山梨県立ろう学校初代校長「堀江貞尚」研究(1) 利用統計を見る
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(2) 貰つて目まぐるしい世相の中心のような東京の生活にも家族にも別れを告げた。なに,老い ぼれてもかまうことはない。私は何かを見出すことができるだろう。」. 3). ここに書かれている全国一惨めな学校が当時の山梨県立盲唖学校である。堀江はこの学 校に惹かれた。日本一惨めな学校,言い換えるともっとも条件の整わないという現状を堀 江は自身の力を発揮するに相応しい地と判断したのであろう。当時の山梨という悪条件下 において,ろう教育のパイオニアとしての役割を果たそうとする堀江の人間性をみること ができ,文中の「私は何かを見出すことができるだろう」という一節に堀江の確固たる信 念が現れている。. この堀江の山梨への赴任について旧職員Aは次のように語っている。(以下Aと表記す る). 「古谷史映さんっていってね。~略~その方がまた大塚聾学校の校長を長い間やっててね,そ の校長さんがまたすごい校長さんですよ。その人と争うのがいやだったって話ですけどね。」. 中央での聾教育実践を進めた古谷史映(1907~1967)と堀江は方針の違いなどの理由で 対立していたことがこの発言から推測することができる。堀江と古谷は,東京市立聾学校 の同僚であった。古谷は,1939年(昭和14年 ),安藤太三郎校長時代に,読話発語の一元 論「言語の実際指導にあたっては読話,発語が渾然融合し,その本然の姿そのままになさ れなければ生きた言葉,役立つ言葉とはなりえない」 4)を提案した。古谷は後に,全国聾 - 23 -.
(3) 学校校長会会長となり,盲聾学校義務制実施運動,就学奨励法実施運動などの指導的役割 を果たし,戦後においては,全国聾唖学校職員連盟の結成に尽力している。 地方のろう教育を変革させようと自らが奔走する堀江と中央でろう教育を実践し運動論 的に展開する古谷との違いは明らかである。 次の語りは栃木聾学校へ堀江に同行したAが体験を語ったものである。 「~略~あのーうちの校長と古谷校長,大塚聾のやり合ってるのを聞いてて,ほいたら何だか 古谷校長が「ろう教育,山梨も上がったかい」っていうような事を言ったらしいんで,ほし たらねえ,そん時に堀江校長がねえ,そん時は俺はよくわからなんだけど,今考えりゃあね え,確かね,そのねえ,大塚のようにねえ,オウムじゃないけど,チーチーパッパ言ってり ゃいいもんじゃないと。山梨みたいな大きな自然の中に囲まれ,ね,豊かな自然の中へ囲ま れ,直接自然界から刺激を受けて,ものすごく経験のあるそういうものでくるんだ子ども達 っていうものは将来伸びる。都会でね。電車に乗っかったりねえ。親の言うことばかり聞い ているようじゃあダメだって言ったから。そういう考え方だったんだね。コトバを2つ3つ覚 えるより経験を,そしてそのことが蓄積されるように。そのためには子どもをきちんと捉え て発表する意欲をそういう気持ちを育てなければ日本語なんてものは育たないよってことを 時々言ってた。何となくね」. (2)盲ろう児(ろう盲児)との出会い 1949年(昭和24年)に山梨県立盲唖学校は廃止され,山梨県立盲学校,山梨県立聾学校 が設立されるが,1950年(昭和25年)に三上鷹麿が初代盲学校校長として就任するまでの 期間,堀江が両校の校長を務めていた。堀江は,校長としての赴任先が当時の山梨盲唖学 校であり,そのまま盲・聾両校の校長を兼ねることとなった。それが山梨県において盲聾 児教育を開始する契機となったといえる。 次の語りは,Aが盲聾児の勧誘のため堀江に同行した時のものである。 「~略~ほいて,一番びっくりしたのはねえ。あのー校長先生が,勤めはじめた最初の夏休み にね。大泉村に盲聾児がいるといってね。つんぼで目もみえなくてね。先生は前に何遍か行 ってたんだって。だけど僕はそんなことは知らないから。だけどその土地の親は,そんな子 どもを産んでかわいそうに,出しちゃあかわいそうにね。~略~村役場にね。堀江校長が, 各村役場へ,各教育委員会へなんだかみんな配って,盲学校も兼ねていたけど,視覚障害, 聴覚障害の子があった時には,ほいから知能障害がある時には出してほしいっていって。学 校でまとめて自分で世話をしていたみたいだね。そして,そういう子どもがいることがわか ったら何遍かあっちこっち自分で行ってただよ。それで夏休みのある時,生徒の勧誘に行く から,日帰りで行くからって。実際みんな,どうだったんだろうな?ほいて,大泉へ行く汽 車ん中で,校長が,目と耳が聞こえない子どもがいて,何だか身体が衰弱しているらしいん だけど,僕は何遍か,僕は行ってね,その子どもを見ただって。だけど,昔は,つんぼの子 が産まれると何でもお金が残るっていって家の中へお蔵の中へしまっておくっていう風習が あったんだってね,山梨には。昼間も外に出ないからその分衰弱してるよって。そう言われ てみるとね。南巨摩の方にね,俺とS(当時の教諭)さん二人で勧誘に行ったことがある。 そしたら「先生達は,そういうふうにして,子どもを一人連れて行けば,なんぼか貰えるだ け」なんて,そのくれえの悪口を言われてね。そん時にね。ああ,あの家かい。あの家は血 が悪いとか。そういうことをよくいうじゃんね。お蔵へしまっておけばお金が残るっていっ. - 24 -.
(4) て,子どもに会わせてくれんだよ。そういって,だから北巨摩もそうだった。だから僕はね え,校長曰く ,「勉強にはなるよ。親の考えとか,家庭の考えとか見てご覧なさいよ」って。 それで一緒について行った。そしたらね 。「今はねえ,今日はお母さんが畑の方へ行ってるか ら」ってね。お婆さんみたいな人がいてね,「昼飯には帰ってくるからここで待ってろし」っ てわけで,しかたがねえからその近所を散策したりしてね。昼前に行ったらお母ちゃんが帰 って,お母ちゃんは堀江校長を知ってて ,「あら,先生何度も申し訳ないですね。だけど家じ ゃあ,お父ちゃんが頑固でどうしてもいかしたかあねえっていってる」だから「子どもさん はどうしてるです?」って聞いたら「今日は野良へ行ってるから,水車小屋へおいてきた」 って。~略~そこへ行ったら,ボロ布にくるまった,背はかなりあったようだけど痩せた女 の子を抱いてきて,そしたら堀江校長は「おうおうなんとか君」って,自分はワイシャツの 白いやつを着てんだよ。俺なんかは触るこんもできんかった。そいつを抱いて,お母さんに 「お母さん,だめじゃん。こんなに軽くちゃー。5歳くらいにしか見えないじゃない。ちゃ んとご飯食べさせてるの」なんて言ってたっけ。そしたら「食べないで困る」って「だから 運動をさせないとだめなんだよ。だから学校によこしなさい 。」「目も見えない娘じゃ困るか ら」ってとうとう来なかったけどね。だけど,それっからも時々行ってたようだけど,だめ だったね。そうだね,北巨摩も南巨摩もそうだったなあ。もう一軒・・・。「私は行かせたい んだけど,お父ちゃんが」ってやっぱり言って。それから,両親は行かせたい。だけど,お 爺,お婆がどうしてもだめ。だから,こういう子どもを出すと「殺されちまう」とか「病気 になって死んじまう」とかね。それから,当時,通えないことはわかっているでしょ。だか ら ,「通ったらいい」って勧めたら 。「通えっこねえ」って怒られたりなんかしてね。そんな 時代だったけど,あの先生は頬ずりして「おーよしよし」ってね。あん時は本当にびっくり したよ,ちょっとー。背筋にね。何か走ったよ。汚い顔の子をあやしながらね。俺,まーっ たくねえ,これだけは忘れなかったよ。それっから,この先生はどういう先生だって思いだ して。~略~入った年。昭和でいったら25年だよ」. 当時の山梨においては,ろう学校の存在が一般に認識されていない時代であった。ここ には盲聾児の勧誘に歩いたという事実が記憶されている。また,盲唖学校で義務制以前に おいて盲聾という重複障害児への教育保障も堀江が率先して行っていたと推測できる。 Aが言う汚い顔の盲聾児に対し堀江は頬ずりをしている。これは,重度の盲聾児であっ ても一個の人格=「人」と捉え,この教育を高い文化と位置づけていた堀江だからこそと れる行動と考えられる。 ろう教育の専門家である堀江の赴任先が,当時,盲聾分離されていない,盲唖学校とい うシステムを採っていた教育後進県であったがために校長としても盲教育とも出会い,さ らに,この地で何の保障も受けない重複障害児への教育にも目を向けたことは堀江の志向 からして当然と考えられる。. 3. 社会のろう教育への不理解と堀江の行動. 「私が先ず訪問したのは師範學校であつた。それは此の縣での最高の學校でもあるし,二百七 十校あまりの縣下小學校の教員はここから生み出されるので,地方文化の責任を實際的に負 うものと考えたのである。すると,二十年も前からいた師範學校長が私に向つて「山梨縣に 盲唖學校があつたことは知りませんでした。いつ出来たんですか」といかにも素朴なあいさ つをした。私が説明して明治四十二年の創設で昭和十七年に縣立に委管されたものだと言う. - 25 -.
(5) と感心していた。 その年から始めて師範學校の學生は私の學校をしきりに見學に来るようになり,新卒業の者 が幾人かつづいて教員を志願して來ることになつた。私は師範學校の教授たちの中に善き友 を數人求め得た。高等工業學校もあつて私は時々立ち寄り語學の先生や電氣科の先生に親し くしたが今では山梨大學の中の學藝學部と工學部とになつている。」. 5). 当時の師範学校長は県下の盲唖学校の存在を認識していなかったことがわかる。その後, 師範学校と盲唖学校の連携が確立し,その連携は師範学校学生の盲唖学校の見学からはじ まった。また,実際の堀江の献身的努力で新卒教師勧誘の成果が表れていたこともここに 示されている。 「( 大学関係者の他に)私は更に味方を求めて縣立醫學研究所と病院の醫學者たちを訪れた。 ここにも研究費の無い研究所を見出し,學究的な専門家の苦心を見て肝膽相照らした。私の 學校に縁の深い眼科や耳科の先生は何かと親切にして呉れたが,私は此の地方特有の病理や 無醫村對策などについて生きた知識を得る楽しみも大きかつた。 教員組合の活發な會合も愉快なもので,私ほ多くの親しみ深い小學校の先生たちと知り合つ た。それから,縣立教育研修所や児童相談所や社會事業施設なども同じ仲間で一しょに仕事 をしたり助け合つたりする楽しみがある。」. 6). 堀江の先見性をここに見出すことができる。ろう学校と大学,さらに医療機関,教職員 組合,小学校,県立教育研修所,児童相談所,社会事業施設との連携を確立するために奔 走していたということである。このことは,後にふれる語りにも表れている。 「しかし,縣知事や部長や教育長などのお役人たちや,政治のかけ引きに忙しい議員たちは, 私も仕事の關係でたびたび會うけれどもゆつくりと相手にけなつて呉れない。彼らは何と言 つても特殊教育という様な高度の文化を理解することの出来ない氣の毒な連中である。」著者 =山梨縣立聾學校長. 堀江貞尚. 7). ここでは,知事をはじめとする行政や政治家のろう教育への不理解を明示している。こ れは,地方のろう教育を取り巻く社会環境の劣悪さを示しているものである。さらに,当 時を代表する障害児教育の機関誌『特殊教育』に山梨縣立聾學校長という肩書きで掲載し ている点に注目したい。ここから,下からこの教育を変えていこうとする強い意志と,こ の教育の改善のために対峙する堀江の人間性を垣間見ることができる。 それらは,Aから次のように語られている。 「~略~助詞ができるようになったのは,あれだね。あのー耳を使うようになってっからだね。 (中略)それともう一つは幼稚部からの教育ね。堀江先生なんかねえ,その乳幼児教育をや らないとだめだっていってね。その当時,もう県へいってね。(中略)そしたら「だめだ,あ の馬鹿どもは,ありゃあわからんだから」ってね。」. イギリス,アメリカをはじめとする,ろう教育先進国の状況を把握していた堀江だから. - 26 -.
(6) こそ,この時代に早期教育の必要性をあげている。その要望に対して,県は,理解を示さ なかったことを,堀江の日常からは想像がつかぬ言葉で罵っている。このような行政をは じめ,社会の無理解が堀江を学術研究の場である東北大学への移籍を決定づける遠因にな ったとも考えられる。それは,後述する堀江が我が国のろう教育の研究について嘆いてい ることからも察することができる。山梨教育月報(昭和25年2月)の「聾學校の窓から」 に次のように書かれている。. 「( 前略)そして,難聽者のための電氣補聽器や,聽力檢査機の發達は驚くべきものがある。 我國の特殊教育も,英米などに実質的に劣らなくなる時代もやがて來るであろうと私は信じ てゐるが,これは國民の知性と愛情とに俟ち望むものである。」. 8). ここでは,イギリス,アメリカのろう者を取り巻く環境の発達について記述され,さら に我が国のろう教育の将来像を予測し,その実現は国民の知性と愛情とに待ち望むものと し,さらに次の記述となる。. 「ろう学校に於いては,言語指導が教育の根幹をなしてゐて,教育課程のすべての部分が意識 的に言語学習に向けて構成され費されてゐるのである。聴力障碍に原因して唖者になつたも のが,改めて言語を学習することは実に容易なことではない。きわめて高度の教育技術であ り專門的教養を要するものである。本校に於ても,日々の教師の苦心と努力は並々ならぬも のであるが,之に對する理解や援助は,社會から何等與えられてゐないのである。しかし, いつまでも現在のようなばかばかしい状態がつづくとは思われない。もつと良い設備,もつ とすぐれた教師を要望し,教育の実を擧げるためには如何なる代償も惜しまないという時代 がやがて來るであろう。」. 9). ここでは,ろう教育の根幹が言語指導であることを謳い,その教育のためには高度の教 育技術と専門的教養を必要とすること,それを実践するのは優れた教師であると,その必 要性を訴えている。また,ここでも,この教育に対する社会の理解および援助が与えられ ていない現状を述べつつも将来的には改善されるであろうことを予測し,さらに次のよう につづけている。 「縣下のろう唖者の数は,調査の結果六百五十人となったが,実際は千人に達するのではない かと思う。そのうち学齡のものは一昨年あたりから,毎学年始めに約三十人が小学部に入学 してゐるから,九年の義務教育を受けるもの二百七十人,之に職業教育に重点をおく高等部 や,早期教育の幼稚部を設けて三百五十名ぐらいの生徒を持ち,三十教室と四十名教員を必 要とするであろうことが豫想される。これが本校の將來であるが,現在は生徒数九十二名, 教員十二名,事務官,寮母各一名となって居る。教室は七教室,学級は十二であるから一室 をつい立で二つに仕切つて使用してゐる 。・・・・寄宿舎には現在十二名を收容してゐる。学 費は通学定期券代が一ばん大きく,授業料はない。諸費合せて月百円ぐらいで,寄宿舎に入 っても食費その他千円そこそこである。困窮者のためには学費補助もある。」. - 27 -. 10).
(7) 堀江は,闇雲に山梨におけるろう教育の改革のために奔走していたのではない。上の記 述のように,将来を正確に見据えた中で,諸活動に着手しているのである。この文章は昭 和25年に書かれているものであるため,その時点で,山梨県立ろう学校の将来像を予想し ている。尚,当時の学校要覧にもこの予測は掲載されている。それは,堀江が将来像を踏 まえた上で学校経営を行っていたことのあらわれである。. 4. 堀江と口話・手話. (1)手話と堀江. 「私は大正十三から大正十五年まで京都市立盲唖院で手話法を用いて教えた」. 11). とあり,京都市立盲唖院時代は手話で指導していたことがうかがえる。また,手話を習得 した経過と堀江の考える手話の特性が次に示されている。 「私は大正十二年京都市立盲唖院に勤めましたが十人ほどの教員の中にろうあの人が三人いま した。まだ若かった私は三人の先生から手話をひたむきに習って二年のあいだ手話で授業を しました。それから後に私は口話法を専門にしていますが・・・。十九世紀のはじめにアメ リカでろう学校を創設したギャローデット博士が「手話は書物から学ぶことができるもので はない」と述べたことは正しいと思います。たたみの上で水泳を習っても役に立たないよう に手話の中で暮らしてみなければ手話は身につかないと言ってもよいのではないでしょう か。・・・」. 12). ここでは,堀江の手話を学んだ経過と手話で指導したという事実の他,その後,口話法 を専門にしているという姿勢を明確にしながらギャローデットの言葉を引用し,的確に手 話の特性をいい当てている点に注目したい。「手話の中で暮らしてみなければ手話は身に 付かない」という堀江の指摘はろう者が使用している手話=日本手話が日本語とは別環境 の言語であることを示している。 次の記述は堀江が1926年(大正15年)に著した『聾兒教育に就いて』の中の一節である。 「日本に聾唖教育なるものが始められてから五十年の間に,此の手眞似は何人も特別な研究も 改良もし無かつたやうであるにも係らず,何時となく巧妙なものに進歩して,今では日本全 國の聾唖學校に於て二三を除くのほか,悉く因習的に此方法を用ひて居ります。恐らく此の 方法は無方針な教育家がボンヤリしてゐる間に,聾唖者同志の仲間で知識の進むに従ひ自然 の要求からして生れ出たものでありませう。聾唖者同志や,熟練な教師と生徒との間には, 手眞似を用ひて過去現在未来の何事でも日常大した不便を感じないまでに談話することが出 來ます。教師は手眞似を以て文字文章を説明し,又手眞似で語り聞かせた事を文字にして生 徒に憶えさせます。かくて,手眞似を用ふる學校に入學した子供は,数年の中に之を憶えて, 読書にも談話にも思考にも手眞似のほかに賴るべきものが無くなります。 けれども,聾唖者の用ふる手眞似は特別に之を學んだ者で無ければ,傍で見てゐても何が何 だか全くわかりません。又手眞似の言葉は,普通の話し言葉や書き言葉とは全く形式も,順 序も,構成法も異つてゐるものであつて,之を用ひて書物を讀み,文章を綴る事は我々が外. - 28 -.
(8) 國語を飜譯しつゝ學ぶ事よりも又一種異つた甚だしい困難と當惑が伴ひます」. 13). ここでは,手眞似は,普通の話し言葉や書き言葉とは全く形式も,順序も,構成法も異 なり,これを用いて書物を読み,文章を綴る事は我々が外国語を翻訳し学ぶ事よりも一種 異なる甚だしい困難と当惑を伴う等と,ろう児の教育に就いて僅か2年目の堀江が著して いる。堀江の手話に対する洞察力とそれを正確に認識していたとみることができる。また, 後の論述には,手話と口話法についての記述がある。. 「手話も人間生活の中で必要から生まれて自然に育ったものですから,決して異様な奇妙なも のではなく伝達のための記号として音声と同じように大切だと私は思います。これよりほか に方法がなければ当然利用すべきものです。しかし我々は限られた人生の短い期間に国語に 熟達し文字を読み知識をたくわえ,周囲の人々と親密な社会的接触を維持して自分という人 間を育てていかなければなりません。失聴という障害がある上に言語生活の負担が大きくな るけれども,やはり音声言語を直接に利用する方法をあくまで研究しなければなりません。 安易に手話へ走るべきではない。どんな聴力欠陥者でも失語症などの合併症がない限りは口 語法を学ぶべきであると私は考えています。」. 14). ここでも手話の特性を正確に認識し,その有効性を認め,伝達のための記号として音声 と同格に捉えている。しかし言語という認識は持ち得ていないようである。また,口話法 を学ぶべきという態度が強く表れているが,これは,後で述べているが堀江の考える教育 の機会均等と関連がある。 次の会話文は,堀江のコミュニケーションに関係した記述である。. 「~略~ところがね。堀江校長さんってひとはね。だけど手話は上手だったよ。びっくりした! (Q:その時代っていうのは?)手話から口話に乗り移った時代。(Q:別に手話を使っても 構わなかった?)僕が入った時にはね,小学部の6年はみんな手話じゃない,口話やってた かな。中・高等部は,口話と手話を一緒に,混ぜてやってた。園岡先生の使った手話は,上 手だったよ。だから,僕なんかも手話を覚えたのはその時だよ。それでも堀江校長さんは, 手話は絶対だめだとはいわなかったなあ 。(Q:でも,やっぱり口話でいきましょうって?) だけど,なにしろ口話でね。口話を覚えなさいっていってね。手話なんてあんまり覚えなく ていいよって。だけど生徒会なんかやるじゃあ手話の方が便利だから,つい俺たちも手話を 使ったね。それはまあ,堀江校長が,いなくなってからのことだけど。なにしろ,だけど, 純粋口話法でいきましょうってことは決まってたみたい。(Q:堀江校長の方針はそうだった んですよね?)そう。明らかにそうす。で,だから,あのー手話をやってたのは,園岡先生 がもう長ーくね手話で,盲唖学校の時に 。(Q:昔はずっと手話でやってたわけですよね?) そうね。手話ね。だから高等部の生徒は途中から急に口話法ったってできんからね。だから, 手話も混ぜて口話法も手話もぐっちゃで。だからねえ,山梨はなかなかなかなかねえ。口話 法一本にはならなかった。」. この会話は,堀江が手話を使いこなしていたことを証明している。堀江は口話法を基本 方針としていたが,生活場面では評価し,手話を全面に禁止していたわけではない。Aに. - 29 -.
(9) は,口話を覚えるようにという指導をしていたことがわかる。 注目したい語りは次のものである 。「手話も混ぜて口話法も手話もぐっちゃで。だから ねえ,山梨はなかなかねえ。口話法一本にはならなかった。」とあるが,そこに,堀江が, 山梨校の実状から完全に口話法に踏み切れなかった要因があると考えられる。 次は,実際に堀江時代,在校生であったBの語りから堀江像を探ってみる。 「( Q:お兄さんもろう学校に通っていた。卒業はいつ?昭和何年ですか?)昭和24年。兄は 手話だけで教育を受けました。手話だけで小学部の時に勉強をしてた。(私も)兄から手話を 教えてもらって手話をわかっていました。ろう学校に入学する前から。わかっていたけど先 生はダメ。授業中,親指をつけて手ぬぐいで縛った。(Q:小1に入った時から手話はずっと 禁止でしたか?)ダメ。 (Q:堀江校長先生は知ってますか?)堀江先生は,やさしい先生。堀江先生は手話でも構わ ない。他の先生はダメ。(Q:園岡先生は手話が上手と聞きました?)園岡先生。女の先生。 園岡先生はB君とは話ができるが,他の子どもは手話がわからないといいました。(Q:園岡 先生は手話で構わなかった?)昭和24年は構わなかった。昭和25年から厳しくなった。口話 に変わりました。昭和25年から27年までは,口話の練習のような期間でした。兄がいたから 堀江先生が認めてくれました。兄から手話を教えてもらっていたので,すぐ,堀江先生とコ ミュニケーションがとれました。わがままな自分がわからなかった。わがままはダメと教え られました。他の子どもは堀江先生とはじめからコミュニケーションがとれなかった。もち ろん手話がわからないから」. 堀江先生は知っていますか,という問いかけにまず返ってきたことばが ,「やさしい先 生」であった。さらに,堀江は手話をB等には尊重すべきという考えのもと認めていた。 しかし,Bの語りの中では,堀江先生の名前を出すまでは,手話は禁止されていたという ことしか述べられていない。ここには ,「ろう学校=手話禁止」という認識がBに形成さ れていたことになる。しかし,堀江先生という名前によって別の記憶が蘇り新たな記憶と して語り始められている。興味深い内容がこの後に表れる。Bは,ろうの兄がいた。その 兄との関係の中で,ろう学校入学以前から手話によるコミュニケーション方法を獲得して いた。 入学後,堀江と出会いがあり,堀江こそが,手話を使用できるはじめての成人だった。 兄を除く家族は,手話が理解できない。堀江と出会うまで,Bの周辺には,自分の話を理 解してくれる成人=自分を理解してくれる成人が存在しえなかった。そこで,Bは,堀江 に「わがままな自分」を諭される。ここで,堀江が手話により,入学間もない児童の生活 面を指導できたということは,単に堀江が手話を身につけていたからという単純な理由だ けではない。やはりそこに存在するのは,相互に心を通じ合わせることを可能とした堀江 のろう児理解=「人」としてBを捉えていたからであり,この語りはそれを証明している。 次のBとの会話は,他教師とのコミュニケーションについてである。 「小1の時の担任は上野先生。(Q:どこかのろう学校の校長先生になった人ですね。上野節男 先生でしたか?)そう。綾瀬?の校長先生。今,立川の住んでいる。~略~(Q:小1の時は. - 30 -.
(10) 手話はダメ?)ダメ。(Q:勉強の時は,手話はダメ。休み時間も手話はダメですか?)休み 時間は構わない。小5の1年間。小野。男の先生。若い。大学を卒業して来た先生。手話を( し ー)秘密で使いました。(Q:手話をBさんが教えたのですか?)私が手話を教えてコミュニ ケーションをした。(しー)秘密で使いました。小6から中1は,□□先生。女。厳しい口話主 義。女の先生は厳しい。中2から中3は八代先生。手話は構わない。(八代先生の流れるような 早い手話を実演)八代先生は声を出さないで授業をしてた。声を出さない。口を動かす。文 章を全部あ,い,う。ひらがなで書きました。~略~(Q:口の形を読む。ずーっと。声は ない。読話ですか?)読話。軽い子どもよくわかるけど私はむずかしかった。(Q:軽い子ど もも同じで声を出さない?)はい。軽い子ども6人。重い子ども5人。11人のクラス。中3で小 5の教科書を終わりました。(Q:国語?全部の教科ですか?)全部」. Bは,1949年(昭和24年)に11歳でろう学校に入学し,1958年(昭和33年)中学部を卒 業する。堀江との関係は小学部4年生,1952年(昭和27年)7月の堀江の離任までつづく。 堀江とBのコミュニケーションについては,前述してあるが,他の教師とのコミュニケー ションは,上の会話の文の通りである。当時の山梨県立ろう学校が口話法を採用し,教育 方針として打ち出している建前上,授業時において手話は禁止されている。しかし,それ 以外の場面では,容認されている。しかし,中には手話を厳禁しているという通説通りの 教師もいる。その教師とBは口話のみのコミュニケーションだったという。また,昭和30 年入学の卒業生からは,入学時から手話は厳禁されていたという証言も得ている。このよ うにコミュニケーションの方法は担当者によって違いが生じている。しかし,堀江時代の 職員Aとの会話でも明らかのように堀江は手話を禁止することをしなかった。. (2)口話と堀江先生 『聾教育 』(昭和46年2月)のなかで「私は口話論者の方であるから」と口話主義であ ることを明言した堀江は,以前勤務していた滋賀県立聾話学校記念誌に次のように記述し ている。. 「私が手話を捨てて口話に移ったには,次のような単純な話に感動したからである。口話を教 えられた聾児が,先生から教えられた通りに,家に帰ってあそんでいたにわとりに「コココ コ」と呼びかけてみた。するとにわとりたちが一斉にこちらに向いてかけだしてきた。その 聾児はこどもながら口話の有難さを身にしみて実感したそうである。 また,ある聾児は病気が重くなったときに,口の中で「ミズ」とささやいた。すると,そば で看病していた母がすばやく気がついて水をのませることができた。このお母さんは口話を しみじみ有難く思って叢へきて先生に丁寧にお礼をいったそうである。~中略~ 手話論と口話論の争いは烈しいものになっていった。大阪市立校は,そのころ手話の改良に 努力していた。特に助詞,助動詞の研究をした。「梅にうぐいす」といった言葉の機微にふれ る表現が巧みであった。もちろん堂々と手話論の主張者となった。卒業生と生徒と教師が交 って劇団くるま座を組織した。中之島公会堂で,菊池寛やストリンドべリなどの名作を,み ごとに手話でやってのけた。これに合わせて高橋校長が舞台の左の隅に陣どり台本を朗々と 読みあげたのである。私はこの実際をよく見て感激した。 これに対して大阪府立校の前身,大阪聾口話学校は,西川吉之助先生の親友であった加藤医 学博士が初代校長で大正十五年に開かれた。こちらはもっぱらラジオと新聞による宣伝で挑. - 31 -.
(11) 戦した。低学年の口話授業の実際を細かく伝え,名古屋校からかけつけた上級生のお得意の 「身の上ばなし」は多くの父母を感泣させた。 手話論者は,″口話は将来伸びないが,手話は聾者に適する″と主張した。どんな高度の読 み書きもできる。文芸や哲学にも伸びていくと主張した。 口話論者は,手話こそ非文法的,語いも少なく,読み書きと一致しない。口話こそ聾教育の 将来を約束するものだと主張した。 この論争のために高橋校(大阪市立)と加藤校(大阪聾話校)の先生たちは道で出あっても にらみあっていた。夏のタベ,加藤校の先生たちが道頓堀に近い川船の中で酒宴をしていた。 偶然,となりの川船で高橋校の先生たちが宴会をしていた。酔った勢いでけんかになり,取 っ組みあって川の中へ落ちた先生もあったそうである。こうした騒ぎは世界的であった。イ ギリスでは,口話法に成功した経験をもつ教師は口語論者となり,口話法に失敗した教師は 手話論者になる傾向があると発表している。~略~ あのときから今日まで,ずっと続いて手話論と口話論が対立して,負けず劣らず研究してい たらどうだろうか。~略~」. 15). ここには,堀江が手話法から口話法に至った契機等が書かれている。これは,当時のろ う学校に勤務する多くの教職員が歩んだ過程であり,堀江がたどった経験と同様の体験を することで,口話法に目覚めたという事例を著者は複数確認している。 さらに,この文章は興味深い内容を多く含んでいる。昭和初期に我が国においては,一 部のろう学校を除いて ,「ろう学校=口話法」となっていた。そのため,手話法に関する 研究,特に教育現場における手話研究は殆ど例を見ることはない。それを堀江は自らを口 話主義者と名乗りながらも,我が国の手話論者と口話論者の対立に対して,経験等の主観 に頼っているものでその非科学性を問いただしている。 三高在学当時から,欧米のろう教育関係参考文献の口話法に関するものを訳し,週一回 西川聾口話研究所を訪れて発表していたという堀江が,手話論者,口話論者の対立例を紹 介しながら,引用文の最後の部分で「あのときから今日まで,ずっと続いて手話論と口話 論が対立して,負けず劣らず研究していたらどうだろうか 。」という記述は,堀江自身, 当時の我が国におけるろう教育,とりわけコミュニケーションに関する研究の立ち後れに 気づき,両者の対立を皮肉って記述している観がある。 次に,堀江の教育の機会均等観を『特殊教育』昭和26年6月の記述から探ることにする。. 「教育の機會均等ということを人々はそれぞれ自己流に解釋する。二三年前から私の學校へ英 米の参考圖書を澤山送つて貰うようになつたが,それらの圖書の中から得た教育の機會均等 についての近代的解釋の一つがある。 それは,子供のハンデイキヤツプをそれ以上のハンデイキヤツプたらしめないことであると いう解釋である。言語は普通兒にとつてもろう兒にとつても同様の問題である。言語を習得 するのにろう兒は特別の困難をもつていることを意味するだけである。その困難を排して言 語を完全に習得せしめたならば,ろう兒は耳がきこえないというハンデイキヤツプにとどま つたわけで,教育の機會均等が實現したのである。」. 16). 当時の堀江は,ろう児の教育の機会均等を環境として整備するということが,この教育 - 32 -.
(12) の大前提と考えていた。そのためにはろう児の言語獲得を必要条件としていた堀江は,ろ う児の耳の聞こえないというハンディキャップを他に波及させないことを教育の機会均等 の条件と考え,ろう児の言語獲得が可能ならば,ろう児のハンディキャップも単一のハン ディキャップにとどまると考えていた。 次にAの語りから堀江の日本語獲得に関するコミュニケーション方法等ついてみること にする。 「ほいて,何ていうのかな・・。自分の考えを押しつけようとはしなかったね。手話がいいっ ていえば,手話でもいいからやってごらんって。やりたかったら,なにしろこの聞こえない 子ども達に「日本語を教えてくださいよ。手話もいいですよ。手話も日本語として教えてく ださい 。」って,それから,当時は発音ってことを重視したね 。「お父さん,お母さんに対し て何をいっているのかわかるくらいの発音はちゃんとやってくださいね。」って,あとは手話 だなんだってことは何もいわなかった。 」. 一般的には手話禁止といわれた時代である。Bの語りからも確認できるが,ここでも堀 江のコミュニケーション方法に対する柔軟な姿勢をみることができる。「お父さん,お母 さんに対して何をいっているのかわかるくらいの発音はちゃんとやってくださいね」これ こそ,堀江校長を手話法から口話法へ転換させた原点であり,手話を否定しないが日本語 を獲得させるというろう教育の目標を示している。 堀江はこれをろう教育の理想と考えていたことは確かである。しかし,子どもを取り巻 く環境を把握しながら決して子どもの人格を否定することなく実践していたことは事実で ある。. 5. 教員実態,教員の発掘と質の向上への取り組み. (1)新人教師の発掘 「だってねえ,おもしれえじゃんね。僕がねえ,初めて堀江校長とあった時ね。あの北口(甲 府駅)に(学校が)あったでしょ。柱がこうあってね。2本 。(ジェスチャーで門柱を表現) そう,こうあってね。玄関があって,もう古い建物で暗いようなところだったけど,ほれで, 俺はどっち?看板はまだ,盲,盲唖だか聾だか,どっち行っていいだかわからなくて,ほい で,こうやって(当時の様子をジェスチャーで表現)門の所に立ち止まってこうやって見た ら,2月でしょ寒い時でしょ,急に窓ガラスがガラッとあいてね。軍隊の軍服みたいな昔の国 民服ってカーキ色の。知ってるでしょ。あんなのを着たね。ほいて髪の毛なんかも油っ気も ねえようなね。色男じゃんね。この先生なんか。鼻水をすすりながらこんなことをしてるじ ゃん。それが校長だったわけね。それがまさか校長とは思わないから,「すみません,ろう学 校はどっちですか?」って聞いたら ,「ここですよ。普通は」それで「何かご用ですか?」っ ていうから「私,Aってもんです。今日は校長先生から出て来いって言われたもんで,学校 の帰りに寄ったんです」って校長先生に,あははは。「ああ,そうですか,それじゃあ,玄関 におまわりください」って感じでね。全然偉ぶったところがなくてね。なんていうの。偉ぶ ったり,威厳をつけたり,そういうことが全然ないの。だから,なんていうのかな,話の仕 方もね,先生達に対してだって,自分がそう思うといっても決してそういう口のきき方をし. - 33 -.
(13) ないのね。じゃあ,まあ,それもいいでしょうって。やってみたらどうですかって感じで。 そういうだよ。だからうんとこう取っつきいい。~略~その時行き会ったのはさっき言った ように事務。事務職だったから。ほいて,あのー,僕は高校卒だから事務も何にもわからん から「先生,僕なんかにできるんですか」っていったの。そしたら「そんなに難しいことじ ゃないですよ。あのう算数ができるでしょ 。」って笑いながら,うん(笑い )「計算はできる でしょ。それから字が書けるでしょ」って。事務長はいるだから。事務長とは言わなくてね。 当時はね,僕たちは「雇」という職名。事務職でね。ほいから事務長はなんだっけな・・事 務長とはいわんで・・。主事補,主事補だったかな。あの当時はまだ。ほいて,長坂さんっ ていう人がいてね。「長坂君に教わってやればできますよ。そんなに難しいことじゃないです よ。誰だって初めからできる人はいないからね。」そういういい方を,誰だって初めからでき る人はいないってね。僕は,教員になろうなんてこっちからはいわないし,だから,じゃあ, 長坂さんに行き会ってきいてみますっていって,ほいて,長坂さんに行き会って,「あの,で きますか?」ってきいたら「できる,できる大丈夫。心配しないでいいよ。そん時はまた教 えるし」もう一人女の子がいるわけよ。三人でやってたんだよ。だからね,こっちの人は物 品についてやってるから,あんたは,奨励金と,なんだ・・・。そっちをやってもらうこと にするかもしれん。かもだけどねまだね。大丈夫その時は一つ一つ教えますから。なにしろ, 発令されてこなけりゃ使うわけにもいかんから。もし,暇だったら春休みにでもくればって いわれてそのつもりでいたら,ほしたら今度は校長から生徒を見ていきませんかってことに なってね。それでね。~略~」. これは,Aと堀江の出合いの場面である。ここでも堀江の人柄が随所によく表れている。 ここでは,会話の中で「生徒を見ていきませんか」と堀江が,Aに進めているところに注 目したい。この時のAを堀江は観察していたことと思われる。それが,教員を薦める判断 になっていたとも推測できる。 その後のAの採用までの経過が次に語られている。 「僕は初めなんだ,仕事がなくてさあ,高校出でさあ,家は貧乏だし,金はねえし,なんしろ かせがねえ困らあってわけで,ほしたらたまたま県の人で知ってる人が「あのー事務を募集 しているよ」っていうから「どこで?」っていったら,「盲唖学校だ」って。盲学校なんて, みんないやだから行かんだよ。仕事も何とか,今,考えると奨励っていうら,その仕事をみ んなやるからその分だけ,普通の学校より余計もんだよ。~略~事務職員。で募集していた から。~略~僕は,初め事務職員で入るつもりだったから,2月に面接を受けて当時は校長さ んが権限を持っていんだね。それで校長さんが推薦をすれば県でOKした。教員もそうじゃ ない,どうも。それで,2月に行ったら「ええ,いいでしょう。じゃあ,また県から許可をも らわなければいけないから追ってご連絡しましょう。」っていって。ほしたら,「採用します」 って通知がきた。そしたら「それについてちょっとお話をしたいから」っていって,2月にま たいっぺんいったのよ。ほいて,校長さんが一生懸命ろう教育っていうものはこういうもの だって話すじゃんね。事務の話なんか,いっさらしんじゃん。(堀江校長は)ろう教育ってい うのはこうだって話して。僕は,(高校へ)身延線で通っている間ね。よく電車の中でろうの 子ども達と一緒になってね。あの,○○○○とかね。古関,古関(西八代郡下部町)辺りか ら通っている。いく人がいるのよ。ほいで,俺,知っていたのよ。だからその,お歯黒のお 婆ちゃん,○○○っていうお婆ちゃんが,孫を連れて通ってたんだね。 それで,僕がはじめて,ろう学校へ行ったら,「あれ,先生はよく電車の中で一緒になった じゃん」って。だから,そんな話を,たまたま校長がそこで話をするから,僕もねえ,「あの 子達が,電車の窓へハーって息を吹きかけたり,フーなんてやってるのを見ましたよ」って ね 。「ほうかね」なんていってね 。「何であんなことをしてるんですか?」って,校長さんに 聞いてね 。「ハーって温かい息と,フーって冷たい息を出す」って。そしたら「A君は,耳の. - 34 -.
(14) 聞こえない子と面識があったんだね」って,「歯を黒く塗ってるお歯黒のお婆ちゃんの」そし たら ,「あれは,○○○っていうんだよ」って,その時はじめて知った 。「あーそうなの」な んて話をして別れた。そして,3月はじめになったら,また,出てこいっていうんだよ。で, 行ったら「教員にならないか」っていうから ,「僕は高校の時,アホの方だったから 。」って いったら「 まあまあまあ。あんたの話を聞いていたらおもしろいからどう?」って。「いい。」 って断ったら,最後に切り出した言葉は何だと思う?僕に金がないことは知ってるんだから, あのねえ,僕の初任給は3,991円だったよ。県だと,県職だと3,200円ぐらいだったような気 がしたな。「A君,変なことをいうようだけど,教員になるとねえ,えらい差があるんだよ。」 って。えへへへほしたら馬鹿じゃんね。 「それじゃあ,考えます」って。あはははは。ほいて, なんべんかそういう誘いを受けてさあ,じゃあいいかって,それでも,クラス担任のとこに 行ってさあ,先生,こういうわけでって,そしたら「おまんが」って,「おまんが教員!大丈 夫かい?」っていうの。「だいたい,つんぼのおうしんぼの学校で何を教えるのか知ってるか い。」って。だから,校長さんがこんなようなことをやるんですって言っただけで,それはま た,入ってから勉強すればいいことだからって詳しいことを言わないで「うーん」なんて言 っているうちに,僕がうんっていっちゃたか知らないけど,僕は今度は逆に県教委へは助教 諭採用で申請したわけよ。もう庶務の人が,俺の後の人が来ちゃってさ,~略~あん時はお もしろかった。僕はそんなことで,教員になった」. 当時の山梨盲唖学校では,教師希望者が少なく教員が不足している状況であった。Aの 採用にあたっては,ろう児との関係を僅かではあるが持っていたAの言動が堀江の目に止 まっている。. (2)教員の資質の向上へ 助教諭として採用されたAの語りから教員の資質向上のための取り組みを見られる。 「僕はだけど,ろう学校のこと,ろう学校の「ろ」の字もわからなかったわけですよ。じゃあ ね。生徒に慣れるためにといって,昭和25年度は,4月から3月までは,林原先生ってね, 口話法で偉い先生がいたわけよ。そこへ,その先生につけって,えーと4年生を副担任みた いな形で~略~」. 新採用教員として赴任したAは,当時,山梨で最高の口話法指導者の林原先生のもとで 1年間,実践経験を積むこととなる。また,その後のワークショップへ参加させるなど, 堀江がどのようなろう学校教師にAを育てようとしたのか,教師像は明らかである。 次は,堀江の教員養成例をあらわすAの語りである。 「~略~俺が昭和25年に入った時には,内田先生が内留で附属聾学校の聾教育特設教員養成所 へ通っていた。(内田は,山梨師範学校を卒業と同時に山梨県立ろう学校へ赴任した。堀江が 進めた山梨大学とろう学校の連携の中でろう学校教員となった。)ほいて,25年に僕が入った 年に,僕は何にもわからないからね,藤巻先生ね,あの方が1年間内地留学に,内田先生の 後で附属ろう学校へ,ろう教育特設教員養成所へ。そこを出ると1年間でいっぺんに聾教育 2級がもらえる。だから無資格は俺1人だから,えへへ・・。」. 堀江は,ろう教育を発展させるための要因の一つに教師の資質の向上をあげている。当 - 35 -.
(15) 時は東京教育大学聾教育特設教員養成所がろう学校教員を養成する専門機関であった。堀 江は採用間もない教員を毎年,この養成所へ派遣している。それらは,当時の学校要覧の 昭和27年と昭和29年の在籍教職員の最終学歴一覧からも確認することができる。. 表1 職 名 校 長 教 頭 教 諭 助教諭 教 諭 教 諭 教 諭 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 養護教諭 講 師 出納員 事務雇員 寮 母 同 同 同 同. 昭和27年の在籍教職員の最終学歴一覧. 担任教科 高等部2年3年 小学部1年 同 1年 同 2年 同 2年 同 3年 同 3年 同 4年 同 4年 同 5年 同 5年 同 6年 中学部1年 同2年 同3年 図画工作 休. 職. 木 工 庶務会計 庶務会計. 本校就任年月日 最終出身学校名 昭和22.4.10 京都帝大 昭和3.2.1 女子技芸学校 昭和21.11.6 山梨師範 昭和24.3.31 巨摩高校 昭和23.10.30 聾学校臨教 昭和25.3.31 甲一高校 昭和22.2.28 日新高女 昭和27.4.1 山梨大学 昭和23.3.31 山梨師範 昭和23.10.1 聾学校臨教 昭和25.3.31 日女大 昭和27.4.1 山梨大学 昭和25.3.31 聾教育大学 昭和24.8.31 日本大学 昭和25.3.31 山梨青師 昭和27.4.1 山梨師範 昭和23.3.31 聾教育大学 昭和26.5.1 東美大学 昭和23.7.15 甲府高女 昭和20.11.10 聾学校臨教 昭和26.4.16 保健婦講習 昭和26.4.16 甲府工業 昭和26.4.16 東鉄教 昭和26.7.1 甲一 高 昭和26.4.1 東女高師 昭和22.5.10 楠甫高小 昭和25.3.31 山梨高女 昭和25.3.31 平等高小 昭和26.9.1 山梨高女 昭和27年学校要覧より抜粋転載 作成 雨宮清貴. - 36 -.
(16) 表2 職 名 校 長 教 頭 教 諭 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 助教諭 講 師 非常勤講師 教 諭. 非常勤講師 養護教諭 寮 母. 事務職員. 昭和29年の在籍教職員の最終学歴一覧. 担任教科 工業・数学 数学・社会 小学部国語・社会 〃 家庭・教学 〃 国語・音楽 〃 国語 〃 国語・工作 〃 社会 〃 〃 体育 〃 〃 〃 国語・保健 〃 社会 〃 〃 〃 図工 〃 国語 英語 国語・漢文 国語・社会 (体育) 図工 理科・社会 職業(木工) 家庭 家庭・社会 国語・保健 社会 数学. 庶務会計. 本校就任年月日 最終出身学校名 昭和27.8.1 東京聾唖学校甲種師範部検定 昭和28.9.1 東京聾唖学校甲種師範部 昭和29.4.1 小林正検定 昭和27.6.16 山梨師範 昭和29.4.1 中津高女専検定 昭和23.3.31 教育大聾教育科 昭和27.4.1 山梨師範 昭和29.4.1 青山学院大学 昭和23.10.1 教育大聾教育科 昭和29.4.1 日本体育専門 昭和22.2.28 教育大聾臨教 昭和23.10.30 教育大聾臨教 昭和27.4.1 山梨大学 昭和28.4.1 山梨大学 昭和28.4.1 東学大聾教育科 昭和25.3.31 甲府一高 昭和28.4.16 教育大(特設) 昭和29.4.1 山梨大学 昭和25.3.31 日本女子大 昭和29.4.1 東高師中教養 昭和25.3.31 教育大聾教育科 昭和21.11.6 山梨師範中退 昭和26.5.1 芸術大学 昭和28.5.16 山梨大学 昭和29.4.10 甲府工業 昭和28.1.16 戸板裁縫高師科 昭和25.3.31 青年師範 昭和27.4.1 山梨大学 昭和20.11.10 聾教育臨教 昭和24.8.31 日大専 昭和28.5.16 東京物理 昭和29.4.1 山衛看婦養成所 昭和26.4.1 東京女高師 昭和22.5.10 高小 昭和25.3.31 高小 昭和26.9.1 山梨高女 昭和29.2.1 山梨学院短大 昭和29.4.1 山梨学院短大 昭和29.4.1 山梨高校 昭和28.9.1 甲府商業 昭和26.7.1 甲府一高 昭和29年学校要覧より転載 作成 雨宮清貴. 表2のうち,教育職の21名中,11名が師範学校および大学卒業者であり,そのうち5名を 堀江赴任後,地元山梨師範および山梨大学から採用している。さらに,聾教育大学(教育 大聾教育科)からも2名の教員を採用している。また,3名の聾教育特設教員養成所修了者 のうち2名を堀江赴任後に養成所へ派遣(派遣中のものは除く)していることがわかる。 表2では,堀江赴任からの在職期中の採用教職員に限ってみると15名中,11名が師範学. - 37 -.
(17) 校および大学卒業者で,3名が養成所修了となっている。 ここに堀江の教員の資質向上の取り組みの成果が確認できる。また,堀江以降も山梨大 学から採用されていることから連携は続けられていたとみられる。. 6. 大学など諸機関との連携 地元山梨大学等など諸機関との連携を確立した堀江の実績を,聞き取りからみていくこ. とにする。 「~略~堀江校長は,集団補聴器を梨大(山梨大学)のなんていったけなあ,あの先生・・。 作ってもらってたけどね。~略~」. 堀江は発音訓練,聴能訓練の必要性を当時認めていた。アメリカ製の集団補聴器は日本 聾話学校には設置されていたが高価であった。それを地元山梨大学に依頼し製作をしてい る。口話法も聴覚を活用することで発展するという理論に基づき,ろう児のために最善を 尽くしていた。. 「そうだ,僕が入った当時,内田先生とかいたけど。当時みんな素人みたいなものばっかりだ ったね。はっきり言って。あのー堀江校長が来てすぐ聾教育は,「聾学校は,それだけの学校 でやってはいけない。大学とか病院とかと連携をとって医学的にも学術的にもいわゆる後ろ 盾,そういうことのためにも大学と連携をとってやらないとだめだ」と言ってた。(山梨へ) 来てすぐ大学(山梨大学)へ行って,その時は石川七五三二さんっていって特殊教育関係を やっていた。その次が亡くなった松岡先生,そいから高野先生かなそういう順番だよ」. 堀江が嘆いていた当時の山梨聾唖学校教師集団の質が「当時みんな素人みたい」と初任 者Aの目にも映っている。内田をはじめ一部は,養成所を修了しているが他の多くの教員 は聾教育の知識も技能も乏しく日々の実践に追われている状態であった。 大学との連携の必要性を主張した堀江は,山梨師範学校の時代から同大学を訪れ,連携 を養成している。大学側の窓口は石川七五三二17)であった。. 「・・・PTAの如きは全縣の山間僻地にまで散在して極めて微力であるし,經驗に富む有能 な教師にも乏しい。これは設備の不完全以上の大きなハンデキヤツプである。私は数年來, 師範学校に呼びかけてゐる。」. 18). 堀江は当時の山梨県立聾学校の教師の質について述べている。堀江の考えるろう教育を 具現化するためには,教師の質の向上をあげている。聞き取りからも明らかになった優秀 な教員確保のため,師範学校へ教員募集の呼びかけを行っている点に注目したい。. 「~略~そんなことでなにしろ大学と特殊学校が連携してやらんとダメだって。石川七五三二 先生に卒業生で師範のね。卒業生でいい人がいたら推薦してくれって頼んだんだって。ほい. - 38 -.
(18) てねえ。昭和20・・3年でいえば内田先生。そん時にね。内田先生と志村マツエさんっていう 女の先生と2人よこしたわけですよ。~略~内田先生は2年か3年勤めて内留へね,行って。 その前に飯室先生も師範大学出でね。志村先生も。飯室先生も入った翌年に内留へ」. 大学との連携により新人教員採用の経過が。採用後は,内地留学の制度を利用し,聾教 育の研修を積ませている。. 7. 堀江貞尚の人間観・教育観. (1)堀江の人柄からの波及効果 次は,Aが研修会で,出会った我が国の聾教育界を代表する教師とのやり取りが語られ ている。 「~略~研修会等で,なにしろ堀江校長っていうと,みんな知ってるよね。その当時,校長先 生やった方は。だから,山梨ですっていうと ,「あ,堀江先生はお元気ですか 。」ってみんな そうだよ。若い時ね。何にも知らなんでいっても,研究会へ行っても大事にしてもらってね。 (研修会を)アメリカのCIE. 19). 何ていったかな? 教育なんとかっていう・・。そこで,. 進駐軍の命令でやってたわけね。なにしろ,特殊教育っていうより聾教育のね,先生が足り ないっていうんで,もっと専門的なことをね。それでなんだ,日聾(日本聾話学校)の大嶋 先生(大嶋功校長)とかね,そういう偉い先生と知り合ったのもね。まあ,堀江校長の名前 をいえば,必ず ,「どうですか,元気でやってますか 。」ってね。あのー,大塚の古谷史映さ んっていう,その威張ってる先生でさえ「 あのー堀江先生は元気ですか」なんてね。~略~」. 「現職教員のためのワークショップ」において,山梨という名前を出すと「堀江先生は 元気ですか」というようにAは,当時の我が国ろう教育の第一線級指導者から声をかけら れ目にかけられていることもわかる。CIEによる我が国の教育への後押しについては, 堀江も昭和26年6月の『特殊教育』でふれている。その内容を次に示す。 「講和會議がすんでCIEの後押しがなくなると我國の特殊教育は逆戻りするだろうなどと考 えることは馬鹿げている。文部省が逆戻りしても我々は進もう。日本人にも知性や道徳性は あるであろう。」. このように戦後の特殊教育は,普通教育同様CIEの指導で,1947年(昭和22年)に盲・ 聾学校教員を対象に「長期合宿研修」を実施し,これらは,その後,「教育指導者講習」 と名称を変え1950年(昭和25年)には,「現職教員のためのワークショップ」と変遷して いく。そのCIEの援助が打ち切られることによる我が国の特殊教育の後退を危惧してい た教育関係者の存在が堀江の記述から推測できる。. (2)教育現場における堀江 教育現場における堀江について語られている場面を次に示す。まず,学校長としての堀 江がAにみせた指導についてとりあげる。 - 39 -.
(19) 「( Q:堀江先生は指導っていうようなことはしてくれるんですか?)だから,あのー,あん まりしてくれなかったね。だけど,してくれなかったけれども,見てりゃーね。A君,あの ーちょっとなんていってね。あれはこういうふうにした方がいいよとかね。だから時にはさ, うんとこういい人だから,自分で決してこうだとか,俺は校長だってことを見せんから,校 長先生いろいろいうじゃあちょっとやってみてっていうと「うまいね!」ははっは!授業を やってくれる~略~なにしろ,うんと生徒をかわいがったことね。殴るとか叩くとかってこ とは絶対にしなかったね。そしてなにしろ「ろう教育は,子どもを好きになること。そのた めに子どもを大事にすること,子どもに心を厚く通わせないとだめですよ」って。~略~」. ここは堀江の「ろう教育だから特別なことをするわけではない。普通に教えればよい」 という基本姿勢が表れている。さらに,自分の考えを決して押しつけるような指導をしな い堀江らしさもここに表れている 。「ろう教育は,子どもを好きになること。そのために 子どもを大事にすること,子どもに心を厚く通わせないとだめですよ」とAに語ったこと ばは堀江のろう教育,ろう児に対する基本姿勢である。 次の会話は,それを実証しつつも堀江と生徒の関係をよく表わしている。. 「学校じゃあ全然威張るわけじゃなし,僕たちゃーそんな偉い先生とは思いもよらなかったか らね。全然偉ぶるわけじゃなし,先生を大事にしてくれるしね。それから生徒も大事にね。 ほいで,ご飯は,寄宿舎で生徒と一緒に食べて,ほいで,生徒だってそんなに偉い先生だな んて誰も思わんから,男湯で話をしたり,ほんとにね子どもなんかみんなまつわりついて, お風呂なんかも,今日はどうだ,俺が洗ってやるよなんていって。~中略~(Q:当時寮母 さんは,3人ぐらいしかいなかったんですか?)それで,80人くらい子どもがいただよ。うへ へへへ。だからほら,風呂へだってね,校長さんも入れるわけだ。それで,俺と八代さんが 舎にいたからさあ,じゃあってね一緒に風呂へ入ったり。そういうのが当たり前のような状 態だったよ 。(Q:校長さんも一緒にやってるってことですもんね?)うん。それでね。校長 先生,だれそれさんが待ってますよってね。子どもだって校長さんを好きな子どもだってい るだから。「ああそうかい。今すぐ食べるからいっといて」てね。だから,職員会議なんかが 終わって,遅くなったりすると,(生徒の)中にはどうしても風呂に入らんと待ってる生徒も いてね。(Q:校長先生と一緒に入りたいって?)そうそう。そんなことがあったしね」. 堀江は,常に教師,児童・生徒に近い存在であったことが読みとれる。これは堀江が生 徒を理解していたことの表れであり,堀江は手話と口話を生徒に合わせて使い分けが可能 なため,教師と生徒という関係の中で,視覚言語であれ,音声言語であれ,共通の言語で コミュニケートできる堀江は生徒を理解し,生徒も堀江を理解した。堀江と生徒は相互理 解関係が成立していたからこそ上の会話の中で語られているような場面がみられたのであ ろう。. (3)生徒の視点でみた堀江 次は生徒の視点でみた堀江について語られている。. - 40 -.
(20) 「~略~(Q:加賀美先生の評判はどうでした?)加賀美先生はいい先生でした。でも,堀江 先生はもっといい先生でした。先輩もみんなそういってた。~略~」. ここの会話は,3代校長の加賀美勝之助について語られていた場面の一部である。その ような会話場面においても堀江は ,「もっといい先生 」「先輩達もみんなそういってた」 と評価されている。ここでは, 「加賀美先生の評判=いい先生」というB自身の返答から, 「もっといい先生がいた=堀江先生 」,さらにBの先輩達を回想まで導きだしている。 次の会話は,堀江の考える子どもを大切にすること,子どもに心を厚く通わせることを 具体例として示している。 「~略~(Q:堀江先生について何か思い出がありますか?)小学校3年から5年の時。山梨大 学の学生達と遊んでいました。甲府駅で会った人でした。2人と私でよく遊んでいました。1 人は甲府一高の生徒でした。遅くまで遊んでいた時,甲府駅で堀江先生に会いました。怒ら れるかなと思ったけど,「バイ」といって帰って行きました。次の日, 「昨日はどうしたの?」 と聞かれました。それだけ。怒られなかった。大学生に「いつも遊んでいます。友達です」 って校長先生に電話をしてもらった。すると堀江先生は逆に「聞こえないということを,聞 こえない子どものことをもっと勉強してください。」と話を大学生にしたと聞きました。甲府 一高の生徒には卒業してから花火大会で偶然会いました。大学生には会えなかった。大学に 探しに行ったけど会えなかった。中学校の校長先生になっていました。30年ぶりに会いまし た。中富の校長先生の時,Kさん(ろう者)の息子さんが中学に入ったら,聞こえない人の 子どもといって面倒をみてくれました。(Q:その校長先生の名前はわかりますか?)忘れて しまって,思い出せない」. Bの小学部3年生から5年生は,年齢では13歳から15歳の時となる。Bは,堀江との遭遇 を小学生が屋外で活動できる時間帯ではないと捉えている。しかし,堀江の行動はBの予 想とは異なった。ここにも,堀江の人間性,教育観が表れている。ろう者が聴者と交流す ることの重要性を主張する立場と,聴者がろう者を正しく認識するための機会とこれを捉 えた堀江の教育者としての眼力とそれを瞬時に両者に還元しているとみることができる。. (4)管理職という視点での堀江 次の会話はAが採用2年目に教育にいき詰まった時を語った場面である。管理職として 「人」を育てる堀江の姿が表れている。 「~略~辞めるなんていおうものなら,俺なんか「それじゃあ,家へ行ってちょっと頭を休め ていらっしゃい。」それで,西島(現:南巨摩郡身延町西島)に帰っちゃった。勤めた次の年 の26年,1年生の担任。なかなか子どもなんかさあ,こっちが未熟だからできっこねえ。今考 えるとね 。(Q:多人数で10数人もいたんですよね?)そうそう。しかしさ,ね,1年生なの に14歳ってどういうこと?ねえー,えへへへ。だからね。人のまねをしてやったりさ。教え てもらってやってもいっさら思うようにならんじゃん。ね,だけど当時,ちょっと耳の聞こ える子どもは伸びたことは事実だったよ。落ち込むな。なんて言われたってねえ。やっぱり 他と比べるよ。(Q:結局,その頃は補聴器がなかったってことは今で言ったら?)かなつん ぼってことさ。ほいて教える方がね 。「何で耳が聞こえないとコトバを喋れないのか」なんて. - 41 -.
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○堀江座長