話 すことができず、また身体も思うように動かせないヘ レーネが、言葉と記憶を取り戻し、再び作家として書 き始めるという話の筋は、古典的なドイツ文学によく 見られる、若い主人公が幾多の苦難を乗り越え、成長 し て い く 姿 と 重 な る の だ ろ う。 ﹃ き み は 死 な な い ﹄ の 主人公は、四〇代の大人であり、また﹁成長﹂ではな く﹁回復﹂という違いはある。それでも、主人公は全 て失われた状態から、ひとつひとつできることを獲得 していき、また自分の努力だけではなく、周囲の援助 と と も に 変 化 し て い く 点 な ど、 ﹁ 発 展 小 説 ﹂ と 呼 ば れ るジャンルとの共通点は多い。確かに、ヘレーネは失 われた機能を再び取り戻すことと同時に、さらに前へ と進んでもいる。 な お、 ﹃ き み は 死 な な い ﹄ は 二 〇 〇 九 年 に﹁ ド イ ツ 書 籍 賞︵ Deutscher Buchpreis ︶﹂ を 受 賞 し て い る。 こ の 年の﹁ドイツ書籍賞﹂には、同年ノーベル文学賞を受 賞したヘルタ・ミュラーも候補に挙がっていた。ヘル タ・ミュラーは前評判がよかったので、シュミットの 受賞は意外であり、称賛される一方で批判もあった。 ︻解説注︼ 一   新聞のインタビューで、 この小説を書き始めた経緯をシュ ミ ッ ト は 語 っ て い る。 https: // taz.de /Montagsintervie w -Kath-rin -Schmidt /!5150084 / [最終閲覧日 二〇一九年八月二〇日] 二   二 〇 〇 九 年﹁ ド イ ツ 書 籍 賞 ﹂ 受 賞 に 際 し て﹁ き わ め て 独 特 な 発 展 小 説︵ ein Entwicklungsroman ganz eigener Art ︶﹂ と 紹 介 さ れ て い る。 https: // www .deutscher -buchpreis.de /archi v/ jahr /2009 / [最終閲覧日二〇一九年八月二〇日] ­  ﹁ 発 展 小 説 ﹂ Entwicklungsroman に つ い て は 次 の 事 典 を 参 照。 ­ Ott o F . B est: Han db uc h liter aris cher F ac hbe gr if fe . Defi nition en und Beispiele . Frankfurt a.M.: Fischer Taschenb uch V erlag, 1994, S.148.

参照

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